真夜中の散歩

 理由など様々だろうが眠れない夜は誰にでもあるもので、この日のギベオンもまた眠れず寝台に寝転がる事を諦め、各自持たされている合鍵を手に皆が寝静まっている診療所を抜け出した。小一時間程度散歩していれば眠気も訪れてくれるだろうと思っての外出は、普段はあまり見る事が無い深夜の街並みを楽しませてくれる。日中は賑わう広場にも人は疎らで、昼夜問わず探索をしている冒険者といえどもやはり夜は休んでいるらしい。
「……あれ?」
 ゆっくりとした足取りで広場を横切ろうとした時、設えられているベンチにランタンを置き、足を組んで寛いでいる男に目が留まる。見た事がある人では、とギベオンが思っていると、男も彼の視線に気が付いたのかこちらを見た。
「何だ、お前か。何やってんだこんなとこで」
「あ、あの、眠れなくて散歩してて……スフールさんこそ、何してるんですか?」
 ベンチに座っていたのは、以前知り合ったスフールだった。同業者である彼は、しかしギベオンと違って中々気性が荒く、正直言ってギベオンはあまり得意な人種ではない。だが凝視してしまったのは自分であるし、寛ぎの邪魔をしてしまったのも自分であるので知らんふりも出来なくて、ギベオンはベンチの方へと足を向けた。ベンチにはラベルの貼られていない酒瓶とカップが二つ、そしてクラッカーが入った小さなバスケットが置かれてあった。
「利き酒してたんだよ。実家から姉貴が酒送ってくれたから」
「へえー。でも何でまたこんな所で」
「宿だとあいつらに飲み尽くされちまうからな。折角の20年物をガバガバ飲まれたくねえし」
「20年物! そ、それは確かに……」
 着席を促してくれたスフールに会釈して、酒やカップを挟んで座ったギベオンは、スフールの返答に思わずランタンに照らされる酒瓶を見た。月はそこまで明るくないが、側に建つ街灯の灯りも手伝って、美しい琥珀色が目に満ちる。ギベオンの故郷はどちらかと言うと無色透明のウォトカが多く、ウイスキーやブランデーはあまり馴染みが無い。タルシスに来てから孔雀亭で飲む様になったくらいだ。
「オレの実家、ウイスキーの蒸留所なんだ。姉貴が7歳の時に初めて造りの現場見て少し手伝ったらしくてさ。
 その時の酒が良い味になったからって、送ってくれた」
「良いお姉さんですね」
「まあな。お前も飲んでみるか?」
「え、そんな貴重なもの飲んで良いんですか?」
「ここまで自慢しといて飲まさねえ訳にもいかねえだろ。水入ってたカップだから、これで良いか」
 どうやらスフールの姉が送ってくれたらしいウイスキーのご相伴に預かれるらしいのだが、しかしそんな貴重なものを飲ませてもらうのも恐縮してしまう。だがスフールは既に良い気分で酔っている様で、空のカップに3分の1程注いで氷もチェイサーも無くて悪ぃな、と言いながらギベオンに寄越してくれた。
 カップを少し回してウイスキーを回転させ、香りを上昇させて匂いを嗅ぐ。スモークされた様な香りが鼻に心地好い。そのまま口に含むと鼻を楽しませてくれた香りが口内に広がり、蜂蜜を思わせる様な甘さも舌を撫でていった。ギベオンはこのスモーキーフレーバーがあるウイスキーをあまり飲んだ事が無く、独特とは思うが美味いと思った。
「美味いですね。全然荒くないし、上品な甘さがあって」
「だろ? こんな良い酒を何の有難味も無く飲まれるのも嫌だからここまで出てきたんだよ」
「な、なるほど……」
 スフールのギルドの者達とは殆ど会話を交わした事が無いが、所属する医術師がクロサイトと顔見知りでたまに話す機会があるけれども、クロサイト以上に独特というか変な医者であるし遠慮が無い。あの男にかかれば、折角のこの良い酒も確かに無遠慮に飲み尽くされてしまうであろうとギベオンにも容易に想像が出来た。両手でカップを持ってにこにこしながら飲むギベオンに気分を良くしたのか、スフールは続けた。
「酒ってのはその土地の文化なんだ。その土地の水と食い物に合わせて造られるもんだとオレは思ってる。
 タルシスの飯ってさ、全体的に本当に美味いけど、くたびれて帰ってくる冒険者に合わせてんのか濃くないか?」
「あ、確かに。飲食店で出てくるのはそこそこ味付け濃いですけど、
 診療所のご近所さんからたまに差し入れで戴く飯って、ちょっと薄いんですよね」
「だろ。その元々の味付けに合わせてあるから、タルシスの酒って綺麗な味なんだよな。
 だから飲食店の飯にあんまり合ってない」
「ああー……なるほど、酒が飯に負けてるんですね」
「悪い事じゃねえんだけどな。元々はあんな濃い味付けの飯じゃねえんだから」
 組んだ足の上に肘をつき、クラッカーを齧りながら話すスフールは、意外な程によく喋った。酒が入っているせいなのかも知れないし、ギベオンが適度に相槌をうっているからかもしれないが、それにしてもギベオンにとっては意外だったし面白かった。ウォトカはどちらかと言うと度数が高くパンチが利いている酒なので故郷の濃い味付けの料理にも引けをとらないが、タルシスの蒸留所で造られているウイスキーは確かに綺麗な味わいであるので食堂などで供されるにはやや不向きな部分がある。ただ、孔雀亭で会話を楽しむにはタルシスの酒は好まれた。それをギベオンが指摘すると、スフールは適材適所だよな、と笑った。
「そろそろ帰るか。もう寝ないと朝起きられねえわ」
「あ、すみません、長々と」
「こっちこそ、付き合ってもらってすまねえな。酒が分かる奴で良かった」
「そう言ってもらえると、嬉しいですけど」
 月の傾き具合を見上げたスフールがそう言った頃には、もうバスケットの中のクラッカーは空になっていた。酒瓶の中のウイスキーも半分以下に減っており、つい飲み過ぎてしまったとギベオンも反省する。だが美味い酒にありつけたのは間違いなく僥倖であったし、たまには夜中の散歩も悪くないと思った。帰る方向は同じだからと肩を並べて歩き始めた二人は自分のギルドの他愛のない話をし、医術師に言及した時だけお互い奇妙な沈黙が流れ、曖昧に笑ってから別れた。