風馳ノ草原には偉大なる赤竜と呼ばれる、人智を超えた生き物が時折上空を旋回する。人間で言うところの散歩であるのか、はたまたこの空は自分の縄張りであると主張しているのか、それは分からないが、巨体を見せつけるかの様に飛び回ってはどこかに姿を消す。彼の竜が通り過ぎた後の草原には紅く輝く結晶が落ちている事があり、赤竜の爪先から怒気が結晶化しているらしい。それを口にすれば体から力が漲り、迷宮などの探索で普段よりも感覚が研ぎ澄まされ武術の上達が早まるのだと言う。故に食材としての人気は高く、高値で取り引きされているそうだ。食べた事ありますかとセラフィに聞いた事があるが、酸っぱくて辛くてジャリジャリしてるという何とも形容しがたい感想を貰ってギベオンは珍妙な顔をした覚えがある。
 そんな赤竜とはまた姿が違う、金色の竜が丹紅ノ石林の上空に飛ぶ。赤竜が太い胴体を持っているのに対し、雷鳴と共に現る者と呼ばれているその竜は蛇の様な細長い体を持ち、上空を飛ぶ時はその名に相応しく雷鳴が轟くのだという。そして、赤竜と同様飛んだ後には雷光を一瞬で結晶化させた様なものが落ちているそうだ。尾から落ちるらしいその結晶も食べられると聞き、これもセラフィに味を尋ねてみたところ、苦くてちょっと臭くてやっぱりジャリジャリするという、これまた食べたくなくなる様な感想を貰った。叩いて粉末にして香辛料に使うとそこそこいけるという役に立つかどうか謎な豆知識を教えてくれた事を思い出しながら、ギベオンは丹紅ノ石林の上空を悠然と飛ぶ竜を気球艇から降りて金糸絹笠茸をスライスして焼いたものを持ってきた野菜と一緒にパンに挟んで食べながら遠目に眺めている。
 深霧ノ幽谷には滋軸を使ってタルシスから直接来訪しても良かったのだが、里を襲撃し巫女を攫った大型のホロウは恐ろしい力のある目でウロビト達を惑わし、混乱させ、同士討ちをさせたらしく、それを防ぐ為にも頭の錯乱を防ぐ効能がある金糸絹笠茸を口にしていた方が良いだろうとの事で気球艇ごと石林まで滋軸で移動した。そして茸を見つけ出して幽谷の入り口付近で調理し食べている最中に雷鳴と共に現る者――名が長いので冒険者達は専ら雷竜と呼んでいるそうだが――が姿を見せたという訳だ。あんなにでかい生き物を前にすれば逃げるしか無いけれども、遠目で見る分には何ら問題は無い。赤竜を初めて見たのはギベオンとペリドットがまだクロサイトの患者であった時分で、その大きさに圧倒され怯えた二人にこちらが何もしなければあちらも何もして来ないとクロサイトが言ったので、思わずギベオンはヤクザみたいですねと言ってしまったしクロサイトも言い得て妙だなと言った。あれからまだ一年も経っていないのに随分昔の事の様に思えて、ギベオンは何となく苦笑して最後の一口を押し込んだ。
 幾度目かの来訪に、ウロビト達の大半はもうギベオン達に驚く事は無かった。彼らには常に門戸が開かれ、地下へ行く為の階段を使う事が許されている。ただ、まだギベオン達以外の人間を迎え入れる事には消極的で、地下二階でホロウの大群と一戦を交えたワールウィンドくらいしか通されてないらしい。彼もまだ足が本調子ではないので階下には行けない様だが、里を訪れては家屋の修繕を手伝ったりしているそうだ。ウロビトの子供達に見舞いとしてタルシスから焼き菓子を持って来たりもしてくれたとローズが教えてくれた。
「体の具合はどうかね」
「ああ、もう大丈夫だ。先に進むのに問題は無い」
 巫女との茶の席を設けた所でクロサイト達を迎えたウーファンは、傷跡が残る肩を露にしたまま頷いた。塞がっている傷とは言え、細いその体に刻まれた痕はどうしても痛々しく見える。しかし彼女は全くそんなものを気にしておらず、昔両親から鞭打たれた痕や打たれた反動で転がり壁や床に強打した痣が未だに残る体を他人に見せるのが怖くて肌を露出出来ず、袖すら捲れないギベオンは途端に自分が恥ずかしくなってしまった。だが、彼のそんな胸の内など分かる筈もないウーファンは俯いてしまった彼に気付きもせず、クロサイトがテーブルに広げた羊皮紙を見て言った。
「巫女が捕らわれているであろう場所はおおよそ見当がつく。私が案内しよう」
「地下二階よりも道が複雑なのだろう?」
「複雑だが、抜け道は知っているから最短距離で行く。寄り道はしないから探索なら改めての機会にしろ」
「探索など冒険者達に任せるさ。私達は巫女殿さえ助けられたらそれで良い」
 地下二階の複雑な道を思えば地下三階の構造の複雑さも推して知るべしと言ったところであったのだが、幸いにもウーファンは道程を知っているらしい。彼女達ウロビトが操る封縛の術はホロウに特化したものと言っても過言ではないそうであるから、里から降りて足を運ぶ事もあるのだろう。ただ、クロサイトが言った様に今の目的は巫女を助ける事であって探索ではない。ギベオンはそれを残念にも思ったが我儘を言っている場合ではない。
「あの、おいしゃのせんせい」
「うん? どうしたね?」
 ウーファンを連れいよいよ階下へと降りようとしたその時、何かを手に持ったローズが駆け寄って来たので、クロサイトは誰より先に足を止めた。名の通りの薔薇色に頬を染めたローズは、もじもじしながらその小さな手の中のものをそっと彼に差し出す。彼女が差し出したそれは見事に真っ黒な、それこそ漆黒と言っても差し支えない小さな木札で、中央が器用に繰り抜かれハート型の様な文様があるやや紫がかった種子が嵌め込まれていた。
「ばくだんかずらのたねでつくったおまもりです。
 ウーファンさまが、ホロウはこおりのじゅつをつかうっておっしゃったから」
「ふむ? 爆弾葛の種子は氷の術式に何か作用するのかね?」
「どういう理屈かは分からんが、氷に反応して和らげてくれる作用がある。自爆する事が多いから中々入手出来ないのだが」
「ほう……君が作ったのか、綺麗に仕上げているな。貰っても良いのかね?」
「でも、ひとつしかつくれなくて……ごめんなさい」
「その気持ちだけでも嬉しいよ。有難く頂こう」
 ギベオンも何度か遭遇した事がある、大きく膨らんでは敵も巻き込んだ自爆をする爆弾葛からは果皮しか手に入れた事が無い。その種子はウーファンが説明した様な効能がある様で、世の中には不思議なものが山程あるのだなと、礼を言って大事そうに白衣の内ポケットに入れたクロサイトを見ながらギベオンは思った。
「えっと……ごぶうんをおいのりいたします」
「おや、そんな難しい言葉を知っているのか。ウーファン君のお陰かな?」
「……ふん」
「有難う。行ってくるよ」
「はい」
 そしてぺこりと頭を下げたローズとそっぽを向いたウーファンに笑みを零し、ローズの小さな頭を撫でたクロサイトの眼差しは、他の誰に向かうものよりも柔らかく優しい様に感じられた。



 ウーファンは、ギベオン達が見付ける事が出来なかった地下二階の抜け道も熟知していた。里を飛び出した時は巫女を探す為にくまなく歩いたが、居ないと分かった今は回り道をする必要は無いと言って狭い抜け道を案内してくれた。細い彼女は難なく通り抜ける事が出来ても体格が大きなギベオンには難しく、先に抜けたセラフィが持っている剣で木々を縫う様に絡まっている蔓を少しだけ伐採して拡張してくれたので何とか通る事が出来た。
 地下三階に降りる階段へ向かう道中の魔物は、ウーファンが操る封縛の術により随分と楽に倒せる様になった。特にホロウは逃げたり攻撃をかわしたり出来なくなる様に足を封じ込めれば、驚く程呆気無く倒せた。地下二階に現れる紫色のホロウはウーファン達ウロビトにはホロウプレイヤーと呼ばれており、彼女達は鎚や剣、弓による物理的な打撃に弱いらしい。地下三階に潜むホロウラウンダーと呼ばれるエメラルドグリーンのホロウは、逆に炎や氷、雷などといった属性の攻撃に弱いそうだ。あいつらは雷属性の術を使うのに雷属性の攻撃に弱いんだ、変な話だがとウーファンから言われ、確かに変だとギベオンは微妙な面持ちになった。
「――巫女が里に来たのとホロウが姿を見せる様になったのは同時期でな」
 そしてウーファンが教えてくれた抜け道のお陰で予定より随分早く階段の前の広場まで辿り着いたので、腰を下ろして休憩していると、ウーファンがぽつりぽつりと巫女の事を話し始めた。クロサイトにも話していない詳細を教えてくれる気になったらしい。
「今から向かう、ホロウ達が住み処にしている広間に御神体を安置している所に、まだ赤子だった巫女が眠っていた。
 ……二人の人物に守られて」
「二人?」
「ガーネットの両親だ。既に事切れていたが」
「……巫女はガーネットの両親の子になるのか?」
「いや、そうではない様だ。伯母の遺体には妊娠出産の形跡が見受けられなかった。
 御神体から生まれたのだと私は思っている」
 セラフィの問いに、ウーファンは緩やかに首を横に振った。御神体とやらが何であるかは分からないが、あの巫女は不思議な生い立ちである事には間違い無いらしい。
 しかし、そこでまた新たな疑問が浮かんだクロサイトがその疑問を口にした。
「では、ガーネット君のご両親は追放された後もまだ御存命だったのか?」
「……あの広間は代々私の家が管理していた。追放したというのは表向きで、あの広間に幽閉したというのが正しい」
「なるほど。……君や君の御母堂が定期的に世話を焼きに行っていたのだな」
「……そうだ」
ガーネットの母親は、ウロビトであるにも関わらず人間の男との間に子を為したという罪により、男と共に里から追放された。しかしそれは建前であり、どうやらウーファンの一家がちゃんと面倒を見ていたらしい。ガーネットはそれを知らなかったのだろう。……その人間の男はどこから来たのかという最大の謎はまだ解明されていないが、何も言及しなかった辺り、彼女も知らない様だ。
「伯母が巫女を抱き、その伯母を守る様に男が傷だらけで死んでいた。
 あの傷跡からして多分、今回巫女を攫ったホロウの仕業だろう。
 あの時、何故ホロウは巫女を連れ去らず伯母とあの男だけを殺したのかは分からないが、
 ホロウが襲うのは掟を破った者ばかりだからな。
 ……伯母は人間と通じてしまったから」
「………」
「ホロウは、巫女を連れ帰り里で守る我らを監視している様でもあった。
 ホロウと巫女は何らかの関係があるのかも知れないが、今も不明だ。
 だがこれだけは分かる……、巫女は返して貰わねばならない」
「……そうだな」
 ウーファンが膝の上で組んだ手にぎゅっと力を込め絞り出す様に呟いた言葉に、クロサイトは同意したし他の三人も各々無言で頷いた。濃い霧に包まれたそこは、今だけはどの魔物が侵入する事無く彼らを休ませてくれていた。



