僕の先生

「もう一回」
「ちょ、ちょっと休ませてください」
「これしきで音を上げてどうするね、立ちたまえ」
 碧照ノ樹海をこれでもかと走らされた僕は、座り込んで肩で息をしながら休憩を所望したけれども、非情にも僕の主治医は首を横に振った。これしきで、なんて先生は言うけど、既に熊との追いかけっこを三回もやった僕はもうくたくたで、いくらタルシスに来た当時に比べて痩せたとは言ってもこれ以上はきつい。恨みがましく見上げた先生は、涼しい顔で鎚を肩に担ぎながら空いた手を白衣のポケットに突っ込んでいた。
 ペリドットが僕より先に卒業してセラフィさんに嫁いだ後、先生はずっと断っていた辺境伯さんからの深霧ノ幽谷への探索の依頼を受けたらしく、でもそれは君の体を絞りきってからの話だな、と言っていて、それはつまり僕が卒業してからだ。行った事が無い丹紅ノ石林は僕も行ってみたいのでお供を申し出ようと思っているけど、僕の卒業はまだ先の事なので言える日は遠い。
「クロサイト先生の鬼……」
「何か言ったかね」
「何も言ってません!」
 ふらついて立ち上がりながらも本当に小声で呟いた僕の恨み言がどうやら聞こえていた様で、先生は無表情のまま鎚で自分の肩を軽く叩きつつ聞き返してきて、僕は真っ青な顔を横に振った。元々怖いけど無表情の威圧感がこの上なく怖い先生は、怒らせない方が無難だ。先生の弟のセラフィさんは目付きが凶悪で怖いだけで、多分先生よりは優しい。僕は勿論、先生よりも速いセラフィさんは、僕とペリドットが知らなかっただけで、僕達が樹海で先生に指導を受けていた時は必ず後を追って樹海に入り、遠くから加勢をしてくれていたそうだ。今も多分、どこかに居るんだろうけど、僕にはその気配がさっぱり嗅ぎ取れない。
 一応もう一回だけにしてくれるらしい先生は、それでもやっぱり疲れている僕を慮って落としていた鎚を拾ってくれて、僕はそれを受け取った。追いかけっことはいえ狒狒や熊と戦う事もあるので鎚は必要だし、危ない時は先生も医者としての責務として患者を守ろうと戦ってくれる。
 三回も走り回ったせいか僕の足は今日樹海に来た直後に比べると重たくて、だけど膝を傷めない様に慎重に歩いていると少しずつ重さに慣れていった。一旦収まった帯電も草むらから飛び出してきた魔物の群れと対峙すると髪が逆立つ程になり、普段はすました態度の先生もこういう時は感心した様な表情をするし嘆息を漏らすので何となく僕は口元を緩めてしまった。
 そろそろ良いかな、と判断したらしい先生は、僕が弾いて足元に転がってきたボールアニマルを鎚で勢い良く藪の向こうへ弾き飛ばす。それなりに痩せたとは言っても長い年月をかけて培われた僕の贅肉はそう簡単に落ちる訳はなく、足は速くないし木登りも出来ないし木から木へ飛び移る事も勿論出来ないから藪から唸りながら姿を現した熊から逃走は出来ない。その事について何とも言えない気持ちになるけれども、対峙した事で体の奥の高揚が膨らんできてそんな事はどうでも良くなった僕は横にいる先生を見ずに言った。
「上手く立ち回れたら、褒美をください」
「おや、君もそういうねだり方が出来る様になれたのかね」
「どなたかの教育の賜物ですね?」
「誰だろうな、そのどなたかとやらは」
 ガントレットを通して体中の静電気を鎚へと送り込む僕を見て顎鬚を撫でつつ苦笑した先生は、鎚を肩に担ぎながら無茶はせぬ様にと言った。手助け無しだとまだ少しきついんだけど、自分がどれだけ強くなれたのかを知る良い機会なので素直に頷いて、鎚で盾を打ち鳴らした。
 まだペリドットと二人で相手をしていた時は僕が囮になって注意を引きつけ、隙を突いてペリドットが剣や弓で攻撃を仕掛け、彼女に気を取られた熊の脳天に僕が鎚を振り落とすのが大体のパターンだった。だけど今は僕一人で相手をするので、いかに熊の突進や爪を避けられるかが重要になる。
