※流血表現・多少グロテスクな描写を含みます。R-15


―――太陽の様なひとだった。


ノノにとってもそろそろ遠い記憶になってしまう程昔、見世物小屋から手を引いて連れ出してくれた男は、それから以降生涯ノノの側を離れる事は無かった。出逢った頃はまだ少年の様な風貌だった彼は全く老いる事がないノノとは対照的にどんどんと大人の男になっていき、定住の地を設けず両親を探す旅を続けるノノの手を引いて彼女を養っていた。暑がりだった彼は暑い地方を余り好まなかったのだが、ノノの旅の目的が両親を探す事であったから、辛抱してそういう地方を巡ってくれた事もあった。
少年の細い腕は何時しか逞しい青年のそれになり、ノノの小さな手では掴めない程の大きさになっても以前と変わらずノノをぎゅっと抱き締めては僕が居なくなっても強く生きなきゃ駄目だよ、と強い瞳で厳しく言った。死んじゃいやだよとノノが言っても、困った様に笑ってはごめんね、と謝るだけで、死なないよとは決して言わなかった。彼はそれまで700年は生きてきたノノが、それでも何も知らないこどもと殆ど変わらないという事を重々承知していたから、自分が居なくなった後も困る事が無い様にと色々な事をノノに言い聞かせていた。知らない人に簡単について行っては駄目だとか、むやみやたらと竜に変身しては疲れてしまうし、何よりそれを知った悪い人間にまた捕らえられてしまうから極力変身しない様にだとか、一所にずっと居ると年を取らない事を知られてしまうからある程度の年月が経てば別の所へ行きなさいとか、そういう様な事ばかりノノに教えた。
勿論その事に対し、ノノが悲しくなるからそんな事を言わないでと言った事もある。だが彼にとってはとても大事な事で、ノノをまた見世物小屋などに売られてしまったりしない為だから、と、その荒れた手でノノの頬を包んではごめんね、聞き分けてね、と言った。ノノはマムクートであるが故に人間に捕らえられてしまえば売買の対象とされてしまう。事実無根の言い伝えでは、竜族の肉を喰らえば不老不死になるというものだってある。ノノが人間の欲の犠牲となってしまわない様、彼は様々な事をノノに教え込んだし躾けた。
そんな彼は、矢張り太陽の様なひとだったとノノは思う。何時も明るいノノではあるが、時折どうしようもなく不安になって暗くなってしまう事もあったりしたけれども、そんな時でも彼はノノの暗く冷え切ってしまった心を照らす様に、また温める様に側に居てくれた。おひさまみたいだね、とノノが言うと、彼は笑ってそれはノノの方だと思うよと言った。けれど、ノノにとっては間違いなく彼が太陽であったのだ。その太陽は毎日昇るものだと信じていた。彼が自分の細い腕の中で死んでしまうまでは。
それまでにも、親身になってくれた人間が死ぬ場面に遭遇しなかった訳ではない。だが、恋人と呼んで全く問題ない相手が息を引き取ったのは彼が初めてであったものだから、ノノの悲しみ方は尋常ではなかった。暫くは泣き暮らしたし、彼の最期の地から数年は離れる事が出来なかった。けれども彼が最期に言った言葉を思い出し、何時までも留まってはいられないと思い、ノノはまた放浪の旅に出たのだ。長い長い、一人きりの旅は、寂しくなかったと言えば嘘になる。ノノにとってとても短い、たったの数十年の間、側に居てくれた男が居ないの旅は酷く心細くて悲しい思いをした。だが、強く生きなさいと言われた以上はそう生きなければならない、ノノはそう思って彼の事を思い出しては泣く事を止め、各地をずっと放浪した。
長い放浪の間、時には親切な夫婦の世話になったり、時には旅芸人の一座と行動を共にしたり、多くの者達と接してきたけれど、矢張りノノは基本的に一人だった。彼女が人間でないと知ると、一緒に居るとお互い危ないから、と別れを切り出される事も多かった。その度ノノは辛い思いをしたのだが、その者達の言う事も尤もであったから、責める事は一切しなかった。ノノ一人でさえ数え切れない程危険な目に遭ってきたのだから、誰も責める気にはならなかった。
その放浪の中で、当たり前だが毎朝日が昇る。けれどもノノは自分の太陽はもう昇らない気がして、夜が明ける度に溜息を吐いた。マムクートは一度眠りに就くと人間の常識では考えられない程長く眠り、それが数十年、時には数百年になる事もあると言う。ノノの場合は生まれてすぐに攫われ、人間と同じ生活リズムで過ごしたものだから、一応は毎日眠るし毎日起きる。だから毎日太陽が昇るのを見る事が出来たのだが、それを見るのが辛くて朝遅く起きる様になってしまった。


―――ほれ、立てるかい嬢ちゃん?


そんなノノが眠れなかったあの日、膝を抱え座って泣いていた彼女に、しゃがんで目線を合わせ無骨なその手を伸べてくれたのがグレゴだった。ペレジアのギムレー教団に捕らわれ、邪竜ギムレーの復活の為の生贄にする為に軟禁されていたノノを不憫に思ったらしい彼は、見張り役の兵士の項に手刀を入れて気絶させてからノノを連れ出そうとしてくれたらしかった。だが残念な事にその時のノノはグレゴの事を「怖い人」認定してしまい、彼から逃げてしまった。クロム達に助けて貰った後に詫びと礼は言ったが、グレゴは暫く落ち込んだらしい。確かに人相が良いとはお世辞にも言えねぇけどよ、と深い溜息を吐かれた時は、流石のノノだってもう一度ごめんね?と謝ったものだ。
ミラの大樹での戦闘の真っ最中に初潮を迎え戦線を離脱した時、救護にあたってくれたマリアベルからグレゴの事が好きなのか、と聞かれた。その時は分からないと答えたし、実際本当に今でも良く分からないのだが、グレゴからは懐かしいあの男の気配が感じられた。しかしグレゴはグレゴであり、あの男はあの男だ。同じではない。いくら心が幼いノノでもそれは十分理解しているし、同じと思う事はどちらの男に対しても失礼であるという事は分かっていた。けれどもノノはあの男に何時もしていた様に、グレゴにも抱き着きたいという思いがあった。駆けて突進して行けば必ず捕まって直前で阻止されてしまうのだが、ノノは無意識の内にグレゴに抱き着きに行っていたのだ。懐いているというのもあるし、一番遊んでくれる相手だからというのもある。しかし最大の理由は共に居て心地よいからなのだという事に、ノノは最近やっと気付いた。この心地よさは300年前にあの男が齎してくれたものと殆ど同じだ。なので多分マリアベルに聞かれた様に、そういう意味で好き、なのだろう。
だからミラの大樹の戦闘後から避けられていたのは酷く辛かったし悲しかった。セルジュからはきっと気まずいのよ、と慰められたが、気まずさだけではない気がして、ノノは随分とやきもきしたものだ。頻度は減ったが訓練もしてくれるし遊んでもくれるから嫌われた訳ではなさそうだと言う事は分かったが、それでも必要以上の接触は避けられていた様で、東の大陸に居た頃の様に寄らせては貰えなかったし手を引いてくれる事も少なくなった。
恐らく、好きと言えば済む事なのだ。しかしグレゴは何時だってノノを子供扱いしたし、言った所で真に受け止めてくれないだろう。ノノはグレゴよりもずっとずっと年上であるにも関わらず、彼の中でノノは「こども」だったのだ。目の前で「おとな」になった所を見た癖に、それでも彼は頑なにノノを「こども」として見た。だから、言っても無駄だろうし困らせるだろうと思ってノノは何も言わなかった。マムクートである自分と人間であるグレゴの時の流れの重要さは違うけれども、もう少しだけ時間が必要なのかも知れない、そうノノは思っていた。彼女にとってみればあっと言う間であるに違いないが、事が事だけに長く感じてしまうだろうけれども、それでもノノはじっと待つつもりでいた。



