初めて見るその大地に、ギベオンは気球艇の縁から身を乗り出さんばかりに目を輝かせた。風馳ノ草原とは全く趣が違う大地は丹紅ノ石林という名に相応しく、赤みがかった大地と人間を拒む様に聳え立つ鋭い岩山はギベオンの好奇心を刺激して本当に籠から上半身を乗り出させた。頬をすり抜けていく空気は、風馳ノ草原のそれとは違って潤いがあった。遠目に見えた動物は豚だろうか、そう言えば診療所に初めて来た時にクロサイトが小さな檻に縄を括り付けて仕留めたのだろう豚を持って帰ってきたが、恐らくこの石林で仕留めた豚であったのだろうとギベオンは取り留めもなく思う。
「少し体を引っ込めたまえ、落ちるぞ。私もさすがに転落は助けられない」
「あ、は、はい、すみません」
 あまりにもその乗り出し方が危なかった為、気球艇の縄を片手で掴み、空いた手を白衣のポケットに突っ込んだままのクロサイトが諌めた。ギベオンは意外に思ったのだが、実はクロサイトは高いところが苦手であり、こうやって何かに掴まっていないと気球艇に乗れない。その事実を聞かされた時によく僕達患者を気球艇に乗せて飛べましたねとギベオンが言うと、クロサイトは私が我慢すれば良いだけの事だからなと何でもない風に言った。どこまでも他人を優先して自分を後回しにする男なのだと再確認したギベオンは、せめてあまり怖い思いをさせない様にしようと思っていたのだが、理想と現実というのは得てして一致しないものだ。
「お前達はこっちに来るのは初めてだったな」
「はい、風馳ノ草原しか飛んだ事無いです」
「谷で隔たれてるだけなのに随分様子が違うんですね」
「そうだな、こちらは本当に岩肌が多い」
 気球艇の舵をとるセラフィに頷いたギベオンとペリドットは、先程注意されたので乗り出しはしなかったが珍しいものを見るかの様に初めての大地を見渡す。知った色の気球艇もあれば街門の所でしか見た事が無い気球艇も飛んでおり、自分達もその内の一つの気球艇に乗っているのだと思うと何となく緊張した。
 セラフィがペリドットを妻に迎える為に彼女の故郷に攫いに行ってから、三ヶ月と少し経つ。その際に辺境伯に協力を要請して書面を書いて貰う見返りに提示されたのが、数年前碧照ノ樹海で獣王ベルゼルケルを討ち取ったクロサイトとセラフィの冒険者への復帰だった。彼らは瘴気の森という小さな迷宮で気球艇の飛行高度を上げる藍夜の破片を発見し、深霧ノ幽谷と呼ばれる迷宮に足を踏み入れた最初の冒険者だ。しかし、二人はそれ以上先へ進もうとはせず冒険者という肩書を捨てた。辺境伯がいくら問い詰めても、またいくら説得しても彼らはその意思を変えなかった。
 彼らが探索を止めて以降、深霧ノ幽谷の先に進めた者は居ない。幽谷の北側には風馳ノ草原同様に細い谷があるのだが、深い雲で覆われており先を見通せず、気球艇で進む事は出来ないらしい。ギベオン達は風馳ノ草原の北に位置する谷も幽谷の北側の谷の様に雲で覆われていたという事を知らなかったのだが、谷の南に立つ石碑の基部にクロサイト達が獣王を倒した時に見付けた石板をはめ込むと、この石林から風が吹き込み雲が晴れたのだそうだ。碧照ノ樹海で石板が見つかった事を考えると、石林の北の谷に立つ石碑にはめ込む石板が深霧ノ幽谷にあると考えて良いだろう。
 だがその深霧ノ幽谷が発見されてから随分経つというのに、未だに先へ進めた者が居ない為に谷は立ち込める雲に覆われたままだ。たった二人の冒険者が探索を止めてしまっただけで先へ進む事が出来なくなってしまったと聞いて、ギベオンとペリドットは自分達の主治医とその弟がそんなにも腕が立つ者であったのだと初めて知った。勿論その腕前は十分知っているが、冒険者など山程居るというのに誰も彼らを超えられていない事実にただ呆然とするだけだった。
 何故、先へ進めないのか。それは、深霧ノ幽谷が名の通り深い霧が立ち込め、碧照ノ樹海より迷いやすい事が表向きの原因であるが、一番の理由はそこに住まう者の里があるからだと、ギベオンとペリドットはクロサイトから聞いた。さまよい歩き、やっとの思いで辿り着いても里の入り口の扉は固く閉ざされており、どんなに腕の立つ冒険者でも開ける事が出来ないらしい。里に住まう者達は人間ではなくウロビトという種族の者達であり、頑なに人間を拒んでいるのだと言う。ただ、その事は一部の限られた冒険者しか知らない。その里の門前まで辿り着けたのは本当にごく僅かな数でしかなく、その者達も方向感覚を失って自分達が書いた地図が役に立たないのだそうだ。
「――見えるか。ここから直線上に見えるあの大きな森が深霧ノ幽谷だ。
 その手前の崖下にあるのが瘴気の森、藍夜の破片が採掘出来るところだな。
 それから、ここから見て左……いや、九時の方角に見える、あのでかいワニがうろついてる辺りが人喰い蛾の庭。
 そこから真っ直ぐ北、十二時の方角に向かった先にある、湖の浅瀬にあるのが騒がしい沼地。
 石林にある四つの迷宮だ」
 気球艇の高度を上げ、セラフィが指さしながら左右盲のギベオンにも分かりやすい様に迷宮の位置を説明する。ギベオンが左右盲だとクロサイトが知ったその日の夜に知らされている為、セラフィもギベオンに話す時は極力右と左の表現を使わず、三時と九時の表現に置き換えていた。そんな気遣いもあって目の前の風景が事前に見せて貰った地図での位置関係と合致させる事が出来たのだが、実際見るのとでは全く認識が変わってくる様に思え、ギベオンもペリドットもまた身を乗り出しそうになってしまった。
「今から行くのは、深霧ノ幽谷だな。金糸絹笠茸があれば良いんだが」
「金糸絹笠茸?」
「この大地で採れる、森の女王とも呼ばれている茸だ。
 あの幽谷にはこちらを眠らせたり混乱させたりする魔物が居て、それを食べれば少し耐性が上がる」
「へえー……」
 そんな二人の首根っこを掴んで自分の方へと引き寄せ、クロサイトは右目を細めて幽谷を見遣る。碧照ノ樹海と違って厄介な攻撃をしてくる魔物が存在する迷宮を、セラフィだけではなく感心の嘆息を漏らしたギベオンとペリドットも連れて歩くのだから、彼は一層気を張らねばならなかった。
 ペリドットがタルシスに嫁いできた後、辺境伯はすぐさまクロサイトに冒険者復帰を要請した。だがクロサイトはまだギベオンという患者を受け持っている医者という側面を捨てる訳にはいかなかったので、我慢はお嫌いな辺境伯殿は焦らされるのはお嫌いではなかった筈ですから今しばらく焦らされていてくださいと言ってすぐには丹紅ノ石林に向かわなかった。ペリドットの母親達が亡命を望めばそれを受け入れるという書状を作成して貰った以上、約束は守るつもりではあったが、ギベオンの治療を蔑ろにして探索をする気にはなれなかったからだ。彼は飽くまで医者であり、優先するのは患者の治療だ。だから、この三ヶ月はほぼマンツーマンでギベオンの治療にあたっていた。
