タルシスに来て一月が過ぎる頃にはギベオンもペリドットもこの街での生活に慣れ、また顔馴染みの冒険者も出来た。碧照ノ樹海の探索は凶暴な熊が居るので地図を作成するのも苦労したけれども、探索が目的ではなく飽くまで運動して痩せる事が目的である彼らはクロサイトからも地図にばかり集中しなくても良いと言われていた。廃坑にも居たボールアニマルやグラスイーターの他に、ネズミや蝶、カエルなどが居り、襲ってこなかったらそこらに居そうな動物ばかりですよねとペリドットが言うと、クロサイトは至極真面目な顔で森だからなと言った。普通の森にはこんな魔物は居ないと思うのだけど……と二人は思っていたが、黙っていた。
 樹海には廃坑で見掛けた彷徨う狒狒によく似た狒狒が居り、それは相手をしても大丈夫だとは言われたけれども、近くにボールアニマルが居たら投げてくるのでギベオンもペリドットも頻繁に怪我をした。あまりにも避けられない二人を見てクロサイトが再度手本を見せてくれたのだが、廃坑の時と同じくボールアニマルを鎚で打ち返し、且つそれを狒狒に当てて倒していた。その光景を見ていた別のギルドの冒険者達も奇っ怪なものを見た様な顔をしていたから、恐らくそれは正攻法ではない、のだろう。
 また、体型や左右盲と言ったコンプレックスを多数所持するギベオンは、この樹海でまた別のコンプレックスを晒す事となった。彼は幼少の頃からどういう訳か帯電しやすい体質で、気が昂ったり興奮したりするとそれが顕著に現れる。激しく泣いたり怒ったりした時に彼に触れると音がする程に放電し、これが周囲の者から体型以外で奇異の目で見られる一因ともなっているのだが、無我夢中で走ったり魔物を倒していたりすると興奮状態となって帯電してしまい、怪我の手当ての為に彼の腕に触れたクロサイトに放電してしまったのだ。バチッ、と音を立て、青白い光まで見えたクロサイトは目を丸くしたし、音に驚いたペリドットは小さな悲鳴を上げた。
「す、すみませんすみません、あの、だ、大丈夫ですか」
「……君は、帯電体質なのかね?」
「そ、そうです、あの、本当にすみません、痛くなかったですか」
「ふむ……、これは面白いな」
「へ……?」
 突然齎された痛みに手を引いたクロサイトは顔を青くして謝るギベオンをまじまじと見た後、痺れている自分の手を見て空いた手を口元に当てた。ギベオンとしては手当てしてくれようとしていたのに痛い思いをさせてしまって申し訳ないやら、この体質のせいで手当てを控えられてしまうのではないかという不安やらで頭がパンクしそうになっていると言うのに、そんな彼の不安など全く構う事無くクロサイトは再度ギベオンの負傷した腕を掴んだ。今度は先程の様な音はせず、パチッ、という可愛らしい音がクロサイトの手から聞こえた。
「君達はルーンマスターを知っているかね。大気中の元素を操って術を繰り出す印術者達だが」
「あ、この間酒場にも居ましたよね? 帽子被ってた藍色のケープの女の子」
「うむ。彼女が持っていたロッドは、その元素を集めやすくする為のものでな。
 君にあのロッドの様なものがあれば、鎚に上手く放電出来るかも知れん」
「え……」
 クロサイトの質問に、ギベオンよりも早くペリドットが答える。言われてみれば、ガーネットの酒場に大人達に混ざってそんな少女が居たと思い出したギベオンは、しかしクロサイトが続けた言葉が意外過ぎて間抜けな声を出してしまった。そんな彼を気にせず、クロサイトは鞄から出した消毒液をガーゼに含ませてから森ネズミに齧られ血が滲んでいるギベオンの腕を丁寧に拭いた。消毒液の独特の匂いと皮膚を滑る冷たさが彼の背筋をぶるっと震わせた。
「やはりガントレットかな。鎚に伝わらせやすい様な触媒の方が良かろう」
「さっきの、静電気って言うには随分威力ありそうでしたもんね」
「うむ。下手をするとこちらが感電して怪我をしかねない」
「す、すみません」
「謝る必要は無い、そういう体質なのだから対策を講じれば良いだけの事だからな。
 良いかねベオ君、短所は工夫次第で思わぬ長所になり得るのだ。
 上手く利用すればこの森でなくとも十分通用する攻撃が出来る様になる」
消毒を済ませ、新しいガーゼを患部に置いて邪魔にならない様に包帯で巻いていく。慣れた手付きでその応急処置を施すクロサイトの表情はいつもと変わらない。大きな音を立てて放電してしまったギベオンの腕を何の躊躇いも無く掴んだクロサイトも、彼と会話を交わすペリドットも、本当にギベオンの特異体質を気にしていない風だった。
 そして手当てを済ませて道具を全て鞄に仕舞ったクロサイトは、街に戻ったら工房の親方に相談してみよう、とだけ言うと、先に進む事を二人を促した。他人のコンプレックスをいとも簡単に長所にしていこうとする人だな、とすっかり静電気が無くなった腕に触れながらギベオンは思っていた。



 故郷に居るジャスパーからの手紙をギベオンが受け取ったのは、その日の夜の事だ。ギベオンは両親には手紙を出さなかったが、ジャスパーには書いた。タルシスに来て半月もした頃に初めて手紙が届き、それで近況報告も踏まえた返事を書いたのだ。同期で入ったペリドットが明るくはつらつとした少女である事、体重のせいで重たく見える舞が少しずつ軽やかなものになっていっている事、彼女のフォローのお陰で方向音痴が何とかなっている事なんかも書いた。
 そしてクロサイトが思いがけず随分と自分を褒めてくれる事、左右盲や帯電体質というコンプレックスを全く気にせず接してくれる事、更にはその体質を有効活用出来る様にしてくれて、優れた人間である一面を見せてくれているかと思いきや、たまに試験管を齧っているので危ないのではと言ったら非常食だと言っていきなり噛み砕いて自分とペリドットを驚かせ、たまたま居合わせたセラフィからあれは飴細工だと言われた事を書き、素晴らしい医師である事は間違いないけど変な人ですと素直な感想をしたためた。
 それに対するジャスパーの返事は一月もせずに届いたのだが、飴細工の試験管は自分もやられた、それはあの先生にとって患者とのコミュニケーションツールなんだよと書かれていた。片目を隠し、表情をあまり変えない為に患者からは妙な威圧感があると思われてしまうクロサイトにとって、距離を縮める為の茶目っ気アイテムなのであろう。しかし距離が縮まるどころかあれではもっと遠ざかる様な、とギベオンは思ったが、それは敢えて書かなかった。多分相手を見てやっている事であって、ペリドットや自分になら通用すると思ってくれたのだろうと考えたからだ。
 手紙に書いたセラフィも不思議な男であり、ギベオンもペリドットも普段から彼を見掛ける事が無い。二人が起床し朝食を摂る前後に帰ってくる事もあれば、姿を見掛けない事もある。クロサイトに言わせると、見掛けない時は仕事が早く終わった証拠なのだそうだ。そんな夜中に何のお仕事を、とペリドットが一度尋ねた事があるが、クロサイトは世の中には知らない方が良い事もあると言って教えてくれなかった。やはり単なる植物採集家ではないらしい。ペリドットは彼が夜中に一人で食事を摂っていると知っており、ギベオンにもその旨を教え、それから仕事に行くんだろうねと話した。ギベオンはジャスパーにそれとなく手紙でセラフィの事を尋ねてみたけれども、彼もまたクロサイトと同様明確な回答を寄越してはくれなかった。ただ、真っ黒な衣装を着ているという点がヒントで答えだと書いてくれており、ペリドットにもその返事を教えた上で二人で考えてみたけれども、結局答えには至らなかった。
 そして二人がタルシスに来てからそろそろ三月は経とうとする頃には、クロサイトが工房に依頼して誂えてくれたガントレットによってギベオンが体内の電気を鎚に送る事に慣れ、またペリドットが細くなってきた足で軽快なリズムを取り魔物達の攻撃を軽やかに避けられる様になってきた。二人の体型はガーネットや工房の娘が感心する程絞れてきており、あの先生のしごきに耐えてるなんてさすがね、と褒めてくれたのだが、耐えているというより従うしかないという変な従属感が二人にはあった。もちろんクロサイトは最初に言った様に無理強いは決してしなかったし、今のギベオンとペリドットには逃走も出来ず危険だと判断したらたとえ樹海に潜む熊相手でも瞬時に二人の前に出て相手をした。それで怪我を負ったとしても、倒すと真っ先に二人に怪我は無いかねと聞くのだ。そんな姿を見て、自然と彼らはクロサイト先生に怪我をさせない様にしようねと言い合う様になっていた。
 クロサイトにとってもギベオンとペリドットは稀に見る「良い子達」であった。ギベオンは両親に抑圧されて育ち、ペリドットは踊り子という身分の低さから、基本的に逆らうという事を知らない。それはクロサイトの中の「良い子」の所以にはならないが、逆らわない故に素直に与えたプログラムを黙々とこなしていってくれるのは十分に所以足らしめる。素直は、美徳だ。少なくともクロサイトはそう思っている。素直だからこそ、彼らの境遇を少しでも良いものにしてやりたいとも思うのだ。卒業生であるジャスパーから届いた手紙の中で知ったむごいとも思えるギベオンの境遇も、事情を記したインフィナからの手紙で知ったペリドットの不運も。彼はセラフィ以外の他人に興味を向ける事は少ない男であったが、自分の患者となった者には全力を注ぐ傾向があるので、現在の患者であるギベオンとペリドットがよく笑う様になってきた事には内心胸を撫で下ろしていた。
 そして、碧照ノ樹海の地下二階の地図を完全に書き上げ、地下一階に潜む熊を何とか二人で倒せる様になった頃、ペリドットの元にインフィナからの手紙が届いた。



