丹紅ノ石林からタルシスに戻る頃には、既に日は暮れていた。昼間は活気溢れる広場も人は疎らで、孔雀亭が賑やかになる時間帯だ。噴水の側で涼んでいる者も居れば足早に帰途につく者、樹海から持ち帰ったものを工房へと持ち込もうとしている者、様々な人間の姿が見える。その広場から伸びる数本の道の中の診療所の方面に向かう道へ足を向ける前に、クロサイトは立ち止まってギベオン達に言った。
「先に帰っていてくれるかね。私は辺境伯に報告しに行く」
 鎚をセラフィに渡し、広場のすぐ側に建つ統治院の方を見遣りながら少々億劫そうに言ったクロサイトは、意図的に詳しい話を自分達に聞かせない様にしている風にも見えた。
「同行しても良いですか?」
「何故?」
「確かに僕達には関係の無い事かも知れません。でも、関わった以上は知らないところで話が進むのは嫌です」
 ギベオンは勿論、ペリドットも辺境伯には見えた事が無く、どんな人物であるのかは知らないのだが、タルシスの住民からは慕われている良い領主であるという事は知っている。その辺境伯を随分と待たせたクロサイトが今日の報告をしたらどんな反応を見せるのかという純粋な好奇心もあったのだが、それ以上にギベオンは知らぬまま事態を進められるのが嫌だった。クロサイトが何故あの幽谷に必要以上に干渉したがらないのかを知るまで、ギベオンは引き下がるつもりは無かった。
「……ふむ、君も少しは自分の意見を言える様になったか」
「はぐらかさないでください」
「はぐらかしているものかね。仕方ないな、ついて来ると良い」
 その申し出に対して感心したかの様にクロサイトが言った言葉に、ギベオンは珍しく眉根を寄せた。人の顔色を常に窺ってしまう癖がある彼は眉を顰める事が滅多に無い。その表情を見せた事にも感心したクロサイトは、しかしそうとは顔に出さずに肩を竦めて同行を許可し、セラフィに預けた鎚を再度自分で持ち、肩に担いだ。セラフィは基本的にクロサイトの決定に対して口を挟まないから、この時も黙ったままだった。
「久しぶりだな。今日深霧ノ幽谷に行ったんだって?」
 その時、広場の噴水の縁に腰掛けていた男がこちらに気がついたのか、気さくな表情で歩み寄ってきた。少々眠たそうな顔、少し癖のある短い髪のその男は、ギベオンとペリドットが初めて森の廃坑を訪れた時にクロサイトに声を掛けてきた男だ。名は、ワールウィンドであったとギベオンは記憶している。
「私達が戻ってくるのを待っていたのかね? 随分とタイミングが良すぎるな」
「そう警戒するな。十年近く沈黙してた君達兄弟が幽谷に行ったのは俺だって気になる」
「君も何度かあの里の前まで行ったと聞いているが?」
「意地悪な事言うなよ、その度取り合って貰えなかったってのは知ってるだろ?」
 クロサイトは、ワールウィンドが言った通り警戒している様にギベオンには見えた。彼とペリドットが二人でクロサイトに連れられて碧照ノ樹海に足を運んでいた頃にワールウィンドの姿を時折見かけたが、クロサイトは特に声を掛けるという事をしなかったからそんなに親しいという訳でもなさそうで、だから今の様に軽薄に話す間柄とは思っていなかった。ペリドットがちらと隣りのセラフィを窺ったがやはり彼は黙っていて、クロサイトと同じく少し警戒している様にペリドットには感じられた。悪い人ではなさそうだけど、とペリドットは思ったけれども、彼の後ろに隠れる様にクロサイトとワールウィンドの遣り取りを見た。
「今から辺境伯に報告しに行くから、何なら君も来ると良い。
 どうせあの御仁から私達の復帰を持ちかけるように再三言われていたのだろう?」
「おっと、分かっているなら話は早いな。じゃあ、同行させて貰おうかな」
 朗らかな表情で、しかし尚も食い下がるワールウィンドに折れたのか、はたまた話し掛けられた時からそのつもりであったのか、クロサイトは噴水の向こうの統治院を見遣りながら同行を許可した。ワールウィンドもまた、辺境伯と付き合いが長い冒険者であるらしい。森の廃坑で採れる虹翼の欠片が気球艇の燃料になると助言した人物であるならばこの街に冒険者が多く集う様になった切っ掛けを作った男でもあるだろうし、そんな冒険者を好奇心の塊の様だとギベオンやペリドットに思わせる辺境伯はクロサイトの様に付かず離れずでタルシスに留めておくだろう。
「ああ、それはそうと、君ら結婚したんだってね。お祝いが遅れてごめん、おめでとう」
「え? あ……、有難う御座います」
「国に姪が居るんだけど、あの子もそろそろ嫁さんに行く様な年頃だろうなあ」
 連れ立って統治院へ行く途中、ワールウィンドが思い出したかの様に自分達を振り向いて祝いを言ってくれたのだが、まさか殆ど話した事も無い彼から祝いの言葉を貰えるとは思っていなかったペリドットは反応が遅れたものの礼を言った。そんなペリドットを見てワールウィンドは頬を緩ませ、随分と長い事会っていないのだろう姪を思い出したのか、懐かしい思い出を手繰り寄せる様に目線を空へと向ける。薄雲がかかった夜空はそれでも星が見え、明日も晴れそうだった。
「姪御さんがいらっしゃるんですか? おいくつですか?」
「えーっと……いくつだったかな……、今年二十四歳だったはずだけど」
「ほう、ベオ君とほぼ同じくらいか。君にそんな大きな姪御君が居るとは思わなかったな」
「兄と俺は八歳違いだったからね。俺と違って真面目な人だったよ」
「明日も知れない冒険者にもならず、か?」
「相変わらず手厳しいなあ。まあ、そうだよ」
 ペリドットの質問の回答に対しクロサイトが意外そうな声を上げたので、付き合いはそれなりに長いが身の上話をする程の間柄でもない、とペリドットは解釈する。タルシスに嫁いできた以上は交友関係を知っておくに越したことはないのだが、それにしてもセラフィもクロサイトも友人らしい友人が居ない様であるから、こうやって気さくに話しかけてくるワールウィンドは珍しい部類に入った。そんなワールウィンドは、セラフィの間髪入れない質問に苦笑する。
「気の強い子だったけど、君みたいな可愛い女性になってたら良いな。また今度、改めてお祝い持って行くよ」
「私達にお祝いより、姪御さんにお手紙の一つでも出してあげてください。
 この街にいらっしゃって長いとお見受けしますし、お兄さんも心配なさっているんじゃないですか?」
「……こりゃまた、はっきり物を言うお嬢さんだ。参ったな」
 この話はもうおしまいとでも言う様なワールウィンドに対してペリドットが言った言葉に、彼は呆気に取られるやら困るやらの顔で頭を掻く。いつも控え目なペリドットが殆ど話した事も無い相手に率直に言うのは珍しく、セラフィも意外そうな顔をした。ペリドットはギベオンとは異なり家族は母しか居ないが仲は良かったので、そんな懐かしむ様な顔をするのであれば便りの一つくらい出せば良いのにと思ったのだ。
「出したくても、国は手紙が届くかどうかも分からないくらい遠いからね。それと、兄は事故で亡くなっているんだ」
「あ……」
「本当に、俺と違って真面目で誠実な人だったよ。……長く生きて欲しかった」
「………」
「おっと、ごめんごめん。悪かったね、辛気臭い話しちゃって」
 遠くの故郷を思い出しているのか、それとも故人を偲んでいるのか、それはギベオン達には分かりかねたが、ワールウィンドが目を伏せがちにして呟く様に漏らした言葉に全員沈黙した。この街では身内が死んだなどという人間はざらであるから彼一人が特別な訳ではないけれども、辛さや悲しさ、恋しさを孕んだその声にはクロサイトも沈黙してしまった。そんな重苦しい空気にはたとしたワールウィンドはぱたぱたと手を振って今度こそこの話は終わりという様に笑った。その笑みが作っている様にギベオンには見えた。



 統治院の入り口の近衛兵に報告に来たとクロサイトが告げ、通された執務室は、緑を基調としたカーテンが美しく映える清潔で広々とした部屋だった。そしてクロサイト達を迎え入れた部屋の主でありこの統治院の主であり、タルシスの主である辺境伯もまた緑を基調としたジャケットを着用し、腕に小さな白い犬を抱いていた。
 ギベオンもペリドットも彼とは初対面で、特に統治院に入る前に私は踊り子ですからと入館を辞そうとしたペリドットは辺境伯は身分ごときで人を拒絶しないと手を引いてくれたセラフィの後ろに隠れていたのだが、席を勧められては隠れる事も出来ずただ恐縮して縮こまって座っていた。ギベオンも領主という身分の高い者に謁見する機会は無かった為に彼女と同じ様に大きな体を縮ませて、出された茶を啜っていた。しかしセラフィが言った様に執務室で出迎えてくれた辺境伯は初対面のギベオンやペリドットに対しクロサイト君からよく聞いているよと朗らかに笑ってくれたし、ペリドットには君達の結婚の時はお役に立てた様で良かった、おめでとうとも言ってくれた。世の中にはこんな領主も居るのだと思ったペリドットは、故郷の元許嫁を思い出して何とも言えない気持ちになった。
