wish

 その日、ローズはクロサイトと手を繋いでタルシスの街並みを歩いていた。今日誕生日を迎えるギベオンに何か贈りたいからとローズが出掛けようとしていたところ、クロサイトが呼び止めて一緒に行くと言ったのだ。父と出掛ける事を喜んだローズははにかみながら手を繋いでもらい、様々な店の軒先を楽しげに眺めており、クロサイトはそんな娘の姿に自然と笑みを浮かべていた。
 ウロビトの里で過ごしていたローズがクロサイトに引き取られて、半年が経つ。その半年の間に、実に様々な事が起こった。最終的には世界樹が枯れ、巨人を倒した訳であるが、その戦いにはローズも参加しており、大いに力となった。彼女の持つ封縛の力は強く、まだ八歳の子供であるというのに銀嵐ノ霊峰や絶界雲上域を探索していく中で見る間に腕を上げ、今ではウロビトの里の中でも実力のある方陣師となっている。だがそんなローズもクロサイトの前では単なる子供であり、父に褒められれば照れたし抱き上げられたら嬉しそうに笑った。つい半年前までは父と呼べなかったクロサイトの事をとうさまと呼ぶ事は、彼女にとって掛け替えが無かった。
 それはクロサイトも同じで、自分の娘と分かっているのに父を名乗れなかった事はつらかった。だが彼はガーネットの妊娠にも出産にも気が付けなかったし、ウロビトの里に呼ばれて高熱を出しているローズを見るまで自分に娘が居るという事を一切知らなかった上に、その高熱によって右目を失わせてしまったので名乗れる筈もなかったのだ。自分が至らないばかりに、自分の腕が未熟であったばかりに、幼いローズの右目を失わせてしまった。その事は、今でもクロサイトを自責の念に駆らせる。
 それでも医者業と冒険者業、そして現在は不承不承であるが外交官業の合間を縫って、こうやってローズと共に出掛ける事は彼の細やかな楽しみだった。無論ローズも楽しみにしており、私も一緒に行こうと言われた時には満面の笑みで返事をした。父娘でいられなかった八年という歳月を埋める様に、二人は手を繋いでウインドウショッピングを楽しんでいた。
「ローズ、ちょうど良かった、今から診療所に訪ねに行こうと思っていた」
「あ、ウーファンさま! こんにちは」
 ギベオンは石が好きであるからと、鉱物を取り扱う店の軒先であれこれ見ていると、見知った女性から声を掛けられ二人はその声の主の方を見た。そこにはいつも持っている錫杖の代わりに麻の袋をぶら下げているウーファンが立っており、ローズは顔をぱっと明るくした。気難しいウーファンであるが、ローズはよく懐いている。クロサイトも中腰の姿勢から立ち上がり、彼女に軽く会釈した。
「どうしたのだね、巫女殿は息災かね?」
「ああ、よく笑ってくださる様になった。暇が出来たら顔を見せに来てくれ」
「そうしよう。ローズも巫女殿に会いたがっているからな」
 タルシスの喧騒をあまり好まないウーファンが、それでも訪ねに来てくれた事を嬉しく思ったローズはにこにこと笑う。巨人を倒す前、ほぼ毎日探索に繰り出していたローズ達を見送る妊婦のペリドットを時折見舞ってくれていたのはウーファンで、その時もウロビトの里から薬草などの様々な差し入れを持って来てくれていた。そんなウーファンから買い物かと尋ねられたクロサイトは、今日がギベオンの誕生日である事を伝えた。
「何だ、そうと知っていたら巫女も連れて来たものを。私も祝いの品など持って来ていないぞ」
「気にしないでくれたまえ、ベオ君はあまり自分を主役にされる事に慣れていなくてな。
 巫女殿が来ようものならパニックになる」
「そうか……、では時間があるなら明後日里に来ると良い。もてなそう」
「あさって? あっ、しちせきですね?」
 クロサイトからやんわりと、そして丁重に断られたウーファンは、それでも巫女を助けてくれたギベオンに礼がしたいのか、里に来る様に再度要請した。明後日という言葉に真っ先に反応したローズは笑顔でウーファンを見上げ、彼女も微笑しながら頷く。だがクロサイトはその「しちせき」とやらが分からず、首を捻るばかりだった。