「クロサイト先生、お話というか相談があるんですが」
 その日の朝、これまでと同じ様に宿屋からバランスの良い朝食を受け取って診療所で食べ終わった後、ペリドットがフォークを置いた自分に神妙そうな顔でそう言ってきて、クロサイトは何かね、と言うかの様に目で先を促した。以前はその目線にたじろいでいたペリドットであったが、今ではもう恐れる事無くその目を見ながら話す事が出来る。人間、慣れていくものだ。
「あの……実は母から一度戻って来いと手紙がきまして。これがその手紙なんですけど……」
「ふむ?」
 困った様に言うペリドットは、故郷から送られてきたインフィナの手紙を差し出し、受け取ったクロサイトは封が切られた薄碧の封筒から手紙を取り出し暫く眺めた。皿を片付けたものか否か迷っていたギベオンは、そんなクロサイトが手紙を読み進める内に眉間に皺を寄せたのを見ておどおどしながらカップに食後の茶を注ぐ。
「……劇場で踊れ、とは。君のご母堂も中々酷な事を言うものだ」
「劇場って……お客の前で踊れって事?」
「うん……、お母さんの劇団、十八歳になったら舞台に上がるのが決まり事なの。
 私、ここを卒業する予定より前に十八歳になるから……」
 そんな無茶な、とギベオンは思ったし、クロサイトも同様で、眉を顰めたままぼさぼさの頭を掻く。そして困った様な悲しそうな表情をしているペリドットを見た。
 タルシスに来た頃に比べると、確かにペリドットは痩せた。71キロあった体重はたった三ヶ月で55キロにまで落ちており、贅肉は適度な筋肉に変わりつつある。しかしそれでも彼女は身長が低いが故に自分の体を無様だと思っているし、今でも樹海で舞うダンスは体の重みのせいか完全なものとは言い難い。踊る事は好きであるから寝る前に診療所の外で踊ってはいるが、ペリドットはその舞に満足出来ずにいた。痩せていた頃に比べるとどうしても体が重たくて、テンポがずれるからだ。
 さてどうしたものか、帰省を許しているし実家から招集がかかっている以上は帰さねばなるまいが、とクロサイトが思案していたその時、ダイニングの入り口から黒髪の男が眠たそうな顔を覗かせた。
「あ、セラフィさん、今お戻りですか。朝食どうされます?」
「ん……、いらん。寝る」
 未だギベオン達が内容を知らない仕事が長引いたのであろうセラフィが日が昇ったこの時分に戻ってきて、ギベオンは腰を椅子から浮かしながら朝食の有無を尋ねたが、彼のその問いにセラフィは眉根を寄せ頭を掻いて首を横に振って簡素に不要の旨を伝える。眠たいというのと、朝日が眩しいのだろう。外見はあまり似てないとは言えやはりそこは双子で、眉間の皺の寄せ方と言い頭を掻く仕草と言い、クロサイトとそっくりだ。
「ちょうど良い、フィー、お前、ペリ子君が実家に帰るのに同行してやれ」
「は……? ……お前、帰るのか」
「い、一時帰宅です。一度戻って来いって言われて」
「……ふうん……」
 クロサイトの突然の申し付けに、セラフィは眉間の皺を更に深くしてペリドットを見た。行動を滅多に共にしないせいかクロサイトの顰めっ面は慣れたがセラフィのそれにはまだ慣れないペリドットは体を縮こまらせ、微かな怯えを含ませた瞳で実家に呼ばれた事情を彼に話す。それを聞いたセラフィは、呆れた顔で肩を竦めた。
「若い身空の女が一人でタルシスに来ているんだから、お前の母親の心配はもっともだな。
 しかし人前で踊れというのはいくら何でも無茶だ」
「……や、やっぱりそう思います……?」
「無茶でもそれが決まり事であるなら踊らねばなるまいよ」
「うぅ……」
 セラフィはどちらかといえば反対している様であったが、クロサイトは母親の言う通りにしろと言う。どちらかと言えばセラフィの意見に賛成のギベオンは、それでも口出しが出来ずに取り敢えずセラフィに茶を出した。茶はギベオンの趣味であり、この場に居る誰よりも上手く淹れる事が出来るので、専らお茶係だ。
「その若い身空の女を一人で帰す訳にもいかないだろう。同行してやれ」
「……分かったよ、行けば良いんだろう」
 それ以上の口出しも口答えも無用、と言わんばかりのクロサイトを僅かに睨んだセラフィは、苦い顔をして承諾の旨を口にした。恐縮して体を縮こまらせたままのペリドットが何だか可哀想で、ギベオンも不安そうな表情になる。ただでさえセラフィはいつも不機嫌そうな顔をしている様にギベオンには見えているし、言葉遣いもクロサイトと違って素っ気ないので、そんな男と道中二人なのは一人で帰るよりも不安が多いだろう。それが分からないクロサイト先生じゃないだろうに、とギベオンは首を傾げたが、何も言う事は出来なかった。
「……いつ、発つ」
「えっと……出来れば早い内が……」
「仮眠をとってくる、十時になったら起こせ。十一時には発つからそれまでに支度をしておけ」
「は、はい」
 ギベオンが淹れた茶を飲み干し八時を回ろうとしている時計を見たセラフィは、自分の指示にペリドットが頷いたのを見てから踵を返してダイニングを後にした。何となく気まずい空気が茶の匂いと共に漂っていた。



