友人失格

琥珀色の溜息」その後、表ボス撃破後でどっちも自分のギルドの髭メに懸想してる上にギベオンは妻帯者 が前提
よそ様のお子さんお借りしてます



「それじゃ、無事三竜を倒せた事を祝って」
「お疲れさまー、かんぱーい」
 酒が入ったグラスを掲げ、お互いの疲労を労う様に薄く笑ったギベオンとユベールは、同じタイミングで酒を口に含んだ。ここ数日の間に自分達の力量をはかるため、敢えて二人だけで三竜討伐に出ようという運びになり、お互いのギルドの者達はあまり良い顔をしなかったが最後は彼らのどうしても挑んでみたいという言葉に折れた。無謀と挑戦は違うが、ギベオンもユベールもそれぞれ自分が所属するギルド――ギベオンは自分がギルド主なのだが――で数々の迷宮を踏破していった実力の持ち主だ。勿論それは自分の力だけではなく、ギルドの者達の力があって初めて成し得た事であり、それを二人はきちんと分かっている。否、それすらも探索の中でギルドの皆に教えてもらった。だから慢心するのではなく、純粋に己の限界を知りたいという事で意気投合し、見事に成し遂げたのである。
 赤竜、氷竜、雷竜の順で挑んだ彼らは今、丹紅ノ石林に居る。三竜全て倒したら二人で酒盛りでもしようとユベールが言い、ギベオンも快くそれを承諾したので、タルシスに戻らず石林に気球艇を降ろして酒盛りと洒落こんでいるのだ。食料はそれなりに持ってきていたし、飲水も困らない。彼ら冒険者によって開拓されていった大地は、人々に多くの食を齎してくれた。
 飛行している時に脚のある椅子に座っていると危険な事もあるので背の高い調度品は無く、故に座って飲みながら二人は三竜を倒したとは言え反省点はそれなりにあったと再確認した。お互い、体の頑丈さは最大の強みであるが、過信しすぎている部分があるというところが一番の反省点と言えた。まだいける、まだ大丈夫と思っていても確実に体は悲鳴を上げていたのは自分ではなく相手がよく分かっていたし、メディカを使うタイミングを誤った事も一度や二度ではない。グラスが空になっては手酌でアップルブランデーを注ぐギベオンと、カクテルを作って注ぐユベールは取り留めもなくそんな事を話した。
「でも、まさかユベールくんと竜退治に行くって思ってなかった」
「まあ、なあ。俺も初めてカレー屋でお前と会った時は全然思わなかった」
「いやあれは思う思わない以前の問題だよ……太ってたとかじゃなくて肉塊だったし……」
「肉塊って、あれもお前だったろ」
「そうだけどさあ……」
 そして空腹も満たされ酒も適度に入って僅かな沈黙が差し込まれる様になってきた頃、感慨深げにギベオンが漏らした感想にユベールも同意したのだが、その後に続いた言葉には奇妙な顔をした。まだそこまで年月は経っていないが、ユベールはギベオンと初めて会った時の彼の姿を今でも克明に覚えている。記憶力が良いとかそういう訳ではなく、本当にインパクトがあったからだ。ギベオン本人が今言った様に、確かに肉の塊と言っても差し支えはなかっただろう。それが二度目に同じカレー屋で相席した時にはごっそりと脂肪を削げ落として見事に痩せていたのだから余計に印象に残っている。
「カレー屋って言えば僕さ、あそこでユベールくんと知り合う前からユベールくんの事知ってたから、
 めちゃくちゃ席が混んでなかったら隣に座ってなかった」
「は? 何で? って言うかどこで知ったんだよ」
 そして四杯目を飲み干したユベールは、五杯目を作るべくメジャーカップにウォトカを入れながら怪訝な顔をした。彼がギベオンの存在を知ったのは正真正銘あの時が初めてであるし、宿の隣の診療所の医者の元に体積がかなりでかい患者が来たという事は聞いていたが見た事は無かったので余計にいつどこで自分を知ったんだという疑問しか浮かばなかった。そんなユベールに、ギベオンははにかんで見せた。
「実力を付けてきた城塞騎士の子が居るよってキルヨネンさんに教えてもらってたんだ。
 孔雀亭にクロサイト先生のお遣いもの届けた時にたまたま見掛けて、それで」
「へぇ……?」
「かっこいいなーって思って勝手に先輩って呼んでたから、隣座るのかなり緊張した」
「何だ、そりゃ……」
 ライムを搾ってジュースを作り、ウォトカを入れたシェイカーのボディにそれも注ぎ込んでストレーナーとトップを被せてシェイクしたユベールは、ギベオンのその言に多少呆れながらグラスにカクテルを注いだ。シェイカーは孔雀亭に飲みに行く金銭的な余裕が無い時に自分で作るためにとユベールが個人所有しているものだ。女主人の様な所作で作る事は出来ないが、何度も作ったのでそれなりに様になる程度にはなってきている。
「だって僕より絶対年上だと思ったんだ。しっかりしてそうだったし」
「してそうだったって、今はそう思ってないんだなお前」
「あ、いや、そういう訳じゃなく」
 銀嵐ノ霊峰ではないので氷は手に入らず、その代わり石林を流れる川に酒瓶を沈めてある程度冷やしているし、石林は深霧ノ幽谷があるせいか霊峰に比べると遥かにましだがそれなりに気温が低い。故に川から引き上げてそこそこ時間が経過しているというのに程よい冷たさのままのウォトカとライムの酸味が心地よい。スレッジハンマーと呼ばれるそのカクテルを好んで飲むユベールは、以前とは違う酒を飲んでいるギベオンをちょっとだけ睨んだ。
