痺れる右腕を擦りながら、ギベオンはジン・バックを出してくれたガーネットに礼を言う。深夜の孔雀亭に人の姿は殆ど見受けられず、普段は賑わっている店内も今は静かだった。ギベオンの隣に座っているアルビレオには、ギブソンと呼ばれるカクテルが先に供されていた。
「危険な場所って知ってても、いざ見ちまうと怖いしつらいよなぁ」
「はい……」
 カクテルグラスをちみりと傾けたアルビレオは、言葉を選びながらそう言った。先日の探索の際に発見した遺体を診療所に住む男と一緒に片付けたと聞き、よくそんなお人好しな事をと思ったのだが、ギベオンが居候しているその診療所の住民は元から死体の始末屋だから不思議な事でもお人好しな事でもないのだとすぐに考えを改めた。
 ギベオンよりも樹海や幽谷を長く探索してきたアルビレオにとって、冒険者の遺体を発見する事は珍しい事ではなく、だから遺体を埋葬するという考えは元から無い。ただ、以前に増して風馳ノ草原や丹紅ノ石林で遺体を見付ける頻度が高くなったと他の冒険者から聞いているから、ギベオンのギルドに所属している診療所の男がいかに大変な仕事をしていたのかを知った。そして、その男が片付ける作業を手伝ったというギベオンは、アルビレオが知る限りでは珍しい程に孔雀亭へ足を運んでいた。
 たまたま翌日を休息日にあて、交易場で港長と気球艇の増築についての打ち合わせを済ませたアルビレオはそんなギベオンと出くわし、連れ立って孔雀亭に来た。ギベオン達はローズが居るので基本的には日を跨いでの探索はしないが、大部分のギルドはそうではなく、滋軸があるとは言えタルシスから銀嵐ノ霊峰は遠いので、簡易でも気球艇に寝る為の個室を望む者は多かった。それを最初に港長に申し出たのはアルビレオであり、以来彼は時間があれば交易場に足を運んで港長と共に試行錯誤を繰り返している。もうそろそろ形になりそうだと言われて上機嫌で外に出るといつの間にか日は暮れ夜も更けているどころか真夜中に差し掛かろうとしていて、明日は休みにしてるし一杯引っ掛けて帰るかと、孔雀亭に向かう途中でギベオンと出くわしたのだ。眠れないから酒の力を借りようと思って、と弱った笑みを浮かべたギベオンの目の下には、隈が出来ていた。
「色々、覚悟の上でギルドを結成したつもりだったんですけど……やっぱり甘かったんだなあ、って」
「皆最初はそんなもんだよ。俺もそうだった」
「そうなんですか?」
「おお。駆け出しの頃とか、碧照ノ樹海の熊に追い掛けられて小便漏らした事もある」
「ああ……怖いですよね……」
 いつもと変わらないジン・バックを口に運んだギベオンは、アルビレオの言葉に神妙に頷く。冒険をする中で熊に追い掛けられた事は無いが、クロサイトの患者であった頃に散々追い掛け回された。その走り込みのお陰で引き締まった体になったとは言え、やはり思い出すと未だにぶるっと震えてしまう。熊という生き物は見た目に反して中々に足が速いものであるから、あっという間に追い付かれてしまうのだ。鋭い爪や巨体からペリドットを庇うのに精一杯で、何度クロサイトに手を貸して貰ったか分からない。
「例えば、こうやって一緒に酒飲んでバカやってげらげら笑ってた相手が、翌日悲惨な死に方したとかさ。
 何回か経験あったよ」
「………」
「お前は幽谷でホロウクイーン倒したって言っても、まだ冒険者としては駆け出しだもんな。
 これから嫌って程経験していくだろうよ。潰されねえ様にしろよ」
「……はい」
 カクテルグラスを揺らし、グラスの中のパールオニオンを転がしながら言ったアルビレオの言葉には、重みがあった。ギベオンは自分の事もあって他人に過去を聞く事は滅多に無く、だからアルビレオがタルシスに来るまでどんな人生を歩んできたのか、また冒険者になってからどんなつらい想いをしたのかを殆ど知らない。アルビレオはギベオンに対しタルシスに来てからの事しか話した事は無いし、探索中のつらかった事はほぼ教えた事が無かったので、その一言に様々な感情が籠められていた。
 痺れが無くなった右手を軽く握ったり開いたりして、ギベオンは再度タンブラーを持つ。先程アルビレオと腕相撲をしたのだが、今日も勝つ事が出来なかった。イクサビトの里でキバガミが授けてくれた巻物をクロサイトから預かったギルド長がつけてくれた稽古により、ギベオンは庇うだけでなくアルビレオと同じ様に近くに居る者が受ける魔物の攻撃を和らげる事が出来る様になっていた。その練習はアルビレオが付き合ってくれたし、彼もまたギベオンが繰り出す盾での打撃に興味を示して教えて欲しいと申し出てくれた。だからお互い腕力は随分とついてきており、アルビレオの方がまだ上だという事だ。
 他の者が繰り出す技を会得出来る様になってから、ギベオンはアルビレオと以前にも増して話す様になった。同じ様に、ローズもエレクトラに印術を教えて貰もらう為に良くセフリムの宿の食堂や診療所の裏庭で話したり練習したりしている。クロサイトはセラフィが扱う投擲ナイフに実は興味があった様で、たまにセラフィに教えてもらいながら探索で魔物と遭遇した際には後方から投げていた。そのセラフィはペリドットに踊ってみませんかと誘われたものの実はリズム感が皆無で、初歩的なステップを踏むにも随分と苦労しているらしい。
 他のギルドの者達や自分のギルドの者達と、また違った交流が生まれているのは喜ばしい事ではある。しかし、そこまで心を許して打ち解けていても、ギベオンは未だに腕相撲の時に腕捲りが出来なかった。腕だけではなく、体の至るところに両親から鞭打たれた痕や突き飛ばされて強打した痣が残っているから人に見せるのは憚られて腕捲りすら躊躇い、結局インナーを人前で捲った試しが無い。精々クロサイトに診察して貰ったり手当てを受けた時くらいだ。もう少し自信が持てる様になれば良いんだろうけど、と、霊峰で取れた透き通ったものを使用しているから未だ氷が解けないジン・バックを一口飲んだ自分の頭に不意にアルビレオの手が伸び、ギベオンは咄嗟にその手を避ける様に体を退けてしまった。
「あ、ああ、悪ぃ悪ぃ。お前頭触られんのダメだったな」