「へぇ、ペリドットちゃんの護衛にセラフィ君がねえ。よく引き受けたわね」
「僕もちょっと意外でしたけど……クロサイト先生が有無を言わさずって感じでしたし」
 昼夜を問わず賑やかな孔雀亭の女主人ガーネットはギベオンが注文したジン・バックを提供しながら興味深げに笑った。田舎では貴重な氷は、しかしこの賑やかに栄えている街ではごく普通に流通しているものであり、ギベオンが手にしたグラスも冷たい汗をかいている。一口飲めばレモンの酸味が口いっぱいに広がり、その酸っぱさが一日の疲れを労ってくれている様だ。さすが人気酒場の主人なだけはあり一度味の好みを伝えれば次からは注文者の口に合う様に作って出してくれる。それ故、ギベオンもこれはちょっと、と思った事が無い。酒が飲めなくても、カクテルには使うのだからとフレッシュジュース用の果実の仕入れにも余念が無く、ペリドットはこの酒場のオレンジジュースを大層好んで飲んだ。頻繁にではなく、十日に一度設けられている休息日に自分への褒美として飲んでいた。ギベオンもそう頻繁に足を運んで飲酒しているのではなく、今日は随分と走らされたので自分への労いに飲みに来た。彼は体を温める為のアルコールの摂取が日常茶飯事である程の寒い国出身であるから、この程度では酔わない。
「確かにペリドットちゃんはここに来た時より痩せたけど、もう少し痩せた方が踊る時に足腰に負担がかからないと思うのよね。
 特に足首に」
「踊りって、結構な負担かかりますもんね……」
「そうなのよ、それで踊れなくなったら元も子もないでしょう?
 あと、私は別に気にならないけど、体格が大きな子が踊るのを見て笑う低脳はどこにでも居るから……
 ペリドットちゃんが嫌な思いをしなかったら良いわよね」
「それなんですよね……。
 ペリドットが一人で劇場の舞台で踊って、もし笑われたりしたらやっぱり……僕も嫌ですし」
「同じ目標がある仲間だものね、ギベオン君とペリドットちゃんは」
「はい……」
 ガーネットの微笑に、ギベオンは僅かに顔に翳りを見せる。騒がしく、また陽気に酔っている者が多い店内にはそぐわない表情だが、そうなってしまうのも詮ない事であろう。そこまで長い付き合いではないとは言え、汗まみれ泥まみれで樹海を走った仲だ。男女間の友情というよりも、本当に同胞としての友情というか、そんなものが二人には芽生えていた。今はペリドット達が気球艇を使っているので樹海にある滋軸という不思議なものを使用して樹海に赴いているが、その件の気球艇だって進路指示と操縦は二人で連携をとっていたから仲間意識は強い。
 母親からの要請であったとは言え、卒業まで待ってもらった方が良かったのではないかと今でもギベオンは思う。しかしクロサイトはあっさりと彼女を実家に帰した。しかも、いつも不機嫌そうなセラフィを同行させて。あれではペリドットの心労も溜まる一方なのではないか。そんな事を考えていたギベオンに、ガーネットは別の客がオーダーしたダイキリをシェイカーから注ぎながら尋ねた。
「ギベオン君、ペリドットちゃんが心配?」
「うーん……心配は心配なんですけど……」
「けど?」
「一番の心配は、今日からクロサイト先生とマンツーマンになった僕の身の上ですよね……」
「……うふふっ、そう、そうよね!」
 ガーネットの問いに顔の前で手を組んだギベオンがその顔色を青くし、震える声で答える。彼の回答にきょとんとしたガーネットは、しかしすぐに吹き出してひどくおかしそうに笑った。クロサイトのしごきを今までペリドットと二人で受けてきたギベオンは今日の午後から受けた集中砲火を思い出して身震いし、グラスを傾け一口飲む。今日のクロサイト先生も怖かった……、と昼間のしごき、もといプログラムを思い出し、その疲労は自分への褒美として注文した酒と共に渇いた喉に心地よく刺さって胃へと落ちていった。
「やあギベオン君、隣に座っても良いかい?」
「へ? あ……あぁ、キルヨネンさん、どうぞ」
 その時、後ろから聞いた事がある声が背中に掛けられたギベオンが振り向くと、そこには若草色のコートを着た美しい金髪の青年が立っていた。紺碧の目は柔和な光を帯び、ギベオンに勧められるままに彼の隣に座ったキルヨネンと呼ばれた青年は、ガーネットにモスコー・ミュールをオーダーした。
「そうだ、キルヨネン君とギベオン君、同じ国の出身なんですってね。びっくりしちゃった」
「ああ、そうなんだ。僕も驚いた。ここで同郷人、しかも同じ城塞騎士に会えるというのは嬉しいものだね」
 氷を入れた銅製のマグカップにウォッカと絞ったライム、自家製のジンジャー・ビアを入れながらガーネットが言った言葉に、キルヨネンが頷く。ガーネットが言った様にこのキルヨネンとギベオンは故郷が同じであり、また仕える王も同じであった。と言ってもギベオンは直接仕えている訳ではなく、父親が国王直属の騎士の下で仕えているに過ぎない。父は中流階級の城塞騎士ではあるが、ギベオンはその親から血の繋がった息子と思われていないので、キルヨネンの様なエリートと同列にされると惨めになるのだが大きな体の割には気が小さい彼は止めてくださいとは言えず、ただ縮こまる事しか出来なかった。
 キルヨネンは王であるビョルンスタットからの勅命を受けてこのタルシスに滞在している。その勅命が何であるかをギベオンは知らないが、知ったところで自分が出来る事など無いであろうから深く追求するつもりは無い。彼は身の丈をきちんと弁えているし、何より足手纏いにしかならぬであろうと分かっている。ただ、時折辺境伯からの依頼を受けて気球艇を操り風馳ノ草原で探しものをしている時は、クロサイトに頼んで時間の許す限り手を貸した。
「しかし、まさかエコンドライト家にご子息が居るとは思わなかったな……。そういう話は一切聞かなかったから」
「あ……」
 マグカップの中身をステアし、最後にライムのスライスを乗せたモスコー・ミュールをガーネットから受け取ったキルヨネンは、普段は引き締めている表情を僅かに困惑している様なものに変え、ギベオンの家の名を口にした。キルヨネンの直属ではないにしろ、ギベオンの父はキルヨネンと同列の騎士団長に仕えている。宮廷に仕えている騎士は数多く、全てを把握する事は出来ないとは言え、ギベオンの実家は古くからの城塞騎士の家であるからキルヨネンも知っていた。しかし、自分と年頃がそう変わらない息子が居るとは思っていなかったのだ。自己紹介をした時にうっかり自分の家の事を言ってしまったギベオンに対するキルヨネンの驚きで、ギベオンが徹底して両親から子供は居ないという姿勢を取られていた事をクロサイトとペリドットは改めて知った。
「あの……元々僕の両親は結婚したくなかったみたいで……、僕、嫌々設けられた子供でして……」
「そうだとしても、君は跡継ぎになるのだろう? 家督はどうされるつもりなのだろう」
「父方の祖父の傍系から養子を取るみたいです。だから僕は跡継ぎじゃないんです」
「………」
 諦めにも似た曖昧な笑みで事情を話したギベオンに、キルヨネンは冷たい汗をかいたマグカップに口を付ける事が出来ずにただ押し黙った。カウンターの向こうに居るガーネットもジュースを仕込む為にライムを絞りながら、口を挟まずギベオンの話を聞いている。
「……あっ、あの、すみません、これ内緒にしていて貰えませんか。僕はあの家には居ない筈の人間なので」
 キルヨネンから傾けられずに鎮座したままのマグカップの中で、カランと氷が音を立てた。その音と同時にギベオンが慌てて懇願するかの様に頼むと、キルヨネンはその美しい紺碧の瞳を憂いの色に染めながら細めて頷いた。
「分かった、黙っておこう。だが覚えておいてくれ。君に何か困った事があれば僕はいつでも力になる。約束しよう」
「え……」
「勘違いをしないで欲しいが、僕は君の境遇を哀れに思って言った訳じゃない。
 君は僕の手助けをしてくれた、だったら僕は君の手助けをするべきだ。遠慮無く僕を訪ねてきてくれ」
「は……はい」
 初めてクロサイトから紹介された時のギベオンは今よりも格段に大柄で、キルヨネンもさすがのクロサイト殿でもこの男を絞るのは厳しいのではないかと思っていた。だがそんなキルヨネンの懸念などをよそに、ギベオンは見る間に体重を落としていった。危なっかしいと思わせた鎚捌きも今では様になっている。成長の速さにキルヨネンが驚いたのも事実だ。
 そんなギベオンが故郷を離れまだタルシスや樹海に慣れぬ内からおどおどとではあるが手伝いを申し出てくれて、キルヨネンがひどく助かっているのもまた、事実なのである。受けた恩を返すのは当然と思っているキルヨネンは、漸く銅製のマグカップを手に取ってギベオンに掲げて見せると、乾杯の意を示した。ギベオンも、戸惑いながらではあるがほぼ空になってしまっているタンブラーを掲げてキルヨネンのマグカップに軽く当てた。その様子を見ていたガーネットは、やはり黙ったままではあったが口元を綻ばせていた。



 さて、一方のペリドットであるが。
 港長からの許可を得て気球艇を使わせて貰ったとは言え、彼女の故郷はすぐに帰れる様な距離ではない。その為にあまり睡眠を必要としないセラフィが羅針盤と地図を見ながら適度な休憩を挟みつつ飛行を続けていたのだが、上空ではろくに眠れないだろうとペリドットに気を遣ってくれたらしく適当な場所に艇を降ろして野宿をした。だが火を熾して簡素な食事を摂ったものの、ペリドットはセラフィと交わす会話などある訳がない。普段から話をするのはクロサイトであり、医者と患者として会話する機会は山程あっても何の仕事をしてるのかすら知らないセラフィと何を話して良いのかは分からなかった。
「……あの」
「……何だ」
「その……有難う御座います、わざわざついて来てくださって……」
「……別に、クロをサポートするのが俺の役目だからな」
 だから差し障りなく、且つ伝えておかなければならない礼を述べたのだが、セラフィは素っ気なく答えて手元の乾燥した枝を焚き火の中に放り込んだ。揺れる炎に浮かび上がるセラフィの顔は、どことなく青白い。仕事から戻り、たった二時間程度しか寝ていない後に気球艇を操縦したのだから寝不足なのかも知れない。そう思ったペリドットはおずおずと申し出た。
「私が火の番をしますから、セラフィさんは少し休まれた方が……」
「俺は良い。お前が寝ろ」
「……で、でも、今日殆ど寝てないじゃないですか」
「家族に会うだけならまだしも、他の奴にも会わねばならんのだろう。
 ただでさえ空は乾燥するんだ、その上に睡眠が足らん肌を見られて笑われたいか」
「うぅ……」
 完全に元の体型に戻っていない状態で彼女は故郷に帰るのだ、付け入る隙は小さいに越した事はないとセラフィは暗に言っている。もっともな事を言われてぐうの音も出ないペリドットは、しゅんとした顔で俯いてしまった。
「ごめんなさい、迷惑ばかりかけて……」
「……… ……顔を上げろ」
「え……」
 ぽつりと謝ると、暫しの沈黙の後に静かな声が耳に滑りこんできて、ペリドットは思わず条件反射で顔を上げた。焚き火の向こうに居るセラフィがじっと自分を見ていて、彼女はたじろいだが何故か目を逸らせなかった。セラフィの視線が、自分の体を動かなくさせている。蛇に睨まれた蛙の様に、ペリドットはそのまま固まってしまった。
「良いか、悲しかろうが悔しかろうが絶対に俯くな、前を向け。相手から目を逸らすな。戦う前から戦意を喪失させるな。
 あの樹海で学んだ筈だ、目を逸らしたら敵が図に乗る」
「………」
「すぐに追い付かれていた熊も、最近は撒けるどころか倒せる様になっただろう。自信を持て」
「は、はい」
 そして思いがけない言葉を貰い、ペリドットは心底驚いていた。普段から姿を見ず、会話らしい会話など深夜に食事を摂っていた事を知ったあの日以外交わした事が無いセラフィからまさかこんな風に激励されるとは思っていなかったからだ。しかしそれはペリドットの持つセラフィへの苦手意識がそう思わせていただけで、実際の彼はそこまで怖い男ではない。ただ、言葉が足らないというのと基本的に話さないというだけの事である。
「……そろそろ寝ろ。夜明け前には発つ」
「は、はいっ」
 話はもう終わりだと言わんばかりに再度火の中に枯れ枝を放り込んだセラフィに頭を下げたペリドットは、彼におやすみなさいと伝えてから気球艇の籠へと向かった。野宿をする時は地べたに横になるより艇の籠で雑魚寝する方が良いし、特にペリドットは女であるので男の前で不用意に寝てはならないとクロサイトからきつく言われている。こんな体型の女に欲情する男も居ないのでは、とペリドットは言ったが、どんな体型であれ君は女だし男は良くも悪くも男だと至極真顔でクロサイトが言ったので、ペリドットは余程の事がない限りは一人で眠る様にしている。
 そんな経緯もあって、焚き火から程近い所に降ろしてある気球艇の籠の中で毛布を被って一息吐いた彼女は目を閉じようとした時、はたと疑問が浮かんだ。

―――そう言えば、何で私達が樹海で熊を倒せる様になった事、ご存知なんだろう?

