晴れてはいるが新月が近いせいで月明かりも無いその夜、最後の客を送り出し人気もない店内で茶を飲みつつ閉店作業をしていると、耳に扉が開く音が滑り込んできたので、ガーネットは入り口に目を遣りながら言った。
「ごめんなさいね、今日はもう終わり……あら珍しい」
 従業員も居るとは言えずっと店を開けておく事は不可能に近い為、深夜から明け方まで一旦閉店する孔雀亭の営業時間を知らぬ冒険者はほぼ居ない。入店してきた男も、そう頻繁に来店する訳ではないが知らぬ筈は無かった。
「飲むの?」
「いや……、……顔が見たくて」
「……ほんと、珍しいのね」
 いつも座るカウンター席に腰掛けた男は――クロサイトは、孔雀亭に私用で来る時と同じ、藍色のシャツ姿だった。アルビレオ達がホムラミズチの討伐に失敗したという話はガーネットも聞いているし、毎日自分の元に来ているローズがすっかり憔悴してしまっているから、恐らくその件で何か話をしに来たのだろうとは思ったが、かなり殊勝な事を言われてガーネットは目を丸くしてしまった。顔が見たかった、などと、この男の口から聞くのは初めてだ。それ程追い詰められているのか、はたまた人恋しくなっただけなのか、ガーネットには分からなかった。
 自分も飲んでいるハーブティをカップに注ぎ、クロサイトに供す。ふわと香る柑橘の様な香りが落ちた気持ちを少しだけ引き上げてくれた様な気がして、クロサイトは有難う、と言ってからカップに口を付けた。
「……明日、行ってくる」
「行ってくるって……例の魔物の所に?」
「ああ。あまり長引かせても巫女殿の体力が心配だからな」
「そう言えばウロビトの里の巫女さんがイクサビトの里で治療にあたってるんだったわね。
 体が樹になっていく病、ね……確かに奇病だわね」
 清涼感漂う香りと喉を潤す温もりを暫し楽しんだクロサイトは、僅かな沈黙を挟んでからホムラミズチの討伐に出る事を告げた。最後の客に使ったグラスを磨きながら、ガーネットは以前聞いたイクサビトの里での一連の騒動を思い出す。ウロビトと同じく、過去の人間に創造されたというイクサビトは金剛獣ノ岩窟に里を作り、営みを続けていたが、十年程前から原因不明の病に悩まされる様になったらしいとガーネットはギベオンから聞いた。その病はガーネットも聞いた事が無く、またウロビトの里では聖なるものとして崇められている世界樹がイクサビトの里では悪魔の樹と言われている事にも驚いた。
 眠れなかったのか、それとも夜中に目が醒めてしまったのか、ガーネットには分からなかったが、クロサイトは茶から立ち上る香りに多少の安らぎを感じられた様で、入店して来た時よりも多少は肩の力が抜けたかの様に感じられた。その時間を邪魔する事も無かろうと暫く自分の足元を見ていたガーネットは、彼が茶を飲み干したのを確認してから聞いた。
「怖くないの?」
「怖いさ」
 何気なく尋ねたつもりであったが、虚勢も何も無い素直な心境を返され、ガーネットは思わず目を丸くする。クロサイトはセラフィを除く他人の前では決して弱音を吐かない男であったから、まさか自分に対してそんな事を言うとは思ってもいなかったのだ。怖くないと言えば嘘になる、程度の返答かと軽い気持ちで聞いたというのに、真剣な顔と声で即答されては茶化せなかった。
「……怖いさ」
「……そうよね、当たり前の事聞いちゃったわ。ごめんなさい」
 意外そうな表情を見せて黙ってしまったガーネットに、クロサイトは再度呟く様に心境を吐露する。本当は獣王と対峙する前に犠牲になった大勢のタルシスの兵士の無残な遺体を見た時も恐ろしくて行きたくなかったし、ホロウクイーンに斬り刻まれたウロビト達の苦悶の表情を見た時も足が竦んで行きたくはなかった。彼は本当は臆病で、卑怯で、矮小な人間であるから、危険に身を曝したくはないのだ。
 だが、彼には行かねばならない訳が、立ち向かわねばならない理由があった。それを、ガーネットも知っていた。
「でも、行くんでしょう?」
「病に苦しむ者が居るなら、私は行かねばならん。捨て置く事など出来ん」
「お医者様だものね。でも、その前に一人の人間よ」
「………」
「貴方はお医者様である前に、あの子の父親。それを忘れないで」
「……ああ」
 クロサイトは、医者だ。ガーネットが初めて彼と出会った時から、純然たる医者だった。あの当時は駆け出しであったし、未熟な所はあったとしても、他人の傷病は見て見ぬふりが出来ない男だった。だから死のうとした自分を助けてくれたのだろうし、病的に太っていた体を治してくれたのだろうとガーネットは思っている。自分だけではない、誰にだってクロサイトは平等に医者であろうとする。彼女はセラフィと同様に、クロサイトのそういう姿勢が好きだった。
 その「好き」が恋愛感情になる程度には、その当時のガーネットは若かった。何せ今のペリドットより若かったし、クロサイトだって若かったから、お互い若さの勢いに任せて医者と患者ではなく男と女として向き合ってしまった。我儘を言って女にして貰った時、端から見ると全く分からなかったが意外な程に逞しい背にしがみつく事が出来てガーネットは本当に嬉しかったし、同時にひどく悲しかった。誰か一人のものになる事は出来ない、それでも構わないのか、と問われ、頷いてしまった結果、セラフィまで巻き込んで沈黙したままの出産になってしまった挙句、娘につらい思いをさせたどころか全員を泣かせる羽目になった。それを思い出す度、ガーネットは苦しくなる。
 しかし、娘を産んだ事を後悔している訳ではない。たまにしか会えなかったけれども、まだ回らぬ舌でかあさまと呼んでくれるローズは心の底から可愛いと思えたし、ウーファンは不機嫌そうに否定したがローズの面影はどこかクロサイトに似ていた。紛れもなくあの男の娘なのだと思うと、僅かな繋がりが感じられて少しだけ悲しみを和らげてくれた。
 ウロビトの里との交流が出来た今、ローズはタルシスのクロサイトの診療所に住まいを変えている。しかし初めて出来た人間の友人と悲しい別れをしてしまい、生きている人間が優先だと言い遺体を置いて行く事にしたクロサイトの判断は正しかったと分かっていてもまだ蟠っているのか、彼女は店内が忙しくなる時間になるまで孔雀亭で過ごしていた。ここ最近は探索に参加していないが、その影響もあるのか、迎えに来るペリドットの疲労具合や怪我の具合は日を追うごとに徐々にではあるが悪くなっている。
「連れて行くの?」
 幼いとは言え、ローズは方陣を操る事が出来るウロビトの血を引く娘だ。連れて行かざるを得ないだろう。ガーネットは顔を曇らせ、視線を足元に落としてからクロサイトを見ずに尋ねた。
「行く行かないはローズが決める事だ。私が決める事ではない」
「そうね。まだ小さいから、出来るなら連れて行って欲しくないけど……あの子が居なくて大丈夫?」
「イクサビトのキバガミ殿が同行を申し出てくれてな。彼の協力があれば心強い、が……」
「封縛と印術があるに越した事はない?」
「……そうだ」
 金剛獣ノ岩窟の地下一階と二階の大きな鱗を再度破壊し、地下三階で再会したキバガミは、ホムラミズチの討伐は自分も共に行くと申し出てくれた。彼の実力を手合わせの時に垣間見たクロサイト達はその申し出を有難く受け止め、こちらからも頼むとは言ったものの、やはりキバガミが加わっただけではクロサイトの不安は拭い去れなかった。たとえキバガミが自分と同じく、医術に心得があるとしてもだ。それだけホムラミズチの業火による惨状は、クロサイトの失われた左目の瞼の裏にまで張り付いていた。
 キバガミは、大空洞にあるだろう大きな鱗を破壊し地下三階全体の温度を下げる事が出来ればホムラミズチも存分に力を振るえない筈だと言っていた。また、僅かな時間だけでも良い、ホムラミズチが炎を振り撒かない様に出来ればあるいは、と、ギベオンはアルビレオに言われたらしい。ローズの封縛によってホムラミズチの頭を封じられたら、ぐっと楽になる筈なのだ。
 ただ、これらは全て推測に過ぎない。クロサイト達は実際にホムラミズチと対峙した訳ではないし、キバガミとアルビレオの言を疑う訳ではないのだが確証は持てない。そんな状態でローズを連れて行くのは、危険極まりない。だが、頼らざるを得ないのだ。クロサイトは片手で頭を抱えて重苦しい溜息を吐いた。
