井戸の神様

 その日、スフールは小さな桶に半分ほどの水を入れてタルシスの街の近くを流れる川へと向かっていた。入っているのはお世辞にも澄んでいるとは言い難く、しかし腐っている訳でもなく、そこそこ濁った水だ。それを、今から川へと流しに行く。
 懇意にしているタルシス郊外の蒸溜所には、ウイスキーを貯蔵する為の木樽を作る職人が出入りしている。その職人の家にはもう使われなくなった井戸があり、いい加減潰そうという事になったそうで、その際に汲んだ水らしい。スフールの地元には無い慣習なのだが、この地方には井戸を潰す際に水を汲み上げ、その水を近くの川に流すのだという。井戸の神様を解放して大きな流れにお返しするのさ、と、井戸を潰した職人は言った。川は気球艇であればすぐそこ、なのであるが、徒歩となるとそれなりに距離があり、たまに世話になっている職人であったから、スフールがその流す役を買って出たという訳だ。
 ただ、もう一つ不思議な事を言われた。川に水を流したならば、街に戻るまで振り返ってはいけないとその職人は言った。何で、と尋ねたスフールに、職人ではなく蒸溜所のモルトマンが先に答えてくれた。曰く、振り返れば井戸の神様が憑いて戻ってくる、との事だった。
 スフールは神様というものを信じていない。しかし、自然の中の「何か」の存在は何となく「在る」のだろうとは思っている。そして、世話になっている者達がそう信じているのなら、そんなもんは居ないだろうなどと言うつもりが無い。だからこの桶を持って、川に流しに行っている。
 乾いた風が心地よい。広がる緑の大地は、スフールの故郷の短い夏を思い出させてくれる。木の上で姉が茹でてくれたトウキビを齧りながら、遠くに見える川の流れと釣りに興じる村人達を見ていたのはもう何年前であろうか。故郷を飛び出た身であるスフールには、あの景色がもう遠い。感傷的になりつつも、上空を行く気球艇や郊外に広がる畑で精を出す者達を遠目に見ながら川べりまで辿り着いた。
 周りに魚釣りをしている者は居なかった。本当にごく少量とは言えこんな濁った水を流すのだから気が引けるので胸を撫で下ろしたスフールは、よっ、と一声掛け声を上げて桶の中の水を川へと流した。あっという間に濁った水は澄んだ流れに溶け込み、上流の川幅が狭い所よりは緩やかな勢いでゆったりと下流へ流れていく。今までご苦労様、と口に出して井戸の神様とやらを労い、スフールは背を向けてまた街へと引き返していった。
 帰途では相変わらず畑作業をしている者や、畑の側で遊んでいる子供たちが無邪気な声を上げている。そう言えば他の奴らは何やってんだろうかとスフールは思ったのだが、全員自分よりも年上の大人なので気にしない方が良いかも知れない。休息日であるから自分が外出していても何も言われないであろうし、そもそもスフールが今所属しているギルドの面子は他人に殆ど干渉してこない。至ってあっさりとした間柄だ。べったりとされても煩わしいだけなので構わないのだが、それにしてもこちらが盾役となって重傷を負った時までドライでなくても良いと彼は思う。否、心配してくれとは言わないけれども、もう少し労ってくれても良いだろう。先日負った腰の傷跡を大きな手で擦りながら溜息を吐いた、その時だった。

「あれ、坊やじゃん。何やってんのこんなとこで」

 不意に、背後から知った声が聞こえ、スフールは何気なく振り向こうとした。だが、桶を渡された時に言われた言葉が耳に蘇り、ぐっと踏み留まった。井戸の水を汲み上げ濁った水が入った桶を渡してきた職人はいつもの仏頂面を崩さず、恐らく木樽を作っている時よりも真面目な顔で言ったのだ。


 ―――良いか、水を流した後は絶対に振り返るなよ。憑いてくるばかりか、引きずり込まれるぞ。


 そんな馬鹿な事がある筈が、とスフールは笑ってしまいそうになったのだが、職人だけでなくモルトマン達も神妙な面持ちで深く頷いたものだから、スフールも笑う事が出来ずに分かった、と一言返事をするしか出来なかった。だから、もしこの声が本当にスフールが知っている男のものであったとしても、彼は振り返る訳にはいかなかった。

「なー、何やってんの? 釣りでもしてきたの?」

 さく、さく、と迫ってくる足音は知っている様な知らない様な、しかし確かに声は知っている。けれども、気配がどことなくうそ寒い。こんなに晴れた、快晴とも言って良い気持ちの良い空の下、スフールは俄に寒気に襲われ額から脂汗が滲み出るのを感じた。気まぐれな猫の様なあの男はこんな気配を漂わせない。銀嵐ノ霊峰の吹雪の様な冷たい目をする事はあれど、今まで背中に庇った中でこんなに不気味な気配を感じさせた事は無かった。
 早いとこ撒いた方が良い。そう判断して走り出そうとしたのだが、何かに掴まれてしまったのかと思う程に足が重たくなり、引きずり歩くだけが精一杯になった。このままでは追い付かれてしまう、と、ホロウクイーンから腹を斬られて死を間近にした時の様な恐怖が湧き上がり、冷たいものが首筋を掠めた事が一気に心臓を冷やした。


「何、してるの?」


 触れたのは何であったのか、それはスフールには分からない。だが「何か」に全身を掴まれそうになった事だけは分かった。遠くに聞こえる子供の笑い声も、子供を咎める畑仕事をしている父親の声も、今の彼には聞こえていない。振り返ってもいないのに引きずり込まれるのかよ、と怒りにも似た絶望が頭から一気に足元まで下った。
 だが。
「?!」
 耳元で囁かれた次の瞬間、かなりのスピードで何かが頬を掠った。その衝撃に驚き、桶を落としたスフールは、背後に感じていた不気味な気配が一気に霧散した事を感じ取ったし、いつの間にか遠い前方に誰かが居る事にやっと気が付いた。スコープは使用せず、愛用の弓を水平に構えて次の矢を放つ必要があるか否かを見極めている赤毛の狙撃手が、そこに居た。
「よお。面白いもん連れてたな」
「お……面白く、ねえ、よ」
 どうやら次の一撃は必要無いと判断したらしいその狙撃手、アラベールは、いつもの様な軽口を叩きながらスフールへと歩み寄ってきた。弓を下ろしたあたり、もう背後には何も「居ない」様だ。どっと汗が吹き出たスフールは頬を掠めたのはアラベールが放った矢で、掠ったところの皮膚が破れて血が出ていると分かったし、助かったのだと実感してどすんと尻もちをついた。
 アラベールが射ち殺したのは何であったのか、スフールには分からない。ただ分かるのは自分の心臓が今まで経験した事が無い程に早く脈打っている事、下半身に力が入らない程に腰が抜けてしまっている事、そして歩み寄ってきたアラベールが川の方角を見て目を細め、矢を放つ素振りを見せた事だけだ。実際に矢を番えた訳でもなく、放った訳でもない。それでも「何か」を威嚇する様に、とどめをさす様なその仕草に、スフールはもう二度とこの依頼は受けまい、と心に決めた。
「腰抜かしたのか? はは、だらしねえなあ」
 ほれ、と手を伸べたアラベールの表情は、スフールからは逆光でよく見えなかった。だが、声音でおかしそうに笑っている事だけは分かった。スフールは「神」を殺したその手を恐る恐る掴み、立ち上がると、短く礼を言ってからふらつく足取りでタルシスへと歩き始めた。そんなスフールの後ろから、アラベールは鼻歌を歌いながらついてきていた。