「なるほど、そんなことが……
 深霧ノ幽谷にウロビトなる種が暮らしているのは分かっていたが、まさか代表が年端もいかぬ人間の少女である、とは……」
 執務机の椅子に座り、犬を膝に乗せてクロサイトからの報告を聞いていた辺境伯は、まるで新しい秘密基地でも作った少年の様な表情を見せた。本当にクロサイトとセラフィの報告を心待ちにしていたのだろう。否、ワールウィンドもこの街で長く冒険者をやっているので彼の成果も勿論待ってはいたのだろうが、クロサイトとセラフィは碧照ノ樹海に巣食う獣王を倒し風馳ノ草原と丹紅ノ石林を結ぶ谷を見事開通させたという実績がある。しかも気球艇の高度を深霧ノ幽谷に入れる程にする藍夜の破片を瘴気の森から持ち帰ったのだ、期待せざるを得ないだろう。
 クロサイトは、今まで辺境伯にもワールウィンドにも言っていなかったウーファンから聞いたほぼ全てを話した。ガーネットがウロビトと人間とのハーフである事や彼女が定期的に里帰りしている事、その里帰りに自分達が同行しているという事は話さなかったのはギベオンもペリドットも当然だと思う。
ウロビトに伝わる歴史は人間には伝わっていないものであり、また彼らが人間を拒む理由たらしめるとも言えた。クロサイトが語る話に段々と表情を険しくし、顔の下半分を手で覆ったワールウィンドの目は先程の温かみが無くなり、冷徹そのものになっている。隣に座っているギベオンはその目に少し怖気づいたが、彼が口元を覆ったまま世界樹の話がそういう風に伝わっているのか、と呟いたのを確かに聞き、頭上に疑問符を浮かべてしまった。まるで世界樹にまつわる話を元から知っている様な口ぶりだったからだ。
 クロサイトの話を聞き終わり、ワールウィンドと同じく口元に白い手袋を嵌めた手をやり何かを考えていた辺境伯は、おもむろに執務机の抽斗から何かを取り出してペンで何かを書き始めた。そして、クロサイト達の方を見ずに視線を机に向けたまま言った。
「そのウーファンという女性が語った歴史は大変興味深いが、現状は分からぬ事が多すぎる。
 私としては引き続き、君達にウロビトとの交渉を続けて欲しい」
「それはご命令で?」
「ミッションと言いたまえ」
 辺境伯の言葉にクロサイトが抑揚のない声で尋ねると、辺境伯は楽しげに返事をした。クロサイトが先代の主であった医者のバーブチカから診療所を継いだ時、まだ若いのではと難色を示す病院の者達に、バーブチカ君が託したのであれば大丈夫だろうとあっけらかんと言い放ったのはこの辺境伯だ。単なる楽観主義者ではないし人を見る目は十二分にあり、また人の扱いには長けている辺境伯に魅力を感じ長く仕えている者が多く、クロサイトやセラフィも言わないがその内の一人である。何だかんだで今日まで統治院の職員として所属しているのだから世話がない。辺境伯は自分達が夜中に深霧ノ幽谷を訪れている事は勘付いているだろうとクロサイトは思っていたが、その事について辺境伯は一切何も言わず、何か事情があるのだろうと踏み込んで尋ねてこなかった彼は天然の人誑しであるに違いなかった。
 再度抽斗を開け、取り出した封筒にたった今書き終えた書状を四つ折りにして封入し、執務机の後ろに世界樹を模しているのであろうオブジェを照らす蝋燭からワックスの芯に火を点け封筒に蝋を垂らしてから印璽を押すと、辺境伯は膝の上に乗せている犬を片手で抱えて立ち上がり、立ったまま手を後ろに組んで待機していたクロサイトにその封筒を寄越した。
「今回、君に……いや、諸君に発令するミッションは極めて重要なものだ。この親書を巫女に届けて貰いたい」
「巫女に届ける前に門前払いをされそうですが?」
「根気強く持ちかける事が諸君に課せられたミッションだろうに。
 ……分かっている、我々には伝えられておらぬ何かが彼らと人間の間にあった事は。
 だが、その関係は本当に修復不能なものなのか……その可能性を諸君に測って貰いたいのだ」
「………」
「君の事だ、元から交渉は続けてくれるつもりだったのだろう? それ以降の事はともかくとして」
 差し出された封筒を目を細めて半ば睨むように眺めるクロサイトに、辺境伯は彼の考えを先読みした様に口髭に隠れる口角を上げて見せる。確かにクロサイトは奥に進む為に交渉は続けると言ってはいたが、ウロビトとの交流を可能にする事までは面倒をみるつもりはなさそうであったから、その親書を拒否するのではないかとギベオンはひやひやしていた。否、別に彼がそんな心配をしたところで何が出来る訳でもないのだが。
「……分かりましたよ、お受けします」
「そうこなくては! 世界樹への探索も重要だがこのミッションはそれ以上の意味を持つ、頼んだぞ」
 しかしそんなギベオンの心配をよそに、クロサイトが苦い溜息を吐きながらそのロイヤルブルーの封筒を受け取ると、辺境伯は上機嫌な顔を見せ激励する様に肩をぽんぽんと叩いた。兄の決定に対し何の口も挟まなかったセラフィはそこで漸く冷えきった茶に口を付け、反対する意思は無い事を示していた。ギベオンもペリドットも何となくほっとしたものの、先程まで厳しい目をしていたのにクロサイトが引き続き交渉を続けると聞いてしてやったりといった風に口元を緩ませたワールウィンドに、ギベオンはやはり首を傾げるばかりであった。



「――そう、里に行ってきたのね。静かなところだったでしょう?」
「はあ……、静かと言うか、誰も寄ってきてくれなかったと言うか……」
 雨が降り出してしまったせいかいつも賑わいを見せる孔雀亭には客が少なく、ギベオンはカウンター席にゆったりと座っている。深夜であるにも関わらず彼が飲酒しているのは、明日は幽谷に行かずに休息日にするとクロサイトが言ったからだ。巫女への親書を届けようにも昨日の今日ではあちらも頭が冷えきっていないだろうというのが彼の意見であり最大の理由であったが、今後頻繁に深霧ノ幽谷を訪ねる事になると決まってしまったので診療所を長く空けてしまうと見越し、タルシスには数件ある診療所の他に病院も存在しており、その病院に勤務する他の医師達に診療所近辺で自分をかかりつけ医としている住民や隣接する宿屋に宿泊する冒険者達の対処を頼みに行ったりせねばならないからと、本格的な下準備をする為の日にするつもりらしい。なのでギベオンは明日完全にオフであり、朝遅くに起きても特に咎められる事は無いので酒を飲みに来たのだ。ついでに、ガーネットと話をする為に。
「あの人達は基本的に人間を嫌っているから。私の両親も、結局はそれで追放されちゃったし」
「追放された後は……」
「さあ、死んだんじゃないかしら」
「………」
 洗ったグラスを丁寧に拭いて曇りが無いか明かりに透かし、満足いく仕上がりになったのだろう、ガーネットはそのグラスを棚へと戻す。クロサイトから事情を聞いたと伝えた彼女があっさりと両親の生存を期待していない事をさも当然の様に言い放ったので、ギベオンはどう反応して良いか分からなかった。確かに危険な魔物が蔓延っているあの幽谷で生きていくのは難しいであろうし、外に出たとしても厳しい条件下である事に変わりは無い。
「あら、ごめんね、折角のお酒が不味くなる様な話しちゃって。
 何にせよ気を付けて行ってちょうだい、ウロビトは封縛を得意としているから」
「封縛?」
「方陣を張って一時的に手足を使えなくしたり、印術を使えなくするのよ。
 そうね、具体的に言ったらペリドットちゃんが踊れなくなる様にしたりとか、ギベオン君が鎚に放電出来なくなる様にしたりとか。
 クロ先生が手当て出来なくなったりもするかもね」
「ひ、ひえぇ……」
 ウーファンが再三地面に突き立てていたあの錫杖でその方陣とやらを張るのであろうが、しかしそんな凶悪なものであるとは思っていなかったギベオンは傾けかけていたタンブラーに口を付ける事も忘れ大きな体をぶるっと震わせた。こんな会話をしていれば他の冒険者達から聞き耳を立てられそうなものであるが、ウロビトという種族を知っている者は少ない為にそこまで神経を使わなくても良いらしい。ただ、ガーネットはそのウロビトの血を引く者である為に用心するに越したことは無く、普段よりは小声で話した。
「……あ、そうだ、ガーネットさん、クロサイト先生ってガーネットさん以外で親しいウロビトの方とかいらっしゃるんですか?」