 クロサイトとしてはギベオンが初めて診療所に来た時に言い渡した一年かけての治療という内容を変更せざるを得ない事に対して難色を示したのだが、殆ど何もしていないとは言え彼は統治院の職員であり、辺境伯は上司にあたる。これ以上の、クロサイトが言うところの焦らしはせぬ方が賢明であったから、ギベオンにも事前に説明して納得して貰っている。
 ただ、ギベオンは実家に一年不在にすると伝えているが、恐らくそのまま居なくなる事を両親が望んでいる様な気もしている。彼の両親は外面がかなり良く、祖母が亡くなるまで彼は存在して貰わねば困る「跡取り」であったが、その祖母が亡くなって用無しとなった彼を里子に出す事も出来なかったので存在自体が無かった子供とされた。かと言ってある程度成長して、一人で生きていける様になっても外部に言い触らされるのも困るという事で、常に監視下に置かれていた。
 しかし水晶宮から遠く離れたこのタルシスであれば、殆どの人間はギベオンの実家の事を知らない。キルヨネンが知っていたというのは本当に偶然の事であるから、このまま実家から解放されタルシスでなくとも別の街に流れても良いかという、クロサイトの元に来た当時では絶対に思い浮かびもしなかった様な事をギベオンは考えていた。不安が無い訳ではないが、あの家に戻るよりは何倍もマシだと思える様になっている。だから、治療期間が多少短くなってもギベオンは特に不満は無かった。
 そして、クロサイトとしてはまだ絞り足りない様な顔を見せたが、碧照ノ樹海や風馳ノ草原で散々走らされ魔物と戦わされたギベオンはタルシスに来た当時に比べると別人の様に痩せた。たまの休息日にはペリドットがウィラフとサンバの練習をしているところに混ざって踊ってもみたし、セラフィに付き合ってもらって森の廃坑へ行ったりもした。クロサイトは水彩画が趣味であり、時折世界樹を画面に納めた風景画を描いている事を知っていたので、灰色を呈色する珍しい天然顔料として扱われるスレート石を採りに行って彼に渡していた。
 両親によって抑圧され、行き場の無いストレスが食欲となっていただけのギベオンは、そんな風に身体を動かす事によって内部に溜まった力を発散させる方法を覚え、また力だけでなく身体に溜まった電気を放出させる方法も覚えた。故郷に帰ろうが帰るまいが立ち回りは良くなるに越した事はないと、クロサイトもセラフィもギベオンの稽古に付き合ってくれたものだから、クロサイトが誂えてくれたガントレットを通して鎚に放電しての攻撃は樹海の魔物達に対して中々の威力を発揮してくれていた。
 深霧ノ幽谷に行くとクロサイトから聞いたのは、ギベオンの体格に彼が合格点を出したその日だ。いい加減出向かなければ辺境伯がへそを曲げてしまうとぼやいたクロサイトに、ギベオンは咄嗟にじゃあ僕もお伴しますと言っていた。クロサイトは辺境伯から請け負った要請を自分とセラフィだけで引き受けるつもりであった様だったのだが、今の自分であれば足手まといにはなるまいと思ってそう申し出た。勿論クロサイトは守れるかどうかも分からないあの幽谷に患者を連れて行く訳には、と渋ったし、セラフィも難色を示したが、最終的にはギベオンの熱意に負けた。
 厳密に言えば辺境伯の要請はクロサイトの冒険者復帰ではなく、ウロビトとの交渉であった。その門戸を開いて貰い、幽谷の奥へと進む事で、北の谷を抜ける手掛かりが掴めるかも知れないからだ。クロサイトはこのウロビトとの交渉までを条件に、それ以降の探索への参加は断っている。自分は飽くまで医者であり探索はこの街に集う冒険者達がやるものであるからと、きっぱり辺境伯に言い渡した。彼は一応タルシスの外交官という肩書きを所持しているものだから辺境伯の要請ももっともであり、その責務はいい加減果たさなければならないが、それから先は関知しない、という条件を飲んで貰っている。なにせタルシスは冒険者の街ですので私でなくてもこれから先誰かが踏破していくでしょうし、この街のますますの繁栄の為にもそうであって欲しいものですとそれらしい事を述べたクロサイトに、辺境伯はいつも腕に抱いている愛犬の頭を撫でながら苦笑していた。クロサイトが頑固なのは、重々承知であったからだ。
「――さて、ではこの幽谷に踏み入るが、再度言っておこう。
 ベオ君もペリ子君も決して無理をしない事。はぐれたら速やかに変位磁石を使ってその場で待機する事。良いな」
「はい」
 深霧ノ幽谷の近辺でクロサイトが言っていた金糸絹笠茸を見つけ、持ち合わせていた食材と共に調理し食事を済ませたギベオンとペリドットは、幽谷の入り口で念を押される様に言われたクロサイトの言葉に素直に頷いた。碧照ノ樹海にも存在した磁軸がこの幽谷にも存在し、使用するとその磁軸に戻れるという変位磁石を予め渡されており、万一はぐれてしまったら磁軸にて待機と言われている。腕が立つと知っているクロサイトとセラフィが危険だと断言する程の場所であるからギベオンもペリドットもその指示には逆らわなかった。
 ペリドットが同行しているのは、何も興味本意からではない。ギベオンも行くのに一人で待つのは嫌だと言った彼女は、男が三人で押し掛けるよりも女が一人でも居た方がウロビトの警戒心を僅かにでも薄れさせるのではと、同行する事を反対したセラフィを説得し、彼が折れた形になる。ただし絶対に無茶をしてくれるな、お前に何かあったら気が狂うと真顔で言われたので、ペリドットはギベオンやセラフィより前に出ない事を約束している。
 踏み入れた幽谷は深霧と名を冠しているだけあって、濃い霧に包まれていた。丹紅ノ石林の空を飛んだ時とは比べ物にならない程の肌に感じる湿度は寒さを覚える。入ってすぐ左手に位置する広場の様な所には先に探索に来ていたのだろう冒険者達がたむろしており、そこに磁軸があった。幽谷を探索する者達はここを拠点としているらしい。
「先にも見せたが、今のところ出来上がっている地図だ。
 単純な道順と思うかも知れないが、ここは霧が深くて現在地を把握しづらい。
 碧照ノ樹海でも体験したと思うが、どんなに精巧な地図であっても自分がどこに居るのか分からなければ単なる紙くずにしかならないから、
 気を付けてくれたまえ」
「はい」
 ペリドットに渡された、クロサイトが昔書いたらしい地図には細かいメモ書きや採集出来るものの絵が描かれており、幽谷を住処とする魔物の事も書かれている。詳細を読めば確かに危険な魔物が多い事が分かり、彼女ははぐれたらすぐに変位磁石を使えと言われた理由が分かった気がした。側に立っているギベオンも、地図を覗きこんで少しだけ難しい顔をした。
「ウロビトの人達との交渉って仰ってましたけど、里の門は開けて貰えないんですよね?