 幽谷の地下三階の、ウーファンが見当をつけてあると言った広場への道程の地図は、本当に簡素なものとなった。既に彼女達ウロビトが見付けてあった抜け道を使うと地図と言うよりもただ道程を書いただけのもので、探索など冒険者に任せると言ったクロサイト本人がちなみに抜け道を使わなかったらどんな構造になっているのだねと聞いてしまったくらいだ。ここを抜ければすぐだと言われた抜け道の反対の突き当りの地面に何か光るものを見付けたギベオンは、少しだけ待ってほしいと我儘を言ってポーチに仕舞っていた平タガネと小型のハンマーで埋まっている鉱石を掘り出した。周りの岩石を慎重に削って姿を表した六角板の形状をしている透明のそれは、光に透かすとキラキラと輝き綺麗なものに見えた。
「綺麗な石だな。それは何だね」
「鋼玉……コランダムですね。赤いとルビーだし、青いとサファイアになる石です」
「えっ、ルビーとサファイアって同じ石なの?」
「うん、宝石界だと赤以外のコランダムがサファイアって言われるんだ。
 鉱物界だと青のコランダムだけをサファイアって言うんだけど」
 鋼玉に含まれる元素の違いによって呼び名が変わるという事は、幼い頃から鉱物学の書籍を好んで読んでいたギベオンにとっては普通の知識であっても他人にとってそうとは限らず、案の定ペリドットが驚きの声を上げたしクロサイトとセラフィも感心した様な顔を見せた。純粋な結晶なのだろう、ギベオンが持つそれは無色透明であったから、ルビーやサファイアといった宝石にはならない。
「硬度もダイヤモンドの次くらいに高いから、盾とかに使えないかなあ。
 ウーファンさん、これ、持って帰っても良いですか?」
「貴様が見付けたんだ、好きにすれば良い。……帰れたらの話だ」
「帰るんです、巫女さんを連れて」
「……そうだったな」
 手に乗せた鋼玉をウーファンに見せたギベオンは、彼女の言葉に何の根拠も無い自信を含ませて返事をした。誰か一人でも弱気になれば生きて帰る事は出来ないと思ったからだ。腰に巻いたポーチの中にその結晶を捩じ込み、行きましょうと言った彼に頷いたウーファンは抜け道を潜り抜けた。
 だが、抜けた先の周囲にある木々や草花の隙間から小さな明かりが寄り集まってきたので全員が足を止めてしまった。今までも導く様に行く先に現れた明かりだが、今回は集まってきたのだ。しかも、心なしウーファンに多く吸い寄せられる様に。彼女がその明かりに恐る恐る触れようとすると、すうと消えた。
「今の明かり……まさか、巫女が……?」
 訝しむ様に呟いたウーファンは、霧に覆われた先に微かに見える扉を睨む。呼んでいるのか、来るなと言っているのか、どちらにせよ今のギベオン達にはその扉を開けるしか選択肢は無い。しかし扉を隔てても全身を襲うおぞましく異様な気配は、全員の背中に嫌な汗を伝わせた。誰一人として入室をさせぬ様に拒んでいるその扉を開けたのは、自分の頬を軽く打ち気合いを入れたギベオンであった。
 開けた先には東へと伸びる広間があり、扉の外で感じたよりも濃く、また凄まじい気配が漂っており、一歩を踏み出すにも勇気が要った。浅い呼吸で何とか震える足を前へ出そうとしたペリドットの肩をセラフィが軽く抱き、またギベオンの背をクロサイトが拳で軽く叩く。たったそれだけの事であったが二人には随分と心強く思えて、行こう、と顔を見合わせ頷いた。
 広間を抜けた先の更に大きな間に、ホロウプレイヤーに似た色の、しかし大きさは似ても似つかぬ程巨大なホロウがゆらゆらと揺れている。周囲には先程の小さな明かりが点いたり消えたりしていて、その明かりの中で歌詞の無い歌を歌っていた。以前、ギベオン達が巫女を助けた時に彼女が歌っていたあの歌だ。ホロウの足元にはその巫女が横たわっており、まるで子守唄の様でもある。
「シウアン!」
 巫女の姿を認めたウーファンが恐らく巫女のものであろう名を叫ぶと、ホロウは歌を止め目を細めながら巫女の前に出た。彼女を返さぬという意思表示だろう。あまりの大きさに怯みそうになったギベオンは、しかしクロサイトとセラフィが交わした会話に脱力した。
「でかいな」
「でかいな。ベルゼルケルよりでかい」
「あっちが獣王だったから、こっちはさしずめホロウの女王だな」
「なるほど、ホロウクイーンか。金切り声とか上げそうだし強そうだ」
 剣を抜き投擲ナイフを取り出しながら女王と呼んだセラフィに対し、担いだ鎚で肩を軽く叩くクロサイトが勝手に名付ける。この人達は肝が据わってるのか緊張感が無いのか分からないなと、ギベオンは盾を構えながら呆れた。
「こんな時まで渾名付けるのやめませんか?」
「何を言う、重要だぞ」
「そうかなあ……」
 こちらの肩の力が抜けた事には有難く思うのだが、しかし今交わす会話でもないだろう。そう思って敢えて突っ込んだと言うのに、二人は至極真面目な顔をして名付けるのは当然だという顔をしたので、ギベオンもペリドットも首を捻ったしウーファンもこいつらは何を言っているんだと眉を顰めながらも錫杖を構えた。彼らの会話の内容を理解したのかどうかは分からないが、巨大なホロウが――否、ホロウクイーンが翼の様にも見える両腕を広げ、眷属を呼び出したからだ。ただでさえホロウクイーンの繰り出す斬撃はウロビトの里の惨状を思うと凄まじいと分かっているのに、おまけの様に呼び出された眷属にも術を使われては堪ったものではない。早々に退場して貰ってクイーンのみを相手にしたいところだ。
「クロサイト、ローズに預けた書物は貰ったか?」
「おや、君から名前を呼ばれるとは思わなかった」
「ふざけている場合か。貰ったかどうか聞いている」
「貰っているが、それがどうしたね」
「それを使って奴らを焼き払え、私は封縛に専念する」
「了解した」
 ローズを介して貰った書物を鞄から取り出したクロサイトを見ずにウーファンが短く伝え、彼も視線をホロウ達の方へと向ける。人間に比べて遥かに巨大なクイーンは巫女の前に立ち塞がる大きな壁の様にも見える。打ち崩せるか、いや、打ち崩してみせるとぎゅっと鎚を握ったギベオンは、体内を流れた電流が右腕に着けているガントレットに向かう様に意識を集中させながら鎚で盾を叩いた。ホロウ達の意識を自分へと向ける為だ。
「ペリドット、お前、弓で後ろから射て」
「嫌です、肩を並べておきたいので」
「……強情者め」
「お互い様です」
 弓は遠隔攻撃であるから剣や鎚と違って接近せずとも攻撃出来るし、接近しなくて良いという事は相手からの攻撃のダメージが距離によって幾分か和らぐという事だ。それを考慮してセラフィがペリドットに暗に後ろに下がれと言ったのだが彼女は弓を構えるのではなく剣を抜きながら軽くステップを踏み始めたので、彼は苦い顔をしながらウーファンがホロウ達の足を封縛する事に成功したなら即座に投げられる様に片手で投擲ナイフを三本構えた。彼女のそのステップは、自分の身を守る為のものではない。他の誰かが攻撃をされた時、反撃を出来る様にリズムを取っているのだ。
「さて、では挨拶代わりに使わせてもらおう、か!」
 クロサイトが声を張り上げ、ウーファンから貰った書物を開いたその瞬間、ホロウクイーンを守る様に立っていた眷属のホロウ二人を目掛けてけたたましい音を立てながら巨大な鳥の形をした炎が飛び出した。炎は見事に彼女達を襲い、それなりのダメージは与える事が出来たらしい。しかしすぐに持っている錫杖を振り上げ、ギベオンに襲いかかってきた。ここに来るまでに居たホロウラウンダーと同じ攻撃だ、と彼が気付いたのは、盾でその攻撃を受け止めた瞬間だ。ビリビリと体に響くその攻撃は間違いなくギベオンの体の帯電を膨らませてくれた。勿論かなりの痛みを伴ったので少しだけ骨が軋んだし顔は歪んだが何とか踏ん張り、ホロウが飛び退くよりも速く盾で錫杖を押し返した彼は、地面が何か不思議な模様の光を浮かび上がらせたのを見た。何度か見た、ウーファンの方陣だった。
「ついでにこいつも食らっとけ!」
 方陣によってホロウ達の足を封じる事に成功したらしいと判断したセラフィが、すかさず構えていた投擲ナイフを投げる。するとギベオンを攻撃したホロウではないもう一体のホロウがクイーンを庇い、ナイフに仕込んであった痺れ薬が効いたのか、弱った様に体をだらりと曲げた。メインはお前じゃないんだが、と思わず突っ込みそうになったセラフィはぐっと堪え、剣を構える。魔物も人間も痺れ薬などの異常には段々と耐性がついていくものであるから頻繁に使っては効き目が薄れてしまうし、何よりナイフにも限りがある。
「……わあぁっ!」
 しかしその時、足を封じられてもゆらゆらと揺れながらこちらを見ていたホロウクイーンが踊る様に両手を上げたかと思うと、先程の子守唄の様な歌とはまた違う旋律を歌い、歌と共に全員の体を氷の刃が襲った。痛くない訳ではないし衣類の破損もあれば怪我もしたが、しかしウロビトの里で見た家屋の破壊やウロビト達の裂傷を思い出せばこれよりも強烈な攻撃をしてくる事は想像に難くない。氷撃に耐えたギベオンはそんな事を思いながら片足にぐっと体重を掛け、地面を蹴って自分に雷撃を食らわせたホロウにお返しとばかりに体内に帯電した電流を鎚に乗せて振り下ろした。同時にペリドットが麻痺したホロウに斬りかかり、ホロウ達は大きく後ろに仰け反りながら霧散していった。
