ある日の夕暮れ

 男が木陰で座ったまま、腕を組んで眠っている。無骨な見た目に反してその寝息は静かで、起きているのか眠っているのかの判別はぱっと見ただけでは分からないが、数時間前に屍兵と戦っていた事を考えると休息の為に眠っていると考えた方が自然であった。だが、休息である筈なのに彼の寝顔は厳しく眉間にぎゅっと皺が寄って、見るからに安らげてはいなさそうだ。彼を探していた少女がやっと彼を見つけた時には、じっとりと寝汗をかいていた程度には、苦しそうな様子であった。
「ねえねえ、だいじょう…… きゃあっ!」
「っ…… 悪ぃ! 大丈夫か!」
 不安に思った少女が彼を起こそうと肩に手を伸ばしたその瞬間、少女の華奢な手は大きく硬い手に思い切り払われ、その勢いで少女は尻餅をついてしまった。払われた痛みと尻餅の痛みで一瞬泣きそうになったのだが、その前にひどく慌てた様な顔で男が起き上がって自分を抱えたものだから少女は面食らってしまい、痛みが一気に吹き飛んだ。
「怪我は?! どっこも怪我してねえか?!」
「え、う、うん、多分」
「悪ぃな、手ぇ腫れるだろうから冷やしに行くぞ」
 払われた手を見て心底焦った様に、男は冷やす様にと促す。この程度で大袈裟な、と少女は思ったが、もう壮年の年頃と言っても差し支えない男が自分が払った手が赤い事を真面目に心配して慌てている様が何となく面白かったので、おとなしく抱えられて移動した。向かった先は、木が生い茂る夜営地の近くにある小川だ。そこにはちょうど、髪を二つに束ねたシスターが夕食の準備の為だろう、水を汲みに来ていた。
「あー、リズ、ちょうど良いや、こいつ頼んで良いかな」
「え? ノノ、どうかしたの?」
「いやー、ちょっと間違って思いっ切り手ぇ叩いちまってな。腫れるかもしれねぇんだ」
「えーっ、駄目だよグレゴさん、ただでさえ力が強いのに! ノノ、大丈夫?」
 リズと呼ばれたシスターは、少し赤くなっている少女――ノノの手を取り心配そうに聞いてきた。ノノはその問いに、にこっと笑ってみせる。
「大丈夫だよ! あのね、おじさんが寝てるとこノノが邪魔しちゃったの。だからおじさんは悪くないよ!」
「おじさんって言うな、グレゴさんて呼べ」
 リズに対して自分の非を伝え、自分の手を払ってしまった男――グレゴに非は無かった事を証言したノノは彼を振り返り、ごめんねと謝った。勿論、名前をさん付けしろというグレゴの要請は無視した。
「いやいやー、それでも痛い思いさせちまったからなぁ。
 ま、剣抜かなかっただけ偉いと思ってくれたら有難ぇんだけど」
「えっ、寝てたの邪魔されてそんなに怒るの?! グレゴさん怖いよー」
「なーんでそうなるんだよ。良いかいお姫さん、俺は傭兵なんだよ。
 寝てる時に気配が近寄ったら敵と勘違いしちまうだろう?」
「ノノ、敵じゃないもん!」
「知ってる」
 どうやらグレゴがノノの手を払ってしまったのは彼の職業病の様なものらしい。ノノは見た目は幼い少女であるのだが、マムクートと言う竜に変化する種族の者であり、リズの兄のクロムが率いる軍に所属する兵士の中でも恐らく最年長の部類になるであろうグレゴより何倍も何十倍も長い年月を生きている。しかしその長い年月をひとりで生きてきたものだから、傭兵達が気配に敏感であったり寝ている所に不用意に近付いてはいけないという事など、全く知らなかった。言われてみれば、ノノが近付いた時のグレゴは腕を組んでいるにも関わらず剣を抱えたまま寝ていたから、斬られてしまっていたかもしれないのだ。
「それはそれで良いや、とにかく冷やして貰っといて良いか? 代わりに俺はこっち持ってくから」
「うん、お願いね! あーあ、グレゴさんが来るの分かってたらもうひとつ持って来たのにー」
「男共は手ぇ空いてなかったのかい?」
「皆さっき屍兵と戦ってきたからくたびれてるみたいで。頼みづらかったんだよね」
「そうかぁ、じゃ俺がもう一回汲みに来るさ。ユーリに飲ませにゃならんものもあるし。
 ところでノノは俺に何か用事があったんじゃねーの?」
「ううん、誰も遊んでくれそうになかったからおじさ……じゃなかったグレゴはどうかなって思っただけ」
「そ、そうかい」
 先程屍兵達を掃討していた者達はくたびれていたし、そうでなかった者達は夜営を張ったり食事の支度などをしていて忙しそうで、ノノは退屈していた。その時、木陰で寝ていたグレゴを見付けた。眠っているなら邪魔をしない方が良いだろうと思ったのだが、どうやら夢見が良くなさそうだったので声を掛けようとしたらこの結果だったという訳だ。
 リズは持っていたハンカチを水に晒し、ノノの手に巻いていく。ちょっと痛いよ、ごめんね、と前置きしてから、ハンカチを巻いた手を押さえ、何かを確認している。
「骨は大丈夫みたいね。ノノは竜になった時はとっても強いけど普段は私より華奢だから、
 グレゴさんが思い切り叩いたら骨折しちゃうんじゃないかって思っちゃった」
「痛かったけど、もう平気だよ! ありがとうリズ」
 巻かれたハンカチはとても綺麗なもので、流石一国の王女が所持しているだけはあると思わせる様なものだった。だが、残念ながらノノには布の良さやそれがどれだけ高級なものであるかは分からない。それでも素直に綺麗だなと思ったし、そんな綺麗なものをこういった用途に使わせる事を申し訳なくも思った。
「あ、そうだノノ、鱗剥いじゃったんだって? グレゴさん心配してたよ」
「腹巻き作ったんだ。でも、怒られたからもうしないよ!」
「うん、そうしてね。グレゴさん、ああ見えて心配性なんだねー。
 俺の為に作ったもんのせいで大怪我されたら目もあてられんから、暇があったら剥いだ所を診といてやってくれって言われたよ」
「もう新しい鱗生えかけてるから大丈夫なのに」
「心配なんだよ、きっと」
 グレゴに頼まれた時の事を思い出したのだろう、リズがうふふっ、と楽しそうに笑う。ノノにはその笑いが分からなかったのだが、リズにとってみればその時のグレゴの顔が本当に心配そうにしていたものだからつい笑ってしまったのだ。勿論その笑いは悪い意味のものではない。大柄な男が幼い少女――に見えるだけで実際は違うが――を気に掛けて本気で心配していた様が微笑ましかったからだ。
「この姿の時のままでも、鱗を剥いだ所って分かるの?」
「うん、分かるよ。あのね、皮膚が薄くなるの」
「えっ、そうなんだ。それなら私もちょっと心配だし、見ても良い?」
「うん! えーと、はいだのはね、この辺」
 リズに促されたのでノノはマントの留め具を外し、胸の中心部にあるリボンを外した。ぎょっとしたのはリズだ。
「えっ、そ、そんなところだったの?!」
「そうだよ! あのね、羽のところの鱗よりもこの辺りの鱗の方が薄いけど丈夫なの。
 心臓が近いからかなあ?」
「そうなんだ…。あっ、本当だ、ちょっと薄くなってるね。痛くない?」
「もう平気だよ」
 心臓に近い胸の辺りの皮膚は、ノノが言った通り薄くなって赤みを帯びていて、剥いだ直後は着ているものが擦れたら痛かっただろうという事は想像に難くない。そもそも、皮膚と同様である鱗を自分で剥ぐという行為自体、痛かった事だろう。それでもノノは剥いだのだ。雇い主に逆らって自分を助けてくれた、あの壮年の男の為に。

