人がごった返す賑やかな街の通りで巨体の男が一人、往来の注目を集めているにも関わらず呆然と立ち尽くしている。道に迷っていると言うよりは人の多さに思考が停止し、戸惑っていると言った方が正しい。彼はこの街から遠く離れた国の出身であり、王都はこの街と同じ様に活気溢れる所ではあるのだが、ここタルシスの様に多種多様な格好に加え武器まで携えた者はそんなに居らず、また彼は外出を制限されていた身であったからここまで賑わう街並みというものを殆ど見た事が無かった。だから、余計に呆然としてしまった。
 彼の名は、ギベオンという。古くからの城塞騎士の家に生まれたものの両親は彼を顧みる事無く、それどころか半ば虐待まがいの事を施し、彼はその極度のストレスの中で育った為に慢性的な肥満だった。ちょっと太っている、などという可愛らしいものではなく、初見の者ならあまりの外見に思わず立ち止まり目を見張る。そう、往来の者達の視線はそういう意味があったのである。剣や弓、杖などを持った様々な容姿の者達が、彼をぽかんと眺めてはそそくさと立ち去る。中には嘲笑じみた声もある。だが、幸いな事にギベオンにはその姿も声も目や耳に入っていなかった。
 タルシスの街の遥か向こうに聳え立つ世界樹という巨木がある。この街に滞在する多くの者達は、その世界樹を目指す冒険者達だ。領主である辺境伯が触書を出し、集った者がギルドを結成して先へ進む為に迷宮を探索している。腕に自信がある者ばかりがこの街に犇めき合っているにも関わらず、まだ辿り着けた者は誰も居ないのだそうだ。少なくとも、ギベオンはそう聞いている。
 ただ、ギベオンはこの街に冒険をしに来た訳ではない。この体でそんな無謀な事など全く考えてもいないし、そもそもすぐに息が上がる彼では何の役も立てはしないだろう。タルシスに来るまでも散々な苦労をしたと言うのに、冒険探索をするという気は全く起きない。
 ではそんな彼が何故ここに来たのかと言うと、城塞騎士である父が団長を務める隊の中の一人がギベオンの境遇を知って気を揉んでくれ、彼の両親に直談判をしてタルシスに送り込んでくれたのだ。一応は城塞騎士の教育は仕込まれているギベオンであるが、息子と名乗るなと父から言われていたので中流階級の出自であるにも関わらず一般兵士に混ざって一兵卒として過ごしており、その中で唯一懇意にしてくれた同僚――ギベオンにとっては先輩に当たるジャスパーという名の男だ――が降格を覚悟で直談判してくれた。最初は良い顔をしなかったギベオンの父も、ジャスパーが自分もタルシスに居る医者に鍛えて貰ったと聞いて許可を出した。そう、ギベオンはタルシスに痩せに来た、のである。
 世界樹を目指す冒険者も居る中で不謹慎な、と言われてしまうかも知れないが、ジャスパーによればその医者が肥満患者を請け負い始めてもう五年以上は経つらしく、タルシスの住民達も概ね肯定的なのだという。活気ある街に様々な産業やそれに準ずる仕事が集約するのは当然の事であり、ニーズがあるからその医者も続けているのであろうし、何よりジャスパーの以前の肖像画と現在の彼を見比べてみても別人としか思えない風貌で、その仕事ぶりを見て受け入れないという住民もそう居ないのだという。
『あの先生、おっかないし容赦ないけど絶対お前の体……いや、体だけじゃなくて人生良くしてくれるからな!
 がんばって来いよ!』
 そう言って晴れやかに見送ってくれたジャスパーの「おっかないし容赦ない」という言葉に一抹の不安を覚えていたギベオンは、その医者に会う前からこの街の人混みに尻込みしていた。どっと汗が吹き出て思考が停止しそうになり、呼吸が乱れ始めたその時、彼の汗が滲んできた大きな背中に声が掛けられた。
「あの、すみません。ひょっとして、私と行き先が同じじゃないですか?」
「はぇ?!」
パニック寸前になっていたところに突然声を掛けられたので素っ頓狂な声が出たギベオンが後ろを振り返ったが何も見えず、ここです、と下から声がして目線を下に向けると、褐色の肌に黒髪を腰まで伸ばした顔立ちが可愛らしい背の低い女性が立っていた。
「え、えと……う、うん、多分同じ、だと思う」
「ですよね……」
 ギベオンの頷きに、女性も眉根を下げて苦笑した。彼女もまた、ギベオンまでとは言わないが体格が随分と良かった。背の低さが横幅が大きい事を余計に強調している。
「人通りがすごくてちょっと困っていたんです。良かったら一緒に行きませんか?
