開けられた扉

 悪夢の様な時間を過ごし、寒いというのに全裸で泣きながら薄暗い廊下を走った僕は、奥様に見付かるんじゃないかという恐怖も手伝って自分の部屋ではなくて地下の倉庫に急いだ。あそこは旦那様も奥様も、使用人達もあんまり行かないから、僕にとっては逃げ込める良い場所だった。こっそり持ち込んだ毛布もあれば、使われなくなった古いランタンも置いてある。何度も読んでぼろぼろになった鉱物図鑑もある。だから僕は、陰気で暗いと奥様が嫌っているその倉庫が好きだった。ただ、あんまり入り浸っていると僕がそこに居る事がばれてしまうから、本当に緊急避難の為の場所として使っていた。
 旦那様が連れ帰った人からいたずらをされて、体中にたくさん噛み痕や痣が出来てしまった。洋服を持って部屋を出る前に旦那様からほっぺたを拳で思い切り殴られてしまったから鼻血も出たし口の中も切れて、血の味とにおいばかりだけがした。早くあの倉庫に行きたい。行って、毛布にくるまって丸まって寝たい。そんな切実な事を思いながら埃っぽくて真っ暗な階段を素足で駆け下りる。もう何度も通ったその階段は、見えなくたって僕にはどういう風になっているのか分かっていた。だから、足の裏は痛かったけど一生懸命下りた。
「………えっ……」
 そして涙でぐしゃぐしゃになりながら重たい木の扉を開けると、明かりも点いてなくて真っ暗で要らないものばかりがある筈の倉庫は、見た事も無い部屋になっていた。僕のおうちの誰かの部屋の様に、書棚や机、寝台なんかがあって、その部屋の中で知らない人が何かの絵を描いていた。
「……君は……」
「あ……あの、……あの、ご、ごめんなさい、あの、」
「随分ひどい怪我をしているな。こちらへおいで」
「で、でも、あの、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ぶたないで、ごめんなさい」
 知らない人は僕を見てちょっとだけぽかんとしたけど、すぐに絵筆を置いて僕に寄ってきた。だけど僕はさっきの事もあったし、何より見たこともない人が僕の唯一の安心できる倉庫であるはずの場所を全て変えてしまっていた事に絶望と恐怖しか感じる事ができなかったし、絵を描いている邪魔をしてしまったから怒られるんじゃないか、ぶたれるんじゃないかと思って足ががくがく震えて、下着も穿いていないというのに両手で頭を咄嗟にかばった。そんな僕に、知らない人は屈んで僕と目線を合わせた。
「叩かないし怒っていない。君がたくさん怪我をしているから驚いただけなんだ。服を来て手当てをしよう。おいで」
「でも、……」
「君が痛がったり怖がったりする事は絶対にしないよ。約束する。怪我の手当てだけでもさせてもらえないかな」
「……はい……」
 前髪で片目を隠し、結んだ髪を肩にかけた鈍色の目のその人は、お医者さんが着る様な白くて長い洋服を着ていた。信用して良いのか、そもそもどうしてここに居るのか僕には分からなかったけど、この時の僕には正常な判断ができなくて、その人の優しい声に泣きながら頷いた。声や顔立ちが優しいからと言っても、僕にいたずらしたあの人の様な人も居るのだけれど、心もからだもぼろぼろだった僕にはその人を信じるしかできなかった。
 僕に下着を穿かせてから部屋に置かれてあったキャスター付きの抽斗を傍らに置いて手当てをしてくれたその人は、手当ての最中ずっとこういう傷はこういう処置を、こういった状態になったらこういう対処を、と丁寧に説明してくれた。僕は半分くらいしか覚える事ができなかったけど、絶対に怒ったりはしなかった。胸に書かれた五本の線も、綺麗に拭き取ってくれた。
 そして服を着せてくれた後に寝台に座った僕の前で床に膝をつき、見上げてきたその人は、何も言えないでいる僕にちょっと困った様な顔で笑った。お礼を言いたかったけど口の中が痛くてあんまりうまく喋れなくて、僕も困った顔になった。それでもその人は怒りもせず呆れもせず、僕の手を取ってゆっくり撫でてくれた。僕は頭を触られるのが苦手だから、そうしてくれたのは有難かった。

「無事とは言えないが、君が生きていてくれて良かった。
 理不尽な仕打ちばかり受けているかも知れないが、どうか諦めずに生きていてくれないか。
 私……いや、僕がきっと君の前に現れてみせるから。
 それまで諦めずに生きていて欲しい」

 僕の手を撫でながら、その人は不思議な事を言った。僕を知っている様な口ぶりでもあったけど、僕はその人を見た事も無いし話をした事も無い。だけど僕はどうしてか、こっくりと頷いてしまった。そんな僕にその人は鈍色の目を細めて笑い、小さな音を立てて口と口をくっつけてすぐに離した。
 そこから、僕の記憶は無い。気が付けば、暗い倉庫の中で毛布にくるまって背を丸めて寝ていた。書棚も机もカンバスも無い、殺風景で見慣れた倉庫だ。夢か、と僕は思ったけれど、怪我は手当てをしてもらった痕跡があり、胸に書かれていた線も消えていた。無意識の内に僕が全部やったと言えばそれまでなんだけど、どうしても僕はあの白衣を着た片目の人がやってくれたとしか思えなかった。


 遠い遠い、子供の頃の不思議な夢の話。