皇帝ノ月、午後の戯れ

薬剤課外授業」の続編、引き続き「なにかんがえてるの」様のグレイアム先生お借りしました


 思い立って昨日の夜に部屋を片付けておいて良かった、と、客人を自室に招き入れながらクロサイトは思う。暫く前に部屋の模様替えと称して大方の片付けは済ませてはいたものの、やはり頻繁に探索をしていれば持ち帰ったものを調べたり新しい武具が増えたり、どうしても荷物が煩雑になっていくものであるし、診察室ではなく自室で医学の調べものや勉強をしているとどんどんと散らかっていく――と言っても彼の場合の「散らかっている」は常人から見れば「比較的片付いている」に相当するのだが――ので、明日は探索を休みにしているし片付けられるところまで片付けようと、寝る前まであれこれと整理していた。
 そのお陰で休日の午前から近所の回診に行けたし、午後からセラフィがおもむろに前日から調味液に浸けていたオオイノシシの肉を裏庭で燻製し始めたので手伝う事が出来た。クロサイトにはよく分からないのだが、妊娠出産していないメスの猪の肉は上質なのだそうで、ウロビトの里に行く道中で仕留めたら運良くその個体にありつけたらしい。暗国ノ殿と呼ばれる迷宮を探索している現在、その名の通りの暗い建物の中では時間の感覚が薄れ、ついタルシスへの帰還が遅れて手持ちの食糧が底をつきそうになる事も多く、その前に戻れるに越した事はないが、もし戻れなかった時の為に日持ちするものや腹持ちするものを作っておいた方が良かろうとセラフィは言った。が、クロサイトには単に保存食を作る事が弟の趣味なのだと分かっている。
 ペリドットは生まれた子供を連れ、探索中はいつも子供の面倒を見てくれているモリオンや彼女に懐いているローズと一緒に出掛けたと言っていたし、ギベオンも今日は交易場のアルビレオの所で色々と手伝う事があると言って出掛けたのでクロサイトは久しぶりにセラフィとゆっくり話をしながら肉を燻していた。クロサイトにとっても腹を刺激してくれる様なその匂いにつられたらしく、裏庭の出入り口の所で立ち止まった者に先に気が付いたのはセラフィだった。お前の知り合いか、と聞かれて顔を向けると、小脇に生成り色の鞄を抱えた白衣の男が立っており、クロサイトが会釈をする前に薄く笑ってどうも、と言った。
「良い匂いにつられてふらふら来たら書類に捕まるとは思ってなかったですな……この診療所は罠をお持ちなので?」
「何が罠ですか。我々は単に燻製肉を作っていただけですし、そこに貴方がいらっしゃっただけでしょうに」
「美味しそうな匂いだったのでつい……」
 普段は自分が座っている椅子に座らせ、机に統治院の書類を置いてやると、男は気が進まなさそうな声で恨みがましくクロサイトを横目で見上げた。そんな目で見られても、不備のある書類を提出してきたのはこの男なのでクロサイトだって困る。この男が書類をきちんと書いていれば捕まえる事などクロサイトだってしていない。
 毎年皇帝ノ月と風馬ノ月に、ギルド主は統治院に所属しているギルドメンバーの大まかな略歴を書いた書類を提出しなければならず、これを期限までに提出しなければ冒険者として探索に出させて貰えない。とは言え随分と緩い決まり事であるから略歴など省いても良いし、年齢も書きたくなければ書かなくても良い。最低限、名前と構成員数さえ分かれば統治院としては良いのだ。そんなものギルド長に申し出て登録した時の書類と照らし合わせれば良いだろうという声もあるのだが、目まぐるしく変わる全ギルドの構成員やその数は月によって随分と変動があり、早い話が冒険者ギルドに登録された冒険者の名簿と統治院に提出される書類の冒険者数が全く違う事があるので、領主として自分が統治する街がどれ程の人口を擁しているのかを把握しておきたいという辺境伯の意向に沿ってこういうシステムになっている。皇帝ノ月と風馬ノ月以外で結成されたギルド、あるいは冒険者として登録された者はまず先に統治院に予め提出された書類に書き足され、すぐに気球艇の発着場に伝えられるので、発着場に名簿が無い者は冒険者として気球艇に乗る事は出来ない。緩い様に見えるタルシスだがこういう所は厳しく、住民が興味本位で見知った冒険者に頼んで不用意に迷宮に行ってしまわない様に、という辺境伯の思いがある。
「この程度なら見逃して頂けませんかね、クロサイト外交官殿?」
「この書類の提出先は私の管轄外ですし、管轄内であったとしても私は平職員なので見逃す権限は無いのですよ、グレイアム医師」
