向かい合った壮年の男は、相変わらず締まりの無い顔でへらりと笑って機嫌が良さそうにアーモンドがトッピングされ粉糖で化粧を施されたマドレーヌを抓んで食べている。その傍らには琥珀色に輝くウイスキーが注がれたグラスが氷によって冷たい汗をかいていた。ウイスキーのつまみに甘味は良く合う、とその男に教えたのは自分であったので、その組み合わせを気に入って口にしている様子を見られるのは何となく気分が良い。
 もう随分と良い年であるにも関わらず、男は行儀悪くもぼろぼろとマドレーヌを食べこぼしていた。そんなところも昔と変わらなくて、眉を顰めるべきなのか眉根を下げるべきなのか分からず、結局深い溜息を吐きながらハンカチを差し出した。いつズボンのポケットに入れたのか分からないそれはくしゃくしゃになっていたけれども、男は特に気にせず礼を言いながら受け取り、手を拭いてからこぼしたものを集めて包んだ。
 男に対して、言いたい事や聞きたい事は山程ある。主に長年溜めた不満を洗いざらい言ってやりたいところだ。だが、本当にご機嫌そうに今度はオレンジのスライスが乗せられたマドレーヌを齧ってからグラスを傾けた男を見ると、その不満は胸の中で萎み、奥底に沈んでいってしまった。
ほんの僅か、男の口の端からウイスキーがこぼれる。飯食う時もだらしなかったもんな、と、つい手を伸ばし、男の顎鬚に滲みた酒を拭う。まるで猫の顎を撫でている様だと思いつつ、無防備且つ無邪気にありがと、などと礼を言った男に、指先についたウイスキーを軽く音を立てて吸い上げてから言った。

「俺も男だぞ?」

 聞き覚えがあるであろうその言葉に、果たして男が気が付くかどうか。ある種の賭けであったが、そんな懸念など吹き飛ばしてしまうかの様に、男はまたへらっと笑って即答した。

