握り締めた茶髪の男の手は剣を振るう者に相応しく、何度も潰れた肉刺の感触が硬い。自分の手よりもやや小さなその掌に意識を集中したギベオンは目の前の男がにやっと笑ったので中腰になった下半身に重心を下ろし、軽く手を広げて据わりを良くしてから再度男の手を握り締める。
「よーし、息吹き掛けるとかのズルは無しだぜ。Ready? ――go!」
「ふっ!」
「おぉっ!」
 茶髪の男とギベオンが組ませた手の上に手を乗せていた金髪の男が掛け声を上げた瞬間、二人は気合いの声と共に力を込めお互いの腕を机に叩き付けようと試みた。しかしそこは腕力のある成人男性同士であるからそう上手くいかず、周りの男達は応援の歓声を上げていた。
 この茶髪の男、名をアルビレオと言う。踊る孔雀亭の常連であるソードマンで、入れ替わりが激しい冒険者の中でも古参の部類に入るらしい。まだクロサイトの患者であった頃からギべオンもこのアルビレオは知っていても話す機会は無かったのだが、クロサイトとセラフィに頭を下げて正式にギルドを結成し、丹紅ノ石林の北の封印を解放して銀嵐ノ霊峰と名付けられた大地を探索する様になった頃に声を掛けられた。曰く、たまたま腕利きの人間のナンパに成功しただけであってあの霊峰に行けたのはお前の実力じゃねえもんな、との事だった。
 ギべオンは、それは確かにそうだと分かっている。深霧ノ幽谷に行ってウロビトと交渉出来たのも、巫女に出会えたのも、ホロウクイーンを倒す事が出来たのも、全てクロサイトとセラフィが居てくれたお陰だ。そして彼らが居てくれたから、ペリドットもローズも手を貸してくれた。ギべオンの実力ではない。たまたま運が良かっただけだ。

『そうですね、僕はタルシスに来るまでは人に言わせるとすごく不遇だったみたいなんですが、
 この為に運を使わず貯めていたのかも知れないです。
 一生分の運を使い果たしたでしょうし、これから先はどうなるか分からないですね』

 だから嫌味を言われたとはちっとも思わずに素直に思った事を小さく笑いながら言うと、アルビレオは呆気にとられた様に目を丸くしてから毒気を抜かれた顔になり、悪かったな、と謝ってきた。運も実力の内であるとそれなりに長い期間この街で冒険者として過ごしてきて知っていたというのに、元は冒険者になる為ではなく痩せる為にタルシスに来た新入りのギベオンが丹紅ノ石林の封印を解いた事に対する嫉妬がアルビレオにそれを忘れさせてしまっていたのだが、あまりにもギベオンが裏表の無い笑みで謙虚に言ったものだから自分のやっかみが恥ずかしくなったらしい。しかし大の大人の男が自分の非を認めて素直に謝れるのは評価に値するし、そもそもギベオンは悪い事を言われたと思ってもいなかったので気にしてないです、貴方も気にしないでくださいと言った。
 その一件以来、ギベオンは孔雀亭で顔を合わせる度にアルビレオと話す様になった。アルビレオは剣と盾を持つソードマンであるから双剣使いのセラフィとはまた全然違う剣術を使った立ち回りをすると知ったし、その話を聞くのはギべオンも楽しかった。程なくして、二人は孔雀亭だけではなくセフリムの宿の食堂でも顔を見かけるとお互い挨拶を交わす様になっていた。
 その経緯もあってか、アルビレオのギルドに居るルーンマスターの少女、エレクトラとローズも仲良くなれた。最初はウロビトとの交流の勝手が分からずお互いもじもじしていた様だが、そこはやはり柔軟な子供であるからすぐに打ち解けた。ローズが楽しそうにエレクトラと話している姿を見たガーネットは、ウロビトと街の冒険者がこの酒場を通して仲良くなれたらここを預かる身としてこれほど嬉しい事は無いわ、と本当に嬉しそうに微笑んでおり、娘に友人が出来た事を喜んでいる様だった。
 そんなローズとエレクトラやその他の冒険者達が見物する中、ギべオンはアルビレオと腕相撲に興じている。体格はギべオンの方が良いといっても腕力は中々どうして互角であり、今までも何度か興じた事はあるが戦績は僅かにアルビレオが上といったところだ。アルビレオのギルドの者も含めた見学者の中には、どちらが勝つかで次にオーダーする酒を賭けている者も居る。ただ、アルビレオもギべオンもそんな事など気にせず、純粋に力比べを楽しんでいた。
「ぐ……く………、っしゃあああぁっ!」
「づあぁっ!」
 そして僅かに優勢であったギべオンの腕は、しかし一気に力を籠めたアルビレオの腕に捩じ伏せられた。音を立てて腕を机に叩き付けられたギべオンは痛みの悲鳴を上げ、それに混ざって歓喜や落胆の声が上がる。負けた……、と少々気落ちしながら腕を擦るギべオンに、にかっと笑ったアルビレオが再度手を差し出した。
「よっし、今回はオレの勝ちだな! お前、最近かなり腕力付いてきたなー」
「そうですか? だったら良いんですけど……」
「特訓とかしてんの?」
「うーん、これと言って特に……
 あ、でもヨウガンジュウとかヒョウガジュウ相手に思いっきり鎚振ってますから、それかな?」
「ああ……あいつら堅いもんな……」
 軽く握手を交わした後に、以前に比べて筋肉が随分と盛った背中をぽんぽんと軽く叩いたアルビレオが褒めてくれたので、ギべオンは小首を傾げつつも思い当たる節を口にした。銀嵐ノ霊峰に行くまでは樹海でそこそこ鎚を振るっていたとは言え、本格的に探索を始めたのはここ最近の事になるギべオンは、アルビレオを始めとする冒険者に比べて確かに腕力が無かった。しかし丹紅ノ石林の北の封印を解除してから銀嵐ノ霊峰の西に位置する蝙蝠の狭き巣穴と名付けられた天然の洞窟や、まだ行った事が無かった丹紅ノ石林の小さな迷宮を探索する内にどんどんと上半身に筋肉がつき、全く歯が立たなかったアルビレオとの腕相撲も徐々に勝てる様になってきている。
「ベオにいさま、このあいだからセラフィおじさまとうでずもうなさってるじゃないですか。
 あれはとっくんにならないんですか?」
「あれ特訓かな……? 毎回瞬殺されてるから特訓にもなってない気がするんだけど……」
「セラフィって、お前のとこのあの細ぇ人? 瞬殺されんの?」
「はい……」
「マジで……あんな細ぇのにか……」
 それまで陽明リンゴのジュースを飲みながら見学していたローズが尋ねてきたので、ギベオンは再度首を傾げる。こうやってアルビレオと腕相撲を興じる様になったので試しに診療所でセラフィともやってみたのだが、何度挑戦しても即座に腕を叩き伏せられてしまっていたから、果たして特訓と言えるかどうかは謎だ。力加減の問題だと言われてもいまいち分からず、アルビレオには勝てる様になってきたもののセラフィには一度も勝てた試しが無い。腕捲りをした時の白い腕を思い出す度にあんな細い腕のどこから、と不可解さを胸に抱いてしまう。
