煙に隠すは

 眼前に広がる荒涼とした大地に、彼は呆然としながらも自身がじっとりと汗をかいているのを感じ取っていた。浅い階層で見慣れた深い緑も、つい先日から探索を始めた石造り――彼はそれがかつてコンクリートと呼ばれていたものだと知っているのだが――の巨大建築物も無い、一見荒れ果て枯れている様に見える大地は枯レ森そのものだ。だだっ広いこの大地の南に、英気を養う湧き水がある事も彼は知っている。
 つい先程まで彼は、遺都に居た。鬱蒼とした森や広大な湖を抜けて辿り着いた深部に存在したのは、遠く離れた彼の故郷ではよく見られるコンクリートの建造物であったのだ。異界から突然元の世界に戻された様な錯覚に彼を含めたギルドの面子は一人を除いて動揺してしまい、コンクリートには不似合いな骨のみの竜に襲われまだ太刀打ち出来ないと判断した彼が撤退を指示したのだが、動揺のあまり仲間と散り散りになってしまった。
 彼は、階段を上ったり下ったりもしていない。なのに、気が付けば枯レ森に居た。彼のギルド含めた、多くの冒険者達がモリビトを殺したあの枯レ森に、だ。モリビトを殲滅せよというミッションが下されていたとは言え、先住民であるモリビトを手にかける事に彼は消極的であったが、魔物を倒す事に躊躇いを見せなかった息子がモリビトを前に初めて剣の切っ先を鈍らせた為に彼が率先して振り下ろした。その感触は消えるものではないし、また忘れる事も出来ない。
 鎧の下、着用しているインナーの更に下、素肌に伝わり落ちていく汗は彼の呼吸を浅くしていく。どこからともなく姿を現した、血を流しながら武器を携え足音も立てずに近寄ってくるモリビト達は、そんな彼を取り囲む様に集まってくる。そうだ、侵略者はこちらであってこの者達に罪など無かった。怒りや怨みを向けられても当然であるし、集団で殺されても仕方ない事をした。しかし家族が待つ身である以上は帰らねばならないのだ。例えこの者達が誰かの大切な者であったとしても。
 今から殺す相手の事を考えるな、という教訓は、軍人である彼は知っている。数十年前は戦場に身を置いていたから経験上分かっているのだ。だから剣を抜かねばならないし、斬り掛からねばならない。額から伝う汗、浅い呼吸、脈打ちながら全身を駆け巡る血液を感じながら彼はモリビト達に斬り掛かろうとした、まさにその時だった。
「?!」
 何かの臭いが鼻腔を擽ったかと思うと突如としてモリビト達の姿が消え、枯レ森の景色は一瞬にして遺都のそれへと戻った。そして彼の剣は、一人の男の頭上ギリギリで止まっていた。
「探しましたよ。無事っすか」
「……ヴィクトール君?」
「はあ、ヴィクトールっす」
 片手に持った鞭を構える事なく、振りかぶられた抜き身の剣を目の前にしても悠然とした態度で煙草を咥えていたのは、短い銀髪の男だった。鼻に感じた臭いはこの男の煙草の臭いであったらしい。彼が慌てて剣を下ろし鞘に納めると、男は彼に煙が掛からない様に僅かに横を向いて煙を吐き、ガリガリと頭を掻いた。
「イリヤーさん見付からねぇでボーズがすげぇ慌ててたんで、変態医者に任しときました」
「……ごめん、有難う」
「いえ、無事で何より」
 男は、彼が自分に斬り掛かろうとした事に一言も言及せず他の仲間の安否を伝えた。息子の恋人の事を変態医者と男が称した事に、彼は咎めたものかどうか未だに悩んでしまう。険悪な仲というよりむしろそこそこ仲が良いのでその掛け合いを楽しんでいる様に彼には見えたし、当人達の問題であって自分が首を突っ込む事でもないのだが。
「磁軸んとこに待機させてますんでこれ使って戻りましょう」
「……戻る前に煙草を一本、貰えないかな」