サイリの故郷であるソンシン地方で待ち構える彼女の兄レンハの軍を撃破する為に飛竜の谷から南下し、行軍していたクロム率いるイーリス軍(と今では誰もが呼んでいた)は、恐らくあと一両日中にはレンハ軍と対峙する事になるだろうという地点の山間に野営を張っていた。ソンシンは山が多く、取り分け火山が多いらしい。その中でも邪神の贓物と呼ばれる地は地元の者も足を踏み入れないとサイリは言った。ユーリはそこに向かって、付近の有力者の軍は相手にせずレンハ軍とのみ対峙しようと提案し、クロムもそれを承諾した。
明日は大きな戦になるだろうから、と、ユーリはクロムやサイリ、フレデリクなどと共に入念に作戦を練っている。兵士をどの程度振り分けるか、誰を小部隊の隊長に任命するか、どの部隊がどの部隊の援護にあたるか、そんな事を話し合っている様だ。食事の用意が出来ても司令官達は天幕に篭ったまま、話し合いを続けている。グレゴは蕎麦と黍のカーシャ(水分が少ない粥)を食べながらユーリも根詰め過ぎなきゃ良いけどなぁ、などと思っていた。軍師であるユーリには、何百何千という兵士の命が重く圧し掛かっている。だから根を詰めるなと言われても矢張り暇さえあれば戦術書を読んだりヴィオールと盤上の戦をやっていて、クロムからも少し休めと言われるくらいだ。
ず、ず、と、微かな地鳴りと微震が陣地を巡る。火山が近い所為だろう。この地鳴りが敵軍の行軍の音を消してしまわないかという意見も出たのだが、サイリがこの辺りの広い一帯はほぼ同じ条件下であり、敵軍もこちらの行軍の音は分からない筈だと主張した。イーリス軍は大半が東の大陸から来た兵士であるものだから、ヴァルム大陸のソンシンの王女であるサイリの言葉は説得力があり、だから今こうやってこの地で野営を張れて、食事を摂る事が出来ている。
今日の配給の果物はソンシン地方で取れるアマナツ、という果実で、ナツミカンの枝変わり種なのだそうだ。ナツミカンの時期に毎日それを食べるグレゴにとってもアマナツというものは初めて食べるのでそれなりに楽しみにしていたのだが、案の定ナツミカンは必ず剥いて貰いに来るノノは彼の隣に鎮座してカーシャを食べていた。
「あんた、いい加減自分で剥ける様になれよ」
「だってグレゴが剥いてくれた方が早いもん」
「保護者じゃねぇんだ俺は…」
最早口癖になりつつあるその言葉を溜息と共に吐いて、グレゴは空になったカーシャを盛っていた皿を地面に置いた。野営地では食事は配給されたら各自で食べても良い事になっており、今では恋人と食べる者が多くなってきたとは言え女性は女性で固まって食べる者も多いのに、ノノは何故かわざわざグレゴの元に来ては一緒に食べようと言ってくる。否、何故かなどと思っているのはグレゴだけなのだが、彼は頑なに分かろうとしていないだけであって、大抵の者は大体分かっていた。
アマナツの皮を剥き、中袋も剥いて果実だけを口に放り込む。柑橘の爽やかな香りのするその果実は、ナツミカンに比べると酸味が低く糖度が高い。グレゴとしてはナツミカンの酸っぱさが好きだが、ノノの口にはこれくらいの甘さが合うだろう。彼は次に剥いたアマナツの果実を、まだカーシャを食べ終わってないノノの口に放り込んだ。
「あまーい。おいしいね!」
「…やっぱあんたはこれくらい甘い方が好きかぁ」
「グレゴはもっと酸っぱいのが好きだね」
「あーの酸っぱさが疲れた時に良いんだってー」
既にお互いの味の好みを知っているのでそういう会話が交わせるという事に、二人は気付いていない。ノノはカーシャを食べ終わるとグレゴがアマナツを剥いてくれるのを大人しく待ち、グレゴも剥いたアマナツをノノの口に放る。暫くそれを繰り返していたら、セルジュがうふふ、と笑いながら二人の元へ歩み寄ってきた。
「お邪魔してごめんなさいね、ちょっと良いかしら」
「お邪魔じゃないよ!なに、セルジュ」
「ノノちゃんに、ミネルヴァちゃんの乗り心地は大丈夫かどうかを聞こうかしらと思ったの。
 不慣れなところがあると思うけれど、無理はしちゃ駄目よ?」
「うん!」
ノノは少し前にセルジュがプルフを使ってグリフォンナイトへと転職したのを機に、セルジュの愛竜であるミネルヴァを借り受けてドラゴンナイトになったのだ。勿論危険があればすぐに竜石を使うという条件がユーリから出されているが、様々な事を経験した方が良いだろうという意見を聞き、遊んでくれるミネルヴァも借り受ける事が出来るし、という事で承諾した。今まで殆ど持った事の無い武器である斧を片手に上空を飛行する竜を駆るのだから、ノノの負担もそれなりに大きい。だがノノはミネルヴァと共に駆るのは楽しいと感じていたので、乗り方や戦い方をセルジュに教えて貰い、セルジュはその訓練に「貴方達一緒に戦う事が多いから」と言って強引にグレゴを参加させた。
「明日は火山の地だから、ミネルヴァちゃんも動きが鈍ると思うの。
 危険だと思ったらすぐに撤退して頂戴ね?」
「うん!ありがとうセルジュ」
「グレゴも、お願いね」
「いやー、まだ俺らが一緒の部隊って決まった訳じゃ」
「決まったみたいよ?」
「…そーかい」
ユーリ達の話し合いは漸く終わったらしく、小部隊の振り分けも決まったらしい。振り分けは殆どユーリの判断によって行われるが、どうしても折り合いがつかない時は自己申告で変更を申し出ても良い。実際グレゴも何度かユーリにノノと別部隊にする様申告した事もある。しかし最近の様子を見てもう別にしなくても良いと判断されている様で、また同じ部隊にされる事が多くなった。それをユーリに問い質してみると、曰く、「だって連携ばっちりじゃないか」だそうだ。否定はしないがもう少しこちらの気持ちも汲み取って欲しい所である。
「じゃあ、お邪魔したわね。ごゆっくり」
「…おーう」
「ありがとー」
セルジュのその「ごゆっくり」には何らかの意味が多分に含まれている、という事にグレゴは気付いていたが、突っ込むのも面倒だったので受け流した。ノノに至ってはゆっくり食べてね、程度にしか聞こえていないので、無邪気に礼を言った。セルジュのみならず他の者達も要らぬ気を回しているのかグレゴやノノに食事を一緒に食べようと声を掛ける事は少なく、自然と二人は一緒に食事を摂る事が多くなる。そして毎回、グレゴがノノに嫌いなものを食べる様に躾ける事になる。ノノは未だにトマトが嫌いだし、酸味があるものが苦手だ。それをグレゴは毎回溜息を吐きながらノノの口元まで持っていって無理矢理食べさせる。その様はまるで親子の様だし周りも苦笑しながら彼らを見ていたのだが、最近はどうも親子と言うよりも別物を見る様な目で見られている気がする、と少なくともグレゴは思っていた。
「ミネルヴァ、すっごく良い子だからノノも安心して戦えるんだよ!
 だからノノがグレゴを守ってあげるね」
「あー…どっちが守るかはこの際置いとくとして、まあ…無理すんなよ」
「うん」
剥いた二つのアマナツはほぼ全部ノノに与え、空いた皿に皮を入れてグレゴが言う。やっぱもっと酸っぱいのが良いなー、と彼は思ったのだが、贅沢は言えない。甘ければノノに食べさせれば良いし、酸っぱければ自分が食べれば良い。そういう事を最早何の疑問も持たずに考えている辺り、自分もどつぼに嵌っているという事に、グレゴは全く気付いていなかった。
「後で指示表見に行かねぇとな。無茶な進軍じゃなきゃ良いがなー」
「グレゴは大体前線だもんね。無理しないでね?」
「そりゃーさっきも言ったが俺のセリフだっての」
出来る事ならこんなこどもの姿のノノを戦線に出したくはないという思いはグレゴだけではなくて他の大人達は全員持っている。ノノだけではない、リヒトも同様だ。だがリヒトはノノと違って成長期であり、背も少し伸びてきている。少年は大人になりつつあった。しかしノノはその姿のままなのだ。グレゴは何度目になるのか分からない溜息を吐いて、右手で項を撫でながら腰を浮かせた。
「んじゃ、食後の運動に、軽ーく訓練でもするかー」
「そうだね!」
どうする事が正しいのか、答えなど出る筈もなく。取り敢えずグレゴは余計な事を考えなくても済む様にと、食器を片付けてから他の者達が各自鍛錬している場へと行く事にした。ノノもその後ろを、ちょこちょことついて行った。