 統治院から預かった、判読するには少々癖のある文字が踊る不備の書類も出して書き写させようとすると、クロサイトからグレイアムと呼ばれた男はペン軸でその書類を指しながらそこを何とか、と言った。しかし外交官という肩書があるとは言え、本当にクロサイトは特にこれといった高い地位ではないし、高官であってもそれはそれ、これはこれだ。書類に不備があるなら書き直すのが道理だろう。
「そもそも何故名前と年齢がご丁寧に一行ずつずれて書かれているのです?」
「ゼンマイ茎を煮詰めている時に書いていたら煮詰め過ぎそうになったので」
「しかも端がかなり破れてますがこれは」
「ついでに麦芽糖も温めていたら零してしまって」
「零したからと言って破らずに新しい用紙をご使用ください」
「面目ない」
 どちらか一方ならまだ見逃したんだけど、と、冒険者の書類を管轄する職員が困った様に言ってきたのを思い出しながら、クロサイトは記入を急かす様に指先でまっさらな書類を叩く。前回提出された書類との照らし合わせをしていたら所属メンバーと年齢が全く違っており、見れば一人ずつずれて年齢が書かれていたとの事で、たまたま統治院に用事があって回診の後に出向していたクロサイトに隣の宿屋に居る人だから再提出する様に言って欲しいとその職員から頼まれ、知らぬ人間でもないしと思って受け取ったものだ。夜になれば居るだろうと考えたので裏庭に居たところにたまたまグレイアムが通りがかったので行く手間が省けたというものだし、書類を渡してもすぐに書いて提出するかは分からなかったから招き入れた。ただ、下絵を描いたままの画用紙をイーゼルに置きっ放しで、作業台にスケッチブックを広げたままであったから、それを見られたのは何となく気恥ずかしかった。
「ゼンマイ茎はテリアカαなのは分かりますが、麦芽糖は何に使われたのです?」
「ブレイバントですよ。貴方も良くご存知の」
「………」
 どうあっても書き直さなければならないという事実に降参したのか、渋々とグレイアムが書類を書き直している間、手持ち無沙汰であったクロサイトは夜に下塗りをしようと絵の具の選別をしながら何気なく尋ねたのだが、返答に思わず沈黙した。グレイアムは自分で薬剤を調合する事を得意としているそうで、宿屋に間借りしている部屋で自作しており、それをベルンド工房の正規の値段のものよりも安価で売っている。外科処置は得意でも薬剤の調合は不得意であるクロサイトは以前病院の医者に紹介して貰ってその部屋を訪ねた事があり、そこで今話題に上がったブレイバントを見た。ただし、ベルンド工房で売っているものとは効能が違うものであったけれども。
「あれは温めた麦芽糖にパープルアノールの舌筋から抽出したものを混ぜて、伸ばして適当な大きさに切って冷やすんですよ。
 麦焦がしを広げた台の上に落とそうと思ったら書類に零しました」
「……やけに書類がざらざらすると思ったら麦焦がしでしたか」
「おや、綺麗にはたいたつもりでしたが。これは失礼を」
 その時の事を思い出し、極力冷静を装おうとしながらスレート石を砕くクロサイトに、グレイアムは作り方の詳細を教えてくれたのだが、教えてもらったところでクロサイトは作る機会など無い。ただ、ローズが里でおやつとしてよく食べたと言っていたアメの作り方によく似ているなとは思った。煎った大豆を粉にしたものの上に、温めた麦芽糖を落として練りこんでいったものを好んで食べていたそうで、今ではタルシスに多く行き来しているウロビトがお土産として持ってきてくれる。そのアメとは似ても似つかない効能のアメをグレイアムは作っていた訳だが、ひょっとして今日もそれを売りに行ったのではあるまいな……とクロサイトは思ったが黙っていた。
「先日、おいでになられた時に効能をお見せしたでしょう。
 あれから少し改良して、配合する舌筋の成分を調整したら効き過ぎなくなった様でしてな。
 評判も上々です」
「左様で御座いますか」
「あの時のご協力感謝致します、クロサイト殿」
「………… ……どうも」
 ……どうやら推測した様にそのブレイバントを売りに行っていたのか、礼など述べられたものだから、クロサイトは今度こそ苦い顔をして一言返すだけが精一杯だった。否、別に先達ての事を後悔しているという訳ではないのだが、醜態を晒した事は素直に恥ずかしい。