「す、すみません、あの、」
「いや、何回見ても思い切ったなーって思ってさ、その頭」
 アルビレオが言った様に、ギベオンは頭を触られるのは苦手だ。苦手というより、嫌悪に近い。頭だけではなく、例えば子供をあやす様に背を撫でられる事も好きではない。殆どの人間は撫でられると心地好いと感じるものだが、ギベオンにとっては針で撫でられている様な感覚がするのだ。彼と接するには理解が必要とクロサイトが診断した所以の一つでもある。
 アルビレオは、それをクロサイトから聞いていた。帯電体質を含め、体に触れるには用心する事と聞いていたが、うっかりそれを失念していた。ギベオンの頭、正確に言えば頭髪が、以前とは違ってかなり短く刈り込まれているものだから、つい触ってしまいそうになったのだ。
「寒いだろ、それ」
「寒いです……霊峰行く時絶対帽子がいります」
「細っけえ人も時々ばっさり切ってるの知ってたけど、理由は知らなかったな……」
 ギベオンがセラフィと一緒にタルシスの兵士の遺骸を燃やしたあの日、診療所に戻ったセラフィは真っ先に風呂に入った。あの水場が嫌いなセラフィが、である。それを心得ていたかの様にクロサイトは既に風呂を用意しており、浴槽には診療所の軒下に吊るしてあるハーブの束を三つ程入れていた。魔除けとして吊るしているとギベオンは聞いていたが、死体を埋める仕事をしているセラフィが体に染み付いてしまった死臭を消す為に常に用意してあるという真意を、ギベオンやペリドットはその時初めて知った。
 そしてセラフィと入れ違いで風呂に入ったギベオンは、上がってから顔を合わせたセラフィに驚いた。肩甲骨まで伸ばしていた髪を、その時のギベオンと同じくらい短く切っていたからだ。どうしたんですか、とギベオンが聞くと、臭いから、と短い返答があった。確かにギベオンも頭を洗いながらあの遺骸の臭いが取れない様な気がするとは思っており、そう言われてしまうとどうしようもなく気になってしまって、結局クロサイトに頼んでかなり短く刈り込んで貰った。
「ペリドット達から全然気にならないとは言われたんですけど……どうしても僕が気になって。
 セラフィさんもそう言ってました」
「やっぱ鼻に残っちまうのかなあ。伸びるまでの辛抱だな」
「はい……」
 寒い地域出身で、元から短髪であったギベオンでも、ここまで短くすると銀嵐ノ霊峰や冷却された状態の岩窟は頭が寒い。だから大急ぎで自分とセラフィの帽子を編み、風邪をひかない様に気を付けていた。冒険に出ると自分が思っていた以上の意外な経験をするものだと、刈り込んだ頭をざりざりと掻いたギベオンに、グラスを飲み干しパールオニオンを咀嚼したアルビレオが敢えてにかっと笑って言った。
「ま、死ぬ事以外はかすり傷よ。生きてりゃ何とかなるさ、俺もお前も」
「………」
「お前が髪切ったのも、腕捲りしねえのも、だーれも気にしねえさ。
 だから、上手く消化していきな。難しいかも知れねえけど」
「……はい」
 アルビレオは、ギベオンが腕捲りをしたがらない理由もまた、クロサイトから聞いて知っていた。自分が受け持った患者に対してはとことん向き合う姿勢を崩さないクロサイトは、アルビレオに対してもギベオンの事で何か気になった点があるなら教えて欲しいと言っていたのだ。最初の内はセラフィやペリドット、ガーネットに言っていたのだが、ギベオンがアルビレオと親しくなった事を知って彼にもそう伝えてきた。だから全然肌を見せたがらない気はすると言うと、彼は体のあちこちに痣があるとクロサイトが教えてくれた。
 そして、接し方に少し癖があると知ってから注意深く見ていると、確かにギベオンは独特だった。随分改善されたと聞いたが若干吃音であるし、思いがけない事が起こると途端に体を硬直させてフリーズしてしまうし、目的地までは決まった道でないと辿り着く事が出来ない。そうかと思えば鉱物に対する記憶力は凄まじいし、エレクトラの手を見ただけなのにぴったりのサイズで手袋を編んだし、アルビレオが宿の食堂で悪戦苦闘していたジグソーパズルに至っては元の図柄と残っているピースをじっと見てからあっという間に完成させてしまった。それら全てがギベオンの個性であるし、そもそもこのタルシスに冒険に来る者など変な人間しか居ないのだ。少なくとも、アルビレオは自分を含めてそうだと思っている。
 アルビレオが自分を気遣って言ってくれた言葉は、ギベオンの胸の中の迷いを少しではあるが薄めてくれた。その事に感謝した彼は、アルビレオと同じ様にタンブラーの中身を飲み干した。そして、閉店時間だからと追い出す事もせずに黙っていてくれたカウンターの向こうのガーネットにも、深く感謝していた。今夜は久しぶりに良く眠れそうだ、と思っていた。



 ギベオンがアルビレオと酒を飲んだ夜と前後して、何の予告も無くペリドットの母親であるインフィナがタルシスにやってきた。何でも、ペリドットがクリソコラと望まぬ婚姻を結ばされそうになった際に尽力してくれた辺境伯に直接礼が言いたかったそうで、クロサイトに仲立ちを頼みたかったらしかった。彼女は初めて統治院に赴いた時のペリドット同様、身分の低さを懸念して足を踏み入れたがらなかったが、辺境伯は身分ごときで人を拒絶しないと、セラフィがペリドットに言った言葉を今度はクロサイトが言い、漸く面会を果たせた。
 インフィナの滞在は数日間というごく短かいものであったけれども、その間もギベオン達は探索を続けていた。本当はペリドットに母娘水入らずの時間を過ごして欲しかったところではあったが、インフィナがあなた達はやるべき事をやりなさいねと言ったので、その気遣いを無碍にする事もなかろうと、全員で話し合って決めた。ただ、岩窟内の探索はせずに銀嵐ノ霊峰の調査をしており、岩窟の地下二階の入り口を発見する切っ掛けとなった鰐の魔物――粉砕する大牙と名付けられたが――が徘徊している付近に何かキラキラしているものが見えるとペリドットが言うので純白七面鳥を囮に粉砕する大牙を足止めをし、調べると、雪が花の様な形状を成して固まっており、陽光を浴びて幻想的な光景を生み出している一区画を発見したりしていた。雪の花ですね、僕の故郷でも運が良かったら見付けられるんですよ、でもこんなに沢山咲いてるのは聞いた事が無いなあとギベオンは言った。本当に美しい光景であったので皆感嘆し、水彩画が趣味のクロサイトがタルシスに戻って思わず絵筆をとった程だ。また、孔雀亭で引き受けていた辺境伯からの依頼で、銀嵐ノ霊峰で悪魔の声を聞いた冒険者が多く、どうせ魔物の遠吠えか何かだろうが他の冒険者達は怯えきって頼りにならないから、聞こえる場所と原因と思われる場所を探してきてくれというものを引き受けており、その場所の発見も目的の一つであった。