「あっちー…」
レンハが率いる軍を火山の方へと誘導する為、クロム達は麓まで進軍してきたのだが、活火山の地だからなのか既に大地の割れ目から溶岩が見え隠れし、草の一本も生えず異様なまでの熱さに包まれている。ただでさえ暑がりのグレゴにとってみれば耐えられない暑さだったが、そうも言っていられない。イーリス大陸の砂漠とはまた違った暑さで、他の戦士達もこの暑さには参っている様だ。だが遠くで対峙しているレンハ軍はこの暑さにも殆ど表情を変えず、進軍しようとしていた。慣れている訳ではなさそうだが、気合でどうにかしている様にも見える。
天馬や飛竜は良いが、騎馬兵の馬は火傷の防止の為に馬蹄は熱を通し難いものに変えられていた。だが熱を全て遮断出来る訳ではなく、馬達も辛そうだ。ユーリは最低限の数の騎馬兵を選出し、代わりに天馬騎士や竜騎士、歩兵を多く配置した。敵将のレンハを討ち取る事が出来れば戦いも長引かずに済むだろうが、敵方も同じ事を考えているのか、グリフォンナイトが多く居るという斥候を務めたガイアからの情報により、天馬や竜、幻獣に乗って一気に攻め込むという事は出来なさそうだ。それ故、矢張り地上からの進軍で攻め込んで行くしかない。
「今回は地形が地形だ、無理せず深追いはするな!
 危険を感じたらすぐに退け!
 後方部隊も交代に備えて準備は怠るな!
 そして何時も言うが、死ぬな!生きて戻るぞ!
 以上、進軍開始!!」
クロムが進軍の号令を掛けると同時に、兵士達が一斉に声を張り上げ、切り込み隊であるヴェイク達の部隊が進み始めた。それを見て、東側から攻め込むグレゴ達の隊も進軍を始める。剣聖という称号を持つレンハの軍であっても、剣士隊が多いという訳ではなさそうで、斧使いやグリフォンナイト、魔道書使いも多く見受けられ、先陣をきる者達が苦戦を強いられるのは目に見えていた。今回の進軍はクロムが言った様に、後方部隊と交代しながらの進軍だ。この暑さでは長時間の戦闘は自殺行為に近い。だから、なるべく体力を温存しながらの進軍を試ようとしていた。
しかし、暑い。流石地元の者達は決して足を踏み入れないと言われるだけあって、溶岩がそこらを流れ、足を踏み外せばひとたまりもなさそうだ。これは敵との戦いでもあるだろうが、溶岩との戦いでもあるだろう。既に戦闘が始まった部隊の方からは足場が崩れるぞだの落ちるなよだのの叫びが聞こえてきている。こんな所で戦おうとするなんざ、うちの軍師様はほんと空恐ろしいな、とグレゴは流れる汗を袖で拭った。その時、上空で戦況を見ていたノノが降下してきて、グレゴに状況を伝えた。
「剣士の一個小隊がこっちに向かってきてるよ!」
「数は?」
「んっと…六十くらいかな」
「だとよ、気合入れて迎え撃つぞー」
「はっ!!」
本来なら自分はこういう小隊を率いる器ではないとグレゴは思っているのだが、ユーリから小隊を任された以上は従う他無い。付き従う兵士達はグレゴの声に威勢良く返事をした。小隊を任されるという事は、ユーリやクロムとは比にならないが、他人の命を預かるという事だ。そんな責任重大な事はやりたくないというのがグレゴの本音だが、何時の間にかそういうポジションになってしまったのなら仕方ないだろう。次期フェリア王の候補に上がった時にそんな面倒臭ぇの絶対ごめんだねと逃げた頃と比べると、随分進歩した様にも思えるのだが。
そして間もなくその剣士の一個小隊と衝突すると、こちらの数が劣っているというだけあって多少は苦戦した。だがグレゴが受け持っているこの小隊も歴戦の戦士達が率先して戦いの訓練をつけているのだから、そう簡単に撃破されたりはしない。
周りで剣や斧の刃がぶつかり合う音を聞きながら、グレゴはこの小隊を率いている隊長を探していた。一般兵と区別をつける為に着ている服や着けている防具が多少異なる筈なので目立つと思うのだが、如何せんこの暑さと光景の中では見分けもつきにくければ動き難い。逆にグレゴはそれなりに目立つ様な防具を着けているものだから、標的になる事が多かった。
次々と畳み掛ける様に襲ってくる敵兵の剣を受け、倒す。一人の相手を長引かせるとまた別の方向からの攻撃を受けてしまうから、手早く倒さねばならない。流石に体力の消耗が激しい場所でこの戦いはキツいぜ、と思っていた時、流れた汗が運悪く目に入って片目の視界が塞がってしまった。しかも敵兵と切り結んでいた時だったものだから尚の事運が悪く、動きが鈍ってしまった瞬間を狙われ、胴を薙ぎ払われそうになった。だが、その時。


「グレゴ、危ない!!」

―――兄さん、危ない!!