 薬剤を作る現場を見せてほしいと言ってグレイアムの部屋を訪ねた時、ブレイバントを作る際にパープルアノールの痺れた舌筋から抽出した成分を規定より多くすると精力剤になる、と教えてもらったのだが実際食べるとどうなるのかを実演されてしまい、勃起されたままでも困るので、随分と以前の事だがギベオンがグレイアムのギルドに所属するユベールを酔い潰した事の詫びも兼ねてその処理を買って出た。口淫は弟が結婚する以前に執拗に施していたから大して苦にはならなかったし、ギベオンから時折話だけは聞いていたもののグレイアムとはその日初めて会話を交わしたので見ず知らずと言っても過言ではなかったが、立ち居振る舞いが死んだ師に似ていたのでそこまで抵抗が無かったのだ。ただ、口の中が弱い為に口淫後にこちらも勃起している事がばれてしまい、グレイアムに手淫してもらう羽目になった上に一度では治まらなかったから結局二度、彼の手の中で果てた。それだけでもきまりが悪いというのに、二度目の最中に何故か師の後ろ姿が強烈に目の奥に蘇ってしてしまい、恋しさのあまり泣いてしまったので、思い出すとこの上なくばつの悪い顔になった。
「これで良いかな。今度こそ不備は無い筈ですが、確かめて頂けますか」
「拝見しましょう。
 ……はい、結構です。明日私が持って行きますので、引き続き探索に出られても構いませんよ」
 暫く奇妙な沈黙が流れ、ペンが走る音と顔料の石を砕く音だけが部屋にこだましていたが、書類を書き終わったらしいグレイアムからチェックを頼まれて手を拭き受け取ると、破れて不備がある書類のものよりも比較的綺麗な字が踊っており、本当に焦って書いていたのだろうなとクロサイトは妙な感心をした。グレイアムのギルドに所属している者は生憎とユベールくらいしか知らないのだが、グレイアムの名前と年齢、離れて書かれているユベールの名前と年齢が一致しているので他の者も大丈夫だろうという大雑把なチェックしか出来なかったけれども、これを明日にでも統治院に持って行けば良いだろう。グレイアム本人に持って行く様に言えば恐らくまたあの部屋で汚してしまうに違いないから、クロサイトは自分が持っていくつもりでいた。
「持って行って頂けるので?」
「ええ。貴方の部屋では書類が迷子になる可能性もありますので」
「うーん……反論出来ませんな……」
「まだ片付いてないのですか」
「最近ユベールくん達が持ち帰ってくれる素材が結構多くて。
 良質なものは売っているんですが、売れないものを加工しようと思ったら時間が無くなっていくんです」
「加工を一旦休んで片付けられてはいかがですか。折角の鞄や服を汚してしまっているじゃないですか」
 スタンドに引っ掛けたグレイアムの鞄をちらと見ると、探索の汚れというよりもあの部屋で何らかの原因で汚れたと推測される様な染みがあった。会合の時に持って来ていた上質な鞄やスーツは何とか無事であった様だが、恐らく使用する時以外はずっと仕舞われているからに違いなかった。さり気なくギベオンに尋ねてみたところ、部屋はユベールくんがいつも片付けてるみたいですねとの回答が得られたので、ユベールも休ませなければあの部屋は片付くまい。否、別に他人のギルドの事まで頭を突っ込むつもりも無ければそんな余裕はクロサイトにも無いし、何より口出しするのもお門違いなのでそれ以上は言うまいと口を噤んだけれども。
「そうですね、先日貴方のスーツやハンケチを汚してしまいましたからな」
「……あれは、」
「スーツは大丈夫でしたか。
 跪かせてしまいましたし、お見送りした時は薄暗くて私もよく見えませんでしたので」
「……大した事はありませんでしたからお気遣いなく」
 一度目の手淫で腰が抜けていたクロサイトの両脇を抱え、わざわざ寝台に寝かせた上にスーツを汚さぬ様にとズボンを剥ぎ取ったグレイアムは、突然泣き始めたクロサイトに目を丸くしたものの、屈辱で泣いているのではないと分かると何も聞かずにそのまま続けてくれた。だが放られていたズボンが床に落ちてしまったものだから、クロサイトが帰る時に結局少し汚れていたのだ。繰り返すが、口淫をした事や手淫を施された事に対して恥じらっているのではなく、故人恋しさに泣いてしまった事が恥ずかしくて苦虫を噛み潰した様な顔になってしまったクロサイトを見たグレイアムは、薄く笑って見せた。
 目が、合う。狭い視野の中に映る薄い笑みは挑発しているのか誘っているのか、クロサイトには判断がつきかねる。さてこれはどういう意趣がおありかな、と、クロサイトも目を逸らさず暫く沈黙したまま見詰めあっていたのだが、やがてグレイアムがクロサイトの手から書類を取り机に置きながら空いた手で腕を掴んだ。そこまで力は入れていない、容易に振りほどける程度の強さで。
