「あなた達がクロ先生の新しい患者さん? 初めまして、私はここの主のガーネットよ」
「は、初めまして、ギベオンです」
「ペリドットです」
 防具を誂えて貰う為に工房へと立ち寄った後、クロサイトに連れられて行ったのは酒場であった。こんな明るい内から酒場が開いているものなのだろうかとギベオンとペリドットの二人は首を捻ったが、タルシスは冒険者の街であり、昼夜問わず樹海へ繰り出すので昼日中に酒場に来る事も多いらしい。証拠に、ガーネットが居るカウンターの正面に配置された小さな舞台の周りに設えられたソファには数名の男女が座ってグラスを傾けており、広げた地図を見ながらああでもないこうでもないと話し合っている。その中の何人かはギベオン達を見て目を丸くしたが、側に居るクロサイトを見て納得した様な表情で特に気にせずまた地図に目を落としたので、痩せる目的でクロサイトの元に来る者がそこそこ居るというのは本当の事であったらしい。
 この酒場、踊る孔雀亭という屋号らしいが、カウンターに立つ女主人はガーネットと名乗り、ペリドットよりは色が薄いが褐色肌で長い黒髪を緩やかに編み込ませており、美しい顔立ちを綻ばせた。組んだ腕に乗る程度には大きな胸が強調される服に目のやり場に困ったギベオンはどもって挨拶しか出来なかったが、様々な冒険者を相手に酒場を切り盛りしているガーネットは慣れているのか気にしていない様だった。
「ギベオン君かあ、大きいわね。セラフィ君くらいかしら?」
「へ?」
「フィーより5センチ高い」
「そんなに! お肉がついてるから老けて見えるけど、贅肉落としたら童顔になりそうね。
 背も高いし、もてるようになるわよ」
「は……はい」
 ガーネットの言った「大きい」という言葉はてっきり体積を表しているのかとギベオンは思ったのだが違う様で、背の高さを指しているらしい。ペリドットよりは背が高く、それでもギベオンより低いクロサイトには全く届かない程度のガーネットは、ギベオンを見上げながら鈴を転がす様に笑った。首に着けている蛇の模様のネックレスの中央と胸元に光る宝石は、彼女の名と同じガーネットの様であった。少なくとも鉱物を鑑定する事がある程度出来るギベオンの目にはそう映った。
 そして、共通点は多いのに全く容姿が違うと内心落ち込んでいたペリドットにも、ガーネットは心配無用と笑顔を向けた。
「ペリドットちゃんは、綺麗な紫水晶の目をしてるのね。
 知ってる? 女の子って、太ってる状態からぎゅっと絞ると胸は残る事が多いのよ」
「えっ……」
「胸が大きくて可愛い女の子なんて、世の中の男は放っておかないわ。でもね、男を振り回すくらいの女の子にならなきゃだめよ」
「え……っと……分かりました……」
 突然何を言い出すのかと頬を赤くしたペリドットは、しかしガーネットの美しい笑顔にそう言うしか出来ず、赤い顔のまま手を組んで俯いた。肥満体の自分達を手放しで褒めてくれるとは思っていなかった二人はただ驚いて沈黙してしまったのだが、クロサイトは全く構う事なく続けた。
「この酒場には依頼が舞い込む事があってな、あそこに居る彼ら冒険者がその依頼を引き受けるのだ。
 君達にも受注出来そうな依頼があればおいおい引き受けていくつもりだ」
 カウンター横に設置された大きなコルクボードをピンで留められた紙が所狭しと埋めており、ギルド名であろう文字列の横に受注済だの保留中だのが書かれている。冒険をするのではなくこういった依頼を引き受けて賞金稼ぎをしている人も多いのだろうなとペリドットは感心したし、ギベオンは僕らが引き受けられそうなのとかあるんだろうかと不安の表情を浮かべた。
「それは君達がある程度体を絞れてからだな。最初は息抜きに時折酒を飲みに来れば良い」
「お酒以外にもフレッシュジュースがあるから、是非来てちょうだいね。首を長くして待ってるわ」
 いきなり無茶をさせるつもりはないとでも言うかの様に軽く肩を竦めたクロサイトに、ガーネットは籠からオレンジを一つ取って掲げて見せる。彼女が男だけではなく女も魅了する様な微笑みを見せたものだからギベオンもペリドットも思わず見惚れて再度頬を染めたのだが、クロサイトはそんな二人の反応に何か考える様な仕草を見せ、顎に手を当てて言った。
「彼女は全ての冒険者の恋人だからな。惚れるなよ」
「よく言うわよ、どの口が言うのかしら」
「事実ではないかね?」
「そうね、私は全ての冒険者のお早いお帰りをここで待っているわ」
 まるで旧知の仲であるかの様に軽口を交わすクロサイトとガーネットに、しかしギベオンもペリドットも何とコメントして良いのか分からない。まだ樹海の危険性を知らぬ二人はガーネットの「帰りを待っている」という言葉の重さが理解出来なかったからだ。それでもボードに留められた紙の中には受注済の文字を赤い二重線で訂正し、再度募集されている依頼が数件あるのを見ると、何となく分かる様な気もした。