 ただ、力は強いし頼り甲斐もあるのだが、いかんせんセラフィは水場が苦手だ。銀嵐ノ霊峰の探索をしている時に丹紅ノ石林で弟が行方不明となったから探して欲しいという依頼が孔雀亭に貼り出され、他人事ではないと思ったらしいクロサイトが引き受けたので探しに出た。だが痕跡が残っていたのが沼地であったものだから、ギベオンは勿論ペリドットも見た事が無いと言える程嫌そうな顔をして、俺は絶対に行かんと言ったセラフィを説得するのは骨が折れた。はっきり言って行方不明者を探すよりも苦労した。何とか説得して騒がしい沼地と呼ばれるそこで行方不明となった兵士を探している途中で、沼の中に大層立派なザリガニを見付けたギベオンはどうしても捕獲したくて、少しだけ時間を貰って挑戦したものの、ハサミで指を挟まれたりかわされたり逃げられたりと、ことごとく失敗した。見ていたクロサイトが私もやってみようかな、と挑戦したがやはり駄目で、洞察力も動きも一番優れているセラフィにお鉢を回そうとすると、彼は全身全霊で拒否した。何でわざわざ自分から水場に近寄らなきゃいかんのだ、とかなりの抵抗をされたが、最終的にはギベオンの変な熱意に負けてセラフィはこの世の不幸事が一度に訪れたかの様な仏頂面をしながら、濁った水の中に居るザリガニを一発で捕まえた。思わず歓声を上げたギベオン達に、しかしセラフィはこいつを捕まえたからと言って何だ、と極めて冷静に尋ね、答えられずに沈黙してしまったギベオンにさっさと行くぞ、と言いながらザリガニをまた沼へと放った。そんな寄り道をしてしまったが行方不明者は無事見付けられたので依頼者からもガーネットからも感謝を述べられ、まさかザリガニと格闘していたのでその兵士があと一歩のところで命に関わる怪我をするところだった、とはギベオンは言えなかった。
「ローズのギルドの人たちは、面白いね」
「そうですか? わたし、さとからでたことなかったから、
 にんげんってとうさまやベオにいさまみたいなひとたちだとおもってました」
「うーん……中々個性的だと思う……」
 アルビレオとギべオンのやり取りを見ていたエレクトラが、隣でにこにこしながら同じく二人の腕相撲を見学していたローズの答えに首を捻る。彼女もこの街に滞在して長く、多くの冒険者を見てきているが、元は冒険者になる為にタルシスに来た訳ではないギべオンやペリドットの様な者達は珍しかった。
 エレクトラは、ギべオンとペリドットを初めて見た時の事をよく覚えている。二人は自分達が拠点としているセフリムの宿に隣接する診療所の医者に連れられて、この酒場の女主人のガーネットに顔合わせさせる為に訪れてきた。それまでその医者が――クロサイトが短期で肥満患者を引き受け、減量させていた事は知っていたし、またその患者達も見てきたけれども、ペリドットはともかくとしてもギべオンの規格外の体の大きさにエレクトラは目を丸くしてしまった。あの人本当に痩せるのかな……と思わず口元が引き攣った程だ。
 しかし、彼女のその疑念は月日が経つにつれ消え失せていた。ギベオンやペリドットは時折孔雀亭で遭遇するだけであったが、見掛ける度に二人の体は引き締まっていっていたし、首の脂肪のせいで篭もりがちだった声は澄んだものに変わっていた。エレクトラ達が初心に戻って碧照ノ樹海を何度かくまなく探索している時も、偶然見掛けた二人はクロサイトからけしかけられた荒くれ狒狒が投げるボールアニマルやビッグボールを難なく盾で弾き返したり軽々と避けたり出来る様になっていた。
 そんな姿を見てきたものだから、痩せたペリドットがタルシスを辞した後に診療所の主が暫く不在になると女将を通して通達があり、普段は風馳ノ草原や丹紅の石林に気球艇を飛ばしているキルヨネンやウィラフの姿も見ないし何があったのか、と思っていた自分にペリドットちゃんが故郷で無理矢理結婚させられそうになってるらしいの、それを攫いに行ったのよ、とガーネットが教えてくれた時は何となく嬉しかった事をエレクトラは思い出せる。
 ただ、まさか彼女の略奪に辺境伯も一枚噛んでいるとは思わなかったが、その見返りとして辺境伯がクロサイトにウロビトとの交渉を頼んでいたとも思わなかった。確かにクロサイトは弟のセラフィと共に碧照ノ樹海で獣王を倒し、風馳ノ草原の北の封印を解いた者であるが、突如冒険者を辞してそれ以降は頑として復帰しなかったと聞き及んでいたものだから、ウロビトとの交渉まではしても丹紅ノ石林の北の封印まで解いた上に冒険者に復帰したと聞いた時は青天の霹靂だと思った。しかも、隣に座るウロビトのローズがガーネットとの間に生まれた血の繋がった娘というではないか。確かにガーネットはセラフィの事はきちんとセラフィ君と呼ぶ割にはクロサイトの事をクロ先生と呼んでいたから、親しいのかしら、とは思っていたが、娘まで居たとは思わなかったので驚く以外無かった。
 ギベオンは、クロサイトとセラフィに頭を下げて冒険者に復帰して欲しいと直談判したのだそうだ。まだ少女の範疇にあるエレクトラでさえ最初の頃は随分とおどおどして他人の顔色を窺う臆病な男だと思っていたギベオンが、である。彼がタルシスに来てまだ一年足らずではあるがそれ程までに変わる事が出来たのは恐らく、あの主治医の指導によるものなのだろうとエレクトラは思う。人の名前を略す妙な癖があり、アルビレオの事をレオ君、エレクトラの事をエリー君と呼ぶ、あの医者の。
「でも、ギベオンさんのお陰でローズがタルシスに来る事が出来て、それでお友達になれたんだもんね。
 私の手袋も編んでくれたし」
「えへ……おそろいでつくってもらえましたね」
「ね」
 アルビレオと談笑しつつガーネットに出して貰ったジン・バックを飲むギベオンを見ながら、エレクトラは持っていた鞄の中から着ているケープと同じ藍色の手袋を取り出した。彼女は元からロッドが汗で滑る事を防ぐ為に革手袋を嵌めているが、銀嵐ノ霊峰を気球艇で探索する時や金剛獣ノ岩窟が冷却されている時はその手袋を嵌めている。ローズが寒そうにしているので編み物が出来るギベオンが取り急ぎ手袋を編み、君の分くらいなら作れそうだったから、と、エレクトラの分まで編んでくれたのだ。サイズも図らず良く作れますねと言うと、ギベオンは昔からサイズはその人を見れば大体分かるんだと朗らかに笑った。
「エリーさんたちは、あしたどこにいかれるんですか?」
「私たち? 霊峰の北西に行くってアルビレオは言ってたけど。ローズたちは?」
「わたしたちは、がんくつのいっかいをまたたんさくします。
 ちずもできてないところがあるし、ひごろもそうがいるし、とうひょうがんもほしいので」
「そう。気を付けてね」
「エリーさんたちも」
 ローズは、クロサイトと同様にエレクトラの事をエリーと呼ぶ。そちらの方が友達らしくて良いからとエレクトラが望んだのだ。お互いの無事を祈って、二人はまたここで会おうねと約束する。そんな少女達を、ガーネットは微笑みながら見ていた。



 アルビレオとギベオンの腕相撲から、時間は少し前へと遡る。
