湯治

 ギベオンがタルシスにあるクロサイトの診療所に患者として住まう様になって一番驚いたのは、浴室の広さだった。診療所自体は普段クロサイトとセラフィの二人で住むには十分過ぎる程の広さであるが、複数の患者と共同生活を送るにはそこまで広くはないというのに、浴室に割いているスペースはやたらと広かった。恐らくギベオンやペリドットにあてがわれている部屋とほぼ同じくらい、ややもすればそれより少し広いくらいだ。
 浴室の広さに相応しく、浴槽もまた大きなものだった。寒冷地で氷に閉ざされ、水の確保に一苦労な故郷と違い、美しい川がすぐ側に流れ、水路も張り巡らされていていつでも新鮮な水が手に入れられるタルシスの環境下では、その大きな浴槽を満たす水を汲む事は容易い。何でも、この診療所の前の持ち主であった医者が風呂好きであったらしく、すぐに風呂に水が汲める様にと浴室専用のポンプが引いてあるのだ。かなりの財産が無ければそんな真似は出来ない筈だが、財はあったそうだ。ただ地位が無かったので、辺境伯に申し出て病院の反対を押し切ってこの診療所を建てたらしい。結果として隣接する宿屋に滞在する冒険者達の駆け込み場となっており、設備が不十分だと判断したら病院に担ぎ込む様にしてあるし、病院側も軽微な患者を診ずに済んでいるので、今では病院の医者達とも関係はそこそこ良好とギベオンとペリドットは聞いた。
 話が逸れたので、元に戻る。浴槽は体積がとにかく大きいギベオンが入っても十分に余裕があるほど大きく、標準体型の成人男性でも複数人で入浴しても差し支えがなさそうだった。だからなのか、元からその考えで作られているのか定かではないが、宿屋で風呂に入れなかったり銭湯に行けなかったりする傷病者を入浴させたりもしており、介助者も入れる様だった。だから診療所の風呂を借りに来る冒険者もそこそこ居て、そんな時は怪我人が先と、ギベオン達が待たされる事もあったが、基本的にギベオンもペリドットも住人であるクロサイトやセラフィよりも先に入浴させてもらえていた。ペリドットに至っては診療所に来た初日に男の後に入浴するのは嫌かもしれないから先に入浴したまえと気遣いまでしてもらえた。ペリドットも乾燥地帯の出身であるから湯が張られた風呂は贅沢なものであり、後になってお風呂が一番嬉しかったと言った。
 また、水場が心の底から嫌いなセラフィも時折風呂に入る事があり、そんな時は必ず浴室から不思議な香りが漂ってきていた。勝手口の軒下に吊るしてある魔除けのハーブの束を入れて入浴しているとクロサイトから聞いた二人がその理由を知ったのは随分と後の事で、朝の身支度をしながら良い匂いだねなどと呑気に話していた。そのハーブの湯に浸かりに来る者も居て、曰く銭湯ではハーブ湯は楽しめないから、との事で、クロサイトの顔見知りの医者との事だった。
 さて、ペリドットに続きギベオンが患者を卒業し、紆余曲折を経て世界樹を目指す冒険者になり、銀嵐ノ霊峰の探索を進めていた時の事だ。霊峰には金剛獣ノ岩窟という迷宮が存在し、その内部には霊峰の厳しい寒さからは考えられない程の暑さで、何と各所に点在する池の様な湖の様な、とにかく深い水場があり、ホムラミズチと呼ばれている魔物の鱗で熱せられた岩窟内に於いては天然の温泉と化していた。思わずこれ入りたいですねとギベオンは言ったが、深さがどれくらいあるのかも分からない上に魔物の巣窟で全裸になる勇気があるなら入りたまえとクロサイトから言われて諦めざるを得なかった。だが、フロアの中央に位置する大きな鱗を破壊してその水場が凍ったのを見て、ペリドットがあの氷持って帰れないですかね、と言ったのを切っ掛けに、彼らは体力がある時は凍った水場の氷を切り出して持ち帰り、沸かした風呂に入れて楽しむ様になった。