遠い記憶に沈んだ声と共に聞き覚えのある―否、そんな単語では表現出来ない声が耳を劈いたと同時に、何かに力いっぱい体を押され、グレゴの体は大きく弾き飛ばされた。その一瞬後、

「っああああぁぁ!!」

「っな…?!」
子供、と言っても差し支えない声音の悲鳴が辺りに響き、グレゴはその悲鳴の持ち主の方を勢い良く振り向く。そこには予想した通り、そして一番起こって欲しくなかった光景が広がっていた。
「………、」
戦場に出るには似つかわしくない細く小さな体。本来ならばこんな所に居るべきではない少女の肢体が、そこに転がっていた。乗っていた竜から飛び降りたのか、上空を見知った竜が旋回している。全身の血の気が一気に引き、グレゴは何かを考える前に体勢を立て直して突き飛ばされた原因となる敵兵士を一息で斬ると、倒れたままの少女の―ノノの体を抱き上げた。既に意識は無く、真っ青な顔で、脇腹から酷い出血をしている。倒れこんだ地面が熱い事も手伝い、火傷もしている。不幸中の幸いは、顔には少しも怪我は確認出来なかった。しかし、このままでは確実に彼女は死ぬ。引いた血の気がざわ、と体の中で吹き上がってくるのを感じ、グレゴはゆっくりと立ち上がった。
「――――おい、」
「はっ…はい!」
「こいつ連れて下がれ。
 出来れば天馬騎士か竜騎士に救護陣地にまで連れて行って貰え。
 お前ら全員だ」
「し、しかし全員下がればグレゴさんがお一人に」
「同じ事言わせんな、巻き添え食らって殺されてぇか。とっとと下がれ」
「ひっ… は、はい!!」
そして側に居た兵士に声を掛けると、別の兵士が戸惑った様にこの場に残ると伝えようとしたのだが、グレゴの据わりきった昏い目に瞬時に怯え、敬礼してそれに従うと返事をした。そして慌てて隊の者に退却する様に伝え、騎馬兵がぐったりしているノノを乗せて走り去る。その退却する兵士達を追い掛けようとした敵兵を、グレゴは迷わず背面から斬り捨てた。普段の彼なら背中から斬るなど殆どしないのだが、今はその「普段」とは全く別人になっていた。


―――殺してやる。一人残らずだ。


手の中にある剣の柄がミシ、と音がするまで握り締めたグレゴは、据わったままの目で眼前を塞ぐ敵兵を見遣る。多勢に無勢だが、妙にクリアになった頭は全員殺せるとしか判断しなかった。否、殺せるのではない、殺すのだ。そう思った瞬間グレゴの足は焼ける様な地面を蹴っていて、その勢いのまま一番近くに居た敵兵の男に防御させる暇も与えず剣を腹に突き刺した。渾身の力を篭めて勢い良く突いたので、剣はあっさりと防具を貫通した。
「ぐはっ?!がっ、!!」
握った柄から伝わる脈打ちや肉を切り裂く感触はもう何度も味わった事があるにも関わらず、今日のそれはやけに手に残った。相手の体に埋めた剣は貫通するどころか柄の所まで突き刺してしまい、容易に抜く事は出来そうにもない。グレゴはあっさりとその剣を使う事を諦めて、ごぼ、と血を吐いたその男の懐から離れると同時に思い切り蹴り、その後ろに居た茶髪の男にぶつける。防具を着けているとは言え剣が貫通した体をぶつけられたのだから、負傷もした様だ。不意をつかれたその敵兵の武器を取り上げようと、グレゴは体勢を崩した茶髪の男に一気に掴み掛かった。
「っぎゃあああぁぁ!あぎっ、―――っ?!」
剣を持つ相手の手首を力いっぱい捻り上げ、肩の関節を外す。その痛みに怯み、悲鳴を上げた男の喉笛に思い切り喰らい付くと、無防備で鍛え様が無いその首の皮膚に歯がぎち、ぎち、と食い込み、生暖かく粘度のある血液が口の中にどろりと流れ込んできた。顎に力を篭めて、噛み千切る様に口の中に含んだ肉塊と喉を引き剥がすと、肉なのか気管なのか分からないがそこから悲鳴にも似た音がした。口に残った肉塊と血をべっ、と地面に吐き出すと同時に、喉を食い破った茶髪の男がその場に崩れ落ちる。地面が熱いものだから、肉塊が少し焼ける臭いがした。
その異様な光景に、周りに居た敵は助ける事も動く事も出来なかった様で、呆然と立ち尽くしている。だがグレゴが足元に落ちた剣の切っ先を踏み、少し浮かせた柄を取りながら腕で口元の血を拭い、言葉も無く剣を構えて自分を取り囲む彼らを見回して改めて確認すると、彼らは一斉に怯んだ。無理もないだろう、グレゴは人を「斬り殺した」のではなく「喰い殺した」のだ。獣が獲物の喉笛に喰らいつき、仕留めるかの様に。
しかし流石剣聖との誉れ高いレンハが率いる兵士達は、臆したものの逃げる気配は全く無い。連携を取る為に目線で合図し、各自駆け出す。それを受けて、グレゴも駆け出した。手に持った剣は使い慣れた自分のものではないが、こういう多数を相手にする状況では剣で斬り殺すというよりも寧ろ剣で撲殺すると言った方が正しいので、誰が使った剣であっても関係ない。どの戦場であっても一対一という状況を如何に作るかという事は重要であるけれども、今のグレゴにはそんな事は頭に無かった。とにかく全員殺す、その事しか考えていなかった。
一番近くに居た剣士が身軽さと速さを生かしてグレゴの懐に大きく踏み込む直前に目眩ましの為に左へ跳び、そして瞬時に突きを繰り出す。しかしそういった戦法は良くベルベットと手合わせをするロンクーが見せるものと似ており、鍛錬で彼と剣を交える事が多いグレゴにとっては別段真新しいものではなく、だからその繰り出された突きを下から思い切り剣で弾き、相手の剣を真っ二つに折った。
「なっ、うああああああっ!」
弾いた時は片手だったが返す刃は素早く両手で柄を持ち、そして相手の肩口に思い切り刃を叩き付ける。剣を振るう者とは言え斧使いに比べればその部位の筋肉は盛られておらず、刃は食い込んだもののすぐに引き抜く事が出来た。肩から血を噴出した男は苦痛に歪んだ顔で傷口を手で押さえ込み大きくよろけたが、構わずそのまま勢い良く踏み込んで首を刎ねる。立った状態で、しかも頭部を刎ねるのはかなり難しいのだが、今の彼には容易い。切断された頭部は鈍い音を立て地面に落ち、立ったままの体の切断面からは血が噴出す。その体が崩れ落ちるのに一瞥もくれず、グレゴは剣で空を切り裂き血糊を払うと、また次の男に斬り掛かった。
普通、戦いの時は己を奮い立たせる為や気合を入れる為、そして力を篭める為に大声を出しながら斬り掛かる者が多い。だがその時のグレゴは一言も大声を発さず、ただ短い気合の声だけを漏らしておぞましい程の殺気と共に剣を振るった。剣が脂と刃毀れで使えなくなってしまったら何の躊躇いも無く捨て、素早く敵兵との間合いを詰めて頭を素手で掴んでそのまま地面へ叩き付け頭を割って殺してから武器を奪ったり、急所を思い切り蹴り上げて蹲った所で首を刎ねたり、足場の地面が溶岩に沈み始めると陥没した地面に敵兵を突き落としたり、とにかく弟が死んだ時分の戦い方と殆ど変わらない戦法で戦った。その戦い方を見ていた敵兵が震えながら、鬼だ、と彼を評した程だ。この場にバジーリオが居たなら、間違いなく怒鳴って止めさせているだろう。しかし最早今、グレゴを止められる者は居なかった。誰一人として、彼を止められはしなかった。