 私、ペリドットって言います」
「あ、う、うん、僕はギベオン。一緒に行ってくれると助かるよ」
「良かったぁ」
 ペリドットはギベオンの返答にほっとした様な表情を見せ、持っていた荷物を持ち変えた。彼女には重たい荷物なのだろうが、生憎とギベオンも荷物を持ってやる程余裕は無かったし、そこまで気が付けなかった。
 往来を歩き始めた二人はそれは目立ったが、たまに視線を感じるくらいで二人が思った程のものではなかった。タルシスに来るまで通った街や村では嘲笑や蔑みが随分と飛んできたものだから縮こまる事も多かったというのに、人口密度がここまで高いと様々な人間が居るという事で片付けられてしまうものらしい。
「その診療所、場所知らないんですけど、知ってます?」
「ご、ごめん、僕も知らないんだ。あと、僕に敬語使わなくて良いよ」
「あ、そう? じゃあ使わないね。……あのお店で聞いてみる?」
「う、うん」
 敬語を使われ慣れていない上に異性とも話す事にも全く慣れていないギベオンがしどろもどろになりながら受け答えをするも、ペリドットは大して気にする事なく往来に並ぶ店の一つを指差した。彼女が指した先をギベオンが見遣ると、金髪の娘が店頭に立ち剣の並び替えをしていた。店の奥には薪を炊く竃が見えており、工房の様だった。
「あの、すみません。道をお尋ねしたいんですけど」
「はい? ……あ、えーっと、違ってたら悪いんだけど、クロサイト先生の診療所?」
「そうです……」
 ペリドットに声を掛けられた娘は、彼女を見て僅かに口を濁しながらも首を傾げて目的地を尋ねた。そう、二人の目的地は今娘が言った診療所であり、この街の住民は容姿を見れば大体目的地が分かる様であった。口を濁したのは、娘なりに気を遣ったのであろう。
「んっとね、この道をまっすぐ行ったら果物屋さんがあって、その角を左に曲がって二区画行って、
 右に階段があるからそこをずーっと上ったとこにあるよ」
「………」
「わ、分かったかなあ……?」
 気を取り直した娘が通りの向こうを指差しながら説明すると、ペリドットはうんうんと頷くもギベオンはまた硬直した。単に飲み込みが少し緩やかなだけで決して頭が悪い訳ではなく、娘の説明が早すぎただけなのであるが、彼の固まった表情に娘は不安そうな顔になる。そんな娘に私は分かるから良いよとペリドットが言おうとしたその時、ふわと何か甘い香りが鼻孔を擽り、その香りで娘が誰かに気付いたのか目線を二人から離した。
「あっ、セラフィさん、お帰りなさい。ねえねえそれって」
「……これくらいで良かったか?」
 二人の横に足音も立てずに現れた、上から下まで黒ずくめのセラフィと呼ばれた長身の男は、ちらと横目で二人を見ながら手に持っていた籠をずいと娘に寄越した。その籠の中には香りの正体であろう花が入っており、恐らくセラフィが摘んできたのだろうがあまりにもその花籠と彼の姿がミスマッチすぎて、ペリドットが妙な顔をしてしまったのも無理はないだろう。
「うんうん、十分だよ! これだけあったらネクタルたくさん作れるし皆助かるよ。有難う、はいこれお代金」
「ん……」
 花籠を受け取った娘が満面の笑みを見せ、ポケットの中から取り出した金をセラフィに渡す。どうやら彼は店頭に並ぶ商品の材料を売りに来た様だ。買い取りもするんだ、と妙な感心をしたギベオンはしかし、自分より少し低い背丈のセラフィが自分の横幅の三分の一程度の細さに居た堪れない気分になった。否、恐らく彼は成人男性の平均よりも細いのであろうが、あまり並びたいものではないと思ってしまった。
「あとね、この二人、診療所に行きたいんだって。連れて行ってあげてよ」
「えっ? あの、でも」
「大丈夫、セラフィさんはクロサイト先生の弟さんだから。ね、お願い」
「……良いだろう、ついて来い」