 キバガミから聞いた話だが、イクサビトも里の周辺にある水場を風呂として利用しているが、魔物が跋扈している辺りの水場に浸かると傷の治りが早いのだという。それと知ってからはタルシスに戻る時はアリアドネの糸を使って氷を持ち帰る様になった。確かに、受けた怪我の治りが早くなった様な気がギベオンにはしていた。
「クロサイト先生、お風呂空きましたけどお先入られますか?」
「ん……、君は入るのかね」
「へ? クロサイト先生が入られないならお先頂きますけど」
「うーん……君、今日頭を強打しているからあまり入浴して欲しくないのだがなあ」
「えぇー……で、でもだいぶ汗かいたし蒸れたから入りたいです」
「入浴しなくても死なないぞ」
「そうですけどぉ」
 探索から戻ると入浴を義務付けているクロサイトは、一番最初にセラフィを入浴させたペリドットが上がった事を知らせに来たギベオンに少し眉を顰めた。岩窟の探索中、ペリドットを魔物から庇って岩肌に強かに体を打ち付けたギベオンは、確かに頭もぶつけている。今のところ痛みも無ければ言語や体に違和感も無いので、本人としては大丈夫だと思っているのだが、クロサイトとしては脳内までは見えないので大事をとってもらいたい様だ。しかし、復活してしまってまだ大きな鱗を破壊出来ていない岩窟内の、事情がありローズが加われていない探索は、鎧を着込んだり暗器を仕込んだ服を纏っているギベオンやセラフィに服が搾れる程汗をかかせており、ギベオンはどうしても風呂に浸かりたかった。
「どうしても入りたいなら私が付き添う」
「……は?」
「は? ではない。当たり前だろう、頭部を強打した人間に入浴を許可して倒れられたら私も困る」
「……あ、う、そ、そうですよね……じゃああの…………お、お願いします……」
「分かった」
 重傷者でもないのに入浴を介助されるのは、と思ったものの、厳しくなっていく状況の中で懸念されるのは見えない体内の怪我だ。クロサイトもその不安があるのか、夜中に何か異変があったらすぐに私に教えてくれと以前ペリドットに言っていた。同様に、ギベオンの具合が気になるのだろう。そこまで心配されてはギベオンも折れるしか無く、たっぷりの沈思の後に頷いた。



 診療所の風呂はでかい、と顔見知りの者達から口を揃えて言われ続けていたし、ギベオンもそう思っていたけれども、男二人で入ると改めて広いと認識する。しかし彼は、滅多に見られないクロサイトのポニーテール姿に面妖な顔をする間も無く、初めて見た素肌の背中に心底驚いた。体にフィットするインナーを着ている自分と違って体のラインが分かりにくい白衣やシャツを着用しているクロサイトは、背筋の逞しさなど全く気取らせないのだ。故に、自分のもの程ではなくともかなりの背筋量に驚いた。
「何だねじろじろと。男の裸体など珍しくも何ともなかろう」
「あ、いえあの、すみません、まさかそんなに背中に筋肉がついてるとは思ってなくて」
「君が扱っている鎚を以前使っていたのは私だぞ、あれを振り回す程度の背筋くらいついてなくてどうする」
「そ、そうですよね……」
 弟のセラフィが全く肉がついていないのとは裏腹に怪力の持ち主なので、クロサイトもてっきり同類なのかと思っていたのだが、どうやら違ってちゃんと筋肉がついているらしい。上腕筋もあればちゃんと腹筋も割れているし、ここまで締まった体をしているとは思っていなかったギベオンは急に自分の体が何となく恥ずかしくなって早く浴槽に浸かりたかった。
 しかしそんなギベオンの願いも虚しく、先に体を洗いたまえと言われてさっさとかけ湯をした後に浴槽に入ったのはクロサイトの方で、適温の湯に浸かりながら伸びをしたり軽くストレッチをし始め、そんな彼を横目にギベオンは言われた通り体を洗おうと石鹸に手を伸ばした。
