大人のあやし方

 深夜、雨の音でクロサイトは目を覚ました。寝る前から降り始めた雨は徐々に激しさを増し、地面を叩く音が室内まで聞こえる。起き上がってカーテンを僅かに開けて外を見れば遠くの空に雷光が閃いていて、彼はぎゅっと眉根を寄せた。夜は、弟が仕事に出る時間帯だからだ。樹海に繰り出し、力及ばず落命した冒険者を埋めるのがクロサイトの弟であるセラフィの仕事なのだが、こんな悪天候の下であればただでさえ危険な場所であるのに、普段はどうという事もない魔物相手に不覚をとるかもしれない。
 さっさと切り上げて今日は戻ってきていれば良いが、と思ったクロサイトが寝台から降りようとした時、不意に何かの音が聞こえた。勝手口の戸が閉まった音だと気付いたと同時に忙しない足音が一直線にこの部屋に向かってきていると分かる。乱れてはいるが聞き慣れた足音であったからクロサイトはその足音の持ち主が不審者であるとは思わなかったが、それにしても普段の歩き方とは違い、様子がおかしい。怪我をしたのかと素早く寝台から降りたと同時に、部屋の扉が勢いよく開けられた。
「どうした、怪我をしたのか」
 片目しか利かないクロサイトは、明かりも点いていない室内に入ってきた者の姿を確認する事が出来ない。ただ、気配だけで入ってきたのは弟だと分かった。しかし返事もせずずかずかと足早に歩み寄ったセラフィは乱暴にクロサイトの肩を掴むと寝台に引き倒していきなり口を塞いできた。これにはクロサイトも驚いたし、唇を抉じ開けて侵入してきた熱い舌に思わず体を強張らせる。強い鉄の味と臭いはセラフィがどこか怪我をしている事を窺わせたけれども、口の中が弱いクロサイトはその怪我の箇所を探る事が出来ない程に体を一瞬にして駆け巡った快感の痺れを声にすまいとして必死になっていた。
 強い力で掴まれた肩の、寝間着越しに滲みてくるのは雨なのか血なのか、時折遠くで走る雷光だけでは判別出来ない。息も荒く口の中を必死に探る舌を何とか受け止めている間に顔に落ちる水滴が、セラフィが随分と雨に濡れている事を教えてくれていた。寝台の下にごとごとと何かが落ちた音が聞こえたが、その音の正体が弟の脱ぎ捨てたブーツとジャケットであるとはその時のクロサイトには気が付く余裕が無かった。
「ぷぁ、は、はぁっ、なん、どうした、そんなに焦って」
 一頻り口を貪られ、その間に股を擦り付けられたので寝間着のズボンが濡れたクロサイトは、解放された口を拭う事なく見上げて尋ねたがそれ以上何も聞けなかった。やっと暗闇に慣れてきた目は間近にあるセラフィの顔を捕らえており、それでも見えづらかったのでその顔が真っ青になっている事は分からなかったが、気が立っている獣の様に荒い息を繰り返す弟は合わぬ歯の根を鳴らしながら水滴混ざりの涙をクロサイトの顔にぼたぼたと落とし、首元に口を寄せて自分のベルトを外し始めた。
 これは今は何を言っても何をやっても無駄だと判断したクロサイトは、次の瞬間身体中の力を一気に抜いて寝台に全体重を沈めた。お前の好きにすると良い、という意思表示であり、それを察したらしいセラフィも洟を啜って雨を多量に含んだズボンを乱雑に脱いだ。



「落ち着いたか?」
 寝間着のボタンが引き千切られ露になった腹の上に吐き出された体液を掬った指先を吸ったクロサイトは、その手で自分の上に突っ伏し熱が引いてきた呼吸を整えようとしている弟の項を撫ぜた。既に雨ではなく汗で濡れた項は髪が張り付き、風邪を引かない様に拭いてやらねばとクロサイトが思っていると、当のセラフィがのろのろと細い体を起こして上から降りた。
「……すまん、起こして」
「お前ならいつでも構わんよ。怪我をしているだろう、手当てしよう」
「………」