 何度も述べているが、セラフィは普段から姿を見掛けない。朝に帰ってきて昼過ぎまで眠り、ペリドット達が帰ってくる頃に入れ違いで出掛けていく。だから、彼がペリドットやギベオンが樹海で熊相手に逃げなくなった事を知らない筈なのだ。クロサイト先生が教えたのかな、と、籠からそろりと顔を出し、焚き火の側に座るセラフィを見れば、彼はどこに仕舞っていたのか知らないが投擲ナイフの手入れを黙々としていた。そのナイフが幾度となく自分やギベオンを助けてきた事を、彼女が知る筈もなかった。



 ペリドットの故郷には、タルシスを発ってから十日目の昼過ぎに着いた。空には障害物が殆ど無いとは言え長時間の飛行は集中力をすり減らせるものであるからあまり無理しないでくださいとペリドットは言ったが、セラフィは無理をするなら夜中も飛んでいると素っ気なく返事を寄越したので、予定していたよりも随分と早い帰郷となった。艇は街の郊外の林に降ろし、持ってきた僅かな荷物を手にしたペリドットはセラフィに頭を下げる。
「有難う御座います、明日の朝には戻ります」
「……久しぶりに親に会うんだろう、少しはゆっくりしてこい」
「でも、ゆっくり居たら甘えが出そうですし……それに」
 いくらこの街の人間ではないとは言え、セラフィを一人で数日も待たせる訳にもいかず、ペリドットは困った様な顔になる。実家に泊めようにも独身の女が見知らぬ男を泊めて許嫁が居る癖にといらぬ噂を立て母親に迷惑をかけたくなかったし、まだ元には戻っていない体を披露して嘲笑の目に長い間晒されたくはなかった。考えれば考える程悲しくなり、俯いてしまったペリドットにセラフィは眉を寄せる。
「お前、この間の俺の話を忘れたのか?」
「……あっ、ご、ごめんなさいっ」
 数日前、セラフィは俯くなとペリドットに言った。俯き、黙ってしまうと、相手が付け上がってまた攻撃してくる。様々な人間や魔物を見てきたセラフィはそれをペリドットよりもよく知っていた。しかしそれでもまだ不安の色が拭えない瞳のペリドットを見て小さく溜め息を吐くと、彼は首元を探って何かを取り出した。
「手を出せ」
「……は、はい?」
 言われるがままに両手を出したペリドットの、肉刺の痕が残る掌の上に、何かが乗せられる。ひやりとした感触が心地好いそれは、深い翠の中に疎らな白い模様が浮かぶ、不思議な石だった。ペンダントトップとして加工され麻紐に通されており、まさかセラフィがそんな装飾具を身に付けていたとは思ってもいなかったペリドットは驚きながら彼を見上げる。
「……これは?」
「セラフィナイトだ。俺の護り石になる。お前に貸してやる」
 石の名を教えてくれたセラフィは相変わらず無愛想で、しかしこの数日で彼がそんなに怖い男ではなく寧ろ優しいのだと知ったペリドットは慌てた様に手の中の石とセラフィを交互に見る。なるほど、彼の名の元になった石がこれであるらしいが、護り石などと言われてしまうとそんなものを借りても良いのかと焦ってしまったのだ。
「そ、そんな大事なもの、借りても良いんですか?」
「貸すだけだ、ちゃんと返せよ」
「当たり前じゃないですか! で、でも、どうして……」
 すぐに返した方が良いのではないかとペンダントを乗せたままの手を差し出すペリドットに、セラフィは細い指で石を指す。正確には、白い模様を辿る様に指し示したので、ペリドットはついその指の動きを目で追ってしまった。
「石の中に白い模様があるだろう。それが天使の羽に見えるからという理由でそんな名前らしいが……、
 そのペンダントをしている間、羽が生えたと思え」
「……羽、ですか」
「体が重たくても羽があれば跳びはねられるだろう。そういうまじないだ」
「………」
 石の中には、無数の羽が閉じ込められている。何人の天使の羽がこの石の中に入っているのか、見当もつかない程だ。不思議な石に、ペリドットは魅入ってしまった。
 ペリドットやギベオンが知らないだけで、セラフィは彼女達がクロサイトに連れられて樹海を探索している時、木々に紛れて必ず後を追っていた。クロサイトの補佐という意味もあるし、患者達の安全を確保する意味もある。夜に出掛けているのは本来の仕事の為で、碧照ノ樹海や谷を挟んだ丹紅ノ石林を見回り、力尽きた冒険者達の遺体を埋葬している。それは二人に無残な死骸を見せない為でもあった。彼は常にクロサイトの手足として動いており、二人にはそれと気取られぬ様に先に診療所に帰って休むと、戻ってきたペリドット達が眠りに就いた後に食事を一人で摂って見回りに出ていた。
 そんな男であったから、ペリドットが就寝前に診療所の裏庭でダンスの練習をしている事も知っていた。芸術に明るくないセラフィでも上手く舞えていない事、そしてその理由は体が重たい事とすぐに分かった。もちろん、ペリドットは診療所に来た当時に比べると格段に痩せたが、まだ本調子ではない事に変わりはない。溜め息を吐き、たまに涙を拭う彼女はそれでも諦める事なくまた大地を蹴って舞う。そんなペリドットを見ていたから、まじないだろうと気休めだろうと、少しでも心を軽くして舞う事が出来れば、とセラフィは自身の護り石を貸したのだ。
「……ふふっ」
「……何がおかしい」
「だって、セラフィさんがおまじないなんて言うから。意外に思っちゃって」
 そんな彼の心の内など知らぬペリドットは、セラフィの口からまじないなどという単語が出た事にも驚き、そして笑った。嘲りの笑いではなく、微笑ましいと思ったのだ。その言葉に苦い顔をしたセラフィだったが、自分でも柄ではないと分かっていたから何も言い返さなかった。
「有難う御座います。必ずお返ししますから、お借りしますね」
「……ああ」
 ペンダントを乗せたペリドットの掌は、踊り子の手とは思えない程肉刺の痕があった。慣れない剣を握り、あの樹海を怯えながら探索していた彼女は、今ではそれなりに戦う事が出来る。そんな努力を重ねてきた目の前の背の小さな女に向けられる嘲笑の視線が少しでも減れば良い、そんな事をセラフィは思っていた。



