酸味のある、爽やかな香りが辺りを漂う。柑橘系のその匂いはノノも好きではあるが、味も好きかと問われれば、彼女の口にとっては酸っぱすぎるのでそこまで好きではない。ノノは外見に違わず味覚も子供なので、柑橘系の酸味は然程得意ではなかった。
その、然程得意ではない果実が本日の配給の果物であるらしくて、ノノはいまいち機嫌が良くならなかった。今まで彼女が生きてきた中で殆ど食べられなかった日もざらではないし、与えられるだけ有難いというものなのだが、それでも好きという訳ではないので気分が上がってこなかった。恐らくこれが普段の日であるならば彼女もここまで機嫌が悪くなかったのだろうけれども、今日の日中に繰り広げられた戦闘で持ち場を勝手に離れてしまったので怒られてしまったから、余計に機嫌が悪かった。確かに怒られて然るべきなので、彼女には反論など出来る訳ではないけれども。
イーリスに戻る前にフェリアに寄って英気を養ってから凱旋する、との事だったので、全軍フェリアに向けて行軍している。中央砂漠からフェリアに向かっていたあの時の様な重苦しい雰囲気は全く無く、ギャンレルを討った事により士気は上がっていたし、また天気も良くて西の空がとても綺麗な茜色に染まっている。そんな中、ノノはひとりで木陰に座って配給のライ麦パンを食べていた。
柑橘の匂いは、先程も述べたが彼女は好きだ。ずっとずっと昔、ノノが好きだった人が好きだったから、匂いを嗅ぐとその人の事を思い出して少し心が温かくなる。彼女は千年以上生きているのだから恋人と呼べる男が居た事だってあるのだ。ただ、今その事を言ったとしても誰も信じてはくれるまい。この軍の皆はノノと一緒に良く遊んではくれるが、彼女を自分より年上と思ってくれる事が殆ど無い。銀髪の弓兵はきちんとノノの事を敬ってくれているけれども、彼以外はノノを見た目の年齢の子供の様に扱う。その方が遊んでくれるから文句は無いとは言っても、ノノは矢張りこの軍の誰よりも長い時間を生きていて多くの経験を経ている。それなのに本日配給の果物は苦手なのかと言われたら、彼女はぐうの音も出ないけれど。


―また食べてるの?好きだね、ナツミカン。
―うん、ノノも食べる?
―いらない。ノノ、甘酸っぱ苦いの嫌いだもん。
―そっかぁ、参ったなあ、僕、ナツミカンが一番好きなのに。


もう300年程前になるだろうか、その頃に知り合った男は、ノノが売られた見世物小屋から連れ出してくれた後、死ぬまでずっと一緒に居てくれた。両親を探したいと言ったノノの我侭にも付き合い、生涯定住の場を設けず、ずっと旅を続けてくれた。そんな彼が一番好きだったのがナツミカンだった。一番好きだと言っていた通り、旬の時期になると毎日と言って良い程良く食べていて、ノノもその度挑戦するのだが矢張り彼女には酸っぱくて殆ど食べられなかった。そしてその彼女の反応を見る度、男は無理して食べなくて良いんだよと苦笑した。
何人もの人間が自分に関わり、そして死んでいったのか、ノノにはもう数えられない。生まれてすぐに攫われて両親と離れ離れになり、長い時間を一人で生きてきた彼女にとっては、出会った時に自分と見た目年齢が同じでも直ぐに居なくなってしまうとどこか諦めにも似た思いを抱いてしまう。だから今、彼女が属しているこの軍の皆も、何時かは自分を残して逝ってしまう。寿命が違うから仕方の無い事とは雖もそれが悲しいとノノは思う。
「よーう。隣、良いかぁ?」
そんな彼女の感傷を知ってか知らずか、ふわ、とその柑橘の匂いがきつくなったと同時に良く知る声が頭上から聞こえたので見上げると、手の上で軽くナツミカンを投げている、やや灰色がかった赤茶色の髪の壮年の男が腰を屈めて覗き込んでいた。出来れば今一番会いたくなかったのだが、かと言って断る理由が無いノノはじろっと上目遣いで睨んでそっぽを向いただけで、断りはしなかった。何故会いたくなかったのかと言われれば、何の事は無い、前述した不機嫌の理由の「持ち場を離れて叱られた」相手がこの男だったからだ。ついでに言うと、軍師のユーリにも注意を受けた。
ノノが不機嫌である事は分かった様だが、男は立ち去る事無く彼女の隣にどっかりと座った。見た目がアンバランスな組み合わせの二人ではあるが、実際はギムレー教団に追われていたノノを助けてくれたのはこの男であるし良く組んで屍兵と戦ったりする事もあるので、軍の中では一緒に食事を摂っていても大して珍しいとは思われなかった。
「…食うか?」
ライ麦パンを食べ終わったノノが珍しく配給の果物を持っていない事に気が付いたのだろう、男は―グレゴはナツミカンを剥きながら短く尋ねてきた。酸味のある匂いが鼻腔を刺激し、件の彼の事を強烈に思い出させたが、ここで感傷に浸る程ノノはセンチメンタルな心の持ち主ではなかった。
「いーらなーい。中袋剥くのめんどくさいんだもん」
「あんたやっぱりそういうとこ、子供みてーだな」
「むー、ノノは大人のおねーさんなんだから!」
「へーへー」
ノノの抗議を苦笑しながら軽く流したグレゴは、ナツミカンの外皮を剥くと中袋も綺麗に剥き始めた。匂いは好きなんだけどなあ、とノノが思っていると、再びグレゴが声を掛けてきた。
「ノノ、口開けてみ」
「へ?」
そして言われた通り、何の疑問も持たずに小さな口を開けると、ぽいと口の中に何かを放り込まれた。その瞬間、口の中に広がった甘酸っぱい味覚は間違いなくたった今グレゴが剥いたナツミカンのものに他ならなくて、思わずノノはきゅうっと目を瞑って顔を歪ませた。
「すっ…ぱあーい!!」
「うおっ!な、何だ、ひょっとしてあんた酸っぱいの駄目なのか」
まさか大声を出されるとは思っていなかったグレゴは心底驚いた様な声を上げたが、本気でノノが苦手そうな顔をしているのを見て慌ててコップの水を差し出した。ノノも薄目でコップを確認すると急いで受け取り、一気に飲み干すと、再びグレゴを上目遣いで睨んだ。
「もー!口に入れるなら言ってよー!」
「いやー、剥くのが面倒なだけかと思ってな…悪ぃな」
「ノノ、ナツミカンみたいに甘酸っぱ苦いのは苦手なの!剥くのもめんどくさいけど」
「そーかぁ、まーいったなぁ、俺、ナツミカンが一番好きなのになー」


