I'm in...

 ……何だって俺は、こんな美徳の欠片もねえ様な奴をさあ。

 セフリムの宿に間借りしている一室に勝手に持ち込んだ鏡台の前に座り、聞いた事も無い旋律の鼻唄を歌いながら指先の手入れをしている男を、スフールは寝台の上で胡座をかき、頬肘をついてややげんなりした表情で見ている。いくら手入れしようが探索に出ればすぐに荒れるものであるし、また杖だの鎚だのを持てば肉刺だってすぐに出来る。それでも鏡台の前に陣取って自前の爪磨きで機嫌良く磨いているあの男は、ほぼ毎日指先の手入れをする。爪磨きは十日に一度と決めている様であるが、探索はずぼらな癖に自分の身の手入れとなると几帳面に覚えているのだからその記憶力をもっと他の事に活かせよとも思う。スフールは少し苦い顔をしながら、空いた手の上で白っぽい様な緑っぽい様な石を転がして大きな欠伸をする。
「坊やー、ちょっとミント草取って」
「坊やじゃねえっつってんだろ」
「坊やじゃん。良いからミント草取って」
「それが人にものを頼む態度かよ……」
 スフールを見もせずミント草を所望したその男は、名をパチカと言う。ホロウクイーンとの一戦でギルドの仲間を守りきれず、自身も瀕死の重傷を負ったスフールを助けてくれたギルドのメディックだ。何の因果かそのギルドに拾われ現在金剛獣ノ岩窟の探索に加わっているスフールは、その恩もあってあまり反抗する事が出来ない。それ故、坊や呼ばわりしたパチカが所望したミント草を窓際に置かれた小さなプランターから数枚摘み取り、ほらよ、と鏡台に置いてやった。礼を言ったパチカは二枚程口に入れ、咀嚼した。深霧ノ幽谷で採れるこのミント草は香りが爽やかで、生葉で食べると口の中がさっぱりするから好きなのだそうだ。繁殖力が強いのでプランターでも簡単に育つ為、パチカが持って帰って個人的に育てている。と言っても放っておくだけでどんどん繁殖していくのだが。
「そういや坊やが今日掘ったその石、何?」
「これ? 翠玉だよ。エメラルド」
「えー、エメラルドってもっと透明じゃん?」
「原石だからだよ、透明なのはちゃんと加工してあるやつ。硬度は高いんだけど割れやすいんだよなあ」
 手の上に置いた鉱石をちらと見たパチカが自分の知っている宝石とは違うと言いたげな表情をしたので、スフールはまあ石の事知らない奴はそんなもんだよなと思いながらも掲げてみせる。苦労してホムラミズチの背後にあった大きな鱗を破壊し、倒すのは後回しにして先に採掘所とも呼べる場所で今日採ったこの翠玉は傷も少なく、中々上手く掘れたとスフールは満足していた。
「ふーん。それ、売る?」
「へ? ……いや、持っとこうかとは思ってるけど」
「ちょーだい」
「はあ?」
「はあ? じゃなくて。ちょーだい」
 座っている椅子の四つある脚の内二つを浮かせてスフールに翠玉をねだったパチカの手は、手入れをしているだけあって綺麗なものだった。綺麗と言っても勿論肉刺はあるし、男のものであるから女のものの様なしなやかさや柔らかさは無いが、これで自分と同じ鎚を握っているのかと思う様な手だ。数秒その手に見惚れたスフールは、しかしはたと我に返ってむくれた顔をする。
「ちょーだいって、あのなあ、菓子じゃねえんだ。宝石だぞ」
「分かってるよ。欲しいからちょーだい」
「………」
 鉱石を掘るのはそれなりに技量が要るものであるし、今回の様に傷が少ない翠玉など滅多にお目にかかれないものだ。スフールが寝台の下に収納してある荷物入れの中には気に入っている鉱石をいくつか入れていると知っているパチカは、彼が売らずに持ち帰ってきたその翠玉も同じ様に収納されると分かっているだろうにねだってきた。これが不満を言わずにいられようか。
 しかしパチカは椅子から降りて床に膝立ちになると、スフールの寝台の上に顔を乗せて彼を上目遣いで見上げてきた。引き下がる気は無いらしい。
「なあなあ、ちょーだい?」
 スフールは、何故かこの男の事が好きだ。本当に何故か、本人にも分からない。鬚面の癖に自分が一番可愛いと自信満々に言うし、誰も読めない様な汚い字を書くし、まともに名を呼ばず専ら坊や呼ばわりしてくるこの男が、本当に何故か好き、なのだ。パチカはそんなスフールの好意を知っていて、いつものらりくらりとかわす。そして、今のこの上目遣いは明らかに好意を利用してあざとくねだっている。
「……せめて何に使うのか言えよ」
 俺が見付けた石なんだし、という言葉は、ホムラミズチの動きを見極め上手く誘導して鱗を破壊させてくれたパチカを前にすると飲み込まざるを得なかった。そんなスフールの質問に、パチカは小首を傾げて悪びれもせず答えた。
「じーちゃんに送るんだよ。決まってんじゃん」
「……お前さあ、それ俺に言う訳?」
「言うよ。嘘吐いたってしょうがないし」
「そりゃそうだけどさあ……っていうか予想通りだけどさあ……」
