あおいさん宅のギルド「にゃんにゃん(娘々)」をひろみが書くとこうなる・3

まさかまたここに来る事になるなんてね、と恵凛香は豊かな黒髪を風に遊ばせながら既に遠い記憶となってしまった景色を眺めている。もう乗る事も無いだろうと思っていた、乗り心地が良いんだか悪いんだか分からない気球艇は妙な揺れ方をしていて、顔を顰めてしまった。
「どうしたのエリー、具合でも悪いの?」
「……相変わらず操縦が下手だと思ってるだけよ」
「えー? 恵凛香が年取っただけでしょ?」
「年上に言われたくないんだけど?」
 体調が優れないのかと尋ねた巴には無難な受け答えをした恵凛香は、しかし以前とちっとも変わらず傍若無人とも言える聡実の発言に思わず言い返す。相手が誰であろうが態度も口調も変わらない聡実は、巨神を倒した後は冒険者を辞し、故郷に戻っていた恵凛香を迎えに来た時もそうだった。
 バルドゥールが復活させてしまった巨神を、聡実と恵凛香と巴が倒してから既に7年経っている。瓦礫の下に埋もれ、救助された後に病院に担ぎ込まれたバルドゥールが目を覚ます前にタルシスを辞した恵凛香は、堅気とは言えない故郷の家――一族と言った方が正しいかもしれない――に戻った。元々気性が激しく、頭に血が上ると相手を殺すまで止まらなかった彼女に手を焼いた長が、遥か遠くの街タルシスの辺境伯が出したお触れを偶然知り、そこで発散方法を覚えろと言われ放り出したので、巨神を倒して一区切りついたと判断した恵凛香が戻った事に何ら不思議は無い。まだ発見されていなかった人喰い蛾の庭の開かずの扉や、金鹿図書館の開かずの扉の事も、恵凛香は特に興味が無かったし、聡実も同様であったのかあっさりとタルシスから辞した。残ったのは帝国兵である巴のみで、彼女も数ヶ月後に漸く意識が戻ったバルドゥールにローゲルと共に仕え、帝国民のタルシスへの移住を実現させる為に忙しい日々を送っていたから、年に一度便りが来るか来ないかといった感じだった。バルドゥールは帝国民の移動の妨げとなる赤竜を討伐出来る程に回復したらしく、殿下とローゲル卿と肩を並べる事が出来て嬉しかったと綴られた巴の手紙を読んだ時は自然と笑みが零れたものだ。
 恵凛香と言えば、戻った実家でタルシスでの働きを信じてもらえたらしく、長の補佐としての地位を授けられた。舎弟である一族の者達からは姐さんと呼ばれ、故郷独特の衣類を着る日々は、タルシスで夜賊として過ごした頃の服に袖を通す事を遠ざけてしまった。
 そんな恵凛香の元に聡実が突如現れたのは、2ヶ月ほど前の事だ。門が騒がしいので何事かと出た恵凛香の目と耳に飛び込んできたのは、恵凛香を出しての一点張りが腹に据えかねたのだろう舎弟から殴られた痕を相変わらずの童顔の頬に広げた聡実の笑みと声だった。知り合いだ、どけ、と一喝した恵凛香に顔を青くした舎弟達をよそに、聡実はにしし、と笑って言った。

『バルドゥールがねー、あ、辺境伯のおじさんは隠居してバルドゥールに領主譲ったらしいんだけど、
 金鹿図書館の扉の鍵見付けたんだって。そんで、あたし達に行ってほしいんだってさ。
 ねー恵凛香、またともちゃんと3人で冒険しよ』

