放浪の終焉

 死に場所を樹海に決めたからと言っても、わざと死ぬつもりではなかった。


 それは彼の本心であったし、生きるも死ぬも成り行きで良いと思っていたので、今ここで死のうがあと数十年生きようが大差は無いと彼は掠れる視界の中に映る少女達の泣き顔を見ながら浅い息を吐く。立ち込める血の臭いは彼にとって馴染み深いものであったが、自分のものである事に何となく安堵していた。この娘達のものでなければそれで良い。

「おじさん! ねえおじさん、しっかりして!」

 赤い頭巾を被った少女、ヴェルタが泣きながら彼に縋り付く。いくら整備されている気球艇とは言え目覚めた巨人との戦いでダメージを受けており、不安定な上空ではなくてすぐに街に戻って治療した方が良いと皆が口を揃えたのに対し、彼は頑として首を縦に振らずこの場に降ろせと譲らなかった。どうせもう死ぬ、だったらここで死なせろと言った。彼の体には、メディックであるチェルシーがここに辿り着くまでに培った腕を以てしても治せないであろう傷が深く刻み込まれていた。

「最後まで喧しいな……、静かに死なせろ」
「やだ! やだよ、死なないでよ! 皆で帰ろうって言ったじゃん!!」
「俺、は、それに返事、してないだろう、が」
「いやだぁ……」
「離れろ、……痛い」
「ヴェルタ、おじさん痛いって言ってるじゃない、ワガママ言っちゃ駄目だよ」
「嫌ぁっ! 離して、離してよぉっ!!」

 動きが速い彼にしてみれば巨人の両手から繰り出される攻撃をかわす事は難しい事ではなかったけれども、自分の背後に居る弓引きのリコラやチェルシーに被害が及ぶと思うと完全には避ける事が出来なかった。そうして負ったいくつもの傷は、最早手の打ちようが無い程のものになっていた。
 縋り付かれると傷口に響き、既にもう痛みは激痛を通り越して彼の腹の感覚は失われている。生温かい血液は彼の手を真っ赤に染め、傷口を押さえている意味を成していなかった。その彼の血で服が汚れる事など構いもせずに尚も離れようとしないヴェルタを、桃色の髪を両サイドで縛った踊り子のトフィーが引き剥がすが、ヴェルタはその腕さえ振り払おうともがいたのでチェルシーもリコラも加勢する。そんな彼女達を、巫女は悲しそうな目で見ていた。彼がもう助からない事が分かっていたからだ。

「一人、ずつ、……順番に来い」
「え……」
「早くしろ、間に合わんだろう、……リコラ、来い」

 喘ぐ様に短い息を吐いて、彼は最初にリコラにまだそこまで汚れていなかったズボンで血を拭った手を伸ばす。彼女が戸惑いながらもヴェルタの腕を離して自分の側で膝をつくと、彼はリコラが一番大事にしているというリボンに触れない様にしながら多少乱暴に頭を撫でた。

「随分腕を上げた、俺の投刃には、及ばんが……、お前は、世界で十分通用、する、……トップクラスの、スナイパーだ。
 自信を持て」
「う……うん、うんっ」

 弓の名手であったという親を持つにも関わらず腕前がいまいちであったリコラも、今では魔物相手に後方からでも弓を引き、仕留める事が出来る様になっている。力強く射た矢が二体の魔物を貫く事もあった。彼も、たまにリコラと的当てで競ったものだ。負けた事は無かったけれども。
 だが、リコラは弓の腕が上がっても自信が無さそうな態度は変わらなかった。もっと自分が援護出来たのではないか、もっと力になれたのではないか、そうやっていつもおどおどとしていた。それに対し、彼は胸を張れと言いたかったのだ。頭を撫でられたリコラは、涙でくしゃくしゃになった顔で何度も頷いた。

「よし……、次、トフィー、来い」

 リコラが頷いたのを見て、彼は次にトフィーを呼ぶ。彼女が自分の側を離れたリコラと同じ場所に足を震わせながら座ると、彼は先程と同じ様にトフィーの頭を撫でた。

「焦って転ばなくなった、な……、どこの舞台に立っても、もう誰も、お前……の踊りを、笑わんだろうよ……。
 これからも、肩の力抜いて、踊っていろ」
「うん、うん、有難うおじさん」

 初対面の頃、トフィーはダンスを舞う時に再々躓いては転んでいた。上手く踊ろうとして気が焦り、足が縺れいていたらしい。そんな彼女を笑う者も少なくなかったが、樹海を進んでいく内に魔物を含む動物の世界に触れ自然のリズムを体で覚えていき、流れる様な動作で踊れる様になっていた。彼が言った通り、今では誰も彼女の舞を笑わない。
 彼には舞の良し悪しなど分からない。が、トフィーの舞は目を楽しませてくれたので嫌いではなかった。ただ、言うのも何となく憚られて撫でるだけに留めてしまった。

「次……チェルシー、来い」

 大粒の涙を手で拭うトフィーの後ろで呆然と立つチェルシーに、彼は声を掛ける。がくりと膝をついた彼女は、自分の全ての技術や知識をここで発揮しても彼を助けられないという事に絶望しているのか、真っ青な顔をしていた。そんなチェルシーの頭を、やはり彼は乱暴に撫でた。

「処置が速くなった……、大怪我、見ても、冷静に対処出来る様になったな……お前なら、あの話、も、……夢物語じゃない……
 叶えてみせろ……、……良いな」
「………は、い」