「何ですか」
「いえ、先日拝見した顔とのギャップに感心しております」
「奇行が目立つ私でも人恋しさに泣く事もありますよ」
「おや、誰がそんな事を言ったので?」
「ベ……ユベールくんが貴方にそう聞いたとうちの者は言っておりましたが?」
「これは失礼。私もそういう噂しか聞き及んでなかったのですよ」
 相変わらずユベールの事をベル君と略してしまう癖があるクロサイトは、今回はきちんと名前を言えたもののやはり一度口籠ってしまったが、グレイアムは今回も特に気にしていない風であった。それどころか噂について言及すればしらばくれる様に肩を竦めて見せたので、クロサイトも食えない御仁だと小さな笑みが出た。駆け引き、と分かれば、クロサイトも興じる余裕が出来る。相手も暇ではないと重々承知だが仕掛けてきたのはグレイアムの方なので多少遊んでみるのも一興か、という考えは泣き顔を忘れてもらう為の思惑からだ。
「では私には妻も子も居るとの話もご存知なのでは?」
「私にも居ますよ」
「おや、それは初耳でした。先達ての事がばれると貴方も大変でしょうに」
「お互い様なのでは?」
「さて。妻は貴方もご存知の通りの女性ですからな」
 グレイアムはクロサイトの腕を掴んだまま、そしてクロサイトはグレイアムの手を振り払わないまま、軽口を叩くかの様に薄い笑みを浮かべながら会話を交わす。見上げてくるグレイアムの表情は随分と機嫌が良さそうではあるものの、腹の内まではクロサイトには分からない。以前の事も含め不貞との認識はクロサイトには無いが、果たしてグレイアムはどうか、それも判断は出来なかったけれども、特に知りたい訳でもないので聞くつもりも無かった。まあ、不貞と思っているならこの様な真似はしない筈であるので、そちらが遊びたいならこちらも遊ぶだけだとクロサイトも思っている。……遊ぶには、外見はともかくとして立ち居振る舞いが師に似ているので気を付けなければならないが。
「………」
 どちらともなく、顔が寄る。腕を引かれたから屈んだ、はクロサイトの言となるし、屈まれたから腕を引いた、がグレイアムの言となるが、実際は同時であったから単なる理由付けにしかなるまい。ただ、それは後々の二人の会話であるので、今の二人の間には沈黙しかない。薄い唇が誘う様に僅かに開き、あとほんの数センチで触れるというその時だった。

「とうさま、おちゃをおもちしました。はいってもいいですか?」

「?!」
 突如扉がノックされて可愛らしい声が聞こえ、クロサイトは目にも留まらぬ速さで、それこそグレイアムが目を丸くする程の速さで彼の手を振りほどき、そして瞬時に体も離して扉を振り返った。入室許可を下していないので扉は閉じられたまま、その向こうに居るであろう少女はクロサイトの返事を待っている。
「……とうさま? いらっしゃいますか?」
「あ、ああ、居るよ」
「おきゃくさまがいらっしゃってるときいたので、おちゃうけももってきました」
「有難う、良いよ、入っておいで」
「はい、しつれいします」
 普段はすぐに聞こえてくる返事が無かった事を不思議に思ったのか、再度在室を尋ねられ、クロサイトはどもりながらも入室を許した。返事を聞くまでは部屋に入ってはいけないよ、という躾がまさかこんな時に役に立つとは思わなかったが、ある意味助かったとも思いつつ、そこまで気にする必要はないけれどもシャツの胸元を心なし閉じた。
 扉を開けて入って来たのは、茶器や菓子を盛りつけた皿が乗ったワゴンを押すローズだった。どうやら帰宅していたらしい。茶が趣味のギベオンはこの診療所に来た当時からいつも茶を淹れてくれていたのだが、段々と人数が増えた事により盆に乗せる茶器の数が増え、落として割ったら大変だからと言ってワゴンを買ったので、そこまで力がある訳ではないローズでも運ぶ事が出来る。ペリドットやモリオンが持ってこなかった辺り、赤子の世話があるのだろう。
「娘さんですか?」
「ええ。ローズ、私の……お仕事仲間の先生だよ。ご挨拶なさい」
「はい。はじめまして、ローズです」
「おや、素敵なご挨拶をどうも。グレイアムと申します、お父様にはお世話になっております」