「情けない話だな、あんな幼い子供を頼りにせねばならんなど。……不甲斐ない」
「そうね、みっともないわね」
「………」
「でも、そういうみっともないとこをちゃんと曝け出してくれる貴方が好きよ。
 強いばかりの人間なんて居ないわ」
 ガーネットはいつも、歯に衣を着せない物の言い方をする。良くも悪くも裏表が無い。今もはっきりとクロサイトにみっともないと言った程度には、気の強い女だった。だから接していて分かりやすいし、クロサイトは彼女に対して一度も探りを入れた事が無い。必要が無いからだ。強いばかりの人間など居ない、と言った彼女は、確かに昔クロサイトに死にたいと言って泣き、弱さを曝け出した事がある。あの時止める事が出来て良かった、と彼はガーネットの薄紫のフローライトの様な瞳を見ながら思った。
「もし、もしもだ。ローズが行くと言ったら、君はどうする」
「どうもしないわよ。それこそローズが決めた事を私がとやかく言う筋合いは無いもの。
 私はいつもと同じ、ここでお早い帰りを待ってるわ」
「……そうか」
 曲がりなりにも、ガーネットはローズの母親だ。もしもローズが同行してくれると言ってくれたとしても、ガーネットに許可を得ないまま連れて行く事は、いくらクロサイトであっても躊躇われる。だから反対される事も罵倒される事も覚悟で聞くと、ガーネットはあっさりローズの意思に任せると言った。クロサイトが言った、ついて行くかどうかはローズが決める事であって自分が決める事ではない、というのは、幼い娘が決めた事を尊重すると言えば聞こえは良いがある意味責任を放棄している様な発言だった。しかし、クロサイトを見た後に口元で軽く笑みを作って目線を足元に落としたガーネットの言葉は、長い事この店で大勢の冒険者の帰りを待ち続けた強い女のものだった。帰って来なかった冒険者を偲んで涙を流した事もあれば、ぼろぼろになりながらも戻って来た冒険者に喜びの涙を流した事もある、そんなガーネットの言葉は、ローズだけではなくクロサイトの帰りもちゃんと待っているというものだった。
 帰りを待っていてくれる者が居る事実は、時に探索の心の支えになる。養親であり師であった者達が存命だった頃、探索に出たクロサイトとセラフィにとっての心の支えは、帰ったら養親が温かく迎えてくれる事だった。クロサイト達が冒険者を辞めた背景には、養親が死に、その迎えが無くなってしまったという事も含まれている。ガーネットが孔雀亭の女主人となったのはそれよりも随分後の事で、彼女が様々な冒険者達の帰りを待ち、迎えている事を知っても、復帰する気にはなれなかった。だが紆余曲折を経て復帰した今、帰りを待つと言ってくれたガーネットの存在は、ひどく有難いものにクロサイトは思えた。
「じゃあ逆に、クロ先生はどうするの? ローズが行くって言ったら」
「命に替えてでも守る」
 口を噤みかけたクロサイトに今度はガーネットが尋ねると、彼は即座に嘘偽りの無い返答をした。淀みも無い、震えてもいない、心地よい低さのその声の返事は、しかしガーネットの更なる質問を生んだ。
「あの子を見捨てて貴方が助かった結果、大勢の人が助かったとしても?」
 クロサイトは医者で、人を助ける事を生業としている。その知識も技術も失われてしまうのは惜しいと、恐らく統治院の者達からも病院の者達からも言われるだろう。世界樹の呪いと言われる奇病をその目で見、患者がどういう状態であるのか、どんな風に苦しんでいるのか、イクサビトの里に派遣されたタルシスの医師団と意見交換をして巫女の負担を和らげる為の努力も惜しんでいない。ローズが失われれば悲しむ者は確かに多いかも知れないが、クロサイトが失われれば彼が助ける事が出来たであろう多くの者も失われる可能性は高い。ローズ一人の命とその他大勢の命を天秤にかける様な発言はガーネットもしたくはなかったが、彼女はそれを聞いておかねばならなかった。
「君はさっき言ったな、私は医者である前にローズの父親だと。
 ……私も父としての義務を、今度こそ果たしたい。あの子が愛しい」
 エレクトラの遺体を置き去りにしていく事を余儀なくされたあの時、重傷のアルビレオが居た以上、クロサイトは医者でなければならなかった。だがもし、ホムラミズチとの対峙にローズがついてきてくれると言うのであれば、彼は自分の肩書きをかなぐり捨てる覚悟があった。未熟であったとは言え医者であったのにガーネットの妊娠に気付けず、ローズが生まれた事さえ知らなかった挙げ句に右目の視力を失わせてしまった最低でろくでもない男であるが、娘一人守れない父親にはなりたくなかった。
 二、三日前の事であるが、母が高熱を出したというウロビトからの依頼でクロサイトがギベオン達に事情を説明し手伝って貰って凍てついた地底湖に万年氷と呼ばれる氷を採りに行き、届けたのは、初めて顔を合わせた時のローズと同じ状態だと思うと居ても立ってもいられなかったからだ。ガーネットもあの当時の事を思い出したからこそ、ローズを迎えに来たペリドットにその依頼を持ちかけた。娘の目は失わせてしまったがせめて依頼人の母親は、と、クロサイトもガーネットも思った。今、依頼人の母親は快方に向かっているそうだ。クロサイトは他人を守れた事になる。他人を守れたのだから娘も守ってみせると、今のクロサイトはガーネットに告げていた。
 そんな彼の固い意思が乗った真っ直ぐな視線は、ガーネットに目を細めさせた。彼女のその艶やかな笑みは客に普段見せるそれではなく、どこか満足げなもので、クロサイトは僅かに首を傾げた。何か含んでいる様な気がしたからだ。ガーネットはそんなクロサイトには目を遣らず、口元を隠してふふっと笑い、また目線を足元に落とした。
「だって。良かったわね」
「?!」
 自分ではなく、足元に居るのであろう誰かに話し掛けたガーネットに、クロサイトは鈍色の目を見開く。再々目線を下に下ろしているなとは思っていたが、まさか誰か居たとは全く思っていなかったので、体が一瞬硬直してしまった。そんな彼の視界の下からゆっくりと、多少恥ずかしそうに現れたのは、誰でもないローズだった。カウンターの下、ガーネットの足元に座っていたらしい。
「お昼間に、ギベオン君がエレクトラちゃんのロッドを持って来てくれてね。
 物凄く泣いて、泣き疲れて寝ちゃって、夜に眠れそうにないからって診療所に戻らなかったのよ。
 ずっとここに居たのよね、ローズ」
「はい」
「………」
 もじもじしながら上目遣いでクロサイトを見たローズは、自分の代わりに説明してくれたガーネットに頷いて見せる。子供の気配は分かりづらいものであるが、それにしても全く気が付かなかったというのは褒められたものではないな、などと、クロサイトは動揺のあまり見当違いな事をちらと考えた。
 ローズに対して、偽りの想いを言った事は今まで一度も無い。だから先程ガーネットに伝えた事にだって一縷の嘘も織り込まれていないけれども、ローズ本人に向かって大事な娘だと言った事が無かったものだから何となく気恥ずかしく、また照れ臭いものがあって、クロサイトは再度沈黙せざるを得なくなる。落ち着こうとして茶を飲もうとカップに手を伸ばしたものの、既に飲み干してしまった後のカップは重量が無かった。
「さっき出したお茶、それもローズが淹れたの。ギベオン君に淹れ方教えて貰ったんですって。
 何のハーブティーか分かる?」
「……ベルガモット、か?」
「レッドベルガモットです。ベルガモットによくにたにおいの、タイマツバナのおちゃ」
 珍しいクロサイトの失態に笑いを噛み殺しながら尋ねたガーネットの質問に対し、クロサイトは香りの記憶を辿って頭に浮かんだハーブの名を口にする。しかしどうやら違ったらしく、漸くローズが自分に口を利いてくれて、ほっとしたものやら首を捻るやらでクロサイトは内心多少忙しなかった。