「お前の方がしっかりしてるだろ。嫁さん貰ったって聞いてびっくりした」
「あ、う、運が良かっただけだよぉ……」
 睨まれた事と言われた事に大きな体を縮こまらせて、ギベオンが語尾を小さくしながらごにょごにょと言う。童顔で子供っぽいところが見え隠れする割には帝国兵であった女を妻に娶ったと聞いた時、ユベールは目を丸くしてしまったものだ。帝国の存在が明らかになったのは最近の事で、つまり出会ってから僅か数ヶ月でギベオンはその女、モリオンという名だが、求婚して承諾してもらえたのだそうだ。モリオンを連れたギベオンとタルシスで擦れ違った時に驚きつつもおめでとうと言うと、それまで散々色んな人間に弄られたらしいギベオンがユベールくん優しいと泣きながら言ったのだが、すぐに泣く男は好かんとモリオンが言うと涙を止めたのはユベールの記憶に新しい。あれは尻に敷かれるに違いない。しっかりしていると言うよりはちゃっかりしているだな、などと思ったユベールは、アルコールに由来する赤ではない色に顔を染めたギベオンが傾けたグラスを指差した。
「ジン・バックばっかり飲んでたのにアップルブランデーとか、嫁さんが恋しいのか?」
「う……も、もう良いじゃん僕の事は」
「だってそれしか話す事無いだろ。新婚だもんな、そりゃ寂しいよな。よりによって男と何日も出掛けなきゃいけなくなったし」
「やめてよやめてよ、余計寂しくなるから」
「お、惚気か? 悪かったなサシ飲み相手が俺で」
「ユベールくん酔ってるでしょ、もう……」
 段々と絡み酒になってきているユベールに困った様に眉を寄せたギベオンは、ちみりとグラスの中身を飲んだ。最近は銀嵐ノ霊峰で採れるリンゴでブランデーを作る酒屋もあり、モリオンはそれを好んで飲んでいて、日を跨いだり数日の探索になる時は必ず白鑞のスキットルにアップルブランデーを入れて携帯していた。彼女は事情があって、もう探索に出る事は出来ないからだ。ギベオン達が探索に出ている時は、セラフィとペリドットの子供の面倒を見ながら診療所で帰りを待ってくれている。
 ただ、モリオンを思い出すという理由ばかりでギベオンはそれを飲んでいる訳ではない。もっと別の、誰にも分からないであろう理由があるのだが、たとえユベール相手であろうともそれを言う気にはなれなかった。
「タルシス出てもう……十日経つのか。寂しいだろ?」
「……さ、寂しいよ」
「そっちも?」
「………… ……ユベールくん、本当に酔ってるね」
 これまでにも何度か二人は酒を飲み交わしたが、その時々によってユベールの酔い方は変わった。笑い上戸になったり泣き上戸になったり、それこそペリドットの子供の様に突然その場で寝入ってしまったりとバリエーション豊かだった。その中でも困ったのは突然怒りだしたり暴れだしたりする事だったのだけれども、同じくらい困るのが今日の様に絡んでくる事だった。特に、今みたいに股間を指差してくる様な絡み方は。
「言ってなかったけど、僕達ベッドは同じだけど、その……そ、そういう事しないんだ。
 しないって言うか、出来なくて」
「……そっか」
 絡まれた時にムキになったりとぼけようとしても余計に絡まれるだけであると以前学習したギベオンは、素直に夫婦の営みは無い事を伝えた。出来なくはないのだがモリオンの体への負担が大きいため、基本的にしない方針を二人で話し合って決めたのだ。自分の体質のせいでモリオンを母親にしてやれない事はつらかったが、彼女も納得の上で承知してくれた。
 ユベールも、ギベオンの体質はとっくに知っているし時々痛い思いをしたから少しだけばつの悪い顔になって軽く頷く。帯電体質はギベオンのコンプレックスだと知っているのに、それが原因で好きな女も抱けないと本人に言わせるべきではなかったと、さすがに酔っていても判別がつく。だが、いつもと同じペースで飲んでいたのにすっかり全身にアルコールによる心地よい気怠さが広がっており、それは頭の働きを鈍らせた。善悪の判断が、曖昧になってきていた。
「じゃあ、自分でやるのか」
「ユベールくんと同じって思ってもらって良いよ、もう」
「へえ、後ろ弄るのも同じか?」
「えっ…… ……ちょ、ちょっと、ユベールくん、」
 低いテーブルに飲みかけのグラスを置き、大層なカミングアウトをさらりとしてのけたユベールは、ずいと迫られ動きが止まったギベオンの顔を見上げる様に覗きこむ。恥じらいよりも戸惑いの色が大きな翠の目は、体が大きい癖に小動物を彷彿とさせた。これなら、遊べるんじゃないか。アルコールで鈍った頭の奥で、ぢり、と欲望が焼けた錯覚がユベールを襲い、無意識の内に手をギベオンの股の上に乗せていた。
 そんなユベールの手を引き剥がしたものかどうか、ギベオンは咄嗟の判断が出来なかった。彼は昔から予測しなかった事が起こるとたちまちパニックになって思考が停止してしまう性質であったので、まさかユベールが盛るなどと思いもしていなかったせいで完全に体が硬直していた。ギベオンにはユベールを酔い潰してしまった前科があるから気を付けていたつもりであったし、孔雀亭で時折一緒に飲む時の量を考えても深酒と呼べる酒量ではなかった筈だ。しかしそこで視界に入ったユベールのグラスを見て、ギベオンははたと気付く。孔雀亭で飲む時と違い、今日はカクテルに氷が入っていない。即ち酒が薄まらず、ユベールにとって多少アルコールが強く感じられるものを彼はいつものペースで飲んでしまった。加えて、ここ数日の疲労の末の飲酒だ。すぐに酔ってしまった、というより飲み過ぎの量になってしまったのは当然の事と言えた。