 クロサイトに促され、はにかみながらもワンピースの裾を両手で軽く抓んでお辞儀をしたローズに、グレイアムも思わず口元を綻ばせて会釈する。古い家柄の出身であるモリオンが覚えておいて損はないだろうと教えてくれたカーテシーであるが、こんなところで役に立つとは思わなかったので、クロサイトは妙な心持ちになった。
 だが、そんな父をよそに、ローズはグレイアムをくるくるした瞳で見上げて小首を傾げた。おや、と思ったのはクロサイトだけではなくグレイアムも同じであったけれども、あ、とローズが思い出したかの様に声を上げた。
「あの、もしかして、おまつりのときの」
「……あぁ、あの時のお嬢さんでしたか。これは奇遇な」
「祭り?」
「戌神ノ月に収穫祭があったでしょう。
 その時にお嬢さんが貴方とはぐれて、間違えて私の白衣を掴んでついて来ていたんです」
「……そう言えばどこかのお医者の先生について行ってしまったと言っていましたが……」
 タルシスでは、毎年戌神ノ月に様々な作物の収穫を祝う祭が開かれる。この時の人出は凄まじく、出店が路地を狭めたりもするのでとにかく混雑してしまい、ローズは小さいことも手伝ってあっという間にクロサイトとはぐれてしまったのだ。夜であったから中々お互い見付ける事が出来なかったのだが、先にモリオンが見付けてくれており、無事であった事に胸を撫で下ろしていると、ローズは白衣を掴んだら知らないお医者の先生だったと言った。グレイアムも知らない子供がついてきた上に今にも泣きそうになっていて困っていた時に、保護者らしい女性が現れてくれたので内心ほっとした事を覚えている。
「貴方だったのですか。その節はご迷惑お掛けして申し訳ない」
「ごめんなさい……」
「ああ、いえ、私は何もしておりませんので。次はしっかり手を繋いでおく様にね」
「はい」
 父娘揃って頭を下げるとグレイアムは優しい声音でローズに笑いかけ、そんな彼にローズはもじもじしながら小さく頷く。そして、ちらとワゴンに乗せらられた砂時計を見た。
「もうむらしがおわってるとおもいます。さめないうちにおめしあがりください」
「有難う。ローズ達の分はちゃんとあるんだね?」
「あります」
「そうか。後は私がやるから、お行き」
「はい。しつれいします、えっと……ごゆっくりどうぞ」
「ああ、有難うございます」
 ギベオンがいつも紅茶の蒸らし時間を計る為に使っている砂時計はすっかり砂が下に落ちており、カバーが掛けられたポットは中身がカップに注がれる事を待っている。色とりどりの果物が上に乗せられているプチフールも、時間的に言えばおやつにちょうど良いだろう。部屋を出て行く際にぺこりと頭を再度下げたローズが扉を閉めて小走りでダイニングの方へ向かった足音を聞き届けた後、クロサイトはポットから茶を注いでグレイアムに差し出した。
「礼儀正しくて可愛らしいお嬢さんですな」
「どうも。弟と並ぶ、私の自慢です」
「ああ、弟さん……先程裏庭にいらっしゃった?」
「ええ。私の大事な片割れでして」
「……なるほど」
 カップを受け取ったグレイアムの言葉は、本音なのか社交辞令なのかは定かではなかったけれども、どちらにせよ娘が褒められたのでクロサイトも悪い気はしなかった。ついでにうっかり弟の事も言及してしまった為に、妙な納得顔をされた。大方奇行が目立つという類の噂と同列のものがグレイアムの耳に入っていたのだろうが、クロサイトにはあまり興味が無かった。人の評価はどうあれ、自分にとって大切な者である事には変わりないと思うからだ。
「このプチフール、ベルンド工房の4軒隣の店のものですか?」
「さあ、私はこういうものの情報に疎くて……」
「先日うちのギルドの女の子達が嬉しそうに買っていたから、多分そうでしょう。
 それは見た事が無いな……新しいラインナップかな」
「これは……コケイチゴ、ですね」
 生憎と椅子は一つしか無いのでクロサイトが立ったまま赤い実が乗ったプチフールを摘んで齧ると、薔薇を模した林檎の甘煮が乗っていたプチフールを一口で食べたグレイアムが興味ありげに見上げてきた。飲食店の情報はそれこそセラフィやギベオン、甘味になればペリドットが詳しいので、クロサイトは購入する店をそこまで詳しく知らないし、この菓子がどの店のものであるのかも知らない。今の言を聞いてやはり女性は甘味に対しての興味が強いのだろうなと思いつつ、グレイアムが不思議そうに見上げてくるのではて、と首を傾げた。
「いえ、お口が上品でいらっしゃると思って」
「……ああ、上品と言うか……昔、母親に食い物を口に無理矢理詰め込まれる経験をしたものですから。