ノノを乗せた騎馬兵が後退する途中、別部隊として戦闘をしていたロンクーにグレゴが部隊を全員撤退させて孤立している事を告げると、その報告を共に聞いたサーリャが盛大に舌打ちをし、何に対しての怒りなのかは知らないが馬上から敵部隊に向けて渾身の魔力を篭めてレクスカリバーを放った。それに怯えた騎馬兵にサーリャがさっさとリズ達が居る所まで行きなさい!と怒鳴ると、騎馬兵は更に怯え、悲鳴に似た返事をした。その時に応急処置として近くに居たファルコンナイトのティアモがライブを掛けてはくれたのだが傷口が全て塞がった訳ではなく、急がねばならない事に変わりはなかったので、結局騎馬兵と交代してティアモがノノを後衛のリズ達の元へと連れて行く事になった。
ロンクー達の部隊はそこまで切迫した状況ではなく、他の兵士達に任せても良いだろうと判断し、サーリャが一緒に馬に乗りなさいとロンクーに告げた。だが女の操る馬に乗るなど、と抵抗したロンクーに、そんな事言ってる場合じゃないでしょとサーリャは彼を無理矢理馬に乗せた。ベルベット以外の女はまだ苦手意識があるロンクーは体を殆ど硬直させて暫く地獄の様な乗馬に耐えたのだが、二人が辿り着いた先に広がっていたのは、更なる地獄の様な異様な光景だった。
頭が割れて何やら気持ち悪いものがどろりと流れ出している死体、腕や足が有り得ない方向に曲がっている死体、果ては頭部がそこらに転がり、またマグマ溜まりの中で焦げるというより融けている死体が無数に散らばり、焦げる様な腐臭の様な、気持ち悪い臭いが一帯を漂っている。その臭いの中で死体の山を踏み付け、斧を杖の様にして体を支え、肩で大きく息をしている男が一人、そこに居た。見慣れた後姿にロンクーは取り敢えずその男が生きている事について胸を撫で下ろし下馬したのだが、緩慢な動作でゆらりとこちらを振り向いた男のその目に全身の血の気が引いた。


―――何だ、あれは。…化け物か?


底の見えない沼の様に昏く、この地の様に地面の底から噴出する溶岩の様な憎悪が宿ったその目は、今まで何度も死地を潜り抜けてきたロンクーでさえも寒気を感じ、剣を握る手に汗を滲ませ、震えさせる程だった。見た事も無い闇と、激しい怒りと憎悪。全てが綯い交ぜとなってその男を取り巻いている。最早あれは常人の目ではない。狂人の目だ。
「…話聞かなかったか。巻き添え食らって死にてぇか、下がれ」
そして発せられたのは地を這う様な低い声で、普段の間延びした様な話し方は一切せず、腹の底からのどす黒いものを吐き出す様だった。だがサーリャはそれに臆する事無く、つかつかと男に―グレゴに歩み寄ると、自分より背の高い彼をじろりと睨み上げて言った。
「私達が代わるわ…貴方は下がりなさい…」
「うるせぇ、あいつら全員殺してやる」
「その体では無理だ、下がれグレゴ」
「うるせぇ!同じ事言わせ―――っ?!!」

バキィッ!!

完全に頭に血が昇っている状態で、ぼろぼろの風体をしている癖に尚も先へ進もうとしているグレゴの頬に渾身の力が籠ったサーリャの拳が飛び、大きな鈍い音がその場に響いた。女といえどもプルフを使ってダークナイトへ転職した彼女の力はかなり強い。少なくとも同じく魔法を操る賢者のリヒトに比べれば断然強い。グレゴも二、三歩後退りしてしまう程度の強さだった。繰り返すが、平手ではなく、拳だ。殴られたグレゴの目の前が一瞬真っ白になる程度には痛みが走った。
「下がれと言っているのよ…貴方、敵を独り占めするつもり…?
 私達だって…かなり怒っているのよ…」
「………」
「それとも、貴方、私の占いを台無しにするの…?」
「…わーかったよ、悪かった」
殴られ、少しは冷静になったのか、グレゴの目が心なし普段のそれへと戻った様で、彼は深く溜め息を吐いてから持っていた刃毀れしすぎて使い物にならない血塗れの斧を捨て、右手で項を擦ってサーリャに詫びた。手まで血だらけの癖に、良く斧の柄を持っていられたものだ。普通は刃の重さですっぽ抜けてしまう。しかも、グレゴが元々使うのは斧ではなくて剣だ。勿論斧も時折使う様ではあるが、剣の様に自在に操れる訳ではないだろう。どちらかと言うと斧の刃で斬り殺したのではなく斧の重さを利用して撲殺した様だ。
サーリャが乗っていた馬をグレゴに引渡し、彼はひらりと乗馬する。実戦で乗る事は無いが、人生経験がそれなりに豊富なグレゴは移動する為の乗馬なら心得があるらしく、苦い顔をしながらロンクー達に「じゃあ後は頼んだぜ」とだけ短く言ってから馬の腹を蹴る。彼の姿が見えなくなり、さてでは進軍するかと気を取り直してロンクーが剣を抜きながら進行する方角を見遣ると、サーリャがぺたりとその場に座り込んでしまいそうになった。ここら一帯は地面が熱いのに、火傷してしまう。ロンクーが咄嗟に腕を引っ張って立ち上がらせたが、矢張り女性相手は苦手で然程力は入らなかったので上手くはいかなかったので、サーリャがロンクーの腕に捕まる様な形で体勢を立て直す。
「ど、どうした、火傷するぞ」
「…こ、怖かったのよ…、悪い…?」
「………?」
「あれは…下手な呪いより強烈ね…。
 呪術師の私を怯えさせるなんて、良い度胸だわ…」
どうやらサーリャはグレゴのあの据わり切った目が怖かったらしい。それでも何とか自分を奮い立たせて、彼を殴ったのだろう。全く臆していなかったとロンクーは思っていたのだが、どうもそうであるらしい。ロンクーもあれ程の目をした人間を見た事は無かったものだから怯んでしまったくらいだ。数々の呪術を飛ばし、また受けた事のあるサーリャであっても、あの狂人の様な目は恐ろしかったのだろう。
あんな状態のグレゴと対峙して自分が勝てるとはロンクーには思えなかった。あれは恐らく戦場で培ってきた経験が体を最大限に動かして、本能だけで戦う筈だ。怒り狂った獣と変わらない。実際、そこらに転がっている死体には喉笛を噛み千切られた様な痕がある。そんな戦い方をする様な男だったとは今の今まで知らなかったロンクーは、改めて背筋に冷たいものが走るのを感じていた。道理でバジーリオがグレゴを評して「飄々としてはいるけれども触ると怪我をする、抜き身の剣の様な男だ」と言った訳だ。収める鞘など、存在を知らないとでも言うかの様だった。
「八つ当たりは…あちらの剣士達にするわ…。
 ロンクー、貴方、巻き添えを食らわない様にね…」
「…気を付けるがお前も気を付けてくれ」
「ふん、知らないわよ…」
サーリャは忌々しそうに魔道書を開きながら、遠くの敵部隊を見据える。彼女の指に青い電流がパリ、と光るのが見え、先程放った風の魔法とはまた別の魔道書を使用するつもりらしく、ロンクーはサーリャが気を付けるよりも自分が最大限に気を付けた方が確実な様だと思った。彼女は怒っている。それは勿論グレゴに怯えさせられたという事に対してもそうなのだが、ノノが傷付けられたという事に対してもかなり怒っている様だ。ロンクーは溜息を吐いて、彼女のサポートに回る為、剣を両手で構えた。あの男の様に戦えるとは、全く思わなかったけれども。



