手紙

 その手紙を読んだ時、ジャスパーは驚いたやら呆気にとられるやらで面妖な顔をしてしまい、暫くその手紙の内容を引き摺って二、三日仕事でミスをした。せっかちで何の考えも無しに飛び出す傾向がある彼なので同僚からは小突かれる程度で済んだけれども、本人にとってみれば動揺してる証拠にもなった。動揺、と言うべきか、意外、と言うべきか。まさかそういう内容を差出人が書くとも思っていなかったのであるが、あの人そういう事も言う人だったのか、と妙な気分になったのは間違いない。
 差出人は、昔世話になった事があるタルシスの医師のクロサイトである。諸事情により体積が随分と大きかったジャスパーは彼の指導の元、適正な体格になれたし視野が開けた。厳しく容赦ない医者ではあったが間違った事は一つも言わず、また患者達が挫折する程の事は一切やらなかった。いつも患者が挫折しそうなギリギリのラインを攻めてくる辺り、心理学なども学んでいたに違いない。……否、それが素であったのかも知れないが、とにかくあの医者の元で心身ともに健やかになった者は多い。
 そんなクロサイトは、ジャスパーが知る限り頑なに拒否していた辺境伯の冒険者復帰の要請を引き受け、彼に指導を受ける為にジャスパーがタルシスに居た頃には既に開放されていた風馳ノ草原の封印の奥の更にずっと奥に広がっているらしい絶界雲上域という大地の探索をしているそうだ。ずっと気に掛けていた、自分の後輩にあたるギベオンという気弱な男をクロサイトの元に治療目的で送り出してやっているが、彼も同行しているのだと言う。クロサイトの双子の弟であるセラフィが結婚したという報せをギベオンから貰い、驚きのあまりタルシスまで祝いを奏上しに行った時に久しぶりに会った後輩は随分と引き締まった、精悍な顔付きになっていて、ジャスパーも心の底から喜んだし涙声になった程だ。その時既に丹紅ノ石林を探索していると聞いて意表を突かれたと言うのに、数カ月後にはもっと奥まで進んでいるというのだから驚き以外の感情が無い。
 ジャスパーが知っているクロサイトは、常に冷静であり自分より他を優先し、患者を危険に晒す様な真似は絶対にしなかった。一度だけジャスパーが深霧ノ幽谷を覗いてみたいと冗談で言うと、連れて行ってやっても良いが私の命の保証は出来ないし即ちそれは君も死ぬという事だが構わんかね、と普段よりも冷たい声で言われた。碧照ノ樹海であれば何とか患者の安全は守れても深霧ノ幽谷では守れないと、あの手練の男が判断したのだ。だから、ジャスパー含めてこれまでの患者は深霧ノ幽谷へ踏み入った事が無かった。
 だが、そんなクロサイトの姿勢を崩したのがセラフィが妻を迎える為に手を貸す代わりにと辺境伯が出した幽谷の調査の依頼であった。クロサイトは幽谷から先の探索はしないという条件を出した様であったが、なし崩し的に結局探索を続ける羽目になったらしい。しかもそれにギベオンが噛んでいるという事を知って、ジャスパーはギベオンの成長の速さにただただ唖然とした。後で知った事だがギベオンはセラフィが妻を迎えた際に随分と力を貸したらしく、ずっと嫌がっていた家名も使ったのだと言う。恐らく両親の抑圧の元で育った彼は、外に出て本来の姿を取り戻しただけなのであろうが、ジャスパーは定期的に送られてくる手紙に目を見開く事しか出来なかった。
 そう、ジャスパーに届くのはギベオンからの手紙が圧倒的に多かった。クロサイトから送られてくるのは精々差出人が書かれていない絵葉書で、それも頻繁ではなく時折思い出したかの様に届く程度だ。なのに、改まった様に送られてきたその手紙の差出人にまず驚き、見覚えのある少し癖が出ている字で書かれた内容に更に驚いた。


『私は生涯の中で、最も良い友に出会えた。
 弟ほど分かり合える者も居ないと三十数年生きた中で思っていたのだが、血の繋がりが無くとも、また年が離れていても、
 共感し、ぶつかる事もあれどお互いを尊重し、肩を並べられる者に出会える事が出来た。
 彼を私の元に送ってくれた君に心から感謝をしている』


 ……クロサイトとギベオンの間で何があったのかジャスパーは知らないが、常に他を優先する為に自分の大事な存在を弟以外で作ろうとしなかった、というより必要としていなかったクロサイトに生涯最良の友と言わしめたのは、恐らく後にも先にもギベオン以外存在し得るまい。クロサイトもセラフィも友人というものを必要とせず、互いの存在のみで生きている様な双子であったから、ジャスパーはまずセラフィの結婚をにわかには信じられなかったし祝いを奏上しに行った時に見た、妻となった少女を見るセラフィの優しい眼差しに口を閉じる事も忘れたまま呆けてしまった。ただ、その時点ではクロサイトは相変わらずであったから、この人は変わらないんだなと思っていたというのに、今回の手紙だ。


 まるでラブレターじゃん。
 俺じゃなくてギベオンに言えば良いのに、あの先生の事だから一言も言ってねえんだろうなあ。


 どうやら自分はあの双子にとって、特にクロサイトにとって人生を変えてしまう程の者を送り出してしまった様であるが、あの厳しい指導に対しての仕返しであり、礼であると思えば幾許か胸を撫で下ろす事が出来る。ジャスパーはこの手紙の事をギベオンに伝えるかどうか暫し考え、クロサイトが直接言う猶予を与えようと手紙を封筒に入れると、抽斗の中に大事に仕舞った。かつての師から送られた、後輩に対する恋情にも似た想いが綴られた手紙を、紛失する訳にはいかなかったので。