 これでクイーンのみを相手にしておけば良いだろう、とクロサイトは思ったが、クイーンはそんな彼の考えを嘲笑うかの様にもう一度両腕を広げて自分の後ろに眷属を呼び出した。
「まさか無限湧きじゃあるまいな……」
「そうなると厄介だな。クロ、さっきの出来るか」
「どうかな。もう少ししないと多分無理だ」
「そうか、ならこっちを使うか」
 ぼやいたクロサイトに呼吸で体内の気を巡らせ氷撃による出血を止めたセラフィが先程書物を使った炎の壁が出せるか否かを尋ねたが、鳥は羽休みをしたいらしく出てきてくれる気配が無い。ウーファンが精神を集中してずっと方陣を張ってくれているお陰でクイーンの後ろのホロウも足を封じる事が出来ている様なので、セラフィはナイフを節約する代わりに懐から香袋を取り出して隣に居るペリドットに放った。
「……これ、何ですか?」
「一時的に目が見えなくなる香だ。あいつらに向かってばら撒いてくれ。
 ベオ、お前は俺と一緒に来い。目潰しが成功しようがしまいが先に後ろを叩いた方が良い」
「はい」
「行くぞ」
「はいっ」
 セラフィの掛け声と同時に走り出した三人は、目眩ましの為にそれぞれ別方向へと向かった。風上に向かったペリドットがまず香袋の紐を解き中身を撒くと巨体故に香をかわせなかったクイーンは目を覆ったが、後ろのホロウ二体は風下に居たホロウにしか効果は無かった様だった。だが三体中二体に効いたのであれば上出来だ。
「ベオ、九時の方のホロウに行けっ! 俺はこっちを仕留める!」
「はい!」
 セラフィは目を見えなくしたり麻痺させたりした魔物の息の根を止める事を得意としている。それは夜の樹海を仕事場とし、また庭の様に自由に駆ける中で取得した技術だ。彼が一部の者達の間で夜賊と呼ばれる所以でもある。それを疎ましく思った事など無いが、かと言って誇らしく思うかと言えばそうでもない。対人間であれ対魔物であれ、麻痺などの異常で弱らせたところにとどめを刺すという行為は確かに褒められたものではないからだ。香によって目が見えなくなっているホロウにセラフィが駆け抜けざまに一撃を食らわせると、呆気無く死んだ。それを確認した一瞬後に地面を蹴り、重装備故に自分よりも速く走れないギベオンのフォローに回る為に彼が鎚を振り下ろしたホロウ目掛けて駆け出した。
 一方、香を撒いたペリドットは先に剣でクイーンに斬り掛かっていた。他のホロウと同じく手応えがあるのかどうかいまいち分かりづらいが、痛みの悲鳴が聞こえた辺りそれなりに効いている様だ。しかしクイーンは見えないなりに彼女の気配を嗅ぎ取り、翼の様な腕を振り下ろした。
「きゃあぁっ!」
「?!」
 その袖は勢い良く振り下ろされると刃の様になり、香の効果で見えなかったからか紙一重で避ける事が出来たペリドットは、しかし凄まじい風圧で転んでしまった。袖が掠っただけでも切り傷が腕に出来、なるほどこれではウロビトの里のあの惨状も頷けると彼女はどこか冷静に考えていたが、次の一撃を繰り出されようとしていたので体勢を立て直そうとすると、黒い影が自分を抱えてその場から離れてくれた。
「ごめんなさい、有難う御座います」
「怪我は」
「大した事ありません」
「前に出過ぎるな、下がれとは言わんから」
「はい」
 助けてくれたのは、やはりセラフィであった。彼が下がると同時にクイーン目掛けて鎚を振るったクロサイトが気を逸らしてくれたお陰で何とか無事であったペリドットは後ろに居ろと言われるかと思っていたのだが、言っても無駄だと判断したらしいセラフィが譲歩してくれたのでほっとしていた。ギベオンが倒したホロウは最後の力でクイーンの傷を癒しており、仕切り直しと言わんばかりにクイーンは両腕を広げ、不思議な息吹を吐く。それを見たクロサイトが後ろに飛び退きながら苦い顔をした。
「どうやら女王様は足の封じをご自分でどうにか出来る様だ」
「えぇっ……どうするんです?」
「ウーファン君に頑張ってもらうしかないし、彼女が集中出来る様に私達がもっと頑張るしかない」
 ギベオンが合流し、先程の様にペリドットが攻撃されない様にと鎚で盾を鳴らしてクイーンの気を引きながら、クロサイトの言葉に若干顔を引き攣らせる。しかし本当に頑張るしかないので、鎚を持つ腕に意識を集中させた。
 足を封じられていない状態のクイーンには、とにかく攻撃が当たらなかった。剣も鎚も霞を擦り抜ける様であるし、唯一絶対に当たる炎の鳥もそう頻繁に使役出来るものでもなく、香の効力が切れた後は的確にこちらを狙ってくる斬撃やぽっかりと空いた虚空の様な目を見開き惑わせ、ギベオン達を錯乱させたりもした。幸いにも金糸絹笠茸のお陰でそこまで被害は無く、またクロサイトがその度に正気に戻してくれたが、彼が混乱していたらと思うとギベオンはぞっとする。ウーファンが張ってくれている方陣から湧き出る気の様なものは掠り傷程度なら癒してくれるが、クイーンの斬撃による怪我はさすがに癒やしきれなかった。身軽さを武器とするセラフィやペリドットは何とかクイーンの斬撃を避ける事が出来ても無傷という訳にもいかず、出来得る限りギベオンが庇った。そうなると彼の体の軋みは増し、動きも鈍くなる。何度も体の中の電流を鎚に乗せてクイーンに叩き込んだお陰でガントレットの下の腕は火傷を負い、感覚も無くなってきた。しかし、確実にクイーンの体力も減らす事が出来ている手応えはあった。後は、お互いの我慢勝負だ。
「もう、そろそろ、決着をつけんと、まずいな」
「ん……、全員危ないな」
 口の中の血を吐き出して呟いたクロサイトに、セラフィが肩に負った傷の出血を止める為に深く呼吸をして体に気を巡らせながら短く同意する。クイーンの斬撃やアリアに乗せた氷の刃を、セラフィやペリドットを庇いながら耐え続けていたギベオンも体力の限界が近い。ウーファンやセラフィ達がクイーンの相手をしている合間に止血などの応急処置をクロサイトにして貰っていたとは言え、出血のし過ぎなのか足が覚束ない。ペリドットも足元が縺れ始めているし、方陣をずっと張り続けていたウーファンは半分意識を失い、それでも錫杖を杖替わりにして気力だけで立っている。追い討ちをかけるかの様にクイーンは大きく息を吸ってから吐き、封じられた足を自ら自由にした。
「フィー、ナイフはあと何本ある」
「……一本」
「ウーファン君がもう封縛出来そうにないし、麻痺するかも分からないし、一か八かだな……
 僕も目が霞んできた」
 全員がぼろぼろの風体であるのを確かめ、クロサイトがセラフィに手持ちの投擲ナイフの残数を尋ねると、セラフィは最後の一本をジャケットの内側から取った。彼がその最後の一本を投げる為ではなくお守り代わりにして大事にしていると知っているクロサイトは無駄にはさせたくなかったし、また手元に戻ってくる様にもさせたかったから、クイーンの足を封じられない上にギベオンが囮になっては死んでしまうと思ったので、疲労で霞む片目を誤魔化す様に頭を振って鎚を構えた。
「僕が囮になる、お前はその隙を狙ってナイフを投げろ。少しは成功率が上がるだろう。
 聞こえたかねベオ君にペリ子君、フィーがナイフを投げたら君達が攻撃してくれ」
「おまっ……、死ぬぞ!」
「全員死ぬより余程良い! この中でまともに動けるのは僕だけだ! 良いな!」
「っ……」
 足を引き摺りながら前へ出たクロサイトは、クイーンを睨みながら怒鳴った。確かにローズから貰ったお守りの力によりクイーンの氷撃が和らいだお陰で今囮になれる様な動きが出来、体力が残っているのはクロサイトだけだ。こちらと同様クイーンも動きが鈍く、限界が近いらしく、痺れ薬が効いたなら全員で叩き込めば恐らく倒せる。それを理解出来ぬセラフィではなく、死ぬと分かってみすみす了承したくはなかったが、現時点での最善の策はそれしか無いのだ。
 だが、分かったとセラフィが声を絞り出す前に、大きな金属音が耳を劈いた。驚いたクロサイトとセラフィがその音の方を見ると、ギベオンが盾を鎚で打ち鳴らしながら足を引き摺って前へ出ようとしていた。
「……クロサイト先生には、クイーンを倒した後に皆の手当てをして貰わないといけませんので、囮は僕がやります」
「ベオ君!」
「クロサイト先生、仰いましたよね。内臓の強さ、骨や関節の頑丈さ、体の強靭さ、どれを取っても申し分ないって。
 なら、まだ耐えられる筈……いえ、耐えてみせます。何せ僕は皆の盾になるフォートレスですので」
 クロサイトを振り返らずにそう言ったギベオンの声は震える事も掠れる事も無く、また恐怖の色も微塵に感じられなかった。それどころか普段以上に落ち着き、微かな充足すら感じられる。それはクロサイトだけではなく、ギベオンの表情は見えなくとも声は聞こえたセラフィやペリドットもそう感じられた。
 彼は、正式に叙階していないが城塞騎士である。代々その騎士を名乗る家に望まれなかったとは言え生を受け、代々の当主達から受け継いだ強靭な肉体は、確かに壁となり盾となるに相応しい。何より、そうある事が誉れであり名誉だ。だが正直なところギベオンは今までそう思った事は無く、単に「城塞騎士とはそういうもの」という教育しか受けてきていないからいまいちピンと来なかったのだが、今ここに来て漸くその片鱗が掴めた気がした。後悔しない様に誰かを庇え、というセラフィの言葉が、やっと腹の底まで落ちてきてくれたのだ。