 そして娘が唐突に自分達を案内する様にセラフィに頼んだのでギベオンもペリドットも慌てたのだが、その医者の血縁者であったらしいセラフィは嫌な顔一つする事なく引き受けた。よく見ると黒に見えた外套は暗めの紅であったし長いジャケットは黒に近い濃紺で、夜であれば目立たない外見かも知れないがこんな昼日中では随分と目立つ。怖そうな人だなあ、と思っていたペリドットは、しかしずいと手を出されて目を丸くした。
「荷物を貸せ。お前もだ」
「へ?」
「持つと言っているんだ。貸せ」
ペリドットとギベオンが両手に持っている荷物を寄越す様に言ったセラフィの声に抑揚は無く、本人にそのつもりは無くてもそれなりに威圧感がある。初対面の人間に荷物を持たせるなど、と驚いた二人は、ほぼ同時に首を横に振った。
「えっ、だ、大丈夫です、あの、」
「ただでさえここまで来るのにくたびれているだろう。診療所に行くまでの階段は今のお前達にはしんどいんだ、貸せ」
「うう……は、はい……」
 ギベオンにとってはそうではないが、背の低いペリドットにとって頭二つ分程は違おうかという背丈のセラフィの言葉は随分と怖く思え、少し震える手で持っていた荷物を彼に寄越した。ペリドットには重たかったその荷物はセラフィにとって全くそうではなかったらしく、軽々と片手にぶら下げた。そして有難う御座いますと頭を下げた彼女を見て、セラフィはぼそっと呟いた。
「ボールアニマルみたいだな」
「え?」
「お前も貸せ。何か壊れやすいものは入ってるか?」
「あ、えっと、な、無いです。すみません」
 何を言われたのか聞き返そうにも既にセラフィはギベオンに荷物を寄越す様に言っており、結局尋ねる事が出来なかったペリドットは小首を傾げたが、両手に二人分の荷物を下げたセラフィが工房の娘にまたなと言ってさっさと歩き始めてしまったので、二人は娘に軽く会釈をしてセラフィの後を追う様に歩き始めた。
 そして、娘が言った様に工房から少し歩いた所にあった果物屋の角を左に曲がり、二区画歩いた右手に見えた階段の前で止まったセラフィは、同じく足を止めて佇んだ二人に言った。
「良いか、俺は先に行って荷物を置いてくる。お前達はゆっくり上って来い」
「は、はい」
「無理をすると膝と足首を痛めるからな、ゆっくりだ。良いな」
「はい……」
 そこまで長い階段には見えないが、螺旋状に続くその階段は小高い丘の様な土地をぐるりと囲んでいる様で、確かに先程セラフィが言った様に荷物を持ったまま上るにはつらいだろう。引き攣った顔で返事をした二人に念を押したセラフィは荷物の重さなど全く意に介さず一段飛ばしで上って行き、あっという間に姿が見えなくなった。取り残されたギベオンとペリドットは顔を見合わせたが、このままじっとしていても仕方ないので言われた通りゆっくりと上り始めた。荷物を置いて来たらしいセラフィが水筒を片手に踊り場まで降りて来た頃には二人共息を上げており、二人分の荷物を持って上ったにも関わらず汗一つかかず息も全く上がっていないセラフィにギベオンは再び居た堪れない気持ちになった。
「……わぁ……」
 そして時折水を貰いながらやっとの思いで上りきると、タルシスの街並みが一望出来る上に遠くには聳え立つ世界樹が見え、ペリドットよりも後に上って来れたギベオンは彼女と同じ様にその光景に見惚れた。苦労して上ってきた甲斐があると二人に思わせた程の美しい緑の光景の中に、いくつかの気球艇が浮かんでいる。数多くの冒険者が遠くに見える巨木を目指していると聞くが、観光に訪れる者も多いのではないかと何となくギベオンは思った。
「――ん、何だ、客か?」
 しかしその美しい景色に見惚れていたギベオンはセラフィのものではない声に振り返ったのだが、振り返った先には血がついた鎚を肩に担ぎ、仕留めたのだろう豚を入れた小さな檻に括り付けた縄を片手で引き摺りながら歩いてくる紺のシャツの上にグレーの上着を着て髪を首元で束ねた男が居り、あ、これ僕死んだ……とギベオンは気が遠くなるのを感じ、ペリドットは小さく悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。そんな二人を見て、セラフィは苦い顔で眉間を指で押さえて溜息を吐いた。