 実家に戻ったペリドットは、まずインフィナから大層驚かれた。この短期間でここまで痩せるとは思っていなかったのだろう。そう思っていたならわざわざ戻さなくても、と彼女は思ったが敢えて何も言わなかった。
「ねえお母さん、本当に舞台で踊らないとだめ?」
「決まり事だからね。クリソコラも来るみたいだし」
「えぇー……許嫁破棄したいとか言った癖に何考えてるんだろ」
「こんな女でも嫁に貰ってやる俺って優しい! ってアピールじゃない?」
「うわぁ……」
 病気で臥せっている時に一度も見舞いに来ず、完治した代わりに太ってしまった自分を見て露骨に嫌そうな顔を見せ、こんな奴と許嫁なんてまっぴらだ、破棄したいなどと宣った男の顔を思い出し、鏡に映ったペリドットの表情が一気に険しくなる。しかしインフィナはそんな娘の眉間を指でぐいぐいと押した。
「どんなに無礼な事を言われても私達踊り子は笑顔を忘れては駄目。あんな奴でもここの次期領主なんだから」
「……はぁーい……」
 鏡の中のペリドットの顔は、美しく化粧が施されている。母親譲りの艶のある黒く長い髪、黒く縁取られた瞳、目尻に引かれた紅、少しでも小顔に見せられる様にと工夫して口元は薄いヴェールで隠されている。インフィナはこの一帯では有名な踊り子であり、以前は母によく似ていると言われたペリドットであるので、目鼻立ちは元から良い。
インフィナにとっても、大事な一人娘をろくな噂を聞かない男の元に嫁がせるのはつらい。出来る事なら逃してやりたいし、好いた男が居るのならその男の元へ行かせてやりたい。だがクリソコラはインフィナもペリドットも逆らう事は出来ない相手であり、そんな事をやろうものなら自分達だけではなく劇団に所属する全ての者が露頭に迷う事になるし、最悪の場合は罪もない者が首を落とされてしまう事になる。それは何としてでも避けたいし、また避けなければならない。半ば人身御供としてしまった娘への罪悪感が溢れそうになった胸のざわめきをごまかす様に、インフィナはペリドットの首元を見ながら努めて明るく言った。
「踊りにくいかも知れないから、重たいアクセサリーはやめておこうかしらね。何にしようかしら」
「あ……、これを着けておきたいの」
「なに、これ」
「えっと……少しでも体が軽く踊れる様に、おまじないって貸して貰ったの。模様が天使の羽みたいに見えるから」
インフィナが鏡ではなくペリドット本人を覗き込みながら外見の確認をしたのだが、装飾品を身に着けたままの舞というのは思った以上に難しいので何を着けさせようかと思案しているインフィナに、ペリドットは近くに置いていた荷物の中から預かったペンダントを取り出して見せた。興味深げに石を見るインフィナは小首を傾げる。
「貸して貰ったって、例の診療所の先生に?」
「……う、うん、そう」
 今現在世話になっているクロサイトから借りたのか、と聞かれ、ペリドットは何故か咄嗟に頷いてしまった。貸してくれたのは弟のセラフィの方なのに、本当に何故だか分からないが咄嗟に嘘を吐いてしまったのだ。別に疚しい事など何も無いのだが、あまり接点の無いセラフィについて答えてインフィナにあらぬ疑惑をかけられてもセラフィに迷惑がかかってしまうからだ、そうに違いない、とペリドットは自分に言い聞かせて納得させていた。
「天使の羽、ね。手紙じゃ結構怖いイメージがあるけど、ロマンチストなのね」
「……そ、そう、だね」
 インフィナの中のクロサイトの像というものがどんどんと実物から離れていっている様な気がして、ペリドットは心の中で手を合わせ、クロサイト先生ごめんなさい……、と謝罪した。同じ時分、ボールアニマルを投げつけてくる狒狒の大群に追い掛けられ悲鳴を上げているギベオンを離れた所から眺めながらくしゅんと小さなくしゃみをしたクロサイトは、どこかで誰かが私の悪口を言っているな、と眉間に皺を寄せていた。



 インフィナが率いている劇団が所持しているのは、比較的大きな舞台を持つ劇場だ。決まり事とは言え実の娘が少しでも嘲笑されるのは母親としても気分が良くないし、またペリドットが必要以上に傷付いてしまわぬ様にと客が疎らな時間帯に舞わせようというインフィナの配慮により、まだ日も暮れぬ早い時間にペリドットは舞台に立つ事になった。が、どこかから噂が流れたのか、いつもより多い客の入り方にインフィナが眉を顰める。舞台袖から見る限り、普段なら見掛けない顔も随分多く見受けられた。誰かに来いと言われたか、おもしろい見世物があると言われたか、大方そんなところだろう。
「クリソコラでしょうね。ほんっとに嫌な男だわ」
「領主の息子じゃ邪険にも出来ませんしね……」
「ああもう、何であんなのが次期領主なのかしら。
 ……ペリドット、私も居るから気を強く持ちなさいね。何か言われても動きを止めないのよ」
「う……うん」
 所属する若い男のダンサーと共に心底苦い顔をしたインフィナは緊張で体を硬くしたペリドットの肩を抱き、耳元で優しく囁く。母であり踊り子の大先輩であるインフィナの「私も居る」という言葉は心強いものであったが、不安は拭いきれなかった。しかし逃げれば負けであるし、母の顔に泥を塗る訳にもいかないので、一度だけインフィナに頭を撫でて貰ってから意を決して震える足で一歩踏み出し一人で舞台中央へと向かった。
 騒がしい店内の照明は少し暗くなり、客の視線は舞台へ注がれる。最前列には見たくもない許嫁の顔があり、ペリドットは胸にむかむかとした靄がかかっていくのを感じていた。耳に滑り込んでくる声には明らかに嘲りの色が含まれているものもあったし、体形を柔らかに覆う衣装を纏った体に一斉に向けられた視線にも同様のものが混じっており、心底腹立たしいクリソコラも鼻で笑っている様な気がして、舞台袖にインフィナが居ると分かっていてもつらくて体が動かなくなってしまった。世の中にはふくよかな踊り子など数多く居るものであるし、成功を収めている者も同様なのであるが、ペリドットは元々細身であったからその変貌を見下す者がこの客席に多いという事を表している。これでは舞い始めのポーズすらとれない。やっぱり帰ってくるんじゃなかった……、とペリドットは俯きかけてしまったのだが、不意に舞台から一直線上先、劇場の入り口付近に、知った男を見付けて思わず顔を上げた。普段の服とは違う、黒いタートルネックのシンプルな服を着て腕を組み、じっとこちらを見ていたのは、郊外の気球艇で待機している筈のセラフィだった。

『良いか、悲しかろうが悔しかろうが絶対に俯くな、前を向け。相手から目を逸らすな。戦う前から戦意を喪失させるな。
 あの樹海で学んだ筈だ、目を逸らしたら敵が図に乗る』

―――そうだ、俯いちゃだめだ。私は強くなったんだ、絶対に負けない!

 数日前の夜、セラフィから言われた言葉が耳に蘇り、その瞬間、ペリドットの耳には劇場内の観客達の嘲笑の声が一切聞こえなくなった。視線も客の嘲りのものではない、自分と一直線上に居てくれるセラフィのものだけだと思うと、あの樹海で努力してきた中間発表をするのだという思いになれた。そして首から下げられたペンダントの中に本当に羽が閉じ込められているのかと勘違いする程、重たかった体が軽くなった気がして、ペリドットの体は自然と動いて音楽を待つ姿勢になっていた。彼女は気が付かなかったが、その瞬間に劇場の雰囲気が確かに変わっていた。
 不思議な事に、診療所の裏手で上手く踊れなかった舞は見事なまでに完全な動作で舞う事が出来た。指の先から足の爪先まで神経を行き渡らせ、美しく見せる事、上手く踊る事を意識するのではなく、その舞を舞える事の歓びを全身で表現する事が出来て、舞っているペリドット本人も驚いていた。ただ、彼女の目にはその舞に嘲りなど忘れて息を飲む客達など一切映っておらず、暗い劇場の中で腕を組み自分の舞の採点をするかの様な目線をじっと送ってくるセラフィしか映らなかった。それどころか、似てないと思ってたけどああやって腕を組む姿がクロサイト先生にそっくり、と思わず笑みが零れる余裕さえあった。
 劇場の後ろでその姿を眺めていたセラフィも、肩の力が抜けてよく踊れている、と思った。実際、ペリドットはタルシスで過ごした夜に練習していた時よりずっと綺麗に舞えていたし、また不安や自信の無さは照明に照らされている今の彼女からは微塵も見受けられない。母親が側に居るとこうも違うか、と少し的外れな事を考えた彼は、楽しげに舞うペリドットを見ている自分の口元が僅かに緩んでいた事には気が付かなかった。気が付いていたなら、クロの患者がまだ治療途中とは言え立派な舞を披露出来ているからだともっともそうに聞こえるが訳の分からぬ言い訳を自分にしていた事であろう。
 やがて静かに音楽が止み、ペリドットの体は葉がひらりと落ちる様に軽やかに舞台に伏せられた。彼女が一番好んでいる、大地の神に捧げる舞は大地に祈る形で終わる。舞台に片膝をつき額付くペリドットの体を嘲笑う者は、もう誰も居なかった。しんと静まり返った劇場に誰かの拍手が鳴り響いたかと思うと堰をきったかの様に喝采が起こり、そこで漸くペリドットは自分の舞が終わっていた事に気が付き我に返った。慌てて体を起こせば客席から大きな拍手を貰えていた事に彼女は照れ、ぺこりとお辞儀をする。そして再度顔を上げてセラフィの姿を確認すると、彼は軽く片手を挙げて返事を寄越してくれた。よくやった、と言って貰えた様で、ペリドットもそこで漸くほっとして笑みが出た。
「やあ、さすが私の未来の花嫁だ。素晴らしかったよ」
 しかしペリドットのその充足感を見事に破壊してくれたのは、彼女が見たくもないと思っていた許嫁のクリソコラの声だった。顔はそこそこ良いのに、上品とはお世辞にも言えない声で舞台の下から拍手をしながら近寄ってきたかと思えば勝手に上がってきて、ペリドットの隣に立つと本当にいきなり肩を抱いてきた。
「皆さん、私の未来の花嫁の舞はいかがだったでしょうか?
 四ヶ月程後の収穫祭の奉納の舞は彼女に踊って貰う予定ですから、どうぞ楽しみにされていてください」
 手が触れた肩にぞわ、と鳥肌が立ち、ペリドットの体が俄に強張る。好感ではなく嫌悪でざわめいた体は、しかし硬直して上手く動いてはくれなかった。何故この男はこうも神経を逆撫でするの、とペリドットが睨もうと横目で見上げるとすかした顔が視界に入った途端吐き気を催したので顔を逸らしてしまった。そうすると自分の肩を抱いた手が目に飛び込んできて不愉快この上なくなったと言うのに、追い打ちをかける様に言われた言葉に気が遠のきかけた。
「祭の後、そのまま私達は式を挙げようと思っております。皆さんにも祝福して頂けましたら幸いです」
 確かに許嫁ではあるがそんな早急な話は聞いていない、とペリドットは頭の中が真っ白になったものの、何とか隣の男の顔を勢いよく見上げると、クリソコラはやはりいけすかない笑みを口元に浮かべて彼女を眺めていた。まるで品定めをするかの様な目で。そして顔をペリドットの耳元に近付け、ここまで言ったら君ももっと頑張れるだろう、などと失礼極まりない事を言ってきて、とうとう据わった目で睨み付け、平手で打とうとしたその時だった。
「まだ式も挙げておりませんのに、神に舞を捧げる予定の清らかな乙女の肩を抱くとは感心致しませんわ。
 次期領主様として節度ある行動をしていただけますとわたくし達領民も鼻が高うございますが、いかが?」
 後ろからぐいとペリドットを引き寄せクリソコラから離したのは、母であるインフィナだった。思い切り頬を打とうとして浮いた手は掴まれ、後ろから抱く様に引き寄せられ、ペリドットは動きを母から封じられてしまったが、同時に護って貰ったのだという事も理解した。母であるインフィナが有名な踊り子であるとは言え、娘が領主の息子を平手打ちなどしてしまえばペリドットは勿論、インフィナやこの劇場の踊り子達は窮地に立たされる事になる。口元がヴェールで隠れてて良かった……、と怒りで戦慄く口に気付き、ペリドットは再度クリソコラを睨み付けた。セラフィが言った様に、目を逸らしたら相手が図に乗ると思ったので。
「こ……これはこれは、淑女に対して申し訳なかったね。式の日まで楽しみに待つ事にするよ」
 そのペリドットの据わった目を恐れ、クリソコラは引き攣りつつも辛うじて笑ってみせたが、内心かなり動揺していた。彼はペリドットが単なる診療所で治療を受けているとしか知らず、まさか魔物がうろつく樹海で剣を片手に戦っているとは思ってもいなかった為、彼女がそんな戦士の様な目をするとは想像すらしていなかったのだ。
「さあ、では娘にばかり花を持たせる訳には参りませんから、わたくし達も舞をご披露させて頂きますね。
 クリソコラ公、ここはわたくし達踊り子の神聖な場所でございます、お降りくださいますと嬉しゅうございますわ」
「あ、ああ、すまなかったね」
 奇妙な空気が流れ始めたその時、インフィナが透き通る声を劇場に響かせ、クリソコラに否と言わせぬ程の威圧で彼を退場させた。暗にさっさと降りろと言われたのが分かった様だ。所詮踊り子と見くびっていた様であるが、インフィナも数百数千の舞台を踏んだ舞い手であるので領主だろうが次期領主だろうが怯まない。そんな母の姿を見て、お母さんみたいにならなきゃ、と誓ったペリドットはインフィナに一礼してから舞台袖へと引き上げた。しかしその直前にはたと思い出し劇場の入り口を見たのだが、既にセラフィの姿は無かった。それに対し残念な様な、あんな男に肩を抱かれている所を見られなくて良かった様な、複雑な想いを抱いたペリドットは、今度こそそっと舞台から姿を消した。