 ――そうだ、僕にはこの体がある。一瞬の隙を作る事が出来れば十分だ。

 それは後ろに控えるクロサイト達への絶対的な信頼があり、且つその後を託せると判断して初めて思える事であり、たった二十年余りしか生きていない中でそんな風に思える者が出来た事はこの上無く幸福な様に感じられたギベオンは、珍しく口角を上げて笑った。背筋を流れる電流、足を覆う浮遊感、全身を巡る血が沸く様な錯覚。彼は、これが何と呼ばれるものであるかを知っている。否、たった今理解した。――歓喜というのだ。これを。
 クイーンの腕から繰り出される斬撃が恐ろしくないのかと問われれば、怖いとはっきり答える事は出来る。しかしその恐怖以上に、この身を以てして後ろの者達への被害の拡大を少しでも食い止められるのであればその悦びは恐怖に勝る。あまりに打撃を受け過ぎたせいでハイになっているのか頭がおかしくなったのか、それとも虚無を感じさせる様なクイーンの目の幻惑にあてられたのか、ギベオンには分からないし分かる必要も無い。目的はただ一つ、自分が囮になって隙を作る事、それだけだ。
 彼のその表情に目を細めたクイーンは、踊るかの様に揺れながら両腕をひらりと上げた。作れる隙は恐らく一瞬。ギベオンはぎゅっと口元を引き締めて盾を構え走り出し、クイーンは彼目掛けて腕を降り下ろした。
 だが、その時。
「………?!」
 襲い来る筈の衝撃は無く、代わりに辺りの地面に目映い光の紋様が浮かぶ。驚いたのはギベオンだけでなくクイーンも同様で、彼女は目を見開いて驚愕の表情を見せながら降り下ろす途中の腕を宙に浮かせていた。その腕は、紛れもなく封じられていた。
「――はやく!」
 そして後方から聞こえた必死の叫びに、いち早く弾かれた様に振り返ったのはクロサイトだった。聞き覚えのある幼い声は彼がよく知る少女のもので、まさかこんな所に一人で来る筈が、と思ったのだが、果たしてそこに居たのはウロビトの里で自分達を見送ってくれたローズだった。
「はやく! わたし、まだみじゅくだから、そんなにながくはふうじられません!」
 ウロビトの子供達が使う練習用の、しかし自分の背丈よりも長い錫杖を地面に突き立てそう叫んだローズはクロサイト達を追い掛けて来たのか、怪我だらけの小さな体を辛うじて立たせている様であり、薄紅色のワンピースは所々破損が見受けられる。彼女が張った方陣によって腕を封じられたクイーンは慌ててギベオンから飛び退こうとした。
「フィー! 投げろ!」
「こいつで看板だ、最後の一本じっくり味わえっ!!」
 その隙を逃す筈も無く、クロサイトが叫んだと同時にセラフィが黒い柄に蝶の装飾が施された投擲ナイフを渾身の力を込めて投げた。クロサイトの医学と薬学の師であり、セラフィの薬学とナイフの師でもあった者から生前貰ったものだ。足を封じていないクイーン相手に当たるかは賭けであったが、自分を含め全員の命が掛かっているとだけあってセラフィもどの一投よりも力が篭っており、仕留められた筈の人間に刃の翼を振り下ろせず動揺していたクイーンに見事に命中した。そしてその刃に直前に仕込んだ痺れ薬は幸いにも効いたらしく、クイーンは封じられた腕で顔を隠した。
「今だ! 続け!」
「はい!」
「お、あ、あああぁぁぁっ!!」
 投擲ナイフの軌跡を追う様に、渾身の力を込めた鎚で、剣で、盾でクイーンに攻撃を叩き込むと、一斉に襲われたクイーンはかわす事も逃げる事も叶わずまるでアリアを歌うかの様に空を仰ぎながら断末魔の金切声を上げ、辺りの深い霧に溶けるかの様に霧散した。その場に残った静寂は、彼らがクイーンを倒した事を教えてくれていた。
 クイーンが消えた虚空を暫く呆然と眺めていたギベオンは、全身から力が抜けてその場にどすんと尻もちをついた。それと同時に方陣の光が弾ける様に細かな光となってその場の全員を包む。不思議なその光によって、ギベオン達の体の傷は僅かではあるが塞がっていた。方陣にはこういう使い方もあるらしい。
 音を立てて地面に落としてしまった盾は損傷が激しく、罅も至る所に入っているからもう使い物になりそうにない。しかし自分自身を盾にしようと心の底から思えた事は随分な成長の様に思えて、ガントレットを外し鎚に放電し過ぎて火傷を負った自分の腕を見てから拳を作り、ぐっと空へと突き上げた。勝った、とその時初めて実感した。
「シウアン!」
 そんなギベオンの横を、ウーファンがふらつく足を何とか動かしクイーンが居たよりも向こうで横たわっている巫女に駆け寄る。縺れそうになっている足取りがかなり不安であったが、彼女は倒れこむ様に巫女の側に座り込んだ。ウーファンの呼び掛けに意識を取り戻したのだろう、巫女は緩慢な動作で起き上がり、ふるふると頭を振った。寝起きの様だとギベオンは思った。
「シウアン……良かった、無事で…… 本当に良かった……」
 座り込んだウーファンが両手を膝に置き、ぽろぽろと涙を零しながらそう言うと、巫女は血や泥で汚れてしまったウーファンの頬をそっと包んで顔を覗きこんだ。傷だらけの体を労る様に、とても優しく。
「……ウーファンが戦っているところ、 傷ついているところ、わたしが眠っている間、みんな見てたよ。
 不安にさせちゃってごめんねウーファン、大好きだよ。これからは思った事、ちゃんと言うね。
 だからお願い、これからもわたしと一緒に居て」
「……はい」
 本当はもっと何か言いたかったのだろうウーファンは、しかしそれ以外何も言う事が出来ず、ただ一言頷いてから自分の怪我も構わず巫女を抱き締めた。自分が巫女を思い詰めさせてしまったという自責の念はその時やっと消えたらしい。巫女もウーファンの細い体に手を回して抱き締め返すと、啜り泣く様な声が聞こえ始めた。その泣き声がウーファンのものであるのか巫女のものであるのかは今は知る必要も無い。
「――一人で来たのかね」
 メディカなどの応急処置道具を取り敢えずギベオン達に寄越し、後でちゃんと処置すると言ったクロサイトは、先にローズに手当をする為に手招きをして恐る恐る側まで来たローズにそう尋ねた。万が一にも無いだろうが怒鳴ったりしないだろうかとはらはらしながら火傷を冷やすギベオンが見守る中、ローズは小さくはい、と返事をした。
「危ないと分かっていて、どうして来たのだ。君に何かあったらガーネット君に顔向けが出来ん」
「……から……」
「うん?」
「……せんせいのおやくにたちたかったから……」
「………」
 問いかけに俯いたまま呟く様に答えたローズに、クロサイトは沈黙する。自分達を追って来たから抜け道も通ったであろうが魔物に襲われる危険が無い訳ではなく、こんな小さな体を擦り傷だらけにして危険を冒してまでここまで来たのは、そんな細やかな理由であったらしい。確かにローズが張った方陣のお陰でギベオンは最悪の事態を免れたし、クイーンを動揺させる事も出来たので、ローズの功績は本当に大きなものだ。しかし、クロサイトは手放しに褒める事は出来なかった。
「その気持ちは本当に嬉しい。君のお陰で皆が無事だった、それは礼を言おう。
 だが、もう二度とこういう真似はしないでおくれ。君に何かあれば私も悲しい」
「………」
「ちゃんと会いに行くから。約束する」
「はい……」
「良い子だ。里に戻ったらこの間の絵本の読み聞かせをしてやろうな」
「ほんとう? えへ……」
 細い腕に刻まれた傷を壊れ物に触るかの様に手当てするクロサイトは、ローズが頷いて返事をした事に漸く少しだけ笑みを見せた。もしウロビトの里が開放され、人間が行き来する様になれば、ローズが一人でタルシスにまで足を伸ばしかねない。別にそれは悪い事ではないし、巫女がウロビトの里から出て外界を知る事も必要だとも思っているクロサイトにとって逆に望ましいのだが、かと言って魔物がうろつく深霧ノ幽谷をローズ一人で歩かせられるかと問われれば断固として首を横に振る。
 そこまで大きな怪我をしていなかったローズの手当ては比較的早く終わり、またローズが方陣を破陣して傷を癒してくれたお陰でギベオン達の手当も軽いもので済んだ。一頻り泣いて落ち着いたのだろうウーファンと巫女が照れ臭そうに彼らの側に歩み寄り、礼を言ったので、詳しい話は里でしたいとクロサイトが申し出ると、ウーファンは今度こそ歓迎の茶の席を設けようと言ってくれた。また、巫女はローズを初めて見たらしく、驚きながらも新しいお友達だとはしゃいで里への帰途を賑やかに歩いた。全員くたびれていたが道中の魔物を蹴散らせない程ではなく、またウーファンやローズなどの方陣を操る者は大地の気を操る事を得意としており、その気の流れを利用して術者と歩みを共にしている者の傷を僅かずつ癒してくれる能力を持つらしく、里に戻る頃には巫女を除く全員の傷はほぼ塞がっていた。
 里へ戻ると怪我をして以来定期的に里を訪れては家屋の修繕を手伝ったり医薬品の差し入れをしているワールウィンドが来ており、ギベオン達が巫女を連れ帰った礼に用意された茶の席――本当はウロビト達は宴の席を設けたかったらしいのだがクロサイトが茶の方が巫女殿もゆっくり出来ると申し出た――に同席して貰うと随分と恐縮していた。助けたのは君達だし俺はここでちょっと手伝ってただけだよと辞退しようとする彼を留めたのはローズで、おかしもってきてくれたしみんなとあそんでくれました、と言うローズの言葉を受け、ウーファンももてなす意思を見せた為、少し居心地は悪そうであったが巫女やギベオン達の話を聞いていた。そして一足先に帰ると言った彼は、クロサイトから君も足を突っ込んだ以上は見届ける義務があると言われ、翌日の辺境伯との謁見に不承不承同席する事となった。
 クロサイトが渡した辺境伯の手紙をウーファンに読んで貰った巫女は、返事は手紙ではなく直接会って話がしたいと言った。外に出たい、他の人間に会ってみたい、外の世界を知りたいという巫女の意思表示を、ウーファンは今度こそ受け入れ静かに頷いた。ただ、やはり全員疲れていたので早々にお開きにした後に里で一晩休ませて貰って翌日戻る事にしたのだが、クロサイトは約束をしたからとローズの家で絵本の読み聞かせをしに行き、二人に就寝の挨拶をして見送ったギベオンは用意された部屋の寝台に滑りこんで暫くコランダムを眺めていたが、いつの間にか眠っていた。彼にとっての長い一日が、やっと終わった。