「なるほど、それでウーファンさんがご一緒だったんですか。何事かと思いました」
 店先で立ち話をするのも悪いという事で、ギベオンへのプレゼントをウーファンに一緒に考えてもらい購入して診療所に戻ったローズ達は、裏庭で洗濯物を回収しているペリドットの手伝いをしてからウーファンを中に招き入れた。簡易とは言え調理が出来る台所からは良い匂いが漂ってきており、セラフィがギベオンと二人で何か作っているらしい。大方、ギベオンが好きなカレーでも作っているのだろう。主役が食事を作るというのも妙だが、ギベオンはカレーを作るところを見たり手伝ったりする事が好きなので、セラフィも特に口出しをしない。姿が見えないモリオンは自室で読書をしているらしい。
「それで、しちせきとは何だね。君がローズを訪ねた目的の様だが」
「ウロビトの里では毎年白蛇ノ月二十日に木札に願い事を書いて吊るす風習があるんだ。
 基本的には封縛の腕が上がる様に願う日なんだが」
「ふうん……?」
 ダイニングに通され茶を出されたウーファンはクロサイトの疑問に簡素に答え、机の上に置いた麻袋から木札を一枚取り出した。ローズに書かせる為に持ってきたらしい。離れていても里の行事に参加させてやろうとしてくれたのだろうその心遣いが有難く、クロサイトは改めてウーファンは心優しい女性なのだと思った。
「一人前の方陣師になれます様に、封縛の腕前が上がります様に、邪眼の威力が増します様に……
 そういう願いを書く者も居れば、歌が上手くなります様にとか、胡弓が上手く弾ける様になります様にとか、
 芸事の腕前の上達を願う者も居るな。最近は様々な願い事を書く者が増えてきた」
「へえー。ローズちゃんはどういうお願い事書いてたの?」
「えっと……」
 ウーファンが挙げていった願い事の例を聞いたペリドットが、自分が書くなら元気な赤ちゃんを産めます様にって書きたいな、などと思いつつ何気なく尋ねると、それまでおとなしくクロサイトの隣に座って聞いていたローズは途端にもじもじとし始めた。彼女は恥じらったり言い難い事を言おうかどうしようか迷っている時、ワンピースの裾を掴んでもじもじする癖がある。縫合の腕前がもっと上がればな、などと考えていたクロサイトもローズのその仕草におや、と小首を傾げたが、微苦笑を浮かべたウーファンから伝えられた事に言葉を失った。
「毎年書いていたのはお医者の先生を父様と呼べます様に、だったな」
「………」
「……今年からは別の願い事が書けるだろう。その為に持って来た」
「えへ……ありがとうございます、ウーファンさま」
 ローズは、高熱を出して右目を失った四歳の時にクロサイトと初めて対面してからというもの、時折医者として尋ねてきてくれる彼が自分の父親であるという事に気が付いていた。だが父は自分が生まれる前に死んだとガーネットやウーファンから聞かされていたし、クロサイトも何も言わずにいたので、呼ぶ事が出来なかった。だから願い事はいつも、クロサイトを父と呼べます様にと書いた。他のウロビト達に見付かれば叱責されてしまう為にこっそりと書いていたが、子供の隠し事など大人はすぐ見付けてしまうもので、ローズが書いた木札は毎回ウーファンが人目につかないところに吊るしてくれていた。従姉であるガーネットをクロサイトに取られたと思っていたウーファンであるが、それでもローズを両親の元に行かせてやりたいという気持ちはあったから、巫女をホロウクイーンから連れ戻してくれたギベオンがローズをタルシスに連れて行きたいと頭を下げに来た時に承諾したのだ。
「ローズちゃん、今年は何て書くの?」
 娘の気持ちを思うと何も言えなくなってしまったクロサイトが黙ったままである事を受け、まだ子を産んでいないが母の顔になりつつあるペリドットが机の上に置かれていた木札を前に差し出しながら優しくローズに問いかける。まだもじもじしているローズはワンピースの裾を弄りながらちらと横目でクロサイトを見上げると、目が合った父にえへへ、とはにかんで見せた。

「とうさまみたいなおいしゃさまになれますように、です」

 この診療所に来てから探索に加わる様になり、ローズは皆が負傷した傷を父が手当てしている姿をずっと見てきた。ウロビトが持つ、大地の気を分けてもらい傷を癒やす事が出来る力を少しずつ強化し、張った方陣を破陣して皆の傷を塞ぐ技も磨いたローズであるが、やはり本業のクロサイトには及ばない。ギベオンやセラフィが大怪我を負った時も冷静に対処し、的確に処置しながら自分に指示を出す父の様になりたいと、ローズは本心で思っていた。
 娘のその言葉を聞き、項垂れ、机の上に置いた拳を握り締めたクロサイトは、奥歯を噛み締め涙を堪えるだけが精一杯で暫く何も言う事が出来なかった。ウーファンもペリドットもそんな彼を茶化す事無く、ただ微笑み黙って放っておいたし、ローズも自分の言葉に父が泣いてしまいそうである事を何となく嬉しく思い、差し出された木札に先程言った言葉を書いた。ウーファンは辿々しい字で願い事が書かれたその木札を見ながら、ウロビトの里の木に吊るした後にクロサイトに渡そうと思っていた。