「うん、だから無理」

 その無慈悲な回答に、しかしそれなりに年を取ったので落胆など無く、こいつらしいと思わず苦笑いが漏れた。



※※※



 羊皮紙の売買を専門とするギルドからそれなりに大判のものを数枚買ったスフールは、一枚を机の上に広げ、何か不可解な図形と判読不可能とも思える文字が踊る一回り小さな羊皮紙をその大判の羊皮紙の上にずらす様に置いた。何度見ても何が書かれてあるのかさっぱり分からないそれを、今から彼は清書するのである。
「今日もつっかれたー。靴下までぐっしょぐしょだし、最悪ー」
「暑かったなー相変わらず。でも一階から地下三階まで下れる様になったのは助かった」
「そだね、地図もいい感じに出来てきてるっぽいし」
 セフリムの宿屋の一角に借りている部屋の寝台に腰掛け、気持ち悪そうに脱いだ靴下を丸めて部屋の隅に置いている洗濯カゴへと投げたパチカと、弓を壁に立て掛けゴーグルをスタンドに引っ掛けたアラベールが呑気に話しているのを聞きながら、スフールはまっさらな羊皮紙に木炭で薄くあたりを取っていく。指の節の長さで間隔を計り、自分の記憶力とも相談しながら慎重に下書きする彼の顔は、苦虫を噛み潰したかの様になっていた。これからまっさらな羊皮紙に地図を書いていく訳だが、金剛獣ノ岩窟でパチカが書いた地図を見ながらの清書であるから、かなりの時間を費やさなければならない。壁に元から掛かっている時計をちらと横目で見た彼は、また今日も冷めた風呂に入る事になるんだろうな……、とげんなりした。
 何故パチカが書いた地図を清書するのに時間がかかるのか、そもそも清書する必要があるのか、と、知らぬ者なら首を捻るだろう。だがスフールが今見下ろしている地図を見れば、誰でも神妙な面持ちで納得する筈だ。壊滅的に絵と字が下手なパチカの手による地図は、最早地図とは言い難い。そう、先程スフールが大判の羊皮紙の上に置いた「不可解な図形と判読不可能とも思える文字が踊る一回り小さな羊皮紙」こそが、パチカが書いた地図なのだ。
 そんなパチカが地図を書く係に何故なっているのかと言うと、何の事は無い、彼が一番記憶力が良いし、歩きながらメモが取れるという器用さがあるからだ。スフールがこのギルドに加入する前からパチカが地図係であった為に未だに彼が書いているのであるが、数週間前に加入してきたばかりのスフールには何が書かれてあるのか皆目分からなかった。これでお前ら分かるのか、と、アラベールとペルーラに問うと、見てないから知らんというとんでもない返答を寄越され、思わず立ち眩みを覚えてしまった程だ。二人はパチカに道順の指示をして貰って探索していたらしく、地図を見る必要が特に無かったのだと言う。はぐれた時どうすんだと言う質問には二人揃ってアリアドネの糸を見せてきたので、とんでもない奴らに拾われてしまったとスフールはやや後悔した。
 子供でもこんな字を書かないと眉を顰めてしまう様なパチカの字を、スフールは一つ一つ解読していく。パチカ本人に尋ねないのはいちいち聞けば途端に不機嫌になり癇癪を起こしかねないからで、本当に分からない所だけを聞いているのだが、喧嘩っ早いスフールは気が短いので既に何度も言い合いというよりも怒鳴り合いをした。風馳ノ草原や丹紅ノ石林にある迷宮の地図を、スフールが全て書き直したからだ。それを見たアラベールが自分達が読める地図があった方が良いと言った為に、スフールはこうやって金剛獣ノ岩窟の地図の清書をしている。
「スフール、俺ら今日湯屋に行くけどお前どうする?」
「オレ良いわ、宿の風呂行くから」
「そうか。んじゃ、飯も済ませてくるからな」
「ん、分かった」
 着替えなどの荷物を小さな麻袋に入れたアラベールとパチカが同行するかを尋ねてきたのでそれを辞退し、スフールは部屋から出て行く二人の背中を見送ってから再度まだ白い箇所が目立つ羊皮紙に目線を下ろす。やや辟易しつつも書かねば終わらないし、地図が読めなくて困るのは自分なので清書せねばならないと自分に言い聞かせる。何をどう書いたらこんな滅茶苦茶な図と字になるんだと頭が痛くなる程の地図は、それでもパチカ本人にはきちんと読めているのだからすごいと思いつつスフールは木炭での下書きを再開させた。今夜中に金剛獣ノ岩窟地下二階の地図の清書を終わらせてしまおうとたった今心に決めた彼は、まずはパチカが書いた地図の隅に踊るミミズの様な文字の解読を試みた。解読するまでもなく、自分の記憶と照らし合わせればすぐに答えは導き出され、どうやら階段と書かれているらしいそれを白い羊皮紙にメモした。
 スフールは元々アラベールやパチカ、ペルーラのギルドには所属しておらず、別のギルドのフォートレスだった。だがウロビトの里を襲い、巫女を連れ去ったホロウクイーンと対峙した際、盾役であったにも関わらずホロウクイーンの斬撃から仲間を守れず、自分以外の全員を死なせてしまった上に彼自身も瀕死の重傷を負った。腹を割かれて大量の血を吐き、このまま死ぬのかと自分に振り上げられたホロウクイーンの両腕を霞む目で見上げながら思っていると、その腕に矢が飛んできたと同時にホロウクイーンの眉間に投擲ナイフが刺さった。そしてその後に聞こえてきたのが、男の弾んだ声だった。
『わっ、わっ、すげー! 腹ぱっくり開いてる! モツ見える?! あっ、見えてる! すげー!』
 その声がスフールの耳に入ってきた少し後に視界に入ってきた男は、赤みがかった茶髪で左目を隠し、右目を子供の様にキラキラと輝かせながら嬉しそうな顔で彼の傷の確認をした。興奮した様子でじっとスフールの割かれた腹を見ながらも肩に引っ掛けた鞄から手当て道具を素早く出し、頬を緩ませたまま取り敢えずの処置として縫合を始めた。その背後では金髪の女が両手の剣を構えながら弓を構えようとした赤茶色の髪の男にあいつの脚縛れなかったら殺すと脅しており、スフールは何なんだこいつらとしか思えなかった。
『一応応急手当しとくけど、死んだらごめんなー。俺もあっちの加勢行きたいから、縫合だけな』
 麻酔も無しで割かれた腹の縫合を無遠慮にする男は、スフールの痛みの悲鳴を聞いても全く動じずへらへらと笑っていた。しかしその手捌きは正確で迷いが無く、スフールが死なせてしまったメディックの腕前よりも確実に上だった。お前良いモツしてるねえ、ハリがあって弾力があって良い色してて中々頑丈で良いねえとやたらと臓器の事を褒めたその男は、縫合を終えると嵌めていたゴム手袋を投げ捨てて傍らに置いていた鎚を肩に担ぎ、んじゃね、と本当に二人の加勢に行ってしまった。