「え? なに、突然」
「里でウロビトの女の子が僕達を見てまして……追い出される時にクロサイト先生がその子に手を振っていたものですから」
「……銀の長髪で薄紅のワンピース着てた?」
「あ、そうです、多分その子です。こう……こっちの目が隠れてる……」
 小腹が空いたのか、自分用にライ麦パンを薄切りにしたものにサワークリームとタルシス水牛の燻製肉を乗せたものをカウンターの向こうでしゃがんで食べ、すぐに立ち上がったガーネットにギベオンはふと思い出して尋ねた。左右がすぐに分からずギベオンが自分の右目を手で隠して示すと、ガーネットは微妙な顔をしつつも頷く。
「その子、私の親族なの。
 以前私が里帰りした時にちょうど熱を出しててね、付き添いで来てくれてたクロ先生に診て貰ったのよ。
 ウロビトにも勿論お医者様は居るけど、夜中だったから起こすよりはクロ先生に診て貰った方が早かったから」
「あ、それで他のウロビトの方みたいな態度じゃなかったんですね」
「話したの?」
「いえ、櫓の柱の影から僕達の方を見てただけなんですけど。
 他のウロビトの方達は迷惑そうな顔してたのに、その子はどちらかと言うと話し掛けたそうにしてたので……
 じゃあ、あの子はクロサイト先生に懐いてる訳なんですね?」
「……そうね。かなりの高熱だったけど、助けてくれたから」
 なるほど、あの少女にとってクロサイトが恩人であるならば、ウーファンの二度と里に来るなという言葉を悲しむ理由も分かるというものだが、いつもと違うガーネットの歯切れの悪さはギベオンに違和感を抱かせた。それだけではない様な、まだ何か隠し事があるのではないかと勘繰ってしまう程その時のガーネットは意図的にギベオンから視線を外し、マドラーを指で弄っていた。
「まあ、何にせよ気を付けてね。ウーファン相手なら長期戦を覚悟した方が良いわ。あの子、優しいけどとっても頑固だから」
「僕じゃなくてクロサイト先生が頑張ると思いますが」
「交渉人の警護は騎士がやらなきゃね。セラフィ君一人じゃ、多分厳しいわ」
「はあ、お役に立てるか分かりませんけど頑張ります」
 話を元に戻したのか、それとも逸らしたのか、ガーネットは弄っていたマドラーを振りながらギベオンに応援の言葉を掛けた。まさかこんな事態になるとは思っていなかったギベオンは、しかし不謹慎にも僅かに心が踊っている事には気付かぬふりをし、薄くなりかけているジン・バックを口に含んだ。ジンジャー・エールの炭酸の気がそこそこ抜けてしまっており、もう少し早めに飲めば良かったと思った。



 再び訪れた深霧ノ幽谷は相変わらず霧が深く、碧照ノ樹海に比べて人が少なかった。丹紅ノ石林に存在する小さな迷宮を探索する冒険者は多く、霧に覆われている上に構造が複雑すぎて迷う事が多い幽谷より人喰い蛾の庭にある開かずの間をどうにかして開けようと挑みに行く者の方が多いらしい。その扉に辿り着くまでに幽谷にも生息する大きな鉤爪を持った蛾が随分と蔓延っているそうなので、危険度としては大して変わらないとクロサイトは言った。水場が無いだけ人喰い蛾の庭の方がマシだとセラフィは言ったが。
 前回訪れた時に比べ、遭遇する魔物はある程度分かっていたのでギベオンもペリドットも比較的素早く対処が出来た。ペリドットは弓を好んで使っている為、奇襲をかけられた時は側に居るセラフィかギベオンがすぐに彼女を庇う。そして、彼らの後ろから弓を射るのだ。的当ての練習には投擲ナイフを得意とするセラフィが気の済むまで付き合ってくれるので、外す事も少なくなった。ナイフと矢では勝手が違うからセラフィが教える事は無かったが、毎日の練習に付き合ってくれたお陰で役に立てている。日々の鍛錬は大事だねと、時折クロサイトに稽古をつけて貰っているギベオンはペリドットとしみじみと話したものだ。
 ペリドットが前回見付けて開通させた抜け道を通ると、随分と早くウロビトの里の近くまで辿り着く事が出来た。セラフィが嫌う池の側すら通らなくて良くなったからか、彼は自分の後ろから中腰で抜け道を潜ったペリドットに手を貸し、立ち上がった彼女の肩をぽんぽんと叩いた。側に居る様になってまだ数ヶ月しか経っていないが、それが彼にとって礼の意味が籠められていると知っているペリドットは本当にこの人水場が嫌いなんだなあと思った。
 しかしそんな呑気な考えはウロビトの里の門の前で吹き飛んだ。セラフィはクロサイトを振り返ったし、振り返られたクロサイトも怪訝な顔をして門を見遣る。――前回居た門番が居ないのだ。その上、門が僅かに開いている。里の守りを緩めないウロビトにしては不用心すぎるとクロサイトもセラフィも思ったが、開いた門の隙間から何か怒号の様な声が聞こえた瞬間ギベオンやペリドットよりも速くクロサイトが門を開けた。そして、目の前に広がった光景に全員が息を呑んだ。
「なんだ……これは……」
 全員が思った事を代弁する様に、クロサイトが呟く。彼らの視線の先には傷つきゴザの上に横たわっている多くのウロビトが、破壊された家屋に囲まれて痛みに呻いていた。忙しなく動き回り、怪我人の手当てをするウロビト達は誰も彼らを気にしていない。そんな余裕が無いのだろう。呆然としているギベオンやペリドットをよそに、クロサイトは怪我人を一通り素早く見回してからすぐさま手当てが施されていないウロビトの側まで駆け寄ったのだが、その後姿を見てそうだあの人医者だった、と今更な事を思いギベオンは微妙な顔をしてしまった。最近鎚を持って魔物を倒しているクロサイトの姿ばかりを見ていたものだから、魔物からの攻撃を上手くかわせず怪我をすると手当てを受けている身だというのにギベオンはうっかりその事実を失念していたのだ。
 クロサイトから怪我の手当てを受けるウロビトは彼の姿に驚き抵抗しようとしたのだが、怪我をしている時くらいは黙って医者の言う事を聞きたまえと彼から叱責されおとなしく従っていた。セラフィは何も言わずにクロサイトの手伝いをし始めたし、ペリドットもそれに倣ったので、彼らがウロビトの手当てをしている間に何か情報を探ろうとしたギベオンはそこではたと先日目が合った少女の事を思い出した。あの子は無事だろうかと思うより早く探す為に歩き出した彼は、櫓の下に見知った顔を見付けてあっと声を上げた。ワールウィンドが居たのだ。
「ワールウィンドさん!」
「……君らも来たか。俺もついさっきここに着いたばかりなんだが……ひどいもんだろ?
 俺みたいな不審人物がお咎め無しでウロウロ出来るんだから、かなり混乱してるみたいだな」
 思わず歩み寄ってしまったギベオンに、整えていない頭をガリガリと掻いたワールウィンドはとぼけた口調でそう言ったが、何を考えているのかは読み取れなかった。統治院でクロサイトの報告を聞いていた時もそうだが、何らかの事情を知っているのにこちらに何も話していない様な、そんな印象をギベオンは受ける。クロサイトやセラフィが警戒する素振りを見せる筈だ。
 しかし、今はワールウィンドよりも気になる事があるギベオンは単刀直入に彼に尋ねた。
「あの、ワールウィンドさん、怪我人の中に女の子は居ませんでしたか?」
「女の子? どんな?」
「えっと……髪の色が銀で腰まであって、……こっちの目が隠れてる……まだ本当に小さい子なんですけど」
「髪の毛結んでる?」
「結んでないです」
「うーん、俺は見てないな。その子がどうかした?」
「いえ……ちょっと気になったので」
 先程来たばかりであるならワールウィンドが見ていないだけかも知れないが、どうやらあの少女は怪我人には含まれていないらしい。その事にほっと胸を撫で下ろしたギベオンは、話をしている自分達に気が付いたのだろうクロサイト達がこちらに歩いてきている姿を視界の端に確認したので彼らを見たものの、少女の事を言うかどうか考えあぐねていた。
「君も来ていたのか」
「親書を託されたのは君らだけど、俺だって一端の冒険者だしね。何か探れる事があればと思って来てみたら、これだよ」
「巫女は? 無事か?」
「それさ、落ち着いて聞いてくれ。巫女が攫われた」
「?!」
 誰もが懸念していた巫女の安否はセラフィが尋ねたのだが、ワールウィンドから得られた回答は全員を驚かせるには十分な力を持っていた。なるほど、巫女が攫われかけたのでウロビト達が戦った結果がこの光景であるらしい。激しい攻防があった事を物語る里の現状は、かなり凶悪な魔物が巫女を攫ったという事を教えてくれていた。
「……だったらどうした! 待っていたら奴らが巫女を帰すとでも言うのか? 冗談じゃない!