「ま、待って、ユベールくん、あの、」
「何だよ、お前だって溜まってるだろ」
「それは……そうだけど……で、でも」
「キルヨネンのオナニーは見てやってた癖に」
「?!」
 膝掛け代わりにしていた前掛けを剥ぎ取り、器用にお互いのベルトを外そうとしているユベールを制そうとしたギベオンは、しかし間髪言われた言葉に再度体を硬直させた。一気に体中から血の気が引いて、褐色肌のその顔を真っ青にさせた。
 何を血迷ったのか知らないが、キルヨネンは以前ギベオンに迫ってきた事がある。本当に何を思ったのか未だにギベオンには分からない。しかしその時既にギベオンには心に決めた相手が居たし、故国では騎士同士の信頼や結託を深めるために妻とは違う契を交わす風習も僅かながらに残っているとは言え、キルヨネンとそういう関係になるのは考えられなかったので、押しに弱いギベオンでも辛うじて拒んだ。だがそれならと提示されたのが顔を見ながらの自慰、だった。食い下がられて結局折れたギベオンは人通りも殆ど無い路地裏で、長くはなかったとは言え気まずい時間を過ごす羽目になった。しかも、顔にかけられた。それを、全然気が付かなかったがユベールが目撃していたというのだ。真っ青になるほか無かった。
 勿論、ユベールだってそれは心底驚いたし戸惑いもあった。顔見知りと友人がそういう事をしているところを見て驚かない方がおかしい。だが薄暗くてもギベオンが不承不承というか、嫌がっているのは見て取れたけれども、ユベールは止めに入らなかった。入って良いのか分からなかった。その後ろめたさを今の今まで引き摺っていたというのに、あっさりと駆け引きの材料としてしまった。それが、新たな後ろめたさを生んだ。
「だ、誰かに……」
「心配するな、誰にも言ってない。これからも言わない」
「う……うん……」
「その代わり……な?」
「………」
「抜き合いだけだ。お互いあれだけ暴れたんだから、酒じゃ治まらないだろ。特に、お前もうジンがベースの酒飲んでないんだし」
「っ!!」
 我ながら随分卑怯な事を言っている、と、ユベールも自覚している。だが気まず過ぎて泣きそうになっているギベオンが何でそれを、と言いたそうに目を見開いて自分を見てきたものだから、胸の中の罪悪感は何かしらの感情――恐らく優越感だろう――に押し潰されて消えた。
 ギベオンが以前飲んでいたのは、ジンをベースとするジン・バックだった。ジンは、ギベオンが居候している診療所の主が好んで飲んでいるギムレットのベースとなる。副材料が全く違うカクテルではあるが、大本は同じジンだ。故郷を出る前に先輩に飲ませてもらったこのカクテルが美味しかったから、と孔雀亭で酒盛りをした時にジン・バックを飲みながらギベオンは言ったが、その内に診療所の主であり元主治医であり、師と仰ぐ様になったクロサイトが飲むギムレットと同じベースのカクテルを密かに楽しむ様になったのだろうとユベールは思っていた。彼は鼻が利くから気が付けたのだ。
 ユベールは、自分のギルドの主であるメディックのグレイアムに懸想している。同じかどうかは分からないけれども、ギベオンもクロサイトに淡い想いを抱いている。結婚した今でもだ。何かの弾みで、これも酒の席だったが、小声でカミングアウトしたユベールを慌てて孔雀亭から連れ出し、真夜中の広場のベンチで星を眺めながらギベオンも白状して、お互い苦笑した。随分と仲が良くなったのはそれ以降の事だ。
 そういう経緯もあったから、ギベオンが結婚したと聞いてなおの事ユベールは驚いた。クロサイトを吹っ切ったのかと思っていたが、どうやら今の反応を見る限りではそうでもないらしい。どうにか想いを断つためにアップルブランデーに変えたのだろう。それと分かると、何となく口角を上げてしまった。
 気が弱くて押しに弱いギベオンは、キルヨネンの時と同じで最終的には折れてしまい、のろのろとズボンを下ろした。確かに戦闘後の気の昂ぶりというのは時間の経過と共に薄れていくとは言え大物を三体倒したのだし、街に戻りもせずほぼ二人で行動していたものだから自分で処理するという時間が取れなくて、溜まっているというユベールの言葉を否定する事はギベオンにも出来ない。気温の低さと飲酒による体温の上昇の差は、ギベオンだけではなくてユベールの体にも小さな震えを齎した。
「……抜き合いって、その……じ、自分でするだけで良いの?」
「ん? 俺がお前の扱いても良いけど」
「し、しない方が良いよ。っていうか、僕に触らない方が良いよ。帯電するから」
「その帯電ってちょっと気になるんだよな。お前見てたらどんなのか分かるのか?」
「う、うん」
 自慰の際に上まで脱ぐ必要は無いのでズボンだけ脱いだが、下半身だけ裸というのも間抜けだ。そんな姿でユベールと向き合ったギベオンは、自分のペニスを指差したユベールに慌てて首を横に振った。戦闘の際の気の昂ぶりもそうだが、自慰や性交の際の性的興奮の帯電は、下手すると誰かを怪我させかねない。自分では上手く放電のコントロールが出来ないので、興味本位でユベールが触ろうものならどうなるか分からない。ユベールとしては自分も雷属性の攻撃を操る事が出来るので大丈夫なのではないかと踏んでいるのだが、それはとんだ見当違いだったと後で思い知る事になる。
