恋をしている

 一度試したい事があるんだ。そう言った彼は首を傾げた僕の手を引き、僕が今夜訪れてきた扉の方へと向かった。逢瀬の際にいつも開く扉は僕が現実に戻る扉でもあるから、来て早々帰されるのかと思っていたのだけれど、彼が僕と手を繋いだまま開くと、いつもの真っ暗な空間ではなく見覚えのある光景が広がっていた。呆然とする僕を振り返った彼は、微かに笑って行こう、とまた僕の手を引いた。
 タルシスの緩やかな丘の中腹にある診療所は、診察室と住居区が渡り廊下で繋がっている。その渡り廊下を手を引かれながら歩く僕は、これは夢ではなくて現実なのではないかという錯覚もした。だけど現実で彼と手を繋いで歩くなんて一度も無かったしそんな仲でもなかったから、やっぱり夢だとも思った。そんな僕の考えなんて知る由もない彼は、何の迷いも無く居住区へ足を踏み入れるとまっすぐにある部屋へと向かった。
 僕は、その部屋に殆ど入った事が無い。驚きと戸惑いを隠せない僕をよそに、彼は部屋の扉を開けた。難しそうな本がたくさん詰め込まれた書棚、顔料がところ狭しと置かれた作業台だろうテーブル、壁に立て掛けられた彩色の際にはみ出た絵の具で彩られているイーゼル、書類や本が置かれた机、少し大きめの簡素な寝台。彼の自室が、そこに広がっていた。
「……あの」
「いつもあの診察室で、やる事だけやって帰していたからな。たまには私の部屋でゆっくり話をしないか」
「………」
「君は若いからしたかったかね?」
「あ、いえ、あの、ちょっと……びっくりしただけです」
「そうか」
 僕を招き入れて部屋の扉を閉めた彼は、堅苦しいと言わんばかりに白衣を脱いでハンガーに掛けた。医者である彼が白衣を脱いだという事は、今の彼は「僕の主治医」ではなく完全に「単なる男」だ。そう思うといつもより遥かに緊張して、一気に帯電して髪から少しだけ放電してしまった。タルシスに居た頃、彼は僕の主治医であったし、僕が卒業した後は師であったから、彼から友人などと言われた時は恐縮しきりで、対等な関係になれるなどと思いもしなかった。逢瀬でこんな風に話をするだけ、なんて考えもしなかったのだ。
 だけど、来客用の椅子が無いからと並んで座った寝台の上で、僕達は取り留めのない話を飽きずにずっとした。水晶宮での僕の仕事の事、王妃様に気に入られたモリオンが時折サロンに呼ばれて話し相手になっている事、彼の外交官としての仕事が漸く目処がついてきた事、辺境伯さんがバルドゥールさんにそれとなく後継者として接している事、水晶宮の青金石が随分と高い評価を戴いている事、本当にたくさん話した。話してる間に挟まる沈黙ももう怖くなくて、むしろ心地よかった。僕、この人が好きなんだなあ。自然とそう思った。思ってしまった。
「……何だ、どうしたね」
「……いえ……何でもない、です」
 その時、不意に目の奥が熱くなって、近々巫女殿がタルシスに招待される事になっていてと話しかけた彼の眉間に俄に皺が寄り、僕は俯いて押し黙ってしまった。涙の理由を何と説明して良いのか分からなくて、口を閉ざした。彼はそんな僕に説明を迫る事もしなければ呆れたり怒ったりする事も無く、そうか、と言ってそれ以上の追求はしない意思表示をしてくれた。そしてそっと僕の肩に腕を回すと、自分の肩に僕の頭を乗せてから僕の頭に自分の頭を添わせた。
「夜が明けるまで、こうしていよう。何も話さなくても良いから」
「はい……」
 夜が明けるまでの、長い様な短い様な時間を黙ったまま寄り添って過ごそうと言ってくれた彼に、僕はか細い声で辛うじて返事をする。肩を寄せてくれた手の温かさが、どうしようもなく恋しかった。