 巫女の神託にどれ程私達が助けられたか忘れ、何かあったら自分の身の心配か?!」
 その時、里の奥の方から女性の怒鳴り声が聞こえ、全員が条件反射でそちらの方を見た。明らかに冷静さを欠いた様に見えるその女性はウーファンで、自分を止めようとしている他のウロビト達を責め立てている。セラフィもそうだが、その細い体のどこからそんな大きな声が出るんだと間抜けな疑問を抱いたギベオンは、ワールウィンドの声に慌てて意識をこちらに戻した。
「襲撃があった時、彼女は里を留守にしていたらしい。
 で、巫女を慕う連中はみんな襲撃の時やられちまって、今は全員寝込んでる訳だ」
「なるほど、あの無傷の者達は役に立たなかったと」
「君、ほんとに手厳しいな……まあ、そうだろうけど」
 鎚を肩に担いだクロサイトが若干冷ややかな視線をウーファン達の方に向けたまま言い放つと、敢えて言わなかった事をあっさり言われたワールウィンドは苦笑いするしかなかったらしく、曖昧に同意した。種族は違えど保身に走る者が居るのは変わらないらしい。誰だって命は惜しいものだが、だからと言ってあんな少女が攫われたままで良い筈がない。
「巫女を攫ったのはホロウの親玉だそうだ。
 ちっこいのはこの間戦ったらしいから見ただろ? あれよりかなりでかいんだと。
 しかし、どうしたもんかね。君らは辺境伯から親書を預かっているから放ってはおけないだろうが……」
 里に来てから随分と情報を集めていたのだろう、ワールウィンドは腕を組みながら言い争っているウーファン達を見ながら教えてくれた。まるで君らは巫女を助けに行くんだろう、とでも言うかの様な言葉に、しかし反論も出来ないクロサイトは苦い顔をするしか出来なかった。
「私は行くぞ! 何もせず長老会議の結果を待っている貴様らに期待する事など何も無い!」
 錫杖を握ったウーファンはそう怒鳴り、腕を掴んで止めようとしたウロビトの手を振り払って背を向けた。その時こちらに気が付いたのか、一瞬だけクロサイトと目が合った彼女は恥じる様に目を背けそのまま奥の階段を駆け下りて行ってしまった。ひらと揺れる彼女の服が見えなくなると、ワールウィンドは呆れながらまた頭を掻いてぼやいた。
「おいおい、行っちゃったよ。一人でどうするつもりなんだろうな……
 仕方ない、面倒だけど追いかけるとするかね。君らはどうする?」
「もう少し怪我人の手当てをしてから行く事にする。さすがにこれだけの人数の怪我人を放ったままは行けん」
 ワールウィンドに動向を尋ねられたクロサイトは、後ろを振り返りながらまだ里に留まる旨を伝えた。確かに鋭利な刃物で斬られた様な傷を負った重傷の者が多く、ワールウィンドが言ったホロウの親玉とやらがいかに強い力を持っているのかを示しており、改めてギベオンは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。巫女を助けた時に戦ったホロウもゆらゆらと影の様に揺れる体に攻撃を当てにくく、また繰り出される雷撃や氷撃は痛いなどというものではなかったし、その親玉となれば推して知るべしと言ったところだろう。
「容赦無いけど義理堅いよな。まあ、好きにすると良い」
「……気を付けて行け」
「君らもな。じゃ」
 クロサイトの返答に肩を竦めたワールウィンドはセラフィの短い気遣いの言葉に手を振ると、ウーファンが降りて行った階段へと姿を消した。彼が戦っているところをギベオンやペリドットは見た事が無いが、クロサイトやセラフィが止めなかった辺り、恐らく大丈夫なのだろう。知っている様で全然知らないワールウィンドも、ギベオンにとっては謎な男だ。
 知らぬ土地での人間とは違う種族の者への手当てというのはギベオンには難しく、手当てはクロサイト達に任せて彼は壊れた家屋の片付けを手伝っていた。頑丈で太い櫓の柱を抉る様な斬撃の痕は心臓に悪い。死人が出たのかどうか、それはギベオンには分からなかったが、クロサイトやセラフィと違って戦って死んだ者を見た事が無い彼は誰も死んでないと良いと本気で思った。
「……ん? あ……、君、無事だったの? 良かったぁ」
 不意に視線を感じ、その方に目を向けたギベオンは、先日目が合ったガーネットの親族らしい少女の姿を認め、ほっと安堵の息を吐いた。見たところどこも怪我をしていないし、元気そうだ。しかし、いきなりギベオンに声を掛けられた彼女はびっくりしたのか目を見開き、さっと物陰に隠れてまたこそっと彼を窺い見た。手には、何か古い書物の様なものを持っていた。
「あ、ご、ごめんね驚かせて。僕、クロサイト先生にお世話になってるギベオンって言うんだ」
「……おいしゃのせんせいに……?」
「うん、君もクロサイト先生に治してもらった事があるんだってね。ガーネットさんから聞いたよ」
「かあさま? かあさまをごぞんじなんですか?」
「かっ……?!」
「ベオ君、油を売る暇があるなら体を動かしたまえ」
「ひぇっ?! す、すみません!」
 少女の口から出た衝撃の単語に言葉を一瞬失ったギベオンは、しかし後ろから掛けられた叱責に思わず変な声を上げて謝罪した。ガーネットはこの少女の事を親族の子と言ったが、どうやら娘、であるらしい。ウロビトと人間のハーフであるガーネットが誰との間に設けた子なのかギベオンには分からないが、少女はどこからどう見てもウロビトであるから恐らく父親はウロビトなのであろう。
「……怪我人の中に居なかったから大丈夫だろうとは思っていたが、無事で良かった。
 怪我はしていないね?」
「はい、おうちのなかにいなさいっていわれたので」
「そうか。暫くは用心してあまり家から出ず、良い子にしておくんだよ」
「……せんせいは、またいらっしゃってくれますか?」
「何故そんな心配を?」
「ウーファンさまが、にどとくるなっておっしゃってたから……」
「あれは私に対するウーファン君の常套句……まだ難しいか……、そう、挨拶みたいなものだから気にする必要は無い。
 ちゃんと君の母様を連れて来るよ」
「えへへ……よかったです」
 どうやら少女は先日ウーファンがクロサイトに言い放った言葉を気に揉んでいたらしい。確かにあんな追い出され方をしたらもうクロサイトがこの里を訪れないのではないかと心配にもなるだろう。懐いている者が来なくなってしまうのは寂しかろうし、クロサイトが来ないというのは即ちガーネットもこの里に戻る事が難しくなるという事だ。幼い子供にとってたまにしか会えない母親に会えなくなるという事がいかにつらいか、それは残念ながらギベオンには分からないのだが、クロサイトに頭を撫でられほっとした様子で笑みを浮かべた少女を見て、愛されている子供というのはこういう子の事を言うんだろうなと思った。ペリドットの時も、そう思ったけれども。
「あの、せんせいたちもかいだんのむこうにいかれるんですよね?」
「……行かざるを得んな。巫女殿を放っておく訳にもいかんし」
「だったら、これをおもちください。ウーファンさまからせんせいにって、おあずかりしました」
「ウーファン君から……?」
 目を細めて里の奥に見える階段を睨んだクロサイトからの返答を聞き、少女は持っていた書物を彼に差し出した。捻った文字で書かれてある題字は何と読むのかギベオンには分からず、クロサイトも眉を寄せて解読を試みるも、古来からウロビトが使う文字であるのか読めなかった様だ。
「きょうちょうれっか、ってよみます。
 ぶにつうじるかたがつかったら、ほのおのかべがあらわれるんですって。
 せんせいたちのおやくにたつだろうからわたしておきなさいって、ウーファンさまが」
「……そうか。ウーファン君なりに、私達を気に掛けてくれたのだろうな」
「あの、ウーファンさまは」
「分かっているよ。彼女は優しい人だ。ただ、巫女殿が大事すぎるだけで」
「はい……」
 読み方を教えてくれた少女がウーファンを庇おうとした事を察したクロサイトは、彼女を安心させる様に再度頭を撫でた。ガーネットがギベオンにウーファンの事を優しいと評したが、恐らくクロサイトも以前ガーネットにそう言われたのだろう。怒鳴っているウーファンしか見た事が無いギベオンには生憎とその評はまだ実感が持てないけれども、クロサイトが頷いたのなら間違いない筈だ。あんなに自分を敵視している女性を優しいと評せるのはすごいと思ったが。