 そうこうしている内に、インフィナは故郷へ戻った。リズム感が全く無くて踊れず苦労しているセラフィに対し、そのうち踊れる様になるわよと慰めただけで踊れない彼を責める事もしなかった彼女は、タルシスまで連れて来てくれたという身元が確かな商団が再度故郷の方面へ行くというので同行させてもらっていた。インフィナを見送ったギベオン達は先に依頼事を済ませようと、悪魔の声が聞こえるらしい場所を探していた。
 辺境伯が集めた証言によると、その声は霊峰の北東でよく聞こえるらしい。ギベオン達が作成していた霊峰の地図は北東が空白になっており、遠目からでも分かる降雪の仕方と周辺を飛行している大きな蟷螂の様な魔物の姿は雪の中での気球艇の操縦に慣れてきたギベオンにも自信があまり持てないと思わせていたが、証言を鑑みるに行かぬ訳にもいかないだろうと話し合ってその方面を探索する事になった。
 果たして、確かに雪が降り止まぬ一区画との境目で、大地から響く恐ろしい唸り声に全員が堪らず耳を塞いだ。轟音は容赦なく気球艇を揺さぶり、遠目に見えている洞窟の周辺を徘徊している魔物よりもかなり強大で、それこそ銀嵐ノ霊峰を時折旋回している氷嵐の支配者と名付けられた竜が接近しているかの様にも思え、クロサイトはすぐにこの場を離れようと言った。だが、舵取りを担当していたギベオンは誰よりも先に耳から手を離して辺りをきょろきょろと見回しており、もう少しここで待機してみませんかと言ったのだ。轟く声にすっかり怯え、自分の腰に抱き着いたローズの肩を抱きながらクロサイトは何を、と思ったのだが、ペリドットが気球艇から少しだけ身を乗り出してギベオンと同じ様に辺りを見回し、そうだね、ちょっと待ってみようかと言った。何でも、確かにこの音は物凄く怖いけど殺気が全然しないです、との事だった。言われてみれば、深霧ノ幽谷でホロウクイーンが居た広場など、扉の手前からでもおぞましい程の殺気が伝わってきたというのに、この音には一切殺気が感じられなかった。
 二人が言った通り、暫く待機しても声の主は全く現れず、多分これは近くの谷を吹き抜ける風の音だと思いますとギベオンは言った。彼の故郷である水晶宮はこの霊峰に似て氷と雪の都であり、嵐が来て風が吹き荒ぶと大地を揺らす程の轟音が近くの谷から聞こえてくる。恐らく原理はそれと同じと踏んだギベオンがその場所を探しましょうと言い、全員その案に賛同したのだが、雪の中を飛び回る魔物に探索の道中に捕獲した嶺峰ウサギを囮に使ったものの降りしきる雪に思う様に気球艇を操作する事が出来ず、結局その魔物、アイスシザーズと戦う羽目になってしまった。雪のせいで視界も悪く、凍える様な寒さの中での戦闘であった為に辛うじて倒せたものの、セラフィが振り下ろされた鎌を避けきれず大怪我を負い、一時意識不明となった。不幸中の幸いでクロサイトの処置が早かったのでセラフィは一命を取り止めたのだが、暫くは絶対安静となってしまった。
 ただ、セラフィが動けない間に何もしなかった訳でもなく、たまたま孔雀亭を訪れていた旅の芸術家が雪の花園の場所を教えて欲しいと言ったのでギベオンが近くまで連れて行ってやったり、暫くは魔物も徘徊しないであろうからと悪魔の声が聞こえる場所を探しに行き、突き止めたりしていた。ギベオンの予想通り、声の正体は一段低くなった場所に吹き込んだ気流が、壁面と柱の間を通り抜ける際に生じる風音だった。ペリドットとクロサイトはセラフィに付きっきりであったし、幼いローズは万が一の事があってはいけないからと連れて行けず、ギベオン一人で行こうと思っていたのだが、そういう事だったなら一緒に行ってやるよとアルビレオが付き合ってくれ、無事に解決出来たという訳だ。
 アルビレオ達もその悪魔の声とアイスシザーズに悩まされており、洞窟に近寄れなかったそうで、先に探索しとくな、と上機嫌そうだった。彼のギルドは猛毒洞穴を徘徊している嗅ぎ回る毒竜が吐き出した毒が付着した洞窟椰子の樹皮が黄柏の樹皮に変化したものを納品する事に成功しており、間違いなく第一線を進んでいるギルドと言えた。メンバーであるエレクトラは元々氷の印術を得意としているそうで、巨人の心臓を守るホムラミズチは岩窟の至るところに突き刺さっている灼熱の鱗から察するに、彼女の印術が大いに活躍するだろう。
 ギベオンには、タルシスに集まる冒険者達の先陣を切りたいという欲は無い。だからアルビレオ達のギルドがホムラミズチを撃破出来たならそれで構わないと思っているし、たまたま巫女と先に知り合ったのが自分達だったというただそれだけであったから、特に焦りというものは無かった。それ故セラフィの傷の回復もじっくり待てたし、更に言うなら慣れない寒暖の差に体調を崩し気味であった全員の良い休息になった。ただ、体が鈍ってしまわない様にと各自対策はしており、クロサイトはギベオンに鎚の稽古をつけたり、ペリドットはウィラフと踊ってみたり、ローズは探索から戻ってきたエレクトラに印術の使い方を学ぶ一方で方陣の張り方を教えたり、傷口が塞がったセラフィは街中を散歩したり少し走ったりしていた。余談だがセラフィは怪我で寝込んでいた筈であるのに、いつの間にかワルツが踊れる様になっていた。