 タルシスに戻り街門でウーファンと巫女を気球艇から降ろした時、彼女達はそれはもう周りの者達から好奇の目で見られた。特にウーファンは体躯からして人間とは異なるものだから、驚愕の眼差しを一気に受けた。ただ、彼女はそこまで背が高い訳ではないからさり気なくギベオン達がウーファン達を自分達の体で隠れる様にしながら歩き、そのまま統治院へと向かった。ワールウィンドと約束をしていた時刻と前後していたので彼はちゃんと統治院の近くの広場で待っており、合流して辺境伯を尋ねた。
 ウロビトの里から戻ってまっすぐに統治院に足を運んだ為、ギベオン達の格好はお世辞にも綺麗なものとは言い難かったのだが、この統治院は冒険者が数多く訪れるのでドレスコードというものは存在しない。命懸けで探索から戻った者を格好だけで拒絶はしないというスタンスの辺境伯は変わり者であるかも知れないが、そこが住民や冒険者達に好かれる所以でもあるだろう。そんな辺境伯に対面し、緊張した面持ちで座っていた巫女であったが、すぐに彼の人の良さを感じ取れた様だった。
「……なるほど、詳細な報告を有難う。つい聞き入ってしまった。大変難しい任務を達成してくれた、十二分な成果だ!
 諸君らの様な冒険者を擁する事はタルシスの誇りと言えよう。それと、君の様な職員を擁せる事は私の自慢だな」
「お世辞は結構です」
「私はお世辞というものが嫌いだ」
「左様で御座いますか」
 辺境伯が心の底から満足した様に頷きながら腕の中の愛犬の頭を撫でて言った辺境伯に、クロサイトは特に何の感慨もなく返答する。しかしこういう男であると分かっている辺境伯も気を悪くする事無く、今度はちまりと座っている巫女の方へ優しげな目を向けた。
「ウロビトを統べる巫女、そしてお付のウロビトの女性、人間の街タルシスへようこそ。私達はあなた方を歓迎致します。
 こちらの記録には残されていませんが私達人間とウロビトの間には哀しい過去があったと、先だってクロサイト君から聞きました。
 それは決して忘れて良いものではありませんし、事実を調べて私達はそれを知らねばなりません。
 それらを全て知った上で、あなた達と共に暮らしていく道を模索したいと思います」
 辺境伯の巫女に対する声や言葉は、子供に対するそれというよりも一つの種族の長に対する敬意が篭められていた。堅苦しい訳でもなく、かと言って砕けすぎず、丁寧なその物腰は見事なものであった。巫女だけでなくウーファンの肩の力も抜いたその言葉に、巫女は身を乗り出して辺境伯に尋ねる。
「本当? ウーファン達もこの街に来られる様になるの?」
「ええ、勿論。私達人間が知らない歴史を、ウロビトの方々は多くご存知の様だ。それらを学ぶ機会を、どうか与えて貰いたい。
 ウロビトの里の門戸を我々人間に開放して頂く事になりますが……」
「うん……、うん、私達も人間の事をもっと知りたい。よろしくお願いします」
 辺境伯が頭を下げるより先にぺこと小さな頭を下げた巫女の決定は、ウロビト達の総意となる。突如として人間が里に訪れる様になったなら戸惑い、混乱も起こるだろうが、かと言ってタルシスにウロビトが訪れる様になった時に混乱が起こるかと考えるとそうでもないのではないかと思えるのが不思議だ。何となく、ギベオンはそう思う。
「……という事だ、ワール君」
「は?」
「は? ではない。ウロビトの里の門戸が開く様になったのだ、ベテランの君が率先して探索に向かうと良い」
「……え、俺はてっきり君らがこのまま冒険者に復帰するものだとばっかり思ってたけど」
「何度言わせるのだ、私は単なる医者であって冒険者ではない。
 そこの彼も故郷に帰さねばならんし、新婚の夫婦を危険な探索に行かせる様な鬼でもない」
「……君、その為に俺を同席させたな?」
「何か問題あるかね?」
「無いけどさあ……」
 会話を続けている巫女と辺境伯を見遣りながらクロサイトが言った言葉に、ワールウィンドは参ったな、と言った風に癖っ毛の頭をガリガリ掻いた。確かにクロサイトはウロビトとの交渉は引き受けてもそれから以降は干渉しないと宣言しており、何ら齟齬は無い。加えて、ワールウィンドはクロサイトが言う通りベテランの冒険者だ。深霧ノ幽谷だけではなく、幽谷の北にある谷も開放出来るだろう。碧照ノ樹海にもあった石板は恐らくホロウクイーンと戦ったあの広間にある筈だから、然程時間はかかるまい。クロサイトはそう考えていた。
「……城塞騎士より牙城の守り堅そう……」
「うん……」
 そんなクロサイトを見ながら引き攣った顔でぼそっと呟いたギベオンに、ペリドットもなんとも言えない苦い笑みを浮かべながら同意する。二人の会話の意味が分からなかったセラフィは、しかし突っ込んで聞く事はせずにただ首を傾げただけだった。