 そして、ガーネットの娘であり以前病を治してやった事があるとは言え、クロサイトと少女は実に打ち解けている様にギベオンには見えた。ウロビトは人間を嫌っていると聞いたし、少女も育っていく過程でウロビトの歴史を教えられ、人間が巨人と戦わずして逃げたという事も知っているであろうに、彼女はクロサイトどころかギベオンに対しても敵意の目を全く向けなかった。まだ幼いが故に憎しみというものを抱いていないだけかも知れないのだが、人間とウロビトが共存出来ると暗示するかの様な存在の少女にギベオンは奇妙なものを覚えた。
「クロ、あらかた終わったがどうする。一旦戻るか?」
「ん……、時間は惜しいが手当て道具一式を使ってしまったしな……」
「羊皮紙も無いな」
「念の為ネクタルも持って行きたいし、戻るか」
 クロサイトから指示を受けて簡素な手当てをしていたのだろう、ペリドットを連れたセラフィが親指で自分の背後の怪我人達を指しながら終えた旨を伝え、タルシスに戻るか否かを尋ねてきた。まさかこの里より奥の領域を探索するとは思っていなかった彼らはアリアドネの糸を始めとする探索の為の道具を持ち合わせておらず、地図を書く羊皮紙さえ持っていない。ギベオンもペリドットもクロサイトが居る為にまだ気付け薬であるネクタルの世話になった事は無いが、ホロウの巣窟であろう階下に足を踏み入れるのであれば万一の事を考え所持しているに越した事は無いだろう。クロサイトは側に立つ少女と目線を合わせる様に膝を屈めると、彼女に言った。
「ローズ君、私達は一旦タルシスに帰るが巫女殿を助ける為に必ず戻ってくる。
 暫くは行ったり来たりするだろうから、何か異変があったら私に教えてくれるかね」
「はい、わかりました」
「良い子だ。今度、約束していた絵本を持ってきてやろうな」
「ほんとう? うれしいです」
 ローズと呼ばれた少女は、クロサイトの絵本という言葉にぱっと顔を明るくして笑った。その笑みを見たクロサイトの目に慈しむ様な優しさを孕んだ色が浮かんだ様な気がしてギベオンはやはり何か引っ掛かるものを覚えたのだが、かと言ってそれが何であるのかをセラフィやペリドットに尋ねるのも憚られ、結局何も聞けないままタルシスへと戻った。



 辺境伯に里で見聞きした事を伝えた後、工房で必要なものを買い揃えてから再び訪れた里は、幾分か落ち着きを取り戻していた。壊れた家屋は何とか生活出来る程度に修復されていたし、外で休む怪我人も居ない。代わりに、ギベオン達の様に階下に行く為の身支度をしている者達がちらほら見受けられた。
 約束していたからと、ローズに絵本を渡したクロサイトは、その絵本を大事そうに抱えた彼女にまたの機会にゆっくり読み聞かせてやろうな、と言った。またの機会がいつになるか、それは分からないが、ローズはおとなしく頷いて階段を下るクロサイト達を見送った。
「……久しぶりに真っ白な羊皮紙に地図を書くな」
「そうだな」
「上よりも複雑な構造だろうな……。
 ベオ君にペリ子君、もう一度言うが、はぐれたら必ず変位磁石で滋軸に戻って待機しておいてくれたまえ。
 二時間待機しても誰も戻らなければタルシスに戻る事。良いな」
「はい」
 まっさらな羊皮紙を木炭と一緒に持ったクロサイトに頷いた二人は、ウーファンやワールウィンドが一足先に巫女を探しに出たとは言え未知の領域に足を踏み入れた事に僅かな震えが下半身を襲った事に気が付いていた。武者震えをするなど、以前のギベオンでは考えられなかった事だ。巫女を助けた時に戦ったあのホロウの巣窟と思うと探索を楽しむ余裕など一切無いであろうが、それでも碧照ノ樹海で少しずつではあるが自分達の手で全貌を明らかにしていった時の様な得も言われぬ感覚を味わえると思うと、不安や恐怖よりも嬉しさや好奇心が勝っていた。
 深霧ノ幽谷地下二階では、一階では見掛けなかったイノシシも居た。濃い霧の向こうから一直線に突進してこようとするので姿が見えないこちらは不利かと思われたが、夜間の樹海を仕事場としていたからなのか音と気配に誰よりも敏感で真っ先に気が付くセラフィが投擲ナイフを投げ、怯んだところにギベオンやクロサイトが鎚を降り下ろす。ギベオンには出来ないがクロサイトは医学知識に基いて生物の急所を正確に狙って攻撃する為、百発百中とまではいかなくてもイノシシに限らずオオヤマネコも本当に数秒ではあるが動きが止まってこちらが体勢を立て直すのに十分な猶予を作ってくれる。また夜間には出ると聞いていた黒猩猩もその巨体を現し、人間には有害なのであろう成分が付着しているのか爪で引っ掻かれたまま放っておくとかなりの体力を消耗した。ギベオンは盾役となる城塞騎士であるからその攻撃を度々食らったが、その都度素早くクロサイトが解毒の処置を施してくれた。聞けば、一階にも黒猩猩は居りどういう毒物であるのかは分かっているので解毒剤を作っているのだと言う。君の場合は解毒剤を使うより吸い出した方が早いと言われ傷口から吸い出した血を地面に吐き、口元を拭う事すらせず止血の為に包帯を手早く縛る姿には面食らったが、手当てを終わらせた後に流れる様な動きで鎚を持ちセラフィ達の加勢をしに行く姿にはもっと驚いた。セラフィが戦い慣れているのは分かるけれども、クロサイトもここまで慣れているとは思っていなかったからだ。
 ギベオンがそうやってクロサイトに対して驚いた様に、クロサイトもまたギベオンに対して驚いた事がある。左右の判断が瞬時に出来ないギベオンであるが空間の把握能力は高く、一階に比べてかなり複雑に入り組んだ道は霧の中でループしている所があるにも関わらず、ここさっき通りましたねと地図も見ずに言った。その時地図を作成していたのはクロサイトなのだが正直なところどう書いたものかと悩んでおり、ギベオンに見せると、こことここが繋がってます、あと多分ここの道はこっちにもう一つ似た三叉路がありますと教えてくれた。よく分かるなと思わず感心したクロサイトに、ギベオンは僕パズルとかは得意なんですとはにかむ様に笑った。どうやら彼は脳内で空間をパーツに分けて組み立てる事が出来るらしい。
 勿論、一日やそこらで探索が終わる訳も無く、誰か一人でも体力や気力が限界に達せば無理せずタルシスに戻って診療所で休んだ。セラフィは巫女をホロウから助けた時、投げた投擲ナイフが揺らめく彼女達に当たりづらく捜索が随分と面倒であった事から無くしても差し支えないものを工房で買い求めたり、ペリドットも矢が尽きると困るという理由で以前セラフィが使っていたらしい獣王の鉤爪から作られた剣を貰って使う事にした。ただ、やはり彼女は弓を引く方が性に合っている様で、臨機応変に装備を変えると言った。そういう器用な真似はギベオンには出来ず、素直に褒めると、ギベオンはちゃんと私達を守ってくれてるじゃない、役割分担だよとペリドットは笑った。重たい盾を持てる程の腕力と恵まれた体格のお陰で自身や他人を無傷とは言えなくともそこそこ軽傷で守れる城塞騎士であるギベオンと違い、例えばセラフィは身軽さも武器の一つであるから重装備は不向きであるし双剣使いでもあるので尚の事防具を装備出来ず、故に大怪我を負いやすい。ペリドットも同様で、ダンサーであるから重装備では舞いにくい。そういう彼らを守ったり庇ったりする事で、手当てするクロサイトの負担も減るのだ。