「いや、すまないな驚かせて。私がこの診療所の主のクロサイトだ。そっちは弟のセラフィだ」
「こ、こちらこそ腰を抜かしてしまってすみませんでした……ギベオンと言います」
「ペリドットです、初めまして」
 豚を見て放心してしまったギベオンとペリドットは言われるがままに診療所に入ったのでその後の豚の行方は知らないのだが、クロサイトが身支度を整えて白衣を羽織りテーブルを挟んで二人の前に座ったので取り敢えず豚の事は忘れる事にした。先程の姿があまりにもインパクトが強すぎて医者に思えず、名乗ったものの疑念の色を浮かべている二人にセラフィは渋い顔のままコップに水を注いで出す。白衣を羽織ったクロサイトとは対照的に、セラフィは外套と羽織っていたジャケットを脱いで真っ黒な長袖のシャツ姿になっていた。
「君はジャック君の後輩だったな。彼から手紙で話は聞いている」
「ジャック? ジャスパー先輩の事ですか?」
「ああ、そう、ジャスパー君。私達はよく名前を省略してしまうのでな」
「はあ……」
 ジャスパーをジャックと言うのも全然略してない気がする、と喉まで出かかったペリドットは、空気が読める女であるので何も言わなかった。しかしそんな略し方をするならば自分達も略されてしまうのではという彼女の危惧は、不幸な事に的中していた。
「ペリドット君……ペリ君かな」
「えっ」
「語呂が悪いな。ペリ子か」
「そうだな、ペリ子君の方が良いな」
「えっ、えっ、私も略しちゃうんですか?!」
 ペリドットという名を気に入っている彼女は途方に暮れた様な顔でそんなあ、と言ったのだが、クロサイトもセラフィも大真面目に頷いた。
「じゃあ僕、ギベですか?」
「それも語呂が悪いな……ギベオン……ベオかな」
「うむ、ベオ君にしよう」
「しようって、そんなあ」
 全く略す必要も無さそうな名前を無理矢理略されたギベオンとペリドットは不服そうな声を上げたものの、クロサイトもセラフィもその呼び方が気に入ったのか二人の抗議は受け入れられなかった。腕が立つ医者と聞いてはいるが本当なのだろうかという不安しか沸かない二人をよそに、クロサイトは椅子から腰を浮かせた。
「ではまず一人ずつ診察しよう。ペリ子君から診察室に来たまえ」
「あ……、はい」
 応接間も兼ねているらしいこのダイニングとは別に、当たり前かも知れないが診察室もあるらしく、クロサイトが廊下の向こうを指差す。既にペリ子と呼ばれている事に不満の色を浮かべたものの、クロサイトの言葉に一応は素直に従ったペリドットの背を見送ったギベオンは、腕を組んで椅子の背凭れに背を預けたセラフィと取り残された形になり、これはこれで地獄の様だと嫌な汗が背中を濡らすのを感じていた。
 一方、診察室に入ったペリドットは、診察室の窓からも見える世界樹の姿に思わず感嘆の溜息を吐いた。窓枠が額縁の様に見え、趣のある部屋となっている。部屋に設えられた棚には様々な薬品が並び、作業台であろう机には擂鉢が置かれ、天井からは何かの薬草が吊るされている。ついきょろきょろと部屋を見回してしまったペリドットは、椅子に座ったクロサイトが自分が着席するのを待っている事に気が付いて慌てて彼の前に置かれてある回転椅子に座った。
「身長体重は事前に君のご母堂から手紙で知らせて貰っている、149センチに71キロだな。
 君が何故太ってしまったのかも知っているが、病に臥せって処方された薬の副作用、で間違いないかね?」
「はい……」
 何の遠慮も無く身長体重を言ったクロサイトに原因を尋ねられ、ペリドットは神妙な面持ちで頷く。彼女はギベオンと違い、ここ数年で一気に太った。原因不明の病で倒れたペリドットは劇団を率いている母の看病の手には負えず、故郷の街から離れた村の医者に暫く預けられたのだが、この医者の見立てが悪かったのだろう、処方された薬を飲む内にダンサーの母譲りの可憐な容姿から見る間に横幅が増えた。もちろんペリドットの母は抗議をしたが、命は助かったんだから文句を言われる筋合いは無いと言われ、挙句に踊り子の様な下賎な者の命を助けてやったのに感謝すらしないのかと吐き捨てられた。あの時の母の強張った顔は忘れられないし、ペリドットも思い出すと胸がぎゅっと締め付けられる。