 ギべオン達が金剛獣ノ岩窟を発見したのは、銀嵐ノ霊峰へ続く谷の封印を解いてから半月を過ぎた頃だった。丹紅ノ石林と違って滋軸が谷の近くには無かったが、以前キルヨネンから譲渡して貰っていたとクロサイトが物置小屋から携帯滋軸を持ち出してきたお陰で、いちいち丹紅ノ石林からの出発にはならなかった。しかし常態的に雪が降りしきって気球艇が上昇出来ない所があったり、突然の気温の低下により体がついていかなかったり、岩窟を発見する前に蝙蝠が飛び交う小さな洞窟を発見したりと、中々先へ進む事が出来なかった。加えて、探索に同行する様になったローズはまだ幼い子供であるから、ギベオン達の様に体力がある訳ではない。だから岩窟の発見が遅れたのだ。
 ただ、ギべオン達は先を急ぐ探索はしていない。ギルド主となったギべオンの目的は飽くまでも「世界樹への到達」であり、「一番乗り」ではない。他のギルドの者達が先に到達したのならそれでも構わないし、この探索で手柄を立てたい訳でも名を上げたい訳でもない。ギべオンは診療所を患者として卒業する前に実家に手紙を出しており、キルヨネンの直属部下となった事、国に戻っても実家に戻る意思は無い事、家名は捨てて無名の騎士として仕える事、出身家は決して他言しない事を伝えた。事実上の絶縁であり、今後二度と関わりを持たない旨を明記したのだ。だから、今ギべオンが探索を続けているのは家の為でも両親を見返してやる為でもない。彼は生まれて初めて、自分の意思でどう生きるかを決めた。
 その手紙の返事は、ギべオンも意外に思ったのだがちゃんと届いた。封筒には自分の名しか書かなかったからなのか、統治院を通してキルヨネンの元に届いたそれを、しかしギべオンは手紙が届いた事を報せてくれたキルヨネンに何の躊躇いも無く捨て置いてくださいと言った。もう自分の意思は伝えており、それに対する返事など必要無く、だから彼は読もうと思わなかった。その事を伝えたギべオンはキルヨネンが戸惑いを見せる程の朗らかな、それこそエレクトラにも見せた様な笑みを見せ、顔は覚えていないが名は聞き及んでいた古い家の末路を垣間見た様な気がして、キルヨネンはぞっと背筋を凍らせた。愛情の反対は無関心なのだと改めて知った気がしたよ、と、統治院で顔を合わせたクロサイトにキルヨネンは漏らした。
 そんなギべオンを主にして、彼らのギルドは金剛獣ノ岩窟の探索を行っていた。この金剛獣ノ岩窟にはイクサビトという、ウロビトともまた違う、古の人間が創りだした種族の里がある。苦労して岩窟中央の灼熱の温度の奇妙な物体を破壊する事に成功した後に出会えた彼らは、獣の頭を持ち体も獣そのものだった。ただ、人間の様に二足歩行をし、人間の言語を話す。そして里の入り口付近でこちらを警戒していたイクサビトは、辿り着いたギベオン達を見てウロビトとは違い人間に対して全く嫌悪の目を向けずに、豪胆に笑って里まで案内してくれた。こちらが人間という以外何者であるかも分からないのに背を向けるなんて、とギベオンはその無防備さに呆気に取られたのだが、キバガミと名乗ったそのイクサビトの鍛え上げられた背中を見ながらセラフィは呟く様に全く隙が無いと言ったしクロサイトも相当な手練だなと小さな声で同意した。二人にはキバガミの実力が見ただけで分かったのだ。
 イクサビトの里でキバガミから伝え聞いた事は、ウロビト達に伝わっている話とほぼ同じであったが、異なる点は世界樹の事を悪魔の樹と呼んでいる事だった。これについて一番驚いていたのはローズで、出された鮭の汁物が入った碗を持ったまま食べもせずに呆然と聞いていた。キバガミが言うには世界樹は世界を滅ぼす巨人が住処としており、その巨人が歩くだけで地には亀裂が走り、近付く者は強い呪いでその身体を樹や草に変えられてしまったのだという。それを聞いたクロサイトは口元を押さえ、原因不明の奇病とも言い難いなと呟いた。巨人によるものではないと仮定しても、その様な症例は聞いた事が無いからだ。
 ウロビト同様、イクサビトも人間が創造した種族であり、ウロビトの里に伝わっている伝承の中の巨人を倒した人間以外の創造された種族というのはイクサビトの事であったのだろう。ただ、イクサビトの伝承によれば、人間は巨人が現れた際に逃げたのではなく共に戦ったのだという。そして、その戦いの中で人間は巨人の冠を、ウロビトは巨人の心を、イクサビトは巨人の心臓を切り出す事に成功し、巨人を眠りに就かせる事に成功したのだそうだ。それぞれの種族は巨人が再び目覚めてしまわない様にとそれらを自分達の里へ持ち帰り、今に至る、らしい。
 何故ウロビトとイクサビトの伝承に齟齬があるのかはギベオンには分からない。しかし難しい顔をして黙ったまま口元を押さえているクロサイトは意見を聞ける様な雰囲気ではなかった。キバガミの言うその呪いとやらで発病する奇病について何か考えている様であった。彼は冒険者である前に医者であるから、奇病難病は気にかかる事柄にカテゴライズされる。
 しかし皆が呆然と、あるいは驚愕しながらキバガミの話を聞いていた中、一人セラフィだけはマイペースで、キバガミの話を聞いているのかいないのか、出された鮭の汁物を黙々と食べていた。里の者によそっていたイクサビトが早々に空になったセラフィの椀に気が付き、もう一杯注いでやるとそれも変わらぬペースで食べ、どうやらそれがキバガミに肝が据わっていると思わせ上機嫌にさせたらしく、ゆるりと過ごすと良いと里の滞在を許してくれた。緊張とか警戒とかしなかったんですか、そもそもちゃんと話聞いてましたか、とすっかり冷えてしまった汁を啜りながらギべオンが尋ねると、既におかわりまで空にしたセラフィは飯が美味い奴に悪い奴は居ないし難しい話はクロが全部聞くと変な持論を大真面目に言った。これにはペリドットも苦笑しながら首を傾げていた。
 その後、中座したキバガミの言葉に甘えて里を見学していたギべオン達は、その巨人の呪いとやらを目の当たりにする事となった。苦しそうな声が聞こえる、と、クロサイトが足を運んだ先には、細い腕に蔦が絡まり、樹皮の様なものが皮膚に張り付いている、ローズと年頃が変わらない少年が横たわっていた。症状は聞いたがまさかここまでとは、と息を呑んだクロサイトに、手当ての為に薬湯を持ってきたキバガミがローズだけを寝所の入り口に立たせた後、少年に薬湯を飲ませながら、神にも等しい巨人に手を下したのだから巨人の呪いに囚われてしまったのだと淡々と語った。
 身体が樹木で覆われていくというのは痛いのか、苦しいのか、それは罹患した少年にしか分からない。だが、まだほんの小さな子供であるその少年の表情で、クロサイト達は彼がどれ程苦痛を感じているのか想像出来た。この病は身体が出来上がる前の子供が罹りやすい、だからそこのお嬢はあまり近寄らぬ方が良いとキバガミが言い、そこでローズは何故自分だけが寝所から追い遣られる様にされたのかを理解した。しかし、イクサビトが巨人に手を下した報いとしてその呪いを受け、少年が苦しんでいるのであれば、そこに横たわっているのは自分であったのかも知れないと思うと、彼女は居た堪れなかった。ウロビトも人間やイクサビトと共に巨人を倒した種族なのだから、罹患しないと断言は出来ない。何とも言えない気持ちで錫杖を握り締める彼女は、しかし後ろから声を掛けてきた者達に驚いてしまい、そんな気持ちなど吹き飛んでしまった。ウロビトの里に居る筈の巫女と、ワールウィンドがそこに居たのだ。