「じゃあ、これから暫くよろしくね。二人が痩せるのを楽しみにしてるわ。
 大丈夫、クロ先生が鬼みたいにみっちり鍛えあげてくれるから」
「人聞きが悪いな」
「それこそ事実じゃない!」
 ガーネットの冗談とも本気とも取れる様な言葉に竦み上がった二人は、それでもクロサイトの抗議を笑い飛ばした彼女にただ引き攣った笑いしか返す事が出来なかった。



 頼まれていた防具が出来た、と工房から連絡が入ったのは、それから二日経った夕方の事だった。ペリドットの防具はそれより早く出来上がっていたのだが、何せギベオンの規格外の体格に合う様な防具など作るのも一苦労で、時間が掛かってしまったからだ。ではその二日間、二人が何をさせられていたかと言うと、ひたすら街を歩かされた。徹底的に歩かされ、どこにどういう施設があるのかを覚えさせられた。街の広場、踊る孔雀亭、ベルンド工房、冒険者ギルド、カーゴ交易場、マルク統治院などの主要な施設と診療所の位置関係を叩きこまれたギベオンとペリドットは既に筋肉痛がふくらはぎを襲っていたのだが、明日から街を出て本格的にプログラムを開始するとクロサイトに言われてははいと言う事しか出来なかった。
 診療所のすぐ側にあるセフリムの宿は冒険者御用達の宿であるらしく、ギルドに所属するメディックが治療出来ない傷病者はクロサイトが診てしかるべき処置をするらしかった。その為、患者を引き受けたクロサイトは宿を通じて診療所を留守にする機会が多くなる旨を宿を拠点にしている冒険者達に伝えておかねばならず、宿屋の女将に託けている姿をギベオンもペリドットも見た。
 この宿屋、食堂で提供される食事は宿泊者以外でも食べる事が出来るのだが、ギベオンとペリドットが苦労して上った緩やかな丘の上にあるにも関わらず、食事の時間ともなると大勢の客が訪れた。診療所には簡易的なキッチンがあり、食事を作る事も出来るのだが、クロサイトは専ら女将の作った料理を食べるらしい。ダイエット目的で訪れたのだからかなりの食事制限が設けられるのではないかと思っていた二人は、しかし量さえ守ればある程度のメニューは自由と言われて驚いた。
「明日になれば分かると思うが、探索というのは体力が必要なものでな。
 適切なエネルギーを摂らねば逆に危険なのだ。
 昨日と今日はそれだけしか食べさせないが、明日の夜はそこそこ食べる事になるだろうな」
「そんなに大変なんですか?」
「さて、大変と感じるか否かは私には分からないな。明日の君達の動き次第だ」
 女将が作った野菜たっぷりのラタトゥイユとライ麦パンを診療所に持ち帰り、クロサイトに言われた通り一口50回以上噛みながら食べる二人は患者というより生徒の様にも見える。風馳ノ草原名産の人参ももちろん入っており、地元で食べる人参より甘くて美味しいとギベオンは咀嚼していたのだが、ペリドットは元々人参が苦手で食べるのに苦労していた。それでもクロサイトは好き嫌いに対して呆れる事も無く、この街に居る間に君達の好き嫌いを克服させてやろうとも言った。
「医者として叱ったり注意したりする事はあっても、それ以外で嘲笑したり呆れたりはしない。
 大きな一歩を踏み出した勇気を持つ者を笑えるほど私は偉くもないのでな」
 人参が苦手であると告白したペリドットに対しそうか、としか言わなかったクロサイトに彼女が笑わないんですねと言うとそんな言葉が返ってきて、今まで太っている事で散々笑われてきた二人はライ麦パンをちぎって口に運ぶ主治医の姿勢が徹底しているのだと思った。彼とは別の仕事をしているらしいセラフィはその場に居なかったが、ほぼ同じようなスタンスであろう事は想像に難くなく、世の中にはこういう人も居るのだとぼんやりと彼らは思っていた。
 明けて翌日、いよいよ街の外に出る事になり、クロサイトが所持していると言う気球艇を交易場から出す際、港長からメンテナンスは十分してるから全然心配いらないからなと言われ、内心不安だったギベオンもペリドットもほっとした。クロサイトが言うには彼は有能な技師であり、統治院の主である辺境伯の信頼も篤いのだそうだ。
 そして街門から出る時、空に浮かぶ数多くの気球艇を見て、ギベオンは改めてこの街は本当に冒険者の街なのだと実感したし、ペリドットは初めて間近で見る気球艇に興味津々だった。そんな二人の後から片手を白衣のポケットに突っ込んだままクロサイトが気球艇に乗り込み、フライトさせた。
 他の気球艇が北へ向かっているのに対し、クロサイトが着陸させたのは街から程近い、人も疎らな小さな森だった。不思議そうな表情を浮かべる二人に、クロサイトはやはり片手をポケットに突っ込んだまま空いた片手で鎚を肩に担ぎ、先に気球艇から降りて言った。
「まずはこの廃坑から慣れて貰う。