 クロサイトの処置が早かったお陰でセラフィの傷は随分と早く癒えた。鋭い刃物で切った傷口は塞がるのも早い、とは知っていたものの、それにしてもたった半月程度で元のように動ける様になったのは体が頑丈なギベオンも驚いた。歩きながら大地の気を分けて貰い側に居る者にもその気を分け与える事が出来るローズに散歩の際に付き添ってもらったそうで、そのせいだろうとセラフィは言った。岩窟を歩いている時、ローズが居てくれると大きな鱗を破壊していない時でも大きな火傷を負わないし、魔物との戦闘で負った傷も歩いていれば自然と消えていってしまう。ローズはまだ幼い子供であるから体力は無くとも、メディックである父のクロサイトの手助けが立派に出来ていた。その事をギベオンやペリドットが褒めると、ローズも嬉しそうにはにかんで笑った。



 ギベオン達が岩窟の探索を再開させた頃には、アルビレオのギルドを含むいくつかのギルドは地下三階まで到達していた。道順が複雑とは聞いていたが、他のギルドの者達が大きな鱗を破壊してくれていたお陰で、地下二階の探索はそこまで骨が折れるものではなかった。ただ、やはり道順は確認しておいた方がギベオンが混乱しないからと、地図を作成した後に鱗が復活した時の道順を全員で確認した。そして、地下二階の大きな鱗があったのであろう場所の近くの階段を下った所には、何とウロビトの一団が居た。何でも、巫女に同行してきたのだという。彼らはローズの元気そうな姿を見て安心し、その水辺の側で見付けたから、と半透明の翠の石をくれ、ローズよりも先にギベオンがぱっと顔を明るくした。翠玉であったからだ。
 ウロビト達は、自分達と違ってイクサビトには世界樹が悪しきものとして伝わっている事に疑問を持っている様であった。それは皆が抱いている疑問であり、大きな謎だ。ひょっとしたら距離も関係しているのかも、と言ったのはペリドットだった。イクサビトの里よりウロビトの里の方が世界樹よりも遠く、また巫女も住んでいたから世界樹の呪いが到達しなかったのでは、という彼女の意見に、思わず全員が納得してしまった。証拠に、イクサビトは病に罹っているのにウロビトは誰一人として罹っていない。そんな病は聞いた事も無い、と、ウーファンでさえ言っていたそうだ。
 ウロビト達と出くわしたその場所は大きな水場が散見され、奥には進めそうもなかった。対岸の地面には鈍く光る何かが見え、恐らく譲ってもらった翠玉があるのだろうと思ったギベオンはこの地下三階にある筈の大きな鱗を破壊したいと思った。ただ、大きな鱗ではなくホムラミズチそのものの熱である可能性も拭いきれず、先が思いやられた。
「一階と二階の大きな鱗があった所の真下、もうそろそろですね」
 それでも何とか鎧の追跡者をかわしつつ、地下三階の探索も進んだ頃、休憩を兼ねた簡易の食事の途中で、書きかけの地図を眺めながらペリドットが言った。地下二階で他のギルドの者達が破壊したのだろう大きな鱗があったと思われる場所を見た時、一階の大きな鱗があった所の真下ですねと真っ先に言ったのはギベオンだった。彼は本当にそういった空間把握能力に長けており、ペリドットがそうと確認したのを聞いて改めてクロサイトが感心した程だ。
「キバガミさんが三階の大空洞って言ってたけど、
 一階の鱗があった所に比べて二階の鱗があった所はちょっと広かったから、
 多分この先にあると思うんだよね……」
ホムラミズチが居るせいなのか、地下一階や地下二階が冷却されていなかった時の様に蒸し暑い中では、食材が傷みやすい。それ故、熱や湿度に強い食べ物を携帯しておかねばならず、ギベオンがまだ地図に記入していない先の道を眺めながら齧ったのも焼きしめたライ麦パンだった。酸味のあるパンはぼそぼそしていて、不味くはないが美味いものでもなかった。帰ったらレバーペーストを塗って食べたい、とギベオンは思った。
 進んだ先で万一ホムラミズチと不覚にも遭遇してしまった時の事を考え、ギベオンは背嚢に入れているアリアドネの糸を予め取り出し、すぐに使える様にとズボンのポケットに入れる。そして先に食べ終わって鎚を肩に担ぎ、空いた手を白衣のポケットに突っ込み、薄暗い岩窟の道を先程の自分の様に眺めていたクロサイトに見張り有難う御座いますと声を掛け、また探索を再開した。
 だが、いよいよ地下一階と地下二階の空洞があった真下のエリアの近くの扉をギベオンが開けようとしたその時、扉の向こうからおぞましい悲鳴とけたたましい鳴き声、何かが閉まる大きな音が聞こえて、ギベオンはセラフィと示し合わせたかの様に二人でその扉を抉じ開けた。開けた瞬間、むわっとした一層の蒸し暑さと鉄が焦げた様な臭いや得も言われぬ臭いが鼻をつき、覚悟していたセラフィでさえ顔を顰めた。
「ああ、うぁ、あがっ………」
「………!!」
 そこに居たのは尻もちをついたかの様な体勢で座り込み、苦悶の表情で呻き声を上げながら普段は剣を握っている方の腕を押さえているアルビレオだった。全身に大火傷を負い、特に金属の手甲と腕あてを嵌めていた為に火傷が激しくなった腕は動かす事もままならぬらしい。しかし、ギベオンの後ろに居たローズが彼より先に悲鳴を上げる様に叫んだのは、アルビレオの名ではなかった。
「エリーさん!」
 自分よりも早く駆け出したローズを、クロサイトははっとして追い掛ける。だが、小さな肩を捕まえる事は出来なかった。ローズの足が速かったから、ではなく、娘が向かった先に居る者の姿を見て止めるべきではない、と思ったからだ。彼は一瞬の内に踵を返し痛みに喘いでいるアルビレオに駆け寄り、火傷の具合を確かめるべく鞄を下ろした。父とは反対に、崩れ落ちる様に膝をついたローズの側には、焼け焦げた服の隙間から見える皮膚が爛れ、全身から滲む血で濡れたエレクトラが力無く横たわっていた。
「……ロ……ズ?」
「はい、そうです、ローズです」
「ごめ……見え、な……」
 彼女の爛れた体やアルビレオの最早炭化しているのではないかと思わせる腕は、奥に見える扉の向こうに居るのであろうホムラミズチの炎が凄まじい事を証明している。アルビレオの側で空気を求める様に口を大きく開けたまま、既に絶命しているのは彼のギルドのスナイパーであった者、だろう。また、扉と扉で遮蔽されたこの狭い空間には小さいながらも二つの池があり、手前側の池には誰かが浮いていた。熱さに耐えられず水を求めて飛び込んでしまい、爛れた肌に水の刺激は強すぎてショック死したのかもしれない。その光景の凄惨さに足が竦み、腰が抜けそうになったペリドットの体を、セラフィがしっかりと支えた。何をして良いのか分からず、ギベオンは呆然と立ち尽くしていたが、池に浮いた遺体を目視すると奥歯を噛み締めてからその遺体を引き揚げた。