 未だに少しずつしか食べられないのですよ」
「……デリケートな事を言わせてしまって申し訳ない」
「お気になさらず。昔の事です」
 会合の席で設けられた昼食の時間で食事作法がきちんとしていたグレイアムでも一口で食べられるプチフールを、クロサイトは半分ずつしか食べる事が出来ない。拒食症になる程母親に食べさせられた経験は未だに食事を前にした彼を僅かな怯えに晒すし、病を治し立ち直らせてくれた師は神に等しい。クロサイトは胸に過った多少の感傷と共に、口に入れた残りの半分を咀嚼して飲み下した。
「ふむ。コケイチゴもこうやって食べると中々美味いものですな」
「ストナードも独特の味がしますからね……あの青臭さというか岩臭さは無いので?」
「上手く消していますね、蜂蜜か何かかな」
 金剛獣ノ岩窟で採れるコケイチゴは、名前が示す通り苔の様に自生しており、甘みは強いが普通に栽培されている苺と違って独特の臭みがある。その臭みがゼリーにした際に口にした者の体を引き締め防御を固めてくれる働きをしてくれるのだが、こういう上品な菓子に向くとは思っていなかった為にクロサイトも意外に思ったし、グレイアムも同様であったらしい。
「ストナードは作らないのですか?」
「何度か作った事がありますがあまり美味しいものにならなくて。改良する為の材料の方の金額が嵩張るので止めました」
「まあ、緋衣草からハマオを作った方が遥かに稼げるでしょうからな」
「ええ。……でも今のは味に興味がありますね」
「ん……、申し訳ない、生憎と一つしか無かった様だ」
「じゃあこちらから味見しようかな」
「?!」
 ワゴンに乗った皿にはクロサイトが食べたコケイチゴのプチフールはもう無く、オレンジやブルーベリーなど定番のものしか無い。お譲りすれば良かったかな、と思ったクロサイトが甘ったるくなってしまった口の中を濯ごうとカップに手を伸ばそうとすると、その手を突如掴まれ引き寄せられた。何が起こったのか理解する前に塞がれた口は全くの無防備であった為にいとも簡単に内部への侵入を許してしまい、顎をしっかりと捕まれてしまったので逃げられなかった。
「、 ……ぅ、……っ、…… ……ふぁ、……っ」
 侵入してきた舌は熱く、コケイチゴとは違った酸味と香りが口の中にじわりと浸透する。林檎のものを食べていたからその味と香りだろう、などと考える余裕は今のクロサイトには無く、無遠慮に攻め立てる舌への応戦だけで精一杯だ。逃げると余計に絡まるという事は分かっているので激しく動かされない様になるべく緩やかに舌を絡みつかせると、一層深く吸われた。
「……確かにあの臭みは無いですね」
「だ、から、そう言った、でしょう」
 口の中に残った甘味を全て拭い去るかの様に歯列や上顎、舌下に至るまで舌を這わされ、グレイアムがいつの間に立ったのかも気が付けなかった程に口の中を乱されたクロサイトは、たったこれだけで既に声を上擦らせていた。自分から仕掛けるにはまだ良いのだが今の様に不意打ちで口付けられると、口の中が性感帯であるから腰が痺れて砕けそうになる。これ以上攻められる訳には、と思い体を離そうと試みても、どちらのものか判別がつかない唾液で濡れた唇を音を立てて吸われ、上手くいかなかった。
「……茶が冷めますよ」
「熱いものは苦手でして」
「ご冗談を。いつも行儀よく淹れたての茶を飲まれているではありませんか」
「小腹が空いているのですよ。プチフールに乗っていたコケイチゴが美味しそうでしたから、つい」
「しようのない御仁だ」
 何を考えているのか相変わらずいまいち分からないグレイアムの目は明らかにこの状況を楽しんでおり、ならばやはりこちらも楽しもうかとクロサイトが腰をぐいと引き寄せる。その行動に意外そうな顔をされたので、僅かに口角を上げた。こういう時はいかに相手のペースを乱せるかが優位に立つ為の鍵になる。
「娘を保護してくださったお礼を致しましょう。ただし、約束して欲しい事があります」
「何なりと」
「この部屋はダイニングに近い。娘達が談話している筈ですし、この部屋の前を通る事もあるでしょう。
 なるべく声を我慢して頂きたい」
「それはそれは……中々難しい注文ですな。貴方の口は具合が良いので」
「お約束頂けないなら、今日はこのままお帰り願う事になりますが?」
「……最善を尽くしましょう」
「どうも」