 ベオ君はそれなりに慣れているかも知れないが、ここの魔物はペリ子君の様な初心者が武器の扱いに慣れるにはちょうど良くてな。
 ついでに地図の書き方も教えるから、覚えたまえ」
「地図、ですか」
「うむ。日常生活にさして必要無いかも知れんが、覚えて損はない」
 クロサイトがそう言いながら鞄から取り出したのは、前日に街を歩き回っている際に羊皮紙の売買を専門に扱うギルドから購入した少し大判の羊皮紙だった。探索の際に必須となるのが地図であり、その地図はギルドごとに独自の書き込みをする為、羊皮紙の需要は高い。冒険探索には直接関わらなくとも、冒険者相手の商売で生計を立てる者の多さをギベオンとペリドットは垣間見た気がした。
 しかし、今はそんな事より静かな木立の道をこのまっさらな羊皮紙に書かねばならないというプレッシャーがのし掛かっている。勿論クロサイトは間違えてはいけないとは一言も発していないが小心者のギベオンには荷が重すぎて、彼が困った様にペリドットを見ると、彼女は何の躊躇いもなくクロサイトから羊皮紙と木炭を受け取った。
「何度でも消せるから気楽に書くと良い。魔物も居るからベオ君が率先して対処したまえよ」
「え、えっと、」
「危険な時は私が必ず助ける。安心したまえ」
「は、はい……」
 ペリドットは背が小さくても扱いやすいからと渡された短剣を所持しているが、地図を書く為に羊皮紙を持っているなら即座の対処は出来ない。慣れたならある程度の道順を纏めて書ける様になれるだろうけれども、まだ初日である為にそれは無理だ。なのでクロサイトは自分が昔使っていた鎚を持っているギベオンにそう言い、彼は不安げな顔をしつつも頷いた。これでもギベオンは城塞騎士としての教育は一通り施されているので鎚の振るい方はある程度分かっている。
「やあクロサイト、久しぶり。そっちの二人が新しい患者?」
「ああ、ワール君、久しいな。石林の方にばかり行っているものと思っていたが」
 知らぬ森を散策させられる訳なのでおどおどしつつも歩き出すと、廃坑の入り口から少し進んだ開けた場所に居た一人の男が二人の後ろを歩いていたクロサイトに声を掛けてきた。少し癖のある短い髪に眠たげな表情、背負っている大きな荷物が特徴的だとギベオンが思ったその男をクロサイトはワール君と呼んだが、彼の事なのでこれも略称なのだろうとペリドットは思った。
「彼はワールウィンド君。この廃坑で採れる虹翼の欠片が気球艇の燃料になると先代の港長に助言した男だ。
 今は谷向こうの丹紅ノ石林という所をよく探索している熟練の冒険者でね」
「よく言うよ、ベルゼルケルを倒したのは君達兄弟の癖に。
 何年辺境伯が君達の冒険者復帰を要請してると思ってるんだ」
「私は単なる医者だしフィーは単なる植物採集家だ。冒険者ではない」
「単なる医者と単なる植物採集家には見えないけどね」
 クロサイトに紹介されたワールウィンドが呆れた様に言った言葉にギベオンもペリドットも深く頷きそうになったものの、すんでの所でぐっと耐えた。確かにクロサイトは医者であるしセラフィは初対面時に工房に花を売りに来ていたが、単なる医者は鎚を肩に担がないであろうし単なる植物採集家は全身黒ずくめの格好をしないであろう。しかしクロサイトは本気で言っていると分かるので、ワールウィンドも頭を掻くしか出来なかったに違いない。
「私達の事はどうでも良いのだ。そんな事より、こちらがギベオン君とペリドット君。
 半年と一年、うちで預かる事になっている」
「そうか、じゃあ結構長いんだな。たまに街で会うと思うし、よろしく」
「は、はい、よろしくお願いします」
 クロサイトに紹介されたギベオンとペリドットを見遣ったワールウィンドはやはり眠たそうな笑顔を向けて二人に軽く会釈し、何をしに来たのかは定かではないがクロサイトにじゃあな、と言って廃坑を後にした。クロサイトの以前からの知り合いであるから巨体の自分達を見ても大して驚かなかったのだろうと二人が気が付いたのはその後であったのだが、それにしてもクロサイトと関わりを持つ者は本当に肥満体の人間を見ても特にこれと言ったリアクションが無いらしい。その背中を見送った三人は、再度奥の方へと歩き出した。
 のどかな森は、クロサイトが言った魔物など居ない様に思われた。ペリドットは先程歩いてきた道を羊皮紙に書き込み、これで大丈夫なのかと多少不安になった上に再度開けた場所の池に気を取られていると、何か球状のものが飛んできたので彼女は咄嗟にしゃがんで回避したが、その球状のものは横に居たギベオンに思い切りぶつかり、彼はその衝撃に驚きの悲鳴を上げた。
「えっ、えっ?! な、なに?!」
「何、ではない、魔物だ。そこに転がっているだろう」
「えっ?!」