 驚くギベオンに何がしかの書物をお土産、と手渡したワールウィンドは、訝しむキバガミに自己紹介をし、この病は絶対に治せないものではないと言った。巫女の力やイクサビトが持ち帰ったという巨人の心臓があれば呪いは払拭出来るのだと言う。にわかには信じられないその話を胡散臭そうな、それでも信じたいという思いが滲み出ている顔で聞いたキバガミに苦笑したワールウィンドは、頼むよ、と巫女に優しい声で語り掛け、その言葉に頷いた巫女はすっと少年に歩み寄ろうとした。だが病が感染するかも知れないという危険にむざむざと他人を晒す訳にはいかないと厳しい口調で咎めたキバガミに巫女は歩みを止めたし、ギベオンも何と言ったら良いのか分からず沈黙してしまっていたが、クロサイトの横を擦り抜けたローズが巫女の隣に並んで彼女の手をぎゅっと握った。ローズは、巫女の従者であるウーファンの血縁者にあたる。ずっと側に仕えていたウーファンの代わりになれるなどとは思わなかったが、少しでも勇気付ける事が出来ればと考えたのと、寝台で苦しんでいる少年が他人事とは思えなかったので、巫女の力でその苦しみを少しでも和らげられるならと思ったのだ。すると、巫女は目が合ったローズがしっかりと頷いたのを見て微かに微笑んだ後、自分よりも一回りも二回りも大きなキバガミを見上げて言った。

『お願い……わたしを、そしてみんなを信じて。
 わたし、世界樹の声が聞ける以外何もできないって思ってた。
 でも、みんなは違うって言ってくれたの。
 気にいらなければすぐに追い出してもいいから、少しの間でいいの。
 わたしを、その子のために祈らせて』

 そう言って勢い良く頭を下げた巫女を複雑そうな表情で見詰めたキバガミは、根負けしたかの様に彼女を道を譲った。医術の心得があるらしいキバガミにとって、健康な者を危険な病に晒す真似は言語道断であっただろうし、それは医者であるクロサイトも同様だった。だがその時は巫女の力を信じるしか無く、また信じたくもあったから、道を譲ったのだ。守られてばかりであった巫女は初めて他人の為に何かが出来ると喜ぶ様に笑顔を浮かべ、ギベオン達やワールウィンドを見た後にローズに再度微笑んだ。
 そして毅然とした表情でイクサビトの少年の枕元に腰掛けた巫女が祈り始めると、深霧ノ幽谷で見た蛍の様な小さな明かりが彼女の周りに灯り、その明かりが少年の身体の上に浮かんでは明滅した。その明かりに柔らかに照らされた少年は、やがて魘されていた苦しげな表情を穏やかなものに変え、静かな寝息を立て始めたのだ。世界樹の声を聞く事が出来る巫女の力には、ギベオン達も驚くしか無かった。
 だが、それは飽くまで一時的なものであるらしい。巫女は世界樹に頼んで症状を和らげる事が出来ただけで、完治させる事は出来ないらしい。世界樹にもっと近いものが手元にあれば恐らく、と巫女は言ったが、それに対してキバガミは尚も難しそうな表情を崩しはしなかった。何か問題でもあるのだろうかとギベオンは首を傾げたが、ペリドットが首を傾げながらどうしてワールウィンドさんはこんな事をご存知だったんですかと聞いたので、更に疑問符を浮かべる羽目になった。確かに、何故部外者である筈のワールウィンドが知っているのかは謎だった。
 彼が言うには、深霧ノ幽谷で足を負傷して戦線離脱をした後、怪我が回復してから幽谷を歩き回っている時に見付けた書物に様々な事が書かれていたそうだ。誰が書いたものなのかは分からないが、病の対処法についても彼が話した様な事が書かれており、それに準じたとの事だった。ギベオンに渡した書物も、その時に見付けたものらしい。信じて良いのかどうかは分からないが、結果として少年の症状は和らいだので、今はワールウィンドの提案を飲むしかないと決めたのであろうキバガミは巨人の心臓を手に入れると言い、巫女に深々と頭を下げた。
 しかし、そこからが大変だった。何とキバガミは、地下三階に潜む十数年もの間倒されていないホムラミズチという魔物が守っている大空洞に祀られているその巨人の心臓を、自分達だけで奪還しに行くと言うのだ。ワールウィンドやギベオン達を探索に付き合わせるという発想が無いらしい。ワールウィンドは途方に暮れた様に頭を掻きながら、意気揚々と里の者達にホムラミズチ討伐の旨を伝えているキバガミを眺めていたし、ギベオン達も同様にさてどうするかと顔を見合わせた。ここまできて留守番というのも腑に落ちないし、地下二階にも進んでみたかったし、幽谷で助けた巫女がここで病を得たイクサビトの為に祈っているというのに何も出来ないというのは嫌だった。だから、最終的にはギベオンがキバガミに申し出たのだ。巨人の心臓を得る為の探索の協力を。
 キバガミは、良い顔をしなかった。自分達モノノフでも下層の魔物は手強く、客人に任せる訳にはいかないと言った。だがギベオンも引き下がるつもりはなく、客人ではなく最早当事者なのだと食い下がった。キバガミを説得し、納得させねば地下二階へと続く道を通して貰えないと、ギベオンは分かっていた。そんな彼を見て、キバガミが最大の譲歩として提示したのが立ち会いだったのだ。全員で全力でかかって来いと言われ、手練とは分かるがさすがに五対一は、とギベオンが言うと、通すにはお主ら全員の力を見なければならんと頑として聞き入れなかったキバガミは、セラフィと同じ様に両手に武器を構え本当に一人でギベオン達五人の相手をした。
 彼の一撃は重く、また獣が吠えるかの様な咆哮は凄まじかった。特にその咆哮は天井の鍾乳石で大きく反響し、足が竦んだローズは暫くその場を動けず、方陣を張るだけで精一杯であったのだが、何とかギベオンが自分に注意を向けて彼女を守ったり、キバガミより素速く動けるセラフィやペリドットが剣や弓で攻撃を仕掛け、怯んだところにクロサイトが重い鎚を叩き落としてキバガミの動きを止めたりもした。最終的にはキバガミの胴を斬り付けたものの二撃目を弾かれ、後方に居たクロサイトに叩き付けられたセラフィが落とした剣を拾って、大きな身体の死角から駆け抜けざまに斬ったペリドットの一撃によりキバガミは膝をついた。これにより、何とかギベオン達はキバガミを納得させる事に成功した。
 ギベオン達の力を認めたキバガミは、改めて迷宮を下る事についての協力を仰いだ。実力を認めてくれたらしい彼は、しかしギベオン達の力は純粋すぎると言い、一つの巻物を与えてくれた。異なる二つの魂をその身に宿す極意が記されている、お主らの師に渡すと良いと言ったキバガミは、受けた傷を手当てする為にその場を辞した。師とは、とギベオンが困っていると、クロサイトがその巻物を取り、冒険者ギルドの長に渡しに行こうと言った。何でも、こういう武に通じるものはギルド長が詳しいらしい。
