幕引き(彼の場合)

 その男は物静かで、多くを語らず、とても昔は名を馳せた冒険者とは思えない出で立ちをしていた。否、服の下に隠された筋肉質な体は鉱山夫のものにしては立派すぎるものであるし、危険の察知は誰より正確であるらしいけれども、言葉は悪いが凡庸に見えてしまうその中年の男が遠くの地で英雄となったなど彼には信じる事が出来なかった。
 男は、流れの日雇い鉱山夫だった。彼の故郷の街にふらっと現れ、近くの鉱山の日雇い者の詰め所に滞在して時折街の酒場に顔を出し、喧騒を避ける様に隅で飲んでは詰め所に帰る様な男だった。彼はまだ酒を飲むには早い年頃であったが実家が獣肉の卸であったから酒場に配達しに行っており、行く度に酒を飲んでみたいと口を尖らせては酒飲みの男達にガキには早ぇよと笑われていた。ある日、いつもの様に笑われた彼を見て、隅で黙って飲んでいた男が手招きし、自分が飲んでいたグラスをずいと差し出した。

「若い内に良い酒の味を知るのは大事だ。そうすりゃ安酒や粗悪な酒との区別がつく様になる」

 男が何を思ってそう言ってくれたのか彼には分からないが、少なくとも子供扱いではなく年長者が年少者に物事を教えようとしている事は分かり、あんたそんなガキにそんな良い酒、と酒場の主人が言うのも聞かずに舐める程度にしろよと言った男に従い、彼はその酒を一口だけ飲ませてもらった。舌と喉を激しく刺すアルコールは彼にとって劇薬でしかなかったが、顔を思いきり顰めつつも何かちょっと甘い気もする、と言った彼に、男は感心しながらそれが分かれば上等だ、と言った。
 以来、彼は時折酒場で遭遇する男に話し掛ける様になった。その度油売るんじゃねえと家の者より前に男に叱られたが、ここの配達が最後なんだと応戦した。実際彼は男と話す為に酒場を配達の順の最後にしており、両親から酒場に入り浸るなと言われてはいたが素行が悪くなった訳でもなかったのである程度放っておいてもらえた。彼が話し掛ける事を男はあまり歓迎していない風であったし、一人で静かに飲みたくていつも隅に座って飲んでいた様であったのだが、彼は幼さ故にそれに気が付けなかった。
 ただ、話すと言っても口数は決して多くない男から聞き出すのはとても苦労した。荒れてぼろぼろになった男の指先は彼に何も教えてはくれなかったし、男の所持する荷物は小さな鞄一つで、何の情報も得られなかった。詰め所に貴重品を置いておけば盗まれるから、と、財布だけは持っている事にしていたらしいのだが、それにしても所持品が少なすぎて話が広がらず、結局殆ど会話らしい会話は成立しなかった。男も頻繁に酒場に来ていた訳ではなく、たまに顔を出す程度であったらしいので、彼の中で男は不思議な流れ者という位置付けであった。
 男が冒険者であったと知ったのは、鉱山に潜む大型の鹿の魔物に鉱山夫達が被害を受ける様になった時だった。鉱山開発は魔物を刺激せぬ様にと慎重に計画し堀り進められていたので縄張りを荒らした訳ではなかったのだが、その年は作物が上手く育たず、魔物の餌となるものも少なかった為、本来現れない場所に姿を見せる様になったらしい。討伐するにも皆普通の鉱山夫であり、普通の街人であったから、魔物とは言え動物なのだからと狩猟が得意な者が数名狩りに出たのだが、後日全員が無惨な姿となって発見されたのだ。これには鉱山開発の者達も困り、仕事が無いならと日雇いの者達が街を離れていく中、男は相変わらず街に滞在しており、たまに酒場に顔を覗かせては一杯飲んで詰め所に戻っていた。
 その内に鉱山夫も最盛期の半分程に減り、寂しい街並みになってしまったし彼の家の商売も苦しいものとなってきた時、街の寂れた広場で男が見知らぬ別の赤毛の男と談笑している姿を彼は目撃した。薄いものとは言え男の笑みなど初めて見た彼は衝撃を受けたし、また胸の奥で何かが焦げた様な錯覚に見舞われた。自分はあんな表情なんて見た事無い、と思ってじっと佇んでいると、赤毛の男が先に彼に気が付き、知り合いか、と男に尋ねた。男は一言、肉屋の息子だと答えただけだったが、赤毛の男はそりゃ良い、仕留めたらあいつの家で解体してもらおうぜと笑った。仕留めて解体とは、と彼が怪訝に思っていると、二人はおもむろに立ち上がり、側に置いていたものを手に広場を後にした。男は見るからに重たそうな鎚と盾を、赤毛の男は立派な弓を携え、鉱山の方角へと足を向けていた。
 驚愕と歓喜の声が上がったのは日が傾きかけてきた頃だった。鉱山夫達が魔物に殺される様になってからは静かになっていた街の大通りが随分と騒がしく、彼が不思議に思って表に出ると、件の男と赤毛の男が通常の個体の倍はあろうかという鹿を荷台に乗せて彼の家まで向かってきているところだった。これには彼も心底驚きどうしたのかを尋ねると、男はやはり一言、仕留めたから解体してくれと言っただけだった。
 男からは具体的な事は何一つ聞けなかったが、赤毛の男からは色々な事が聞けた。その昔、タルシスという遠い街で世界樹とやらを目指し冒険をしていた事。男は最初は別のギルドに所属していたが巨大な魔物相手に仲間を守れず自身も瀕死の重傷を負っていた時に赤毛の男のギルドに所属していた医術師が助けてやった事。紆余曲折経て男が赤毛の男のギルドに加入した事。世界樹が姿を変えた巨神との戦いで打ち勝った事。全ての冒険を終え、姿を眩ました医術師を追って男も放浪を始め、漸く探し当てた医術師を男が看取り、また放浪を始めた事。男がこの街に流れてきたのは、その放浪の中での事であったらしい。そんな凄腕の者であるなどとちっとも思っていなかった彼が呆然としていると、赤毛の男はおかしそうに笑って言った。