 顔を近付け、小声で条件を述べると、グレイアムは困った様に眉根を下げて薄く笑う。あの時は精力剤を口にしていたから感じやすくなっていただけで、今日は具合が良いと感じないのではないかとクロサイトは思ったのだが、それならそれで構わなかった。寝台を乱されるのは気が進まなかったけれども、立ったままだと前回の様に乱暴な事をされかねないので寝そべってもらい、グレイアムの体を跨いでベルトに手をかける。こんな日も高い内から何をやっているのやら、と思わないでもなかったが、ズボンを下ろしてシャツの下の方のボタンを外しながら薄い腹を啄み、まだ平静を保っている股間を撫でると頭上から微かに息を飲んだ声が聞こえたので、まあこんな休日も良いだろうと判断してから膨らみの上に口を落とした。布越しに触れたそれは、唇の感触に反応したのかはたまたこれから施される行為を待ち望んでいたのか、少し硬くなっていた。



 統治院は、中に入ると表通りの喧騒から解放されるものの、手続きなどに訪れる冒険者も多いせいか夜でもそれなりに賑やかしい。暗国ノ殿での探索の報告、ではなく、水晶宮との正式な交易を開始する為の膨大な書面を作成し、辺境伯に最終的なサインを貰う為にクロサイトは執務室へと足を運んでいた。外交官としての出入りとなるので制服を着なければならないのが堅苦しいが、辺境伯は気にしないとは言え形式ばかり拘る者もこの統治院には存在するし、成り上がりで外交官となっているクロサイトには風当たりが強いので渋々着用して出向した。
「おや、クロサイト殿ではないですか。珍しい格好ですね」
「…… ……どうも」
 その渋々の格好での出向時に、今までこの統治院で顔を合わせた事がない人間と会う事ほど気まずい事は無い。クロサイトは若干の照れが混ざった苦い顔で、前方から声を掛けてきた男に会釈をした。
「先日は代わりに書類を提出してくださって有難う御座いました。おかげ様で今日もユベールくん達が暗国ノ殿に行く事が出来ております」
「そうですか。それは結構な事で」
 声を掛けてきたのは、先日書類を書き直して貰ったグレイアムだった。何の用事があって統治院まで足を運んだのかは知らないが、探索の進行具合を辺境伯に報告に来たのかもしれない。会合の時には見せた事が無いよれよれの白衣姿である事から察するに、ユベールがまだ忙しいままなのだろう。本当に苦労性な子だな、と、ギベオンが何度か診療所に連れてきたユベールを思い出してクロサイトは心中で労った。
「それと、弟さんにうちの者達が礼を言っていたとお伝え頂けますか。いや本当、お裾分けしていただいた燻製肉が大変美味しくて。
 ユベールくんとハンスくんが無言で食べていました」
「ああ、伝えておきましょう。あれも喜びます」
 クロサイトの「娘を保護してくれた礼」が終わる頃には日暮れ時になっており、セラフィはとっくに燻製を終わらせていた。そしてグレイアムが診療所に隣接する宿屋に戻ろうとした時に、客人、持って帰れ、と無愛想ながらもその日燻した燻製肉を渡したのだ。油紙に包まれたそれはそこそこの重量があり、またかなり長持ちしそうで、探索に持ち出すには重宝するであろうと思われた。

『姪が世話になった礼だ。皆で食うと良い』
『それはどうも。しかし立派ですね、うちには食べ盛りの子が多いから喜びます。そうそう、貴方と同じ夜賊の子も中々の大食いでしてな』
『……なら、これもついでに持って帰れ』
『え、よろしいので? 戴けるものは戴きますが』
『大食いは腹をそれなりに満たしてやると良く働く。食わせておけ』

 ……兄達が何をやっていたのかなど知らぬセラフィはちょうど作ったからと、グレイアムにローズを保護してくれた礼を用意したらしい。それを受け取ったグレイアムが何気なく言った言葉に、既にスライスして麻袋に入れていた燻製肉も寄越していた。大食いの夜賊、と聞いて親近感がわいたのだろう。グレイアムが帰った後にそれを聞いてクロサイトも失笑したものだが、確かにセラフィはそれなりに腹を満たしてやれば動きが良くなる。満腹も体が重たくて良くないが、空腹だと動けなくなるからもっと悪い、とはセラフィの言だ。ハングリー精神は大事だけれども腹を減らし過ぎると八つ当たりをしそうになるので誰かと行動を共にしている時は適度に腹を満たしていなければならない、が彼の持論だった。
「いつも戴いてばかりですし、今度差し入れをお持ち致します」
「お気になさらず。食い物を作るのは弟の趣味ですから」
「コケイチゴの蜂蜜漬けが中々美味しく出来たんですよ」
「………」
