天牛ノ月

 診療所は冒険者が塒にしている宿に隣接している故に、夜中であっても戸を叩く者が少なくない。主のクロサイトは夜中に冒険者が患者として訪れる事をこの診療所を継ぐ以前から経験しており、生前の師が手早く対処して帰していた姿を今でも記憶している。居住区と診察室は渡り廊下を隔てているので診療時間外に訪れた者は居住区に繋がる鐘を鳴らす紐を引いて来院を報せる必要があり、寝静まった深夜ではその音がよく響いて寝ていても聞こえ、鐘が鳴る度にクロサイトもすぐに起きて診察室へと向かっていたが、必ず彼よりも先に師は診察室に到着していた。部屋の位置が診察室に近い師の方が早く到着するのは当たり前だったが、それでも師の鐘への反応速度はクロサイトよりもずっと早くて、四六時中神経を尖らせている人だったと継いだ今でも思う。
 冒険者は昼夜問わず怪我をするもので、皇帝ノ月だと担ぎ込まれる人数は他の月よりずっと多い。それが日にちが経つにつれ件数は落ち着いていくけれども、今度は夜間探索に挑戦し始めた冒険者達の時間外来院が増え始める。冒険者という生き物は難儀なものだという苦い思いを抑えながら、クロサイトは深夜の急患の肩を担ぎながら頭を下げて宿へ戻る背中を見送った。
 天牛ノ月ともなると、いくらこの年の皇帝ノ月にギルド登録をして冒険者となったメディックでも処置が早くなり、診療所の世話にならなくても良い事が増える。しかし設備は樹海や宿より断然診療所の方が良い訳で、各ギルドの者達が判断して診療所へ行くか否かを決めるのだ。だから、真夜中の急患が全く居なくなる訳では決して無い。今日も睡眠が途中で切れたな、と、あくびを噛み殺してクロサイトは寝間着の上に白衣を羽織った姿でサンダルの音を鳴らしながら居住区へと戻った。静かな廊下に響く、裸足のままつっかけたサンダルと足の裏が付いたり離れたりするペタペタという音が、主が母屋に戻る事を告げている。
 手に持ったランタンの明かりに照らされたダイニングの壁掛け時計は、四時を回っていた。明け方に近い時間という事もあり、クロサイトはもう一眠りするかこのまま起きているか思案する。ショートスリーパーであった師は三時間も寝れば起きていても平気な人間であったが、残念ながらクロサイトは最低でも五時間は寝ないと日中にひどい眠気に襲われるので眠った方が良いのは分かっているけれども、棚の上の鍵置き場に弟の鍵が無い事が部屋への帰投を躊躇わせていた。
 碧照ノ樹海を始めとする風馳ノ大地や丹紅ノ石林を職場にしている特殊清掃者のセラフィは、在宅時は兄に分かる様にこのダイニングに自分の鍵を置いておく。そうする事をクロサイトが頼んだのだ。そしてその鍵が無いという事は、弟がまだ仕事から帰宅していない事を教えてくれている。セラフィは大体午後十時から十一時の間に家を出て、明け方五時から六時の間に帰ってくるのだが、天候やその日の仕事量――埋葬量と言っても良いかもしれない――によってはその限りではない。早めに帰ってきてくれれば良いのだが、と、先程まで処置していた冒険者の怪我を思い出したクロサイトは陰鬱な気分になる。
 養親が心中したのを切っ掛けに冒険者を辞した後、探索の中で見掛けた冒険者達の雨ざらしになっている遺骸が忍びないと言ったセラフィが特殊清掃者になった当時、クロサイトは毎夜気が気ではなくて眠れない日々を過ごした。そんなにお前は俺が信用出来ないかと不満げな顔をされた事もある。だが、大怪我を負って帰ってきた夜があるのも事実なのだ。魔物ばかりが危険な存在ではなく、例えば丹紅ノ石林でトリップマッシュの胞子によって錯乱した冒険者達に襲われ怪我を負った事だって一度や二度ではない。セラフィの怪我を処置する度に、クロサイトはもうこの仕事を辞めてくれと言いそうになる。だが、それは自分の希望であってセラフィの本意ではない。
 全く以て難儀なものだと、二度目の苦いものを飲み下したクロサイトは、部屋に戻るのではなくダイニングで弟の帰りを待とうとソファに向かった。しかし座ろうとした瞬間に急患の来院を報せる鐘が鳴り、咄嗟に体を翻してたった今テーブルに置いたばかりのランタンの取っ手を掴んで診察室へと伸びる廊下へ走り出した。稀にこうやって夜に立て続けに怪我人が運び込まれるのだが、天牛ノ月では珍しい。そんな事を考えながら診察室前に到着するとスイッチを捻って着火させた廊下のランタンの明かりが、ガラス戸の向こうに居る人物の影を克明に浮かび上がらせた。
「………?!」
 その影は、弟のものに酷似していた。酷似なんてものではない、弟本人だと一瞬で判断したクロサイトは、全身から血の気が引いた。居住区の方ではなくわざわざこちら側から帰ってきた、しかも鐘を鳴らしたという事は、それだけ大きな怪我を負ったという事ではないのか。
「うぉっ……」
 血相を変えながら戸を開けた向こうに居たのは、やはりセラフィだった。戸の勢いに驚いた顔をした彼は、しかしクロサイトが思った様な怪我など負っていない様に見えた。頼りないランタンの明かりでもはっきりと分かる、クロサイトの青褪めた顔を認めたセラフィは、この上なくばつの悪そうな表情ですまなさそうに言った。
「……すまん、鍵を泉に落としたんだ」
「……そう、そうか、」
「お前の部屋の窓を叩いてみたが居なかったから」
「さっきまで、急患の処置をしていて、」
「こっちに来たけど明かりが点いてなくて」
「だ、ダイニングに、居た」
「朝まで待とうかと思ったんだが」
「待たなくて良い、呼んでくれ、ああ、でも、き、肝が潰れた」
「すまん」
 全身から引いた血の気はセラフィの説明でどっと戻ったが、その反動で過呼吸気味になり、その場に座り込みそうになったクロサイトをセラフィが支える。心音の速さで如何に兄が自分を心配したのかが分かり、セラフィはここ数年で一番の申し訳なさを感じた。いくつになってもクロサイトにとってセラフィは弟であるし、虚弱体質だった子供の頃の記憶が未だに鮮明であるものだから、どうしても過保護になる。
「俺の無事に免じて大目にみてくれ。香を焚こう、驚かせてすまなかった」
「全くだ、肩を貸してくれ」
「ん……」
 屋内に入り、ガラス戸の鍵をかけたセラフィは、廊下に面した診察室の戸は開けずにクロサイトに肩を貸しながら歩き始めた。兄は腰を抜かしかけた為に普段の様な歩みが出来なかったが、セラフィは急かす事も呆れる事もなく体を支えながらダイニングへ向かう。昨日の夕方に届いていた、素兎ノ月に受け入れる予定の患者の身内からの手紙の事を聞こうかと思っていたのだが、無理そうだ。未だ緊張しているクロサイトの手はじっとりと汗をかき、体熱が普段より高くなっていて、損傷の激しい遺体を埋めた日に眠る為によく焚く香を用意しようとセラフィは思った。