 自分の上から降りたセラフィは服も脱ぎ捨てていたので素肌を晒しており、体が冷えない様にとクロサイトは濡れていない事を確認したシーツを弟の白い肩に掛けながら安心させるかの様に額に口付け、ズボンを穿くと寝台から降りてサイドボードに置いていたランタンに明かりを点けた。
 クロサイトは標準体型であるが体躯が細いセラフィには服が合わず、ズボンがずり落ちてしまう為に貸してやる事が出来ないのでシーツを羽織らせたまま手当てをしたのだが、思った程大きな傷を負っていなかったから却って風邪の方が心配だった。何かの刃物で斬られた様な傷が目立ち、魔物とやりあったと言うよりは人間と対峙した印象を受ける。その事に対し、クロサイトは意外とも思わなかったしおおよその見当もついた。
 二人が住まうタルシスには、実に様々な者達が集って塒を構えている。数年前に冒険者を引退したクロサイト達が開放した風馳ノ草原の北に位置する谷の結界を越え、丹紅ノ石林を探索する者も少なくない。だが奥へ行けば行く程凶悪な魔物は居るもので、こちらを惑わせ仲間と相討ちさせる魔物も存在する。そんな魔物から危険な薬物を作る者もまた、存在している。冒険者という肩書きを隠れ蓑にして密造した薬物を売買している者達を密かに始末する事も、セラフィが辺境伯から請け負う仕事の内の一つでもある。冒険者達がその薬物に手を出し、身の破滅に追い込まれたとしてもそれは彼らの自業自得であるのだが、タルシスの住民が襲われたり住民が手を出したりする事は避けたいので、セラフィはそういう者を見付け次第何らかの手を講じる事が時折あった。
 それにしても、そんな事に手を染める者を始末してもあんなに取り乱した様に泣いたり性急に求めたりする事は今まで無かったというのに、今日は様子がおかしかったとクロサイトは最後の包帯を結んでやりながら思う。セラフィは相手がどんな者であれ殺す事に大なり小なりの罪悪感を抱き、恐怖やつらさを薄れさせる為に突然この部屋に来る事がたまにあるが、あんなに荒々しく掴み倒され服のボタンまで引き千切られたのは初めてだ。余程ショックな事があったのか、未だセラフィは項垂れたまま殆ど言葉を発しようとしない。
「自分の部屋で寝るか?」
「………」
 あまりそのままの格好で居させたくなかったので休ませようとしたのだが、セラフィはその問いに力無く首を横に振るだけで動こうとしなかった。この部屋、と言うかクロサイトの側で休みたいらしい。ここまで消沈している姿も珍しく、クロサイトもどう対処しようか迷ったが、久しぶりに腕に抱いて寝るのも良いかと考え柔らかな黒髪をくしゃりと撫でた。
「替えのシーツを持ってくる、どれでも良いからタンスの中のものを着ておけ」
「……な」
「うん?」
「行くな」
「………」
「……行くな」
 寝台のシーツが濡れてしまっているので仕舞ってある薄手の毛布を取りに行こうとしたクロサイトを、セラフィは震える短い言葉で引き止める。ボタンが飛んで前を留められない寝間着の裾を筋張った手で掴み、側から離すまいとする弟に、やはりクロサイトはどうするか迷った。詳細を尋ねる気は無いが、風邪を引かれるのは不本意なのだ。しかし、頑として手を離そうとしないセラフィに最終的に溜息を吐き、その手を掴んで今度は自分が寝台に弟を押し倒してから一緒にシーツにくるまった。成人男子二人であるから体がはみ出てしまうが、寄り添えばどうという事はない。
「僕のベッドを濡らしてくれたんだ、お前が暖を取らせてくれるんだな?」
「……ああ」
「なら、さっきの続きをしよう、今日は朝まで気持ち良い事しよう。お前が今夜の仕事を忘れるくらい」
「……… ……ああ」
 肉が殆ど付いていない体を引き寄せ、腰に腕を回して足を絡め、口が付くか付かないかの近さで囁やけば、セラフィは短く承諾の返事を寄越した。その返事を合図に、クロサイトは薄い口を塞いで冷たい体を温める様にきつく抱き締めた。窓の外では未だ強い雨が降っていて、熱い吐息の音はすぐに掻き消されていった。