「ご母堂が随分と胸を痛められているようだな。
 自分が気にかけてやれなかったばかりに娘につらい想いをさせてしまったと手紙に書いていた」
「お母さんは悪くないんです。私が変な病気しちゃったから……」
「どちらも悪くない、ご母堂も君もお互いをとても思い遣っているし病などいつ誰が罹患してもおかしくはない。
 悪いのはその医者だ、そこまで顕著に副作用が表れる様な薬を処方し続ける方がおかしい」
「………」
「もちろん患者の命を助ける事は第一だが、その事に囚われすぎて患者を不幸にするのは医者としてあるまじき事だと私は思っている。
 職業で患者を罵倒するなど以ての外だ。良いね、ご母堂も君も全く悪くはないのだ」
「……はい」
 まるで諭す様な口調でペリドットに言ったクロサイトは、僅かに涙声になった彼女が頷いたのを見てから口を閉ざした。彼は何気なく言ったのかも知れないが、ペリドットにとってはここまで優しい医者の言葉は無く、彼女は両手で顔を覆って暫く泣き、その間クロサイトは労る様に無言のまま待った。
 やがてすん、と洟を啜ったペリドットが涙を拭いて顔を上げると、クロサイトはでは診察を始めようなと机に置いてあった聴診器の耳管を首に引っ掻け、視診から始めて聴診、触診、打診まで丁寧に施した。聴診や触診をする時も服は脱がなくて良いと言い、ペリドットは背を向けた時だけ素肌を晒したが、丈夫な良い体だ、と褒められ何となく嬉しくなった。
「診察は以上だ、ベオ君と交代してきてくれるかね。フィーと二人きりは気まずいかも知れんが」
「フィー? ……あ、セラフィさんの事ですか?」
「ああ、うん、そうだ。あれは私をクロと呼ぶ」
「え、兄さんとかではなくてですか?」
「私とあれは双子なのでな。名前で呼ぶのだ」
「ふ、双子?!」
 セラフィという短い名前でさえも強引に略しているクロサイトに驚いたが、それ以上に驚く事を言われてペリドットは思わず聞き返してしまった。髪の色も違えば顔も似ていない、同じと言えば性別くらいなもので、全然双子には思えない。
「似てないと思うかも知れないが、正真正銘双子だ。ちゃんと記録も残ってある」
「そ、そうなんですか……」
 驚きのあまり気の利いた返事が出来ず、ペリドットは乾いた笑いしか浮かべられなかった。だが言われてみれば先程のクロサイトの思い遣りのある言葉と、ここに来るまでに荷物を運んでくれたセラフィの思い遣りは似ている様な気もした。しかし、はたとそこで思い出した事があり、彼女はクロサイトに尋ねた。
「あの、ボールアニマルって何ですか?」
「うん? 何だねいきなり」
「いえ、セラフィさんが私を見てボールアニマルみたいって仰ったので」
「……フィーが? 君に?」
「はい」
 工房の前で荷物を寄越せと手を差し出したセラフィは、確かにペリドットを見てボールアニマルみたいだなと言った。しかし彼女はそのボールアニマルとやらを知らないので何の事か分からず首を捻るばかりなのだが、クロサイトはきょとんとしてからやおら口元を手で隠して何故か二、三度頷いた。
「そうか、フィーがそんな事を言ったか。そうかそうか」
「え……だから何なんですか?」
「そのうち分かる。今は知らなくても良い」
「はあ……?」
 表情は変えなかったもののどこか楽しそうな声音で意味深な事を言ったクロサイトにやはりペリドットは首を傾げるしかなかったのだが、後に控えているギベオンを待たせてもいけないと思い、一先ずは診察室を辞した。そして交代を告げに行くと、室内は明るいというのにじっとりと重たい空気が漂うダイニングで縮こまっていたギベオンは心の底からほっとした様な表情をペリドットに見せた。この重苦しい雰囲気の中で待つのか……と彼女は思ったが、それでも空気が読める女であったから、何も言わずにギベオンの背を見送った。