 タイマツバナは、ウロビト達が里で日常的に飲んでいる茶の内の一つのハーブだ。ベルガモットによく似た匂いだというのはクロサイトの記憶にもある。しかし、タルシスには無いハーブを何故わざわざ幽谷から持ってきたのかまでは分からなかった。他にも香りの良い茶はいくらでもあるし、ギベオンはハーブティーより紅茶を淹れる方が得意であるのにタイマツバナを選んだローズの真意は、クロサイトには分からなかった。
「タイマツバナのハーブティー、気管支に良いものなの。
 最近父様があまり喉の調子が良くないみたいだからって、
 たまたまこっちに寄ったウーファンに喉に効くものを教えてもらって、持ってきてもらったのよね」
「……はい」
「子供って、よく見てるのよ。
 貴方がどれだけ無理をしてるか、どれだけ苦しんでるか、どれだけ体を酷使してるか……
 ちゃんと分かってるし、心配してるわ。だから、貴方が安心させなきゃいけないのよ」
「………」
 言われた通り、クロサイトは最近喉の具合があまり良くなかった。声が枯れる程でもなく、扁桃腺が腫れている訳でもないが、不快を感じる程度の痛みが絶えず喉の内側にへばりついており、適度な睡眠をとっても中々改善されなかった。医者の不養生だな、などと思いつつも自分の事となるとつい後回しにしてしまう悪い癖が出て放っておいていたけれども、どこで見たのかローズは気が付いていた様だ。
 ローズはクロサイトが思っている程、父を避けていた訳ではなかった。クロサイトが勝手にそう判断し、娘と顔を合わせなかっただけに過ぎない。探索に、ホムラミズチの討伐に、自分を連れて行きたくはないと考えている事も気が付いており、ローズもエレクトラ達の事を思い出すと足が竦む程恐ろしくなって行きたくないと思う。だが、ローズははっきりと聞いた。自分が操る事が出来る方陣や印術を、誰でもない父が必要としてくれていると。
 深霧ノ幽谷の、里からホロウクイーンが居た広間までの道を一人で歩いた時、ローズは怖くて心細くて仕方なかった。しかし、転んだり道中の植物で怪我をしても進んだ先にクロサイト達が居ると思うと、涙をぐっと堪える事が出来た。あの時とは違って、今度は父も叔父も、二人の大事な人達も一緒についていてくれる。子供故の体力の無さで足手まといにならないかどうかだけが心配ではあるのだが。
「……ローズ、私の膝の上においで」
「……はい」
 小さく一息吐いたクロサイトが、自分の膝を軽く叩いて上に乗る様に促す。それに従ったローズは、素直にカウンターから出て父の側に立つと、軽く両手を広げた彼の膝によじ登る様に向き合って座った。クロサイトが絵本の読み聞かせをしてくれていた時は背中を預ける様に座っていたが、向き合って座ったのはこれが初めてだった。膝の上にちまりと座った娘は軽く、ウロビトが人間とは異なり異様なまでの細い体の種族であるとは分かっていても、こんなに細くて小さな体で自分達の探索について来ていたのだと思うと、クロサイトは胸が痛くなる。その痛みを誤魔化す様に、彼は目を微かに細めた。
「明日……もう今日だな……、私達が行く所は、ローズも知ってる通り、今までで一番危ない所だ。
 ローズのお友達も、お友達のギルドの人達も殺された怖い魔物が居る所だ。
 それでも、私は行かなくてはならん。巫女殿に世界樹の呪いの病を治して貰う為に」
「………」
「出来る事なら、お前はここに居て欲しい。連れて行きたくはない。
 ……だが情けない事に、私達はローズの様に方陣も張れないし印術も操れない。
 地脈の操作も出来なければ大地の気を分けて貰う事も出来ない。
 ローズがどれだけ凄い事をしていたか、探索しながら思い知ったよ」
「……わたし、ちゃんととうさまたちのおやくにたててましたか?」 
「十分過ぎる程だ。まだこんなに小さいのに、大したものだと皆で何度も話した」
「……えへ……」
 クロサイトの声は真剣そのものであったが、ガーネットと話していた時よりも柔らかく、子供相手のそれに変わっていた。難しい単語をなるべく避け、ゆっくりとした口調で話すクロサイトは、まだ慣れぬ父親業がそれでも板についてきている様にガーネットには見える。口を挟まず黙って二人を眺めている彼女は、ひょっとしたらこんな光景がもう見られなくなるかも知れないという事を覚悟の上で目に焼き付けていた。
「……さっきも言ったが、私達はホムラミズチを倒しに行く。その場にローズ、お前が居てくれたなら、本当に心強い。
 だが倒せるかどうかは分からないし、生きて帰れるか分からない。だから、行く行かないはお前が決めなさい」
「………」
「行かなくても、私達は誰も責めない。寧ろ本当に、ここに居て欲しい。
 だがもし、もしもだ。私達と一緒に来てくれるなら、お前は私が命と引き換えてでも守る。絶対にだ」
 これまでの探索の中でも、クロサイトは余程の事が無い限りはローズの側から離れた事が無い。ギベオンやセラフィ、ペリドットが怪我をした時に、魔物達の動きを見定めてから彼らに駆け寄る事はあったが、それ以外では殆どローズの右に常に立っていた。彼女は右目が見えていないから、視界の右側はどうしても死角になる。幼い頃、弟が自分の左目の代わりになってくれていた様に、今度は彼が娘の右目の代わりになる番であったのだ。
 岩窟を探索する様になってから自分達が怪我をする頻度が高くなったと、ギベオン達は言っていた。しかしローズは、これまでに大きな怪我を負った事が無い。ローズをクロサイトが守り、そんな彼を盾役である城塞騎士のギベオンが守っていたから、ローズは痕が残る様な怪我を殆どしなかった。ガーネットが言った様に、自分ではなく父が死んでしまえば助かる者も助からない可能性は十二分にあるというのに、父としての責務を果たしたいと言ってくれた。ローズには、その言葉だけで十分だった。
「……わたし、いきます。
 みこさまも、とうさまも、みんながんばってるのに、わたしだけここでないてたら、
 きっとエリーさんからしかられちゃうから」
「……そうか」
 昼間にギベオンが持ってきてくれたエレクトラの形見のロッドは、持ち手部分とエレクトラの皮膚が張り付いて一部が融合してしまう程の高温に晒されたというのに、不思議な事に形状が全く変わっていなかった。エレクトラの魂が宿っている様に感じられ、ローズは疲れて眠ってしまう程に泣いた。そのお陰でいつも寝る時間に眠たくならず、孔雀亭に居残っていた結果、こうやってクロサイトの膝の上に座る事が出来ている。エレクトラはローズに世界樹への冒険がいかに危険で恐ろしいものであるかを教えてくれたと同時に、父との距離をぐっと縮めてくれた。そんな彼女の弔い合戦とは言わないが、エレクトラが成し得なかった事をやりたいと思ったし、母が好きだと言い、自分も慕っている父の手助けをしたいとローズは思った。
 そんなローズの決断にほっとし、気を引き締めたクロサイトは、娘の銀髪の頭を優しく撫でた。さらさらと流れる髪の質は、ガーネット譲りで美しい。つくづく自分の硬い髪質に似なくて良かった、と妙な安堵を覚えたものの、ローズがまたもじもじとワンピースの裾を掴みながら上目遣いで自分を見上げてきて、クロサイトはおや、と首を傾げる。そんな彼に、ローズはおずおずと申し出た。
「……とうさま、ひとつ、わがままいってもいいですか?」
「うん? 何だ?」
「あの…… ……とうさまとかあさまと、さんにんでねてみたいです」
 その希望に目を丸くしたのは、クロサイトだけではない。カウンターの向こうに居るガーネットだって、呆気に取られた様な顔をした。ローズはクロサイトと、またはガーネットと一緒に寝た事はあっても二人に挟まれて寝た事が無く、親子三人で寝てみたいという子供らしい願いがあった様だ。思わずガーネットと顔を見合わせてしまったクロサイトは表情を変えずにぼさぼさの頭を掻き、うーん、と短く考える素振りを見せた。出来る事ならその細やかな願いを叶えてやりたいところではあるが、しかしこればかりは自分一人で決定して良いものではない。
「それは……母様がお許し下さったら、かな」
「ちょっと、私に責任を押し付けるつもり?!」
「心外だな、君の気持ちを尊重しているのだ」
「どの口が言うのよ……」