 何が起こったのか理解出来ずきょろきょろと見渡すギベオンに、クロサイトが冷静に鎚で指して指摘する。彼の鎚の先には、確かに緑と赤のボールの様な球状の何かがゆらゆらと揺れながらこちらを見ていた。
「か、可愛いですね、魔物って言う割には」
「ボールアニマルと言ってな、この界隈ではよく見る魔物だ」
「……あ、あれがボールアニマルなんですか?!」
 自分の縄張りを通った事が許せなかったのだろう、そのボールアニマルとやらが威嚇する様に揺れながら自分達を睨んでいるのだが、ギベオンの目にはそれほど恐ろしいものには映らない。しかし、ペリドットは名称を聞いて別の驚きの声を上げた。そう、彼女がセラフィに言われたボールアニマル、だったからである。
「ひどーい!」
「え、なに、どうしたの?」
「セラフィさん、工房の前で初めて会った時、私をボールアニマルみたいって言ったの」
「え……っと……で、でも可愛いよあれ」
「可愛いけど! でも魔物じゃない、ひどいよぉ」
 ここには居ないセラフィに抗議するかの様に半泣きになったペリドットにギベオンは何とフォローして良いものやら分からず、おろおろしながらクロサイトを見ると、彼は相変わらず鎚を肩に担いでいたが口元を手で隠していた。弟の失言を気まずく思っているのかも知れないし、どうやって声を掛けたものか考えているのかも知れない。
「そ、それより、あれどうにかしなくちゃ……でも速いし硬そうだし、どうしよう」
「では最初に手本を見せようか。ちょっとどきたまえ」
 いくら外見が可愛いとは言え、角もあるし皮は硬そうであるし、おまけに飛んできた時の速さを考えると、今のギベオンでは追いかける事も難しい。体当たりしてきた衝撃を鑑みるに、ペリドットが所持する剣では刃毀れする可能性もある。自分の鎚でどうにかするしかないと構えたは良いが策も何も無いギベオンにクロサイトが手助けを申し出てくれて、彼が二人の間から前へ出ると、間合いを詰められたボールアニマルは振り子の原理で勢いを付け、飛んできた。
「はっ!」
 だが、それに合わせる様にクロサイトが思い切りスイングした鎚に敢え無くヒットし、よく分からない鳴き声を上げて体当たりしてきたよりも速く茂みの向こうへとボールの様に飛んでいってしまった。呆然としている二人を振り返ったクロサイトは分かったかね、と言ったが、ギベオンははあ、と気の抜けた返事しか出来なかったし、本当にそんな対処で良いのだろうか……と思ったが、二人共口には出さなかった。
 池の向こうには行けそうにもなく、また別の道があるとヒントをくれたクロサイトの言葉を元に再度歩き出した二人は、道中で随分と多くのボールアニマルと、グラスイーターというバッタの魔物に襲われた。蹴られたり体当たりされたりで怪我もしたが、用意してくれた防具が良かったのだろう、さほど大きな怪我はしていない。しかし見ただけではピクニックに最適な森でも中にはこんな魔物が潜んでいるという事を二人に教えてくれており、ペリドットは書いた地図の隅にどんな魔物が居たのかを書き記した。
「……あれ? せ、先生、クロサイト先生、う、後ろ」
「わっ、わあぁっ」
 そして更に奥へと行けそうな道を見付けた時、どこに潜んでいたのか知らないが背後に四足歩行の見るからに強そうな狒狒が迫ってきており、ギベオンより先に気が付いたペリドットが慌てて指差してギベオンがまた喚き声を上げた。襲ってくる気配はまだ無いものの、驚いてしまった二人が横道に抜ける通路を迂闊にも通り過ぎてしまい、その後をクロサイトが悠然と続く。患者二人を置いて自分だけ曲がるという選択をしなかっただけ優しいが、しかし狒狒はじりじりとこちらへ近付いてきている。
「さすがに今の君達ではあれの相手は厳しいな。ベオ君、そこを右に行きたまえ」
「み、右……えっと……」
「君から見て三時の方角だ」
「へっ? ……あ、は、はいっ」
 ちらと後ろを見たクロサイトは、なるべく狒狒を刺激しない様に歩調を変えずにギベオンに右に曲がれと指示を出した。しかし瞬時に判断出来なかったギベオンはパニックになりそうになったのだが、その前に表現を変えてくれた為に事なきを得た。言われた様に、そこには抜け道の様な裂け目があった。
「びっ……くりしたあ〜。あんなのも居るんですね……」
「さっき見た池の向こうにも居るぞ。なに、すぐに難なく倒せる様になる」
 狒狒から逃げ、先程通った道に戻れた事に安堵の溜息を吐いたペリドットは、クロサイトの言葉に別に倒せる様になりたい訳じゃないんだけど……と思ったがやはり口には出さなかった。その代わり、気まずいやら困ったやらの顔で沈黙しているギベオンに声を掛けた。
「ギベオンは、ひょっとして右と左の判断が苦手?」
「あ……う、うん……苦手って言うより出来ないんだ」
「そっか、それで診療所の場所を聞いた時に硬直しちゃったんだ」
「う……うん……」
