シャーベット

 銀嵐ノ霊峰は相変わらず凍える様に寒く、スフールは購入した毛糸の帽子を目深に被って背を丸めている。雪が吹き荒ぶ場所ではないとは言え温暖なタルシスの気候に慣れてしまった体には堪えるし、寒いものは寒い。はあっと息を吐くとその吐息はたちまちの内に白い形を見せて消えた。懐に忍ばせている時計を見ると、磁軸を使って霊峰に来てからやっと一時間が経過した頃だった。
「なー、まだー? もう凍えて死にそうなんだけど」
「うるっせえな、嫌なら来なきゃ良かっただろ。大体お前、今日は一日寝るって言ってたじゃねえか」
「だって酒飲むんだろ? 坊やだけずるいー」
「ずるいも何も、オレが買った酒だろうが!」
 気球艇の籠の中で猫背を更に丸めて手袋を嵌めた手で口元を覆って文句を垂れた同行人に、スフールは悪態をつく。耳あて付きの帽子を被って頬を膨らませているその男は口を尖らせ、一人で飲むのはずるいと繰り返した。スフールにしてみれば自分の取り分の金で購入した酒であるので、分けてやる義理は全く以て無い。それなのに、男は自分が一口も飲めない事に不服を申し立てたのだ。理不尽な事この上ない。
 だが、スフールはぶつぶつと文句を言いながらも結局は男を気球艇に乗せてこの霊峰まで来てしまった。自分より背が少し高い癖に屈んで上目遣いで見上げてきてねだられては突き放す事も出来ず、何やってんだかと苦虫を噛み潰したかの様な顔をしたスフールは赤くした鼻を手で覆って洟を啜った男に自分が巻いていたマフラーを寄越した。喉元が急激に寒くなってしまったが、医術師に風邪をひかれるより余程良い。
「なるかどうかは分かんねえんだから、なってなくても文句言うなよ」
「えー。楽しみにしてるのに」
「だから運が良けりゃ、って来る前に言ったろ。人の話を聞けよ」
「坊やは運が悪いけど、おれは運が良いからなるよ」
「その自信どっからくるんだよ……」
 寄越されたマフラーを礼も言わずに巻き、自信満々に言われた言葉に再度スフールは眉を顰める。冷気と乾燥のせいで滲み出た涙は瞬時に凍り、睫毛に固まった涙が重たい。一旦タルシスに戻って時間を潰しても良かったのだが、他のギルドの者から横取りされないとも限らないので、彼ら二人はその場でじっと待っていた。そろそろ良いか、と気球艇から降りたスフールは、籠の中で凌いでいた風が体に吹き付けてきたので一層体を縮こまらせた。
 彼が歩み寄ったのは、積もった雪をかき集めて作った山だ。山と言っても大きなものではなく、例えば子供が砂場で作る様な小さなもので、そこに斜めに埋めた瓶をゆっくりと引き抜く。さあどうだ、と中を見たスフールは、にんまりと笑った。中身の琥珀色の液体は、ほんの僅かだが表面が凍っていた。
「おいパチカ、降りてこい。早くしねえと単なる液体になるぞ」
「えっ、なってた?! やっぱりなー、おれ運良いからなー」
 上機嫌でスフールが気球艇に乗ったままの男に――パチカに声を掛けると、彼はぱっと顔を明るくしてマグカップを片手に降りてきた。現金な奴だと思いつつも栓を抜き、まずは自分の銅製のマグカップに注いでからスプーンで掬ってパチカのマグカップに分けてやる。パチカは初めて見るその形状に、無邪気な笑顔を浮かべた。
「すっげー、ウイスキーってこんな風になるんだ」
「ほんの少ししか出来ねえけどな。度数高いから気をつけろよ」
「わっわっ、シャリシャリだ! すげー!」
 パチカが口に含んだのは、シャーベット状になったウイスキーだった。度数の高い酒は凍らないものだが、霊峰の様な寒さの中では運が良ければ僅かにシャーベット状になる。もっと寒い場所であれば瓶の中のウイスキー全体がシャーベットの様になるとは聞くが、そこまで寒い場所となると命に関わる事態になりかねない。無謀な事はやらない、と決めて出てきたし、舐める程度で終わらせなければ帰還も危うくなる。だから僅かに凍る程度になる様な場所を探し、ここで冷やしていたのだ。
「うまーい。このウイスキー、坊やの故郷のやつ?」
「ん? まあ、そうだよ」
 初めて食べるからなのか、随分と機嫌良くマグカップから掬って食べるパチカの質問に、スフールは曖昧に頷いた。実家から追い出される原因となったウイスキーを、それでもまだ飲み、故郷の味を偲んでしまう辺りが幼稚だと自覚しているからだ。しかしパチカはそんなスフールの胸の内など知る筈もなく、ふぅん、と言った。
「こんな美味い酒があるならちょっと行ってみたいなー。お姉さん居るんだっけ?」
「………あ、あぁ」
「良いなー、蒸留所。見てみたい」
「……いつか来いよ。案内するから」
「うん」
 突如言われた行ってみたいという言葉に目を丸くしたスフールは、動揺を隠すかの様にスプーンで掬ったシャーベットを口に入れた。恐らくパチカにとっては他愛もない、その気も無い様な思い付きの言葉であっただろう。だが思い付きであっても嬉しいと感じてしまい、口の中で一瞬で溶けていくシャーベットのアルコールに僅かに苦い笑みを零した。きっと戻れば長時間寒い中に居た事と油分を吸い取る蒸留酒のせいで喉が焼けた事も相まって、風邪をひいてしまうだろう。ただ、寒さに由来するのではない頬や耳の赤さを気取られなくて良かった、とスフールは堂々とおかわりを所望したパチカを見ながら思った。