 だからお伺いを立てる様に言ったというのに、ガーネットは抗議の声を上げた。これで駄目と言えば私が悪者じゃない、と恨めしげな目でクロサイトを見た彼女は、君が嫌なら無理強いしないと言わんばかりの物の言い方をした彼に苦虫を噛み潰した様な顔になる。娘を成した仲とは言え、クロサイトとガーネットは結婚もしていないどころか交際もしていない。お互い仕事が恋人の様なものというか、クロサイトは全ての患者が恋人であるしガーネットは全ての冒険者の恋人だ。そんな二人が、娘を挟んでとは言え同衾するのは何となく憚られる様な気もする。だがひょっとしたら、そんな事は考えたくもないのだが、三人で寝る最初で最後の機会かも知れないのだ。ガーネットは胸を過ぎったうそ寒さを隠す様に頬を膨らませ、肩を竦めて妥協するふりを見せた。
「ああ、もう、そうね、親子三人で寝た事なんて無いものね、良いわよ」
「ほんとですかっ? えへへ……うれしいです」
 そのガーネットの言葉は、言い方としてはまずかっただろう。貴女の為に仕方なく三人で寝るのよ、と言っている様なものだ。だがローズはそれでも良かった。父と母と一緒に寝られる事が、その時の彼女の幸福であった。一般家庭の子供であれば、望めばすぐに両親の寝台に滑り込ませてもらえるだろうに、ローズは伺いを立てなければ叶わない。その事を申し訳なく思ったのは、クロサイトだけではなかった。
はにかむ様にきゅっと笑ったローズに、クロサイトは言いようもない気持ちで微笑する。同じ様に、ガーネットも気取られぬ様に指先で目尻を軽く拭いて微笑んだ。二人の思いはこの時だけは同じものであったし、また通じ合えていた。



「アリアドネの糸は」
「あります」
「変位磁石」
「持ち過ぎかも知れませんけど、十個」
「メディカとネクタル、テリアカβ」
「五個ずつです」
「アムリタ」
「……仙鶴人参があまり採れなかったから二個」
「いざとなったらハマオを使う、惜しんでいられん」
 朝、金剛獣ノ岩窟に向けて出発する前に広げた地図の上に出した持ち物の最終チェックを全員でやり、ギベオンが丁寧に背嚢に仕舞う。深夜に寝て明け方に診療所に戻ったクロサイトとローズは睡眠時間こそ短かったものの、深い眠りを味わったので問題は無く、ホムラミズチ討伐に向かう事に支障はない。久しぶりに二人で眠れたセラフィとペリドットも睡眠は十分に足りていたし、ギベオンに至っては朝食の食パンを三枚も食べた。盾役の彼の体力の源は食事であるからと、今日ばかりはクロサイトもその食事量に口を挟まなかった。
 クロサイトに連れられて診療所に戻ってきたローズが同行する意思を伝えると、ギベオン達はほっとしたものの、素直に喜んで良いものなのかどうか分からなかった。アルビレオの失った腕や痛々しい火傷の痕、葬ったエレクトラ達の遺体の事を思うと自分達ですら恐ろしくなるというのに、幼い子供であるローズを本当に連れて行って良いものなのかと悩んでしまう。だが、まだ八歳の子供が自分の意思で戦地に赴くと決断したのだ。何も分からぬままではなく、あの惨状を見た上での決断は、恐らくこの場の誰よりも勇気が必要であった事だろう。その勇気に感服したギベオンは、手を繋いだままのクロサイトとローズの前に自然と跪いていた。ギベオンはまだ本国で正式に叙階していないとは言え水晶宮の騎士であり、仕える主は双臂王ビョルンスタットだ。クロサイトやローズ達ではない。だがギベオンは紛れも無く彼のギルドの騎士であり盾であるし、またそうでありたいと心の底から思ったので、王よりも先に跪きたかった。
 騎士の誓いの際には己の武器を持ち出すものだが残念ながら朝食前であったのでギベオンの手元には無く、また正装でもなかったから荘厳なものにもならなかった。それでも自分達を守る胸の内を見せてくれたギベオンの肩に、クロサイトは重ねあわせた自分とローズの手を剣に見立てて当て、言った。

『謙虚であれ、誠実であれ、礼儀を守れ。
 裏切る事なく、欺く事なく、弱者には常に優しく、強者には常に勇ましく。
 己の品位を高め、堂々と振る舞い、我らを守る盾となり、我らの敵を討つ鎚となれ。
 騎士である身を忘れてはならない、だが命を投げ出す真似は決してせぬ様に』

 誓いの文言を何故クロサイトが知っていたのか、それはギベオンには分からないし、特に知る必要は無い。頭を垂れたままこの場の皆に誓って、と言った彼は、本来なら肩に当てられた剣に口付けるところであるが二人の手であったので、やや筋張った案外大きな手と柔らかく小さな手を自分の手で包み、二人を見上げてお守り致します、と軽く笑んで見せた。同じ様に、側に居たセラフィとペリドットに対しても僕が盾になります、と改めて言った。
「――そろそろ行きましょうか。キバガミさんがお待ちだと思いますし」
「そうだな」
「クロサイト先生はローズちゃんを、セラフィさんはペリドットを守ってくださいね。
 僕がお二人を守ります」
「ギベオンも無茶しないでよ、良い?」
「うん、有難う」
 アルビレオから譲り受けた盾を持ち、出発を促したのはギベオンだった。生きてこの診療所に戻れるか、それは分からないが、少なくとも自分は戻れなくても皆が戻れたら良いと本気で思っている彼の心中を察し、ペリドットが誰より先に釘を差した。世界樹の元へ行ってみたい、クロサイトにあの樹は燃えてなどいないと教えたいと言ったギベオンの背を押し、セラフィの説得をしてくれたのはペリドットだ。彼女の理解と協力が無ければギベオンはここに居ないであろうし、ローズをウロビトの里から連れ出しクロサイトの元へ連れて来る事も出来なかった。自分よりも一回りも二回りも小さなペリドットに、ギベオンはこっくりと頷いて礼を言った。
 ギベオンは、アルビレオにホムラミズチの討伐に行く事を昨日の見舞いの時に話した。彼は一瞬だけ翳りのある顔を見せたが、努めて明るい声と表情で頑張ってこいよ、と言ってくれた。自分の様になってしまうかもしれないし、エレクトラ達の様になってしまうかもしれないという考えが脳裏を過ぎったのだろう。暫く奇妙な沈黙が流れた後、アルビレオが思い付いた様に腕相撲をしようと提案してきて、片腕になってしまったし随分回復したとは言え怪我もしているしそれは、というギベオンを押し切って立ったアルビレオがテーブルの上に肘を立てたので、ギベオンも乗らざるを得なかった。
 勿論、勝負はギベオンが勝った。手加減するのもアルビレオに失礼な気がしたので一切せず、簡単に勝ててしまった。その事に対してギベオンが何と言って良いか分からず戸惑っていると、アルビレオはギベオンを褒めてくれたのだ。勝てた事を褒めたのではない。腕捲りをした事を褒めたのだ。今まで一度も、誰の前でも腕を捲らなかったのに、その時のギベオンは本当にごく自然に腕捲りをし、鞭打たれた痕が多く残る素肌をアルビレオに晒していた。それを指摘されても、ギベオンは咄嗟にインナーの袖を下げたりはしなかった。アルビレオが死ぬ事以外はかすり傷よ、と、笑いながら口癖を言ったからだ。
 ギベオンは、このギルドの盾だ。だがペリドットから釘を差された様に、アルビレオが言った様に、そしてクロサイトからも命じられた様に、無茶をせず生き延び、命を投げ出さない振る舞いをしたいと思う。行きましょう、と診療所の扉を開け、空に輝く太陽の光を浴びたギベオンは、口元を引き締めて金剛獣ノ岩窟の滋軸に向かう為に街門へと足を向けた。



 地下三階で待つ、との言葉通り、キバガミは金剛獣ノ岩窟地下三階に下った所で一人佇み待っていた。自分が居る事に対し反対されるかと思っていたローズであったが、キバガミは彼女の姿を見て、お主の様な幼子が戦地へ赴くか、その心意気や天晴れ、と、ギベオン同様感服してくれた。ほっとしたのはローズだけではなく、ホムラミズチとの戦いの前にキバガミの説得に当たらねばならないかと懸念していたクロサイトも胸を撫で下ろした。
 ローズとキバガミが加わってくれたお陰で、ホムラミズチが巨人の心臓を守る大空洞までの道程はそれまでに比べてぐんと楽になった。やはりローズの地脈を操作し鱗の近くを通る時の肌への熱の伝わりを軽減する能力や、歩きながら大地の気を分けてもらい自然治癒力を高めて魔物から受けた傷口を徐々に塞いでいく能力は随分とギベオン達に恩恵を齎した。暫くローズが居ない探索を行っていたから、余計にその恩恵が身に沁みた。これにはキバガミも驚いており、いつかゆっくりウロビトの者達と話がしたいと言った。