 ペリドットから言われた通りギベオンは幼少の頃から左右の瞬時の判断が出来ず、彼は両親から散々罵倒されてきた。数秒考えれば分かるけれども、瞬時は無理だ。地図を書くのを渋ったのも本音を言えば空間を平面的に捉えるのが苦手だからであり、また左右どちらに曲がったのかよく分からなかったりするからだった。だからまた呆れられる、馬鹿にされると俯いてしまいそうになったのだが、クロサイトは何という事は無いとでも言う様に口を開いた。
「左右盲はそれなりに居るからな。こちらが対処を間違えなければ問題ない」
「私のお母さんの劇団にも居るんですけど、時計盤の表現は初めて聞きました」
「君達はどうやって言っているのかね?」
「ペンを持つ手と紙を押さえる手、です」
「それでも構わないのだが、私の様な左利きの人間には通用しないからな。
 時計盤だとほぼ通じるだろう? 三時が右、九時が左、十二時が前、六時が後ろ、だ」
「なるほど……、お母さんに手紙を出す時に書いておきます」
 クロサイトは手に持っていた鎚を掲げ、自分が左利きである事をアピールする。その時に、ギベオンは彼から診察された時に何となく感じた違和感の正体にやっと気が付いた。書類に何かを書き込んでいる姿を見てどこか違和感を覚えたのだが、何が違うのか分からなかったけれども、なるほど言われれば自分と利き手が違うのだ。
 しかし、クロサイトはギベオンの左右盲を本当に問題視せず、ペリドットも彼の前後左右の表現方法を興味深そうに聞き入っており、数多くあるコンプレックスの内の一つがこんなにも自然に受け入れられるとは思っていなかったギベオンは間抜けにも口を半開きにしたまま二人を見てしまった。
「あの……、笑ったりしないんですか?」
「何故笑うのだ。さっきも言ったが左右盲は世の中にそれなりに居るのだから笑う様なものではない。
 左右の判別がつかない事で不利益を被る事も多かろうが、それは嘲笑対象ではないのだ」
「………」
「再度言おう、私は医者として叱ったり注意したりする事はあってもそれ以外で君達を嘲笑したり呆れたりはしない。
 絶対にだ」
「……す、すみません、有難う、御座います」
 両親だけではなく、名を隠された上で所属していた部隊でも体型以外で常に見下されていたギベオンは、そういう事は一切しないときっぱり言って貰えただけで涙が出る程嬉しかった。声を詰まらせ、それでも何とか礼だけは言えた彼に、ペリドットも羊皮紙に書いていた右や左の記述を消して矢印に書き換えてから言った。
「私もこれからなるべく三時の方とか九時の方とか言う練習しておくね。
 さっきみたいにどこからボールアニマルが飛んでくるか分からないもん」
「うん、うん……」
 彼女は母親の劇団に子供の頃から所属しているが、ギベオンと同じ左右盲のダンサーへの指導は全くした事が無い。それ故、言い換えの練習をした事が無く、自分の方が早く卒業する予定であるとは言え半年という期間を共に過ごす相手が不自由を感じるのであればクロサイトの様に即座の言い換えは出来ないかも知れないが練習をしようと思った。そんなペリドットの気遣いが有難く、ギベオンはただ涙を拭きながら頷くばかりだった。



 それから数日の間、二人は毎日廃坑に連れられて行った。地図の書き込みは二日目にクロサイトから満点を貰えたが、その立ち回りでは碧照ノ樹海はまだ無理だと言われた為に、殆ど人が来る事が無い廃坑で徘徊する狒狒を避けどこからともなく飛んでくるボールアニマルを避けたり倒したり、グラスイーターを倒したりしていた。一度だけ狒狒を回避する事が出来ず臨戦体勢になったのだが、その時もクロサイトは全く動じる事なく二人を後ろに避難させて一人で相手をし、難なく倒していたので、ワールウィンドも言っていた様に単なる医者には到底見えなかったし未熟な腕前である事を重々自覚している二人に医者として以外の尊敬の念を抱かせた。
 また、狒狒相手に鎚を振るっている際にギベオンは初めて気が付いたのだが、髪で隠しているクロサイトの片目はどうやら潰れている様だった。何らかの原因で視力が弱いのか、それとも何か痣でもあるのだろうかと思ってはいたけれども、どうも眼球自体が無いらしい。気にはなったものの尋ねるのは憚られたので、ギベオンはペリドットとその事を確認するだけに留めておいた。
 まだ狒狒を倒せる様になった訳ではないが、樹海の浅い階層なら行っても大丈夫だろうと言われる様になったのは廃坑に通い始めて七日経った頃だった。ボールアニマルやグラスイーターから採れたものや、徘徊している狒狒――彷徨う狒狒と名付けられているらしい――の目を盗んで採掘したスレート石や虹翼の欠片を街まで持ち帰り、工房で売却して金銭を得るという事を繰り返していた二人は、新しい場所で新しいものが見られる事を素直に喜んだ。退屈だった訳ではないのだけれども、初めて廃坑に連れて行って貰った時を思い出すと何となく心が弾むのだ。もちろん、遭遇する魔物は強いのだろうという事は重々承知の上なのだが。
