辞表

辞任届

 私は、風馬ノ月二十日をもって、
 帝国の騎士を辞任いたしたく、お届けいたします。

     風馬ノ月十八日
             ローゲル

帝国軍最高指揮官
バルドゥール次期皇帝陛下




 その封筒に書かれた文字を見て、寝台を起こして背凭れを作り背を預けて座るバルドゥールは眉を顰めた。封筒を差し出した男は大真面目な顔であるし、間違っても冗談でこんなものを提出してくる人間ではないと、幼い頃に別れたきりほぼ会っていなかった間柄ではあるが分かっていたので、男が本気であるともまた分かった。
「殿下が今の様な状態の中でこの様なものを提出するのは心苦しいのですが……しかし、俺は一度は殿下に反旗を翻した身です。
 そんな俺を側に置く事で、殿下のお立場が危ういものになってはいけません。元老達の中には俺の事を快く思わない者も多いでしょうから」
「………」
「勿論帝国の復興への尽力はお約束致しますけれども、お側に居る事は好ましくないと考えました。どうかお聞き届けください」
 お願い申し上げます、と深々と頭を下げた男は――ローゲルは、その体勢のまま動かない。生半な気持ちではなく固い決意の元にこの封筒を提出したと分かるだけにバルドゥールも冗談をと一蹴出来ず、黙って封筒の中に入れられた辞任届けを読んだ。
 ローゲルは巨人を目覚めさせるというバルドゥールの考えに最初こそ従ったが、最終的には反目した。彼はウロビトやイクサビトは交流の中で人間と全く変わらないと知ったし、何より自国の為に多くの犠牲を払う事は最初から反対であったから、木偶ノ文庫地下三階でバルドゥールの説得を試みた。その時のバルドゥールは既に巨人の呪いによる病に冒されており後が無かった事、加えて庇護者が居ない中で十年という長い歳月を一人で帰りを待ち続けていたというのに離れていくと思った為に、バルドゥールはローゲルでさえ敵と見做してしまった。
 それでも、煌天破ノ都で瓦礫に埋もれ死を待つだけであったバルドゥールを真っ先に発見して抱き起こしたのは、誰でもないローゲルだった。自分が生きていた事に対し流してくれた涙は本物であったとバルドゥールは思っているし、実際そうであろう。ローゲルは、帝国に帰還してからずっとバルドゥールの事を第一に考えてくれていた。今だってそうだ。粛清出来なかった頭の固い、それでいてプライドは銀嵐ノ霊峰よりも高いという厄介この上ない高官達からの非難で自身が気苦労を負うだけならまだしも、バルドゥールにまで累が及んではならないと本心で思っている。
「……お前の言い分も一理ある。これを受け取らぬと突き返すほど、余は聞き分けの悪い男ではない」
「では、」
「受理はしよう。だがローゲル、帝国騎士を辞すのであれば、もう言って良いな? 僕の騎士になってくれ」
 バルドゥールは未だ煌天破ノ都での戦いで負った傷が完治していない体を動かし、寝台の縁に座る。病院から着せられた入院着は普段から纏っていた鎧と違い、彼の体のラインを隠さない。成人しているとはいえ大柄ではないバルドゥールの生身の姿にローゲルは戸惑いを覚え、体に負担を掛けぬ様にと注意するのも忘れて沈黙してしまった。
「お前が僕の側に居たなら、確かに元老達は煩いだろう。何もせぬ者ほどやかましいと僕は知っている。
 そんな中にお前を留まらせるのは酷だ。だから、このタルシスで帝国との橋渡しをして欲しい」
「それは……お引き受け致しますが……しかし」
「僕はお前に会いに来る。何度でもだ。そして民の移住が終わった暁には、ローゲル、僕の騎士になってくれ」
「殿下……」
 辞表を枕元に置き、肉刺だらけの無骨で硬いローゲルの右手をそっと両手で包んだバルドゥールは、この時だけは帝国の次期皇帝という地位を脱ぎ捨て、単なる男になっていた。帝国に帰還するまでの年月の間にすっかり大人の男となり、凛々しい顔をする様になったバルドゥールに、ローゲルはやはり戸惑いを隠せなかった。僕の騎士にという言葉は、自分を所望しているという意味を内包していると分かったからだ。
 座ったまま見上げてくるバルドゥールの目は、強くて鋭い。だが触れた手は震えはしていなかったものの間違いなく緊張の為に冷たくなっており、不在にしていた父、アルフォズルの代わりに帝国を守ろうと日々の鍛錬を欠かさなかった証拠に自分と同じ様に硬かった。そんなバルドゥールに、ローゲルは逡巡した後に片膝をついた。
「生まれた時よりこの身は帝国に捧げるものと教育され、それを信じて生きてきました。
 ですが、帝国そのものである殿下に反旗を翻した以上、帝国にお仕えは出来ません。
 ですから、今後は帝国ではなく殿下……いいえ、バルドゥール様、貴方にこの身を捧げる事を誓います」
「……そうか」
 騎士が忠誠を誓う時の様に跪いたローゲルの言葉に、バルドゥールは心底ほっとした様な、泣くのではないかと思う様な笑みを見せる。そして包んだままの手を引き、唇を寄せようとしたのだが、ローゲルは空いた手で失礼、とその口を塞いだ。不満気に眉間に皺を寄せたバルドゥールに、ローゲルは苦笑して見せる。
「明後日までは帝国騎士ですので」
「……じゃあ明々後日からは良いんだな?」
「仰せのままに」
 頑なに辞表に書いた日付を守ろうとするローゲルに何となく水を差された様な気もしたが、それでも仕方無さそうな笑みを見せる彼の手に唇を落としたバルドゥールは、穏やかな笑みを見せた。
 彼らのこの経緯を聞いた辺境伯が円満な寿退職だな、とローゲルをからかったのはこれより三日後の事である。