 結局その三人と、三人についてきたウーファンの手によりホロウクイーンは倒され、巫女は助けられたが、スフールのギルドの者達は彼とタルシスに残っていた面子を除いて死んでしまった。それを知ったのはいつの間にか担ぎ込まれていたセフリムの宿屋で、気を失っていた彼は目を覚ますなり責められた。特に死なせてしまった剣士の妹からは皆を守る事が仕事の癖に何故お前一人が生き延びたんだ、と、かなりヒステリックに平手打ちされながら泣き叫ばれた。縫合されたとは言え傷口が塞がった訳ではなかったスフールはその剣幕から逃れる事は出来なかったし、仲間を死なせた罪悪感を抱かない程神経は図太くなかったので、心身共に痛め付けられていたのだが、その時にドアを蹴破ってうるさいと怒鳴り込んできたのが件の前髪で左目を隠したあの男だった。何でもスフール達が使っている部屋の真上の部屋を間借りしているそうで、ホロウクイーンを倒したは良いがそこそこ苦戦させられ、くたびれて寝ていたらしい。
 男は、スフールに馬乗りになって責めていた女の髪を掴むと寝台から引き摺り下ろして殴り飛ばし、かなり不機嫌そうな顔で泣き叫ぶならよそでやれ迷惑だと吐き捨てた。しかし拳で女の顔を平気で殴る男を見たのは初めてだったので呆然としていたスフールを見て、殴られた衝撃で泣いている女など全く構いもせず、また不機嫌そうな顔を一瞬にして締まりの無い表情に変えてへらりと笑った。
『あー、何だ、モツが立派だった坊やか。やっぱおれの応急処置が効いたんだなー、じーちゃんへの手紙に書いとこっと』
 それまでの不機嫌はどこに吹き飛んだのか、一転して上機嫌になった男は、呆然としている室内の全員をよそに、不明瞭な旋律の鼻歌を歌いながら出て行ってしまった。スフールを責め立てていた女もまた怒鳴り込まれるのが怖いのか、泣きながら恨み言は言っていたがもうヒステリックになる事は無かった。
 その怒鳴り込んできた男こそ、パチカだったのである。彼はまだ治りきっていない体であるのに所属ギルドから追放され、それを揶揄してきた柄の悪い男達と喧嘩をして路地裏でゴミに埋もれているスフールをたまたま見付け、一緒に居たアラベールと一頻り笑ったのだ。そんな彼らの後ろから顔を覗かせたペルーラが二人を無視して、行く所が無いならあたし達の盾役になれとスフールに言った。仲間も守れなかったオレを拾うのか、と尋ねると、ペルーラは死人を拾ったんだから本当に死なれても特に懐は痛まんからなと極めて冷徹な事を言い放った。喧嘩を売られた様な気もしたが、全く以てその通りだなとも思ったので、スフールもそれ以上は何も文句を言わず、ペルーラ達のギルドに所属替えした。
 そうして新たに加入したスフールの最初の仕事は、地図の書き換えだった。どこまで進んだんだ、と、怪我と元居たギルドから追放された事により銀嵐ノ霊峰には進めていなかった彼が地図を見せて貰うと、その羊皮紙はおよそ地図とも言えない様な図形で埋められており、何だよこれとぎょっとしたのは言うまでも無い。しかし平然と地図だよと言い放ったパチカは全く悪びれる様子も無く、さりとてスフールは判読出来なかったので、仕方なく書き直す事にしたのだ。
その書き直しの作業をする上で、必然的にパチカと話す事が多くなった。何しろ本当に全く分からない文字と図形を書いているので聞かなければ分からず、何度も口喧嘩の様な言い争いを経験していく内に、スフールはパチカが善悪の判断が出来ない人間であると気が付いた。パチカだけではない、アラベールもペルーラも、世間一般的には悪いと言われる事に対しての罪悪感など殆ど持ち合わせていなかった。何せパチカはスフールの目の前で女を殴り飛ばしているし、直後にはへらへら笑いながらスフールに話し掛けている。その上、ゴミに埋もれていたスフールを見てアラベールと一緒に笑っていた。
 善悪の判断が出来ない彼らは、迷宮で力尽きた冒険者達が身に着けていたものを平気で持ち帰って売却したり自分のものにしたりする。死んだ人間には必要無いからと言って、スフールが死なせてしまった者達の所持品も売却していた。言っている事は確かに正しいのだが、かと言って賛同しかねるスフールに、三人はだからお前坊やなんだよと口を揃えた。
 金剛獣ノ岩窟地下二階の地図を清書するスフールの手が止まる。視線の先には、手に入れたものを書き込む癖があるパチカの字が踊っていた。顰めっ面をしながら自分の記憶と照らし合わせて解読を試みると、どうやら金額を書き込んでいる様だった。スフール達よりも先に進んでいたギルドがそこで全滅しており、めぼしいものは持っていなかったが所持金をアラベールがくすねていて、その金額をパチカがメモしていたのだ。
 スフールは、書かれていたメモを新しい地図に書き込む事を躊躇って手を止めたまま考える。別に書き込まなくても支障など無いし、そもそもパチカ達はつい先日の事であるにも関わらずそんな事など忘れてしまっているだろう。湯屋に行って使う金が、帰路でどこかに寄って夕食を摂る時に使う金が、その時のものであったとしてもだ。もし自分が彼らを庇って死んだとしてもペルーラが言った様に懐は痛まないのだろうし、寧ろ所持品を売却して金銭を得る事に対しても特に何の感慨も無いのだろうと思うと、スフールは何とも言えない気分になる。
 それでも暫くの沈思の後、スフールは結局そのメモを新しい地図に書き込んだ。これから先、パチカ達と行動を共にするのであれば、スフールだって感化されて死んだ冒険者を見ても、そして死体から所持品を拝借しても、何とも思わなくなる様になってしまうかも知れない。そんな時に、このメモ書きを見て今の気持ちを思い出せれば良いと考えた。
 ただ、メモを書き記した理由はそれだけではない。アラベールやペルーラ、それ以外の者でも判読出来ないと口を揃えるパチカの文字を解読出来た事が何となく嬉しくて、つい書き写してしまった。本当にパチカが書く文字や図形は解読が難しく、余程の事が無い限り誰も読もうとはしない。何でお前こんなに字が汚えんだよとスフールが文句を言っても、自覚が無いのかそうかなあなどと自分が書いた地図を眺めるパチカは、三十路で顎鬚も生やしているというのに子供の様に思えた。
 スフールは、何の因果か業なのか、パチカに若干の好意を持っている。何故こんな解読も困難な文字を書き、童顔ではあるが鬚まで生やした三十路の男を好きになったのか、自分でも理解に苦しむ。彼らのギルドに加入してまだ日も浅いというのに早々に自覚してしまったので、苦虫を噛み潰した様な顔にならざるを得ない。だが恋はするものではなく落ちるものと言うし、落ちてしまったものは仕方ないので、スフールは開き直る事にした代わりに口に出す事はしなかった。言ったところでどうなる訳でもないだろうというのと、パチカはスフールを子供としか見ていない――実際スフールは彼から坊やとしか呼ばれていない――から、どうもならないだろうという予想がつく。
 難儀な事になっちまったよなあ、とスフールは大きな溜息を吐き、羊皮紙に踊る文字の様なものを見る。ただでさえ読めないんだから文字が重なる様には書くなと言っているというのに、いっそ紙から剥がして分離させてやりたいくらいに文字列が重なっており、目を凝らして顔を近付ける。誰も居ない静かな部屋での解読と書き直しは、それでもスフールに惨めな思いを微塵も湧かさせなかった。