 見るからに堅気ではない舎弟達から怒鳴られようが怯まず、殴られようが退かなかった聡実は、度胸があるとかそういうものではない。元から恐怖心と痛覚を持ち合わせていないのだ。そんな聡実の特徴を聞くと誰しもが冒険者に向いていると言うが、恵凛香は冒険者に一番向いてないと思ったからさっさと辞したのだ。恐怖心が無ければ引き際を見極められないし、痛覚が無ければ怪我の度合いが分からず突っ込んでいこうとする。2人組ギルドとして活動していた頃から聡実のそういう面に苦労した恵凛香は自分が引退すれば聡実も引退する様な気がしたし、実際そうであったから、聡実は恵凛香に自意識過剰かと自己嫌悪する間も与えなかった。
 聡実がどこで何をしているのか巴もよく知らなかったらしいが、バルドゥールが金鹿図書館の鍵を発見した数日後にある日ふらっとタルシスに姿を見せ、辺境伯の跡取りとして統治院に居たバルドゥールに鍵の件を聞くと、恵凛香連れてくるから帝国の軍艦貸して、と本でも借りるかの様な気軽さで言ったそうだ。これには流石のバルドゥールもその場に居た辺境伯も面食らったが、7年経っても全く変わらない聡実に気を良くして快く貸したらしいのだが、あんな物々しい艇で迎えに来られたくなかった、と恵凛香は思う。しかもご丁寧に帝国兵の正装姿でローゲルも巴も来て郊外に待機しており、聡実に万が一の事があったら介入するつもりだったと聞いた恵凛香は先に手紙を寄越せと至極全うな突っ込みをしてしまった。だが、そんな恵凛香に、やはり聡実はにしし、と笑った。

『だっていきなり来た方が、恵凛香絶対断らないと思ったから』

 ……これは誠に遺憾なのであるが、そうなのだ。先に手紙で報せがあれば行ったかと問われると、多分恵凛香は行かなかった。自分がタルシスで新しい探索を始めたとしても、自分の目に映っていないので現実として捉えず空想上の話としか思わない人間である恵凛香のそういう気質を全部分かっているから、聡実は半ば殴り込みの様な形で恵凛香の前に現れた。全く向こう見ずな所は三十路になっても変わらないらしい。
 結局、恵凛香は長に話をつけて、仕舞っていた夜賊の服に袖を通し、その日の内に出発した。7年も経てばもう着られなくなってしまっているのではないかという懸念は杞憂に終わり、綺麗に体に馴染んだ姿に、見送った長がおめぇやっぱりその格好の方が似合うし別嬪だぁな、と餞別の言葉をくれた。7年前、誇張も何も無く探索で起こった出来事を淡々と綴った手紙をタルシスから送り続けていた恵凛香が当時どれだけの危険を冒してきたのか知っている長は、彼女が戻って来ないかもしれない事を承知で送り出してくれたのだ。まあ、7年前も戻ってこれなんだらそれだけの女だったって事だぁな、と放り出したのだが。
 再び滞在する事となったタルシスは帝国民の移住もほぼ終え、以前にも増して賑やかだった。金鹿図書館の扉が開かれると知った、聡実達同様にタルシスを離れていた以前の冒険者もまた舞い戻った様で、ちらほらと覚えている顔も見受けられた。時折鍛錬していたとは言え、探索していた当時に比べて鈍った体でいきなり未知の場所へ飛び込むのは危険極まりないと巴が言い、恵凛香も同じ考えであったから、碧照ノ樹海から体を慣らし、徐々に北上していった。そして漸く煌天破ノ都の地図を書き上げ――実は3人とも地図を紛失していたので書き直す羽目になっていた――たっぷり一日休んだ翌日の今日、金鹿図書館に向かう気球艇の中という訳だ。
「確かに私もあの頃に比べて年を取ったから、無茶をせずに挑まなければならないな」
「ともちゃんは軍事訓練もしてたし、バルドゥールが赤竜倒した時に一緒に居たんでしょ?
 じゃあ大丈夫だよー、サボってた恵凛香とあたしが足引っ張る程度だよ」
「人を勝手に同列に並べないでくれる?」
「誰も開けられない様な鍵作ってまで封印してた扉の向こう、どんな危ない迷宮になってるんだろうね。
 楽しみだなー! 肩透かし喰らわなきゃ良いな!」
「………」
 加齢による肉体の衰えを危惧する巴への回答もそこそこに、聡実は笑いながら不吉な事を言う。巨神を見上げた時もでっかいなあ、の一言で済ませて笑った女だ、やはり恐怖心が皆無というのは問題がある。恵凛香は巴と顔を見合わせて、アリアドネの糸の準備は万全である事を確認すると、気球艇から見える金鹿図書館の奥にある険しい山を睨んだ。おぞましい蟲がその更に向こうに潜んでいる事など今の彼女達には知る由も無かったし、数ヶ月後にその蟲を見上げて聡実が能天気な声ででっかいなあ、と言う事など、もっと知る由も無かった。