 どうやって交渉するんですか?」
「さて、どうするかはまだ考えていない」
「えぇっ?」
「里の門前に行ったところで門番と話が出来るとは限らないし、かと言って行かねば何も進まないしな。
 まあ、私とフィーだけがウロビトの女性と話した事があるから、辺境伯は私達にずっと要請していた訳だが」
 薄靄の中を霧のせいでぬかるむ道に足を取られぬ様に慎重に歩きながら先を進むクロサイトにギベオンが尋ねたのだが、特に何の考えは無いという答えに絶句した。普段から用意周到な彼がそんな事を言うとは思ってもみなかったからだ。しかし彼らだけがウロビトと話した事があるというのも不思議な話で、その疑問が顔に出ていたペリドットと顔を見合わせたギベオンにクロサイトは続けた。
「先程瘴気の森という場所を教えただろう。あの森に入った時、あまりの異臭にフィーと二人で倒れてしまってな。
 その時助けてくれたのがウロビトの女性なのだ」
「あ、じゃあその人に交渉を……?」
「難しかろうがな。なにせあちらは私達人間を毛嫌いしている」
「何故です?」
「さて、ね」
 クロサイトは、ギベオンの質問には明確な答えを言わずに口を閉ざした。同じ様に、セラフィも何も言わなかった。知っているのに言おうとしていない、とギベオンもペリドットも思ったのだが、深く聞いても恐らく二人は答えてくれるまいと判断し、それ以上尋ねはしなかった。
 ただ、ウロビトの里まで出向かねば交渉など出来ようもないので幽谷に赴くのは正しいと言える。何度こちらから働きかけても聞き入れて貰えない可能性が高く、またクロサイトの本業である医者業がそれにより疎かになってしまうのであれば、なるほど今まで彼が辺境伯の要請を引き受けてこなかった事も得心がいった。そしてセラフィ一人だけで出向かせる事も決してしないであろうという事も分かったので、二人揃ってこの幽谷を歩くのは随分と久しぶりなのではないかと思われた。
 しかし、クロサイトやセラフィはまるで見知った道を進む様に歩く。ウロビトとの交渉を断り続けてきたならば深霧ノ幽谷に用事など無かろうし、それならばこの幽谷も年単位の期間を開けての訪問であろうに、碧照ノ樹海を歩く時の様な足取りで進んだ。その事に対して疑問を抱いたギベオンはしかし、幽谷の入り口に程近くに佇む赤や緑の不思議な装飾が施された門を潜ったところで不意に感じた殺気に気を取られ、濃い霧の向こうから突如飛び掛かってきた青と黄色の塊を咄嗟に避けたもののその塊の正体に短い悲鳴を上げた。
「あっ、猫だ!」
「この幽谷周辺に生息するオオヤマネコだ。
 動きがすばしっこいから気を付けろよ、いくらお前が猫が好きだからってあれは魔物だから倒す対象だ」
「えぇー……にゃーちゃん様……」
 咄嗟に反応してかわしたギベオンとセラフィの間を通り抜け、着地したのは黄色の体に青い毛の頭を有する大きな猫で、こちらを威嚇する様に重心を低く構えて低い唸り声を上げている。その姿にペリドットはぱあっと顔を明るくしたのだが、釘を刺す様にセラフィから言われた言葉にすぐしゅんとした。彼女は猫が好きで、診療所の近くで見掛けた野良猫を木の上まで追い掛け、降りられなくなった前科がある。重苦しい溜め息を吐き、苦い顔をしながらセラフィが猫と共に降ろしてやった事は暫くベルンド工房の娘やガーネットがからかうには格好の出来事であった。
 だがそんな猫好きなペリドットとは対照的に、ギベオンはその巨体を強張らせた。鎚を持つ手が僅かに震えており、クロサイトはそれを見逃さなかった。
「……ベオ君、君はひょっとして猫が苦手かね」
「す……すみません……」
 体の硬直具合、霧のせいではない顎から落ちる滴、青い顔は彼が苦手なものに遭遇したという事を教えてくれており、クロサイトはそうか、と一言呟く。誰しも苦手な動物というものはあるものだからクロサイトは大して気にしなかったが、半ば無理を言って同行させて貰った身であるギベオンは申し訳ない事この上なく、自分が情けなくてきゅっと下唇を噛んだ。足手まといにはならないだろうと思った自分が軽率であったと毛を逆立てて睨んでくるオオヤマネコを前に体を動かせないギベオンは思ったのだが、そんな彼の肩をオオヤマネコから視線を逸らさずセラフィが叩いた。
「落ち込む暇があるなら体を動かせ。あれに喉元を食い千切られた奴も多い」
「ひえぇっ……は、はいっ!」
 それはセラフィとしては脅したつもりは無いのだろうがギベオンにとっては背筋が震える様な言葉であり、彼は手の中の鎚をぎゅっと握った。



 オオヤマネコの威嚇の唸りに呼応したのか側の草むらから出てきた緑のウサギも何とか同時に倒し、セラフィがオオヤマネコの爪を取っている間にウサギの尻尾を切り取ったクロサイトは、ウサギを見てからギベオンを見て、以前の君の腹もこんな風だったなと妙にしみじみと言った。そんな事を言われても返答に困るギベオンははあ、と間抜けな声しか出せず、その遺骸を木の根元に置いてから先へと進んだ。いちいち葬っていては日が暮れてしまうからだ。
「……どうしたペリドット、そっちは行き止まりだぞ」
「あ、えっと……ちょっと待ってください、ここ……」
 そのまま真っ直ぐ進んでいた時、横道に逸れようとしたペリドットをセラフィが窘めたのだが、彼女はそのまま突き当りまで足を運んだ。彼は結婚して以降、ペリドットの事をちゃんと名前で呼ぶようになっている。先程の様に霧の中から突然魔物が襲ってくる事も少なくないので足早にセラフィが並ぶと、行き止まりを前にペリドットはしゃがんで黄色い花が咲いている草むらを掻き分けた。
「セラフィさん、ここ、通り抜けられないです?」
「ん……? ……こっちからは無理そうだが、反対側から通り道が作れそうだな」
 ペリドットと同じ様に中腰になったセラフィは持っていた短剣で鬱蒼を茂る草を刈り取り、壁の様に密集している木々の間に僅かな隙間を発見した。巨木と巨木の間の低い位置に存在するその隙間は向こうに見える細い木々に邪魔され、通り抜ける事が出来そうもない。だが、向こう側からその細い木々を伐採すれば一人ずつ通り抜ける事が出来そうだった。
「驚いたな。ここは全く気が付かなかった」
「セラフィさんもクロサイト先生も背が高いから、見えなかったんだと思います。
 霧も深いし遠くからじゃ分かりにくいし……」
「向こうに行ったら通れる様にしておこう。ここが通れる様になったら随分と楽になる。有難うペリ子君」
「えへ……」
 湿気で消しづらくなった地図をペリドットから受け取り、何とか手直ししながらクロサイトが述べた礼に、ペリドットははにかむ様に笑う。ギベオンも屈んで見たが、確かにこれは目線が低くなければ見付けられないものであっただろう。背が低い事を気にしている彼女も、今回ばかりはその低さを満更でもなく思っている様だ。クロサイトが言った随分と楽になるという言葉はやはり彼らがこの幽谷を頻繁ではなくとも行き来している事を物語っている様な気がしたのだが、ギベオンは聞いても良いものなのかどうか分からず結局尋ねなかった。
