「いでででで!!セルジュ、もうちょーっと優しくしてくれても良いだろー?!」
「あらまあ、大の男が情けない。これくらい我慢してちょうだい?」
「いって!!」
天幕の中で赤くなった頬に炎症止めの薬を塗った湿布をセルジュに貼って貰っているグレゴは、余りにも彼女がその湿布をぐいぐいと押さえ付けるものだから抗議の声を上げたのだが、セルジュは涼しい顔でぺしゃりと彼の頬を湿布越しに叩いた。口の端の切り傷は薬を塗ろうにも場所が場所なので消毒用のアルコールを染み込ませたガーゼで拭っただけで、大した事はやっていない。そもそも大した怪我ではないので大袈裟な手当ては必要無いのだ。
「はい、もう良いわよ。あとは時間が治してくれるわ」
「おーう、ありがとなー」
未だに痛む左頬は、それでも歯が折れなかっただけでも恩の字と言ったところだろう。自分よりも力が無いとは言え、男に殴られれば相応に痛いし怪我もする。殴り合いのケンカとか久しぶりだぜ…と独りごちたグレゴは自然と顰めっ面になってしまった。そもそも非はこちらに無いのに、理不尽過ぎる。
「それにしても、ロンクーが殴るだなんて余程の事ねぇ。何をしたの?」
「されたのはこっちだ、俺ぁなーんもしてねえよ」
「あらまあ、ユーリ達には自分から殴ったって言ったのに。どっちなの?」
「ぜーんぶ俺が悪ぃ事にしてた方が面倒臭くねぇだろー?」
「変なところで庇うのねぇ…」
グレゴの頬の赤みは、ロンクーから殴られた事が原因だ。セルジュが言った様に、ロンクーは滅多な事が無い限りは、というより今まで一度も暴力に訴えた事が無い。そんな彼が何故グレゴを殴ったのかの理由は、余り他人に話したくはなかった。手当をして貰う以上セルジュには話したけれども、何が悲しくて男同士の痴情の縺れで、などと説明しなくてはならないのだ。そう、恐らく誰が聞いても痴情の縺れになってしまうだろう。



そもそもの始まりはグレゴがガイアと深夜番で組む事になり、夜番の者達と交代する前の雑談の時だ。彼らは軽い夜食を摂った後に夜番の者達と交代する手はずになっていたのだが、その夜番の人員にロンクーが居た。だからグレゴはロンクーと交代する様な形になっていて、スライスしたライ麦パンにヒマワリ油と岩塩を混ぜたものをつけて篝火の近くで立ったままガイアと食べていたのだ。彼らはどちらかと言えば裏稼業の者であり、干渉の仕方も心得ていて、距離の取り方を重々承知していたものだから一緒に行動しても衝突を起こさず、また淡々と仕事をこなす為、良く組まされていた。軍師のユーリから内密に下される命もそれなりに汚い事もあり、その事についても2人は黙って粛々と実行していた。グレゴもどちらかと言えばイーリスの騎士達などに汚い仕事はさせたくはなかった―と言うか出来ないだろうと思っていた―ので、不満に思った事は無い。多分ガイアも同様だった。
そんな時、ガイアが親指についたらしいヒマワリ油を舐めた後に何かに気付いたらしく、身をグレゴに寄せて話し掛けてきた。
「なあおっさん、お前の恋人がこっち見てるぜ?」
「おっさん言うな。…あー、誰が恋人だ、違ぇよ」
ガイアは良くグレゴをおっさん呼ばわりし、グレゴは毎回それに対して不満の声を漏らした。しかし一向にガイアはそれを改めず、寧ろ今ではこの遣り取りを楽しんでいる様でもある。この時もそうだった。ガイアの視線の先には、夜空と同じ色をした髪の男がこちらを見ている姿があった。どうやら見回りから戻り、交代要員であるグレゴ達を探していた様なのだが、ガイアが親しげに隣に居るのでどう話し掛けて良いのか分からないらしい。情報収集も得意な盗賊であるガイアは彼らに肉体関係があるという事を知っているし、グレゴがその事に対して不本意であるという事も察しているので、からかっている様だ。
「やる事はやってんじゃん。ま、恋人じゃなくてもやれるけどな」
「確かになー」
目線をグレゴではなく件の男―ロンクーに向けたまま、ひそひそとガイアが話す。内容が内容だけに大声で話さない方が良いというのは流石の彼も考えてくれている様で、それでもグレゴが不本意そうな顔をしているのが気配で分かっているのか喉の奥でおかしそうに笑った。