毎回の事だが、後衛には救護の為の陣地が設けられ、そこには癒しの杖が必要な傷を負った者達が撤退して治療を受ける。イーリス大陸では仮令敵陣地であってもこの救護スペースを攻撃する事はどの国でも禁じられていて、ヴァルム大陸でもそうであるらしい。
地面が絶えず変化する溶岩地帯は危険だからと救護の陣地が張られたのは、戦場になっている地から随分と離れている。距離が離れている分、手遅れになってしまう兵士もそれなりの数に昇ってしまうのだが、地面が熱ければろくな手当ても出来ないと判断し、リズ達がここにすると言ったのだ。クロムもユーリも、その判断を採用した。
その救護陣地に後退したグレゴが馬から降りると、その姿を認めたマリアベルの息子のブレディが慌てた様に彼に駆け寄り、すぐに癒しの杖を振るった。グレゴはそこで気付いたのだが、結構傷を負っていたのだ。プルフによって得た力で自力で回復出来る様になったとは言え、大きな傷までは回復出来ない。加えて、グレゴの左の頬が盛大に赤くなっていたので何事かと思った様だ。
「ありがとな。…なあ、」
「一番奥の天幕に居る。ティアモとリズがついてるが…」
「容態が芳しくねぇのか」
「傷は塞がっても、流れた血が元に戻る訳じゃねぇからな…。
 あの傷だったら、受けたダメージの痛みも相当だった筈だから」
「…そうか。邪魔したな、他の奴の手当てに戻ってくれ」
「ああ」
グレゴが尋ねる前に、聞きたかった事をブレディが答えてくれた。レンハが率いていた剣士達は皆強敵ばかりで、こちらの軍の負傷者も何時もより多い。いくら戦場となっている場所に癒しの杖を使える者が居るとは言え、彼らも戦っているのだから十分に杖を振るえる訳ではなく、応急処置の様な形でその恩恵を受けて戦える者はその場に残るし、本格的な治療が必要な者は救護陣地まで後退する。今回のノノの様に深手を負った兵士達は、一様に天幕の中で治療を受けた。リズとティアモがついていると言う事は、それだけ負った傷が深くて酷いものだったという事だ。普通なら癒しの杖を振るう者が二人もついたりはしない。まして、最重傷者が運び込まれる最奥の天幕で、だ。マリアベルは恐らく別の天幕で重傷者の看護に当たっているのだろう。
入って良いのかどうか分からなかったのだが、居るとブレディに伝えられた最奥の天幕にグレゴが無言で入る。その音に気付いたリズとティアモは一斉に振り向いた。
「グレゴさん!だ、大丈夫?ボロボロだけど…」
「さっきブレディがライブ掛けてくれた。
 …そっちはどうだ」
「傷は完全に塞がっています。でも…まだ意識が戻らなくて…」
「………」
着衣が戦闘でぼろぼろになってしまったグレゴを見て、リズが慌てた様に側にあった杖を持ったのだが、グレゴは手でそれを制した。確かに返り血で随分と服が汚れてはいたものの、受けた傷は自力で回復したし深い傷はさっきのブレディのライブである程度塞がった。ブレディはまだ僧侶としてはそこまで経験を積んでいないので完全には回復出来なかったが、これ以上自分に杖を使われるよりは他の者に使って欲しかったのだ。
膝をついた二人の向こうに見えた、二重に重ねられた毛布の上に横たわるノノの頬は、何時もの様な薔薇色ではなく白かった。ブレディが言った様に癒しの杖は出血を戻す訳ではないから、血が足りなくて体温もかなり低くなっている筈だ。女は男と違って造血作用があるが、一朝一夕で血液量は戻らない。
「あたし達、席を外します。側に居てあげて下さい」
「…あんたら居なくて大丈夫なのか」
「やるだけの事はやったもん。
 こういう時ってね、その人の大事な人が側に居るのが一番良いの」
「………」
「グレゴさん、気付いてるよね?
 逃げてばっかりじゃノノちゃんが可哀相だよ」
「好きな相手が居るのにか?」
「もう居ないじゃないですか。
 思い出の中の死者に生者は勝てませんけど、
 死者に生者は抱き締められませんよ」
短い沈黙を破ってティアモが天幕から出ると告げると、グレゴは暗に自分が出るから二人にそのまま居た方が、と言ったのだが、リズもティアモもそれを跳ね付けた。この容態になった以上、リズが言った様にやるだけの事はやったのだから、もう何もしてやれる事は彼女達には無い。今のノノに何かしてやれると言ったら、多分グレゴが側について居てやる事だけだ。
「あたしにどーんとぶつかって来いって言ったのはグレゴさんですよ?
 ご自分もどーんとぶつかってみれば良いじゃないですか」
「…目ぇ覚ましてくれなきゃ、ぶつかるもんもぶつかれねぇよ」
「そうですね。だから側に居てあげて下さいね」
「…あぁ」
恋に悩むティアモの相談に乗り、様々なアドバイスをしていたのはグレゴだ。最初はクロムに対してのものであった様だったが、段々対象がガイアになっていった様で、プロポーズこそガイアからしたらしいがそれまでガイアに積極的に話し掛け世話を焼いていたのはティアモだった。自分に自信を持てなかったティアモの背を押し、大丈夫だからぶつかってこいと以前彼女にグレゴは言った。ぶつかれないのは自信が無い証拠で、あんたはそのまんまで珠なんだから自信を持てと言ったのだ。それはグレゴだって同じで、一流の傭兵だと自負しているのなら、彼だって自信を持つべきだ。もうこの世に居ないノノの昔の男に遠慮するなど、グレゴらしくないとティアモは思った。
余談だが何故ティアモがノノの昔の男の事を知っているかと言えば、何の事はない、女が集まれば当然恋愛話が花咲くものなので、ベルベットから溢れ聞いていたのだ。グレゴが遠慮しているのかどうかまでは知らなかったが、たった今の発言でそれを知った。普段から不敵に笑ってこちらをからかう割には、自分の事になると臆するらしい。だが、ただでさえティアモ達より一回りは軽く年が上のグレゴにとって、悠久の時を生きるノノの手を取る事はかなりの覚悟が必要なのだろう。ノノにしてみればリズ達とグレゴの年の差など無いに等しく、僅かな時としか思えないかも知れないが、その僅かな差の年月も共に過ごしてやれないというのは辛い事なのではないか。何となく、ティアモはそんな事を考えた。
リズとティアモがそっと天幕から出た後、グレゴは暫くその場に立ち尽くしていたのだが、重い足取りで横たわるノノの側に歩み寄るとその場に腰を下ろした。相変わらず微震は続き、大地が生きている事を教えてくれるけれど、今グレゴが知りたいのはそんな事ではない。目の前の少女の目が、開くかどうかなのだ。
血の気が引いた真っ白な顔。小さな体は、それでも呼吸の為に体の上に掛けられた薄い毛布の胸の辺りが緩やかに上下し、まだ彼女がきちんとその体に魂を繋ぎ止めている事を教えてくれている。それでも、目を覚ますかどうかは分からない。あの綺麗な紫水晶の瞳が、その瞼の下から現れるのを信じて待つ事しか出来ない。彼女が深手を負ってから少なくとも一刻(二時間)は経っている筈なのだが、一向に目を覚ます気配は見受けられなかった。
どれだけそのままで居たのか、それなりの時間をそのままぼんやりと過ごしたグレゴは、少し思案した末に毛布の中から少しだけ出ていたノノの小さな手を軽く握った。矢張り体温が下がっている様で、普段繋ぐ手よりも指先まで冷えていて、ノノの出血量が夥しかった事を物語っている。今更ながらどっと疲れが全身を駆け巡って力無く項垂れ目を閉じると、ノノが自分を庇ったあの瞬間の映像と弟が自分を庇った瞬間の映像が重なって瞼の裏に強烈に蘇り、グレゴは思わずびくりと体を震わせて短い悲鳴にも似た息を漏らして再び目を見開いた。心音が速まり、嫌な汗が一気に吹き出して、細かい震えが手の感覚を鈍らせる。グレゴは弟が自分を庇って死んでしまった事を忘れた事など無く、だから同じ事をしたノノも弟と同様になってしまうのではないかと一瞬でも思ってしまったのだ。大丈夫だ、ノノはまだ生きている。彼はそう自分に言い聞かせた。戦場で誰かが死ぬ所なんて、今まで嫌という程見てきたというのに、たった一人のこんな小さな少女が死ぬと考えただけで心底恐ろしかった。
「…なあ、目ぇ覚ませよ。
 俺ぁ、あんたに礼も詫びも言ってねぇんだぜ」
滑稽な程掠れて震える声が、喉の奥から漏れる。庇ってくれた事への礼も、その事によって痛い思いをさせてしまった詫びも、グレゴは何も伝えてない。目を覚まして貰えなければ、伝えようにも伝えられない。そう、彼はノノに伝えねばならない事があったのだ。