 基本的に他人に物を寄越すのは単に趣味であるから気を遣われる程の事では、と言おうとしたクロサイトは、しかしグレイアムのその言葉に口を閉ざしてしまった。ストナードは作っていないと言っていたから、わざわざコケイチゴを蜂蜜漬けにする為だけに採集させてきたのだろう。緋衣草にしてもハマオにしても、コケイチゴやストナードよりも高額で売れるというのに、だ。本当に食えない御仁だと、クロサイトはこの上なく渋い顔になる。
 ただ、味に興味があると言って口付けてきた時、確かにグレイアムは執拗にクロサイトの口の中を舌で探り、その味を楽しんでいた。好みの味だったのかもしれないし、クロサイトが中々美味いと言ったのを受けてどうせなら好みの味のものを、と思ったのかもしれない。妙な腹の探りをするのではなく純粋な厚意として受け取っておこうと、どうも、とクロサイトは再度言った。
「……何ですか」
「いえ……やはり、ギャップの大きな方だと思っただけです」
「そっくりそのままお返し致しますよ」
「おや、いつの事を指しておいでかな?」
「さあ。ご自分の胸にお尋ねください」
 そろそろ行く為に会釈しようとしたクロサイトは、グレイアムが薄く笑いながら自分を見ているのを受けて怪訝な顔になる。それが普段の顔なのかどうかクロサイトは知らないし、この顔を見る時はグレイアムが大抵良からぬ事を考えている時であるのでつい身構えてしまったが、どう受け取ったものやら判断し難い事を言われて今度こそ意趣返しをした。恐らくグレイアムはクロサイトの今この時の立ち居振る舞いと先達ての行為の最中の表情の事を言いたいのだろうけれども、そんなものクロサイトでなくても誰だって持っているギャップであるし、グレイアムだってそうだ。それなりに艶のある声、上気した顔、声を漏れ出さぬ様にと耐える仕草は今の彼からは到底想像が出来ない。クロサイトが肩を竦めて目を細めながら軽く口角を上げたのを見て、グレイアムは実に楽しそうな顔を見せた。
「まあ、今後ともユベールくん共々宜しくお付き合い頂きたいものですな。
 ギベオンくんと随分仲良くなれた様だ」
「二人で三竜を倒しに行きたいなどと言った時はどうしたものかと思いましたがね。
 我々も二人で何か討伐しにでも行きますか」
「ああ、それは面白そうだ。その辺りの事もコケイチゴを持って行った時にでも話しましょうか。
 結局薬剤調合の事も話せてないし」
「……そうでしたな。そうしましょう」
「ではまたいずれ。貴方がコケイチゴの味を忘れないうちに参ります」
「……娘も喜ぶでしょう。では」
 恐らく本音が混ざっているのだろう社交辞令を述べられ何となく思い付きで提案した事にグレイアムも乗ってきたので、そういう交流の仕方もあるかなと思っていたクロサイトは、しかしどういう意味を含めているのかやはり真意が汲み取れない目の前の白衣の男に、若干崩していた表情をさっと元に戻した。グレイアムと知り合う切っ掛けになった薬剤調合の件はあれ以来全く教われておれず、今度こそお互いふざけずに真面目に話をしたいものだと思いつつ、クロサイトは口の中から奪われたコケイチゴの蜂蜜漬けの味を思い出しながら会釈して、二人は逆方向へと歩き始めた。統治院の中は相変わらず賑やかで、二人が立ち話をしていた事を気に留める者など居なかった。



other side・after

「随分遅かったですね、どこまで行商してきたんですか」
「冒険者登録の書類に不備があったから書き直す様にクロサイト殿に言われて、診療所に寄ってきたんだ」
「ああぁー……今度は書類の不備……
 チェックしなかった俺も悪いですけど、先生最近あちらの先生に迷惑ばかりかけてませんか?!」
「そんな事無いよ、快く部屋に入れて貰えたし描きかけの絵も見せて頂いたし。
 そんな事よりユベールくん、はいこれお土産」
「何ですかこれ」
「オオイノシシの燻製肉。クロサイト殿の弟さんから貰ったんだ」
「は?! 貰った?!」
「ちょうど燻してたらしくて。
 去年の戌神ノ月にクロサイト殿のお嬢さんがあちらと間違えて私の白衣を掴んでついてきてたから、そのお礼だって」
「ついてっちゃ駄目な相手じゃないですか」
「あれ、そんな事言って良いのかな?
 ユベールくんとハンスくんがよく食べるから喜ぶって言ったらこんなにおまけ貰ったのに」
「それ図々しいって言うんです! こないだ豚まん貰ったばっかりなのに……美味いの分かってるしどうやってお礼しよう……」
「ユベールくんって本当に苦労性だよね」
「誰のせいですか!!!!!」