春を待たずに死んだひと

「お前なんか嫌いだったよ。昔から」
 寝台の側に座り、所望された林檎をペティナイフで剥きながら男がぽつりと呟いた。赤い皮が目に眩しいその林檎は、タルシスから取り寄せたものだ。見栄えは悪いがとても甘いので寝台に寝そべっている彼は好んでこの林檎を食べるから、今日も剥いてやっている。
「嫌いな割には追い掛けまくって押しかけて同棲した上に看病までするんだ? 坊やほんとにマゾだね」
「……うるせえ」
 寝台の上の彼は、皮肉を籠めている訳でも喧嘩を売っている訳でもない。ただ思った事を素直に口にする性格で、その「思った事」が相手に不快な思いをさせるという事など一切考えないし気にしないというだけだ。しかもそれが的確な事しか言わないのでなおのこと腹が立つしぐうの音も出ない。男は剥けた林檎を一つ、ほらよ、と彼に寄越した。もう四十路の癖にうさぎを模した林檎を所望する彼の為に、四苦八苦しながら覚えた剥き方だ。
 男が彼や他の者と共にタルシスを拠点にした世界樹を目指す冒険をしたのは、もう十年以上前の事になる。その冒険を終えた後に大切な人が亡くなった事を受けて姿を消した彼を、男はずっと追い求めた。逃げ足が速かった彼は十年という長い歳月の間、男から逃げ続け、結局はタルシスに近いこの村で見付かってやる事を選んだ。逃げる事に飽きたという事と、体力がそこまで無かったという事が重なったからだ。彼の命は、もう長くはなかった。
「嫌いな奴に十年以上費やすとか、執念深いなー」
「……オレの知らない所で死なれたら胸くそ悪いと思ったんだよ」
「ふうん」
 しゃり、しゃり、と小さな一口を楽しむ様に林檎を齧る彼の手は、昔に比べて細い。そして、昔に比べて随分と血管が浮き上がって見えた。日に日に衰弱していく彼をどうする事も出来ず、しかし口だけは元気なので苦い顔しか出来ない男は林檎の蜜を零した彼の口の端を指先で拭ってやった。昔は触ろうものなら霊峰の吹雪の様な冷たさの目で見たというのに、今ではすっかりされるがままだ。
「もう四十路だぞ、だらしなく食うな」
「まだ四十路だしおれ可愛いから別に良いじゃん」
「……ああ、そうだ、まだ四十路だ。まだ若い。なのに何で死ぬんだよ」
「まだ死んでないよ」
「もうすぐ死ぬだろ!」
「うるっさいなあ、喚くなよ」
 淡々と答えていた彼が怒鳴り声に眉を顰め、男ははっとして口を噤んだ。衰弱した体は、大声を浴びせられるだけでも消耗するからだ。男が黙ったので、彼もまたゆっくりと林檎の咀嚼を始めた。彼はもう滅多に何かを食べる事が無くなっており、顎が弱ってしまっていたので、固い林檎を食べるには苦労する。だが、それでも彼は林檎を所望した。それが何故なのか、男には分からなかった。
「なあ」
「……何だよ」
「知ってたよ」
「何をだよ」
「坊やがおれの事嫌いなの」
「………」
「嫌いなままで良いよ」
「何で」
「さあね」
 漸く一切れ食べ終えた彼は、食べただけで疲れたのか緩やかに起こしていた寝台を平らにする様に男に言い、一息吐いてから夢うつつの様な声音で天井を見ながら短い会話を交わした。彼の言葉の意図が掴めず、男はもう少し尋ねたかったのだが、彼がそのまま眠ってしまったからとうとう聞く事が出来ず、彼の穏やかな寝顔を見ながら残りの林檎を剥いて食べた。甘い筈の林檎は、どこかしょっぱく感じた。



 彼が林檎を所望していたのは寝台の側でも剥けるからと男が知ったのは彼の死後の事であったが、嫌いなままで良いと言ったのは好意よりも憎悪の方が人生に深く刻み込まれるからであるという事は、ついぞ知る事が無かった。