 幽谷には、碧照ノ樹海には見られなかった生物が多く存在していた。空を飛ぶ花が襲ってくる事もあれば水色の笠を持つ手足の生えた茸も居て、見た目はそう怖くないななどと思っていたら強烈な眠気を誘発する花粉をばらまいてきたり、錯乱しそうになる胞子をばらまいてきたりもした。なるほどこれは二人が危険と言う筈だと身を以て知ったギベオンは、花粉によって眠ってしまいそうになった時にタイミング良く飛んできたクロサイトの平手によって腫れた頬を擦りながら思っていた。
 そして体脂肪が低いが故に水に沈みやすく、池や湖を見ると嫌がるセラフィをクロサイトとペリドットが宥めながら巨大な鉤爪を持った蛾が居る広場をなるべく音を立てない様に進んでいると、どこからともなく歌声が聞こえてきた。風の音かとも思ったが、全員で足を止めて耳を澄まして人間の歌声であると確認したギベオン達は、先に探索に出ている冒険者が歌っているのだろうかと不思議に思い、顔を見合わせた後にまた進むと、木々のない開けた場所に出た。クロサイト達が既に作ってあった地図にも載ってあるその広場は、狭い通路に比べて霧が薄い。茂った草花に霧の水滴が差し込む陽光に反射する中で蛍の様な小さな光が揺れており、その光は地面に腰を降ろした少女の周りを舞っていた。
 背を向けた少女は顔こそ見えなかったが、歌詞の無いハミングを聞く限り、幼すぎる訳でもないが大人と呼ぶにはまだ早い様な印象をギベオンは受けた。赤い帯に蜜柑色の肩掛け、両サイドで束ねられた明るめの茶色の髪は、緑の深いこの幽谷の中で際立って見える。少女があまりにも気持ちよさそうに歌っているものだから声を掛けづらく、どうしようかとギベオンがクロサイトとセラフィを窺うと、二人もどうしたものかと顔を見合わせた後で黙って少女の方へ視線を戻した。ただ、少女を見た事が無いという風でもなく、そこもギベオンの頭上に疑問符を浮かせた。
 そして暫く少女の歌に耳を傾けていると、いつの間にか少女の周りに浮かんでいた光が消えており、静かにその美しくも寂しさのある歌がやんだ。周りに咲いている花で冠を作っていたのだろう、少女は傍らに置いていた錫杖と冠を手にすると腰を上げ、何の気も無くギベオン達の方を振り向いて体を硬直させた。
「え……」
 蜂蜜色の瞳を見開かせて口を開けたり閉ざしたりしている少女は、背の大きなギベオン達を見て驚くというよりも怯えている様であったから、咄嗟にペリドットが彼らの前に出る。ペリドットだって初対面の時は正直言ってクロサイト達は背が高くて怖かったので、少女も同じであろうと思ったからだ。しかしそれでも少女が顔を青くして一歩あとずさったその時、近くの茂みから何かが飛び出してきた。弾かれた様に全員がその飛び出してきた影を見ると、緑と紫のロングドレスを着た様な女性達が錫杖を手に声も無く少女に近寄ろうとしている。
「どっ……どうしてホロウがこんなところに? や、やだ! 来ないで!」
 その姿を見た少女は息を飲み、ギベオン達を見た時よりも怯えた声で首を振って影から逃れようとした。そんな少女に真っ先に駆け寄り腕を掴んで自分の方へ引き寄せたギベオンは、セラフィが投げた投擲ナイフとペリドットが射った矢が彼女に当たらない様に体を翻す。彼女はこのホロウとやらを知っていても怯えたという事は敵であろうと判断した二人が先制をとった形となったが、ホロウの動きが素早くて掠っただけに留まった。しかしセラフィの投刃によって緑のドレスを着たホロウは麻痺した様だった。
「危ないから僕達の後ろに居てね! クロサイト先生、援護お願いします!」
「うむ」
 自分達の後ろに庇う様に少女を降ろしたギベオンは、次の瞬間には既に意識を少女でなはくホロウに向けていた。動きが速いセラフィやペリドットの攻撃が避けられたとなると、二人より速くは動けない自分の一撃が当たるとは思えなかったのだが、それでもギベオンは幽谷に行くならこれを使いたまえとクロサイトから渡された彼のお下がりのスパイクドクラブを握り直し、肩に担いでいた流星錘を構えたクロサイトに援護を頼んでからセラフィと肩を並べた。ホロウ達も錫杖を構え、不気味に光る目を細めてからその錫杖を振り下ろした。



「大丈夫? 怪我は無かった?」
 まるで霞の様に攻撃を避けるホロウ達相手に苦戦を強いられたものの何とか退ける事に成功し、投げた投擲ナイフを回収するセラフィと手伝うペリドットを尻目に、ギベオンは呆然としている少女に声を掛けた。この深霧ノ幽谷にはウロビトという種族が住んでいると聞いてはいるが、この少女はどう見ても人間だ。どういう事なんだろうとギベオンがクロサイトを横目で見ても、彼は沈黙したまま少女を見ている。
「あ……ありがとう、助けてくれて。あなたたちも、怪我なかった?」
「うん、大した怪我はしてないよ。大丈夫」
「そう、よかった……」
 声を掛けられて我に返ったのか、少女はぺこりと頭を下げてからギベオン達の負傷を心配した。それに対し大事無いと言ったギベオンに、少女は安堵の表情を見せる。年の頃は分からないが、まだ幼いであろうという事はギベオンにも予測がつく。そして、全ての投擲ナイフを回収したのかセラフィとペリドットが側まで来ると、遠慮がちに尋ねてきた。
「それで、あの……あなたたちも人間なんですか?」
「え……?」
「怖がったりしてごめんなさい。
 でも……世界樹の言葉は、本当だったんだ。ここで待っていたら、人間が来るって!」
 少女の言葉は、ギベオンだけでなくクロサイトやセラフィも呆気に取らせる様な力があった。あなたたちも人間、と言う事は少女は人間であろうというのは分かる。だが、世界樹の言葉というのはどういう事だ。確かに診療所の裏庭から世界樹を臨むと、あの巨木と対話出来る様な錯覚に見舞われる事があるのだが、それとは全く別の事だろうとペリドットは思った。
「わたしは、里では巫女って 呼ばれてるの。あなたたちは、何て呼べばいい?」
「え……っと、僕達は……」
「貴様達! 巫女から離れろ!」
 先程の怯えた色はもうどこにもなく、少女――巫女は警戒心無くギベオン達に名を尋ねてきたので名乗り返そうとした彼の声は、女性の声に遮られた。南にある小道から錫杖を手にこちらに駆け込んできた女性は、ギベオンやペリドットが今まで見た事も無い様な体付きをしていた。顕になった両肩から伸びる腕や水色のスカートから伸びる足は異様なまでに細く、また耳も人間のそれとは違って動物の様な長さがある。銀糸の髪で片目を隠した女性は、クロサイトとセラフィの姿を認めると憎々しげに二人を睨んだ。
「貴様達、今まで約束を違えずに居たから目を瞑っていたというのに、巫女の御前に立つとは!
 許し難い……まとめて封縛してくれる!」
 女性のその言葉で、彼女がクロサイトが言っていた瘴気の森で二人を助けてくれたウロビトであるという事が分かる。しかし約束を違えず、という言葉の意味が分からず、ギベオンもペリドットも戸惑いながら身構えた。持っていた錫杖の柄を地面に突き刺し、今にも襲い掛かってきそうであったからだ。何も言おうとしないクロサイトとセラフィは、それでも武器を構えようとはせずに何とも言えない表情で女性を見ていた。
「待って、ウーファン! この人達は、わたしをホロウ達から助けてくれたの。
 それに、この人達、わたしと同じなの! 人間だよ、人間! すごいよ!