 見られながらというのは思った以上に気が散るものだと、手の中で少しずつ膨らんでいく自分のペニスを可愛がりながらユベールは思う。座り込んだ状態は何となくやりづらくて膝立ちになると、余計に勃起していく様子が顕になった。気まずく目を逸らしているギベオンの、インナーをたくし上げて晒された腹は初めて会った時の彼の体の名残など全く残していない。
「肉付きは良い、けど、……締まった良い体になった、よな、お前」
「そ、そう……? 油断すると、すぐ太っちゃって、怒られちゃうんだけど……」
「お前の先生に?」
「そ、その言い方やめて、僕のだけど僕のじゃないから」
「どっちなんだよ」
 自分の好きな箇所は自分が一番よく分かっているが、男は大体亀頭が弱いものであるから、手を下ろす度に顔を覗かせる亀頭の先を指の腹でくすぐる。ユベールが手持ち無沙汰になった左手をテーブルの上のグラスに伸ばすと、ギベオンが飲み過ぎだよ、と恨めしそうに窘めた。だが少しでも酔いが醒めてしまうと自分のしでかした事の重大さに押し潰されて萎えてしまう様な気がして、無視して一口呷った。先程まで気が散っていたというのに、他愛のない雑談を交えていたら逆に見られているという妙な興奮を覚え、一瞬だけ目眩がして呷った酒が口の端から僅かに零れた。
 ユベールが飲み過ぎたからこんな状況になったとギベオンは思っているが、実際はキルヨネンとの現場に遭遇してしまった時からユベールには微かに欲があった。自分より押しに弱いギベオンを言い包めれば、少しは良い思いが出来るだろうと思った。ただ、素面の状態であったら理性が勝って持ちかける気にならなかっただけだ。別にこのためにわざわざタルシスではない場所で酒盛りをしようと持ちかけた訳ではなかったが、結果的にはそうなってしまった。
 淫猥な音とにおいが部屋の中に漂い、酒のにおいが消えていく。目を伏せがちにしながら息を上げ、手を上下させているギベオンの髪が心なしかさっきより立っている気がして、なるほど帯電するとああなるのかと、上がってきた息の中に短い喘ぎを混ぜながらもユベールは感心していた。体が近いせいか空気が振動している様な気がして、触るとどうなるのかという好奇心が湧き、つい、と顔を近付けてみた。
「だ、だめ、放電しちゃう、怪我しちゃうよ」
「死ぬ程、じゃ、ないんだろ? キスも出来ないのか?」
「し……したいの……?」
「……気分を盛り上げるため、さ」
 慌てて体を離したギベオンは、自分を見上げてくる鳶色の目が一瞬揺らいだのを見逃さなかった。ユベールの吐息は、確かに酒臭い。だが酒の勢いは確実に弱まってきていると、鈍いギベオンにも分かった。気分を盛り上げるため、ではなく、満たされぬ空虚から少しでも目を逸らすため、だろう。微かに開いたユベールの口から見える赤い舌が何とも淫猥に見え、また強烈に頭に蘇った誰かの口元が一気に頭の中の迷いを掻き消してしまい、ギベオンは自分が今かなり帯電しているという事も忘れてユベールの右肩を掴むと同時にその口を塞いでしまった。その瞬間。
「ん゛ん゛〜〜〜〜っ?!」
 静電気が弾けた時の音よりも遥かに大きな音が鳴り、肩から全身、それこそ脳天を貫かれた様な錯覚をする程の電流が全身を駆け巡り、目の前が真っ白になったユベールは塞がれた口の中で悲鳴を上げた。初めてホロウから間近で雷撃を食らった時の様な衝撃は、一瞬意識を失わせた。
 だが。
「あっ……」
「っ?!」
 触れた下半身に何か温かいものを感じたギベオンが口を離すと、ユベールのペニスから液体が漏れていた。通電によって失禁させてしまったらしい。自分の体に何が起こったのか、ギベオンよりも後に気が付いたユベールは尻もちをつきそうになったのだが、すんでのところでギベオンが両脇を抱えて支えてしまったので、よりによって晒してしまう羽目になった。
「あ、あぁ、やめ、やめろ、見るな、見るなっ……!」
 それなりの量の飲酒をしてしまったせいか、止めようと下半身に力を入れても膀胱はちっとも脳からの命令を聞いてくれず、また排尿の快感がぞわぞわと腰から背筋を伝わって逆に脳を侵し、ユベールは耳まで赤くして目に涙を浮かべた顔を両手で覆った。ギベオンが咄嗟に下に敷いた前掛けは見る間に尿を吸い、元から濃い抹茶色にじわじわと濃淡がついて地図を作っていく。漸く止まった頃には、前掛けがぐっしょりと濡れていた。
「……ご……ごめんね、痛かったよね、あの……」
「…………」
「だ……大丈夫……?」
 失禁してしまった羞恥と前掛けを台無しにしてしまった申し訳無さで、ユベールは暫く顔を覆ったまま動けずにいた。しかし何も言わない事を心配しておずおずと聞いてくるギベオンを指の間から睨むと、ひ、と小さく怯えた悲鳴を上げたので、半ば自棄で脅す様に言った。
「今ので萎えた」
「ご……ごめん……」
「さっきも言ったけど、俺、後ろも弄るんだ」
「う、うん」
「手伝ってくれるよな?」
「て……つだう、って…………」
「お前のこれ使って、俺のオナニー手伝ってくれるよな?」