 そうとなれば一度タルシスへ、とアリアドネの糸を背嚢から取り出そうとしたギベオンに、ローズが巫女に挨拶をしてから帰りたいと言ったのでそれもそうだと彼女の元へ行くと、巫女は先程の寝所で巨人の呪いに罹った子供達の側で歌を歌っていた。ギベオン達が深霧ノ幽谷で助けた時に歌っていたあの歌だ。子守唄代わりになっているのだろうその歌を聞きながら、子供達は静かな寝息を立てていた。ただ、ワールウィンドの姿が見当たらず、巫女に尋ねてみると、里の外れの方に行ったみたいと言われたので、彼女にタルシスに一旦戻る旨を伝えてから寝所を辞した。
 里の外れには、石碑が立ち並んでいた。岩窟内は冷気に覆われており、奇妙な物体が灼熱の温度を保っていた時は滴り落ちていたのだろう水が氷柱になって天井から生えている。暑かった時に比べて湿度が殆ど無いその場所は、花や人形、酒などの供物が置かれており、墓場の様だった。その中に、立ち並ぶ石碑の一つの前で首飾りを指先で弄びながら、ぼんやりと石碑を眺めているワールウィンドが居た。彼の目はどこか虚ろな様な、悲しい様な、そんな色を湛えている様な気がしてギベオンは声を掛けられなかったのだが、そんな事など全く気にしていないのかクロサイトが無遠慮にワールウィンドを呼んだ。

『……ああ、君達か。どうするんだい? 巨人の心臓の探索に参加するのかな』
『そのつもりだ。ベオ君も言ったが、我々は既に当事者だからな。
 ……ワール君、私達には探索に参加する理由がある。だが何故、君はイクサビトの為に手を尽くすのかね』
『……答えにくい事を聞くな、君も。詳しくは言えないけど、恩には何かしらの形で報いたいのさ』
『恩……?』
『正直に言うと、彼らを助ける事は俺の目的の為に必要な事でもあるんだ。 打算がある事は、俺も認めるよ』
『そうだろうとは思っていたがね。詳しくは聞かないでおこう』
『すまない、君らには迷惑をかける。……縁があれば、下層で会おう』
『縁があればな』

 憂いを帯びたワールウィンドの表情は、しかしクロサイトと話す内に段々と苦笑交じりの明るいものへと変わっていった。敢えて突っ込んで聞いてこなかったクロサイトに感謝しているのかもしれないし、他に何か思うところがあったのかもしれない。彼の考えている事は分からないが、多くの秘密を抱えている事は窺い知れた。いつも背負っている大きな荷物を背負い直してその場を去ったワールウィンドに、あの人も不思議な人だなとギベオンはぼんやり思っていたが、隅の方の石碑の群れを眺めていたローズが奥に抜け道があると言ったので全員の関心事はそちらに向かってしまった。ただ、ワールウィンドが見詰めていた石碑に供えられていたものが男性用の眼鏡であった事に、ペリドットだけは気が付いていた。



 アルビレオと腕相撲を興じた翌日の朝、ギべオン達は金剛獣ノ岩窟の入り口まで来ていた。気球艇が吹雪で飛ばない様にハーケンとロープで地面にしっかりと固定し、背嚢の中にアリアドネの糸があるかどうかを確認してから、五人は岩窟に入る。ひやりとしたその冷気に、何度目かの訪問であるにも関わらずギべオンは違和感を抱いてしまった。
 彼らが初めてこの金剛獣ノ岩窟に入ったのは、一階部分の入り口からではなく、地下二階の入り口からであった。何でそっちが先に見付かるんだよと、ギべオンから話を聞いたアルビレオから眉を顰められたのだが、どうやら他のギルドの面々は先に一階部分の入り口から入ったらしい。たまたま近辺をうろついているワニの様な魔物に追い掛けられて気球艇を近くの谷に隠したらその入り口を見付けただけであったので、本当に偶然だったのだ。
 先に見付けたのは地下二階の入り口とは言えやはり一階から探索した方がよかろうと、三度目の岩窟の探索からは一階の入り口から入っているものの、ギべオンにはそれが違和感を抱かせる。彼は元から決まった道筋でなければ目的地に辿り着けない男であり、突然こちらに行こうと言われると混乱する。それが左右の指示であれば尚更混乱する。クロサイトに連れられ碧照ノ樹海をペリドットと三人で歩いていた頃からそうであったので、ギベオンの挙動を不思議に思ったクロサイトが何度かじっくりとカウンセリングしてくれて対処をしてくれたお陰で何とかパニックになる事は無くなった。ただ、何が起こるか分からないのが探索というものであるから、突然の進路変更や不測の事態というものは必ずある。魔物から逃げる時などは特に咄嗟の行動となってしまうので、以前からギベオンのそういう性質をクロサイトから知らされていたセラフィがギベオンの首根っこを掴んで走る。指示を飛ばすよりそちらの方が手っ取り早いからだ。
「どうします? 緋衣草を採りに行くなら真っ直ぐの方が早いですけど」
「みなみのほう、あわててたからすみっこをしらべられてないですね」
 ペリドットが広げてくれた羊皮紙に描かれた地図を覗き込みながら言ったギベオンに、ローズが空白部分を指差しながら言う。一階部分は恐らくほぼ探索を終えているであろうという地図の仕上がりなのだが、一階入り口から見て南の空間は鎧の追跡者と名付けられた大きな亀の魔物が徘徊していたという事と、狭い上に水場が広がっていたのでセラフィが嫌がり隅々まで調べる事が出来ずに地図が未完成となっている。何も無いであろうとは分かっているけれども、空白があると気になるというギベオンの性格により今回は行ってみようという段取りにしている、筈なのだが。
「狭かったし水場だったけど今は凍ってる筈だから、セラフィさん行けます……よね?」
「行きたくない」
「そう言わず行きましょうよ……何かあるかも知れませんし……」
「私もあまり行きたくないな……」
「クロサイト先生まで! 大丈夫ですよ、下を見ない様にしたら」
 この岩窟には高熱を発する奇妙な物体がそこかしこにあり、探索を始めた当初は全員火傷を負いながら進んでいた。イクサビトに教えてもらって知った事だが、その物体はホムラミズチの鱗であるそうだ。地脈を操る力を持つローズのお陰で火傷は和らいだが、金属製の鎧を身に着けているギベオンにとってはあの鱗は本当に堪えた。暑い地域出身であるペリドットでさえしきりと暑がっていたから、思うように探索は進まなかった。だがフロアの中央に鎮座していた一際大きな鱗を、氷で出来た棒杭で破壊するとたちまちの内に岩窟が冷却されたのは驚きであった。
 寒い地域出身であるギベオンには、冷却されたこの岩窟は苦にならない。だが暑い地域出身であるペリドットには堪えたし、体脂肪が低いセラフィや肉付きが良くないウロビトであるローズも大層寒く感じられた。一年を通して比較的温暖な気候が続くタルシスはあまり防寒具が豊富ではなく毛糸を取り扱う商店も少なかったので、丹紅ノ石林に生息する羊の魔物を何とか倒して毛を刈ってから、以前からクロサイトを掛かり付け医としていた女性が紡ぎ車を持っているというので紡いで貰った。その毛糸でギベオンが編んだ腹巻きやネックウォーマーは、それなりに全員の防寒の役に立っていた。親から防寒具を買い与えて貰えなかった事や規格外の体型であった事で編み物が出来るという特技に繋がり、探索の役に立っているというのはギベオンを複雑な気分にさせた。