ペリドットと交代で診察室に入ったギベオンは、彼女と同じ様に室内から見える世界樹に目を見張った。あの樹でこの街は栄えているのかな、などと呑気な事を思ったが、クロサイトが無言で待っている事に気が付いて慌てて着席した。
「ジャック君から話は聞いている。彼があれだけ気に揉んでいるとは驚いたが」
「僕も、ジャスパー先輩があそこまでごり押ししてくるお医者さんってどんな方だろうって思ってました」
「厳しいだの容赦ないだの言っていなかったかね?」
「………」
「言っていたのだな」
 図星を言われ、素直にはいと言う事も出来ずにギベオンは黙ってしまったのだが、クロサイトにはその沈黙は肯定と受け取れた。思わずすみません、と謝ったギベオンであったが、別に彼が謝る要素はどこにも無い。
「185センチに143キロ。体重は前後しているかも知れんが、概ねこれで合っているかね」
「は、はい」
「絞り甲斐があるな。楽しみだ」
「ひぇっ……」
 ジャスパーからの手紙に身長体重すら書かれていたのだろう、クロサイトは測定器が側にあるにも関わらずギベオンを測る事もせずに机の隅に置かれていた書類を眺めて実に楽しそうに呟いた。その呟きにぞっとしたギベオンは竦み上がったが、そんな彼を気にする事無くクロサイトはじっと彼の目を見ながら首に掛けていた聴診器の耳管を耳にあてた。
「君は城塞騎士の家柄だそうだな」
「あ、は、はい。六代前から続く家、です……」
「なるほど、道理で体付きがしっかりしている訳だ」
 ペリドットと同じ様に視診から始め、打診まで丁寧に施したクロサイトは、書類に何事かを乱雑に書きながらギベオンの家柄を確かめた。クロサイトから言われた様にギベオンの家は代々続く城塞騎士の家柄であるが、跡継ぎを設ける事を嫌った父に無理矢理母を嫁がせた祖母を未だに両親は恨んでおり、嫌々ながら設けられたギベオンは本当にひどい仕打ちを受けながら育ってきた。それ故、醜い体をしているのだから視界に入るなと言われた事はあっても今の様に褒められた事は一度も無かったのである。
「ここまで体に脂肪がついているにも関わらず、内臓が悪くなっている兆候が見られない。
 心臓というのは体の大小問わず大して変わらない大きさでな、私の心臓も君の心臓も殆ど変わらない大きさなのだ。
 だが大きな体の隅々まで血液を送り出しているのに、君の心臓は全く以て正常に働いている。
 分かり難いかも知れないが、これはとても凄い事なのだ」
「……は、はぁ」
「それと、その足腰。143キロという重量を支えているのに、関節軟骨の極端な磨耗が見られない様に感じる。
 君の様な巨体の人間の殆どは、この診療所に来るまでの階段は上れないのだ。膝を壊してしまうからな。
 だが君は、時間は掛かったにせよきちんと上れただろう」
「は、はい」
「内臓の強さ、骨や関節の頑丈さ、体の強靭さ、どれを取っても申し分ない。
 脂肪を削ぎ落として筋肉に変えれば誰にも引けを取らない体になるだろう。
 君の体は皆を守る盾であるフォートレスに相応しい」
「………」
 ギベオンの胸や足を丁寧に指差し、一つ一つ説明して褒めてくれたクロサイトに、ギベオンはぽかんとしたまま言葉が出せなかった。医者と言っても初対面の人間にまさかここまで言って貰えると思っていなかった彼は状況が飲み込めずにいたのだが、やがてその言葉が自分の今までの境遇を変える事が出来るのだと言ってくれていると気付き、その途端にぼろぼろと涙が零れた。
「あ、あの、すみません、あの……」
「よく今までご両親の元で耐えたな。よくここに来てくれた。君は変われる」
「はい、はい……」
 ジャスパーがどこまで手紙でクロサイトに知らせたのかはギベオンには分からないが、聴診や打診をする時に服を捲って現れた素肌に走る無数の痣はどれも訓練などで出来る様なものには見えず、眉を顰めていた辺り、どれ程の仕打ちを両親から受けてきたのかをクロサイトは見て取ったのだろう。大きな体を丸めて俯いたままぼたぼたと涙を落とすギベオンを、暫くクロサイトは放っておいてくれた。何故ジャスパーが半ば強引にタルシスまで来させたのかを理解出来たギベオンは、袖口で乱暴に涙と洟を擦って顔を上げた。