「今日もまたひどい青痣作ってきたのね」
「うぅ……有難う御座います……」
 冷えたタンブラーに氷とジンとレモン、ジンジャーエールを次々注いで軽くスプーンでステアされたカクテルを出され、縁に飾られたレモンを少し搾って一口飲んだギベオンは、青痣が目立つ手を擦ってガーネットに礼を言った。碧照ノ樹海をペリドット不在で探索するのはまだ何とかなっても、さすがに狒狒の群からボールアニマルやビッグアニマルを投げられながら追い掛けられると対応出来ないし怪我もするので、結局最後にはクロサイトから助けて貰うという失態を犯してしまい、彼は深い溜め息を吐いた。
「クロ先生も相変わらずね。
 でも、ギベオン君がペリドットちゃんの心配しない様にって気を遣ってくれたのかもよ?」
「……そうですかね?」
「厳しいけど患者さんにはいつも物凄く気を遣ってるのよ、クロ先生。
 特に二人は近年稀に見るごつさだけどその分鍛え甲斐があるって言ってたし」
「……そうなんですか」
 まさかクロサイトがそんな風に評してくれているとは夢にも思わず、ギベオンは目を丸くしてガーネットを見る。彼女は先日の様に手元でライムを搾ってライムジュースを作っていた。作り置きをしてしまうと新鮮さは失われてしまうが、店を見回し見知った客が何を飲むのか予め予測して作っているので無駄にはならない。たまにその予測が外れるのか、サービスねと炭酸で割ったフレッシュジュースをチェイサーで出してくれる事もあり、それもいちいちギベオンやペリドットの口に合わせて出してくれるのだから、この盛況ぶりも尤もな事と言えた。
 そんなガーネットが作ったジン・バックをまた一口飲み、ギベオンは昼間のクロサイトのしごきを思い出していたのだが、あれは本当に気を遣ってくれていたのだろうか……と疑問符しか浮かばなかった。木々の間からギベオンを眺めていたクロサイトは確かに時々メディカを投げて寄越してはくれたが、基本的に手助けはしてくれなかったどころか意図的にボールアニマルを集めていたし、狒狒を怒らせる為にギベオンが自分と同じ方角に居る時にわざと群に向かって石を投げたりしていたものだから、多分ギベオンはタルシスに来てから今までの間で一番走った。そんな仕打ち、もとい荒治療を受けた身であるから、気を遣われたという思いにはなれない。
「セラフィ君も居ないし、クロ先生も気を紛らわしたかったのかもね。ギベオン君は頑丈だから安心して無茶させられるって聞いたわよ」
「気を紛らわせる為に僕をあんな走らせたんです?!
 っていうか、クロサイト先生はセラフィさん居ないの寂しいんですか?!」
「人聞きが悪い事を言うな。あと誰が寂しがりだ」
「ひぃーっすみません?!」
 ペリドットにセラフィを同行させたのは自分の癖に居なくて寂しいのかと、ついギベオンは大声を上げてしまったのだが、いきなり背後から当のクロサイトに抗議されて飛び上がらんばかりに驚いた。孔雀亭はいつも賑やかだが、今は間違いなく彼が一番喧しい。倒しそうになったタンブラーを何とか立て直したギベオンは、しかし自分の隣に座ったクロサイトにまた驚いた。酒を飲んでいるところを一度も見た事が無かったので、飲めないのかと思っていたのだ。普段から着ている白衣姿ではなくラフなシャツ姿で、ボタンを留めずに少し寛げた首元に何か紐の様なものが見えた。
「珍しいのね。いつもので良いの?」
「ああ」
 しかしガーネットは驚く事も無く、背後の棚に並べられている酒瓶の奥から透明な酒の嵩が3分の1程残っている酒瓶を取り出すと、中身の酒と先程搾ったライムジュースと氷をシェイカーに入れ、流れる様な動作でシェイクした。彼女のシェイカーの振り方は同業者も褒める程だと言われ、ギベオンもたまに見惚れる事がある。しかし、今はそれよりも気になる事が山程あった。
「セラフィ君が居なくて寂しいから飲みに来たの?」
「誰がだ。私だって飲みたい夜もある」
「よく言うわよ、セラフィ君ののろけばっかり言う癖に」
「の、のろけですか?」
「そうよ。私の自慢の弟は世界で一番良い男だ、って何回も聞かせられたもの」
「のろけではなくて事実だ」
「あーはいはい、ごちそうさま」
「………」
 ショートグラスに注がれたカクテルを供しながらからかったガーネットに、クロサイトは普段通り至極真面目な声音で答える。右隣りに座られた為に左目を髪で隠しているクロサイトの表情を窺う事はギベオンには出来なかったが、ガーネットが呆れた様にそっぽを向いて手をひらひらと揺らしたので、恐らく真顔で言っているのだろうと予想がついた。元からよく他人の長所を口にする男であるが、クロサイトがそこまでセラフィに対して手放しで評価していると知らなかったギベオンはカクテルを口に含んだクロサイトに何気なく言った。
「普段はあんまり分かりませんけど、セラフィさんと仲良いんですね」
「……あれが居なければ私も居ないからな」
 しかしその何気ない一言に対して随分と重たい返答があり、ギベオンはタンブラーに伸ばしかけた手を止めた。クロサイトの表情は口元でしか確認出来ないが、特に変化は無かった。ガーネットは聞いているのかいないのか、使用したシェイカーを洗っていた。
「昔、両親が離婚して私は母に、フィーは父に引き取られたのだが……、
 母は私に執着するあまり、滅茶苦茶に食べさせたのだ。私が泣いて吐いても食べさせてな。
 反対に、フィーは父に全く関心が持たれず食べさせて貰えなかった。
 フィーは骨と皮だけみたいになったし、私は脂肪の塊の様になってな。
 このままでは殺されると、二人で逃げたのだ」
「………」
「食べさせて貰えなかった反動でフィーは過食症になってしまったし、私は食べさせられ過ぎた反動で拒食症になってしまって。
 私は食べると吐く、フィーは吐いても食べる、とにかくあの頃は地獄だったな」
「……それ、いくつの頃なんですか?」
「さて……十五、六の頃だったか……あまり覚えていない」
 お互いに好意を持っていなくても離婚が出来なかった自分の両親とは対照的に、何の原因があったのかは不明だが別れを選択したクロサイトとセラフィの両親は、彼らに対して残酷な仕打ちを与えた様だ。愛情の反対はセラフィが経験した無関心であり、またクロサイトが経験した過干渉も単なる虐待に過ぎない。その当時の事を忘れたいのか、それとも本当に覚えていないのか、ギベオンには分からなかった。酒場は普段に比べると比較的ざわめきが少なく感じたが、単にギベオンの耳に喧騒が入ってきていないだけで、彼はそれ程隣に座ってグラスを傾けた男の話に聞き入っていた。
「苦しくてつらくて、一度死のうとしたのだが、その時にフィーが少しずつ肉がついてきた手で私の肩を抱いてくれてな、
 もう少しがんばってみよう、もう少し生きよう、死ぬのはそれからでも遅くないと泣きながら言ってくれた。
 ……お陰で今も生きている」
「……そうだったんですか」