 工房でその日の収穫を売却し、店番の娘から顔のむくみがいい感じに無くなっていってるねと褒めて貰ったペリドットと、あんまり疲れた顔しなくなったねと言われたギベオンは、見てくれている人間もちゃんと居るのだという事を知って嬉しくなり、診療所に戻るまでの階段を上る足取りも心なし軽かった。上るのは相変わらず時間がそれなりに掛かっても、クロサイトは急かす事なく二人のペースに合わせて一緒に上る。そして二人の疲労の具合を見極めて、寝る前のストレッチやマッサージの仕方を指導するのだ。
 診療所に戻り、荷物を置いて軽く体を休めてから側の宿屋の食堂で夕食を買い求め、また戻って配膳をする。宿屋で食べた方が効率が良さそうだが、こうする事によって無駄食いを防ぐのだとクロサイトは言った。確かにこの食事方法だと、診療所には食物などほぼ無いので無駄な間食をしなくて済む。極端な食事制限をせずとも「単にそこに食べ物が無い」という環境に身を置けば自然と食べる量は減った。特に、ギベオンがそうだった。周りからの様々なストレスを、とにかく食べる事で発散していた彼は、動く事と汗をかく事、そして他人と話す事によってある程度発散出来る様になってきていた為に、故郷に居た頃より食事量が格段に減った。ペリドットは薬での副作用で肥満になったので、元からそこまで食べないのだ。ただ、工房の娘が言った様に、むくみはとれつつある。
「二人共綺麗に食べたな。結構な事だ」
「美味しかったです」
 その日の宿屋の夕食であったパスタとサラダを完食し、茶が趣味であるギベオンが淹れた紅茶を食後に飲みながら、クロサイトは満足そうに頷きながら言った。机の向かいに座った二人の前にある皿は本当に綺麗なもので、パスタが好物であるペリドットは嬉しそうに笑った。
「本当に綺麗に食べたな。セロリも人参も、気にならなかっただろう?」
「へっ?! せ、セロリ入ってたんですか?!」
「そこそこな。かなり丁寧に微塵切りしていたし人参は摩り下ろしていたし、後はニンニクが利いていたからだろうな」
「人参も全然気が付かなかったです……」
「女将さん、本当にお料理お上手なんですね」
「……そうだな、うん、そうだ」
 ペリドットは人参が嫌いであるが、ギベオンはセロリが苦手で、セロリスティックなど出されようものなら後退る。しかし今二人が綺麗に完食したパスタには、クロサイトの言を借りるならそこそこ入っていたらしい。恐らくそれは抑えられた表現であるだけであって、実際には結構な量が入っていたに違いない。
 しかし、自分達の女将への賛辞に、クロサイトは手で口元を隠しながらも喉の奥で笑った。どうやら彼は笑う時に手で口元を隠す癖がある様だ。その姿を見て、ギベオンとペリドットは何かおかしな事を言っただろうかと首を捻った。
「君達が綺麗に平らげたそのパスタのソース、フィーが作ったのだ」
「………はっ?!」
 そして言われたその言葉に、二人は目を見開く程に驚いた。この診療所に来た初日以外殆ど姿を目にしていないセラフィが作ったという事が信じられず、驚きのあまり口を開いたままにしている二人にクロサイトは続ける。
「あれは無心になれるからと微塵切りをするのが好きでな。女将さんがトマトソースを作る時は手伝いに行くのだ。
 今日は手伝いではなくて一から全部作ると言っていたから、あれが全部作った筈だ」
「そ……そうなんですか……」
「ベオ君はセロリが、ペリ子君は人参が嫌いだろう。
 セロリは疲労回復と利尿効果がある。人参には補血作用と体温を上げてくれる効果がある。君達には必要なものだ。
 トマトソースなら具材の味もそれなりに誤魔化せるから、食べると思ったんだろう」
 野菜の効能を聞かされ、普段なら感心するところなのだが、ギベオンもペリドットもセラフィがキッチンに立ったという事が衝撃で、あまり耳に入ってきていない。それは表情で分かったクロサイトも敢えてくどくどと説明をしなかった。こういう知識は本人達が必要とした時、必ず耳に入ると分かっているからだ。
「……あ、あの、セラフィさんは今どちらに……」
「さて、碧照ノ樹海に行ったのではないかな。クラントロ……香草なんだが、無くなったと言っていたから」
「お一人で?」
「一人で」
 気遣ってくれた事に礼を言った方が良いだろうと思ったギベオンがセラフィの居所を尋ねると、クロサイトはカップに残っていた紅茶を全て飲み干してから今は不在の旨を答えた。二人にとってまだ見ぬその樹海がどんな所であるのかは分からないが、日も暮れかけているというのにたった一人で行った事に不安を覚えたものの、クロサイトがその事を全く心配していない辺り、大丈夫なのだろう。クロサイト本人も狒狒を無傷で倒していたし、辺境伯が彼とセラフィに対して冒険者への復帰を要請しているとワールウィンドが言っていたから、腕も確かである事は間違いない。人は見かけによらないというか、世の中には不思議な人達が存在するのだという事を、改めてギベオンとペリドットは感じていた。