「これを……こう、やって……あー、もう、全然上手くいかねーし……」
 自分の腕に包帯を巻くも、途中でガーゼがずれたり包帯そのものがずれたりして、スフールは舌打ちをしながら包帯を解いていく。ホムラミズチと戦った際に拵えた火傷や怪我は随分と多く、ワールウィンドが巨人の心臓を手にしたまま巫女を連れ去って銀嵐ノ霊峰の向こうに消え、絶界雲上域と呼ばれるらしい大地に辿り着いたというのに、スフールの怪我の状態があまり良くないので木偶ノ文庫とやらの迷宮に侵入する為の作戦には加われていない。キルヨネン、ウィラフ両人との共同作戦で帝国艦隊を撒き侵入するというものであるから、スフールは居ても居なくても良いと判断されて宿屋に留まる日が数日続いていた。未だに侵入の成功の報せも無くくたびれた様子で戻ってくるアラベール達を見ると、迷宮周りの帝国の警備は本当に厳戒なのだろうと予測がついた。どんなごつい艇なんだと聞いてもパチカのあの壊滅的な絵では想像出来ない。
「へったくそだなあ。おれがわざわざ描いてやった巻き方の絵見てる?」
「あのへったくそな絵でどうやって理解出来るっつーんだ?」
「技術は見て盗めって事だよ」
「雑だな!」
 スフールが悪戦苦闘しながら包帯を巻いている姿を、寝台の上に胡座をかいて座り化粧水を顔に染み込ませながらパチカが眺める。連日長時間気球艇に乗り、しかも今までの倍の速度で飛べる様になった為に肌の乾燥が半端ないとぶつぶつ言いながら以前作ったらしいその化粧水は、小さな花を瓶いっぱいに詰め込んで酒を注ぎ漬け込んだものだ。気付け薬であるネクタルの原料となる小さな花を化粧水にするなよと言いたい所であったが、スフールだってチェイングラブや各種起動符の原料となるミント草を蒸留してオイルを作っていたりするので何も言えなかった。
「しかしお前、俺達が通り掛かってなかったら今頃死んでたかも知れねえな。感謝しろよ」
「……うるっせえよ」
「お、出たぞ、素直じゃないスフールの照れ隠し」
「うるせえ!」
「あーもーお前がうるさい!」
 二人の掛け合いを見ていたアラベールが茶々を入れてきたのでスフールが噛み付き、怒鳴った彼をパチカが一喝する。あまり機嫌が良くなさそうだと思ったスフールは渋々それ以上の反論を止めて包帯を巻く作業に戻ったのだが、二人に対してありがとよとぼそりと礼を言った。
 スフールが自分で手当てしている怪我の中にはホムラミズチからの攻撃で負ったもの以外に、今日絡まれた男達から負わされたものがある。そこまで探索に力を入れていた訳でもなく、単に面白そうだからという理由で冒険をしていたアラベール達のギルドに所属替えをしたスフールは本当にたまたま探索の最前線に身を置く様になってしまい、そして木偶ノ文庫に向かう事を許可された唯一のギルドのメンバーになってしまった。元は別のギルドの所属員で、仲間を守れず死なせてしまった男が、だ。
 それを面白く思わない者も中には居り、特に彼が元居たギルドの者達は余計にそう思うらしい。スフールに馬乗りになって責め立てた女は以前彼を見かけて人殺しと詰ってきたが、探索帰りでベルンド工房に素材を売っていた時であったからパチカ達も居り、やだやだヒステリックな女は全然可愛くない、まあおれが一番可愛いしあの女可愛くなくても当たり前だけどと言ってのけたパチカに呆気にとられた後、暗殺を生業とし数多くの修羅場を経験しているペルーラからそんな小童と一緒にするな人殺しなめてんのかとドスが利いた声で脅されて以降、スフールの前に姿を見せなくなった。
 その女が今所属しているギルドの者なのか、はたまた全く違うのかはスフールには分からないし興味も無いのだが、火傷と怪我をして作戦に参加してないからと言って体を動かしていなければ鈍ってしまうので街中を歩いていると、複数の男に絡まれたのだ。体が本調子でなかったし多勢に無勢であったから路地裏で一方的に殴られてばかりで、女王様の刃物の味を知ってる腹だもんななどと笑いながら鳩尾を殴られ嘔吐までした。
 スフールも、元居たギルドの者達を死なせたかった訳ではない。粗暴者であるが故に故郷を追い出された形になる彼は、頑丈さだけが取り柄であるからとフォートレスとなった。その取り柄が仇となり、自分だけが生き延びてしまった。自分だけが、だ。それを思い出すとつらくて悔しくて、ホムラミズチとの戦いで負った怪我以上にホロウクイーンから斬られた腹の傷跡が痛み、情けない事に涙が出た。勿論その涙を男達が見逃す筈もなく、嘲笑混じりに蹴られていたところ、戻ってきたらしいアラベール達が逆に男達を蹴り飛ばして助けてくれた。否、彼らとしては助けたつもりはなく、単に自分達の所有物――スフールの事だ――を好き勝手に暴行された事が癇に障ったらしい。それもそれで複雑なものがあるが、結果として助けられた形になるので、礼は述べておかねばならないだろう。
「まあ、体治してる間に手当ての手順とか練習しとけよ。あのおっさんのでけー剣は俺らじゃどうにも出来ねえわ」
「あいつが背負ってたあの荷物が剣だったんだろ?そりゃでけえな」
「ラシャもあれは流石にって言ってたからな」
「そうか……早いとこ治しとくよ」
 肌の手入れをして早々に就寝したパチカに続き、アラベールも潜り込んだ布団の中から顔を覗かせ、つい最近ギルドに加入してきたイクサビトの名を口にした。何でもキバガミを崇拝しているらしい彼女はキバガミを撃破したスフール達に興味を持ち、どれ程強いのか見定めたいと言って半ば強引にタルシスに押し掛けてきており、それまで部屋を一人で使っていたペルーラと同室で過ごして貰っている。
 ラシャの剣技も見事なものであるらしいが、アラベールの言うおっさんことワールウィンドは本名をローゲルというらしく、彼が帝国の騎士であり間者であったと聞いた時はスフールも間抜けな声を出してしまった。前に居たギルドの時にも少しだけ会話をかわした事がある程度の間柄だが、騙されていたのかと思うと面白くはない。ただ喧嘩っ早いのは何もスフールだけではなく、ペルーラとパチカも気に食わない事があればすぐに手が出るタイプであるし、二人よりは控え目だがアラベールも考え無しに殴る事がある。いくら粗暴者のスフールであっても彼ら三人に比べれば常識人であるし、自分より先にペルーラやパチカが殴ると怒りが引っ込んで焦りが生まれる。今のところの最大の懸念は三人がローゲルを殺してしまわないかどうかなのだが、ラシャはスフールよりも常識のある女であり、加入してきた時など煩雑すぎるスフール達の部屋とペルーラの部屋を見て、全員を正座させて説教してきた程だ。彼女のお陰で部屋が整理整頓されたと言っても良い。木偶ノ文庫のローゲルが待つ場所に辿り着くまでに怪我を治して探索に復帰出来ていたなら、ラシャと二人がかりであれば何とか三人を止める事は出来るだろう。
 アラベールも眠ったので一人起きているスフールは、再度包帯の巻き方を復習する為に枕の下に仕舞っている紙を引っ張り出した。乱雑に折り曲げられたそれを広げると、薄暗いランタンの明かりに照らされて不明瞭な図が現れる。先程パチカが言った、スフールに描いてやった包帯の巻き方の絵だ。誰が見ても分からないと眉を顰めるであろうその絵では素人のスフールには正確な手当てが望めそうもない。しかしこのギルドに来てから結構な枚数の地図を書き直し、パチカの絵と文字の解読をしてきた彼は、何とか手当てらしいものが出来る様になっていた。
 このギルドには手当てを受け持つ者はパチカしか居らず、彼が怪我をした際には自分で手当てをせねばならないのだが、笑ってはいるものの貧血で手元が覚束ないまま自分で手当てしているパチカを見て、スフールがまずは簡単な処置を覚えたいと言った。程度が酷い怪我をパチカが負っても、応急処置をしてすぐにタルシスに戻れば良い。また、盾役であるが故に一番怪我をするのは自分であるので、簡単な処置で済む怪我であれば自分で手当てをすればパチカの負担も減る事になる。そう思って教えてくれと申し出たスフールだったが、絵や字が下手であるパチカは教え方も下手で、スフールは理解するまでに時間が掛かった。彼の飲み込みが遅い訳ではなく、本当にパチカの教え方が壊滅的に下手なだけなのだ。
 その中で、何度も教えるのは面倒だからと渡されたのがこの図解なのだが、これがまた皆目分からない。包帯の巻き方だけではなく止血の仕方、絆創膏固定術などを描いてくれているらしいけれども、ちっとも解読出来ずに苦労している。地図よりも解読の難度が高く、何回も見てはいるのだが、解読に必死になりすぎて肝心の手当てが疎かになる始末だ。そんなスフールを見て、パチカはお前飲み込み遅いなーなどと言うのだから堪ったものではない。
何やってんだか、と、明かりは自分の枕元のランタンだけになった室内でスフールは溜息を吐く。報われる事が殆ど無かった人生を送ってきたのだから、この恋もきっとそうだろう。そんな事を思いながら彼は歪んだ巻かれ方をした包帯をぼんやり見ていた。