 冒険者達が深霧ノ幽谷の地下二階へ行ける様になってからというもの、元から活気があったタルシスの街は更に輪をかけて活気溢れる街となった。巫女を救助する事が優先であったからクロサイト達は採集に力を入れなかったし、魔物をよく観察もしなかったから、情報交換をする者達が酒場に集う様になったらしい。結構な事だと思いながらも自分には病人や怪我人が担ぎ込まれる以外は関係の無い事として考えているクロサイトは、街の病院から帰宅する途中でキルヨネンと擦れ違った。
「やあ、クロサイト殿。今回は随分な功績を上げたのに街医者の肩書を替えるつもりは無いそうだね」
「私は単なる医者なのでね」
 誰から聞いたのか、キルヨネンも深霧ノ幽谷の出来事を挙げてきたので、そろそろうんざりしていたクロサイトはそれでも顔色一つ変えず白衣のポケットに手を突っ込んだまま簡素に答える。自分が幽谷に行っている間に診療所の代役を頼んでいた病院のスタッフ達に礼を言いに行った帰りだったのだが、そこの者達からもそのまま冒険者にでもなるのかと思った、何で復帰しないのかと散々尋ねられた後であったからそこそこ疲れていて、いつもは伸びている背筋が少し曲がっているクロサイトにキルヨネンはそうか、と困った様に微笑した。
「君も、このタルシスに来てそれなりに長い。北の大地へ行ける様になったなら探索へ行くと良い」
「そうだね……、そのつもりだ。陛下の悲願を達成する為にも」
「双臂王から探索を賜っていると言っていたな、そう言えば」
「ああ」
 そこまで親しい訳ではないが、キルヨネンが怪我をした時に手当てを施した事があるクロサイトは、彼がこの街に来た大まかな理由を聞いていた。水晶宮の双臂王の命令で、とある魔物を探しているらしい。詳細は聞かなかったからその魔物がどんなものであるかクロサイトは知らないのだが、自分には関係の無い事だと思っているので知る必要も無いと判断していた。
 クロサイトは、この街が冒険者で溢れる事は本当に結構な事だと思っている。しかし自分が探索に向かう意思があるかと言われれば、無いと答える。獣王を倒した当時の自分と弟はまだ若かったし、危険を冒す事の恐ろしさもそこまで感じるものではなかった。何より、あの当時は大きな怪我を負っても何とかしてくれる者が、師が居てくれた。だが、今はもう居ないのだ。自分があんな存在になれるとは思っていないクロサイトは、だから誰かと共に探索するつもりにはなれなかった。
「……しかし、今から酒盛りかね? 君にしては珍しいな」
「はは……、ちょっとふられてしまってね」
「ほう?」
 話を切り替える為、キルヨネンが足を向けている先にある孔雀亭を振り返る様に言ったクロサイトに、彼は肩を竦めて見せる。意中の娘が居たとは思わなかったし、またふられるとも思えなかったので、クロサイトも驚いてしまった。
「君の様な美麗な男性をふるとは、また。奇特な女性も居るのだな」
「その人にとって僕以上に魅力がある方が居るんだそうだ。人の心は外見だけでは動かす事は出来ないよ」
「それもそうだな。御愁傷様としか言い様が無いが、また良い出会いがあるさ」
「……あんな良い人がそうそう居るとは思えないけど、そうある事を願うよ」
 キルヨネンは、顔立ちも性格も申し分無い上に本国の王からの勅令を受けてこのタルシスに滞在している、言わばエリート中のエリート騎士だ。そんな彼をふった女も気になるが、彼以上に魅力があると言わしめる男とはどういう者なのだろうという下世話な好奇心がクロサイトにだって無い訳でも無い。だが聞こうとも思わないし、何より早いところ傷心を慰める酒を飲ませてやりたかったので、立ち話を早々に切り上げて別れた。
 キルヨネンと別れた後の帰途、診療所に戻る階段の踊り場で夕焼けに染まる世界樹が見え、クロサイトは自然と立ち止まる。毎日の様に見る景色だが、毎日違った様にも見えるし、変わらない様にも見える。ただ、彼の目にはこの時間帯の、夕日の光を照り返すと言うよりも吸収して燃えている様に見える世界樹が強烈に残り、どの時間帯であっても世界樹が紅く染まっている様に映る。禍々しい様な、ぞっとする様な、歪んだ世界だ。
 片目しか利かないクロサイトは疲労が溜まればホロウクイーンと戦っていた時の様に視界が霞み、最悪の場合は一時的に見えなくなる。だが平常時は日常生活に支障を来す事が無く、他人と、例えばセラフィと同じ様に世界が見えている。しかし、世界樹だけは別なのだ。いつでもどこでも、彼の目には世界樹が燃えて見える。これからもずっと、恐らく死ぬまでそう見えるのだろう。それでも構わないとクロサイトは思っている。
 空に浮かぶ無数の気球艇は、これから探索に向かうのかそれともタルシスに戻ってきているのか区別がつきにくい。冒険者で賑わうこの街の、いつもと変わらぬ光景だ。気球艇と言えば今日はギベオンが帰郷の前にウロビトの里に向かって巫女やウーファンに別れの挨拶をしてくると言っていたから、そろそろ戻ってくる頃だろう。彼は、数日後にこの街を離れる事になっていた。本国に戻るかどうかを迷っていた様だが、どうやら戻る事にしたらしい。
 彼も随分成長し、一端の城塞騎士になった様にクロサイトは思う。あのホロウクイーン相手に隙を作る為、自分の命を投げるかの様に走って行ったあの後ろ姿は、紛れも無く壁となり盾となるフォートレスのものだった。それまではただ他者を庇う事が義務であるという周囲の認識を諾々と受け入れ体現していただけの様に見えていたし頼りなかったが、あの時は自分の意思で皆を守る為に走って行った様に見えたし、その背がひどく大きく逞しいものに見えた。本国に戻ればそう時を経ずしてキルヨネンと肩を並べられる程のフォートレスとなるだろう。ただ、守る相手が誰であれ、あんな風に自分の身を犠牲にする様に飛び出していかないで欲しいとも思う。
 素直で嘘を吐く事を知らず、我慢強くて喜怒哀楽がはっきりとした男だった。ああいう者とであれば探索に出る事もやぶさかではないが、とちらと思ったクロサイトは、そう考えてしまった自分に対して眉を顰め緩やかに頭を振った。彼の頭上には、ビロードの様な夜空が迫り来ようとしていた。



 その日は、ギベオンが初めてタルシスに来た日と同じでよく晴れていた。快晴とまでは言えないが僅かばかりの薄雲が青い空を滑っては消えていく、そういう空の下で、ギベオンはタルシスに来てから増えてしまった私物を纏めた荷物を両手に診療所の前に居た。
「では、本当にお世話になりました。このご恩、忘れません」
「君も元気でな。ジャック君によろしく伝えておいてくれ」
「はい。セラフィさんもペリドットも、体に気を付けて」
「ん……」
「また会えたら良いね。キルヨネンさんみたいに双臂王様からタルシスに行けって言われたりして」
「僕はそんなに地位も身分も高くないよぉ……」
 別れの挨拶をしたギベオンに、ペリドットがからかう様に笑って言う。湿っぽい事があまり好きではない彼女は別れもあっさりしたものの方が性に合うらしく、以前タルシスを離れる時も殆ど暗い表情を見せなかった。そんなペリドットと眉根を下げて笑うギベオンの会話に口元を隠したクロサイトは、これ以上引き留めていては後ろ髪を引いてしまうと判断してではな、と言った。
「……じゃあ、失礼します」
「……うん」
 ギベオンもそのクロサイトの気遣いを察知し、軽く頭を下げてから背を向け、そして階段を下りていった。ギベオンがこの診療所に来てからまだ一年経っていないが、随分と長い事世話をした様な気がしてクロサイトは胸に過った寂寥感の代わりに眼前に広がる青空を何となく睨んだ。彼の後ろに居たセラフィとペリドットは顔を見合わせたが、かと言って何か声を掛ける事も無く、クロサイトが動く事をじっと待っている。放っておけば何時間でもそこに立ったままで居そうな背中だと二人には思えた。
 どれだけそうしていたのか、時間に直せば数分であっただろうが体感時間としてはもっと長くその場に居たのではないかと錯覚したクロサイトは、漸く踵を返して診療所に入ろうとした。しかしその時背後から聞こえてきた、階段を駆け上がってくる足音に思わず立ち止まり、そして振り返る。彼の視線の先には肩で大きく息をしながら体を上下させ、必死に息を整えようとしている体格の良い褐色肌の男が居た。

「――水晶宮の都から参りました、ギベオンと申します!
 この度は世界樹へ向かうギルドを結成するにあたって、
 こちらの診療所にいらっしゃるクロサイト医師にご協力のお願いに馳せ参じました!」