 わたし、この人達ともっとお話したい。 ね? いいでしょ?」
 ウーファンと巫女に呼ばれたウロビトの女性は巫女のその興奮した様子に一瞬顔を顰め、再度クロサイト達を睨んだ。何を吹き込んだ、と言っているかの様な目付きに感じられたギベオンは、どうしてもクロサイトとセラフィがウーファンに助けられてからも何度か接触があった風にしか思えなかった。そう思ったのはギベオンだけではなくペリドットも同様で、彼女は隣に立つセラフィを見上げたが、彼は相変わらずの無表情で巫女を何とか諦めさせようと説得しているウーファンを見ているだけで、それ以上を窺い知る事は出来なかった。
「ねえ、お願いウーファン。もう勝手に里から出たりしないから」
「……仕方ありませんね。ただし、 お話は里の中で続けてください。
 ホロウがこんな浅い階層に出たなど前例がありませんが、用心するのがいいでしょう」
 巫女の懇願とも言える頼みに、説得を諦めたのはウーファンの方であった。彼女は溜め息を吐くと巫女を見つめていた表情を再度険しくし、鎚を肩に担ぎ白衣のポケットに片手を入れたクロサイトを尚も気を抜かずいつでも攻撃体勢に入れるかの様に睨む。だがギベオンもペリドットもクロサイトのその格好が攻撃する意思が無いと示している事、セラフィもそれに従っているという事が分かっていたので、身構えはしなかった。
「……聞いての通りだ、ついて来い」
「良いのかね?」
「それが巫女の願いならば、私は叶えねばならぬ。助けてくれた礼にもてなそう」
 まるで旧知の仲であるかの様に、しかしそれでいて犬猿の仲であるかの様なウーファンとクロサイトの短い会話にギベオンもペリドットも首を捻るばかりだったのだが、ウーファンが巫女の手をぐいと引いて歩き出してしまったので、また尋ねるタイミングを失ってしまった。否、タイミングがあったとしてもクロサイトもセラフィも無言でその質問を封じている様に二人には思えた。
「いやっ、痛いよ! ウーファン、怒ってるの?」
「痛がっているだろう、子供の手をそう強く引くのはやめたまえ」
「黙れ! 貴様と話す事など何も無い!」
「大事な巫女の前で怒鳴るな。怯えているぞ」
「この……っ」
「やめてウーファン! ごめんねみんな、ウーファンいつもはこんな事言わないんだけど」
 足早に歩き出したウーファンの歩幅についていけなかったのだろう、巫女は小走りで引っ張られる形となってしまい、錫杖と一緒に持っていた花冠を落としてしまった。だが落としてしまった事よりもウーファンが随分と機嫌が悪い事に気を取られている様で気が付いておらず、代わりに拾ったクロサイトがウーファンを咎め、それが癇に障ったのか彼女は振り向きざまに怒鳴った。驚いたのか怯えたのか、ウーファンの声にびくりと体を強張らせた巫女を見て今度はセラフィが咎めると、腹に据えかねた様にウーファンが錫杖を構えようとしたので慌てて巫女が彼女の細い腕を引っ張って止めた。
 巫女は、何故ウーファンがこんなにも苛立ち、怒りを抑えきれない様子であるのか分からない風であった。それと同じ様に、ギベオンとペリドットも何故クロサイトとセラフィがウーファンに対し以前からの顔見知りであるかの様に話せるのか疑問が募るばかりであった。クロサイトもセラフィも、ギベオン達を庇うかの様に並んで自分達の後ろを歩かせている。ウーファンが言った封縛という言葉から察するに、彼女は手に持っている錫杖を振るって何らかの術を操り、こちらの動きを封じる事が出来るのだろう。
 巫女が止めた事によって何とか怒りを鎮めたらしいウーファンが再度霧の中を歩き始め、全員無言で彼女について行く。不機嫌そうなウーファンに話し掛ける事を躊躇っているのだろう巫女は申し訳なさそうにちらちらと後ろを振り向き、ギベオン達がちゃんとついて来ているかを確かめている様であった。あんなに小さいのにこっちに気を遣うなんて、と、その姿を見たペリドットは何となく悲しくなり前を歩くセラフィの外套を掴んでしまったのだが、彼は何も言わない代わりに慰める様に手を後ろにやってくれたので、外套を離してそっと手を繋いだ。
 そして霧の中をどう歩いたのかギベオンが頭の中の地図の位置を把握する前に、ウーファンが足を止めた。鬱蒼と茂る木々や草花の中、一際大きく対になる様に聳え立つ巨木の向こうに隠される様に構えられた門は、常人を拒む雰囲気を醸し出している。気球艇で上空から見てもこんな里があるなんて分からなかったけど、とギベオンが訝しんでいると、門の脇に立っていた男が驚くやら呆気にとられるやらの顔でウーファンと巫女を見た。
「ウーファン、そいつらはついこの前」
「余計な口を利くな。……先程巫女をホロウから助けてくれたそうだ。
 巫女は、この者達との茶の席を所望している。すぐに用意する様に言ってくれ」
「……分かった」
 その男が言いかけた言葉を遮ったウーファンは、険しい声のまま指示を出す。男も異様に細い手足をしており、大きな葉で顔の大半を隠して背には矢筒と弓を装備していた。どうやらウロビトは彼らの様な体型をしているらしい。男は腑に落ちない様な顔をしてウーファンを見た後に中に呼びかけ、閂を外して貰って門を開けた。
 門を潜った先には物見櫓の様な大きな建物があり、数人のウロビトが柱の影でギベオン達を窺う様に見ていた。門よりも高い建築物に見えるが、恐らく深い霧の為に里の近くであっても外部からは見えないだろう。ウロビト達は人間とは違うので、そこから外部からの侵入者を見張れる視力を持っているのかも知れなかった。ぽかんとその櫓を見上げるペリドットとは対照的にギベオンが視線を感じて周りを見回すと、殆ど人影が無い広場から見える家からちらちらとこちらの様子を窺っているウロビトが見えた。そう、ウロビトばかりで、人間は一人として見受けられなかった。
 ただ、彼らの冷たい眼差しは自分やペリドットではなく、クロサイトとセラフィに向けられている様にギベオンには感じられた。武器を携えているから警戒されているのだろうかとも思ったが、そうであれば四人全員が剣なり鎚なりを持っている訳なので差は無い筈だ。不可解さを感じつつも巫女に呼ばれて広場の一角に設けられた茶席に足を運んでいると、櫓の隅の柱の影からこちらを覗き見ている少女と目が合った。巫女よりも年下だろうか、ウーファンに似た銀糸の長髪を揺らし、薄い紅色のワンピースを着ているその少女の目は、他のウロビトとは違って冷たさは無かった。かと言って好奇心とも違う様に思われてギベオンは声を掛けたかったのだがセラフィから早く来いと急かされてしまい、慌てて自分に用意された席へと座った。巫女の側には、クロサイトが拾った花冠が置かれていた。
「みんなはどうやってここに来たの?  普段は何してるの? どんなものを食べているの?