 スフールが何とか怪我を治して探索に復帰出来、馬乗りになってローゲルを殴ろうとしたペルーラをラシャと二人がかりで止め、彼と共に揺籃の守護者を倒し、世界樹が枯れるのを見届け、呆然としてはいられないと煌天破ノ都の扉を開ける為の探索を始めた頃、その男はタルシスを訪れてきた。煌天破ノ都から木偶ノ文庫に通じた事、そしてつい先日揺籃の守護者と戦った場所の奥にあった祭壇の裏に通じる扉を見付け、流石に驚いたスフール達がその日の探索を切り上げてアリアドネの糸でタルシスへ戻り辺境伯に報告しに行くと、辺境伯がその男と向かい合って茶を飲んでいた。
「じーちゃん!」
 それまで統治院に行くの面倒臭い宿に戻って風呂入って休みたいと不満を言っていたパチカが不機嫌そうな顔を一瞬にして破顔させ、持っているものを全部放り出して男へと駆け寄った。年の頃は六十代半ばと言ったところか、ロマンスグレーの髪を長く垂らし、片眼鏡をかけて柔和そうな顔をしているその男は、ソファに座る自分の隣に陣取ったパチカにほんの少し苦笑した。
「お行儀が悪いぞ。荷物を放ってはいけないと教えたね?」
「あ、そうだった!」
「自分の荷物は自分で持ちなさい。人に拾わせてはいけないよ」
「はーい!」
 穏やかに諭す口調と物腰の柔らかさはスフール達が今まで接した者の中でも辺境伯と並ぶ程の紳士ぶりで、育ちの良さが全身から滲み出ている。が、スフールは勿論アラベール達も呆気にとられたのは、パチカがその老紳士の言う事を素直に聞いて放り出した鞄や荷物を拾い、また着席した事だった。普段のパチカならそれ持ってきてと平気で言うのに、だ。
「どーしたのどーしたの、おれに会いに来たの?」
「パチカ、帰ってきたらまず何を言うんだったかい?」
「ただいま! 辺境伯もただいま!」
「う、うむ、おかえり」
 荷物を拾ったパチカは再度ソファに座ると手を老紳士の膝の上に置いて彼をきらきらした目で見上げ、そんなパチカに動じる事無く挨拶を促した老紳士はパチカが辺境伯に対してもきちんと挨拶を言った事によろしい、と頷いた。そして、呆然と立ったままのスフール達に笑みを向けると着席する様に促した。
「先に辺境伯君へのご用事を済ませなさい。その為に来たんだろう?」
「はーい。えーっと、煌天破ノ都から木偶ノ文庫の地下三階に行ったよ」
「な、何? 繋がっていたと言うのかね?」
「うん、何か地下道っぽいやつで繋がってた」
 スフール達が着席したのを確認してからパチカに統治院来訪の目的を尋ねた老紳士は、報告を受けて驚く辺境伯を見て興味深そうな顔をした。パチカがよく手紙を出している相手であるから、タルシスでどういう活動をしているのかを知っているのだろう。
 スフールは、普段は全く言う事を聞かないパチカに一つずつではあるが確実に指示を聞かせている老紳士にただただ目を丸くした。それはアラベールもペルーラも同様であったし、ギルドに加入してまだ日も浅いラシャも奇妙なものを見るかの様な顔をしている。パチカは基本的に他人の指図を受ける事が嫌いであるから、老紳士の指示を聞く彼が別人の様に思えた。しかも他人が側に寄る事をあまり好まない癖に老紳士にべったりと侍り、肩に寄り掛かって上機嫌そうに笑いながら、普段はアラベールやスフールに任せきりの辺境伯への報告を簡素ではあるがした。別人を見ているかの様だとスフールは気味の悪ささえ感じてしまった。
「まだ奥がありそうだけど、疲れちゃったし戻ってきたんだー。何か魔物も強いし」
「ふむ、そうか……。有難う、引き続きの探索をよろしく頼む」
「うん。ねえじーちゃん、いつまで居てくれる? すぐ帰っちゃう?」
「お前の気が散ってはいけないから四、五日したら帰るよ」
「えぇー……」
 辺境伯への報告を済ませ、彼の礼に頷いた次の瞬間にはもう意識を全て老紳士に向け、ごく自然にソファから降りて床に膝をついて老紳士の膝に腕と顔を乗せながら上目遣いで尋ねるパチカは、年と見た目に全くそぐわず子供の様だった。事前にパチカが自分の前ではどうなるのかを聞いていたのか、辺境伯はマルゲリータを抱えたまま口元に手をやり、納得した様な顔をしている。しかしスフール達は終始珍妙なものを見ている気分であったので、何だか居心地が悪かった。
「それより、私にそこの方々の紹介をして欲しいな」
「じーちゃんがおれ以外の奴に興味持つのやだからしない」
「じゃあ私が直接聞いてしまうが、良いかい?」
「駄目! えっと、そこの髭がアラベールであっちゃんね。眼帯着けてるのがペルーラ姐さんで、ウサギさんがラシャ姐さん。
 厳ついのが坊や……坊や名前何だっけ?」
「おまっ……坊や呼びばっかして人の名前忘れんじゃねえ!」
 老紳士に誘導されアラベール達の名前を挙げていったパチカであったが、最後にスフールを見て首を傾げた。スフールの事を坊やとしか呼んだ事が無く、名前を一度も呼んだ事が無いのでうっかり忘れていたのだ。そんなパチカにスフールは思わず怒鳴ったが、同時にしまった、とも思った。曲りなりにもパチカの養親を前にして怒鳴るのは、いくらスフールでも良くない事だと分かる。しかし老紳士が眉を顰めたのは、スフールにではなくパチカにだった。
「私の監督不行届だ、申し訳ない。そこのお若い方、名前を教えて頂いてもよろしいかな。私はグムンドと言います」
「え、あ……す、スフール」
「スフール君か。君はフォートレスと伺っているが、あまり無茶をしない様にな。深手を負ったらすぐにこれに手当てをする様に言って欲しい」
 膝に乗せられたパチカの手を降ろし、頭を下げてグムンドと名乗った老紳士に、スフールは一瞬何を言われたのか分からなくてどもってしまったが、何とか名乗る事が出来た。しかし何故自分が盾役であるという事を知っているのか、を考え、更に動揺した。パチカはよくグムンドに手紙を送っているから、その中に書いたのだろう。全く興味を持たれていない上に名前を忘れたのではなく本気で覚えていないのだろうと思っていたから、自分の事を僅かであるかも知れないがパチカが書いたのかと思うと驚いてしまった。普段から仲が良いアラベールの事ならいざ知らず、だ。
 そんなグムンドに、パチカは少しだけむくれて再度膝に手を乗せて言った。
「これじゃないよじーちゃん、パチカだよ」
「お前はスフール君の名前を忘れていたじゃないか。それはとても失礼な事だから、罰として私もお前の名前を呼ばない」
「やだ!」
「じゃあきちんと彼の名前を覚えておきなさい。良いね?」
「はい……」
 グムンドが乗せられた手をやはり降ろして優しい口調ながらも叱りつけると、パチカはしゅんとした声で素直に頷いた。パチカの萎らしい姿など見るのも初めてであるから一同はどういう反応をして良いか分からなかった。グムンドと古い友人であるらしい辺境伯でさえ奇妙な顔をして黙ってしまったのだから、余程の事であるらしい。
「さっすが、チカの愛しのじーちゃんすね。俺、そいつがそんな落ち込むとこ初めて見たっすわ」
「アラベール君だったね。君がパチカをギルドに誘ってくれたんだったね? どうも有難う」
「いや、何か面白そうな奴だなと思ったんで。ちょうどメディックもギルドに欲しかったし」
「この子はお役に立てているかい?」
「もちろん。そこのスフールも死にかけのとこ助けましたしね」
「そうか。私が教えた事が君達の役に立てているなら幸いだよ」
 パチカが項垂れている姿が本当に殊勝で何となく可哀想に思えてきたのでスフールは何か言いたかったのだが、何を言って良いものやら分からず結局口を閉ざしたままでいると、ギルドの中でも一番の社交性があるアラベールが恐らく何の気も無しに言った言葉にグムンドも漸くパチカを許したのか、彼の手を取り膝に乗せてやった。それだけで気を取り直したパチカはグムンドを見上げて笑うと、膝に乗せられた自分の手の更に上に顔を乗せて甘えた。
「さあ、そろそろ宿屋に戻ると良い。ペルーラ君もラシャ君も、付き合わせてしまってすまなかったね。
 パチカももう今日は戻りなさい。また明日、探索に出る前においで」
「はーい……」
 しかし探索帰りのスフール達を早く休ませたいらしいグムンドが帰路に就く様に言うと、パチカは渋々離れて立ち上がった。彼の全身からは、まだここに居たいという思いが滲み出ている様にスフールには感じられた。