―そっかぁ、参ったなあ、僕、ナツミカンが一番好きなのに。


ナツミカンの味と匂いと共にぶわっ、とノノの全身を駆け巡ったその言葉は、紛れもなくずっと昔、一緒に生きていた男が発したものだ。ちゃんと食べられる様になるからね、と約束したのに、結局ノノは彼が死んでしまった今でも食べる事が出来ずにいる。甘いのに酸っぱくて、それでいてほろ苦い果実は、まるで彼と過ごした時間の思い出の様だ。
「…グレゴ、ナツミカン好きなの?」
「おお、一番好きだぜ。
 旬になると毎日食うから手がナツミカン臭くなるんだよなー」
「…そうなんだ」
ノノの記憶の中の男の手も、ナツミカンの旬の頃はいつもその匂いがしていた。けれども、ノノはその香りがする荒れた大きな両手で頬を包んで貰うのが大好きだった。一人にしてごめんね、と、死ぬその瞬間まで自分を案じてくれたあの男に、堪らなく会いたいとノノは思った。
「…な、なーんだよ、そんなにナツミカン嫌いだったかぁ?」
ぎょっとした様に慌てて自分を覗き込んできたグレゴの顔が滲んで見えて、ノノはそこで自分が泣いているのだと気が付いた。しかし悲しい訳でもつらい訳でもなく、心の中をナツミカンの匂いが満たしてじんわりと温かくなっていくのが分かって、彼女はぎゅっと目を瞑って涙を瞼の中から全部押し出して両手で拭った。
一方のグレゴはノノが急に黙ったかと思えば何の前触れもなく泣かれてしまったものだからすっかり動揺してしまい、どうして良いのか分からなかった様なのだが、困った様に右手で項を擦ってから彼女の小さな頭を無骨な大きな手でぽんぽんと撫でた。
「その…、さっきは悪かったな」
「…?」
「あんたの言い分聞かずに怒っちまって、悪かった」
「………」
泣かれた理由が取り敢えずナツミカンを食べさせた事とその事くらいしか覚えがなかったのでグレゴはそう謝ったのだが、当たり前ではあるがノノがそんな事で泣いたという事は分からない。それでもノノは彼が謝ってくれた事が嬉しかったので、もう一度ごしごしと手で涙を拭いてからこっくり頷いた。
「でも、ノノが勝手な事しちゃったからグレゴ怒ったんでしょ?
 ユーリからも仲間を大事にしなきゃ駄目だよって言われたの。
 ノノ、もうあんな事しないよ。ごめんね?」
「ん…、分かってくれたなら良いんだ」
機嫌が直った様に、聞き分け良くノノが素直に謝ったのを見て、グレゴも内心ほっとした表情でまた彼女の頭を撫でる。彼は弟に対して何時もこうやっていたから、子供相手にはこれが一番の宥め方だと思っている。
「ただ、そーだなあ、戦わずして敵を追っ払ったのは、偉いと思うぜ?」
「ほんと?ノノ、えらい?」
「おー、偉い偉い」
褒めると完全に機嫌が直ったらしく、ノノはえへへ、とはにかむ。褒めたり遊んであげたりすると喜ぶ彼女は、長い事一人で過ごした事も相まって人一倍甘えたがる。これで大人のおねーさんねえ、説得力全くねーっての…とグレゴは思ったが黙っていた。口に出したらまた拗ねるに違いなかったので。
「ねえねえ、ナツミカンもういっこちょうだい?」
「んー?でもあんた、さっき苦手だって言ったろー?」
「グレゴ、好きなんでしょ?
 ノノも好きになりたいから、食べるの」
「ほー。じゃあそのまま野菜の好き嫌いも克服しようぜ」
「それとこれとは話がちがうの!
 ねえねえ、早く剥いてよ」
「へーへー、分かりましたよ…」
ノノから催促されて膝の上に置きっぱなしだったナツミカンの中袋を再び剥いたグレゴは、すっかり機嫌が直ってにこにこしながら剥き終わるのを待っていたノノの口に一つ放り込む。無骨で荒れた大きな手、ナツミカンの爽やかな匂い、そして口に広がる甘酸っぱさ。
「すっ…ぱあ〜い!」
やっぱり味は変わる事など無かったけれど、ノノのその反応に無理して食わなくても良いんだぜ、俺が全部食うしと苦笑したグレゴの表情が、遠い昔の記憶の人に重なった気がしていた。