 夕食の後、手分けして皿を宿屋に返したり風呂の用意をしてから入浴し、自由時間に診療所の外で少しだけダンスの練習をしたペリドットは、就寝前のストレッチで念入りに体をほぐしてから寝台に滑り込んだ。タルシスに来てからと言うもの、今まで生きてきた中でこんなに規則正しい生活をした事は無いのではないかと思うくらいの健康的な毎日は、薬の副作用で冷えきってしまっていた彼女の体を元に戻しつつあった。指先は冷たいが、それでも母からこの街へ送り出された時に比べると温かみは感じる。踊って血流が良くなったからではないかと言われそうではあるけれども、それだけではない変化はもう現れていた。その事が彼女にとっては喜ばしくもあるが、落ち込む事でもある。
 実は、ペリドットは故郷に許嫁が居る。その許嫁は彼女の故郷一帯を治める領主の息子であり、元は母を妻にと望んだが、娘が居るからそれは出来ないと断られ、ではその娘を妻にと強引に決めてきた。インフィナという名の母は今のペリドットと同じ年の頃に出産をした為に十八歳の娘が居るとは思えない若さで、何とクロサイトと同い年だったりする彼女は髪をそのまま垂らしているペリドットとは対照的に長い髪を団子に束ね、どちらかと言うと中性的な顔立ちをしており、美人の部類に入る。そしてその一帯は元より、よその土地でも名の知れた踊り子でもあった。大勢居る劇団員を纏め、ダンスの指導をするインフィナはペリドットの自慢の母であり、自慢の師だ。
 だが、いくらダンスの評判が高くても踊り子という職業は身分が低い。インフィナはその事を痛切に知っているし、ペリドットにも幼少の頃からそうやって教えてきた。実際、インフィナは多くの者に尊敬はされていても貴族達からは卑しい身分の者として見られる事が多く、ペリドットもその姿を見てきている。だから領主という身分の高い者に召されるなど本来は有り得ず、精々側女として囲われるのが関の山であろうに、何故か領主の息子であるクリソコラは妻にと望んだ。大方、インフィナが所持する劇団をよそに流出させたくないというのと、踊り子という身分の低い者を妻に迎えたという美談でイメージアップを図ろうとしているのだろう。ペリドットにですら分かる様な見え見えの下心は彼女に吐き気すら催させる。
 それでも、ペリドットには拒否権が無い。インフィナは今はもう居ないとは言え他の男のものとなり出産をしたという言い訳が出来ても、ペリドットは純潔であり、身分が低い為に逆らう事は出来ない。かと言って、逃げ出せばインフィナを始めとする劇団の者達がどういう仕打ちを受けるか分からない。
そういう悩みや心労が溜まったせいか、彼女は原因不明の病を得た。その為に婚礼は延びたが、預けられた医者の元でひどい有様となったペリドットは完治したものの医者からは罵倒され、クリソコラからも醜いと吐き捨てられた。クリソコラの事は元々好きでもない、というより嫌いであったから何を言われても構わないと思っていたが、中傷は誰の心も抉るもので、今でもペリドットはその傷が癒えていない。
 インフィナとペリドットのひどい落ち込みようを見かねてタルシスへ行ったらどうかと助言してくれたのは、クリソコラの屋敷に勤める下女だった。何でもインフィナの踊りのファンであったらしく、人伝に聞いた遠い街に住む医者が腕利きであるらしいと教えてくれたのだ。それを聞いたインフィナがクリソコラではなく父である領主に直談判し、評判を調べた領主も期限付きで了承してくれたという訳だ。
 ただ、ペリドットはあのままの状態であったならクリソコラから婚約を破棄されるのではないかという淡い期待もあった為、内心複雑であった。もちろん元の体に戻りたいという気持ちの方が大きいのだが、よそに多くの女を作られると分かっているのに好いてもいない男に娶られるのはつらかった。恋もした事が無い若い彼女は、それが悲しい。
「……う……ん……」
 そんな事を考え、泣きながら眠ってしまったからなのか、普段は寝入ると朝まで起きないペリドットにしては珍しく真夜中に目が覚めた。泣いたせいで頭痛がし、喉も渇いてしまったので、水を飲む為にチェストの上に乗せてあるランタンに明かりを点けて与えられている部屋から出た。
「……あれ?」