 その防寒具のお陰で何とか風邪をひかずに済み、岩窟内の冷却によって点在していた池が凍ってイクサビトの里まで辿り着けた訳だが、別の問題も発生した。池は池で水場を嫌うセラフィが近寄ろうとしなかったけれども、その池が凍ると今度はクロサイトが顔を引き攣らせたのだ。氷に反射して映る天井が、あたかも高層の建物のガラス張りの床に立っている様に錯覚させたからである。
 池が凍ったとは言え厚みにはばらつきがあるらしく、一度鎧の追跡者が通った後の氷上に亀裂が走っていたのを見たセラフィは結局近寄りたがらない。その上、高所恐怖症のクロサイトも全く慣れなかった様で、どうしても氷の上を歩かねばならない場所以外は近寄ろうともしなかった。セラフィも極力近寄りたがらず、ギベオンやペリドットは二人を連れる事に大層苦労した。娘の前でみっともない姿を晒すのはクロサイトとしても不本意であったのだが、こればかりは仕方ない。
「こうしましょう、緋衣草が採れる所まで真っ直ぐ行って、大きな鱗があった所を突っ切って、
 イクサビトさん達の里の方でも緋衣草を探してからまた戻って、
 扉がある道を通って戻ってきて南を調べる。これだと凍った池を殆ど通らないですよね?」
「ん……」
「とうさまは、いかがですか?」
「それで良い」
「ですって、ベオにいさま」
「うん、有難う、ペリドットにローズちゃん……」
 地図上の経路を指で辿ったペリドットに尋ねられたセラフィが不承不承頷き、ローズに窺いを立てられたクロサイトも少々苦い顔をしながら頷く。探索の苦労は覚悟の上であったが、まさか高所恐怖症と水恐怖症の二人の説得にここまで苦労するとは思っていなかったギベオンは、ペリドットとローズが居て良かったと心底思いながら、まだ探索も開始していないというのにぐったりしながら二人に礼を言った。
 ローズについては毎回連れて行くのではなく留守番をさせつつ参加して貰う、という約束をガーネットともしてあるのだが、キバガミとの対決で彼を打ち破り、貰った巻物をタルシスのギルド長に見せると、修練を重ねれば他の者が使う業を使える様になると言われ、かねてよりエレクトラと仲が良かったローズは彼女に印術を教えてもらって多少使える様になっており、元から持つ地脈を操る能力と覚えた印術を使える為に結局ほぼ毎回探索に参加せざるを得なくなっていた。所属ギルドを探しているルーンマスターを確保すれば良いだけなのであろうし、ギベオンを主とするギルドは本当に少人数しか登録していないので人員不足は否めないのだが、ギベオン自身が癖があるというか接し方にかなり配慮しなければならない人間であるので、現状維持が精一杯だ。そもそも、ギベオンは大人数の対処が出来ない。クロサイト達はその事を知っているので、ギルドに誰か入ってもらおうかと言った事が無かった。
 緋衣草が採集出来る場所は、ペリドットやローズが以前見付けてくれた抜け道が近道になってくれており、比較的スムーズに向かう事が出来た。道中の凍ってしまった鱗は他のギルドも壊す事無く残されているが、何を養分としているのか岩の隙間から生える茸が採れる場所のすぐ側にある鱗は、目印になる様にとクロサイトがギベオンから鉱物の採掘用の平タガネとハンマーを借りてヒョウガジュウの彫刻を施している。そこまで時間を割ける訳ではなかったのでギベオン達の休憩時間に彫刻したものであるから緻密なものではないが、それにしても一目見ただけでヒョウガジュウと分かるのだから凄い。アルビレオが探索中にその彫刻を見て一瞬ヒョウガジュウかと身構えてしまったと言っていたから、気を張り詰めて探索している者達にとっては紛らわしい事この上ないものであるだろうけれども。
 ギベオン達にとってみれば、当初探索は急ぐものではなかった。成り行きでギルド主になってしまったギベオンの目的は飽くまで「世界樹への到達」であって、探索の最前線に居る事、ましてや先陣をきって進む事ではなかった。しかしイクサビトの里で巫女の頼みを引き受けてしまった以上は出来るだけ早くその巨人の心臓とやらを手に入れた方が世界樹の呪いにかかってしまった者達の為だとクロサイトが言い、それはギベオン達も同意であったから、可能な限り探索を急ぐ事にしている。
 ただ、武器防具の素材探しや隅々の探索も必要であるし、何より探索を進めているのはギベオン達だけではないので、今日の様に先に進むのではなく再探索する事もある。銀嵐ノ霊峰の全容もまだ明らかにしていないし、孔雀亭に舞い込んでくる依頼も多くなってきたと、ローズの付き添いで孔雀亭に行く事が多くなったペリドットは聞いている。今日の探索は緋衣草の採取もあるが、他の冒険者が見た事もない岩石を持っていたから見付けてきて欲しいという依頼を引き受けたので、その岩石を探す事も目的の一つであった。
「さて、では、南の方を調べに行くかな」
「そうですね。今日はそれで帰りましょう」
 薬草に詳しい者が三人も居るせいか緋衣草もそれなりに見付ける事が出来、イクサビトの里で巫女にも挨拶をし、ヒョウガジュウを炎の印術を使わず地道に倒し、何とか凍氷岩を手に入れた頃、時刻は夕方に差し掛かろうとしていた。今日は地図の空白を埋めて探索終了にする、とギベオンが言うと、他の四人も特に何の反論もせず頷いた。夜の探索は原則やらないと決めているギベオン達を甘いと言う冒険者は少なくなかったが、何せこちらにはまだ年端も行かない子供が居るので無理は出来ない。慣れない寒さで体も本調子ではないから、とにかく体を労って進もうというのが全員の見解だった。
 目的の場所までは、地図を見なくてもギベオンは進める。最初に決めた道順でなければ進めない彼だが、そうと分かっていれば空間把握能力は高いので、薄暗い岩窟内でも迷う事が無い。進んだ先の扉を開け、何の疑問も無くギベオンが目的の細長い広間へ向かう為に曲がろうとした時だった。
「……待て、ベオ、止まれ」
 自分の半歩後を歩いていたセラフィが突然厳しい声で制止を要求したので、ギベオンは驚きながらも慌てて足を止めた。振り返ると、セラフィが険しい顔をしながらペリドット達も止まる様に片腕で制しており、ギベオンが何事かと思っていると、彼は鼻から下を手で隠して逡巡した後、ギベオンをちらと見てそのまま待てと目で言い、クロサイトを振り返った。
「クロ、ペリドットとローズを連れてタルシスに戻れ。俺はベオを連れて行く。
 ベオ、アリアドネの糸と変位磁石はあるか」
「あ、えっと……あ、あります」
「近いし大丈夫だとは思うが用心するに越した事は無いから、磁石で磁軸まで行って気球艇で戻れ。俺達は糸で帰る」