 わたしはいつもこういうのを食べてるよ」
 まずは助けてくれた礼を述べてから、用意された様々な果実を陶器に盛って勧める巫女が努めて明るい表情で尋ねてくる。その皿を受け取りながら、クロサイトが皿の上の丸い果実を手に取った。
「この果物は我々の住む街の近隣には無いものですね。後学の為に教えて頂きたい、これは何と言う果物で?」
「これ? 柘榴って言うんだよ。中の赤いのを食べるの。
 あなた、さっきそっちのお兄さんに先生って呼ばれてたよね? お医者様なの?」
「まあ、そうです」
「柘榴の樹皮は、喉が腫れた時に乾燥させたものをうがい薬に使うの。花も乾燥させて傷の手当てに使ったりするよ」
「ふむ……、それは良い事を聞きました」
「あとね、花もこの実みたいに赤いんだけど、草原の中に一輪だけ咲いた柘榴の花みたいだから、
 そのお姉さんみたいに周りは男の人だけど一人だけ女の人が居る事、紅一点って言ったりするんだ」
「ほう? 巫女殿は随分と博識でいらっしゃいますね」
「えへへ……ウーファンから教えてもらったんだけどね」
 巫女の後ろに控えているウーファンは、余計な事は何一つ言うなと制する様な視線でクロサイトを見ている。そんな彼女を考慮しているのかはたまた無視しているのか、ギベオンには分かりかねたが、クロサイトは巫女がやった様に柘榴を割って中から出てきた赤い果粒を口にしながら彼女との会話を楽しんでいる。自分が発言するとウーファンから怒られてしまうのではないかと思ったギベオンとペリドットは特に何か言葉を発する訳でもなく、黙って柘榴の果粒を摘んだ。赤く美しいその果粒は甘酸っぱい味がして、緊張の為に強張っていた二人の体を解してくれた。
「わたし、色んなことをウーファンに教えてもらったの。でも、ウーファンも知らないことがあるんだね。
 他の人間はみんな、もうずっと前に居なくなったって言ってたから、今日まで人間ってわたし以外に居ないと思ってたよ」
 クロサイトから褒められて嬉しかったのだろう、巫女ははにかむ様に笑ってから自分以外の人間に会えた事に対して嬉しそうにそう言った。巫女の世界は恐らくこのウロビトの里の中と、先程彼女が歌っていた広場の様な所くらいなものなのだろう。それではあまりにも狭すぎる、と、故郷からジャスパーに送り出され世界の広さを知ったギベオンは思ってしまった。
「人間ってもっといっぱい居るの? みんなの里にはどれくらい人がいるの?」
「どれくらい……
 そうですね、私達が住むタルシスという街はこの里より大きくて、この里に住むウロビトの方々よりも多くの人間が住んでいます。
 そこの彼女の里は陸路ですと何日もかかる程離れておりますし、
 そちらの彼の里に至ってはこの様な格好では生活が出来ない程寒いと聞き及んでおります」
 飽くまで物腰柔らかに話すクロサイトは、ウーファンの刺す様な視線など全く意に介さず巫女に微笑する。セラフィは相変わらず無言のまま柘榴ではなく赤いプラムを食べており、クロサイトと同じ様にウーファンを気にしていない様であったので、ペリドットも彼に倣ってプラムを口にした。柘榴も知らなかったが赤いプラムも知らなかった彼女は、酸味と甘味のバランスがとれているこの果実を気に入った。スモモという名の果実であるとペリドットが知るのは、まだ先の事である。
 巫女は、それからもクロサイトがゆっくりと話す見た事の無い世界の話に驚き、目を丸くし、頬を緩ませた。その表情は、この里に来てからずっと作り物の様に思えた彼女の表情とは打って変わって歳相応の子供の様に見えた。表情を作ったり無理に笑ったりする事は苦しいと身を以って知っているギベオンは、居た堪れない気持ちになる。親の前では常に緊張し、彼らが気に入る様な表情を作らなければ即座に暴力を振るわれていた彼は、タルシスに来てもう表情を作るという事をしなくても良くなってからというもの、本当に表情が豊かになった。だから、巫女も外に出してやればもっと子供らしい素直な表情を得る事が出来るのではないか、そう思った。
「すごいねぇ……みんなはそんな遠くから来たんだ。わたしも行ってみたいな」
 憧れる様に、夢を見るかの様に、思った事をつい口にしたのだろう巫女の言葉に、ギベオンは思わず呼応しそうになってしまった。連れ出してやりたい、外に出してやりたいと思ったからだ。だが、それまで黙って聞いていたウーファンがついに冷たい声で巫女のその小さな願いを封じてしまった。
「巫女よ、森の外に出るなどとんでもありません。外界は汚れで溢れています。この清浄な里こそあなたには相応しい」
 彼女の錫杖を持つ手は僅かに振るえ、怒りを抑えている様に見える。実際ウーファンは怒っているのだが、その怒りは全てクロサイトに向いていた。この中で巫女に話しかけていた唯一の人間、だからではない。もっと他の、大きな理由がある。
「人間よ、貴様はかつてこの地で起こった事を知っている筈だ。
 この巫女が神託……世界樹の声を聞くことが出来るただ一人の、真の人間であるとも知っているだろう」
「真の人間、とは?」
「白々しい……巫女は今も世界樹から神託を授かり、我らウロビトを導いてくださる。
 人間であっても貴様達とは違うと言った。忘れたとは言わせんぞ」
 ウーファンの言葉に、ギベオンもペリドットも漸く彼女とクロサイトが今までに何度か接触していたと確信した。クロサイトとセラフィはウーファンに助けられた事があると言ってはいたが、恐らく今の会話の内容はその際に聞いた事ではあるまい。険悪な、というよりウーファンからの一方的な嫌悪感を前に、ギベオンもペリドットも何も言う事が出来ず、クロサイトとウーファンが話しているところを口を挟まず黙っているしかなかった。普段のウーファンは本当にこんな風ではないのだろう、巫女はおろおろと今にも泣き出しそうで、不憫に思ったギベオンはしかし助け舟を出す事が出来なかったのだが、セラフィが黙って彼女の茶器を取り飲めと言う様に差し出したので、巫女は戸惑いつつも小さく会釈して一口飲んだ。セラフィなりに気を遣ったのだろう。
 そんな巫女を見て、ウーファンも流石に今の自分の姿が巫女を怯えさせている事に罪悪感を覚えたのか、何とか自らの怒りを鎮めようと深呼吸をした。
「……ホロウから巫女を守った事には感謝するが、巨人に背を向けた貴様達の祖先をウロビトは許す事が出来ない」
「それだけかね?」
「なに……」
「君が人間を……いや、私を毛嫌いしている理由はそれだけではあるまい? なにせ私は君の」
「黙れ! 貴様の言葉など聞きたくもない! もうこの里には二度と訪れるな!」
「ウーファン! やめて!」
 しかしやはりクロサイトの言葉はいちいち彼女の癇に障る様で、再度怒鳴ったウーファンは錫杖をまた地面に突き刺さんばかりに立てた。恐らくウロビトはその錫杖を使って封縛するのだろう。それを察したのか巫女が茶器を倒した事など意に介す事もせず、慌てて椅子まで倒す勢いで立ち上がって彼女を止めた。
「ひどいよ! みんなもわたしと同じ人間だよ? 違いなんて何も無いよ!」
「あなた様とこの者達は違います! 汚らわしい者達の言葉に耳を傾けてはなりません!」