 グムンドがタルシスに滞在している期間中、パチカは誰よりも早く起きて支度をし、統治院へと足を運んだ。低血圧で寝起きが悪く、起こそうとしたスフールに殺すぞと低い声で脅した事もあるパチカであるのに、誰かに起こして貰う事無く自主的に起きてきびきびと着替え、じーちゃんの朝の支度手伝ってくると部屋を出て行ったのにはスフールだけでなくアラベールも寝惚けながらではあったがぽかんとしていた。
「すげえな……じーさん命なのは知ってたけど」
「普段からああやって起きてくれりゃ良いのにな」
「何だ? 毎朝起こしてる身としてはあまりの態度の違いにやきもち焼いてんのか?」
「だ、れが、やきもちとか、焼くか」
「声震えてるぞお前。分かりやすいな」
「………」
 寝起きのぼさぼさの頭を乱雑に掻き、欠伸をしつつ寝台横のチェストから着替えを取り出したアラベールの言葉に、スフールは沈黙してしまう。人の心を読む事が得意なアラベール相手に隠せているとは思っていなかったが、こうあっさりと言われると何となくきまりが悪くなる。
 ただ、幸いな事にアラベールはそれ以上の詮索も茶々も入れず、よれよれの寝間着姿のまま顔を洗ってくると部屋を出て行ってくれたので、スフールとしてもほっとするやらそわそわするやらで落ち着かなかった。恐らくこの分であればパチカにもばれているのだろうけれども、さりとてそれを本人に尋ねるのも憚られる。苦虫を噛み潰した様な顔のまま着替えようと寝台から降りると、何かの紙がひらと落ちた。包帯の巻き方を図解して貰ったあの紙だ。そう言えば寝る前に巻き方の練習してたんだったと拾い上げると、何度も見てそういう絵として覚えてしまった図が紙面に広がっていた。
 相変わらず、パチカは読めない地図を書く。煌天破ノ都から木偶ノ文庫の地下三階に迷宮が続いたので、持ち歩いていた清書済みの地図にパチカが再度読めない字と図を書き込んでくれており、そのせいでスフールはまた地図を書き直す羽目になっている。いい加減にしろよと思う反面、自分しか読めないのだからと思うと何となく本気で怒れなかった。
 木偶ノ文庫の地下三階から金剛獣ノ岩窟の地下三階へと辿り着いたその日、タルシスへ戻り統治院に向かって一頻りグムンドにべったりと甘えているパチカを、先に宿屋に戻っていたスフールが呼びに来た。グムンドは辺境伯の客人として部屋を一室借りており、シンプルではあるが品が良くて適度な広さがある部屋の椅子に座ったグムンドの側にある寝台で、パチカはぐっすりと眠り込んでいた。
「やあ、わざわざ迎えに来てくれたというのに申し訳ない」
「毎朝早起きして探索出て毎日ここに遅くまで入り浸ってたら、そりゃ寝るよな……」
「元からそんなに体力がある子ではないからね」
 スフールに苦笑したグムンドは、自分に提供された寝台で幸せそうに眠るパチカにも同様に苦笑を向ける。グムンドの前では大きな子供の様になってしまうパチカにどう対処して良いのか分からないスフールは、宿屋に戻って寝ろと言いに来る役を押し付けられて心底複雑だった。アラベールとしてはからかいがてら統治院から宿屋までの短い距離だが二人で歩ける機会を作ってくれた様だが、余計なお世話な気もする。……それが狙いなのだろうけれども。
「パチカも寝ているし、良ければ少し話をしないか。こんな老いぼれと話すのは嫌かも知れないが」
「老いぼれって、そんな年食ってないじゃん……じゃないですか」
「そう畏まらなくて良いよ。パチカの友人なら私にとっても友人だ」
 つい普段の口調で話し掛けそうになり慌てて訂正したスフールに、グムンドは気にする事は無いと首を横に振った。いつもならオレが気にすると言うところであるのだが、しかしスフールはグムンドの友人などという言葉に奇妙な顔付きになる。
「いや、友人っていうか……そいつオレの事友人とか思ってないし……」
「手紙によく君やアラベール君達の事が書かれているよ。
 パチカをこの街に寄越して五年程経つが、それまで他人の事なんて手紙に全く書いていなかったのに」
「………」
 パチカがアラベールの事ならともかく自分の事をそう頻繁に書いているとは思わなかったし、自分よりもパチカの事を良く知っているグムンドから友人認定されているとも思わなかったので、教えられたその事実にスフールはどう反応したものやら分からなかった。生憎故郷でも友人がほぼ居なかった彼は、どういう相手を友人と言って良いのか知らないのだ。
「君は、パチカが書いた地図を清書しているのだっ てね。根気のいる作業だろう?」
「そりゃ……まあ……でもオレしか読めねえなら、オレがやるしかねえし」
「本当は読める字を書けるんだ。私がこの子を引き取った時、あまりに字が汚かったものだから、私の字の真似をする練習をさせてね」
「は? 書ける?」
「ああ。そうでなければ私の元に手紙が届かないよ」
「あ……」
 言われて漸く気が付いたのだが、確かに他人に読める様な字でなければグムンドの元にまで手紙は届くまい。更に言うなら、彼がパチカと共同生活を送っていたとは言えあんな壊滅的な字の手紙を頻繁に送られては読めないだろうから、スフールがフォートレスであるという事を知っていたりアラベールがパチカをギルドに誘ったなどと知っているなら、その手紙が読める字で書かれていたという事になる。
 そして、そこでスフールははたと思い出した。ホロウクイーン相手に重傷を負い、パチカに手当てをして貰った後に目覚めた宿屋で当時の所属ギルドの者達からひどく責められていた時、乱入してきて女を殴り飛ばしたパチカは何と言っていたか。そう、じーちゃんへの手紙に書いておこうと言った筈だ。
「書けるんならその字書きゃ良いのに。じいさんだけ読めたら良いって思ってんのかね」
「前はそう思っていたんだろうが、今はそうでもないみたいだね」
「は?」
「君が字を解読していくのを楽しんでいるんじゃないかな。そんな気がするよ」
 随分と深く眠っているのか、一向に目覚める様子が無いパチカは子供の様な寝顔を晒して寝息を立てている。憎まれ口を叩く唇は今は微かな笑みを象り、言葉を紡ぐ事は無い。起きている時は自分をからかってばかりのこの男が、読めない字を解読している姿を見て楽しんでいるなどとは思いも寄らなかった為に、スフールは絶句してしまった。
 ただ、アラベールからも言われた事があるのだが、パチカの字を解読しようとここまで執念を燃やした人間は初めてであるらしく、珍しさも手伝って面白がっているのではないかともスフールは思う。こちらが文句を言えば屁理屈を言うし、少しでも気に食わない事があれば癇癪を起こす。果たしてそれをパチカが楽しんでいるのかはスフールには判断しかねた。
「それはそうと、以前君が瀕死の重傷を負った時にパチカが助けたと手紙で読んだんだが、本当かな?
 私に対して嘘を吐く事は無いと知ってはいるが、誇張しているかも知れないから」
「……本当、だよ」
「そうか。あの時の手紙には君が別のギルドの誰かと書いていたし、見ず知らずの人を漸く助ける様になったかと胸を撫で下ろしたんだ」
「………」
 パチカが自分を助けた際の手紙の内容を思い出したグムンドの質問に、スフールは複雑な思いをしながら曖昧に頷く。あまり思い出したくない日であるが、しかしあの重傷を負わなければパチカ達に助けられる事も無かった。そう考えると一概に不幸な出来事とも言えず、しかし喜べる事でもない。強いて表現するなら、不幸中の幸い、であるだろう。
 その不幸中の幸いであるパチカの助けは、グムンドに言わせれば成長の証であるらしい。スフールは知り合って以降のパチカしか知らないので彼がそれまでどういう医者であったのかが分からない。だが今のグムンドの言葉を聞けば何となく想像がつくし、何より善悪の判断がつかない男であるから、面倒だと思ったら平気で見捨てていたのだろう。そんな男が駆け寄ってきて助けてくれたというのだから、確かに成長したのかも知れない。単に臓物が見られるかも知れないという期待があったとしてもだ。
「……前に居たギルドの奴らを守りきれなくて死にかけてた時に、手当てしてくれたんだ」
「パチカが君を助けた時の事かい?」
「ああ。腹を……ここをこう、ばっさり斬られてな。
 こりゃ死ぬなって思った時にアラベールとペルーラが魔物に矢とナイフ投げてくれて、こいつが手当てしてくれて……
 オレだけ、生き延びた。オレだけが」
 窓の外の景色は夜のものへと代わり、室内はランタンの明かりがあるとは言え薄暗い。その薄暗さで今の惨めな顔がグムンドに見えなければ良いとスフールは思いつつ、項垂れてしまえば誤魔化す事も出来ないかとも考えた。
 スフールは、今でもホロウクイーンの斬撃から仲間を守れずに死なせてしまった時の夢に魘される。時には飛び起き、便所に駆け込んで吐く。それくらいあの時の事は、彼の人生の中で強烈な出来事だった。自分が死ぬかも知れない恐怖、仲間を死なせてしまった申し訳なさ、自分だけが生きている遣る瀬なさは、これからもスフールを苛んでいくだろう。
そんなスフールに、グムンドはゆっくり口を開いた。
「つらい事を言わせてしまったね。すまなかった」
「……いや、オレが勝手に言ったし」
「私も一人生き延びてしまったから、口にするだけでもつらいのは何となく分かるよ」
「……え?」
「遠い昔、戦争でね。私の部隊は私以外全員死んだ」
「………」
 スフールを労る様なグムンドの声は、告白された内容の重みに反して穏やかさは消えない。座ったままのグムンドは呆然としているスフールに、少しだけ目を細めた。後ろに誰かを見ている様な、そんな目だった。
 スフールの故郷の近辺は、百年近く争い事など無く平穏な時が流れている。また、パチカの故郷も同様であった筈だから、グムンドがそれ以外のどこか遠くの地で戦争に身を投じたという事だ。こんなにも柔和で穏やかな顔をするこの男が戦場に居たなどとは思いもしなかったスフールは、もう何度目になるのかも分からないくらいに目を白黒させた。
「生き延びた者を責めるのは、その者を含め生きている人間だ。死んだ人間は責める事なんて無い」
「そう、だけど」
「守れなかった事に囚われ過ぎて、命を投げ出す様な庇い方をしてはいけないよ。死ねばそれまでだ」
「……でもオレは誰かが死なずに済むんなら、その誰かの為の盾になりたい」
「君が盾になって死んだ結果、その誰かが一生苦しむ羽目になってもかね?」
「生憎とオレのギルドの連中は苦しむ奴が少ないんでね」
 グムンドの言い分は尤もであるし、スフールも頭では分かっているのだが、どうしてもあの時の事が頭をちらついて勝手に体が動いてしまい、結果的に大怪我を負ってしまう。その度パチカは内臓が見られるかどうかを嬉々として尋ねてくるし、アラベールは指を差しながら笑うし、ペルーラに至っては一瞥するだけで特に何の反応も無い。そういう人間なのだと短い共同生活の中で知ったから麻痺してしまい、あまり反発心も持たなかったが、常識人であるラシャが加入してきた事により礼を言われたり無茶をするなと怒られる様になり、彼女の反応がまともなのだと正常な思考に戻れた。
 ただ、ラシャもアラベール達に自分と同じ対応をしろとは強要しなかった。世の中にはその様な者も居るのだろう、と、最初こそ戸惑っていたものの、それはおかしいと言う事は無かった。ただ、アラベール達を庇って深手を負い、笑われているスフールを労う事はよくあった。彼女はモノノフと呼ばれる、イクサビトの中でも勇猛果敢な戦士であるから、アラベール達への当て付けではなく純粋に称賛をする為に声を掛けてくれていた。ラシャも己の肉体を犠牲にして敵に攻撃をする事があり、ある意味スフールに似ていた。
 だから、ラシャ以外の三人を庇って命を落としたとしても、馬鹿な奴だと言われる事はあれども悲しまれたり死を惜しまれたりするとは思えなかった。本当に彼らにはそういう心が欠けているからだ。
「そうかな。つい最近の手紙に、敵の魔物の自爆から庇ってくれたがあの馬鹿は死にたいんだろうかと書かれていたが」
「は……?」
「アラベール君と二人で後ろから援護していたパチカを庇ってくれたんだろう? 相変わらず無茶ばかりするからもやもやするんだそうだよ。
 庇ってくれる誰かの背を見続けた事なんて無かったから、今までずっと盾として怪我をし続けた君を見て、何か思う所があったんだろう」
「………」
「君が変えてくれた。少なくとも私はそう思っているよ」
 グムンドが言った、自爆から庇ったというのは、揺藍の守護者が頭部のみになった後に自爆したその爆風から庇った事を指しているのだろう。その時も確かにスフールは結構な怪我をしたが、パチカは相変わらずな手当てをしながら坊やほんと馬鹿だなと笑っていたから、そんな事を考えていたなどとは思わなかった。呆然と立ち尽くすスフールをよそにパチカは一向に目を覚まさず、見られなくて良かったと思うべきかどうか、スフールには分からなかった。