「なあ、賭けようぜ。あいつがこっちに来るかどうか」
「んー?あー、来ねぇ来ねぇ。あいつへたれだし」
そして提案された賭け事に、即座にグレゴはロンクーを馬鹿にする様に手をひらひらと振った。最初から賭けにならない、と言うかの様に否定したグレゴに、ガイアはにやっとする。
「じゃあ来ない方に賭けるな?」
「賭けようじゃねえの」
「よし、俺が勝ったら甘い物くれ。お前が勝ったら酒やるよ」
「いーいねぇ」
そもそも交代を言いにロンクーは来た筈であるが、姿を認めたなら既にその旨は伝わっているのでわざわざこちらにも来ないだろうし、ガイアと何か話し込んでいるというのを見れば尚の事来ないだろうとグレゴは判断した。ロンクーはそういった点では気が小さいのだ。ただ、そんな事を知っている者は殆ど居ないという事にグレゴは気付いていなかった。
グレゴの返事を聞いたガイアは自分より背の高いグレゴをちらと横目で見上げ、怪訝そうな顔をした彼の顔を確認してから再度立ち尽くしたままのロンクーを見遣る。そして何故か鼻で笑う様な笑みをロンクーに対して浮かべると、素早くグレゴの頭に手を回して引き寄せた。
「っ?!」
その速さに反応が遅れたグレゴは、唇に押し当てられた感触に目を丸くした。視界にはガイアの笑う目元がある。なるほど、何をしてはいけないという条件など何も提示していなかったものだからキスしてきたらしい。してやられた、とグレゴが理解するのには3秒程時間が掛かってしまったが、彼が突き放す前にガイアはさっと体を離して苦い顔をしているグレゴを尻目にロンクーの方を見た。
「おっと、俺の勝ちみたいだな!じゃおっさん、明日甘い物、よろしく頼むぜ!」
「あ、おい!ちょっと待っ…」
そして売りの1つにしている身軽さ、というか足の速さを生かし、ガイアはロンクーが居る方向とは真逆の方へと走って行った。今更キスの1つや2つで何かが減るものでもないとお互い思っているからやれた芸当であるが、しかしまさか甘い物を入手する為にこんな中年にキスをしてくるとは思っていなかったグレゴは相当に苦い薬湯を飲まされた時の様な顔をして走り去るガイアの背を見送る。耳にはこちらに足早に向かって来る足音が1つ、滑り込んできていた。
「…何だぁ?何か用か」
ざり、と足音が自分の側で止まったのを確認してからグレゴが罰の悪そうな顔で振り返ると、ロンクーは気まずい様な怒っている様な、形容し難い表情でそこに立っていた。何と聞いて良いのか分からないのか、少しだけ奇妙な沈黙が流れる。篝火の燃え盛る音だけがいやに大きく聞こえ、その明かりがゆらゆらと、まるで彼の心情を表す様にロンクーの顔を照らしていた。
「…ガイアと何を話していた?」
「何って、別に何でも良いだろうがよ。疚しい事ぁなーんも話してねえよ」
賭けでお前がこっちに来るかどうか話していた、と素直に言えば良かったのかも知れないが、流石のグレゴも本人を目の前にして相手の想いを踏み躙る様な発言をする気にはなれなかった。ロンクーを試している会話をしていると思ったからだ。実際試した訳だけれども。
「…キスは疚しくないとでも?」
不愉快だったのか理解出来なかったのか、ロンクーが眉を顰めて短く問う。一応ロンクーはグレゴに対して求婚した事もあるのだから、その相手が別の人間とキスした所を見るのは気分の良いものではないだろう。それはグレゴにも分かる。しかし指輪を受け取らず断り、今でもそれをくれと言っていないのだから、まだ心は動いていないという事は察して欲しいとグレゴは思う。…まあ先程の不意打ちは自分にも非があるとは自覚しているが。
「いちいちキス如きで目くじら立てんなよ、器が小せぇなー。
 お前もいい加減俺以外でそういう相手見付けてみろ、視野が広がるぜー?」
常々思っていた事を言った瞬間、グレゴは顔に走った衝撃に一瞬目の前が真っ白になったのだが、よろけただけで何とか耐えた。そして殴られた、と理解した時には咄嗟に体が反応して、つい手を上げてしまった事に対してしまったという様な表情をしているロンクーを、拳で力いっぱいに殴っていた。