「お前が昔の自分に似て背伸びしようとしてるのが気になったんだろうな。あいつ、本当におとなしくなったもんだよ」

 数日の間滞在した赤毛の男が去る事になった時、あの酒場の隅の席で二人が飲んでいるところを見掛けた彼は、赤毛の男から言われた背伸びという言葉も手伝って声を掛ける事も出来ず、こっそりと様子を窺っていたのだが、どうやら昔話をしていたらしかった。その中で出てきた、男の名とも赤毛の男の名とも違う名は、恐らく男が追い掛けていたという医術師なのであろうと彼にも分かった。その医術師の話となると男は暫しの沈黙を挟み、赤毛の男に言った。

「翠玉が割れた」
「翠玉って、あー、あいつにやったやつ?」
「……死んだんだな、ってやっと思った」
「ふぅん、やっと諦めついたか。長かったな」
「全く、本当に、長かった、なぁ」
「良かったじゃねーか、ちゃんと片想いが終わって」
「ああ、くそ、畜生、ちくしょう、散々追い掛けさせた挙げ句に勝手に死にやがって……っ」

 死んだその医術師が恋しい者であったのか、男は話しながら少しずつ俯いていったかと思うと、頭を抱える様に突っ伏して泣き始めた。そこまで大柄ではない体を震わせ、必死に声を殺す様に泣く男は、彼の知る男ではないと思わせた。だが間違いなく彼に酒を教えた男であり、時折の会話に付き合ってくれた男であった。赤毛の男は自分の隣で泣く男を特に気にする風でもなく、黙ってグラスを傾けており、彼に気が付くとにやっと笑って口元に人差し指を一本だけ立てた。
 赤毛の男が街を去った後も、男は街で鉱山夫として滞在した。魔物を仕留めた事に対する礼として鉱山開発の責任者から詰め所ではなく家を、と言われたが、男は固辞してその後も詰め所を塒とした。定住するつもりが無かったからだろう。彼は二度程、荷物の発送を頼むと使い走りをさせられ、礼として男が飲んでいた酒を一口飲ませてもらった。男が飲んでいた酒は相変わらず辛くて刺激が強くて、けれども最後には上品な甘さが頬肉や舌の奥に残る様な酒だった。誰に何を送ったのかをさりげなく尋ねると、故郷に居る姉と姪に鉱石を送ったと教えてくれた。
 男は、本当に多くを語らなかった。彼がどれだけ聞いても殆ど答えなかったし、まして赤毛の男が話してくれた冒険譚など一言も話さなかった。だから話してくれない事が悔しくて、幼さも手伝って彼は男に恋をしていると思っていたものだから、ある日とうとういつも通り何も言わずに自分の話を受け流すだけの男に怒鳴ってしまった。

「何でいつも向き合ってくれないんだよ! おれだって男だよ?!」

 彼のその叫びは酒場によく響き、テーブルから身を乗りだし男の手を掴んだと同時に倒れたグラスから零れた酒が上等な香りを広げた。目を丸くしたのは酒場の他の者達だったが、当の男はどこか懐かしいものを見る様な目をし、僅かな涙で歪んだ笑みで口元を象らせた。

「ああ、だから無理だ」

 そして絞り出す様に言われた非情な一言は、彼の小さなプライドを打ち壊すには十分な威力を持っていた。否、色良い返事を貰えるとは思っていなかったが、無理と言われる程だとは何故か思っておらず、力無く男の手を離すと、その武骨な手がわしゃわしゃと彼の頭を撫でた。優しい温かさのある、大きな手だった。


「でかい男になれよ、少年」


 男が鉱山で転落死したと聞いたのは、彼がその言葉を言われてから数日後の事だった。遺体は随分と酷い有様であったが不思議と顔はほぼ無傷で、何故か満足そうな笑みを浮かべていたのを訃報を聞いて駆けつけた彼も見た。休憩中の男の背を白衣を着た様な誰かが押した様に見えたとある鉱山夫は言い、そんな者は周辺に居なかったと別の鉱山夫が口々に言っていたが、彼の耳には届かなかった。ただ、一度だけ自分から触れた時の荒れた手がもう二度と動かなくなってしまった事が悲しくて、男の体に縋って慟哭していた。