「ろ、……」
「はい、はい、ここにいます」
「こ、れ……」
 ホムラミズチがどの様な攻撃をしてきたのか、ギベオン達には想像もつかないが、炎が高温過ぎて気管まで焼けてしまったのか、エレクトラの声は殆ど出ていない。普段から彼女が着用していた藍色のローブも既に原型を留めておらず、様々なものが焦げた臭いが充満していた。その中でエレクトラが自分を呼んでいる事は分かって、ローズは必死に返事をする。そんなローズに、エレクトラは握っていたロッドを差し出した。彼女が印術を操る時、媒体として使っていたものだった。
「使っ、て」
「え……」
「……………」
「……エリーさん、エリーさん、いやっ、いやあああぁっ!!」
「ローズ!!」
 ロッドを差し出した手にローズが触れようとした瞬間、エレクトラの手がごとんと地面に落ちた。ロッドが転がっていかなかったのはあまりの高温の為に手袋と皮膚とロッドの金属が溶けて結合してしまったからだ。エレクトラが絶命したと理解し、彼女の名を泣き叫んだローズに、アルビレオの腕の状態を見ながら応急措置をしていたクロサイトが駆け寄り抱き締めた。
「とうさま、とうさま、エリーさんが」
「ああ、そうだ、死んだ」
「い、いや、いやです、どうして」
「すまない、その話はまたきちんとしよう、タルシスに戻ってレオ君の手当てをしなければ」
「エリーさんは」
「後できちんと埋葬する、今は怪我人が先だ」
「いや、いやあぁ」
「ローズ!!」
 細く小さな体をガタガタと震わせるローズを抱き締めたまま、クロサイトもなるべく冷静を心掛けるも少し上擦った声で言い聞かせる。しかしエレクトラの遺体を置いて行くと言った自分に首を振って抗議したローズの両肩を掴んで体を離し、彼は悲痛な叫びを上げた。
「良いかローズ、生きている人間が優先だ!」
「っ!!」
「すまない、堪えてくれ、レオ君まで死なせる訳にはいかんのだ」
「う、うぅ、うえぇ、」
 ローズに言い聞かせるクロサイトの声は、僅かに震えていた。彼も娘の初めての友人を岩窟に置き去りにするのはつらくて苦しい。しかし、命の危機が迫っている重傷者が居る以上、クロサイトはローズの父親ではなく医者でなければならなかった。苦渋の決断と言って良い。その苦しみは絞り出す様に発せられた言葉を塗り潰し、ギベオン達にも伝わった。
「ベオ君、レオ君を担いでくれるかね」
「は、はいっ」
「アリアドネの糸は」
「一つです」
「全員は戻れないか……」
 真っ青な顔でぼろぼろと涙を溢し、辛うじて頷いたローズに再度すまないと謝り抱き締めたクロサイトは、娘の肩を抱いたままギベオンに気丈な声で尋ねた。絡まる事を懸念して基本的にアリアドネの糸は背嚢の中に一つしか入れておらず、五人までしかタルシスに戻れない事を意味している。クロサイトの体格ではアルビレオを担ぐ事は難しく、ギベオンに担いで貰うしかないし、かと言って誰かを置いていく訳には、と顔を歪めたクロサイトが白衣を探ろうとしたその時、アルビレオが掠れた声で言った。
「俺、のが、ある」
「どこだ」
「ズボン、の、なか……」
「有難う、使わせて貰う、気をしっかり持ちたまえ、必ず助ける」
「あぁ………」
 既に体を動かす事が出来なくなっているアルビレオは自分のズボンのポケットを探る事も出来ず、代わりにがギベオンが煤や血で汚れる事も厭わず探った。焼け焦げた腕とは反対側のポケットに入っていたからか、アリアドネの糸は無事だった。
「お前達、それで一旦帰れ。ベオ、糸を一つ寄越せ。俺はここに残る」
「フィー、お前、」
「幸い、ここはホムラミズチも他の魔物共も来れんらしい。俺はこいつらをどうにかして帰る」
「………」
「お前は医者だ、怪我人を助ける義務がある。義務を果たせ、行け」
 二手に分かれて戻れる事を確認したセラフィが、ギベオンに手を出してアリアドネの糸を寄越す様に要求した事に、クロサイト達だけではなくアルビレオも驚きの表情を見せた。まさか先に進もうとするのではないだろうな、と言わんばかりに自分の名を呼んだ兄に、セラフィは落ち着き払った静かな声で遺体を埋葬してから帰ると言った。地下一階でタルシスの兵士を火葬した時の様に、彼は淡々としていた。まだ肩につく程度にしか伸びていない髪を髪結い紐で項の後ろで纏めたセラフィは、顎でしゃくって全員タルシスに戻る様に指示する。だがただ一人、ペリドットだけは彼の側から離れなかった。
「ローズちゃん、先に戻っててね。エレクトラさんのロッドはちゃんと持って帰るから」
「ペリドットねえさま、」
「ギベオン、戻ってアルビレオさんを運んだらすぐにローズちゃんをガーネットさんの所に連れて行って。
 お願いね」
「う、うん、分かった、二人共気を付けて」
 ペリドットは、地下一階でセラフィがタルシスの兵士を火葬した事を彼の口から聞いた。そういう仕事をずっとしてきた、これからもするだろうと言ったセラフィに、ペリドットはたった一言、お側に居りますと言った。その言葉通り、今この時、彼女は夫の側を離れるつもりは無いのだ。出来る事ならタルシスに戻って欲しいが、と苦い顔をしたセラフィは、自分の服の裾をぎゅっと握ったまま離さないペリドットに諦めの溜息を一つ吐いてギベオンからアリアドネの糸を受け取った。



 タルシスに戻り、大急ぎで診療所ではなく施設が整っている病院に担ぎ込まれたアルビレオは、処置が比較的早かった事もあってか一命を取り留めた。ただ、剣を振るっていた腕は炭化し最早使い物にはならず、切断を余儀なくされた。左腕は辛うじて無事であったが、それでも隻腕となった事実は変わりなく、片腕で探索が続けられる程岩窟は優しいところではない。彼の冒険者生命は、その日断たれた。