 ガラーン。

 リズがほんの少し、本当に数秒の間そんな感傷に浸っていたら、何か大きな音が聞こえたので、二人共その音の方を反射的に見た。そこには、両手に持っていたのであろう水汲みの桶を足元に二つ落とした、件の男が呆然とした顔で突っ立っていた。
「え、えーと、その、す、すまん! マジですまん!!」
 そして二人と目が合った一呼吸後に、グレゴが我に返ったかの様にそう叫んで勢い良く明後日の方を向いたので、漸くリズとノノは現状を把握した。ノノは胸を肌蹴ていた、のだ。
「き……きゃー! ノノ早く着て! 隠して!!」
「あ、う、うん!」
「見た?! ねえグレゴさん見た?!」
「見てねえ! 誓って本当だ見てねえ!!」
 顔は明後日の方向に、しかし手はこちらに向けたグレゴの耳が少しだけ赤い辺り、その「誓って」は絶対違うと思われた。グレゴが歩いてきた方角は木が立ち並び、またリズやノノの視界には本当に端にしか入らない。お互い、本当に気が付かなかった訳だ。
「もう良いよ! ごめんねグレゴ」
「あ、いや、こ、こっちもすまん」
 見られた事など全く恥ずかしくはないのか、ノノがにこにこしながら明後日の方向を向いていたグレゴに声を掛ける。彼は水を汲みに来たのだから、手ぶらで帰る訳にはいかないのだ。足元に落とした桶を拾いながら、グレゴは片手を額にあてて溜息の様な声を吐き出した。
「グレゴさんごめんねー。ノノが鱗剥いだ所見てたの」
「そ、そうかい。……って、大丈夫なのか」
「皮膚が薄くなって赤くなってるね。でもすぐ良くなると思うよ」
「もう平気だよ! 心配しないでね?」
「……なら、良いけどよ」
 川の水を桶いっぱいに汲みながら、罰が悪そうにグレゴが相槌を打つ。極力ノノを見ない様にしている辺り、やはり見てしまったに違いない。しかしリズにしてみればグレゴのあの反応はとても意外で、驚いてしまった。これくらいの年であれば女性の体を見た事が無い訳でもあるまいし、勿論関係を持った事がある女性も多数居るだろう。だが、年齢は自分達の何十倍もあるが見た目は少女のノノのあの姿を見てああいう反応をするとは。
「なーに見てんだリズ、俺が良い男だからみとれてんのか」
「違いまーす。じゃ、戻ったら私、食事作るの手伝うね。ノノはグレゴさんに遊んで貰ったら良いよ」
「えっ。いや俺ユーリに用事が」
「ノノも一緒に行く! 良いでしょ?」
「わーかったよ、しょうがねぇなー…」
 水がなみなみと入った桶を軽々と両手に持ったグレゴは、本当に参った様な顔をして溜息を吐いた。ノノは無邪気に笑って歩き出した彼の隣で何して遊ぶー? と尋ね、リズもその後ろをついていく。西の空が、美しい紫の薔薇色に染まり始めていた。