「……煙草吸う人だったんすか」
「リーリャが今はバードだしね。喉を潰す訳にはいかないから」
「ああ、まあ、そっすよね」
 男が取り出した変位磁石に、彼は少しだけ考えてから男が咥えている半分程吸った煙草をちらと見た。そんな彼の要求に、男は意外そうな顔をする。彼は一度も煙草を吸っている姿を見せた事は無かったからだ。ギルド内で煙草を吸うのはてっきり自分だけだと思っていた男は素肌に羽織ったジャケットの内ポケットから煙草を入れた箱を出し、一本彼に寄越した。
「あ、ちょっと待ってください、火ィ出しますんで」
「いや良いよ、マッチ勿体無いし。君のから貰って良い?」
「どうぞ」
「ん」
 そしてマッチ箱を取り出そうとした男を制し、彼は自分が持った煙草で男が咥えている煙草を指した。迷宮内では火元となるマッチも貴重なものだ、無駄に消費させたくはなかった。彼は男が煙草を咥えたまま顔を近付けてくれたので自分も煙草を咥えて近付け、お互いフィルターを吸いながら火を移してから離れた。
 ゆっくりと、吸った煙を肺へと送る。喉だけで吸うのではない、深く吸い込んでその味を楽しむ。勿論煙草など嗜好品であるから金の工面に困る冒険者などやっている身では上質なものは買えないが、かと言って粗悪なものを吸っている訳でもない男が分けてくれた煙草は、彼に数十年前の戦争を思い出させた。無益な戦闘と散らばる死体、老若男女の区別すらつかぬ肉塊、昨日まで馬鹿を言い合って笑っていた仲間が今日にはもう居ないなんてザラであったし、彼の故郷はひどく寒い地域に存在するので猛吹雪の中の行軍も珍しくはなかった。
 自分が殺した敵兵など数えていないのに、エトリアに来てから手に掛けてしまったモリビトを数えてしまったのは、何故なのか。その答えを、彼は見出だせない。
「ヴィクトール君は、あの戦争と今回のモリビトの件、どっちが地獄に思った?」
「戦争の方すかね。少なくとも、ここじゃ餓死寸前で仲間殺して食うとかやってねえんで」
「ああ……、そうか、君はそうだったね」
「美味ぇもんじゃねえすよ人肉なんて。皆げえげえ吐きながら食ってたし」
 先に吸い終わった男は煙草を足元に吐き捨て、靴のスパイクで火を消した。普通なら彼はそれを咎めるところだが、自分達が居た場所の目印にもなる為に敢えて何も言わなかった。探索をすればまたここに来る事になるだろう。人の記憶は曖昧で信用出来なくても、物は動かない限り位置情報を信頼して良いものだ。煙草の灰を落とした彼は、男の言葉に僅かに目を伏せた。
「天国も地獄も所詮は人間が作ったもんじゃないすか。
 イリヤーさんが何見て俺に剣振り下ろしたのかは知らんすけど、少なくとも誰も何もやってねえでしょうよ」
「………」
「一番怖ぇのは天災、その次が人間。じゃねえすか?」
「……そうだね。その通りだ」
 彼の憂いを受けて、男は慰めるかの様に肩を竦めて微かに笑った。父を殺し、軍に入り、壮絶な戦場をどうにか生き延び、退役した後に娶った女に先立たれ、忘れ形見の娘を守り育てるその男は、自分より年下であるが随分と立派な者の様に彼には思えた。彼は短くなった煙草を手に持ち、足元まで屈んで下ろすと、火を静かに踏み消した。若い頃に煙草は魔を払うと教えられ戦場ではよく吸っていたものだが、久しぶりに吸った煙草はそう美味いものではなく、煙が目にしみた。だがその煙草のお陰でモリビトの幻影を払えたのも事実であり、彼は再度男に礼を言うと今度こそ息子達が待っているという滋軸に向かう為に変位磁石の使用を男に促した。男や息子を誤って殺してしまわぬ様、二度とこの場所に一人で来たくはないと思っていた。