 ギベオンはアルビレオを病院に担ぎ込んだ後にローズを孔雀亭まで連れて行ったが、その後どうしたら良いのか分からず、セラフィ達が帰ってくるまで診療所で待機していた。二人が戻ってきたのは日もとっぷりと暮れた頃で、詳細を尋ねて良いものなのかどうか分からなかったけれども、風呂から上がった二人が自分の淹れた茶を飲みながらきちんと教えてくれた。
 ホムラミズチの炎に焼かれて死んだエレクトラ達を再度焼くのは忍びないが、かと言って二人では岩窟を削る事も出来ないし、さてどうするかと二人で思案していた時に、探索を進めていたキバガミとワールウィンドが追い付いてきたそうだ。何でも、足手まといにはならないからとワールウィンドがキバガミに頼み込んで共に探索をしていたらしい。エレクトラ達の遺体に悲壮な顔をしたキバガミが事情を説明したセラフィに対し、ならば我らイクサビトの墓地に埋葬するが良いと申し出てくれたそうで、二人に手伝って貰ってエレクトラ達の遺体を里まで運び、埋葬した。どの場所に埋葬するかは迷ったが、ペリドットが一つの墓を指差した。そこには、男性物の眼鏡が供えられていた。あの隣は空いてますか、空いているのならあそこが良いですと言った彼女に対し、キバガミは感心するかの様にこう言ったのだそうだ。
『十年程前、この岩窟の外で行き倒れになっている人間を助けた事があってな。
 その眼鏡をかけていた男と壮年の男の二人だったが、
 鉄の鎧と我らイクサビトには操れない複雑な武器を持っておった。
 酷い怪我を負っていてな、我らの看護も虚しく二人共数日の内に次々と息を引き取ってしまった。
 ……どこから来たかは分からんが、気の毒な事だ。
 あの者達も、自分の同族に看取って欲しかったろうにな……。
 この者達、あの二人と同様に人間だ。同胞が近くに居れば、寂しさも紛れるであろうよ』
 ギバガミが話している間、じっとその墓を見ていたワールウィンドは無意識なのかどうなのか、首飾りを指で弄っていた。否、墓というよりも、供えられていた眼鏡を見ている様にペリドットには思えた。何かを隠しているというか、黙っている事がある様な気がする、と、彼女は思ったが、敢えて何も聞かずキバガミの話を聞いていた。
 そしてエレクトラのロッドだが、やはりロッドのグリップの金属と彼女の皮膚が熱で融合してしまっており、セラフィが彼女の遺体に片手で略礼をした後に手首から切り落とした。遺体を損壊する事は彼にとっても避けたいところではあったのだが、そうでもしなければローズに持ち帰ってやる事が出来なかったからだ。水に着けていれば肉も腐敗して離せるだろう、その後ベルンド工房に持って行って修復して貰う、と無表情で言ったセラフィに、そうすると良いとぽつんと言ったのはワールウィンドだった。彼も、ローズ程ではないが幼い少女が悲惨な死に方をした事に対して胸を痛めている様に見えた。
 数日は岩窟の探索に戻れないだろうとセラフィはキバガミに言い残してきたそうで、アルビレオの腕の切断手術を終えて診療所に戻ってきたクロサイトもひどくくたびれていた様であったから、ギベオンは三人に対し五日休みましょうと提案した。友人を亡くしたローズの心のケアも必要であるし、自分もアルビレオの容体が心配だし、探索以外で心身共に疲れ果てているクロサイトとセラフィ、ペリドットをとにかく休ませたかった。三人も特に反対せず、その日は全員泥の様に眠ったけれども、全員夢見は最悪なものだった。



 長いことクロサイトの診療所に住まわせてもらっているとは言え、病院という施設に慣れている訳でもないギベオンは、アルビレオの見舞いにも何となく落ち着かずそわそわしながら廊下を大股で歩いた。向かった先の病室は個室で、入院費とか大丈夫なんですかとギベオンがクロサイトに尋ねると、懇意にしている病院勤めの医者が変わり者で、今後の参考にしたいから全身火傷の経過を観察させてくれるなら半額で良いと言ってくれたらしい。
 入室した部屋の中の、窓際に設置されている寝台の上に、全身に包帯を巻かれたアルビレオが横たわっている。ギベオンから見える方の腕は、既に失われていた。
「よお、お前か。ちょうど良かった、ちょっとベッド起こしてくれねえか」
「あ、はい」
 比較的元気そうな声でギベオンに寝台を起こす様に所望したアルビレオは、初めて見舞いに来た時よりも顔色が良かった。出血が激しかった為に貧血気味であったが、たった十日程度でここまで張りがある声を出せる様になったのは、彼の治癒力が高い証拠だ。言われた通りにギベオンが寝台のハンドルを回して背凭れを作ってやると、アルビレオはありがと、と短く礼を言った。
 アルビレオのギルドは、ギルド主である彼がこの様な状態になってしまった事により、解散と相成った。宿屋に残っていた他のメンバーは、故郷に戻ったり別のギルドに移る事になったそうで、あまり揉めたりはしなかったらしい。ホムラミズチとの戦いで亡くなったエレクトラ達の遺品整理もすぐに済ませ、アルビレオの荷物も既にこの病室に運び込まれていた。
「どうだ、あれからホムラミズチに挑んだ奴らは居るか?」
「それが全く……挑むどころかまた大きな鱗が復活しちゃったので」
「ああ……手間だよなあ、あれ」
「はい……」
 寝台の側に椅子を起き、座ったギベオンに、岩窟の探索の近況を尋ねたアルビレオの目は、まだ冒険者のものだった。死にかけたというのに、それでも腕さえ無事であったならすぐにでも探索に出ようとするのではないかとギベオンに思わせたアルビレオはそうだ、と思いだしたかの様に言った。
「俺さ、タルシスに残る事にしたんだよ。港長が退院したら俺のとこで働けって言ってくれてさ」
「え……交易場で、ですか?」
「気球艇の開発とかメンテナンス部門。
 前からよく港長に要望出したりしてたもんだから、冒険者目線で色々作れるだろって」
「あ……、そう言えば気球艇で寝泊まり出来る様なスペースが欲しいって言ってましたもんね」
「そうそう。街に戻れば良いのは分かってるけど地形調査もしたいし、かと言ってベッド無いのもきついし」