――もう少し二人でがんばってみよう、もう少し二人で生きよう、死ぬのはそれからでも遅くないだろう。
――お願いだから俺を一人にしないで。

 自分の手から刃物を無理矢理取り上げ、その際に傷付いた手で肩を抱いてわあわあと泣きながら止めてくれた弟が居なかったら、恐らくクロサイトは今ここに居ない。一人にしないでくれと泣いたセラフィ同様、クロサイトも一人にはなりたくなかったから父の元で死にかけていたセラフィを連れ出して逃げたと言うのに、その弟を置いて死のうとしてしまった事は未だに彼にとって恥ずべき事であるし懺悔する事でもある。
 遠い記憶を丁寧に、そして大事なものを見せてくれるかの様に教えてくれたクロサイトの声は、やはり普段と変わり無い。だが若干柔和なそれになっている様な気がして、ギベオンは彼の意外な一面を見た様な気になっていた。今まで過ごしてきた中での遣り取りでセラフィの事を口にしている所はあまり無かったものだから、余計にそう感じたのかも知れなかった。
「だから、クロ先生にとってセラフィ君が世界で一番良い男なのよね」
「そうだ」
 それまで口を挟まなかったガーネットが微笑みながら言った言葉に、クロサイトは大真面目に頷く。それはそうだろうとギベオンも思ったし、事情を知っていたのだろうガーネットも苦笑して茶々を入れはしなかった。そんな二人の視線を全く気にせず、クロサイトは半分程残っていた酒を呷り、タン、と小気味良い音を立ててカウンターにグラスを置いた。
「お喋りが過ぎたな。私は先に戻るが、君も飲み過ぎない様に。明日もしごくぞ」
「ひっ……は、はい……」
「ガーネット君、代金はここに置いておく。釣りはベオ君の飲み代にしておいてくれ。
 足らない分はきちんと君が出したまえ」
「ふへっ?! い、いえっ、あのっ、」
「ギベオン君、そういう時はご馳走になりますって言うものよ」
「うぅ……ご、ご馳走になります……」
 クロサイトがカウンターに置いた金額は明らかに彼の飲み代よりも多く、ギベオンが飲んでいるジン・バックの金額を足しても十分な程で、慌ててギベオンが断ろうとするとガーネットの笑みで封じられた。彼女はクロサイトのその代金が自分の話を聞いてくれた事に対する礼であると分かっていたから、敢えて止めたのだ。そんな事とは知らぬギベオンは恐縮してしまい、大きな体を縮こまらせた。
 クロサイトが去った後、彼が飲み干したグラスを洗いながら、ガーネットは何かを思い出したかの様にふふっと笑った。
「さっきの、セラフィ君の言葉だけどね、私もクロ先生に言われた事があるのよ」
「え……ガーネットさん、死のうとした事あるんですか」
「ええ。実は私も物凄く太ってて、随分いじめられたの。私の一族が基本的に全員細いから、尚更ね。
 それで自棄になって首吊って死のうとしたら、縄を括りつけた枝が折れちゃって。
 打ち身で体は青痣だらけだし、クロ先生に手当てして貰ったんだけど、
 どうせ死ぬなら痩せてからにしたらどうだ、もう少しがんばってみないか、
 死ぬのはそれからでも遅くないって言ってくれたの」
「……え、じゃあ、ひょっとして」
「そうよ。私、クロ先生のところの栄えある第一期生で卒業第一号なの」
 頻繁に通っている訳ではないが、この孔雀亭を訪れる時はいつでもガーネット目当てで飲みに来ていると思しき者も多く、彼女に会いたいが為に依頼を受けているという冒険者も少なくない。それ程までにガーネットは魅力的な顔立ちとスタイルを所持しているので、まさか彼女が自分やペリドットと同様に太っていたとは思えず、ギベオンが目を丸くして彼女を見上げると薄暗い照明に浮かび上がるガーネットの妖艶な笑みを視界に収めてしまい、思わず耳朶を赤くさせた。そんなギベオンに、彼女は肩を竦めて見せる。
「私がこうやって綺麗に痩せられて、こんな風にお店も繁盛して、成功してるでしょ?
 噂が噂を呼んで、どうあっても痩せたいって人がクロ先生のところに来る様になったのよ」
「な、なるほど……あの樹海を軽装で一人で歩ける程実力あるから信頼ありますもんね」
「そうなの。しかも、絶対に患者さんには男でも女でも手出ししないから。クロ先生もセラフィ君も」
「……お二人が手出ししなくても、言い寄られたりしないんですかね?」
「卒業生に居たわよ、クロ先生に告白した子。何て返事したと思う?」
「え……想像つかないです……」
「私はこの世の全ての肥満患者の恋人だ、誰か一人のものにはなれない」
「か……かっこいい……!」
 ギベオンは全く考えた事が無かったが、確かに言われてみればペリドットの様に若い女が男所帯で短期間とは言え生活を共にするのだから、たとえクロサイト達が手出しをしなかったとしても告白されたり迫られたりはした事があっただろう。セラフィはどうだか知らないが、クロサイトは患者とそれなりに長い時間を共有するのだから当然の事かも知れない。だが、ガーネットから聞いたその言葉はギベオンにとって強烈なインパクトを与え、妙な感動を覚えてしまった。
 ただ、クロサイトが女に対して興味が無いのかというとそうではないとギベオンも知っている。タルシスに来て防具が出来上がるまでに街中を歩かされた際、ペリドットが居ない所でクロサイトは街のある一角を指さし、あの一帯が花街だとギベオンに教えてくれた。君も健全成人男性なのだから足を運ぶ事は禁止しないが翌日に響かない程度にな、と無表情を崩さず言ったクロサイトは、顔を赤くするやらどもるやらのギベオンにご丁寧にも相場まで教えてくれた。彼が利用した経験があるという証拠だ。だからガーネットが教えてくれたクロサイトの言葉は本心なのだという事も分かり、妙な尊敬の念を抱いてしまった。
 すっかり氷が解けてしまって薄くなったジン・バックを飲んでいるギベオンを見ながら、それにしても、とガーネットは思う。クロサイトが来店した事にギベオンが驚いたのと同じ様に、ガーネットもまた表情には出さなかったが驚いた。あの男は医者であるが故に、自分が患者を受け持ったらいついかなる時、どんな事にも対処出来る様にと絶対に飲酒をしない。酔いで手元が狂ったり、判断が鈍ったりしてはならないからと、ストイックに禁酒を貫いた。そして患者達が無事卒業したら、セラフィと一緒に酒を飲みに来る。そんなクロサイトが、あろう事かまだ卒業には遠いギベオンの隣で、一杯とは言え酒を飲んだ。昔から変わらない、生のライムジュースを多目に入れた、ギベオンが飲んでいるジン・バックよりも度数の高いギムレットを。しかも、利き手であり見えていない目の側である左にセラフィ以外の人間を座らせたまま。
 常に側に控えているセラフィが居ない寂しさからなのか、それともこのギベオンをよほど信頼しているのか、ガーネットは恐らく両方だろうと思う。否、ギベオンだけではない、あのペリドットだって芯はとても強いと評価していたからこそセラフィを伴につけさせたのだろう。勿論今までの患者を信頼しなかったり評価しなかった訳ではないし、全力で治療にあたっていた事をこのカウンター越しに見ていたガーネットは知っているが、それにしてもギベオンとペリドットに対しては特別対応の様な気がする。ちょっと妬けるわね、と口元で笑ったガーネットは、癪なのでその事をギベオンには言わなかった。
 一方、当のギベオンはぬるくなってしまったタンブラーの中身を飲み干し、ご馳走さまでしたとガーネットに頭を下げてから店を後にした。明日は何させられるんだろう……、と遠い目をしながら瞬く星を眺め、未だ少し痛む打ち身で重くなってしまっている足取りで診療所へと戻って行った。