 故郷で裕福な家の者の馬車が貧しい者を轢いた時、街の医者は支払いが見込めないからと誰もその貧しい者を助けなかった事にチェルシーは疑問を抱いていた。怪我人や病人に対し貴賤問わず診る医者になりたいと、自分の手当てをしながら恥ずかしそうに夢を話してくれた彼女は、幼い容姿であるとは言えもう立派なメディックに成長していた。
 今までにも、彼はチェルシーの治療に何度も助けられた。生に対して無頓着である彼を叱りつける事もあり、良い医者になると滅多に他人を褒めない彼に思わせた。ただ、そのチェルシーであっても今の彼を助ける事が出来ない、それだけの事なのだ。

「………ヴェルタ、……来い」
「…………」
「……来い!」

 眼鏡を外して涙を拭ったチェルシーは、彼に促される前に側から離れた。それを見て彼は最後に残ったヴェルタを見上げて呼んだが、これが今生の別れになると分かっているヴェルタが中々来ようとしなかったので、喉から込み上げてきた血を地面に吐き捨て怒鳴る様に再度呼んだ。他の三人から背を押されながら自分の側にへたりこんだヴェルタを、彼は最期の力を振り絞って抱き締めた。

「あの時、よく俺に声を掛けてくれた……礼を言う」
「う、うぅ、 ……ひぐ、……」
「良い剣士になった……、今度は、俺に後悔させるほど、良い女になれ。
 俺が……、妬む、くらい、幸せになれ……
 分かったな」
「やだ、いやだ、おじさんが居なきゃなれない、逝っちゃやだ」
「それ、は……聞けん頼み……だ……」

 ヴェルタの小さな背を、労う様に彼が叩く。数ヶ月前、あの酒場で浮いていた自分に声を掛け、怖かっただろうに必死で交渉してきた彼女に、彼は柄にもなく感謝をしていた。人殺しばかりしてきた自分が、ほんの僅かな期間であったとは言え人を助けながら生きる事が出来た。その事に対する礼のつもりで抱き締めた。
 彼は、ヴェルタから女にして欲しいと言われた事がある。子供に興味は無いときっぱり断ったが、好きなのと尚も食い下がってきたので力任せに押し倒して服を剥ぎ取り、怯えた様に泣いた彼女に、こういう事をしても全く胸が痛まない様なろくでもない男を好きになるなと忠告した。傷物にはしなかったし、わざとギルドから離脱したりもしたが、それでも自分を追い掛けもうワガママ言わないからまた一緒に行こうと懇願したヴェルタには多少呆れたものの、退屈はしないから良いかと妥協して結局はここまで来てしまった。

「もう……行け……、一人で死なせろ」
「嫌だ、やだよぉ」
「行けと言っている!!」
「っ!!」

 視界と共に意識も掠れてきた彼は、ヴェルタを無理矢理引き剥がしてチェルシー達に去る事を促した。だがヴェルタが三人から捕まれてもいやいやする様に首を振った為、とうとう彼が怒鳴った。成人した男が本気で怒鳴った声は、ヴェルタやチェルシー、リコラとトフィーのみならず、巫女の体をも縮み上がらせた。

「ここに居る、姿が見えなくなるだけだ……、いつでも会いに来い」
「うぅ、うえぇ、」
「お前らの、泣き声は、喧しい……から、……早く行け……静かに死なせろ」

 噎せて吐き出してしまった血を溢しながら、彼はまた汚れた手を振る。最後の指示であろうその彼の言葉を聞き届けたのはチェルシーだった。彼女はリコラとトフィーに目配せをし、動こうとしないヴェルタを引き摺り気球艇に向かいながら言った。

「さよならおじさん、また会いに来るから!」
「今度はもっと弓の腕上げておくからね!」
「私ももっと難しい踊り覚えてくる!」
「いやぁーっ! やだ、やだ、離して、おじさん、おじさんっ!!」

 暴れるヴェルタを無理矢理気球艇に乗せ、彼女が飛び降りてしまわない様に押さえつけながら、チェルシーとリコラとトフィーが次々に別れの挨拶をする。初対面の時、彼には名前が無かったから好きな様に呼べと言うと、彼女達は何の疑問も無く彼を「おじさん」と呼び、それからずっと彼は「おじさん」だった。最期までおじさんを連呼しやがって、と彼は顰めっ面をしたものの、彼女達の思慕が篭った響きのその呼び方が嫌いではなかった。


 ―――最期の最期で面白い人生だったな。


 恐らくあの少女達にとって、自分は「勝手に死んだ人間」になるだろう。少なくとも、ヴェルタにとってはそうなる筈だ。だが、彼はその事に対して後悔しなかった。彼女達の体はここに辿り着くまでに数多もの魔物と戦ったにも関わらず傷跡が少なく、それは彼が無意識に彼女達を庇った事に起因している。それで今までにも何度も瀕死の重傷を負った。今回は致命傷だったというだけだ。巨人の手が引き裂こうとしていたヴェルタの体を突き飛ばしてその傷を負ったのだから、自己満足も甚だしい死であるが。

 彼が凭れ掛かった、巨人であったものから緑が一斉に芽吹き始める。が、もう彼には驚くだけの力は残されていなかった。これがまた新しい世界樹へと生まれ変わるのだろう。世界樹が墓か、それも良いなと思った彼は、気球艇が去って静かになった雲ひとつ無い空を見上げてから静かに目を閉じた。




少女達を守り、世界をも守った名も無きナイトシーカー、彼の墓碑名は世界樹と言う