 大空洞への道中の鎧の追跡者も足の遅さをついて辛うじて振り切り、氷銀の棒杭もアルビレオに言われた通り伐採し得る限り、そして持てる限り用意した。大空洞が近付くにつれ皆口数が少なくなり、緊張の度合いが増していく。湿度が高いせいなのか、温度が高いせいなのか、じっとりとかいた汗が頬を伝って顎から落ち、ギベオンは拳で拭う。寒い国出身である彼にこの暑さは堪えるが、そんな事は言っていられなかった。何せ今から、皆が最も暑い思いをするのだ。
 大空洞へと続く間の扉を、ゆっくりとギベオンが開ける。岩肌の壁に沿って水を湛える池が両脇に見え、ローズは錫杖と共にロッドをぎゅっと握った。エレクトラ達がここで息絶えたのは記憶に新しく、キバガミを除く全員の頭にあの時の光景がフラッシュバックする。眉を顰めたり、口を真一文字に結んだり、反応は様々であったが、誰も逃げ出そうとはしなかった。
「レオ君の話だと、ホムラミズチは鎧の追跡者程ではないがそこまで足が速い訳ではないらしいな」
「はい、だから上手く誘導して空洞に刺さってる鱗も壊していけって」
「ホムラミズチの背後に大きな鱗があるんだな?」
「そう言ってました。だから、回り込んで行かないといけないらしいんです」
「以前ホムラミズチを倒した拙者の先代は、この大空洞には南と東に二つの扉があると言っていた。
 南の扉がそこの扉だろう。東の扉は恐らくお主らのその地図の……この辺りにあるのではないか?」
「翠玉を見付けたこの辺りに通れそうな割れ目があったし、多分その東の扉に続く空間がある筈ですね」
 最後の確認として一旦全員が車座になって地図を覗き込み、指差しながら話し合う。キバガミが大きな指で先代から聞いたという扉があるのだろう位置を推測し、抜け道を見付ける事が得意なペリドットがやはり今回も見付けた通れそうな割れ目があった場所を指差す。苦労して探索した末に見付けた地下一階の入り口近くにあった割れ目は地下三階への近道を発見させたが、それも深霧ノ幽谷でペリドットが見付けた近道の様にあちら側からでなければ開通出来ない様な割れ目で、今彼女が指差した箇所もそんな狭い割れ目だった。割れ目の向こうの岩が邪魔して通れないのだ。作成した地図が正確であれば、確かにペリドットが言った様にその割れ目と大空洞の東にあるという扉を繋ぐ空間がある筈だ。
「鱗を破壊しながらその扉に逃げ込むのが良かろうが……どの道、実際に見てない俺達には机上の空論に過ぎんな」
「左様。伝聞だけでは確信は出来ぬ」
「行きましょう」
 誰より早く立ち上がったセラフィは、難しい事を考えるのは苦手だ。彼はこの中の誰よりも、ひょっとするとキバガミよりも本能で動く為、ギベオンの言葉にキバガミと共に頷いた。それを見て、ギベオンは氷嚢に入れていた氷で出来た棒杭をいくつか取り出した。
「ペリドットとローズちゃんは僕より前に出ない様にね。約束して」
「じゃあギベオンも絶対無茶しないって約束して」
「……善処するよ」
 近付いた扉からは既に熱気が感じられ、手を伸ばしながらギベオンが後ろを振り返りペリドットとローズに最後の確認をする。タルシスを出る前から二人に自分より前に出ないで欲しいと頼んでいたギベオンは、ペリドットから逆に釘を差されて曖昧に笑った。エレクトラが死んだあの時の事を思い出すと、やはり女子供には目の前で死んで欲しくないと思う。それはギベオンだけではなく、他の男達も同じ思いだった。クロサイトはローズと手を繋ぎ、ペリドットがセラフィの後ろに隠れる様に立ったのを確認してから、ギベオンとキバガミが左右に開く扉を開けた。中を伺う様に開けるよりも、開き直って堂々と開けた方が良いだろうと思ったからだ。
 扉を開けた先に居たのは、灼熱の炎を放つあの鱗を体中に纏った一際大きな魔物だった。灰色の二本の角を持ち、金色と赤の鱗は近寄るだけでも火傷をしたというのにそれを体皮にしているという時点でどれ程の高温を発しているのかは容易に想像出来るし、またその魔物が紛れもなくホムラミズチであるという事をギベオン達に知らしめていた。視界ははっきりとしているのだろう、ホムラミズチは扉を開けた闖入者を確認した瞬間に巨体を震わせた。
「お主らの知人が言っていた様に、里の近くにもあった大きな鱗がホムラミズチの後ろに見えるな」
「三時の方角に扉もありますね」
「小さい鱗も点在、か。上手く誘導しながら鱗を潰さんといかんな」
「あちらがどういう動きをするかだな。動かないと分からないし、行くか」
「はい」
 棒杭は以前ウロビトの里に地底湖の氷を届けた際の氷嚢を借り、それに入れていたお陰で、熱波とも言える空気が押し寄せるこの大空洞に於いてもほぼ溶けずに済んでいる。ホムラミズチの鋭い目付きに足が竦みそうにならなかった訳ではないが、ここまでくると本当に開き直りの精神で一歩を踏み出す事が出来たギベオンを見て、ホムラミズチもその巨体を支える足を踏み出した。
 ホムラミズチの足は、アルビレオが言っていた通り速くはなかった。ただ、点在する小さな鱗は実に厄介な箇所に刺さっており、動きを見定めてクロサイトやセラフィが進む方角を決め、ギベオンやキバガミが鱗に棒杭を突き刺し破壊した。動きを見誤ってもすぐに変位磁石を使って空洞の外に出て、そっと中を伺えば、ホムラミズチはまた大きな鱗の側に戻るまでは背を向けている為にその隙を突いて広い訳ではないらしい視界の外まで進めばある程度自由に動けた。ホムラミズチからは死界になる岩肌の影に隠れ、地図を広げて東の扉の正確な位置を記し、ホムラミズチが鎮座している周辺の小さな鱗を破壊して上手く誘導しながらその扉に駆け込めば、ペリドットが言っていた割れ目に続く空間が確かに存在していた。そこには棒杭もあったので切り出し、全員が一旦水を飲んで一息入れた。
「わたし、ホムラミズチっていうくらいだから、ヘビみたいにもっとほそながいかとおもってました」
「ホムラ……ミズチ……。そう言われればそうだな、蛟だから蛇か。
 蛇っぽいと言えばそうだが、どちらかと言うと竜に見えるな」
「我らイクサビトにとって竜と言えば細長い蛇の様なものでな。
 竜よりも蛇の方が身近なものであったから、蛟と名付けたやも知れぬ」
 クロサイトにハンカチを借りて汗を拭い、水を飲んだローズがはたと思い出したかの様に言った言葉に、クロサイトも顎鬚を撫でながら同意する。蛟は蛇を指す言葉であるから、ローズはホムラミズチは蛇そのものの姿をしていると思っていた。実際のホムラミズチは尾に近付くにつれ蛇の様な形であるが、四つ足であるし蛇とは言い難い。その言を聞き首の辺りの汗を拭ったキバガミは、イクサビトの思想を口にした。蛇を竜に見立てるという考えはクロサイト達には無かったが、ローズだけはうんうんと納得する様に頷いた。
「それにみずち、へびは、みずのしょうちょうです。それなのに ほむら って、ふしぎだなあっておもいました」
「うむ、蛇は水場や湿地を好むからな。お主の言う通り、炎を纏って寒冷を嫌うのは些か不思議だ」
「あのホムラミズチも、なにかいへんがあったんでしょうか……? その、きょじんとのたたかいのとき」
「ふむ……考えた事も無かったな……。いや全く、この様な時でなければ本当にお主ともう少し話がしたかったが」
 ローズとキバガミの、過去の人間に創られたという種族同士の会話は、クロサイト達には実に興味深いものであった。人間と変わらず好奇心もあれば悲しむ心もあり、相手を尊重する心もある。何ら人間と変わりはない。ウロビトがタルシスに出入りする様になり、多少は交流が出来る様になってきたとは言え、やはり種族間の溝というものはあるし、ウロビトの娘であるローズを設けたクロサイトでもまだまだ隔たりは感じている。せめて私達がウロビトさんやイクサビトさんの仲立ちになっていければ良いですよね、と、暫くの間ローズを孔雀亭まで迎えに行っていたペリドットがそう言ってくれたのは、クロサイトにとっても随分と救いになった。
