鬼乎ノ日

 薄暗いダイニングは、年の瀬だというのに底冷えが無い。例年通りであれば気候が温暖なタルシスといえどもセラフィが寒そうにしている程であるのに、ゆったりと寛いで座っている程度には温かい。この年が異様に温かい、という訳ではなく、人が居た温もりがダイニングにまだ残されているからであった。
 沈黙して座っている二人の間には、去年の今日と同じ様にカップがある。だがその中に注がれている茶は、去年のものとは違って美味いものであった。
「……まさか冒険者に返り咲く日が来るなんてな」
「……そうだな」
「抱負はあるか?」
「「死なない」以外に何かあるか?」
「無いな」
 つい数日前に冒険者に復帰する事が決まってしまったクロサイトは記憶にある質問をセラフィに投げかけ、記憶にある返答に苦笑する。この弟を、ペリドットと共にではあると言っても説き伏せ、自分まで冒険者に復帰させたギベオンの事を思うと更に苦笑が漏れる。去年の鬼乎ノ日にはジャスパーからの手紙でしか存在を知らなかった彼が、いつの間にか自分達双子を懐柔しているのだから侮れない。しかも、ずっと父と名乗れなかったローズをタルシスにまで連れてきてくれた。そうは言っても、恐らく本人はそんな大それた事をしたという自覚は無いのだろうけれども。
「僕はローズを、お前はペリ子君を、それぞれ守り抜かねばならないな」
「……おとなしく守られてくれれば良いんだがな」
「ペリ子君も結構無茶をする所があるからなあ。そうさせない為に、お前が無茶をしなければ良い」
「もう無茶が出来る年じゃない」
「お互いな」
 たった二人のギルドであった頃は、お互いがお互いの守るべき者だった。だが、次からは――明日からは最優先の者が変わる。クロサイトは迎えられるとは思っていなかった娘を、セラフィは娶る事など考えた事も無かった妻を、それぞれ最優先で守る事となる。そしてそんな二人を、説き伏せたギベオンが守ろうとするのだろう。二人の前では縮こませる背が、しかしホロウクイーンを前に盾を構え皆を守ろうとした時は本当に頼もしく大きなものに見えた。故郷で両親に否定されながら育ち、出生日さえ破棄されてしまったギベオンは、タルシスで自分を肯定してくれる者達に出会い、生来の性格を表に出せる様になってきたらしい。
 そんな彼が、師と仰ぐ二人を守ろうとするのもまた自然な事だ。それが容易に予想されるからこそ、二人は必要以上に守護されない様にしなければならない。だから、無茶をしないと言ったのだ。去年の「死なない」より遥かに重みがある。
「明日の辺境伯殿の顔を見るのが億劫だ」
「お前と同じで良い性格してるからな、あの男は」
「褒められると照れる」
「そういう所が良い性格だと言ってるんだ」
 ギルドに登録するのはいつでも良いのだが、やはり皇帝ノ月1日が一年のうち一番登録数が多い。皆が願掛けをして冒険者ギルドに登録するその列に並び、その後に統治院へと赴く訳だが、昔ギルドを解散して頑なに結成を拒否してきた二人が再びギルドに加入した事を報告しに行くのだから何を言われるか分からない。最終的には喜んでくれるのだろうけれども、きっと含みのある笑みを向けられると容易に想像出来るので、クロサイトとしてはあまり足を向けたくなかった。しかしギルドを結成した者達は辺境伯に報告しに行かねばならないという決まりがある為、必ず行かなければならない。
 ギルド経験者は行かなくても良い様にルールを改定出来ないかな、と思いながら、クロサイトは前々から考えていた事をぽつりと呟いた。
「なあ」
「何だ」
「この話し合いの席も最後かな」
「………」
 見知らぬ場所の探索ともなると、体力は今までの生活より遥かに消耗する。二人が深夜に顔を突き合わせて話をする事は難しくなるだろう。その懸念を漏らした兄に、セラフィは暫し沈黙する。ただでさえ新婚のセラフィに気を遣って話し合いの席を自然消滅させようとしていたクロサイトだ、今後は彼自身も娘との時間を設ける事も考えると、この時間の為に睡眠時間を更に削ろうとするかもしれない。
「生活時間が同じになるんだ、夜である必要は無いだろう」
「……うん」
「サシで話さなきゃならん事もある、折を見て設けたら良い」
「そうだな」
 自分の言にどこかほっとした様な表情を見せた兄に、セラフィは同じ表情を浮かべる。弟を溺愛していると一部では有名なクロサイトであるが、セラフィも中々のブラコンなのでたまには二人でゆっくり話したいのだ。互いを独り占めする時間が欲しいとも言う。男兄弟でここまで仲が良いのは珍しいですねと、今まで何人に言われたか分からない。
 彼らがどちらともなく口角を上げたその時、遠くから小さくではあるが歓声が聞こえた。どうやら年が明けたらしい。冒険者ギルドに新米冒険者達が登録する為に押し寄せ、賑わっている事だろう。夜が明けたら、二人も向かわねばならない。
「まあ、何だ。今年もよろしく頼む」
「ああ」
 その歓声を、きっと部屋で寝ているギベオンもペリドットもローズも聞いていないだろう。それで良いと二人は思う。薄い笑みを浮かべた顔を見合わせ無言で頷き合ったクロサイトとセラフィは、明日から――否、今日から始まる冒険者生活に備えて眠る為、同時に腰を浮かせた。もう二人のカップの中に、茶が残される事は無かった。