もう良いさ、認めるよ。
誰から何を言われたって、笑われたって良い。
あんたが誰を好きであろうと構わねぇ、
俺はあんたが好きだよ。
だから。


「後生だから目ぇ覚ましてくれよ。
 あんたが…、」


「あんたが目ぇ覚ますんなら、今ここで死んだって良い…っ」


ノノの小さな手を握り、空いた手で閉じた目を覆って絞り出す様に吐き出されたグレゴの声は、静寂を守る天幕の中のしんとした空気を震わせ、融ける。そして固く閉じられた彼のその目から、もう何年も流した事の無かった涙が一筋零れた。両親が死んだ時も、弟が死んで天涯孤独になった時も、涙など全く出なかったにも関わらず、どうしようもない想いが込み上げて溢れ出してしまった。誰かが見れば笑うかも知れないし、驚かれるかも知れない。しかし今のグレゴはその涙を、恥だとは思わなかった。何と引き換えに願いが叶えられるのか彼には分からなかったが、ノノの意識が戻るのなら本気で命を投げても良いと思っていた。
細く、長い息を吐きながら、ほんの少しだけ目を開く。その瞬間、視界に入ったノノの手が自分の手の中で僅かに動いた。その反応にグレゴは思わずノノの顔を見る。微かに震えた瞼が彼女の意識が戻ってきている事を知らせている気がして、彼は戻って来いと言うかの様に自分の手の中のノノの手をぎゅっと握った。その感触に応えようとしたのか、ゆっくりと花が開く様に、また夜が明けるかの様に、瞼が緩やかに開き、紫水晶の瞳が姿を見せた。
「……… ……グレゴ…?」
そしてまだ血の気が引いた白い唇から微かに漏れた、今一番聞きたかった声に、グレゴは言葉も無く大きな安堵の溜息を吐いた。心の底から、今ここで死んでも良いと思っていた。