 短い休憩の後、再びホムラミズチが守る大空洞へと侵入したギベオン達は、徐々に彼の魔物を取り巻き地面に突き刺さっている小さな鱗を潰していき、幾度か襲われそうになったがその度に変位磁石を使って空洞の外へと避難し、何とか誘導に成功して漸く大きな鱗に近付く事が出来た頃には暑さと緊張で全員汗だくだった。しかし暑い地域の出身で動きが全く鈍る事がなかったペリドットが息を上げていたギベオンの手から棒杭を取り、一直線に大きな鱗まで走ってそれを突き刺すと、たちまちの内に空洞内は温度が下がっていき、ホムラミズチの足も止まった。
「一先ずはこちらが先制、と考えて良さそうだな」
「ん……、あそこにあるのが巨人の心臓かな」
「だろうな。だが、あれを倒さん事には恐らく手に入れられんだろう」
 ホムラミズチの動きが止まったとは言え油断出来ないので、視線だけ背後に向けたクロサイトとセラフィが木の根に絡まった拳大の赤いものを見遣る。遠目なのでその赤いものの正体は分からなかったが、キバガミが訂正を入れなかったので巨人の心臓なのだろうとギベオンは解釈した。緊張の為か今から戦闘に入る高揚感なのか、全身に帯電していく感覚が駆け巡り、彼はガントレットに意識を集中させてその電流を鎚へと送り込んだ。
「動きが鈍ったとは言え油断すると黒焦げでしょうね……。……さあ、行きますか」
「応」
「参る!」
 ぐいと額の汗を拭って岩畳を踏み締め、盾を構え直したギベオンの言葉に、器用に懐から投擲ナイフを取り出しながら剣を構えたセラフィと鎚を上段に構えたキバガミが呼応する。彼らを援護する為、またホムラミズチの動きを少しでも封じる為、ペリドットはこの岩窟に巣食う電気ガエルの舌から作られた弓に矢をつがえ、ローズは錫杖を握り締めた。アルビレオの話からホムラミズチは炎を吐く事、そして毒を持つ紫の脚や尾で攻撃をしてくる事が分かっているので、ローズの方陣で頭を、ペリドットの弓で脚を何とか封じ込める事が出来ればと事前に話していたのだ。クロサイトも鎚を構えながら、全員がどんな傷を負ってもすぐに対処出来る様にと身構えた。
 空洞内が冷却されたとは言え、灼熱の鱗を纏ったホムラミズチの攻撃は凄まじいものだった。そう簡単に封じ込めなかった脚から繰り出される毒はギベオンがキバガミ達に被害が及ばない様に自分に注意を引き付け何とか受け止めていたものの、やはり全員を守りきれるものでもなくてギベオンの背後からホムラミズチの脚を狙っていたペリドットが被害に遭い、すぐさまクロサイトが解毒の処置を施した。また、封じられなかった口から吐き出される炎は、方陣を張った後に少しでも炎のダメージを押さえられる様にとローズが炎の聖印で辺りの熱を和らげてくれたが、金属の鎧を纏うギベオンにはかなり堪えた。そればかりか逆にホムラミズチから張られた炎の壁の様なものにより、一撃を繰り出そうにも熱が邪魔して近寄る事が出来ず、熱さで体が焼かれてダメージを受ける有り様だ。
「ああくそ、忌々しいな、あの壁みたいなやつはどうにかならんのか」
「近寄れもしませんね……」
 その壁を心底憎々しげに睨み付け、汗を拭いながら呟いたセラフィに、ギベオンも鎚を握っている手を汚れた前掛けで拭きながら同意する。今のところ通用しているのはペリドットが放つ矢と、ローズが放つ氷槍の印術、セラフィの投擲ナイフだけだ。否、ギベオンやキバガミの鎚も届きはするのだが、その度に炎の壁に阻まれて自身も火傷を負っており、ローズが方陣を解除し、大地の気を皆に分け火傷を癒やしている。クロサイトはそれだけでは塞げない外傷の手当をしながら、どうにか隙を作れないかと考えを巡らせていた。
「あの障壁をこう……空気の振動か何かで晴らせないかな……」
「空気の振動……あっ、そうだ、キバガミさん!」
 そしてギベオンがペリドットを庇って作った傷の応急処置をした後、ホムラミズチを睨みながら呟いたクロサイトの言葉に、次の矢をつがえようとしていたペリドットが閃いた様にキバガミを呼んだ。手当を受け、またホムラミズチの方へ走り出したギベオンの後を追おうとしていたキバガミは、その巨体を何とか踏み止まらせて彼女を振り返った。
「ぬ? 何だ?」
「私達と戦った時、物凄く大きな声出されましたよね?! あれをやっていただけませんか?!」
「咆哮を上げろ、とな。良かろう、娘御ら、耳を塞いでおれよ!」
 キバガミは里に来て巨人の心臓を探す手伝いをしたいと申し出たギベオン達の実力を見る為に対峙した時、自分に膝を付かせた最後の一撃を繰り出したペリドットの度胸を気に入っていた。その彼女があの時の咆哮を所望したとなれば、拒否など出来る筈も無い。キバガミは肺に最大限に空気を送り込むと、ペリドットとローズが耳を押さえた次の瞬間一気に吐き出しながら渾身の咆哮を上げた。
「わっ、わっ、わああぁっ?!」
「うおぉっ?!」
 キバガミとペリドットの遣り取りを聞いていなかったギベオンとセラフィは背後から鳴り響いた、それこそ大空洞全体を震わせる様なキバガミの咆哮に、バランスを崩して転びかけてしまった。心臓が口から飛び出るかと思った、と、体勢を立て直したギベオンは、眼前の光景に目を見開いた。ホムラミズチが張った障壁が、消え去っていたからだ。
「ギベオン、援護するからセラフィさんと行って! ローズちゃんは頭を封じる方陣をもう一度張って!」
「分かったっ!」
「はいっ!」
 キバガミの咆哮により怯んだのは何もギベオン達だけではなく、障壁を晴らされたホムラミズチも同様で、動きが僅かに鈍っている。その隙を見逃さず、ペリドットは今度こそ矢をつがえて引きながらギベオンとローズに次の指示をした。彼女は普段と違って後ろに下がって援護に徹する事により、クロサイトの様に全体をよく見渡し指示が出せる様になっていた。
 炎の障壁を破られたホムラミズチは、それでも攻撃を緩める事は無かった。ペリドットに脚を射られても毒々しい色の尾でギベオンやキバガミを吹き飛ばしたし、クロサイトの鎚の重い一撃で数秒程度だが失神しても灼熱の鱗をたてがみの様に逆立て容易に近寄らせなかった。セラフィが投じた痺れ薬を塗布したナイフにより麻痺した様子も見せ、動けない所を狙ってギベオンが振り下ろす電流を乗せた鎚やキバガミやセラフィが繰り出す氷の刃――キバガミの武器は刀と呼ばれるものらしい――を受けた時はかなりのダメージを食らった様であったが、何と巨体を震わせ鱗を剥ぎ、重みを活かして大地に突き刺したのだ。空洞内が冷却された事、また自身が衰弱してきた事を受け、周りに熱を放つものを置き少しでも体力を回復させるつもりなのだろうとクロサイトは思ったが、実際はそれだけではなかった。方陣で封じられていた頭を自力で振り払ったホムラミズチが吐いた炎が、その鱗に反射してギベオン達を襲ったのだ。
「ベオにキバガミ、後ろに跳べっ!!」
「おおぉっ!」
「うあああぁぁっ!」
 鱗に反射する、と直前に察知したセラフィの叫びにより、何とかギベオンとキバガミは炎の直撃を免れたが、彼らを含む全員が大なり小なりの火傷を負った。咄嗟の指示に反応出来ないギベオンはセラフィに首根っこを掴まれ後ろに引っ張られた為、気道が押されて多少噎せた。厄介な知恵があるものだ、と苦い顔をしたクロサイトは、傍らに落ちていた氷嚢から残っていた氷銀の棒杭を取り出した。ここまでの道中、あの鱗を破壊したのはこの棒杭なのだから、今この時も破壊出来る筈と思ったからだ。
「すまないがペリ子君、これで鱗を壊してくれないか。私だと当たらないかも知れない」
「目が霞んでるんですか?」
「少しな。不甲斐ない」
「ご無理なさらないでください、ローズちゃんを守ってくださいね。
 ギベオン、注意を引きつけておいてくれる?」
「任せて」
 高温と緊張による疲労、ここ最近の心労が蓄積し、それら全てはクロサイトの視野を徐々に奪っていく。段々とぼやけていく視界の中、ローズの姿を見失わない様に細心の注意を払って棒杭をペリドットに渡したクロサイトは、彼女がそれを握り締め、盾を鎚で大きく鳴らし自分へ注意を向けるギベオンの横を駆けていく姿を捉えるのに精一杯だった。二人に業火が向かない様にと斬りかかるキバガミやセラフィにも、随分と疲労の色が伺えた。