 恐縮と恐怖ですっかり縮こまってしまったギベオンのペニスを握り、有無を言わさぬ様な低い声でユベールがそう言うと、ギベオンはまるで死刑判決でも食らったかの様に真っ青な顔になった。その顔を見て心が痛まなかった訳ではなかったが、それよりも先程の強烈な衝撃が駆け巡ったあの感覚がどうにも腰を震わせ、何より普段から煩わされている悩みを吹き飛ばしてくれる様な気がして、ユベールは引き下がらなかった。ガタガタと震えながら、ぎゅっと目を瞑って絶望する様に頷いたギベオンを見て、ユベールは机の上のグラスに手を伸ばして再度呷る。口に滑り込んできたそれはライムではなく、リンゴの香りが広がっていた。



 素肌に擦れるシーツは冷たく、三竜から受けてまだ完全には治りきっていない傷に響く。ユベールの体に走るいくつかのミミズ腫れは今日雷竜から受けた電撃によるものだが、右肩のミミズ腫れは先程ギベオンが触って放電された事によるものだ。つくづく左肩を掴まれなくて良かった、心臓発作を起こすところだったとどこか冷静な考えが頭を過ぎったが、ぐちゃ、という音と共に襲った快感に体を強張らせた。体の内側にぴりぴりと弱い電気が送られている様なその感覚が、触ってもいないペニスを反応させた。
「な、あ、……もう良い、から、……」
「……ほ、ほんとにするの……?」
「ここまでしといて、やっぱり止めようとか言う、なよ」
 樹海アロエの皮を剥き、中のゲル状のものを潤滑油代わりにして慣らしていたユベールの内部は、すっかりと解されて肉が蠢いていた。他人の指が予期せぬ動きで中を暴き、また刺激していく感覚は、自慰では得る事が出来ない。普段も指を挿入して自らを慰めていたし、虚しさこそ募れど性欲は満たされていたのだが、他人の指を知ってしまったこれからの事を考えたくなくなる。だから、何もかも忘れてただ快感を求めたかった。
 ギベオンの帯電は、体を大きく離さない様にしていれば先程の様な派手な放電にはならないらしい。もし本当にするなら僕の体がずっとくっつく事になっちゃうけど、と遠慮がちにぼそぼそと言ったギベオンに、何でも良いからさっさとしろと言うと、彼はどこか悲しそうな、苦しそうな、そんな顔を見せた。それもそうだろう。ユベールは、妻帯者に性交を強要してしまったのだ。
 そして、慣らされながら、ギベオンは男と寝た経験があると確信した。モリオンと夫婦の営みは無いと言っていたのにギベオンの手付きはぎこちないものの迷いが無く、女と違って男は受け入れる箇所が無い為に排泄器官を使うというのに慣らし方が随分手慣れていた。ユベールに痛みが無い様にと丁寧に前立腺を愛撫されたし、爪で内壁を引っ掻いてしまわない様に慎重に指を出し入れされたし、口でペニスを可愛がってくれた時など下手な娼婦より余程巧かった。失禁した後のペニスを口に含まれるのは恥ずかしいやら申し訳ないやらで止めさせようかとも思ったのだが、あまりに巧くて喘ぐ事しか出来なかった。ユベールがうっかり達してしまいそうになると、優しく亀頭の段差を指で輪を作って締められた。それは射精を封じる行為だ。ギベオンとしては射精させておしまい、としたい筈であるのに、ユベールが拒んで先を促したからだろう。
 そうやって丁寧に抱いているのか、それとも抱かれているのか、ユベールには分からない。分からないが、ギベオンが男同士での性交の経験者である事、そして自分が孔を使って自慰をしていた事は、確実に今夜のこの行為での体のダメージを大惨事のそれへと導かない。ただ、今はそんな事を考えるより早く快感が欲しくて、ユベールはねだる様にギベオンのペニスを握った。手の中のペニスは硬く、挿入には差し支えなさそうで、思わず生唾を飲み下してしまった。
「……あの……」
「何だよ」
「痛かったら言ってね。その……さっきみたいな放電はしない、とは、思うんだけど……」
「思わないって、経験あるんじゃないのか?」
「ぼ……僕、その…… ……ど、童貞……だから……」
「………」
 男相手に手慣れていると思ってしまう程の愛撫をした癖に童貞だと言ったギベオンに、嘘を言っている様子は見受けられない。なるほど、抱かれる側だったか、と一人納得したユベールは、受けた放電によって出来た腫れが疼いたのを感じた。他にも雷竜による同等のものがあるというのに、それだけが疼いた。
「……挿れる、よ」
「ん……」
 か細い声に承諾しながら頷くと、傷痕が多く残り引き締まった筋肉が覆う足を軽々と抱えられ、襞に押し当てられた硬いものがゆっくりと侵入してきて、ユベールは思わず体を強張らせる。指で慣らしてもらってどろどろになった内部は、それでも指数本の広さにしか拡張されていないので、無理矢理肉を割かれる様な錯覚にも見舞われた。指を使っての自慰はいつもの事であったが玩具を使った事は無かったので、割って入ってくる熱い塊が苦しい。だが、痛みは無かった。否、あったけれどもそれも快感に変換してしまった。
 しかし、あまりにもユベールの内部が狭いためにギベオンも中々腰を押し進める事が出来ず、苦しそうな顔をしている。それを見て何とか力を抜こうとしたユベールに、ギベオンは足を抱えたまま体を近付け覆い被さる様な体勢で言った。
「あの、ね、ユベールくん、……少し、息張ってみて?」
「は、ぁ……? 入、りきらない、だろ、それじゃ」
「良いから。苦しい、かも、しれないけど……ちょっと、お腹に力、入れてみて……」
「……… ……っ、う、ぁ、あ、あぁ……っ」