「交代でも良いからベッドで寝られると有り難いですよね」
「だろ? だからさ、そういうのを実現する為に働けって言ってくれたんだ」
「そうですか……」
 どうやらアルビレオは冒険者以外の道が開けた様で、タルシスに留まるらしい。もし彼が交易場で働く事になるのであれば、ギベオンもよく訪れるから今まで通り顔を合わせる事は出来そうだ。片腕で働けるのだろうかと要らぬ心配をしてしまったが、何も肉体労働だけが仕事ではなく、探索の最前線に居たアルビレオの様な目線も必要だろう。適材適所というものだ。
「あと、そこの盾。今日持って来て貰ったんだけど、お前にやるよ」
「え……で、でもそれ、依頼達成報酬だったんじゃ……」
 そして壁に立て掛けてある、先日見舞いに訪れた際には見なかった異国の文字が表面に刻まれた盾を指差しながらアルビレオが言った言葉に、ギベオンは目を丸くした。ギベオンの記憶が正しければ、その盾はアルビレオが猛毒洞穴で黄柏の樹皮を採集する事に成功し、依頼者に納入して手に入れた報酬であった筈だ。それをほいとくれるというのはいくら何でも気が引ける。
「良いんだよ、俺はもう使えないし、お前の方が役に立てられるだろ。
 ……ホムラミズチは脚に毒があるみたいでな、俺以外は全員毒にやられて動きが鈍ったんだ。
 ただでさえあのクソ熱い中だったから、余計にな」
「……え、じゃあ、ひょっとしてこの盾、毒を防げるんですか?」
「どうもそうらしい。炎は防げないけど毒を防げたらぐっと楽になる筈だ。特にお前は盾役だから」
「………」
 城塞騎士である以上はギルドの皆を守る為の盾になるべきであるし、ホムラミズチが毒を持っているのであればその盾は大いに役に立つ筈だ。しかし、それにしてもまさかタルシスに来てから一年も経っていないというのにホロウクイーンを倒したどころかホムラミズチに挑む事になろうとは、とギベオンは妙な気持ちになる。アルビレオの様な手練の冒険者でさえ打ち破れなかった強大な敵を、果たして自分達が倒す事が出来るのだろうか。業火に焼かれて命を落としてしまうのではないかと思うと恐ろしく、眠れない夜をここ数日過ごしているギベオンは、迷いの表情を浮かべて黙ってしまった。
「……ホムラミズチが居るあの大空洞、な。あそこ、鱗が色んなとこに刺さってんだ。
 ホムラミズチの後ろにも大きな鱗があったから、余計にあの大空洞の温度が高いみたいだぜ。
 とにかく刺さってる鱗を全部壊す事が出来たら一階とか二階みたいに冷える筈なんだ」
「氷銀の棒杭で、ですか」
「そう。俺たちは手持ちの棒杭も少なかったし陽動に失敗しちまって大きな鱗を壊せなくて、それが敗因だったと思う。
 良いか、変位磁石と棒杭はしこたま持って行け。陽動に失敗したと思ったらすぐに磁石で空洞の外に出ろ。
 大きな鱗を壊せたなら勝ち目はある筈だ」
「は、はい」
「死ぬ事以外はかすり傷だ、生きてりゃ何とかなる。だから、ちゃんと生きて帰って来いよ」
「――はい」
 アルビレオは、生きて戻れた。だが、エレクトラは戻れなかった。死ぬ事以外はかすり傷、が口癖の彼でも、戻れなかった仲間を思い出す事は身が割かれんばかりにつらいだろう。ギベオンだって、クロサイト達を守れなかったらと思うとぞっとする。誰かを死なせてしまった挙句に自分だけが生き残るなど、想像しただけで歯の根が合わなくなる。
 それでも、アルビレオは生きる事を選択した。自分を助けようと懸命になってくれた者達が居ると分かっているし、それなりに長かった冒険者生活の中で蓄えられた自分の経験や知識が他の者達に役立つとも知っているからだ。実際、今の彼のアドバイスはかなり重要なものだった。ギベオンは言われた事をしっかりと噛み締めて飲み込み、診療所に戻ったらすぐにクロサイト達に伝えようと思っていた。そんなギベオンの力強い頷きに、アルビレオは満足した様に笑った。



 復活してしまった大きな鱗を破壊する為に再度の探索を余儀なくされ、また霊峰の探索も必要だからと気球艇で飛ぶ日々が続いている。今日はギベオンが霊峰で切り出した氷を小さく砕き、クロサイト達が飲んでいた茶のマグカップに入れ、口に指をあてて耳を澄ます様にとジェスチャーしたので注意深く聞くと、氷からぷちぷちと音が聞こえた。何十年、何百年、何千年も前のものかもしれない空気の音ですよ、と微笑んだ彼に感心したのは、クロサイトだけではなかった。その音が大層気に入ったペリドットは、ギベオンから氷の選別方法など教えてもらい、たまに使いたいねと言った。孔雀亭への差し入れにしましょうと言ってくれたギベオンに対し、礼を言いあぐねたクロサイトは結局そうだなとしか返せなかった。ギベオンなりのローズへの慰めと分かっていても、それに対して礼を言うのも野暮な様な気がしたからだ。
 エレクトラの一件以来、ローズは探索に参加させていない。心に負った傷が大きすぎるというのと、やはり連れて行くには恐ろしいという思いがクロサイトにはある。それでも娘の操る方陣や印術、地脈の操作が無い探索は、全員の体力をひどく消耗させた。地下二階の大きな鱗をやっと破壊させたその日も、各地に散らばっている冷却前の鱗の熱で全員あちこちに火傷を作り、また活動が活発になったヨウガンジュウの炎にも苦労させられ、一旦戻って休もうという運びになった。
 くたびれていても食欲は普段と変わらないギベオンとセラフィが綺麗に夕食を平らげている間に、近所の住民から頼まれていた回診から戻ったクロサイトが戻ってきて軽く食事を済ませた。その後に、ペリドットがローズを孔雀亭まで迎えに行く。ローズが極力自分と顔を合わせずに済む様にというクロサイトの配慮故の行動だった。
 自室に戻ったクロサイトは、しんとした冷たい部屋に少しだけ体を震わせた。勿論霊峰に比べれば寒いなどとは言えない室温だが、人の出入りが少ない事を教えてくれている。随分と体が重たく、休もうかとも思ったのだが、ランタンに照らされた壁時計の時刻はまだ夜も浅い時分を示しており、寝るには早いと思い直す。つい先頃、ギルドを解散したアルビレオから譲り受けたウイ香がどういうものであるのかをまだ調べてなかったとふと思い立ったので、机の上に置きっぱなしであったそれに目を遣り、椅子に座ろうとしたその瞬間だった。