「落ち着いたかね? よろしい、では先程の部屋に戻ろう。
 もう暫くそのままで居させてやりたいのは山々だがフィーと二人ではペリ子君が気まずかろうからな」
「すみません、大丈夫です、有難うございます」
 涙は止まったものの、瞼が腫れたままのギベオンを慮って暫くは診察室に留まらせてやりたかったが、ペリドットを放っておくのは忍びないと聴診器を机に置いたクロサイトはギベオンの返事を聞いて礼を言う代わりにぽんぽんと軽く彼の肩を叩いた。はにかみながら笑って腰を浮かせたギベオンは、もう一度だけ目尻に溜まった涙を拭ってから促されるまま診察室を後にした。
「――さて、診察も終わったと言っても君達の体の状態が全て分かった訳ではない。
 これから数日間、私は君達の状態を手探りで知っていく事になるから多少不便を感じるかも知れないが、無理強いは決してしない。
 約束しよう」
 ダイニングに戻ったクロサイトは改めてギベオンとペリドットを前に座り、今後の指針を話し出した。ペリドットはセラフィと二人きりで待っていたので重苦しい雰囲気になってしまったかとギベオンは懸念したのだが、意外にも彼女はちまりと行儀良く座ったまま、借りたのだろう本を読んでいたのでそこまで苦にはならなかったらしい。相変わらずセラフィは腕組みをしたまま黙っていたのでギベオンは少し怖がったが、その間をほぼ与える事無くクロサイトが話し出してくれたのは有難かった。
「いつもなら患者を長期間預かる事はしないのだが、ペリ子君は薬の事があるしベオ君は急ぎ過ぎると体にかなりの負担が掛かる。
 だからペリ子君は半年、ベオ君は一年、ここで過ごして貰う事になる。
 君達はその期間中に一時帰省しても良いし、途中でやめてしまっても良い。
 それは君達の自由であって私には止める権利は無い」
「は……はい」
 ペリドットは母から取り敢えず半年、という期限を設けられているのでクロサイトの言葉にほっとし、ギベオンもまた一年も親元を離れられるという事に安堵した。そして滞在するも挫折するも自由と言われ、全て自分の意思で決めろと暗に言われた事に居住まいを正した。
「しかし、何はともあれ君達はたった今から私の患者だ。
 私を含め医者というのは万能ではないが、私の元に来てくれた以上私は君達に全力を尽くそう」
「………」
「1から100までの距離より、0から1までの距離の方が長くて険しい。
 君達はここに来るまでに、0から1へと踏み出したのだ。それは称賛に値する。
 縮こまらずに胸を張りたまえ」
「は……はいっ」
「よろしい。良い返事だ」
 医者としてはまだ若い部類に入るのだろうクロサイトは、しかし二人にとってひどく立派な医者に見えた。そして、隣に座ったまま腕組みをしているセラフィも心なしか二人の返事を聞いて僅かに口角を上げた、様に見えた。
「では今日は近辺を案内して、工房で君達に合う様な防具でも誂えて貰おうな」
「……防具、って」
「なに、冒険者の様に探索に行く訳ではない。体を絞って鍛えるにはこの風馳ノ草原はうってつけでな。
 心配せずとも君達が卒業する頃にはそんじょそこらの駆け出し冒険者よりも強くなっている」
「……えっ、えっ、えぇーー?!」
 全く以て予想もしていなかったクロサイトの言葉にギベオンもペリドットも驚愕の声を上げたが、慌てた二人を特に気にする事なくクロサイトはでは行こうかと椅子から立ち上がってセラフィに行ってくる、とだけ言った。どうやらセラフィは行かないらしい。呆然とする二人にセラフィはさっさと行けと言わんばかりに顎でクロサイトの方をしゃくり、ギベオンとペリドットは不安そうな顔を見合わせたのだがクロサイトから早く来たまえと言われてしまい、二人はよろよろと白衣の背中を追う様に診療所を出て行った。