…そして殴り合いの喧嘩に発展し、既に休んでいたのに騒動によって叩き起こされたユーリやバジーリオにきつくお灸を据えられ、今に至る。軍規により私闘は固く禁じられているので2人には食事当番だの水汲み当番だののペナルティが課せられ、先に殴ったのはどちらだと聞かれた時にロンクーが答える前にグレゴが俺だと答えた為に、彼には更にペナルティとして減給十分の一が3ヶ月も課せられた。踏んだり蹴ったりだぜ…とげんなりしたまま、彼はロンクーと口も利かず目も合わせず、軍議用の天幕を後にしてセルジュに手当を頼んだという訳だ。セルジュは夜中まで裁縫などをしている事があるので、彼女が居る天幕から光が漏れている事を確認してから中を覗い、そして申し訳程度に手を合わせて手当をして欲しいと頼んだ。彼女は呆れた様な顔をしたけれども、事情を説明すると救護用の道具箱を取り出して天幕に入れてくれた。深夜に女の天幕に入るのは気が引けたのだが、この際仕方ない。
グレゴには男を好きになる趣味は無い。他人に好意を持つというのは結構な事であるし、例えば他の男が別の男を好きであっても大いに結構なのだが、それが自分に向けられた好意であれは話は別だ。否、極端に言えば向けられるのもこの際構わないけれども、それを返して欲しいと言われても無理だ、という事なのだ。少なくともグレゴにとってはロンクーは好意の対象になり得ない。
グレゴは10才になる頃から家族を養う為に体を売って稼いでいた。父親が働かなかった、というより特殊な職業の職人で、安定した収入が望めなかったからだ。売春以外にも路上で楽器を爪弾いたり見よう見真似で覚えた踊りを踊ってみたり、とにかく他人に媚を売って生計を立てていた。その中で覚えたのは「金銭で結んだ体の関係は決して信用してはならない」事と、「金銭で体は繋げても心は繋がらない」事だった。特に後者は、彼が今まで誰1人として繋がったと思えた試しが無かったのだ。勿論グレゴが自分を買った相手を見下している所が大きいけれども、普通一夜の関係を結ぶ相手にそんな事を要求する者も滅多に居ないので、飽くまで事務的に事を済ませていた。本当に極稀に入れ込んでくる相手が居るが、煩わしくて逃げた。
だが、今回は逃げるにも逃げられない。何せ職場(と言って良いのか分からないが)が同じで毎日の様に顔を合わせる相手がそうなってしまった以上、軍を辞すくらいしか逃げる手立てが無いのだが、食いっぱぐれる事になる上にノノと一緒に雇い入れてくれたこの軍に恩を仇で返す事になってしまうからそれは避けたい。何がどうなってあいつぁ俺に惚れたんだろうなあ、とグレゴは溜息しか出ない。その溜息を聞いたセルジュは小首を傾げた。
「だけど、貴方達付き合ってるのに派手な殴り合いが良く出来たわね?」
「…お、おい、俺達ゃ付き合ってねえぞ?!」
「あらまあ、そうなの?皆そう思っているみたいだけど」
「皆?!皆って何だぁ?!」
「皆は皆よ。私達はそう思っているのだけど、違うのかしら?」
セルジュの質問にぎょっとしたグレゴは、追い打ちをかける様な彼女の言葉に絶句した。道理でここ最近、従軍している非戦闘員の女共が自分に対して奇異の目を向けたり何となく羨望の目線で見ると思ったら、とグレゴは思わず頭を抱えてしまった。ロンクーはその均整な顔立ちもあって女にモテるものだから、恐らく何故よりによってこんな男と、と思われているのだろう。しかしグレゴは全く以てそんなつもりは無い。断じて無い。
「違う!少なくとも俺は付き合ってるつもりはねえ!!」
「でもロンクーはグレゴの事が好きよね?」
「俺は好きじゃねえぞー?」
「寝てるのに?」
「ぶっ!!」
…隠せているとは思っていなかったが、面と向かって言われるとダメージはでかいものだ。頭をガツンと殴られた様な衝撃を受けてしまったグレゴは本当に頭痛を感じてきて、こめかみを押さえてしまった。何故自分がこんな目に遭わなければならないんだという胸のむかつきが彼を支配していく。
「あ、あーのなあセルジュ…そもそもあいつが俺に男にしてくれって依頼してきたんだぞ?