 そして大きく息を吸ったかと思うと一気に捲し立てられ、思いもしなかった事を言われたクロサイトは驚愕の表情のまま暫く声が出せず固まってしまった。全速力で上ってきたに違いないギベオンの表情は真剣そのもので、冗談や嘘を吐く事を知らない彼が本気である事を教えてくれている。小心者の彼がこんな事を宣うとも思っていなかったから、余計に動揺していたというのもある。
「……君を必要としてくれるギルドくらい、いくらでもあるだろう」
「キルヨネンさんからお誘い頂きましたがお断りしました!」
「……まさか、彼をふったというのは君か?!」
 そして漸く呟けた言葉へのギベオンの返答に、今度こそ素っ頓狂な声を上げたクロサイトは先日擦れ違った時に話をしたキルヨネンの顔を思い出していた。憂いを帯びた笑みで零された、ふられてしまったというキルヨネンの言葉から愛の告白の意味だとばかり思っていたが、どうやらギルドへの誘いの事であったらしい。同郷の同業者、しかも自分が王に掛け合って聖印記章を渡した男が帰郷するとなれば、誘いたくもなるだろう。何せキルヨネンは王から直々に主命を賜っているのだ、そんな彼のギルドへの誘いは王の意思でもあると言っても過言ではない。それを、蹴ったというのだ。水晶宮の宮廷騎士となったこの男は。何とも不敬な、とクロサイトは思わず片手で頭を抱えた。
「私は単なる医者であって冒険者ではないと君も再三聞いた筈だが?」
「今から冒険者になってください!」
「君と私だけで探索に行くつもりかね? 命知らずにも程がある」
「セラフィさんとペリドットはクロサイト先生が行かれる事を条件に同行する事を了承してくれました!」
「?!」
 そして押し問答の末に言われたギベオンの言葉にクロサイトは自分の後ろに居る弟夫婦を振り返ったのだが、二人は特に何かを言うでもなく再度横目でお互いを見た後クロサイトに向かって軽く肩を竦めた。うっすらと、笑みを浮かべながら。先にこの二人を懐柔したか、やられた、と苦い顔をしたクロサイトはペリドットが微笑みながらギベオンを指差したのでもう一度彼を振り返り、目を見開いた。どこに仕舞っていたのか、彼の手には昔碧照ノ樹海で手に入れた石板と同じ形状の石板が乗っていた。
「僕がこれを持っています。だから、僕じゃないとあの谷は開放出来ません。
 でも、僕はクロサイト先生とセラフィさんとペリドットが居ないなら行きません」
 その石板は、ホロウクイーンを倒した後にペリドットが見付けたものだった。セラフィが最後に投げた投擲ナイフは師の形見であったからクロサイトがローズの手当てをしている間に探していて、手伝っていたペリドットが広間の奥に安置されていた祭壇で見付けたのだ。風馳ノ草原の北に位置する谷の入口の石碑に嵌められた石板と同じだとすぐに気が付いた彼女は、それを密かに持ち帰っていた。そして巫女とウーファンを辺境泊に会わせた際にクロサイトがワールウィンドに対し自分達は先に進むつもりは無いと言ったので、診療所に戻ってからギベオンと共にセラフィに対してあの先に行ってみたいと申し出た。勿論セラフィは中々首を縦に振ってくれなかったのだが石板をペリドットが持っている事、ギベオンが貴方達と共にでなければ嫌だと自分の意思をはっきりと伝えてきた為、あの石頭を説得出来たらなと条件付きで最終的には頷いた、というより折れた。
クロサイトを説得してみせるから石板を嵌めるのは待っていて欲しいと、ギベオンは辺境伯にもワールウィンドにも伝えてある。彼らもあの頑固者を君が説得出来るのかと最初は訝しんでいたが、ギベオンが説得してみせますときっぱり言い切ったので待とうと言ってくれた。ただ、ワールウィンドはギベオンの人の良さを懸念したのか、そんなんじゃいつか傷付くよ、信頼してる誰かに裏切られた時には特に、と忠告してきた。ギベオンはその言葉に何か引っ掛かるものを覚えたし、思い出せば胸に蟠りが生じるが、今はそれは問題ではない。
「……それは脅しかね?」
「交渉の札です」
「私は君の体を治しはしたが、悪知恵が働く様にした覚えは無い」
「一年近くお側に居ました、似たのかも知れません」
「私では君達を守る事は出来ん!」
「だから僕が皆を守る盾となります! なってみせます!!」
 診療所に来た頃はクロサイトから見られただけでも怯えていたギベオンはもう睨み付けられただけでは怖気づかず、大声を出されても尚食い下がって怯む事無く声を張り上げた。その必死の形相は、彼がもうクロサイトに対して患者としてではなく一人の人間として向かい合っている事を物語っていた。
「僕はまだ未熟者だから、守りきれなくて怪我だってさせる事も多いと思います。
 だけど僕が出来得る限り盾になりますから、クロサイト先生は後ろで皆の傷を治す癒し手になってください。
 この通りです」
 懇願する様に深々と頭を下げたギベオンに、クロサイトは何と答えたものか迷っていた。確かにこういう者とであれば探索もやぶさかではないと頭を掠めたのも事実だが、ホロウクイーンの様な得体の知れない強大な魔物が待ち構えていると思うと頷く事を躊躇ってしまう。どうするか、と沈思するクロサイトに、それまで黙って見ていたセラフィが静かに口を開いた。
「俺はお前の医者としての腕前を、誰よりも信頼してる。バーブチカ先生よりもだ」
「……僕は、先生ほどの腕前じゃ」
「死人に生者が勝てるか? 勝てんだろう。
 確かに先生の腕前は見事なものだったが、俺は医者としてならお前を誰より信じている。
 先生がご存命の頃ならともかく、今はお前以外に手当てされるのはごめんだ」
「………」
 クロサイトやセラフィが今より若かった頃、探索からタルシスに戻れば診療所には師が居た。それは絶対的な安心となって、彼らを探索に向かわせてくれたのだ。今のクロサイトには、その安心感というものが無い。勿論自分の腕前に自信が無い訳では決してないが、もし三人が自分の手に負えない怪我をしたとして、先生だったらと思うのが嫌なのだ。コンプレックスと言っても良い。そんなクロサイトの心情を、セラフィは察知していた。双子の為せる業だろう。
 彼らの間の沈黙の重苦しさを、吹き抜ける風が連れ去ってゆく。その風が向かう先は診療所の遥か向こう、世界樹だ。クロサイトはギベオンの後ろの、彼の目には緋色に染まって見える巨木を視界に収めて目を細めた。
「――一つ、約束してくれ」
「何ですか」
「確かに君は皆を守る盾であるフォートレスに心身共に相応しい。それは認める。
 だが、医者の私の前で命を投げ出す様な真似はしないでくれ。
 そういう素振りを見せようものなら私はすぐにギルドを抜けるし一生許さん」
「………はい!」
 それは、クロサイトにしてみれば最大の譲歩だった。自分の前で誰かが死ぬ事は耐えられないし、誰かが自らの命を犠牲にする姿など見たくもない彼のその条件付きの譲歩は、しかしギベオンの顔を明るくさせたし元気良く頷かせた。ともすれば、ホロウクイーンを倒した時よりも嬉しいかも知れないと思った。
 だが、ギベオンにはまだクロサイトを説き伏せなければならない事がある。恐らくこちらの方が厄介というか、かなりの労力を要するだろう。しかしギベオンは引き下がるつもりもなく、だから緩やかなカーブを描く階段を振り返り、階下に居る者に声を掛けた。
「それと、もう一人連れて行きたい人が居ます。……良いよ、上がっておいで」
「………!」
 彼が声を掛けたその相手は最初こそ躊躇っていたものの、決意するとぎゅっと顔を上げて軽やかに階段を駆け上がって来た。姿を現したその人物にクロサイトは心臓が凍った様に錯覚したし、口を戦慄かせて思わず怒鳴った。
「ま……だ子供だぞ、先月八歳になったばかりの!」
「ほら! ちゃんと誕生日も何歳になったのかも覚えてる! ね、言っただろう、忘れる訳ないよ」
 階段を駆け上がって来たのは、ウロビトの里に居る筈のローズだった。彼女はクロサイトが言った通りまだほんの子供であり、とても探索に連れて行ける様な者ではない。子供連れで歩ける程探索というものは生易しいものではないし、また安全なものでも決してない。クロサイトが守れないとギベオンに言った程度には、危ない道中になる事は間違いないのだ。そんなところにローズを連れて行く訳にはいかないとクロサイトは言ったつもりであったが、ローズはその言葉に別の反応を示したしギベオンは嬉しそうに指摘した。定期的に診察をしているから誕生日も年齢も覚えていて何ら不思議ではないが、それを加味してもクロサイトはローズの事をとても良く知っていたし気に掛けていた。その理由を、ギベオンは知っていた。
「ローズちゃん、この前僕に教えてくれた夢、もう一度教えてくれないかな」
「……あのね……、……ときどききてくれるおいしゃのせんせいをね、とうさまってよぶこと」
「………っ」
 この数日間、ギベオンは何度かウロビトの里に訪れ、ローズの事をウーファンに聞いていた。ウロビトと人間の混血であり人間の血が濃く出たガーネットが里から飛び出し死のうとしていたところ、獣王を倒して丹紅ノ石林を探索していたクロサイトと出会った事。ウーファンを説得したクロサイトがガーネットをタルシスへと連れて行き、体を治してやった事。ガーネットがクロサイトに告白して断られたが、我儘を言って一夜を共にした事。それによりローズを宿した事をガーネットが黙っていた事。そして、気取られぬ様に里へ戻って出産した事――。
 その頃、クロサイトは医学と薬学の師であったバーブチカを亡くし一緒に世話になっていたセラフィ共々参ってしまっており、また診療所の引き継ぎなどで慌ただしく、ガーネットの妊娠に気が付けなかった。タルシスに正式に移り住む許可を貰う為に説得をしたいから暫く帰省するとガーネットが言い、半年程里に戻った彼女が一人で出産した事も、クロサイトは知らなかった。そして生まれたローズはガーネットとは正反対でウロビトの血が濃く出てどこからどう見てもウロビトにしか見えぬ赤子であったから、生まれる前に父親が死んだ子供として里で育てられる事となったのだ。
 発覚したのは今から四年前、ガーネットが慌てた様にウロビトの里に来て欲しいと言った時だった。彼女の慌て方が尋常ではなかったので何事かと思い連れられて里へ入ったクロサイトが通されたのは高熱を出し意識が無い状態の幼いウロビトの子供が臥している里外れにある家屋の寝室で、怪訝な顔で病状を確かめる彼はガーネットに告げられた事実に愕然とした。

『私が産んだの。信じなくても良いけど、貴方の娘よ』

 一度だけで良い、女にして欲しいと縋ったガーネットを突き放す事が出来なかったクロサイトは、確かに一度だけ彼女を抱いた。勿論それは彼女に対して少なからず好意があったからであり、決して軽率な行動ではなかった。だが当時のクロサイトは駆け出しの医者であり、診療所を継いだばかりでもあった故に心を割ける余裕も無く、誰か一人のものになる事は出来ないと断りを入れており、ガーネットもそれは了承済であった。彼女がギベオンに話した、クロサイトに告白した卒業生というのはガーネット本人だったのだ。
 我儘を言った手前、子供が出来たとは言えなかったというのもある。だがそれ以上に人間とウロビトの混血である自分と人間との間に出来た子供を、果たして人間が受け入れてくれるのかという懸念がガーネットにはあった。生きづらい人生を強いる事になるかも知れないと妊娠を知った時彼女は思ったが、それでも生みたかったのでウーファンに頼み込んで生ませてもらった。ガーネットがそうであった様に、子に罪は無いと苦い顔をしながら承諾してくれたウーファンは、生まれてきたローズを里で育てる事も了承してくれた。ただし巫女とは接触させないという厳しい条件の元であったから、ローズは里はおろか生活している家から出る事を許されている時間帯は巫女が休む夜から明け方の時間帯であった。だから、巫女はローズを知らなかったのだ。
 そんな生活は幼い子供の体にとってあまり良いものではなく、また子供は熱を出しやすい生き物であるから、ある日とうとうローズはひどい高熱を出してしまった。見た目が完全に人間であるガーネットもローズより厳しい条件下の元で育ったが、彼女はギベオンと同じく極度のストレスが原因で太った以外の病は得た事が無く、またガーネットは薬草学に造詣が深いウロビトの知識があるとは言え専門の知識はなかったし、里の医者に任せたくとも存在自体をごく一部の者以外に知られる訳にもいかなかったので、クロサイトに頼まざるを得なかったのだ。
 クロサイトは、実に四日間ローズに付きっきりで処置を施した。解熱の為に必要なものは全てタルシスからセラフィに持ってきて貰い、ほぼ寝ずにローズの熱が下がるまで側を離れなかった。いくらセラフィが少し休めと言っても聞かず、あまりに憔悴してしまったので、見かねたセラフィが項に手刀を入れて強引に休ませた程だ。彼が気を失っている間はセラフィがローズの側についており、クロサイトが目を覚ました時にはローズは安らかな寝息を立てて眠っていた。
 だが熱が下がって胸を撫で下ろしたクロサイトは、意識が戻って良かったと頭を撫でるガーネットをきょとんとした顔で見上げて不安そうな表情で言ったローズの言葉に目の前が真っ白になってしまった。