 小さな体で長身のウーファンにしがみついて抗議する巫女は、今まで見た事も無い様なウーファンの姿に泣いていた。これ以上居ても何の会話も望めそうにないと判断したクロサイトは、セラフィに目配せをして立ち上がる。
「今日のところはこれでお暇しよう。巫女殿、私はあなたの従者にひどく嫌われている様だ」
「ごめんね、ごめんね……」
「いえ、悪いのは私の方なので。彼女には私を嫌うだけの正当な理由があります。
 それを彼女があなたに話してくれるか否かは私には分かりかねます。ですが」
「……?」
「私もこの者達も、あなたがいつかここから出られる様な努力を致しましょう。
 外界はウロビト達にとって確かに汚らわしいものであるかも知れませんが、
 清潔にばかりしている空間で育った者は少しの事ですぐに体調不良になる様に、
 あなたがこれから先、美しい女性に育つ過程で単なる風邪が大病になってしまう可能性も十分に有り得ます」
「それ以上口を利くな人間!」
「私は今巫女殿と人間としてではなく医者として話している。何か間違えた事を言っているかね」
「貴様……っ」
「いい加減にしてウーファン!!」
 クロサイトは、暗に巫女をこの里に閉じ込めたままにしておけば彼女が大人へと成長する中で、少しの変化が彼女の体に大きな負担となる事を懸念していると言っていた。ギベオンはこの年になるまで殆ど外へ出られなかった故に人との接触が未だに苦手であるし、見知らぬ人間から気さくに話し掛けられてもどうかすると思考が停止して何も言葉が発せられなくなる。人懐こい巫女はそんな心配は不要にも感じられるが、しかしクロサイトの言い分ももっともな事と思われた。この状態のまま、巫女が大人になれるとは鈍いギベオンでさえ考える事が出来なかった。
 巫女の叱責により退いたウーファンは、これ以上の会話は無用とばかりにギベオン達に里から出るよう言い渡してきた。従う他無い彼らは馳走になった礼を一応は述べて茶席を辞したが、有事の際に素早く対処が出来るセラフィがギベオンより前に出て幽谷と里との出入口である門に向かう途中、ギベオンは櫓の影からこちらを窺うウロビト達の中に先程の少女の姿を見付けた。少女は他のウロビトより明らかに動揺した表情で、巫女と同じく今にも泣きそうだ。こちらに駆けてくるのではないかとギベオンが思う程の切羽詰まった顔の少女に声を掛けたかったのだが、そんな事をしては更にウロビトからの顰蹙を買ってしまうし何をされるか分からない。ギベオンが少女から視線を離さざるを得なくなる直前、彼女は周りのウロビトに急かされる様に腕を引っ張られて里の奥へと連れられて行ったが、その少女に対しクロサイトが軽く手を挙げ挨拶をした様に見えたし、それを見た彼女はどこかほっとした顔を見せた。クロサイトは、否、彼とセラフィは随分と多くの事を自分やペリドットに黙ったまま幽谷に連れて来た様だとギベオンは思った。
「あの……、クロサイト先生」
「話はここを出てからにしよう。魔物がうろつく場所では気が休まらん」
 固く閉ざされた門を前に、閉め出された事よりもクロサイトとウーファンの言い争いに戸惑いながら遠慮がちにギベオンが口を開くと、クロサイトはぼさぼさの頭をガリガリと掻きながら鎚を肩に担いで幽谷から出る事を提案した。確かにあの花粉や胞子を飛ばしてくる花や茸、途中で見掛けた野牛の様な魔物が居る上に視界の悪いこの幽谷で腰を据えてゆっくりと話をする事は難しいだろう。
 滋軸に戻るのに変位磁石を使っても良かったが、ペリドットが見付けてくれた抜け道を開通する為に現在地を把握しているセラフィの先導でその場所まで行き、ギベオンが鎚で細い木をある程度薙ぎ倒しセラフィが短剣で通りやすい様に足元の草を刈った。ただ、そこに群生していた黄色い花は目印として残しておいた。そうやって作った通り道はギベオンが体を縮こまらせ、且つ中腰で潜り抜けなければならない程の幅であったから、先に潜り抜けたクロサイトが白衣についた草を払いながら後に出てきたギベオンにそれ以上体積が増えると通れんぞ、と無駄に威圧感のある声で暗にそれ以上太るなよと言ってきたので、彼は素直に、しかし叱られた子供の様な顔で頷いた。



 幽谷の外に出る頃には、日はゆっくりと世界を夜へと誘う為に西へと向かっていた。ただまだ明るい事に変わりはなく、またクロサイトがタルシスに戻って話すよりも気球艇の側に腰を下ろす事を選択したので、ギベオン達は彼に倣ってその場に腰を下ろした。
「想定内と言えば、そうだったな」
「……巫女が出てきた事以外はな」
「まさか出てくるとはな。彼女ももう外に出たがる年頃だろう」
「……そうだな」
「あの、クロサイト先生にセラフィさん、いい加減僕達にも分かる様に説明して頂けませんか」
 そしてウーファンから閉め出される事など元から分かっていたかの様に話すクロサイトとセラフィに、ギベオンはやっと尋ねる事が出来た。ペリドットも彼と同じで、置いてけぼりを食らった様に拗ねた顔をしている。そんな二人を見て僅かな時間沈黙したクロサイトとセラフィはちらと横目でお互いを見て説明する役を瞬時に決め、セラフィは口を閉ざしクロサイトは開いた。



 ――さて、どこから話したものかな。私とフィーが石林に来た時からにするか。
 十年近く前の事だが、碧照ノ樹海で私達がベルゼルケルを倒してフィーが大怪我をした事は二人共知っているな。その傷が癒えてから、二人でこの丹紅ノ石林に来たんだ。まだ気球艇はそこまで高度を上げる事が出来なくて、先にこちらまで来ていた他の冒険者達が崖上に深霧ノ幽谷を発見していたんだがそこまで辿り着く事は出来ていなかった。さてどうするかと気球艇から降りて二人で思案している時に、崖下の雑木林……ここの下にあるあれだな、そこで首を吊ろうとしている女性を見付けたのだ。咄嗟にフィーがナイフを投げて縄を切って、私が受け止めたんだが、何と言うか、以前のペリ子君の様な体型の女性でな。情けないが私が潰されてしまった。……怪我? まあ、それなりに負ったが、そんな事はどうでも良いだろう。
 彼女を助けたは良いが何故こんな所に居るのか、家はどこかを尋ねても泣くばかりで要領を得なくて、仕方なく一旦タルシスに連れ戻った。診療所で事情を聞いたら深霧ノ幽谷に住む者だと言ったから、詳しい話を聞かせてもらったのだ。そして、ウロビト達の事や世界樹の事も聞いた。
 世界樹の麓にはかつては多くの人間が住んでいて、彼らが世界樹の世話の為に多くの種族を創造したらしくてな。その内の一つがウロビトなのだそうだ。世界樹の恩恵を受け、平和な時代が続いていたのだが、天にも届くような巨人が突如姿を見せて世界樹を隠してしまったらしい。
 世界樹からの恵みを失い、多くの生命が失われ、人間は巨人を恐れ逃げ出したがウロビトの様な創られた者たちは力を合わせてどうにか巨人を討ったそうだ。そうして世界樹は再びその姿を世界に現し、ウロビト達は今でも世界樹を崇めながら幽谷で暮らしている……そういう事らしい。
 彼女を連れ帰って騒ぎにならなかったか? ならなかったよ、彼女は人間だったからな。いや……、正確に言えば人間とウロビトの混血でな、人間の血が濃く出たそうなのだ。それで里のウロビト達からは疎まれて、ああ、そうだな、ベオ君と同じでストレスで太ってしまったらしい。その当時の私も若かったものだから憤ってしまって、どうせ死ぬなら痩せてからにしたらどうだ、もう少しがんばってみないか、死ぬのはそれからでも遅くないと――うん? ああそうだ、ガーネット君だよ。縄を括り付けた枝が折れたと言っていた? そうか、彼女はそう思っているのか。訂正してやった方が良いかな……