 険しい表情を普段の無表情に戻してから手早く指示を出したセラフィの声音は、静かだが有無を言わさぬ力があった。状況を掴めず何事かと困惑顔のペリドットとローズをよそに、心得たかの様な表情のクロサイトはギベオンから変位磁石を受け取りながら反論もせず頷いた。
「夜になっても戻らなければ探しに来るぞ」
「そうしてくれ。ペリドットとローズも、良いな」
「……はい」
「そう釈然としない顔をするな、後でちゃんと説明するから。今は言う事を聞いてくれ」
「ちゃんと帰ってきてくださいね?」
「約束する」
 いくら手練れの者だと知っていても、この岩窟内をたった二人で行動するのは危険極まりない。そう思って顔を曇らせたペリドットに言い聞かせる様にしっかりと頷いたセラフィは、クロサイトに目配せしてからギベオンに行くぞ、と言った。二人の背を見送ったクロサイトは、ペリドットとローズに行こう、と促し、変位磁石を使った。
「あの、セラフィさん」
「今から何を見ても耐えろ」
「え……」
「お前が進もうと思っている道は、お前の想像以上に慈悲なんて無い」
「………」
 自分より先を歩き出したセラフィにどうしたのかを尋ねようとしたギベオンは、振り返りもせず前をじっと見たままのセラフィの言葉に沈黙した。厳密に言えば、微かに漂ってきた何かの臭いに嫌な予感がして黙った。薄暗い岩窟はそこかしこに埋まる鉱石がランタンの光を反射してキラキラ光り、歩く度に幻想的な空間だとギベオンに思わせる。だが、今彼の鼻を掠める臭いは、紛れもなく胸のむかつきをこみ上げさせていた。
「うっ……」
 足を進めたその向こう、以前は大きな池であった水場は、鱗を破壊し冷却された今は氷に覆われ岩窟の天井を写し出している。その氷がまだ薄い内に上を通ってしまったのか、広場を徘徊していた鎧の追跡者がひび割れた氷の隙間に頭から沈んで動かなくなっていた。自らの重みで氷が割れて沈み、完全に凍らなかった水で窒息したのだろう。
 しかし、ギベオンが顔を歪めたのは追跡者にではない。こちら側に見えている追跡者の足にべったりとついている、もう変色した赤黒い血と、追跡者が通ったのだろう場所に引き摺られる様にして撒き散らされている何か――恐らく人間であったものだろう――に、吐き気を催した。
「……タルシスの兵士か。あのヘルムは」
「う、うぅ、」
「吐くなら隅に行け。ど真ん中で吐くな」
「うぐ……っ」
人間の原型を止めていない、既に肉片となった人であったものは、今までギベオンが一度も見た事が無かったものだ。それは、今までギベオンがクロサイトやセラフィに守られていた事を意味している。彼らは本当に患者に悲惨な遺骸を見せない様に神経を使っており、二人の努力の甲斐あってギベオンはこんな風に原型を留めていない遺骸を目にした事は無かった。薄暗いお陰で鮮明には見えないものの、生臭い臭いは鼻を通り越して直接脳に訴えかける。先程、セラフィがギベオンに止まる様に言った所はそれなりに離れていたというのにセラフィがこの臭いに気が付いたのは、やはり普段から五感を尖らせているからなのだろう。臭いにも磨り潰された様な肉にも胸のむかつきを押し上げられ、ギベオンは辛うじてセラフィの指示に従って岩窟の岩肌の壁に駆け寄り、盛大に吐いた。セラフィはそんなギベオンに目もくれず、懐から髪結い紐を出して慣れた手付きで少し癖のある黒髪を頭頂近くで纏めると、クロサイトも所持している薄手のゴム手袋をズボンのポケットから出して嵌めた。彼にとって死体の片付けは珍しい事ではないが、随分と久しぶりの事の様に思えた。



 一頻り吐いたギベオンがセラフィの手伝いを出来たのは、セラフィが半分以上肉片を集めた頃だった。ギベオンはその肉の小さな山にも吐きそうになったが、何とか耐えた。
 凍っているとは言えセラフィがどうしても池に近寄りたがらなかったので、足元の氷の張り具合を慎重に調べながらギベオンが氷の上の肉片を回収せねばならず、セラフィが寄越してくれたゴム手袋を嵌めて回収した。感触は、獣の魔物のそれと似ていた。
 風馳ノ草原や丹紅ノ石林と違い、この銀嵐ノ霊峰は氷や岩に覆われているので墓穴を掘る事が難しい。イクサビトの里にあった墓地は岩を削り、建てられたものであった様だが、いくら鎚使いのギベオンであってもすぐにこの岩の地を削る事は出来そうもなかったので、ギベオンの前掛けにある程度遺骸を包んで背嚢の中にあった燃やせるものを使って燃やした。人間を燃やすにはかなりの高温が必要なのだがランタン用の油を使っても火種が足りそうもなく、あまり褒められたものではないかも知れないけれどもウーファンから貰った凶鳥烈火を使った。冒険者や兵士が身に着ける事を義務付けられているタグは見つけられなかったので、ヘルムだけ持ち帰る事にした。
「……あの」
「何だ」
 肉が燃える臭いというのもまた気分が良いものではなく、さりとてこのまま放置する訳にもいかなかったので遺骸が骨になるまで待つ事にしたのだが、その間の沈黙に耐えられずギベオンが口を開いた。何か話していないと得体の知れないものに飲み込まれてしまいそうで、怖かった。
「セラフィさんは、その……何で今の仕事をしようと思われたんですか?」
「兄が医者なのに弟が死体を埋めるのは不敬だと思ったか」
「不敬っていうか、不思議だなあって……」
 燃える炎をなるべく見ずに質問したギベオンに、セラフィは間髪入れず、しかし淡々と聞き返した。樹海で死んだ冒険者の遺体を埋める仕事を請け負っていたセラフィの兄は、医者だ。ならば兄が使う薬草を採取しに行く、謂わば助手の様な事をしていてもおかしくはない――否、表向きは植物収集家という肩書きがある様なので助手には変わりないのだが、何故それだけに止まらず死体を埋める様になったのかをギベオンは知らなかった。
「昔、襲われて路地裏に引き摺り込まれた事があってな」
「は?」
「すんでのところでクロが助けてくれたんだが、犯人を半殺しにしたんだ」
「……そ、それ、セラフィさんは大丈夫だったんですか」
「顔を殴られて剥かれた服を口に突っ込まれたくらいだ。気持ち悪かった」
「………」
 男が男に襲われる事もある、というのは知っていたが、まさか身近な人間が被害に遭った事があるとは思いもよらず、ギベオンはセラフィの気持ち悪かったという言葉に何と反応して良いのか分からなかった。ただ、今は不意討ちをする方が得意なセラフィが不意討ちをされた事があるというのは、妙な心持ちにさせた。当たり前だが彼にも未熟な頃があったのだと思った。
「助けてくれた時、クロが何て言ったと思う」
「……すみません、分からないです」
「殺せない、すまない、許してくれ、だとさ」
「………」
「もうあの頃には、クロは医者の勉強をしていたからな。クロが殺せないなら俺が殺して埋めるしかない」
 ごつごつした岩肌の壁に背を凭れ、腕を組みながらギベオンではなく未だ燃えている炎を見つめながら、セラフィは抑揚も無く話す。否、彼は何も見ていなかった。ただ昔の情景を思い出したくなくて目の前の光景を視界に入れていただけだ。