 グラスに注いだ透明な液体を眺めてから、口に僅かに含む。口の中でその液体を転がし、舌への刺激や口内に広がって鼻に抜けていく香り、甘くも感じるがしっかりと辛く感じる味を堪能してから臓腑に流しこむ。造りたてだからかなり荒っぽいが、熟成させれば美味くなるだろう。空の小樽に注ぎながら、スフールはそんな事を考えた。
 宿屋の台所を夜中に借りたスフールが自前の蒸溜器で造っていたのは、ウイスキーだった。タルシス郊外にある蒸溜所に時折足を運び、モルトマン達と顔見知りになっていた彼は、頼み込んでモルトを分けて貰い、今こうやって蒸溜したものをボトルに詰めている。蒸溜所のオーナーは訪れ始めた頃こそ渋っていたものの、フロアモルティングを手伝ったスフールの手際の良さと慣れた手付きを見て、今では冒険者辞めてうちに来いとまで言ってくれていた。
 故郷にある蒸溜所の末っ子であるスフールは、幼い頃から家業の手伝いをさせられていた。思春期に入り体格が良くなった彼は、ウイスキーを造る上で一番重要で一番過酷な作業である、大麦を発芽させてモルトを造るフロアモルティングという工程を手伝わされていた。フロア一面に広げられた大麦を約四時間置きに大きな木のモルトシャベルで撹拌する作業で、まだ少年と言って良い年頃のスフールには地獄の様な仕事だった。
 その実家から、スフールは追い出された。元から粗暴者であった彼は家族にとって厄介者でしかなく、自分で勝手にモルトを造ってウイスキーを造ってしまった事を必要以上に糾弾し、小さな荷物一つ持たせて放り出したのだ。子供の頃から唯一可愛がってくれた姉はこの時も庇ってくれたのだが、迷惑をかける訳にはいかないからと、スフールは自らの意思で出て行った。
 そういう経緯があって放浪していたスフールは、風の噂で世界樹の事を知り、タルシスへやってきたのだ。初めは小金が稼げたら良いかな、などという単純な目的であったのだが、いつの間にか大勢の者達の命運をかけた戦いを明日に控えた戦士となってしまった。人生とは本当に奇妙なものだ。そんな事を思いながら、スフールは慎重に小樽にウイスキーを注ぎ込んでいく。
 スフールが蒸溜所のオーナーに頼んで造らせて貰ったモルトには、ピートを焚きしめていない。というより、ピート自体がこの近辺には無い。だからスフールが故郷を遠く離れて一番驚いたのは、ウイスキーに故郷の周辺一帯のものには必ずある独特なフレーバーが無い事だった。その代わりに、その地域で伐採出来る樹木で作った樽に貯蔵してまろやかな風味と香りを出している。外に出なければ分からない事は本当に山程あると、その時初めてスフールは家を追い出した両親と兄に感謝さえ覚えた。風止まぬ書庫で出会った帝国兵が外の世界は分からない事だらけだと楽しそうな口調で言っていたが、あの兵士もこういう気持ちだったのだろう。
 ウイスキーを注ぎ入れた樽は両手で持てる程の本当に小さい樽で、蒸溜所がウイスキーを貯蔵する樽を発注している工房を拝み倒して作って貰った。自前の蒸溜器ではその樽五つくらいの量しか造れなかったが、実家で試しに造ったウイスキーは全て捨てられてしまったから、一つは姉に送ろうと思っている。両親に捨てられるかも知れないし、姉がきちんと保管して熟成させてくれるかも知れない。異国の地で造られたシングルモルトだ、堪能して欲しかった。二つ目はいつも美味い食事を提供してくれたこの宿屋のオカミへ。三つ目はいつも酔っては他の冒険者と喧嘩をして調度品を壊してしまい、迷惑をかけた孔雀亭の女主人へ。四つ目は全幅の信頼を寄せてくれた辺境伯へ。それぞれの樽の行き先の者達の顔を思い浮かべながら、スフールは丁寧に栓を嵌め込んでいく。
 そして、五つ目は。
「なー、もう出来たなら飲ませてよ」
「……ウイスキーは熟成させなきゃ美味くならねえんだよ。このままじゃ荒すぎるんだ」
「少しで良いからさあ。一杯だけちょーだい」
 蒸溜する所が見たいからと駄々をこね、作業の邪魔をしない事を条件に見学を許したパチカが隅に座り、出来上がったばかりのウイスキーを所望している。蒸溜に限らず自分の作業を邪魔される事を嫌うスフールは、たとえパチカであっても嫌であったので、今の今まで黙って見学していてくれたのは有難かったし多動なこの男の性質を考えればじっと出来ていた事は僥幸に近い。それを考えれば一杯程度なら良いかと、スフールは詰めおおせなかったウイスキーをグラスに注いでやった。
「へへへー、やったー」
 ほらよ、と手渡されたグラスを受け取ったパチカは、いつもの様な子供っぽい無邪気な笑顔を浮かべていて、とても明日死地に赴く者とは思えない。呑気にウイスキーを蒸溜していたスフールも同じ事が言えるが、それにしてもパチカの表情は普段と全く変わらないし、緊張や恐怖、不安の色など一切見受けられなかった。それらの感情が胸の中で渦巻きそうになっていたスフールにとって、普段通りのパチカの態度や表情は拍子抜けさせたし、肩の力を抜いてくれた。
 彼らは明日、帝国皇子バルドゥールの手によって目覚めた巨人を止める為に戦いを挑みに行く。巨人は世界樹が存在した場所から動く事無くそこに佇んでおり、恐らく取り込まれた巫女が御しているのだろうと辺境伯は言った。ならば巫女には今暫く留めていて貰い、皇子との戦いで消耗したメディカやアムリタなどの補充や負った怪我の手当て、疲労回復の為の休息をとる事にした。眠れそうになかったスフールは怪我の手当てを済ませた後に蒸溜所に行き、約束していたからとモルトと小樽を買い上げて、無心になって蒸溜していた。
「へえー、ほんとだ、物凄く荒っぽいし何かひりひりする」
「だろ。それがこの樽の中でしっかり熟成されてまろやかで甘味のある酒になってくんだ」
「荒っぽい坊やも樽の中で熟成されたら?」
「あのなあ……」
 ちびりと飲んだ、まだ透明なウイスキーに眉を顰めつつも感心した様な声を上げたパチカは、スフールに平然としながらそれなりに失礼な事を言った。ただ、パチカ本人に悪気などなく、これが素なのでたちが悪い。スフールは苦虫を噛み潰したかの様な顔をしながら、栓を嵌めた小樽をパチカに寄越した。
「その味覚えとけよ。何年か……ん……、十年もすれば良い色が付いて美味くなってる」
「くれるの?」
「やるよ、じーさんに預けて十年後に飲め。ウイスキーは甘い食い物と相性良くてな、お前が好きな菓子と一緒に飲むと良い」
「うん」
 小さいがずっしりと重たいその樽を貰ったパチカは、グムンドの事を言及されてきゅっとはにかんだ様な笑顔になる。その顔に、スフールは悋気を起こしたものやら罪悪感を抱けば良いやら分からなかった。
 グムンドがタルシスを訪れ、パチカが眠る側で話をしたスフールは、その時点でグムンドがもう長くはないという事を聞かされていた。もって一年、早ければ半年程度だと言ったグムンドは、体力がある内にとパチカには黙って二年程前からタルシスから程近い村に移り住み、辺境伯の元へ定期的に訪れていたそうだ。郵便を取り扱う者にも手配済みで、パチカの手紙は彼らの故郷ではなく移り住んだ村へと届けて貰っていたらしい。パチカの故郷に送られていたならゆうに一月半は届くまでにかかるが、あの時のグムンドは既に揺藍の守護者の自爆からスフールがパチカ達を守った事を知っていた。隣村に住んでいたならパチカが出した手紙の内容を全て知っていた理由も納得出来る。
『迷惑かも知れないが、私が居なくなった後、パチカの事を任せても良いだろうか。
 この子は一人にしておくとまた元に戻ってしまう気がする』
『……逃げられる予感しかしねえんだけど』
『追い掛けてやってくれるかね。若い君に頼むには、あまりにも酷だが』
『………』
 グムンドは、恐らくスフールの想いに気が付いていた。否、ひょっとしたら気が付いたパチカが面白がって手紙に書いていたのかも知れない。それは分からないが、スフールの若さ故の情熱を巧みに利用した頼みではあった。卑怯だと分かっていて尚、そう頼んだのは、幼稚とも言える残虐性を持つパチカの事が心配であったからなのだろう。自分の祖父程の年の男に深々と頭を下げられてはスフールも首を横に振る事が出来ず、頷いてしまった。
 嬉しそうに小樽を眺めながら、じーちゃんが好きなマドレーヌと一緒に飲もうかなー、と言っているパチカは、死への恐怖など微塵も見受けられない。そのパチカを見て拭い去られたとは言え、まだスフールの胸中には残滓が底に沈んでいる。明日死ぬかも知れないなら心残りが無い様にしたいと思った次の瞬間、スフールは台所に置かれていたペンを使い今日の日付を小樽に書き込んでいるパチカに、ずっと黙っていた事を口にしていた。
「お前が好きだ」
「知ってるよ。だから?」
「……あのなあ、オレだって男だぞ!」
 視線さえ寄越されずにあっさりとその告白を流され、思わずパチカの肩を掴んで怒鳴ってしまったスフールは、しかしパチカが素早く突き出し目の前で寸止めしたペン先に息を飲み、そして彼が無邪気な笑顔で言い放った無慈悲な言葉に唇を噛んだ。

