そらを知る石

 深夜の聖堂は銀嵐ノ霊峰で耐性がついた筈の体にもなお寒く、氷に閉ざされたこの国の王宮が水晶宮と呼ばれるのも頷ける。一年を通して降る雪に耐えられる構造の聖堂の奥に、天窓から差し込む冷たくも柔らかい月光がまるで天に昇る為の梯子の様に下ろされ、その光の下には荘厳な棺が横たわっていた。
 その棺の中には、誰の体も納められていない。この寒い国では咲く花など限られているし少ないが、本人は不本意らしかったが大騎士と呼ばれる程の身分になってしまった男の棺であるから、ありったけの花や生前着用していた宮廷騎士の衣類が納められている、らしい。明日の国葬を前に昼間にこの聖堂に通され棺と対面したが、故人が眠っていないのだからと見る気もしなかったので、ぼんやりとしか記憶にない。
 一歩ずつ、ゆっくりと棺に歩み寄る。石畳を叩く靴底の音は、石造りの広い聖堂に良く響いた。誰の息吹も無く、しんとした深夜の肌を刺す程の冷たさの空気を振動させ、足音は棺にも反響した。一歩、また一歩と進むうち、どんどんと砂を食む様な心持ちになっていく。
 自分より十三も年下だった。自分より長く生きる筈だった。自分より幸せで、周りの者達から思慕の念を抱かれ生きていく筈だった。そんな彼が、主命であったからとは言え故郷でもなく知った地でもなく、見知らぬ土地で死に雪の下に何故埋もれてしまわなければならなかったのか。そんな事は、誰にも分からない。
 棺の側で膝をつく。冷たく無機質な石畳は、布越しでも氷の様に感じられる。蓋が固く閉ざされた棺は本当に豪華な装飾が施され、様々な石の色が月光を反射し光っていた。中でも目を引いたのは、美しい蒼だ。彼が便りと共によく送ってきてくれていたラピスラズリは他のどの土地のものよりも素晴らしい発色で、感動した事を伝えようとこちらもよくその蒼を使った絵葉書を彼に送っていた。だが、もし彼が自分の棺がこんなに絢爛なものであると知ったなら、ひどく困惑した顔で拒絶しただろう。自分が目立つ事が嫌いな彼であったから、その表情は容易に想像出来た。

「……順番を守らないのは感心せんな」

 漸く絞り出せた言葉が、虚しく響く。叱るとすぐに聞こえてきたすみません、という懐かしい声は、勿論耳に滑り込んではこなかった。
 彼は、水晶宮の騎士だった。だから、王の殺された子の仇を討つ為に氷を司る竜との戦いに身を投じなければならなかった。故郷から離れた雪が吹き荒ぶ厳しい土地で、辛くもその竜は倒せたそうだが、彼はその戦いの最中に仲間を庇って死んだと聞いた。悪天候の為、仲間はその身を連れ帰る事も出来なかったそうで、だからこの棺の中には誰の体も横たわっていないのだ。
 寒かっただろう、痛かっただろう、怖くはなかったか。意識が途絶えるその瞬間まで、君は城塞騎士だったか。尋ねたくてももうその答えは得られない。あの、いつまで経っても子供の様な翠の瞳の朗らかな笑みは失われてしまった。その想いを表す言葉が見つからない。ただ、ぽっかりと心に穴が空いて、吹き抜ける風がその穴を広げる程の冷たさである事だけは分かる。

「……二人で、待っていてくれるか。私が……いや、僕がそちらに行くまで」

 我が良き片羽であった弟も既に喪われた。その時、共に泣き側に居てくれたのは彼だった。そんな人生最良の友を今また喪い、いつまで生きれば良いのだろう。苦しい、と、言葉に出してもなお苦しいままだ。せめて向こうでは暖かなところに居てくれれば良い、そんな事を思いながら、棺の中央の鈍く光る石に軽く口付けた。その銀の石の名はギベオン。彼の名と同じ、宇宙(そら)を知る力を秘めた石だった。