 領主である辺境伯の人柄が影響しているのか、タルシスの住民は比較的人が良いと言われる。しかし当然であるが全てがそうという訳ではなく、所謂変質者だって居る。たまたまセラフィがその変質者に襲われただけだ。性欲を満たす為なら相手を選ばない人間は、世の中には驚く程多い。男が男を襲う事も、ある。恥に思った被害者が声を上げない事が多いから表面化しにくいだけであって、タルシスにも相当数の被害者は居た。
「じゃ、じゃあ、その犯人はセラフィさんが……?」
「いや……、クロの師を知っているか?」
「一度だけお話聞いた事があります。バーブチカ先生、でしたっけ」
「あの人が殺した」
「え……えっ?」
 まだギベオンがクロサイトの患者であった数ヶ月前、裏庭で虫干しされていた白衣を前に、クロサイトは医学と薬学の師であったバーブチカという医者の話をしてくれた事がある。懐かしむ様な目でバーブチカの白衣と、恋人であったらしいユーリという男のシャツを見ながら話してくれた内容を、ギベオンはまだきちんと覚えている。しかし、バーブチカを語るクロサイトの思慕が浮かぶ目とは似ても似つかないセラフィの目はどこか冷たく虚ろだった。
「先生は医者だったが、元は殺し屋だったらしくてな。
 騒ぎを聞き付けて来てくれた先生に俺達が事情を説明したら、何の躊躇いも無く殺した」
「………」
「本当に躊躇いなんて微塵も無かった。だから、その技術を教えて欲しいと頼んだ。
 手の施しようが無い奴を楽にしてやれないとクロが嘆かなくても良い様に、俺が殺しを覚えたいと」
 火が爆ぜる音は、未だ続いている。鼻が麻痺したのか、それとももう肉が炭化したのか、生臭い臭いはギベオンには感じられなかった。滋軸も近いというのに他のギルドの者達の気配が誰一人として感じられないのは、恐らくこの広間には鎧の追跡者しか居ない事と、特に何の仕掛けも無いからだろう。それに安堵して良いのかどうかは、分からないけれども。
 ジャケットの内側に仕込んである、投擲ナイフの内の一本を取り出して、セラフィが僅かに沈黙する。黒い柄の部分に蝶の装飾が施されたそれは、ホロウクイーンにも投げたものだ。彼に薬学を教え、ナイフを徹底的に教えこんでくれたバーブチカが、投擲ナイフを扱わせたら右に出る者は居ないと賞された私の母の形見だ、君に母の加護がある様に、と譲ってくれた。雨の降る寒い夜、教える事はもう何も無いと言いながら。
「……俺達の両親は離婚したんだが、精神を病んだ母親が病院から逃げて、父親を刺した。
 診療所に逃げ込んできた父親は結局刺し殺されて、母親は……」
「………」
「……母は、息子を返せと先生も刺そうとして、……俺が刺した」
「……そんな」
 クロサイトとセラフィの母親は離婚後に程なくして精神を病み、クロサイトが自分の元から逃げた事を切っ掛けに錯乱する様になり、病院に強制的に収容された。しかし隙を見て逃げ出し、かつて夫であった男を刃物を持ったまま追い回し、ついには刺し殺してしまった。よりによってクロサイトとセラフィの目の前で、だ。そしてあろう事かバーブチカに襲いかかろうとしたので、セラフィが咄嗟に薬草を刻む為のナイフで刺した。彼はそれまで人形や動物の遺骸でナイフの扱いを学んでおり、初めて人間を刺したのはその時だった。
「先生は冷静でな。刺しただけでは人は死なないと教えたが、君も親を殺すのは忍びないかねと聞いてきた」
「……そ、それで……」
「捻った。ナイフを」
「……クロサイト先生は……」
「泣いた。お前にそんな事をさせてすまないと」
 セラフィは、母親の腹を刺した。自分と兄を育んでくれた、その腹を刺したのだ。手に伝わる温かい血で持ち手が滑り、あまりの恐怖でセラフィが叫びそうになった時にバーブチカが冷静に尋ねたので、噛み合わない奥歯を噛み締めて一気に手首を捻った。その光景を見ている事しか出来なかったクロサイトは、崩れ落ちた母の体の側にへたり込んでしまったセラフィを抱き締め、本当は自分が母さんを治して、元の通りに暮らせるとは思えないが母さんにお前が好きだった紅ヒメマスの塩釜焼きを作ってほしかったと泣いた。セラフィは自分の虚弱体質を治す為にクロサイトが医者を志したと知っていたが、両親が離婚してからは母の心の病を治す為に勉強していた事も知っていて、兄のそんな所が本当に好きだった。だからクロサイトの医者としての信念を汚されない為に、またクロサイト本人が汚してしまわない為に、敢えて自分が汚れる選択をした。
 バーブチカがナイフをくれたのは、母親を殺したその夜だった。兄の為に茨の道を進む事を選んだセラフィに、少しでもその茨を切り裂いていける様にと渡してくれた投擲ナイフは、今でも鈍い光を放つ刃に彼の顔を映し出してくれる。
「単なる俺の自己満足で、我儘だ。クロに白衣を汚して欲しくなかった」
「………」
「これから先、誰の手にも負えずに苦しむ重傷の奴とも出くわす事もあるだろう。
 クロの側に俺が居たなら俺が楽にする。だが俺が居ない時は」
「はい、僕がやります」
 母親を殺した後、セラフィは数えきれない程の人間を手にかけてきた。それはクロサイトの目の前で、ではなく、専ら樹海や幽谷、点在する小さな天然迷宮での事だったが、時折命からがらタルシスに戻ったものの診療所に担ぎ込まれても手の施しようが無い冒険者を楽にする事もあった。
 今までは、クロサイトの側にはほぼセラフィが控えていた。だが今後はそうもいかない事が多くなるだろう。それを見越してセラフィが言おうとした言葉を、ギベオンが遮って先に宣言した。何の迷いも淀みも無い声は、先程盛大に吐いた男のものとは思えない程だった。
「僕もクロサイト先生の白衣は白いままでいて欲しいです。それに」
「?」
「セラフィさんがあんまり汚れると、ペリドットが泣いちゃいますから」
「……ふん」
 ギベオンは、クロサイトとセラフィは似ていないと思っていた。だが、今になって漸く似過ぎているのだと知った。セラフィは知らない筈だが、元は彼が兄でクロサイトが弟であったけれども体の弱いセラフィが死神に連れて行かれない様にと、クロサイトはずっと身代わりとなって兄としてセラフィを守りながら生きてきた。そのセラフィは、クロサイトの医者としての信念が汚されない様に兄を守りながら生きている。この二つの事実を知っているのは恐らく自分だけであろうし、酷似性を知るのもまた自分だけであろうけれども、今となっては師となった二人を騎士として守りたいとギベオンは思った。何せ、図体だけはでかい。二人を庇う事くらいは出来るだろう。
 ペリドットの名前を出されたセラフィは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにそっぽを向いてギベオンと視線を合わせなかった。突如妻の名前を出されて気恥ずかしかったからだ。苦い顔をしながらちらと見た炎は徐々に小さくなっていっており、彼は僅かに目を細める。そんなセラフィの視線の先に目をやったギベオンは、少しだけ考えてから炎に黙礼した。