『かあさま? ……かあさま、みぎのおめめがみえません』

 ……その言葉は、まさにクロサイトの幼少期に降りかかった災難がローズも襲った事を教えてくれていた。ローズと同じく四歳の時に高熱を出して左目の視力をほぼ失ったクロサイトに対し、ローズは完全に右目の視力を失っていた。それを確認したクロサイトは彼女を抱き締めて涙を零すガーネットの前で衝動的に自分の左目を抉り出してしまった。

『すまない、私が気付いてやれなかったばかりに、
 私の力が及ばなかったばかりに、幼い君の目を私が奪ってしまった。
 許してくれとは言わない、言えない、すまない、すまなかった―――』

 抉り出した目を握り潰して床に膝をつき、突っ伏して慟哭するクロサイトは明らかに錯乱しており、慌てて抱き起こしたセラフィは夥しい血を流しながら泣くクロサイトを抱え、真っ青な顔をしているガーネットとローズに断りを入れて別室に連れて行った程だ。このままでは自身を責め過ぎて死にかねないと判断したセラフィは、応急処置を施した後に一生恨まれる事を覚悟の上でガーネットに頼まれて黙っていた事を白状した。お前のせいじゃない、黙っていた俺の責任だ、お前の気が済むなら殺してくれて良いとまで言った。
 そうなのだ。セラフィはたまたまガーネットが悪阻で吐いたところに居合わせてしまい、妊娠に気が付いていたのだが、彼女に懇願されてその事実をクロサイトに黙っていた。抱いてほしいと我儘を言ってしまった以上、妊娠の責任は自分でとりたいと言ったガーネットがあまりにも必死であったから、悩んだ末に承諾した。父親の元で死にかけていた自分を助け出してくれた兄を裏切る事になると承知の上で、だ。
 ローズが生まれた事を知れば、クロサイトはウーファンと一戦を交えてでも自分の元で育てたであろう。そうしていたなら、ローズは右目を失う事は無かった。だが、現実としてクロサイトは忙しさと余裕の無さでガーネットの妊娠にも出産にも気が付けなかったし、ローズは右目の視力を失った。そして、クロサイトは僅かに見えていた左目を自ら抉り出し握り潰してしまった。
 自分に娘が居たという事、その娘が片目の視力を無くしてしまった事で混乱していたクロサイトは、追い打ちを掛ける様にこの世で一番信頼している弟が娘の存在を黙っていたという事実を知って一瞬自我を失ってしまい、気が付けばセラフィを力の限り殴っていた。全て自分が悪かっただけだというのに、一度も手を上げた事が無かったセラフィを殴ってしまったのだ。

『僕にお前を責める資格なんて全く無いのに、ずっとお前につらい思いをさせていたのに、
 全部僕が悪いのにお前を殴るだなんて、すまない、ごめん、フィー、ごめん』
『……歯は折れてないから気にするな。黙っていてすまなかった』

 殴られて口の中が切れ、また鼻血も出たので痛みで眉を顰めて顔の下を手で隠したセラフィに泣きながら謝り抱き締めたクロサイトは、華奢だが大きな手が自分の背を撫で、黙っていた事を謝った弟の声が涙で微かに震えていた事にまた泣いた。至らなかった自分のせいで大事な者達を傷付けてしまったと、声が枯れるまで泣き続けた。セラフィがペリドットを攫いに行った時、持ち得る全ての人脈を使ってお膳立てしたのはこの時の詫びも篭められている。そしてセラフィが基本的にクロサイトに逆らわないのは、この一件に拠るところが大きい。お互い、ずっと負い目に感じていたのだ。
 それから以降、クロサイトはガーネットの半年に一度の帰省の際、人目を忍んでローズの診察や絵本の読み聞かせをした。妊娠にも出産にも気が付けず、視力を失わせてしまった自分に父を名乗る資格は無いとガーネットにも伝えており、彼女もローズには父親は元から居ないと言ってあるからと了承を貰い、且つ詳細は一切話さないとウーファンにも約束をしての訪問であったが、それでもローズは時折訪れてくれるクロサイトに実によく懐いてくれた。彼が父親であると、朧気ながらに分かったからだろう。だから、危険を冒してまで一人でホロウクイーンが居たあの広間まで来たのだ。里に居る導師に頼み込み、子供ながらに修行に耐えて方陣を操れる様になってまで。
「……分からない様に細工してありますけど、ローズちゃんのこの耳飾り、ガーネットとロードクロサイトで作ってありますね。
 離れていても側に居られる様にと作られたものではないですか?」
「………」
 ローズが着けている、二連の花の耳飾りは、ギベオンが言った様に二つの石で作られていた。端から見れば紅い石の耳飾りだな、程度にしか分からないそれは、しかし鉱石を鑑定出来るギベオンにはガーネットとロードクロサイトであると分かった。高熱を出し、右目が見えなくなってしまったローズに、詫びと慰めの為にクロサイトが贈ったものだ。
 そして、ギベオンはもう一つ気付いたものがあった。
「それと、ここに。……肌身離さず着けていらっしゃいますよね」
 自分の胸元を大きな手で軽く叩きながら言ったギベオンに、クロサイトは今度こそ眉を顰めた。普段からクロサイトはシャツの首元のボタンを一つだけ外してあるが、そこにあるものは注意深く観察しないと見えない。だがギベオンは孔雀亭で同席した時と、セラフィがペリドットを攫いに行った日に共に酒を飲み、クロサイトが泣いた時にそれが見えた。見逃す筈はなかった。
「父と分かっている人を父と呼べない事は、とてもつらいです。
 僕みたいに愛されていない訳でもないし、呼べば折檻される訳でもないのに。
 ……どうかこの子を、父親が居ない子供にしないでください」
「……… ……」
 水晶宮の都に居るギベオンの父は、ギベオンが父と呼ぼうものなら容赦なく鞭で打った。それは母も同様で、だからギベオンは両親を父さん母さんと呼んだ記憶が殆ど無く、代わりに家に居た使用人の様に旦那様奥様と呼んでいた。彼は、親は居るのに居ないといういびつな人生を送ってきたのだ。
 ローズは、ギベオンにはひどく愛されている子供に見えた。否、見えるのではない、ちゃんと両親から愛されているし、血縁者であるウーファンからも大事にされている。ウーファンも厳しく家に閉じ込めていたものの、あれは彼女なりにローズがホロウに見付からない様にと守っていたのだ。人間の血が流れるローズはホロウにとっては掟破りに映るであろうから、何があっても大丈夫であるようにと外に殆ど出さなかった。夜間であれば巫女が休んでおり自分が巫女の側についていなくても良いので、ローズが外に出ても自分の目が届くからという苦肉の策だった。だから、彼女は毎日の睡眠時間が極端に短い。
 クロサイトとローズが父娘であるとギベオンが気が付いたのは、ローズの耳飾りの石がガーネットとロードクロサイトであると分かった瞬間だった。ホロウクイーンを倒した後、里に一泊したが、寝転がりながらポーチに入れていたコランダムを眺めている時にそう言えばローズちゃんの耳飾りの石って何だろうと自分の知識の棚を引っ繰り返し、二つの石の名を探り当てたその瞬間に全てが合致した。同時に、クロサイトが首から下げているものの正体も分かってしまった。だから、再度里を訪れた時にウーファンにローズの事を尋ねたのだ。
 クロサイトは沈黙したまま、ローズを見ている。不安そうで泣きそうにしているローズは、それでもぐっと我慢してクロサイトの返答を待っている。やがて彼は震える手でシャツの下に隠している胸元のものを掴むと、紐を首から外して手の上に転がした。それは薔薇の花を模してある、柔らかく美しい、ローズが着ているワンピースと同じ淡い紅色――否、薔薇色の鉱石、ローズクオーツだった。
「……一日も忘れた事はなかったよ」
「………」
「この世の誰よりもろくでなしだが、君の父を名乗っても良いかい」
「……はい、はい、とうさま、とうさまっ」
 見る間に顔をくしゃくしゃにして駆け出し、屈んだクロサイトに飛び付いたローズは、それまで我慢していた涙を思い切り零して泣いた。一人で深霧ノ幽谷を歩いた時も、魔物に襲われた時も、怪我をした時もぐっと我慢して泣かなかった彼女は、漸く泣く事が出来た。たった一言、とうさまと呼べた事は、ローズの中でつらかった事を一掃して喜びの涙に変えた。そんなローズを、クロサイトは静かに泣きながら抱き締めていた。
 安堵の小さな溜息を吐いたギベオンも少し貰い泣きをしてしまったが、クロサイト達の向こうに居たセラフィが泣いているペリドットの頭を抱きながら僅かに涙が浮かんだ笑みを浮かべ片手を挙げてくれて、それが彼にとって礼を表している事を知っているギベオンはへへ、と照れながら同じ様に片手を挙げた。風向きが変わったのか、緩やかで穏やかな風が世界樹のある方角から心地よく流れてきており、彼らを誘う様に包んでは擦り抜けていく。その風の流れは、全ての始まりを暗示している様でもあった。