 半信半疑ながらも、言われた通り息を詰めて腹に力を入れると、途中で止まっていたペニスがずるりと奥まで差し込まれ、ユベールは目を見開いた。挿入された事のある経験者の知識、などと考える余裕が無く、膝を抱えられて持ち上がった尻にギベオンの足が触れる。全部、入ってしまった。……入ってしまった。
「大、丈夫……?」
「……平気、だから、……来い」
「ゆっくり、するね……痛かったら言って」
「良い、ゆっくりなんて、するな、来い」
「で、でも」
「くれ、早く」
 気遣うギベオンの言葉を遮る様にねだったのは、快感が欲しかったのもある。だがそれ以上に、自分の意思とは言え初めてを好きな男以外に与えてしまったという、胸を満たした何とも言えない思いを掻き消して欲しかった。我儘も良いところだ。
 それでもギベオンはそんなユベールの我儘を素直に聞き入れ、腰を動かし始めた。内部が擦られる度に肉壁が捲られ、奥を突かれれば頭の奥がチカチカ光る。挿入によって興奮して帯電してしまったギベオンの体からは絶えず放電現象が起き、近付いたお互いの体の間で青白い光が走ってユベールの口から悲鳴を漏らさせた。
「ひっ、ぁぎっ……! ぅ、ぐ、……うぅっ」
 ばち、ばち、と音が鳴って、一際大きな音が鳴ればユベールの肌の上に赤みを帯びた筋が刻まれていく。その度に手を回したギベオンの背中を引っ掻いてしまい、肉こそ抉らなかったが血を滲ませてしまった。だが謝る余裕は無かったし、逆に気遣って腰を止めようとしたギベオンを睨み上げてしまった。そうじゃない、止めなくて良い、と言いたかったのに言葉は喘ぎに変わって漏れ、ペニスからは体液が漏れた。その濡れそぼったペニスを滅茶苦茶に扱きたかったのだが、内部を引っ掻き回して頭の中までぐちゃぐちゃにしてほしくて、ユベールは耐える様にギベオンの背中に回した手に一層力を込めた。
「あぁ、ああぁ、い、善い、そこ、くれ、もっと、」
「こ、ここ……?」
「くあぁっ、い、善いぃ……っ!」
 樹海アロエのゲルのお陰でどろどろになったユベールの内部で、彼が求めるままにギベオンのペニスが暴れてくれる。初めて男を受け入れたとは思えない程のそこは、期待以上の快感に悦び蠢き、咥え込んだペニスを逃そうとはしなかった。ユベールはだらしなく喘ぎと唾液を漏らす口を開けたまま随分と満ち足りた気分で、汗を拭って自分の足を抱え直したギベオンを見上げた。
 突かれる度に弾ける火花の向こうに見えるギベオンの翠の目は、普段の穏やかさはなく揺らめいていた。少し涙目になっている様にも思える。妻に迎えた女としない、出来ないと言ったギベオンに脅す様に頼んで行為に及んだのだと、そこで再度自覚したユベールは、さあっと血の気が引いていくのを感じた。嫁さんの居る奴に何て事させてるんだ、という罪悪感が体を支配した。
「んっ、ぁっ?!」
 あまりの罪悪感にペニスが萎んでいきかけたのを感じた瞬間、別の快感が胸を襲って、ユベールはその大きな体を跳ねさせる。視線を自分の胸に投げると、ギベオンが乳首を吸ったり軽く噛んだりしていた。慣らしている最中も吸われたが、挿入されながら吸われると快感が倍にもなった様な気がした。妙な興奮を覚えて見ていると、視線を感じたギベオンが吸いながら見上げてきたので気恥ずかしくて目を伏せてしまった。だが恥ずかしかったのはギベオンも同じだった様で、吸い上げられた乳首に強い痺れが齎され、先程萎みかけたとは思えないペニスが勃起し射精を求めてぴくぴくと動いた。
「な、あ、……」
 このままでは本当に達してしまいそうで、ユベールはギベオンの背に回していた手を離し、指で自分の唇を軽く叩いた。キスしてくれ、と直接言えなかったのは、数回会った事があるギベオンの妻に対しての後ろめたさか、それとも何度か話した事がある診療所の主に対しての後ろめたさか、ユベールには分からない。それでもその後ろめたさは、ぱち、という音と共に優しく重なった唇の前に消えた。ユベールの体格はそれなりに大きいが、ギベオンはユベールより少し大きいので本当に覆い被さる様になる。それと同時に鈍くなったギベオンの腰の動きが焦れったく、ユベールは誘う様に腰を揺らしながら上体を起こし、夢中で舌を絡めた。寝台に雪崩れ込む前に呷ったアップルブランデーのにおいはまだ口中に残っており、そのにおいを分け与える様にユベールが唾液を送り込む。すると、大きな体をぶるっと震わせたギベオンがユベールの体を引き剥がした。
「も、もうだめ、出そう」
 切なげに限界を告げた声は、やはり少し幼く聞こえる。同い年とか本当かよ、と、ユベールは何度思ったか知れない。しかし、そんな幼さが残る男に抱いてもらっている上に、このまま中で出させたらどうなるのかと欲情しているのだから世話は無い。挿入だけでもこんなに痺れて、放電の痛みすら快感になっているというのに、内部での射精など考えるだけでぞくぞくする。
「ま、て、抜くな、そのまま来い」
「えっ……で、でも」
「良いから来い、抜くな!」
 腰を引こうとしたギベオンに、ユベールは半ば怒鳴る様に叫んで足で体を絡めとる。睨み上げた先のギベオンは困惑の表情を浮かべていたのだが、ユベールの目には別のものが映って一瞬息が止まった。
「ユベールくん、」

 ――ユベールくん

 切羽詰まったギベオンの声と、彼の向こうに見えた軽薄な笑みの男の声は、似ても似つかない。それでも、イントネーションや発音の速さ、耳に響く心地よさは似ていた。あの男の事を一時だけでも忘れる為に抱かれたというのに、少しも忘れる事は出来なかった。