 ホムラミズチが鱗を剥ぎ地面に突き刺し、それを棒杭で破壊していく事を繰り返しながらホムラミズに攻撃を繰り出していく内に、だらりと舌を垂らし衰弱した様子が見て取れた。ホロウクイーンの時と同じく、持久戦だ。だがホロウクイーンの時と違い、汗が忙しなく流れる暑さの中での戦闘は、完全に全員の体力の限界を近付かせていた。おまけに、棒杭が尽きたのを見計らう様にホムラミズチが鱗を大量に剥ぎ、地面へと突き刺した。
「まだ鱗を剥ぐ体力があるのか……もう棒杭が無いぞ」
「耐えるしか無いな……」
「僕が耐えます、クロサイト先生とセラフィさんはローズちゃんとペリドットを守ってください。
 キバガミさん、まだいけますよね?」
「無論だ。お主も、いけるな?」
「はい」
 盾も焼け焦げ、服のあちこちが破損し、髪も少し焦げているギベオンが荒い息を吐きながら一歩を踏み出す。彼に呼応したキバガミもその気骨が気に入り、肩を並べてクロサイト達を守る様に立った。イクサビトの長であるキバガミは、里に蔓延る病の事もあってまだここで命を落とす訳にはいかないのだが、肩を並べ戦いたいと思える者がそこに居る以上は武人でありたかったのだ。ホムラミズチも衰弱しているし、最悪の場合自分とギベオンが盾になって地に伏したとしても、相手を麻痺させれば火力がぐんと増すセラフィと脚を封じる事が出来るペリドット、頭を封じ氷槍の印術を繰り出す事が出来るローズ、そして癒し手でありながらも重たい一撃を振り落とす事が出来るクロサイトが居る。背後にこの様な者らが居るのはまこと心強い事よ、と、キバガミは今まで生きてきた中で一番の武者震いを感じた。
 一方で後方に居るローズは、前へ進もうとしているキバガミとギベオンが死も辞さない覚悟なのだと察知し、錫杖ではなくエレクトラのロッドをぎゅっと握り締めた。ずっとまもられてばかり、わたしだってみなさんをおまもりしたい、と気ばかり急いたが、幼い自分ではやれる事など限られている。せめて方陣を破陣して皆の体力を少しでも回復させようと傍らに置いた錫杖を取ろうとしたその時、ローズは自分を守る様に側に居たクロサイトが呟く様に言った言葉に目を見開いた。
「せめてあの鱗を、破壊出来なくても良いから凍らせる事が出来ないかな……
 一時的でも良いんだが……」
「こおらせる……? ……こおる……あっ、」


『エリーさんは、こおりのいんじゅつがおとくいなんですね』
『そうだね。炎も雷も、別に苦手じゃないんだけど、私は氷の元素と一番相性が良いかな』
『どうしてですか?』
『うーん……説明が難しいけど……、聖印っていうのが印術の基礎中の基礎で、それは教えたよね。
 その聖印って、自分が燃えにくくなるもの、凍りにくくなるもの、通電しにくくなるのと同時に、
 相手を燃えやすくするもの、凍らせやすくするもの、通電させやすくするものでしょ?
 私は自分が凍りにくくなって相手を凍らせやすくする空間を作るイメージが一番しやすいんだ』
『くうかんをこおらせる……むずかしそうだけど、やってみます』


 生前のエレクトラに印術を教えて貰っていた時、氷槍の印術を得意としていた彼女が話した事は、今まさにこの時に役立つものだった。先程まではホムラミズチの炎を和らげる事を優先して炎の聖印を張っていたが、言われてみれば炎を押し留めるのであればこの空間を凍らせた方が格段に効果的だ。大きな鱗を破壊して地下三階を冷却した事ですっかりその考えが頭から抜けてしまっていたローズは、反省するよりも自責の念に駆られるよりも早く、エレクトラのロッドを両手で握って目を閉じ、この空間にある全ての水の元素を凍らせるイメージを働かせた。幸いにも、この大空洞には池とも呼べる大きな水溜りが点在し、ホムラミズチの熱によって耐えず水蒸気が篭っている。あの鱗を少しの間だけでも良い、凍らせる事が出来れば、と言ったクロサイトの言葉に応える様に、ローズはロッドに意識を集中させながら再度目を開いた。

―――エリーさん、どうかちからをかして。わたしはみなさんをおまもりしたい!

「?!」
 ぐ、と下半身に力を籠めてホムラミズチの方へと走り出そうとしていたキバガミとギベオンは、その瞬間に大きな鱗を破壊した時の様な冷却感が全身を纏った事に驚き僅かに動きを止めてしまった。辺りが急激に冷えたと思うと、かなりの熱を帯びていたギベオンの鎧も一気に冷えた。そしてホムラミズチの周りに突き刺さっていた鱗は、熱の色を失いホムラミズチの熱に反応しなくなっていた。どうやらローズの氷の聖印が効いたらしい。
「ローズちゃん、破陣して皆の傷を塞いで!」
「はい!」
「援護します、皆で行ってください!」
「キバガミとベオは九時の方から回り込め! 俺はこっちから行く!」
「はいっ!」
「承知した!」
「クロ、俺と来い! 何が何でも走れ!」
「望むところだ!!」
 鱗が凍り付き、ホムラミズチが自身の熱だけでは耐えられない様子を見てペリドットが矢をつがえ、ローズは張っていた方陣を解除してギベオン達の火傷を癒やす。完全に治った訳ではなかったが鎚や盾を握り締め構え直す程の気力は湧き、ギベオンはセラフィに言われた通りキバガミと共にホムラミズチの西側に走り出し、クロサイトは霞が晴れた視界にセラフィの背中を認めて追い掛け、ぐっと鎚を握る手に力を籠めた。ペリドットは矢を引いたその瞬間、視界の端に何かが走った様な気がしたのだが、その影を追う事も出来ず、残った力全てでホムラミズチの頭を目掛けて矢を放った。その矢と同時に、セラフィの投擲ナイフがホムラミズチの目に突き刺さった。
「うお、おおぉぉぉっ!」
 ホロウクイーンの時の様に全員で襲い掛かると、鎚や剣、盾、刀で渾身の一撃を叩きこまれたホムラミズチは、キバガミの咆哮さながらの断末魔を上げてその巨体を地に沈めた。地震かと思わせる程の倒れた振動は離れたローズに尻もちをつかせたが、弓の反動で胸の皮膚が破れて血が滲んだペリドットが彼女に優しく手を伸べる。キバガミは足を引き摺りながら倒れたホムラミズチの様子を窺い、動かない事を確認してから刀を鞘に収めた。彼らは勝利した、のである。ほっと安心し、今度はギベオンが尻もちをついた瞬間に持っていた盾が限界を迎え、役目を終えたかの様に音を立てて割れた。



 賑やかな宴の光景は、活気が溢れて良いものだ。このイクサビトの里の住民と、タルシスの冒険者達と、数は少ないがウロビト達が同じ鍋をつつき、酒を飲み交わし、大いに盛り上がっている。入れ替わり立ちかわりに酒を注ぎに来られ、その度ギベオンは曖昧に笑って礼を言いながら少しだけ注いでもらった。彼は酒は苦手ではないが、人が多い所が苦手だ。人とのコミニュケーションもそう得意ではないから、余計に居心地が悪かった。
 ホムラミズチを倒した後、いつの間に入り込んでいたのか、空洞の奥にはワールウィンドが居た。ペリドットが矢を射ようとした時に視界の端に映ったのは、彼だったのだ。手伝えなくて悪かった、割って入れる感じではなかったから、と、ばつの悪そうな顔をしながらも背後にあったものを見遣り、これが巨人の心臓じゃないかなと言った。クロサイトとセラフィがホムラミズチと戦う前に交わした会話通り、やはりその赤いものが巨人の心臓であったらしい。複雑に絡まった木の根に飾られた拳大の赤い宝石は、確かに心臓の様にも見えた。キバガミは力強く、そして満足そうに頷き、お主らの力無しにこの偉業は成し得なかっただろうと言い、一足先に里に戻ると言い残して本当に先に帰ってしまった。相変わらず人の意見を聞く前に決定する人だなあとギベオンが思っていると、深霧ノ幽谷にもあった祭壇と同じものを奥に見付けたペリドットが、石板が無いと困った様な声を上げた。昔、クロサイトとセラフィが風馳ノ草原の北の谷の封印を解除した石板も、先達てギベオン達が丹紅ノ石林の北の谷の封印を解除した石板も、同じ様な祭壇に置かれていたのに、この金剛獣ノ岩窟の祭壇には無かった。それを聞いたワールウィンドは、世界樹に近付くための手段は未だ発見出来ずと言ったところかと俯いた。