 深霧ノ幽谷の地下二階の探索中、こんな事があった。里に戻る階段から見て南に位置する三叉路の突き当りの茂みにこちらに背を向け佇んでいるホロウの影が確認出来、念の為そこも調べたかった彼らは戦う事にしたのだが、それにしてもあまりに無防備すぎるという事でセラフィが茂みの中をそっと窺った瞬間に弾かれる様に振り向き、後ろだ、と声を上げた。反射的に振り向いたギベオンがペリドットとクロサイトの前に立ち、狼狽えている様子のホロウ達に向かってギベオンの後ろからペリドットが弓を引き、セラフィもギベオン達の間を縫う様に投擲ナイフを投げた。相変わらずホロウは霞の様な体を持っているから攻撃は当て難かったが氷の術は比較的受け止めやすく、ギベオン以外の三人はほぼ無傷で倒す事が出来た。ギベオンが負った怪我もそこまでひどいものではなかったので、クロサイトも君は本当に体が頑丈だなと言いながら消毒を施してくれた。確かにペリドットが言った様に役割分担というものはあるな、とギベオンは思った。
 地下二階を探索し始めて三日目の夜に、ループする道を抜けた先に浮かぶ小さな明かりを見付けてギベオン達は顔を見合わせた。それは巫女が歌っていた時に浮かんでいた小さな明かりとそっくりで、彼女が呼んでいる様な気にすらなる。音も立てずに消えた明かりは柔らかく、温かそうであったがどこか悲しげに見えて、全員が沈黙する。しかし立ち止まってもいられないのでまた歩み出すと、その先にはウロビトの里にもあった様な扉が鎮座していた。そしてクロサイトがその扉を羊皮紙に書き込んだ事を確認したギベオンが開けたのだが、その先の光景にギベオンはぞっとしたしペリドットは思わずセラフィの後ろに隠れてしまった。部屋の様な広場にはそこかしこにホロウが持つ錫杖や体の一部であろうものが散乱し隅にはその亡骸が集められており、数人のウロビトが仲間の怪我を手当てしていた。
「や、お互い無事で……って訳には今回はいかないか」
「ワールウィンドさん! だ、大丈夫ですか?」
「うーん、何とかね」
 その手当てを受けている負傷者の中には、ワールウィンドも居た。頭部に受けたのだろう傷からの出血を押さえる為に頭にタオルを巻いて地べたに力無く座っている彼に慌てたギベオンの横をクロサイトが足早に通り過ぎて自分の側で膝をついて鞄から消毒液と縫合用の針と糸を取り出したので、悪いな、と苦笑を浮かべる。頭はそこまで深い傷ではなかったが足に受けた怪我が思いの外深く、クロサイトも縫った方が良いと判断したのだろう。
「さっきまでこの部屋に大量にホロウが集まっていてね、派手にやらかした後なんだ」
「ウーファン君は?」
「彼女も居たんだけど、先に行っちゃったよ……いてててっ!」
「消毒するからしみるぞ」
「先に言ってくれよ……」
 薄いゴム製の手袋をしてからガーゼに消毒液を含ませ、ズボンをたくし上げて裂傷が顕になったワールウィンドの足を拭ったクロサイトは、文句を言われても知らぬ顔でそのまま手当てを続けた。縫合糸を装着した針を持針器で把持し、自分の膝の上に乗せたワールウィンドの足、と言うよりも創面を睨むようにして縫い合わせていく。麻酔も無しに縫合しているのだから痛いのは当たり前で、ワールウィンドは眉間に皺を寄せながらも言葉を続けた。
「ちょっと驚くことがあってね、その集団の親玉とウーファンが何か話をしているように見えたんだ」
「ホロウと?」
「ああ、ホロウはホロウ以外と意思疎通出来ないって話はウロビトから聞いてたんだけどね。
 他の連中も、あれには驚いていたよ。
 結局そのホロウは彼女が術を使って仕留めたんだけど……彼女、顔面蒼白になってたよ」
「………」
 縫合されている間、顔を歪めながらもワールウィンドが話した内容に、ギベオンだけではなくセラフィもペリドットも首を捻った。確かにホロウは囮を使う程知性が高い魔物ではあるが、かと言って意思疎通が出来るかと聞かれればギベオンは首を横に振る。明らかに人間を敵と見做して攻撃してくる様な者達なのだ、話せる余地は無いと思われた。
 しかし、ウーファンはそんなホロウと会話をしている様に見えた、とワールウィンドは言った。何を話したのか、何を言われたのか分からないが、元から白い顔を更に蒼白にさせた彼女は一体何を思って先へ進んでいると言うのか、ギベオンには分からない。
「彼女が気になるところだが、俺は一旦引き返すとするよ。これじゃまともに歩けそうにない」
 縫合を終えたクロサイトが縫合糸を切り、縫合中に出血して汚れたワールウィンドの足を拭って手袋を外すと、ワールウィンドは痛みを押しやりながらも立ち上がろうとしたのでギベオンが彼に手を貸した。苦笑交じりに有難う、と言ったワールウィンドは、処置をしてくれたクロサイトにも礼を述べた。
「二日は安静にしておきたまえ」
「消毒とかガーゼとかしなくて良い?」
「四十八時間以内には創……傷の事だ、創表面が上皮細胞で完全に覆われてしまう。
 ガーゼをあてると反って治癒の妨げになるのだ。
 消毒をしっかりしたせいで創の治癒が遅れて傷口が開いてしまったりするしな。二日経ったら風呂にも入って良い」
「そうか、恩に着る。君らも無茶するなよ」
 クロサイトの指示に素直に頷いたワールウィンドは、足を引き摺りながら部屋を後にした。彼がどれ程の腕前であるのか知らないギベオンでもあんなに多くのホロウと渡り合えたのだから相当な実力者だと分かるが、それでも縫合しなければならないくらいの怪我を負ったとなるとこれから先の道程が思い遣られる。だが進まないという選択肢はギベオンは持ち合わせていなかったし、他の三人も同様であったから、体を休めているウロビト達に無理はしない様にと言い残してから探索を再開した。



 その後もタルシスと深霧ノ幽谷を往復する日々は暫く続いた。複雑な道は相変わらず迷いやすかったが、どの道がどこに繋がり、どうループしているのかを把握すれば案外簡単な構造をしていると気が付けたものの行く手を阻む魔物も多く、途中で見かけた恐鳥などは平行している通路で木々の間からしか姿が見えないのに並走してくるので撒くのも骨が折れた。縄張りの外には出ない習性は有難く、またその先で見付けた抜け道のお陰で再度の探索の際には恐鳥がうろつくエリアには行かなくても良さそうだった。その抜け道付近で休憩している時にクロサイトが羊皮紙の空いたスペースに真面目な顔でその恐鳥のスケッチをしていたものだから、ギベオンは思わず笑ってしまった。これがまた似ている。さすが、昔羊皮紙に書いた地図を見た辺境伯から絵でも描いたらどうだねと言われただけはある腕前だ。
 道中では、巫女の捜索を行っているウロビトにも会った。巫女様は元はあの様に我儘を言ったりはせず物静かで忍耐力があり凛としていた、今の巫女様はまるでただの子供の様だと言ったウロビトに、ただの子供ですと誰よりも先に言ったのはペリドットだった。ウロビト全員が巫女以外の振る舞いを許さず理想像を押し付けていただけじゃないですか、と反論した彼女にそのウロビトは何も言い返せず押し黙ってしまったので、彼女もそれ以上は何も言わなかった。沈黙は自覚している証拠であると判断したからだ。
 また、巨人や人間の伝承について話してくれたウロビトも居た。巫女以外の人間を見たのは初めてだと言ったそのウロビトは、人間は巨人に背を向けどこかに逃げたが残った者がウロビトや他の創造した者を率いて巨人を討ったけれども、残った者の伝承の類は一切残されていないと教えてくれた。ウロビト以外にも創造された種族とやらが存在する様であるが、ウロビト達はその者達を知らないらしい。幽谷の北の谷を越えた先にあるのだろう大地に居るのかもしれない。……そこに自分が行ける日があるのかは、ギベオンには分からないが。
 巫女は勿論ウーファンの事も気になるが、焦っては取り返しのつかない事になるやも知れず、彼らは慎重に進む。何度かウロビトの里を通り道にしたからか、ローズが果物をくれる事もあった。巫女と茶の席を共にした時に食べた赤いプラムも貰ったので、これ好きなんだと喜んだペリドットに、ローズはスモモっていうんですよと教えてくれた。ウーファンが見付かってない旨を伝えると彼女は顔を曇らせたがその憂いの表情がどこかガーネットに似ていて、やっぱり血の繋がった母娘なんだなとギベオンは妙な感心をしてしまった。ガーネットもウーファンが巫女を探す為に単身で里を飛び出してしまった事を憂いており、出来る事なら早く見付けてあげてねとギベオンに言ったのだ。確約は出来ませんが努力します、とだけ言うと、彼女は辛そうに目を伏せていた。里から追放された両親がどうなったかを思い出していたのだろう。ただ、ローズから母親である事を聞いた、とは何故か言い出せなかった。