「君も以前に比べると本当に締まった良い体になった。さすが城塞騎士の血筋だな」
「そ、そうですか?」
「ああ、九時の方の胸の下辺りの古い傷痕なんて初診の時は肉に隠れて気が付かなかった」
「あー……これ何だったかなあ、確か奥様がヒステリー起こして包丁持ち出した時のやつだったと思います」
「………」
 石鹸に練りこまれてある消臭抗菌効果があるティーツリーの鼻に抜ける様なすっとする香りが漂う中、クロサイトから不意に褒められ少々驚きつつも、言われた傷痕を見ながらギベオンはもう曖昧になってきている記憶を探った。タルシスに来てからというもの、彼の中では故郷で両親に受けた仕打ちの記憶は薄れつつあり、今言った記憶もそろそろ怪しい。ギベオンの両親は好き合って結婚した訳でも望んで彼を設けた訳でもなかった上に、父には好いた者が居て頻繁に家を空けた為、プライドの高い母はよくヒステリーを起こしてギベオンを折檻した。刃物を持ち出す事は多々あり、幼い彼はその度死に物狂いで逃げた。
「今見ると結構危ない位置ですよね。心臓が近いから血が止まらなくて、止血の仕方も分からなかったし、怖かったなあ」
「……自力で止めたのかね?」
「ベッドのシーツ使って止血したからシーツを汚したって今度は旦那様に鞭で打たれて、
 打たれた痕から熱が出て体がすごくつらかった気がするんですけど、その鞭で打たれたのってシーツ汚したからだったっけ……?
 もう覚えてないです、鞭で打たれるのも刃物で切られるのもしょっちゅうだったので」
 特に何の感慨もなく昔の話をしながら足先まで洗ったギベオンは、体を濯ぐ為に浴槽から洗面器に湯を汲む。かけられた湯で流れた石鹸の泡の下から現れた無数の傷痕の記憶は、もう彼の中に殆ど残されていない。だが風呂の湯の様に水に流す、などという事も、決して出来る訳がなかった。
「……私が知っているのは、君が私達を庇って作った怪我の痕だけだ」
「……はあ」
「その旦那様だか奥様だかがつけた痕など、私には見えんよ」
「………」
「君は私達の盾だ。今日の様に誰かを庇って脳震盪を起こす事もあれば消えない痕が残る怪我だってする。
 そんな君の体を医者の私が心配するのは当然の事だろう。違うかね」
「……ち……がわない、とは、思います、けど」
「なら、今日の夜は私の部屋で寝る様に。大事をとって経過を見る、良いな」
「うぅ……はい……」
 排水口に流れ落ちていく湯の音と、ギベオンが体を洗ったタオルの石鹸の泡を洗面器の中で落とす音が響く浴室の中で、クロサイトの少し低い声は篭って聞こえた。そこまで心配しなくても、とギベオンは思ったが、知っているギルドの者達が命を落とした記憶は新しい。この人かなり心配性なんだな、と意外な一面を知った気がしたギベオンは何とも言えない気持ちで頷いた。
「大きな鱗を破壊出来たら、また氷を持って帰ろう。やっぱり湯の質が違う」
「ああ、そうですね、ここの水も本当に良いものですけど、やっぱりああいうところでろ過された水って全然違いますもんね」
 向い合ってゆっくりと浸かってもまだ余裕がある浴槽を満たす湯はそろそろぬるくなりつつある。最近、岩窟内が暑くて氷を持ち帰れていないせいか、クロサイトが言った様に風呂の湯の質が違った。彼の体にも走るいくつかの傷痕はギベオンが庇いきれずに最近負ったものも少なくなく、その傷痕が少しでも薄いものになれば良い、岩窟の氷があれば本当に少し早く治るから明日もまた頑張ろうとギベオンは思った。ついさっき話した両親の話など、もう頭のどこにも存在などしていなかった。