前略、お姉ちゃんへ

 しまった、と思った時には既に遅く、その場に居た全員が目を丸くしており、スフールは一気に血の気が引いていくのを感じた。と同時に一番最初に吹き出したのがよりによってパチカだったので、苦虫を噛み潰した様な表情になった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんかあ〜! そっかそっか、坊や、故郷のお姉さんの事お姉ちゃんて呼んでたのかそっか〜」
「う、う、うるせー!」
 煌天破ノ都の開かずの扉を開く為の探索は、今まで踏破した筈の迷宮の祭壇の奥に続く空間にまで及んでいる。まさかこんなとこにあるとはな、と、金剛獣ノ岩窟の深部に到達し、取り敢えず引き揚げた宿屋でパチカが描いた途轍もなく汚い地図を清書しているスフールの手元を見ながら言ったラシャに、スフールは本当にうっかり、お姉ちゃんも知らなかったんだな、と言ってしまった。そして、冒頭に至る。
 スフールは、確かに故郷に居た頃、年の離れた姉の事をお姉ちゃんと呼んでいた。兄の方は早々に兄貴と呼ぶ様になっていたが、家族の中で唯一とも呼べるスフールの理解者であった姉には甘えが出て、中々姉貴と呼ぶ事が出来なかった。それがバレたのだ。しにたい、と、耳まで赤くしたスフールは頭を抱えた。
「お姉ちゃん、か。新鮮だな、弟は私を姉上と呼ぶからな」
「へー。俺も妹にお兄ちゃんて呼ばれてたな」
「あっちゃんも妹居たんだ? おれも居るよ妹」
「はあ? それは初耳だぞ」
「腹違いなんだよね。だから他人行儀でさー、おれがチカって呼んでねって言ってんのにパチカさんて呼ぶの」
「パチカさん! 似合わねー!!」
「うるっさいなあ」
 しかしそんなスフールをよそに、アラベールとパチカが自分の妹について話し始めたので、本人達にその気は無くともスフールには話題を逸らしてもらえた様な気がして少しほっとしていた。
 この性格で姉をお姉ちゃんと呼んでいる事を知ると、大抵の者は馬鹿にして笑う。それが原因で殴り合いの喧嘩をした事もあった。だから、スフールは姉の呼び方を変えたという苦い経験がある。喧嘩相手の家族からひどい剣幕で責められた時、姉だけはそっちが先にうちの弟馬鹿にしたんでしょ、骨折るまで殴った弟も悪いけどそっちが馬鹿にした事に対しての謝罪が一切無いのは納得出来ないんだけど、と言ってくれたし、自分を少しも庇ってくれなかった両親に対して息子を馬鹿にされたら怒りなさいよ親でしょ、と叱り飛ばしてくれた。
 それに引き換え、兄は両親と同じで自分に対してぞんざいな扱いしかしてくれず、スフールは兄に対して反発しかした事が無い。男のきょうだいというのは往々にして仲が悪いものらしいが、それにしてもあんなに仲が悪いのも珍しかったのではないかと彼は思っていた。……アラベールとパチカ、そしてペルーラの、全く以て罪悪感を持たない性格を思うとそうでもないのかも知れないと思う様になったのは最近の事だが。
「ラシャがお姉ちゃんなら、スフールにとって俺らってお兄ちゃんか?」
「坊やからお兄ちゃんて呼ばれるのかあ。うーん……ちょっと気持ち悪いかな」
「相変わらず失礼だなお前! 呼ばねーよ!!」
「おっ、出たぞ出たぞ、スフールの照れ隠し怒鳴り! お兄ちゃんて呼んでくれて良いぞ!」
「呼ばねーっつってんだろ!!」
「いい加減にしろうるさいぞ!!」
「さーせん姉御!!」
 家族の事を思い出して少し感傷に浸っていたというのに、突如としてお兄ちゃんなどと言ったアラベールに対し、パチカが気持ち悪いなどと発言したものだからつい怒鳴ると、それまで沈黙していたペルーラから怒鳴られた。基本的に寡黙な彼女はあまり会話に参加せず、かと言って聞いていない訳ではないので男三人が喧しくなると怒鳴るし、最悪の場合はナイフが飛んでくる。だから即座に謝罪すると、彼女は大層不機嫌そうな顔で腕組みをしながら座ってくれた。ほっとしたのはスフールだけではなく、アラベールも同様だった。
「アラベール殿のからかいはともかくとして、だ。私はお前の様な大きな弟を持った覚えはないが、そう呼んでくれて構わんぞ」
「……いや、別に」
「えー、坊やだけずるいー。おれもお姉ちゃんって呼んで良い?」
「私より年上の弟はそれこそ持った覚えは無いが、まあ良いぞ」
「へへへー、やったー。おれの事はチカって呼んでねラシャお姉ちゃん!」
「じゃあ俺はあっちゃんって呼んでくれよなラシャお姉ちゃん!」
「人間とは変な生き物だな、お前達を見ているとまことそう思うぞ……」
「そいつらだけだし私とそいつらを一緒にするな」
 ラシャはパチカは勿論アラベールより年下であるので、二人にお姉ちゃんと呼ばれた彼女は面妖な顔をして口を曲げた。そんなラシャに対して一層不満気な顔をしたペルーラは、アラベールをまるで汚物を見る様な目で見た。寄り集まっただけの、全く繋がりなど無かった者達が、今だけだとしてもこうやって馬鹿を言って笑い合えているのは人生の中でもかなり貴重な時間なのではないか、スフールはそんな事をちらと考え、久しぶりに故郷の姉に手紙を書こうと思った。