 ――ああ、俺はなんて馬鹿なんだ。

 忘れる事など出来る筈がないと最初から分かっていたというのに、押しに弱いというところにつけ込んで、妻帯者であるギベオンに無理矢理自分を抱かせた。心の底から拒みたかっただろうに、男はあの診療所の主以外知らぬままで居たかっただろうに、それでもギベオンはユベールの体を労りながら優しく口付けまでしてくれた。俺はなんて事をしたんだ、と、ぼやけた視界を閉ざしたユベールは、ギベオンの体に足を絡めたまま彼の首筋に顔を寄せる。そこに、想い人のにおいは無い。だが、微かなざらつきが肌に齎された。酒を飲んで寝るだけのつもりであったギベオンは鬚をあたっておらず、そのざらつきでさえユベールの胸を抉る。あの人も、顔を寄せるとこんな感触がするのだろうか。そう思うと遣る瀬無かった。
「……ぉ……、ベオ、ベオっ……来い、来てくれ、ベオ、俺の中に、」
「ふ、あ、ぁ、あぁだめ、いく、ユベールくん、ユベールくんっ」
「はぁ、ああ、ああぁぁっ………!」
 意趣返しのつもりで普段は呼ばない愛称で呼べば、ギベオンもユベールではない男を思い出したのか、紅潮させていた顔を首まで赤くして頭を振った。そしてユベールの名を呼びながら放電し、そのまま達してしまった。腹に流れ込んできた精液すら電気を帯びている様な気がして、ユベールも下半身から頭の先まで一気に貫いた快感により、ギベオンの腹の上に精を吐いた。
 荒い息を吐きながら、ああ後始末が面倒臭そうだな、などとぼんやり考えたユベールの体を、ギベオンは抱きすくめたまま動かない。硬直した体は何を思っているのか、彼の顔が見えないユベールには分からない。ただ腹の中のじんわりとした温かさとギベオンの腕の温かさがひどく心地よく、ユベールはそのまま意識を手放した。



 気を失う様に眠ったユベールは、ギベオンが体内に吐き出してしまった精液を掻き出しても全く起きなかった。数日に分けたとは言え三竜を倒した後でかなり疲労が溜まっていたというのと、そこまで耐性もないのに度数の高い酒を飲んだせいもあるだろう。ユベールが痛飲して記憶が飛ぶタイプの人間なのかどうかはギベオンは知らないが、少なくとも今まで酒を飲み交わした時は酔い潰れ酷い二日酔いになったと聞いてはいても記憶が無いとは聞いた事が無い。だから、絶対とは言えなくともかなりの確率で今夜の事も明日目が覚めれば覚えている可能性は高かった。
 無かった事には、決して出来ない。ギベオンの背に深く刻まれた爪痕や首筋や胸元に吸い付かれた痕はユベールの目に触れない様に出来ても、彼の体にギベオンが刻み込んでしまった様々な痕は意識せずとも見えてしまう。消えるまでにそれなりの日数がかかってしまうであろう程度には、お互いの身体には盛大に情事の痕が残っていた。
 それでも名残を最大限に消すため、ギベオンはなるべく音を立てない様にしながら片付けた。体はかなりだるかったが、ユベールが目を覚ました時に本当に事に及んでしまったのかと疑ってしまう様にしたかった。失禁してしまった時のあの半泣きの顔を思い出すと、普段から締まりのない顔をしている自分と違って精悍な顔付きをしているユベールにあんな顔をさせてしまうのは申し訳ないとギベオンは思う。ただ、何度も言うが無かった事には出来ないのだけれども。
 通電で粗相をさせてしまった床を入念に拭き、汚れてしまったシーツは起こさない様に慎重にユベールの体を動かしながら替え、そのついでに体を丁寧に清めてやる。無数に走るミミズ腫れが、引き締まった体に痛々しい。一際大きなものは雷竜から受けたブレスによるものとは言え、ギベオンが与えてしまったそれも軽くタオルが当たると眠ったままのユベールが痛そうに身動いだので、自然に治るのを待つより適切な処置をした方が良いだろう。
 だが、いくらユベールに医術師の知識があるとはいえ、例えば背中などの自分では見えない箇所の処置は難しい。かと言ってクロサイトには見せられないし、ましてグレイアムなど論外だ。ギベオンが知っているメディックなどあと一人しか居らず、その男に頼むしかあるまい。放電によって無数に走ったミミズ腫れは雷竜の攻撃を受けたから、という言い訳をしても苦しいかもしれないが、あのメディックは普段からへらへらと笑ってはいても口は誰より固く、たまに往診に行くらしい花街の女達に絶大な信頼がある。幸いにも連絡用の伝書鳩は連れて来ているから彼を呼び出して頼めば良いだろう。一番の問題である自分の体に残る情事の痕は、メディカやネクタルなどをそれなりに消耗したからあと数日探索をすると言って街に戻らなければ良い。
 悪知恵だけは働く様になってしまった、と何とも言えない溜め息が出たギベオンは、麻袋に水気を含んだ自分の前掛けを押し込んでから床を拭いたタオルと汚れたシーツを畳んで入れ、散乱していた酒瓶を棚に仕舞った。ユベールと自分の体を清める方が先であったから、グラスを洗うための水はもう無いし汲みに行く気力が無い。麻袋を燃やしに行く気力はもっと無い。グラス洗浄は明日でも良いだろう、そう思いながら漸く酒盛り前と殆ど変わらぬ空間に戻し、ギベオンも眠るためにもう一台ある寝台に足を向けようとした。だが、その時。
「…… ……」