 キッチンの汲み置きの水でも良いのだが、いつも帰ってきたら手足を洗う為に使っている井戸が裏手にあるので汲みたての水が飲みたいと思った彼女が廊下を歩いていると、夕方に食べたトマトソースの香りが漂ってきた。不思議に思ってその香りの方に足を運ぶと、キッチンに明かりが点いている。誰か居るのかなとそっと覗くと、竈の上の大きな鍋で湯を沸かしている背の高い黒髪の男がそこに居た。滅多に会う事は無いが、長身且つ細身の黒い長髪なので後ろ姿でもセラフィだと分かる。そう、ペリドットをボールアニマルと評したセラフィである。
 何してるんだろう、とペリドットが声も掛けずに見ていると、彼は手に持っていたトングで鍋の中からパスタ麺を取り出し、隣でソースを温めているのだろう別の鍋に移し始めた。恐らくソースを宿屋から分けて貰ったか出来上がった際に自分用に持って帰っていたのだろう。それは至って普通の事なのだが、移しているパスタ麺の量が普通ではない。絡め終わって皿に盛られたその量を見て、ソースは上からかけるんじゃないんだ、などというペリドットの変な感心はどこかに吹き飛んだ。……明らかに一人前ではない。
「覗き見は感心せんが、眠れないのか」
「ひぇっ?! あっ、あのっ、そのっ……」
 皿に盛ったパスタをテーブルに置いたセラフィが、今度はまな板の上でレモンを掌で転がしながら話し掛けてきたのでペリドットは心底驚いて悲鳴を上げてしまった。気配で居る事がばれていたらしい。
「腹が空いたのか? 今の時間には食うなよ」
「ち、違いますっ! 明かりが点いてたから誰かなって思って……」
 ペティナイフで切って絞ったレモン汁とビネガーと塩、胡椒を小瓶に入れ蓋をしてシェイクしたものをフォークの柄の先に付け、手の甲に落としてから味見したセラフィは、そこで漸くペリドットを振り替えって釘を刺した。殆ど話した事もない彼は相変わらず顔が細く、とてもあの山盛りのパスタを食べるとも思えない。だが流しに置いていたボウルから別の皿に盛ったブロッコリーとパプリカとトマトにドレッシングをかけると、やはりそれをパスタ皿の置かれたテーブルに置いた。
「……クロサイト先生と食べられるんですか?」
「何でクロが食うんだ、お前達と一緒に食っただろう」
「……え、じゃあそれ……」
「俺が食う」
「……ぜ、全部ですか?!」
「おかしいか?」
 ペリドットが再度驚いたのも無理はなく、テーブルに置かれたパスタとサラダはどう見ても一人前ではない。二人前とまではいかないかも知れないが、数日共に食事をして少食と知ったクロサイトやセラフィ本人の細さを考えればその量を彼が全部食べられるとは思えなかった。が、事も無げに平然と食べ始めたセラフィに、ペリドットは若干顔を引き攣らせてしまった。これは嘘を吐いている姿ではない。
「そ、その体のどこに入るんですかぁ……」
「どこって……胃に入る」
「それだけの量を今の時間に食べて太らないのずるいです!」
「ずるくて結構だしお前達に羨ましがらせるのは忍びないからこの時間に食っている。文句あるか」
「うぅ……」
 ペリドットの言葉は、多分世の中の痩せたい人間の思いを代弁していたに違いない。しかしセラフィ本人は生来太れない体質であるし、ペリドットやギベオンに気を遣ってこの時間に食事をしており、それは即ちたった一人での食事を意味していた。いくら美味なものを並べられても、それでは味気ないだろう。
「もう寝ろ。明日も早いだろう」
「はい……おやすみなさい……あっ、」
 何とも複雑な気分になったペリドットは、しかしトマトにフォークを刺したセラフィが壁時計を見ながら言った言葉に頷いたのだが、彼も食べているそのパスタソースは誰が作ったのかを思い出し、踵を返す前に頭を下げた。
「あの、そのトマトソース、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「……聞いたのか」
「はい。ちゃんと人参食べられました」
「そうか。好き嫌いはなるべく無くせよ」
「はい……」
 自分達の嫌いな野菜を食べさせる為に工夫してくれたその心遣いは有難いのでペリドットが礼を述べると、セラフィは咀嚼したものを飲み込んでから釘を刺してきた。だが彼もクロサイトと同じで、ペリドットやギベオンの好き嫌いを呆れたりしなかったし譲歩してくれた。好き嫌いを無くせ、ではなく、なるべく無くせ、という譲歩は、多分セラフィなりの優しさなのだろう。
 おやすみなさい、と再度頭を下げたペリドットは、喉が渇いて出てきた事も忘れて自室へ戻った。寝台に座ってから初めてそう言えば水を飲みに行ったんだったと気が付いたが、また出て行くのが億劫で、結局ランタンを消してそのまま寝台に横たわった。悲しい気持ちで眠っていた事が何故か和らいでおり、代わりに数日に一度だけでも良いから夕食一緒に食べられたら良いんだけどな、そっちの方がセラフィさんだってきっともっと美味しいのに、と思っていた。
 しかし、今の彼女は知る由も無い。セラフィがその食事を終えた後にまた一人でタルシスの外へ出て、相当な運動をして明け方に戻ってくるという事を。