 このままここで呆然としていても仕方ない、と、クロサイトは巨人の心臓をイクサビトの里へ早く届ける事を選択した。病に苦しむ者が居る以上、急ぐに越した事は無い。それはギベオン達も同意であったので、盾が無い事は不安であったがイクサビトの里への道を引き返した。全身を襲う倦怠感と疲労はローズと一緒に歩く事で幾分か改善され、何とか辿り着く事が出来た。
 里に辿り着いた彼らは、まず真っ先に子供の病床を訪ねた。巫女が病に罹った子供達の為に祈り、症状を緩和させている事は、彼女の体力を磨り減らしている原因となっている。何度か里を訪れ、巫女の元に足を運ぶ度、彼女の顔色は僅かずつだが悪くなっていっていた。それを誰より心配していたのはクロサイトだ。巫女に手に入れた心臓を手渡すと、彼女はまだ小さな手で両手で包み込みながら静かに目を閉じた。

『……わたし、これが何なのかわかるよ。
 これは、世界樹由来の品。世界樹の一部。わたしと同じ……』

 そう言った巫女が一番近くに居たイクサビトの子供を膝に乗せ、祈り始めると、宝石から発せられる光が彼女の指の間から零れ落ち、その温かい光を浴びたイクサビトの子の体を覆っていた蔓や樹脂が崩れ落ちていった。これにはキバガミだけではなくワールウィンドも、クロサイト達も驚いた。医学では治す事の出来なかった病が、たった一人の少女に世界樹の一部を渡すだけで癒えていく光景は、何とも不思議なものであった。
 時間を忘れ、体力が消耗されていく事も気にせず、病に罹った全てのイクサビトを癒やした巫女に、キバガミはひれ伏さんばかりに深々と頭を下げ、彼女がこの里に初めて来た時に疑ってしまった非礼を詫びた。そしてギベオン達やワールウィンドにも礼を述べ、そのまま宴席を設けられる運びとなった。その宴席で、先述した様にギベオンは居心地の悪さを感じている。イクサビトの子供達の病が治って良かったと心底思うし、人間とウロビトとイクサビトがこうやって談笑しているのも良い事であると本心で思っているけれども、谷の先に進む為の石板を発見出来なかったので心は晴れやかではなかった。加えて、この賑やかさというか人の多さだ。風呂に入らせてもらったとは言え、またホムラミズチと戦っていた時の様な汗をじっとりとかいたギベオンは、早くタルシスに戻りたかった。
「……あれ? セラフィさん、ペリドットはどうしたんですか?」
「ん? さっき飯の支度の手伝いをしに行くとか言っていたが……」
 宴も酣といったところで、不意にギベオンはペリドットの姿が見えない事に気が付いた。細かい所に気が付く彼女は忙しそうに動き回るイクサビトの女性達の手伝いをする為、足らなくなった食事の仕込みをしに行くとセラフィに言い残して席を辞したらしい。それにしても戻るのが遅いな、とセラフィが腰を浮かしかけたその時、里の奥の方で談笑していた者達が悲鳴にも似た驚きの声を上げた。
「クロサイト先生! いらっしゃいますか、クロサイト先生!」
「ここだ、どうした何があった!」
 その者達の声を掻き分ける様に叫んだのは、ペリドットだった。切羽詰まった様な声にすぐさま呼応したクロサイトは、立ち上がるなり目を疑った。ペリドットがその小さな体でぐったりとしたイクサビトの青年の肩を担ぎながら引き摺り、彼女自身も血で汚れていたからだ。傍らに置いていた鞄を掴み取り、呆然とするイクサビトやウロビト、タルシスの冒険者達の合間を駆け、自分より速くペリドットの元に駆けたセラフィから負傷したイクサビトの体を受け取ると、地面に横たわらせて容体を見た。かなりの出血は、何か大きなもので斬られた傷痕からの様だ。ペリドットの体を汚していた血はほぼそのイクサビトの青年のものであったが、彼女も右腕に刃物が掠った様な傷があり、負傷していた。
「どうした、何があったんだ!」
「ワールウィンドさんが、巨人の心臓と一緒に巫女さんを連れて出て行ったんです」
「はあ?!」
「私、ワールウィンドさんが巫女さんを連れてどこかへ行こうとしてるみたいだったから、
 おかしいなって思って後をついて行ってたんです。
 そしたら、里の出口で見張りをしてたそのイクサビトさんに止められて、
 いつも背負ってる背嚢から物凄く大きな剣を抜いて……」
 セラフィがペリドットの肩を抱き、傷の具合を確かめながら尋ねると、ペリドットはほっとしたのか危うくその場にへたり込みそうになった。その体を支えてもらい、説明している内に頭の整理がつかなくなってしまい、紫水晶の大きな瞳からぼろぼろと涙を零した。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、止められなくて、わ、私、」
「もう良い、分かった、お前が無事で良かった」
「お、おかしいなって、ずっと思ってたのに、黙ってた、から、うぅ、」
「ああ、もう良い、もう良いから、俺達が追うから、お前はここに居てくれ、頼むから」
 ペリドットは、もう随分と前からワールウィンドを秘密事が多い人という認識をしていた。ウロビトの里との交渉結果を辺境伯へと報告に行く道中、国に姪が居ると教えてくれた彼は、その時点でペリドットの胸に不審さを抱かせていた。彼女にとってはワールウィンドが故郷の話を強引に終わらせた様に思えたからだ。このイクサビトの里に巫女を連れてきたのも、巨人の心臓があれば病は治せると教えたのも、全てワールウィンドだった。本当にそれは深霧ノ幽谷で見付けた書物からの知識だったのか、本当は元から知っていたのではないか、そんな疑念をペリドットは抱いていたのだが、夫と義兄の二人と旧知の仲である様だから疑うのは失礼かと思って黙っていた。それが、裏目に出てしまったのだ。自責の念に駆られて小さな体を震わせて泣くペリドットに懇願する様にここに留まる様に言ったセラフィに、イクサビトの青年の応急処置を手早く済ませたクロサイトが立ち上がりながら言った。
「フィー、お前もここに居ろ、ペリ子君の側に居てやれ。ローズもここに居なさい、良いね。
 ベオ君は私と来たまえ」
「はい!」
「キバガミ殿! ワール君を追う、ついて来てもらえないか!」
「無論だ、旅人殿が何故この様な真似をしたのか理由を聞かない事には納得がゆかぬ!」
 騒然とする里の中で、クロサイトのその声はよく響き渡った。努めて冷静を装い、置いていた鎚を掴んでてきぱきと指示を出し、キバガミに同行を要請した彼は、自分の疲労など差し置いて巫女の奪還を優先していた。ギベオンはそんなクロサイトに従い、ペリドットに無事で良かった、休んでてね、と声を掛けると、気球艇を停めている岩窟の入り口まで急いだ。
「ワールウィンドさんが僕達より先にホムラミズチの大空洞の奥に行ったのって、
 ひょっとしてあの祭壇にあった石板を取る為でしょうかね」
「その可能性は高いな。何らかの事情があったとしても容認出来んな」
 気球艇をフライトさせつつ、ギベオンが片手をポケットに入れたクロサイトに尋ねると、彼は気球艇から身を乗り出さんばかりに北の方角を見遣った。高所恐怖症のクロサイトはいつも気球艇の縁にすら近寄らないというのに、どれだけ切迫した状況であるのかをその行動で物語っている。ギベオンとしてもギルドの仲間を傷付けられたので、あまり良い気分はしなかった。キバガミは初めて乗る気球艇にそわそわしていたが、やがて北の谷の石碑の側に煤けた緑色の帆の気球艇を見付けると、三人の間に一気に緊張が走った。以前タルシスの街門で見掛けた事があるから、その気球艇がワールウィンドのものに違いなかった。
「う、わっ!」
 その気球艇に近付こうとした瞬間、ギベオン達の目の前で谷を覆う雲が消失した。やはりワールウィンドが祭壇から石板を外し、隠し持っていたらしい。ワールウィンドの気球艇には、巫女の姿は見えない。だがその籠の中に居る事は分かっていたから、下手に手出しをする事は出来なかった。クロサイトもギベオンも、そしてキバガミも、谷を抜けていく気球艇を黙って睨み付けると、その後を追う様に谷へと侵入して行った。長い一日は、まだ終わりそうにもなかった。



※クロサイトが言った騎士の誓いの文言は「はれにわ文庫」様より引用致しました。