 本当に微かな、耳を澄まさなければ聞こえない程小さな声であったが、ユベールが譫言の様に誰かを呼んだ。目を向けた先の彼は悲しそうな、つらそうな、そういう顔をしていて、ギベオンは迷ったのだが結局仕舞ってあった酒瓶を取り出した。洗えていないシェイカーのボディにメジャーカップで計ったウイスキーとレモンジュース、スプーン2杯分の砂糖を入れ、ストレーナーとトップを被せてシェイクする。孔雀亭の女主人の様にはシェイク出来ないが、上手に作れなくても良いのだ。グラスに注ぎ、本来ならソーダと氷を入れるところではあるが、生憎と無いので水を少量入れてから一息でぐっと飲んだ。そして酒瓶を戻し、寝ようと思っていた寝台ではなく、ユベールが眠る寝台へそっと体を滑り込ませた。そうすると、体温につられたのかギベオンがたった今飲んだカクテルのにおいにつられたのか、ユベールは眠ったままもそもそと体を寄せて横たわったギベオンの胸に顔を寄せた。読みが当たって良かった、と、ギベオンは漸くそこで安堵する。
 先程作ったカクテルの名は、ジョン・コリンズと言う。グレイアムが好んで飲んでいるカクテルなのだそうだ。孔雀亭でユベールと同席した時に教えてもらった事がある。ユベールにとってこのカクテルのにおいは彼が慕うあのメディックのにおいである筈なので、せめてそのにおいで思い出して夢の中で腕に抱かれれば良い、とギベオンは思ったのだ。
「……替えの寝間着置いてて正解だったね。僕のにおいは邪魔だろうし」
 体をタオルで清めた後に着替えた寝間着は、以前洗ったまま気球艇に放置していたものであったから、いくら鼻が利くユベールであってもギベオンの体臭は感じ取れないだろう。汗や精液のにおいも、一応は清めたのだからそこまで気にならない筈だ。ウイスキーとレモンのにおいは、どうやらギベオンのにおいをかき消してユベールに届いてくれたらしい。
 すっかりそのにおいに安心したのか、先程までの表情を消して安らかな寝顔を見せたユベールに腕枕をしながらギベオンはぼんやりと考える。ユベールが推測した通り、ギベオンはこれまでに何度もクロサイトに抱かれた。だがその逢瀬は夢の中で、なのだ。不貞には間違いないだろうが、現実の話ではないし体に何の痕も残ったりはしない。だが、今日の情事は現実の事であり、体にはその痕跡がしっかりと残っている。紛れも無い、モリオンへの完全な裏切りだ。いくら性生活は見込めないからお前が誰を抱いても文句は言わない、その代わり私のあずかり知らぬところでやれと彼女がきっぱり伝えてきたとはいえ、後ろめたさは大きい。
 黙っていれば、モリオンは勿論クロサイトも気が付かないだろう。そもそも、クロサイトはギベオンにとやかく言える立場にない。嘘を吐く事は下手だが黙っておく事は上手いので、今日の事も死ぬまで他言するつもりはギベオンには無かった。しかし、黙っておく事はつらいだろう。それこそ死ぬまで己を苛む程の苦しみを負う事になるのではないか。それも彼女を裏切った報いだ、とギベオンは思う。
 そして、同じくらいつらくて苦しいのは、今まで生きてきた中で片手で数えられる程度しか居なかった友人を今日一人失くしてしまった事、だった。ユベールは自分よりも大人びているから割り切って今まで通りに接してくれるかも知れないが、ギベオンはもう友人として見る事が出来ない。勿論付き合いはこれまでと変わらず続けていく事は出来るだろうけれども、最早ギベオンにとってユベールは友人ではなく共犯者だ。同じ秘密、同じ後ろめたさを抱えて生きていく共犯者になる。それを迫ったのはユベールであるが、酒に酔って正常な判断が出来なかった彼と違い、大して酔っていなかったのに押しに負けて拒む事が出来なかったのはギベオンだ。
 どうする事が正解であったのかなど、誰にも分からないだろう。ひょっとしたらギベオンがとった――とらざるを得なかった――行動も、正解の内の一つであったのかもしれない。だが友人という関係を壊さないために、またユベールが必要以上に虚しさに囚われない様にするために、ギベオンは拒むべきであった、のだろう。つくづく自分が嫌になる、と嫌悪しても後の祭りだ。
「………」
 腕の中で眠るユベールは、それでもまだ静かな寝息を立てながら安らいだ顔をしている。幸せな夢を見ているらしい。彼は目覚めた時、どんな顔をするのだろう。驚くのだろうか。絶望するのだろうか。それとも怒るだろうか。嫌悪するのだろうか。自分に向けられるであろう感情を、ギベオンはまるで他人事の様に考える。


 ―――出来損ないのお前はたとえ人の三倍努力しようと人並みにすらなれやしないんだよ
 ―――人並みにもなれない落ちこぼれに誰かが友達になってくれるとでも思っているのか?
 ―――身の程を知れ、このクズ


 昔、友人が一人も居ない事を寂しがってつい漏らした言葉に対し、両親から投げられた罵倒が強烈に耳に蘇り、ギベオンはぐっと奥歯を噛み締める。人並みになれたかどうかは分からないが友人と呼べる人が、少ないながらも出来たと思っていた。もう縁を切った両親にも、心の中で見返してやれたと思っていた。だが、結局はこのざまだ。自分が情けなくて、ユベールにも申し訳なくて、でも眠りを妨げる事は憚られたので、ギベオンは息を殺しながら泣いた。か細い嗚咽は漏れ出してしまったが、ユベールの安眠を侵す事は無かった様で、それだけがギベオンにとって救いだった。