 それで好きだとか言われても、俺ぁ困らぁな」
「じゃあ、例えるなら娼婦に入れ込んでしまった男性と言えば良いかしら?」
「まあ…同じ事だよなー」
「グレゴは好きではないの?」
「ねえなぁ」
「じゃあどうして寝るの?」
「金くれるし断ったら後が酷ぇ」
「そう…。贅沢ねぇ、ロンクーに思いを寄せてる女の子は沢山居たのに」
「そいつらに任せてぇくらいだよほんと…」
心底頭が痛そうに盛大な溜息を吐いたグレゴに苦笑したセルジュは、救急箱を片付ける為立ち上がると彼に肩を竦めて見せた。何か言いたげな彼女の笑みにグレゴが不思議そうな顔をすると、セルジュはうふふ、と笑った。
「男性同士の痴話喧嘩の悩みを聞くなんて、滅多に無い事だもの。
 それにしても本当に愛されてるのね。少し羨ましいわ」
「…はぁ〜?冗談じゃねえ、どうせ愛されんならあんたからが良いぜ、セルジュ」
「あらまあ、私は嫉妬深いから好きな人が他人とキスでもしようものなら殴る前に2人とも殺してしまうわよ?」
「おぉ…そりゃー強烈だな…」
セルジュの笑みは時に絶対零度なものになる。今もそうなった。私に軽口を叩くならまず他人とそういう関係をすっぱり切ってから言って頂戴、とでも言う様な彼女の言葉は、グレゴに引き攣った笑いを浮かばせた。ガイアとの事も口の固いセルジュならば大丈夫だろうと言ったのだが、考えたら彼女は最近ガイアとそれなりに仲が良かった気がする。ただこればかりはガイアが撒いた種であるので、グレゴは俺ゃ知らね、と背を縮こまらせたものの、さっきセルジュは「2人とも殺す」と言った。つまりそれは、もしセルジュがガイアに好意を抱いていたとするなら自分も殺される対象に入る訳で。
「…まー…何だ…、各方面に迷惑掛からねぇ様にするさ…」
「そうする事ね。ロンクーにも言っておかないといけないわね、夜中に叩き起こされない為にも」
「んー、悪ぃけど頼むわ…」
引き攣った顔から疲れた様な表情になり、腫れた頬を湿布の上から指で撫でたグレゴはもう一度溜息を吐いた。セルジュは女性戦士達の中でも年長の部類に入る。なのでそれなりに頼られる事も多く、軍の中でも年長者に入るグレゴも何だかんだで彼女に頼る事もある。今日も結局手当てなどで頼ってしまった。彼女を敵に回す事だけは避けたいし、セルジュにはミネルヴァという愛竜も居るから、下手すればその愛竜にも齧られかねない。
「邪魔しちまったな、ありがとなぁ。
 あんたもそろそろ休んだ方が良いぜー?」
「そうね、そうするわ。おやすみ、グレゴ」
「んー、おやすみ」
背筋に寒いものが走ったグレゴはセルジュに礼を言うと、彼女に寝る様に促してから天幕を後にした。東の空はまだ明るくなろうとはしていない。騒動により深夜番を欠番になってしまった彼も、少し眠ろうと思っていた。