 さっきまで別の個体の熊を相手していた僕は、だけど今対峙している個体は全くの別物であるから体の筋肉を強張らせる。準備運動の必要も無くて、盾を打ち鳴らして大声を上げると鼻息荒く熊が襲ってきた。
「お、おおっ!」
 疲労のせいで自分の動きが鈍くて、焦れったい。だけど焦るときっとへまをして大怪我を負ってしまうだろうから、我慢して熊の動きを見定めながら爪を盾で受け止めたり鎚を振り下ろした。今日の一回目の時みたいに早く盾ごとぶつかって倒したい。僕は無意識の内に犬が威嚇する様な唸り声を漏らしていた。
「わあっ! お、落とし……っあ、」
 そして熊の胴目掛けて鎚を振ると弾かれてしまい、思わず鎚を落としてしまった僕が怯んだ隙に熊が爪を振り下ろそうとしていて、死ぬかも知れないという考えが脳裏を掠めた僕の口から無様な声が出る。だけど振り下ろされた熊の腕を思い切り弾いたのは先生で、時折手助けしてもらっていたけど驚いて帯電してしまった。呆けてもいられないので慌てて鎚を拾い上げると鎚の柄に放電してしまい、自分の静電気なのに痛かった。
「途中までは良かったから、褒美に手伝ってやろうな」
「うぅっ、はい、お願いします……あの、クロサイト先生」
「何だね」
「あの……ぼ、僕、あの……熊肉好きなの、ご存知ですか」
「奇遇だな、私もそこそこ好きだ」
「へへへ」
 再度鎚を構え、熊の爪を避けた先生の隣に並んで尋ねると、先生は僕の素直ではない要求にちょっとだけ笑って頷いてくれた。こういう時、先生は優しい。さっき倒した熊はその場に放置してしまったけど、この熊は倒したら持って帰って肉屋に持ち込んで解体して貰おう。
 盾を慣らした僕の方に気を取られた熊の側面から先生が鎚で打ち付け、よろめいた所で僕が追撃するというパターンに、僕はちょっと嬉しくなる。たまにだけでもこの人が僕の戦い方に合わせてくれるのが好きだ。あの巨体に盾でぶつかりたくてぐっと持ち手を握りしめると、心得たかの様に先生が得意としている脳天への一撃を熊へ繰り出し、僕は体を縮こまらせると一気に熊に盾ごと突進した。
「うおおおぉぉぉっ!」
 僕の腹からの声の後に響いた衝撃音と熊の悲鳴、その後に巨木が倒れた様な音が木立に鳴り響き、鳥たちが一斉に飛び立っていく。倒れた熊は痙攣していて、脳震盪を起こしただけかもしれないから念の為に腰に巻いている鞄の中から小型のナイフを素早く取り出して眉間に突き刺すと、一際大きく体を跳ねさせた熊は動かなくなった。
「……今夜は熊肉ですね」
「食い過ぎない良い子にしていたら、明日は半日で終わらせてやろう。我慢出来るね?」
「あう……はい……」
 目の前の獣は既に僕の中では食材になっていて、それでも腹いっぱいは食べさせてもらえそうにない事を残念に思いつつも僕は素直に頷く。先生は額に滲んだ汗を白衣の袖で拭い、取り出したハンカチでシャツを寛げた首元を拭いていた。
 そして僕の空腹を察知したのか、先生が背嚢に入れていたアリアドネの糸を探して取り出し、早いとこタルシスに戻りたかった僕は現金な事に疲れが一気に吹っ飛んだ。熊肉は確かに臭いけど、適切な処理を施せば食べ応え抜群な肉料理になる。先生が仕留めた獣を持ち帰るのを許可したのは初めてじゃないだろうか。まあ、多分セラフィさんにも食べさせようとしてるだけだとは思うんだけど。
「運ぶのは勘弁してもらえるかね?」
「ああ、はい、僕が運びます、有難うございます」
 少しだけ疲れたのだろう、再度鎚を肩で担いだ先生の僅かに荒い息遣いの問いに、僕も上擦った声で答える。そうすると先生はどこかほっとした様に僕の目を見て苦笑した。こんな時、この人は今は「僕だけの先生」なんだなと思うと気恥ずかしくなって、僕は何となく先生と顔を合わせない様にした。