 漸く地下三階へ続く階段を見付けたのはワールウィンドの手当てを施した日から三日目、地下二階を探索し始めて六日目の事だ。ほっとした様なそうでもない様な、曖昧な想いを胸に抱きつつ階段を下ると血の様な臭いが鼻孔を刺激し、先を歩くセラフィが一旦足を止めた。彼と顔を見合わせ頷いたギベオンは盾を構えて先頭に立ち、階段から続く小道の先にある広場に出ると、地に座し瞑想している女性が居た。その細い体には至る所に傷があり、髪飾りの花も散り、傷口から出た血が固まって黒く変色している。だが、傷はどれも新しく見えた。話し掛けて良いものなのかどうかギベオンが迷っていると、今度もクロサイトが先に彼女の側まで歩み寄った。その足音に長い耳を揺らしたのは、ウロビトのウーファンだった。
「……巫女から貴様達に預かり物がある。受け取れ」
 そして片膝をついたクロサイトにゆっくりと目を開いたウーファンは、側に置いてあった古い書物を彼に寄越した。相変わらず捻った文字は読み取り難く、解読に数秒掛かったが、どうやら幻豹黒霧と書かれているらしい。書物から目線を上げたクロサイトは、ウーファンの迷いに満ちた目を静かに見つめる。そんな彼から目を逸らさず、彼女は再度口を開いた。
「上の階で、ホロウが私に言った。 巫女を私には任せておけない、私には彼女は守れない、と。
 ……ホロウ得意の幻術の類だろう。 しかしその言葉は私の胸を抉った。 何故なら同じ事を私も薄々感じていたからだ。
 そして、何故私が貴様達に対し冷静でいられなかったのかを考えていた。 簡単な事だ、……私は嫉妬していたのだ」
 敗北を認めるかの様に吐き出されたウーファンの言葉に、クロサイトは多少も動揺しなかった。ただ黙って彼女の独白を聞いている。だから、ギベオン達も黙って聞いていた。
「巫女は、初めて会った貴様達に私よりも心を開いている様に見えた。ずっとお側で仕えてきた私よりもだ。
 ……まるでガーネットを取られた時の様な気分だった」
「………」
「分かっている、貴様が私からガーネットを奪った訳ではなくて、彼女が自らの意思で貴様の元に行ったのだ。
 だが、どうしてもそれを認めたくなかった。
 あの時の二の舞いを踏みたくなくて頑なに貴様達が巫女の御前に立つ事を禁じていたのに、巫女は外へ出て行ってしまった」
 ガーネットが里の外へ飛び出した時と同様、巫女もまた世界樹の声に導かれるまま里の外へ出た。そして、ギベオン達に出会った。ウーファンは伯母や従姉は人間に奪われたものと見做しているから、巫女すらも取られてしまうのではないかと恐れたのだろう。それだけ、ウーファンにとって巫女は大事な存在だったのだ。
「私は、巫女としての振る舞いを必要以上に求めて彼女の心を傷付けてしまった。
 それ故に巫女の心は乱れ、そのざわめきが地下深くに潜むホロウを呼び寄せたのだろう」
「巫女がホロウを呼んだ、と?」
「ああ、もうあの里には……いや……、私の側には居られないと思ったのだろうよ」
「………」
 自嘲する様な弱々しい声に、以前の毅然とした強さは感じられない。己の行動によって引き起こされた事に傷付き、弱り、蹲っている様に見えるウーファンに、しかしギベオンは何も言う事は出来なかった。クロサイトに任せるしか、なかったのだ。悲痛な面持ちのまま、ウーファンは続けた。
「……私を都合の良い女だと思うだろうが……貴様達に頼みがある」
「何だね?」
「事が済んだ後、私に出来る事なら何でもしよう。だから……貴様達が巫女を、助けてくれないか。
 そして、貴様達の元に連れて行ってくれ。我らと居ても巫女は幸せにはなれない」
「そんな……」
「私は信頼を失った。もう巫女は、私に微笑んでくださらない。 私の声は、もうあの娘には届かないんだ……」
 ウーファンはいつもはこんな事言わないんだけど、と戸惑った様な表情を見せた巫女を思い出しながら、ギベオンは彼女の言葉を否定しようとした。だがウーファンは力無く頭を垂れて膝に置いた拳を微かに震わせ沈痛な声を漏らし、その拳の上に涙を零したものだから、やはりそれ以上の声を掛ける事が出来なくなってしまった。困った様にクロサイトを見ても、彼は沈黙したままだ。気まずい空気が、その場に流れた。
「ここに来る前、ローズ君に会ってな」
「………?」
「君から、さっきの書物と似た様な書物を渡す様に言付けられたと言われた。君が毛嫌いしている私に、だ」
「………」
 クロサイトは涙を零すウーファンに暫く黙ったままだったが、やがてワールウィンドに施した時の様に鞄からガーゼと消毒液を取り出すと、彼女の細い肩に刻まれた傷をそっと拭った。痛かったのか、それとも驚いたのか、びくりと体を震わせたウーファンは、しかし彼の言葉に開きかけた口を閉ざした。
「ガーネット君もローズ君も、君の事をどう私に言っていると思う?
 頑固だが優しい人だから嫌わないでやってくれと、口を揃えて言うのだ。
 私も君は自らを律しすぎる面はあれど優しいと思っているよ。
 ……巫女殿も、君の事をきっと優しい女性だと思っている」
「……今でもか?」
「ああ、今でも。そうでなければ、私達を呼ぶ様な明かりを飛ばすものかね。
 ここまで来る道中、巫女殿が歌っている時に浮かんでいた小さな明かりを何度か見たが、
 あれは私達を呼んでいたと言うより私達を少しでも早く君の元へ連れて行かせたかったのではないかな」
「……何故……」
「君がこんなに傷だらけだからだ」
「………!」
 ウーファンの細い体は、確かに傷だらけだった。痛々しいその姿にギベオンは勿論、ペリドットもセラフィも閉口したのだ。だが、クロサイトは動じる事無く彼女の傷を一つずつ丁寧に手当てしていく。彼の手付きはどの怪我人や病人に対しても平等に優しく、自分を嫌っているからと言って疎かにしたり手荒に扱ったりは決してしない。
 クロサイトは、ウーファンの外傷は治せても心の傷までは治せない。ガーネットをタルシスへと連れて行ったのは紛れも無く自分であり、彼女を人間として住まわせたのも自分であるから、ウーファンから責められても当然だと思っている。だが、そんな彼女の元で巫女が不幸になるとは思えなかった。確かにあの里に閉じ込めたままは良くないと思うが、それとこれとはまた別の問題だ。
「巫女殿も、助けに来たのが私達だけだったらがっかりするだろうよ。君が行ってやらねば。
 そしてちゃんと巫女殿を、巫女としてではなく一人の少女として接してやりたまえ。
 従者としてではなく、友として」
「……共に来いと言うのか?」
「君が居てくれると私達も心強い。君の術が強力であるという事は十分知っているしな」
「……分かった。私も行こう」
 一瞬、ウーファンは躊躇いの色を浮かべたが、迷いは捨てたのだろう、クロサイトが立ってから伸べた手をしっかりと掴んで立ち上がり、そして同行する旨を伝えた。その姿には先程までの弱々しさはなく、代わりに何かしらの力強さを感じる。安堵の溜め息を吐いたのは何もギベオンだけではなく、セラフィもペリドットも同様にほっとした様な表情を浮かべていた。



 ウーファンを説得した後、無理をさせたくはないから一度戻ると頑なに言い張ったクロサイトに、ウーファンを除く全員が賛同した。急ぎたい気持ちも分かるし巫女が心配なのは分かるが、彼女を助ける前に倒れてしまっては元も子もないというクロサイトの言葉に了承の意を示したウーファンを里まで連れて帰り、大袈裟だと彼女が困った様な顔をした程の手当てを施してからギベオン達も一旦タルシスへと戻った。携帯していた食糧やメディカを始めとする医療品も補充したかったし、破損した鎧などを工房に持ち込んで修理も頼まなければならなかった。何より、ウーファンが無事であるという事をガーネットにも知らせておきたかったので工房に行った帰りにギベオンがそれを伝えると、ガーネットは目を潤ませて良かった、有難うと言った。ガーネットに誰より優しく接してくれたのはウーファンだったのだと、ギベオンはその時初めて信じる事が出来た。