 翌日の朝、ゆっくりと食事を摂ってからインフィナに再度の別れを告げて家を出たペリドットは、なるべく人目を避けて郊外へと向かった。人は噂が好きであるし、また好奇の目を向ける事も好きであるから、勝手に式の日取りまで決められてしまったペリドットに対して何を言ってくるか分からない。インフィナには必ず戻ってくるからと約束すると、先生によろしくねと言われただけで止められはしなかった。引き止めてしまえば娘を甘やかしてしまうと思ったのだろう。
 郊外に停めてあるとは言え、林の中に隠しても気球艇は見付けやすい。籠を背凭れにして腕を組み、何か考えているらしいセラフィに声をかけたものかどうか迷ったが、ペリドットが悩んでいるうちにセラフィが彼女に気が付いた。
「……もう少しゆっくりしてきても良かったぞ」
「いえ、あんまりゆっくりするとやっぱり母に甘えが出ちゃいますし。
 ……あ、そうだ、これ、有難う御座いました。本当に体が軽くなったみたいに踊れました」
「ん……、良かったな」
 荷物の中に入れておいた借り物のペンダントを取り出し、セラフィに渡すと、彼はごく自然に首に掛け、衣服の中に石を仕舞った。すぐに仕舞った辺り、本当に大事にしているものなのだろう。少なくともペリドットにはそう思われた。そんな大事なものを貸して貰っていたのだと思うと何だか申し訳なくなったのだが、もう俯く事はなかった。ただ、今朝方荷物に仕舞う前に汲みたての水で洗った際につい感謝のつもりで石に口付けてしまったので、それを思い出してしまって思わず顔が赤くなってしまった。
「何だ、熱でもあるのか。だからもう少しゆっくりしてこいと言ったんだ」
「あ、い、いえ、大丈夫です。それより、昨日はいつもと雰囲気が違う格好されてたからびっくりしました」
「……この格好だと逆に目立つだろう」
「そうですけど……腕を組む姿がクロサイト先生にそっくりだなあって思って……」
「……双子だからな」
 その赤面を勘違いしたセラフィが眉を顰めたので慌てて首を振り、やや強引に話を変えたペリドットは、昨夜見たセラフィと今目の前に居る彼の服装のギャップに素直な感想を伝えた。照明が暗くてよく見えなかったという点を差し引いても昨夜の彼はごくシンプルな格好をしており、腕を組んでいた姿にペリドットは思わずあの人格好良いんだ、などと思ってしまった、のである。否、今のセラフィにそう思わないのかと言われればそうではないのだが、彼女にとって初対面の際の言葉があまりにもショックであったので、賛辞の言葉と彼をイコールで結ぶ事が出来なかった。しかしセラフィとそっくりだと思ったクロサイトにはギベオンと違って格好良いという感想が出ないという事に、今のペリドットは気が付いていない。
 そんな彼女に、セラフィは昨夜舞台上に堂々と上がっていった男の事を聞くべきなのかどうか迷っていたのだが、結局何も聞かずに素っ気なく彼女の手から荷物を取るとさっさと乗れと籠の扉を開けた。目の下の隈をペリドットに指摘されなかった事に、多少の安堵を感じながら。



 セラフィとペリドットがタルシスに無事戻ってきたのは、彼らが街を出発してから数えて十七日目の夜だった。帰りは追い風に恵まれた事もあって行きより早く着き、疲れてはいるが比較的元気な声でただいま戻りましたとクロサイトに報告したペリドットを見てギベオンはやっとこれで一人じゃなくなる……と半べそをかいた。ペリドットから見れば元から褐色肌であったギベオンが更に日に焼けた事と、出発前に比べて体が引き締まった様に思えて、がんばったんだねと素直に褒めた。
 既にクロサイトとギベオンは夕食を摂った後であったから宿屋の食堂で食事を摂ったペリドットは、有無を言わせないとばかりにクロサイトから寝室へと追い遣られた。気球艇での長時間の飛行をほぼ二十日間味わったのだから疲労も溜まっている、久しぶりの寝台でゆっくり体を休めたまえと言われては反論も出来ず、確かに体がだるかったので言われた通り彼女はこの診療所に来てから一番早い時間に眠りに就いた。ギベオンもその日はうんと走らされていた為に、彼女とあまり変わらない時間に寝た。
 そしてその後、クロサイトは自室でセラフィからペリドットの故郷での事を聞いた。舞台できちんと踊れていた事、最初は笑っていた観客も最後には掌を返した様に拍手をしていた事、見たものを話すセラフィは、普段と特に変わりない様にクロサイトには思えた。だが一通りの報告をしたセラフィが何か難しい顔をしたので、はてと思ってクロサイトは首を僅かに傾げた。セラフィが自分に対してここまで何かを言いあぐねているのも珍しいからだ。そして、聞かない限り何も言わないという事は分かっているから聞いた。
「どうした、何かあったのか」
「いや……、……クロ、お前、ペリ子に許嫁が居ると知っているか?」
「……初耳だな。居るのか」
 数秒の沈黙の後に聞かされた事は、クロサイトを驚かせるには十分な威力を持っていた。勿論殆ど顔に出しはしなかったが、長い事双子として過ごしたセラフィにはその初耳という言葉は表情で偽りではないと判断出来た。
「実家の地域の領主の息子、らしいが……少し調べただけだがろくでもなかった」
「ペリ子君は納得の上か?」
「さあな……あまり乗り気ではなさそうに見えたが……」
「ふむ……」
 ペリドットが劇場の舞台で舞を披露した後にずかずかと上がっていった男がどことなく胡散臭く見えた上、彼女の肩を抱きながら結婚などと宣ったのでそれは聞いた事が無いとセラフィは内心驚いたのだが、その男の隣に居たペリドットがひどく嫌そうな顔をしていたので不本意なのだろうかと思って近くに座っていた壮年の男にあれは誰だと尋ねたのだ。すると男からはこの一帯の領主様のご子息のクリソコラ様だよ、あまり良い噂は聞かんがねぇという答えを得られた。ペリドットが舞台から降りる前に劇場を辞して近くの酒場でたむろしている者達に旅人を装い――実際余所者なのだが――それとなくクリソコラの事を聞き出すと、こちらが不愉快になる様な話をいくつも聞いた。噂は噂なので断定は出来ないとは言え、火の無い所に煙はたたない筈だ。
 ただ、確信は持てなかった為にクロサイトにはそれ以上の具体的な事は言わず、セラフィは口を噤んだ。元よりあまり他人を悪く言う事を好まぬ男だ、それと知っているクロサイトも敢えて突っ込んで尋ねはせずに、黙って頷いてから労う様にセラフィの肩をぽんぽんと叩いた。
「それは僕の方でも調べておこう。とりあえずお前はもう休め」
「明日も出るんだろう? 掃除が必要だろうが」
「死を忘れるな」
「………」
「疲労が溜まった体で樹海に行くな。お前に何かあったら僕が卒倒する」
「……分かったよ、寝るよ」
「そうしろ」
 クロサイトは、セラフィの前でだけ一人称が変わる。否、変わるのではなく、戻る。意識している訳ではなくて、自然とそうなるのだ。ガーネットがギベオンに暴露した様に、彼の中では弟が世界で一番良い男であるし、そんな弟の前では素が出る。
 樹海は昼夜問わず危険なものだが、夜は方向感覚が鈍る事もあって危険度が増す。その中を、セラフィはいつも一人で武器を携え歩く。どこから湧いて出るのかも分からない魔物であっても手負いにしておけば患者でも十分対応が出来るし、彼らの手に負えない程の量が居ればある程度片付ける。そういう仕事も、セラフィはもう随分長いことやってきた。患者には一切何も言わず、自分は飽くまで部外者だという態度を貫き通しながら。その意思を尊重したいので、クロサイトも患者に何も教えない。セラフィがおやすみ、と言って自室を辞していく背中を見送った後、クロサイトは手紙を書く為に机に向かった。
 廊下の明かりが消えていても夜目が利くセラフィには何の不自由も無かったが、クロサイトに持たせられたランタンを手に慣れた足取りで自室の扉を開けると、クロサイトの部屋とは打って変わって殺風景な部屋が主を出迎える。ランタンに照らされた必要最低限の調度品しか備え付けられていないその部屋を、しかしセラフィは気に入っている。物が山程備え付けてあるのは衣類だけで良いと彼は思っており、様々な道具を忍ばせている上着を脱いで無造作にチェストの上に置けば、ごとんと鈍い音がした。
 そして簡素な寝台にブーツを脱いで寝転がり一息吐いたが、上着と一緒にチェストの上に置いたランタンを消すのが億劫でどうするか数秒悩んだ。妙なところで面倒臭がりなのだ。しかしそこではたと思い出し、インナーの下に潜り込ませていたペンダントを取り出した。ランタンの明かりを反射させる石は相変わらずの模様と色であったが、自信が無さそうであったペリドットに力を貸してやってくれた様に思え、良くやってくれた、とセラフィは労う様に石に口付けた。数日前、彼女が同じ様にした事など知る由も無かった。