「………っ!」
 突然、視界がぼやけたかと思うと一気に真っ暗になり、驚きのあまりに膝から崩れ、その拍子に手に引っ掛けてしまったらしい椅子が倒れる音がした。幸いにも体にはぶつからず、どこにも痛みは無い。クロサイトはその事に安堵する暇も無く、見えもしていないのに辺りを見回してしまった。慣れた自分の部屋であるからどこに何があるか、何歩行けば扉があるか、それくらいは分かるが、しかし今まで長らく片目で生きてきて疲労が溜まれば目が利かなくなる事はあってもこんな風に突然見えなくなった経験は無く、部屋から出て誰かを呼ぼうにも突然の事に恐ろしさがこみ上げてきて立ち上がれなかった。腰が抜けたか、みっともない、と一瞬思ったものの、すぐにそんな考えは恐怖に掻き消された。
 もし、このまま見えなくなってしまったら。果たして自分は「誰か」の「何か」の役に立てるのだろうか。そう思った途端に背筋が凍り、叫んでしまいそうになってしまった。その時だった。
「どうした、何があったっ!」
「?!」
 乱暴に扉が開けられた音と、聞き覚えのある声に、クロサイトは弾かれた様に声がした方に顔を向ける。案の定全く見えなかったが、その声は瞼の裏に浮かび上がった人物のものと合致した。
「……フィー? お前か?」
「……ああ、何だ、見えないのか」
 座り込んだまま問い掛けたクロサイトを見て、すぐに状況を把握したらしい声の持ち主は――セラフィは、扉を締めて兄に歩み寄る。その靴音は軽く、彼の履いている靴が探索に行く時の様なブーツではなく専ら診療所に居る時に履く軽い靴である事をクロサイトに教えてくれていた。恐らく自室で寛いでいた時に、五感が鋭い彼は椅子が倒れた音にすぐ気が付いたのだろう。
 セラフィが自分の側で膝をつく気配がし、おもむろに両手を掴まれる。そしてその手に、ほのかに冷たく筋張った何かが触れた。
「分かるか。俺だ」
「……うん、うん、お前の顔だ」
 幼少の頃から疲労が溜まると目が霞み、左目を抉り出してからは霞むどころか一時的に目が見えなくなってしまうクロサイトの手を取り、自分の顔に触れさせて安心させる事が、同じく幼少の頃からのセラフィの役目だった。ここ最近、アルビレオやエレクトラの事もあってか心労が溜まっていたし、ギルドの癒し手を一手に引き受けているクロサイトの肩には責任が重く伸し掛かっている。その上、連日の探索だ。まだ若いつもりでも確実に体は年をとっているから、負荷に耐えられず目が見えなくなってしまったのだろう。
「お前、地図の見直しやそこの……黄緑の花の実の事を調べようとしたな?」
「うん」
「だからだ。疲れてるんだからもう寝ろ。本当に見えなくなる」
「うん」
 一頻り顔を触って安堵した表情を見せたクロサイトに、セラフィは素っ気なくも諭す様に言う。普段ならここでまだ大丈夫だから起きていると言うクロサイトは、目も見えていないので素直に頷いて従った。こういう時、彼はいつも子供の様に返事をする。
 セラフィは、クロサイトがどれだけ無理をしているのかを分かっている。倒れる前に制止するのが彼の役目であるが、最近は自身の探索疲れも相まって制止するタイミングを見誤ってしまった。ただ、それを謝ってしまえばまたクロサイトが自責の念に駆られてしまうから、敢えて休めとしか言わなかった。
 クロサイトの両脇を抱えて立ち上がらせ、肩を担ぎ腰をしっかりと支えて寝台に座らせてやる。靴を脱ごうとした兄より先に手を出し、脱がせてから横たわらせたセラフィは、倒れていた椅子を寝台の側に寄せて座った。
「寝ろ。居るから」
「ペリ子君は」
「ローズと寝るから心配するな」
「……すまない」
「良いから寝ろ、悪いと思うなら休め。お前に倒れられると俺達も困る」
「うん」
 親しくしていたギルドの者達がつらい解散をした事を受け、心に傷を負ったのはギベオンとローズだけではない。それなりに会話を交わし、顔見知りであったセラフィやペリドットも同様だ。自分達よりうんと年下のエレクトラが息を引き取る様を見ているしか出来なかった大人達は、皆一様に遣る瀬無さを味わい、ちらと頭を掠めた自分でなくて良かったという考えに苦い思いをしている。クロサイトだってそうだ。その思いに、潰されそうになる。だから現実から目を逸らそうと、目が見えなくなってしまったのかも知れなかった。
 エレクトラを喪ったローズは、塞ぎこんでずっと泣いている。あの時、クロサイトがエレクトラを置いてタルシスへ戻らなくてはならなかったと頭では分かっていても、幼いローズの心にはまだその事が蟠りとして残っており、クロサイトは殆どローズと話が出来ていなかった。ガーネットが従業員に店を任せてローズに付き添っているとは言え、孔雀亭にはガーネットが作るカクテルを楽しみに来店する者が殆どであるからそう頻繁に抜け出す事が出来ず、代わりにペリドットが付き添っている。ここ数日は寝る時も一緒で、だからセラフィは一人寝を余儀なくされていた。
 出来る事なら、ホムラミズチとの戦いにローズを連れて行きたくないというのがクロサイト達の見解だ。エレクトラの事を思えば、余計にそう思ってしまう。ローズ本人も怯えている様であるから、診療所に置いて行く事も視野に入れなければならないだろう。しかし、先述した様にクロサイト達のギルドには印術を使える者はローズしか居ない。大気中の水を瞬時に刃に乗せ斬りかかる事が出来るセラフィにも、これ以上の働きをさせれば死んでしまうかもしれない。今からクロサイトが印術を覚えようにも彼の負担が大きくなるだけで、最悪の場合魔物との戦闘中に目が見えなくなる可能性だって拭い切れない。ホムラミズチと戦っている時にそんな事態に陥ってしまったら、それこそ全員死んでしまう危険性がある。
 あんなに幼い娘に頼らなければならないか、不甲斐ない、と、砂を喰む様な気持ちを胸に渦巻かせ、クロサイトはゆっくりと意識を眠りに落としていく。側にある弟の気配だけが、その気持ちをほんの僅かだけ和らげてくれた。