 話が逸れたな、すまない。それで、どうしてもウロビトと話がしたくてガーネット君から瘴気の森に藍夜の石があると聞いて、気球艇の高度が上げられないかと思ってフィーと二人で出向いたら案の定瘴気にあてられて倒れてな。その時にウーファン君が助けてくれたのだ。どうやら彼女はガーネット君を探しに幽谷から出てわざわざ崖下の瘴気の森まで来ていたらしい。後から分かった事だがウロビトが幽谷から出て崖下に降りる事は滅多に無くて、危険を伴う事であるそうだ。彼女は本当にガーネット君を心配して探しに来ていたのだな。
 ウーファン君とガーネット君かね。ガーネット君の母親がウーファン君の母親の姉だそうだから、従姉妹にあたる。ウロビトが敵視している人間とどういう経緯があったのか不明だが結ばれてしまったウロビトとの間に生まれたガーネット君は、随分と里の者達から迫害されていたそうだ。両親が里から追放され、子に罪は無いからと里に留まる事を許されたものの外に殆ど出して貰えず、そのストレスでかなり太ったそうだ。そんなガーネット君の唯一の話相手になってくれていたのが、年の近い従妹のウーファン君だったそうでな。人間としての血が濃く出たガーネット君に、ただ一人優しく接してくれたのが彼女だったらしい。
 だがそれでもガーネット君はつらかったらしくて、死にたかったそうだ。里で死ねばウーファン君が悲しむだろうと、人目を盗んで飛び出して、首を吊ろうとしていた所にたまたま私達が通り掛かったらしいのだな。里に帰ればウーファン君にも他のウロビトにも迷惑が掛かる、このまま人間としてタルシスで生きたいとガーネット君が言ったから、私は彼女を風馳ノ草原で行き倒れていた身寄りの無い旅人として保護する事にして、君達の様にまず標準体型にする為の治療をすると約束していたのだ。
 その旨を伝えると、ウーファン君はひどく怒ってな。貴様達人間は私の伯母だけでなく私の大事な友であり姉であり同胞である者を奪うのかと詰られた。そう、彼女が今日あれ程怒ったのは人間に自分の大切な者を奪われたと思っているからなのだ。否定も出来ぬから黙っていると半年に一度で良いから里帰りしてくれと伝えろと言われて、それ以来半年に一度、私とフィーが付き添って彼女を里へ連れて行っている。……ああ、そうだ、君が以前明け方に私達を見たのはガーネット君を里へ連れて行った帰りだよ。先月は流石に私だけで行った。フィーが仕事でもないのにペリドット君を一人寝させる訳にもいかんしな。
 夜に行くのは、深夜だと辺境伯にもばれにくいし、他のギルドの面々にも見付かりにくいからだ。幸い、幽谷は霧が深いし危険な魔物も多いから訪れる人間も疎らでな。だがまあ、辺境伯にもそろそろ気付かれている様だし、いくら緩いと評されていてもそこまで目は節穴ではないからな、あの御仁も。


「――私が話せるのはこんなところだ。納得して貰えるかね?」
「……ちょっと……にわかには信じがたいですけど……というか色々情報が詰まり過ぎてて……」
 時折質問を交えつつじっとクロサイトの話を聞いていたギベオンは、今にもパンクしそうな頭を途方に暮れた様に抱えた。彼より要領の良いペリドットも同じく、口元を手でおさえて難しい顔をして黙っている。
 ウロビトと人間の事、かつて世界樹を襲った異変、その後の事も勿論驚くべき事柄ではある。が、ギベオンとペリドットにとってはあのガーネットがウロビトと人間の混血であるという事の方が衝撃的だった。彼女はどこからどう見ても人間であるし、ウロビトの様な異様な細さはどこにも見受けられない。褐色の肌は恐らく人間の父親から受け継いだものなのだろう。半年に一度の彼女の里帰りに付き添っていたなら、幽谷に入った時のクロサイトとセラフィの見知った土地を歩く様な態度も得心がいった。
 そしてウーファンが極端に人間というよりもクロサイトを敵視している理由を知った二人は、だから彼女があんなにも巫女を守る事に必死なのだと気が付いた。ウーファンはきっと巫女までも奪われてしまうと思っているから、巫女に対して外に出られる様な努力をすると言ったクロサイトを激しく詰ったに違いない。気持ちは分からないでもないが、しかし巫女は一個人でありウーファンの所有物ではないから、外に出たいと言う巫女の小さな願いを叶えてやりたいとギベオンもペリドットも思った。
「追々理解してくれたらそれで構わんし、そもそも君達はこの問題に関わる必要は無いしな。
 私の仕事はウロビトとの交渉だから、世界樹云々は正直どうでも良いのだ」
「でも……」
「あれは冒険者が目指すものであって私が行かねばならぬものではない。
 今回の交渉は失敗したがあちらが感情的になったから決裂した様なものだし、地道に働きかけるさ。
 それから先の事は私は関知しない。する必要が無い。君達もだ。良いな」
「………」
「返事は」
「……はい」
「よろしい」
 しかしクロサイトは飽くまでも外交官としてウロビトとの交渉は継続するが、それ以上の事には関わらないと断言した。何故彼がそこまで頑なに先へ進む事を拒むのかギベオンにもペリドットにも分からなかったけれども、セラフィも沈黙したままクロサイトに従う様な態度であった為にそれ以上の抗議の声は上げられなかった。
 そもそも、ギベオンはクロサイトの単なる患者でしかない。ペリドットだって元ではあるがそうであったし、彼ら二人は冒険者ではない。だから櫓の向こうに見えた、下へと続くのだろう階段を降りる必要はクロサイトが言う通り無い。だが巫女をあのままウロビトの里に閉じ込めておく事も、ガーネットが半年に一度しか帰れない事も、ウーファンがクロサイトを憎んだままである事も、そのままにしておいて良いとは二人共思えなかった。
 そしてギベオンはもう一つ、里に入った時と出る時に見たウロビトの少女の事も気になった。明らかにクロサイトを見、彼も僅かではあるが手を挙げ挨拶をした様に見えた彼女は、きっと何らかの事情を抱えているに違いないのだ。その事を尋ねようにももうこの話は終わったと言わんばかりに腰を上げ、流星錘をストレッチの為の道具替わりに両手で持って伸びをしたクロサイトと、無言のまま立ち上がって気球艇の籠のドアを開いたセラフィには何も言う事が出来なかった。
 そんな二人の背を見てから顔を見合わせたギベオンとペリドットは、示し合わせたかの様に深霧ノ幽谷を振り返る。美しい緑が赤く染まりだした夕焼けを反射して生い茂っている木々の向こうに、人間を拒んで営みを続けるウロビト達が居る。クロサイトの言う交渉は、飽くまで事務的に里を通って先へ進む事の許可を貰う事だ。果たしてそれで良いのかと、ギベオンは思う。分かり合う事は難しいかも知れないが、理解し歩み寄る事くらいは出来る筈だ。彼は視線の先の幽谷から微かに吹いてくる湿った風を掌の上に滑らせると、帰るぞ、と言ったセラフィに返事をして幽谷にその大きな背を向けた。気球艇に先に乗ったクロサイトは、相変わらず気球艇の縄を持って白衣のポケットに空いた手を突っ込んでいた。