「うん、だから無理」

 その言葉はスフールの胸に深く刻まれ、彼は沈黙の後に長く重たい溜息を吐く。視界に入った小樽に踊る日付の文字は、相変わらず読めない程に汚かった。



※※※



 タルシスで綴った冒険鐔は、そろそろ遠い記憶になりつつある。巨人を倒しに向かった前夜に造ったウイスキーは、味気ない無色から美しい琥珀色の化粧が施される程に年月が流れた。
 辛くも巨人を倒す事に成功したスフール達であったが、次々と襲い来る楽園への導き手の攻撃から身を呈して皆を庇い続けたスフールはペルーラとラシャが剥き出しの精髄にとどめの一撃を叩き込んだ姿を見届けた後に倒れ、その後半月程昏睡状態に陥った。タルシスの病院に担ぎ込まれたバルドゥールよりも長く意識が回復しなかった彼は、それでも奇跡的に何の後遺症も残らず目を覚ます事が出来た。その時、たまたま様子を見に来ていたらしいパチカからお前起きるの遅いよと随分不機嫌そうに頭を叩かれた。スフールは未だにあの時叩かれた事を根に持っている。
 そのパチカは、全ての冒険を終えた後にグムンドの元へと行った。グムンドがタルシスの隣村に移り住んでいると辺境伯に伝えられたのは故郷に戻ると報告しに行った時で、伝えるならそのタイミングにしてくれとグムンドから頼まれていたと聞いたパチカはその足で飛び出し、そのまま駆け付けた。
 グムンド本人から余命は殆ど無いと聞かされた時も、そして彼が静かに息を引き取った時も、パチカは声が枯れる程に泣き、遺体は火葬して灰を故郷に撒いて欲しいとのグムンドの遺言を果たしてから忽然と姿を消した。スフールはパチカの故郷までは連れ添ったのだが、行方を眩ませた彼を追ってかなり長い放浪をする羽目になった。普段から歩くのは遅かった癖に、逃げ足だけは速かったらしい。
 その数年の放浪の中でスフールが一度立ち寄った彼の故郷で、両親や兄は相変わらず良い顔をしなかったが姉だけは弟が立派な体付きになった事を豪快に笑いながら褒めてくれた。何でも姉は、スフールが家を追い出される切っ掛けになったウイスキーを両親から全て破棄された際、こっそり少し残して保管しておいてくれたらしく、自分で作った樽の中で熟成させており、それを供してくれながらお前良いセンスしてるよと褒めてくれた。そして、スフールが送った小樽もきちんと自室に保管しており、自分の子供が成人したら一緒に飲み交わすつもりだとも言ってくれた。
 たったこれだけの量を造った訳じゃないだろ、好きな奴にでもやったんなら一緒に飲めよ、とからかった姉は、昔から変わらず勘が鋭かった。曰く、この味なら自信を持って良いとの事であったが、スフールにしてみれば相手は物に釣られる奴じゃないと思っている為に、苦笑いしか返す事が出来なかった。
 スフールがやっとの思いでパチカを見付けた時には、彼が行方を眩ませてから十年以上は経っていた。散々振り回してくれた癖に、最終的に見付けたのはグムンドが最期を迎えたあの村であったのだから世話は無い。スフールが何とも苦々しい気分で再会した時、パチカは自分が追い掛けられていた事など全く知らぬ風に、何だ坊や久しぶりと言ってのけた。
 タルシスに居た当時十九歳だったスフールが三十路も半ばに突入しようとしているのだからパチカも同様に年を取っている筈であるのに、あまり老けていないと感じられてしまうのは、元から少し童顔であるせいなのだろうかとスフールはぼんやり思う。言いたい事や聞きたい事は山程あったというのに、機嫌が良さそうにマドレーヌを齧りながら件のウイスキーを飲んでいる姿を見ると、萎んで消えた。
 再会を祝って栓を開けた、というよりは、グムンドが余生を送ったこの家に置いて行った小樽の存在をパチカが思い出し、飲み交わす事になったのだが、ごく自然にパチカがマドレーヌを買ってきた事はスフールの頬を多少緩ませた。ウイスキーは甘味と相性が良いと教えた事をパチカが覚えていた証拠だったからだ。
 そのウイスキーを口の端から零したパチカに自然と手を伸ばしたスフールは、顎鬚に滲みた液体を指で拭い、無防備且つ無邪気にありがと、などと礼を言った目の前の男に、覚えているかどうかは分からないがと思いつつも指先についたウイスキーを軽く音を立てて吸い上げてから言った。

「俺も男だぞ?」
「うん、だから無理」

 無慈悲なその即答に、スフールは思わず苦笑する。姉は自信を持って良いと言ってくれたが、やはり物には釣られてくれなかった。それで良いとスフールは思う。追い掛けて追い掛けて、それでも捕まえられない男を好きになってしまったのは、他でもない自分なので。
 巨神との戦いの前夜に告白した際に眼球にペンを寸止めされた事を思い出せば、無理と言われただけで終わったのだからマシな方だろう。そんな事を思いながら、スフールは得も言われぬ苦笑のまま視線を小樽に移す。そこには見覚えのある、他人では読めない程の汚い字で日付が書かれていたのだが、今でもスフールには読む事が出来た。相変わらず汚ぇ字を書くんだろうなと自分もグラスを傾けたスフールは、しかしパチカの言葉に手が止まった。

「でも酒造ってくれておれの字が読めるなら、坊やを助手として置いてやっても良いなー」

 彼は、現役で医者だ。今ではこの村で住民相手に、時にはタルシスに赴いて病院で非常勤の医者として働いている。元からずぼらなパチカであるから、身の回りの世話をしてくれる者が居るならそれに越した事はないと言いたいのだろう。いつまで経っても人を小間使いとしか見ない奴め、とスフールは心の中で毒づいたのだが、嬉しいことに変わりはなくて、緩んだ口元を見られない様にグラスを呷った。
「んじゃまあ、手始めに、お前の読めねえカルテを清書したら良いんだな?」
「うん、任せる。軽く百人分くらいあるけど」
「そりゃー……助手を務める期間は長くなりそうだなあ……」
 全く悪びれもせずにさらりと言ってのけたパチカに、スフールはやはり苦笑いしか浮かべる事が出来ない。あの悪筆と格闘する日々がまた始まるのだと思うと頭が痛いやら楽しみやらで、彼は頬肘をつきながらウイスキーの香りのする深い溜息を吐いた。


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