「良いか、金輪際ああいった事はしてくれるなよ」
「こん…?って、なに?」
「二度と、だ。今ここで約束しろ」
「…はーい。もうしません」
ノノの意識が戻った、と、グレゴが天幕の外で救護にあたっていたリズやマリアベル達に告げると、彼女達は胸を撫で下ろすかの様にほっとした表情を見せ、リズは涙ぐみながら良かったね、とグレゴに言った。それに対して何と返事をして良いものかグレゴは分からなかったのだが、取り敢えずこっくり頷くと、マリアベルから「ノノさんは暫く養生させますから、貴方がついていてあげて下さいまし」と言われてしまった。だからグレゴはその後戦場に戻る事無く、もう一度眠ったノノの側でぼんやりと過ごしていた。
レンハを討ち取ったサイリ達が引き揚げてきた頃にはもう陽も暮れようとしていたので、今日は野営を後衛救護陣地にしていたこの場で張る様だった。実の兄を討ち取ったサイリの心の傷は深く、また日暮れも近いという事もあって、今日はもう休息しようとユーリが判断したらしい。火山の近くでは心安らかに休めないかも知れないが、近隣の有権者達の軍に攻め込まれる危険性は低い。この立地を生かす事にした様だった。
そんな中、すっかり目を覚ましたノノは運び込まれた救護天幕から今日は絶対に出ては駄目、安静にしていて、とリズから命じられ、大人しく最奥の救護天幕の中で横になっていたのだが、側に居るグレゴが大変不機嫌そうな顔で胡坐をかいて頬肘をつきながら水に浸したタオルで頬を冷やしていたので、ノノは何でそんなに機嫌が悪いの、と聞いたのだ。そうしたらグレゴは途轍もなくでかい溜息を吐いてから、上記の様な事を言ったという訳だ。ノノにしてみれば守れたという喜びと安心があったのに、怒られてしまった。
「ほっぺた大丈夫?」
「あんたの怪我に比べたら可愛いもんだっつぅの」
「でも、さっき見た時すーっごく腫れてたもん」
「…心配してくれんのは嬉しいけどなー、ちゃんと横になっとけよ」
既に傷が塞がっているとは言え、まだ負傷した箇所に痛みが走ったが、それでもノノは起き上がって包帯だらけのグレゴの上半身を見る。彼が着ていた服は既に修復出来ない程ぼろぼろになっていたので、廃棄処分になった。普段はそんな風になるまで無茶な戦い方をしないのに、それだけ激しい戦闘を繰り広げたという事を、その体が物語っていた。ノノは見ていないから、彼がどんな戦い方をしたのか知らない。だが、戦闘から引き揚げてノノの見舞いに訪れてくれたロンクーやサーリャは、改めての手当てをしに天幕から出ていたグレゴが酷く無茶な事をしていたとノノに告げ、だから余り無理はしないように、と彼女に釘を刺した。サーリャは後でグレゴに絶対何か呪いをかけてやる、とぶつぶつ言っていたが、ノノがしょんぼりしながらほっぺた痛そうだしやめてあげてね、と言うと、しょうがないわね、今回は特別にあの一発で許す事にするわ、と言ってくれた。それくらい、グレゴが今回負った怪我の中では一番ダメージがでかそうだったのは、サーリャが殴った痕だったのだ。
「ほっぺた見せて?」
「…だから、大丈夫だって」
「大丈夫かどうかはノノが決めるんだもん。見せて?」
「なーんであんたが決めんだよ…へーへー、分かりましたよ…」
余りにもしつこくノノが頬を見せろと言うものだから、グレゴも根負けして頬を覆っていたタオルを離す。暫く冷やしていたからマシにはなったものの、まだ随分と赤く腫れていた。これは明日まで腫れが引かないだろう。歯が折れなかっただけ運が良かったとしか言い様が無い程の腫れ方だった。
「サーリャ、力いっぱい殴ったんだね…
 すーっごく怖かったって、サーリャが言ってたよ?」
「俺はすーっごく痛かったけどな?」
「でもそれくらい力いっぱい殴らないと、言う事聞きそうになかったって言ってた」
「…そりゃー、まあ…」
ブチ切れてたし、という言葉は飲み込み、グレゴは罰が悪そうな顔をして沈黙する。何でブチ切れたの、などと突っ込まれたら嫌だったからだ。だが、ノノはちゃんと分かっていたからそれ以上は何も聞かなかった。その代わりに、グレゴの腫れた頬に小さく柔らかな手をそっと当てた。
「怖い思いさせちゃったね。ごめんね?」
「………寿命が一気に縮んだ。二度とすんな」
「うん」
屍島でサーリャがグレゴの弟の魂を呼び出した後にやった様に、まるで彼を慰め慈しむかの様に頬に触れたノノの顔は、あの時と同じ様に酷く大人びていた。しかしグレゴは、もうその事には驚かない。彼は頬に触れてくれたノノの手に自分の手を重ねてから目を細めて小さく笑った。普段は不適に笑うグレゴだが、時折こういう笑い方をする事をノノは知っている。ここ最近はずっとその笑い方を見ていなかったから何となく嬉しくて、彼女はえへへ、と笑った。
そうして手が離された後、まだ体が本調子ではないノノは若干の疲れと眩暈を感じ、グレゴの胸に体を凭れた。今ならそういう甘え方が許される気がしたのでそうしたのだが、グレゴは困った様に自分の項を擦っただけで何も言わなかった。貧血で体が少し冷えていたのでグレゴの体温が温かく、じんわりと心も温もっていく気がしていた。
「ふふ、グレゴはあったかいねー。
 …ねえ、ノノを置いてどっか行かないでね…」
「…ここに居るから、心配すんな」
「うん…」
もう昇らなくなってしまった太陽の様に、置いて逝かれてしまうのが嫌だと思う相手が出来た事を、ノノはしあわせな事だと思っていた。勿論ノノは何時でも置いて逝かれてしまう側だ。それは変わらない。けれども、自分だけの太陽が温めてくれる事、照らしてくれる事は、何よりしあわせだと思うのだ。
そしてぽんぽんと軽く頭を撫でてくれたグレゴから、ふわん、と何かの匂いがして、ノノは目をぱちくりさせた。
『…あ。』

忘れない匂いがある。記憶の底に蒔かれた種が、今まさに永い時を経て、花開こうとしている。


―――好き好きのにおいがする。


ノノは相手の心の中を、匂いで判断する。感情は匂いとなって、彼女の鼻腔を伝って知らせてくれる。この匂いは、昔好きだった男が自分を抱き締めてくれた時の匂いだ。好きだよと言いながら、抱き締めてくれた時の。
グレゴからは、怯えや恐怖、怒りの匂いは全くしない。その代わりに、愛情の匂いがした。例えばクロムがスミアと弁当を食べている時、ユーリがアンナの愚痴を聞いてあげている時、リヒトとマリアベルが笑いながら共に紅茶を飲んでいる時、ロンクーがベルベットの為にフェリアの茶を淹れてあげている時、ミリエルがカラムと腕を組んでいる時、ソワレがドニの故郷の村の話を聞いている時、サーリャがリベラに呪(まじな)いを掛けている時、セルジュがヴィオールを気遣っている時、フレデリクがオリヴィエを背中に隠してあげている時、ヘンリーとリズが日向ぼっこをしながら手を繋いで寝ている時、ティアモがガイアの散髪をしてあげている時に、彼らから発せられる匂いの様な。ノノは、その匂いが大好きだった。嗅げばそれだけで心が温かくなるからだ。それが自分に向けられたものであるなら尚更好きだし、幸せな気分になる。
「…傷…残っちまっただろうなぁ…」
そしてぽつんとグレゴが発した言葉に、ノノは一瞬何の事か分からず逡巡する。だが、それが彼を庇った時に受けた傷であるという事に気付き、着せられていた上着を捲って脇腹を見る。そこには確かに深い傷を負ったのだと分かる様な痕が、彼女の柔肌に刻まれていた。
「…ほんとだ。でも、ノノは気にしないよ?」
「俺は気にすんだよ」
「何でー?」
「女の体に傷痕残すとか、最悪じゃねぇか」
「…ねぇグレゴ」
「ん…?」
「ノノの事、ちゃんと女って思ってくれてるの?」
「………そりゃー、な」
「…えへへ」
今までずっと「こども」としか思ってくれていないのだろう発言しかしなかったグレゴが、漸くノノに対して「女」と言った。初めて認めて貰えた事が嬉しくて、ノノははにかむ様に笑う。そして改めて、目の前の男の大きな体にぎゅっと抱き着いた。ずっとこうしたいと思っていたものだから、酷く嬉しかった。
「ノノ知ってるよ。傷は男のくんしょー、なんでしょ?」
「…あんたは女だろーが」
「そうだけど。でも、グレゴを守れた証拠だもん。
 だったら、ノノにとってくんしょーなの」
「…そうかい」
「うん」
納得いかない様な声を出す自分を諭す様に言ったノノの言葉に、グレゴは小さく頷く。そうして少しだけ思案したが、結局腕をノノの小さな背中に回し、その細い肩に顔を埋めた。ノノもまた同じ様にグレゴの広く逞しい肩に顎を置き、彼の体温と心音を全身で確かめていた。どうか重ね合わせたこの柔らかな温もりが、この甘美な匂いが、自分の事を離してしまいません様に。静かな天幕の中、ノノはそんな事を祈っていた。