 また、クロサイトの供としてついて行った統治院で、辺境伯からワールウィンドの容態も聞いた。病院で抜糸をして貰ったらしいのだが処置が早く正確なものであった事、また本人が無理せず大人しくしていた事から経過も順調で、痛みはまだ少し残るが歩行に差し支えは無いらしい。まだクロサイトに縫われた経験が無いギベオンが縫合得意なんですね、と言うと、師に叩き込まれたからな、という返答を貰ったし、辺境伯もあの医師の外科処置の腕はタルシスのどの医師より優れていたな、と懐かしむ様に笑った。何でも遥か遠くの異国の地で、連れ立ってタルシスに来た剣士と共に冒険者の様な事をしていたそうだ。ならば外科処置も得意になるだろうが、それにしても医者兼冒険者というのも不思議な人物だ。クロサイトだってそうなるのだが。
 そんなクロサイトの師が亡くなった時期と、ワールウィンドが統治院に出入りする様になったのは前後するが同時期ではあったらしい。タルシスには豊かな水源があり、川の流域に文明が発達するのは当然の事で、世界樹を目指す冒険者達がこの街に集まる前からそれなりに栄えていたそうだ。それ故に旅人も多く、ワールウィンドもその内の一人で、気球艇の開発を先代の港長が手掛けていた時に手を貸したというのは以前ギベオンはクロサイトから聞いている。その際に辺境伯が彼に礼として何が欲しいか尋ねたところ、家宝の硝子で出来た頭飾りを所望したらしい。人の家の家宝を欲しがるワールウィンドも凄いが、それを本当に謝礼としてあげた辺境伯も凄いとギベオンは奇妙な顔になってしまった。
 診療所に戻り食事を済ませ、次に深霧ノ幽谷へ向かう支度を終えてから眠ろうと寝台に横になったギベオンは、しかし中々寝付けず何度も寝返りをうち、結局諦めて部屋を出た。どうやら気が昂って寝られない様で、今から鎚を振るうのは無駄に体力を消耗してしまうので茶でも淹れようと思ったのだ。茶を飲めば反って眠れないのではないかと言われればそうでもなく、香りを楽しむだけでも気を落ち着ける事が出来る。
「……ん……?」
 向かったダイニングの明かりが着いており、ギベオンは首を捻る。もう今日は使う用事が無いので消灯した筈なのに誰だろうと思って中を覗くと、ペリドットが繕い物をしていた。一針ずつ丁寧に彼女が繕うその黒い服に、ギベオンは見覚えがある。彼女の夫となったセラフィのものだ。彼は体格が細いので服も規格物はサイズが合わずいつも近所の仕立屋に頼んで作ってもらっているらしく、また仕事が特殊なものであるからそれなりに丈夫な生地で作らねばならず、衣類代はクロサイトのそれより倍近くはかかるらしい。だから、破損すればいつも自分で繕っていたそうだ。今では、ペリドットが繕っている。
「あれ? どうしたのギベオン、寝られないの?」
「あ……うん、ペリドットはどうしたの? セラフィさんは?」
「クロサイト先生とお話があるからって。ちょうど良いから破れたところ繕ってるの」
 すぐにギベオンに気が付き顔を上げたペリドットは、彼の質問にちょっとだけ笑って答えた。この診療所に来た当時の彼女は笑う事が少なかったが、今はよく笑う様になっている。好きでもない男に嫁がなかればならないという憂い事が無くなったからだろう。ペリドットに限らず女の人は笑ってた方が良いな、とギベオンも思ったものだ。
「ギベオンは、巫女様を助けたら故郷に戻るの?」
「う……ん、どうするかまだ決めてないんだけど……」
 ホロウやオオイノシシからの攻撃で破損したセラフィの服を繕うペリドットにも茶を淹れ、暫く彼女と話をする事にした彼は、今後どうするのかを聞かれて歯切れを悪くした。もう帰らなくても良いかとも思うし、帰ってきっちりと縁を切る宣言を自分からした方が良いのかとも思うし、その答えは未だ出ない。しかし、ぼんやりと思う事はある。
「……あのさ、ペリドットはクロサイト先生が描いた世界樹の絵、見た事ある?」
「あ、うん、何枚か見たよ」
「……どう思った?」
「うーん……綺麗だけど……ちょっと怖いかな」
「そっか……」
 ギベオンは、以前クロサイトが裏庭で世界樹を描いていたところに淹れた茶を差し入れた事がある。それまでにも彼が描いた絵画を数枚見たのだがクロサイトが描く絵には全て世界樹が画面に収まっており、その世界樹は緑だけではなく必ず朱や赤が混ざっていた。紅葉、などというものではない。現に、世界樹は紅葉した事など一度も無いらしい。どこか燃えている様に見えるその絵に何かしらのうそ寒さを感じるのはギベオンだけではなく、ペリドットも同じであった様だ。何か意図があるのだろうかと思っていたのだが、茶を差し入れた時に見たクロサイトの赤の乗せ方は本当にごく自然なものであり、彼にはそう見えているとギベオンは判断した。
 確かに、あの樹には偉大な何かを感じる。しかし、クロサイトの絵から感じ取れる様な禍々しさは無い。それを伝えるにはどうしたら良いのか、ギベオンはぼんやりとそんな事を考えていた。
「……あのねペリドット、僕、出来るなら世界樹の近くまで行きたいんだ」
「近くまでって、丹紅ノ石林の先に行きたいって事?」
「うん。……クロサイト先生に、あの樹は燃えてないですよって教えたい」
「そう……」
 それは恐らく、本当に単純で小さな小さな、それこそ理由になどなれない様な願望であるだろう。しかし、ギベオンにとってクロサイトは人生を変えてくれた程の存在である。心身共に健やかにし、数あるコンプレックスをいとも簡単に矯正し、何より一度も呆れたり嘲笑ったりしなかった。もう無理です限界ですと弱音を吐いて座りこめば、その限界は誰が決めたのだねとギベオンが立ち上がるまで鎚を肩に担いだまま待ってくれた。確かにジャスパーが言った様に厳しくおっかない男であるが、ギベオンにとってはもうクロサイトは医師ではない。師だ。
「じゃあクロサイト先生を連れて行くには、差し当たってセラフィさんの説得からかなあ?」
「へ?」
「だって、あの調子じゃ絶対クロサイト先生は首を縦に振りそうにないもん。
 セラフィさんが行くならきっとクロサイト先生も行くよ」
「……せ、セラフィさんが行くならペリドットも行く事にならない?」
「行くよ? 私も行きたいし」
「……えっと……」
 突然のペリドットの提案に目をぱちくりさせたギベオンは、まさかそんな展開になるとは思ってもおらず、言葉に詰まった。ペリドットも好奇心が強い女性であるから探索には積極的であるけれども、いきなりここまで具体的に提案されるとは思っていなかった。確かにセラフィが行くならクロサイトも同行すると言いそうではあるが、どちらにせよ牙城の守りが堅すぎる。セラフィはクロサイトの決定に従う傾向があり、クロサイトが行かないと言えば倣うと思われるからだ。
 しかし戸惑うギベオンをよそにペリドットはしっかりと玉止めしてから糸切り鋏で糸を切り、仕上がりを確認したその服を慈しむ様に見ながら言った。
「セラフィさんねぇ、本当にクロサイト先生を大事にしてるの。俺はあれの影みたいなものだから、って前に言ってた。
 ……でもね、だからこそギベオンみたいに引っ張ってでもあの樹の側に連れて行ってあげるべきだと思うの。
 だけどセラフィさんだけじゃ無理なの。何でか分かる?」
「え……何で?」
「あの人水が怖いから。だから、ギベオンと私がついて行ってあげなくちゃ」
「………ふ、ふふっ! そう、そうだね!」
 ペリドットがおどけるようににっこりと笑って言った言葉に思わず吹き出してしまったギベオンは、この街に来て本当に良かったと何度目になるかも分からない感想を胸に抱いた。尊敬する師が二人も出来、盟友とも呼べる異性の友人が出来、死ぬかも知れないという恐怖を払拭してくれる。こんなに有難く、また嬉しい事は無い。じわりと胸を染めていく温もりに、ギベオンは言い様もない幸福を噛み締めていた。そんな彼を見て、ペリドットも嬉しそうに微笑んでから裁縫道具を道具箱の中に仕舞った。時刻は、そろそろ夜の十一時に向かおうとしていた。