 じーちゃんというのは、パチカがタルシスに来る前に彼を同居人としていた老人の事だ。スフールは見た事が無いが、古くからの友人であるらしい辺境伯曰く「穏やかで非の打ち所がない老紳士」であるらしい。パチカはその老紳士を心の底から好いており、指先の手入れや身嗜みを欠かさないのはひとえにその老紳士にいつ会っても良い様にとしているからだそうだ。
 他の事に対してずぼらなパチカがそこまで心を砕く老紳士は、スフールにとって恋敵となる。だが勝負など初めから分かっている程、彼に勝機は無かった。パチカが老紳士を語る時の顔は、普段のへらへらしたものではなくて心からの敬愛を滲ませているからだ。
「エメラルドってさ、浮気封じの宝石なんだ。じーちゃんが浮気しない様に送ろうかと思って」
「……あのなあ……」
「死んだばーちゃんと俺以外の奴にじーちゃんが浮気するとか思わないけどさっ。何たって俺いーっちばん可愛いし」
 翠玉に浮気封じの効能があるとは知らなかったスフールは鉱物学を得意とする自分よりパチカがそれを知っていた事に驚いたが、それ以上に臆面もなく自分は可愛いから浮気などされないと言い放った事に呆れた。この三十路の鬚面の男は本気でそう思っているのだから始末に終えない。
「お前のその自信どっから出てくんだよ……」
「何だよ、坊やだって俺が可愛いから好きなんだろ?」
「だから坊やじゃねえっつってんだ!」
 パチカを可愛いと思わない訳でもないが、かと言ってこう面と向かって堂々と聞かれると癪なもので、スフールはつい声を荒げてしまった。短気な所が彼の一番の短所なのであるが、パチカは特に気にもせず寝台に身を乗り出し、更にずいとスフールを見上げる。前髪で隠された義眼の色は、今日は琥珀色だった。
「ちょーだい?」
「……あー、もう、分かったよ、やるよ」
「へへへー、やったー」
 自分が一番可愛いと言うこの男は自分が一番可愛く見える角度というものを心得ており、つまり今のおねだりは一番あざとい姿であるのだが、くるくるとしたその目に負けたスフールはとうとう折れてずいと翠玉を差し出した。するとパチカはにかっと笑い、寝台から体を下ろすと背凭れにして受け取った翠玉を部屋の明かりに照らして見た。
「割れやすいんだっけ? 送る時割れなかったら良いな」
「白詰草山程入れといてもらえよ。割れたら割れたで加工しろって言っとけ」
「そーしよ。じーちゃん喜んでくれたら良いなー、ばーちゃんが緑好きだったみたいだから」
 スフールにとっての恋敵が老紳士であるのと同じ様にパチカにとっての恋敵は亡くなった老女になる筈なのだが、パチカはその老女も老紳士と同じ程敬愛しており、老紳士程ではないがよくばーちゃんと言っている。それがスフールにはいまいち分からないところではあるけれども、そう言うとまた子供扱いをされてしまうのは目に見えているのでぐっと堪えた。
 本当に、何だってこんな美徳の欠片も無い様な、しかも敵う訳が無い恋敵が居る様な男を好きになってしまったのか、スフールは時折頭を抱えたくなる。字は判別出来ぬ程汚い、男に人工呼吸するなんて嫌だと言って心肺蘇生法をやりたがらない、他人が怪我をすれば嬉々として手当てより先に臓物が見えるか否かを確かめる、三十路だと言うのに未だにたまにシャツのボタンをかけ間違える、いつの間にか大量にロリポップを買っては食っている、おまけに自信満々に俺が一番可愛いと言い張る――本当に本当に、何でこんな男が好きなのか。スフールは、短く刈り上げた後ろ頭をバリバリと掻いてでかい溜め息を吐いた。
 そんなスフールの憂いなど全く意に介す筈もないパチカは、能天気且つ上機嫌な顔で翠玉を鏡台に置き、綺麗な便箋無かったかなー、などと鼻唄混じりに抽斗を探り始めたのだが、何かを思い出したかの様に再度スフールが座る寝台に寄ると、今度は片足を乗せてきた。
そして。
「ありがと坊や、これお礼な」
「?!」
 年の割には幼く見える顔が突然近付いてきたかと思えば鼻の頭に軽い痛みを感じ、呆然とするスフールはまた鼻唄を歌いながら鏡台へと戻ったパチカの背中を見てやっと鼻を甘咬みされたのだと気が付いた。口付けでない辺りが飴や試験管を歯で挟む癖があるあの男らしい。翠玉の礼がこれだけというのも割に合わないが、初めてあちらから近付けられた顔に耳まで赤くなったスフールは悔し紛れに悪態を吐いた。

「だっから、坊やじゃねぇっつってんだろ」

 ――ああ、何だって俺は、こんな美徳の欠片もねえ様な奴をさあ。

 何度思ったのか知れない疑問を頭で反芻したスフールは、しかしパチカのだって坊やじゃんという楽しげな笑い声に、苦虫を噛み潰したかの様に口を曲げる事しか出来なかった。

 こういうのは、惚れた方が、負けなのだ。



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