幕間4

 どの街でも酒場というのは活気があるもので、賑やかに談笑しながら飲酒を楽しむ男達が集うテーブルをすり抜け、クロサイトはカウンターの隅の壁際の席に座る。その左隣に遅れて座ったのは、兄ちゃんでかいねどっから来たの、などと話し掛けられ、酔っ払い相手の対処が慣れていないせいで足止めを食らったギベオンだった。タルシスの酒場でも顔馴染みになった男達から絡まれる事はあったが、完全に知らない街の初めて入った酒場は中々に緊張する。だが、先に座ってさっさと酒をオーダーしていたクロサイトは全くそんな緊張もせずリラックスした様子で頬肘をついていた。
 ペリドットの故郷の街からタルシスに戻るまでには気球艇であってもそれなりの日数がかかる。その為、四人も居るのだから交代で操縦して夜間も飛ぶかとセラフィが言ったのだが、クロサイトが新婚の二人を寝台で寝かせない程野暮じゃないと言って日が暮れかけた頃にそれなりに大きな街に入って宿屋に泊まる事になった。近辺に森が無ければ気球艇を隠す事が出来ないので飛行計画を立て、疲れているだろうと半ば無理矢理セラフィとペリドットを二人きりにしてクロサイトはギベオンと飲みに出たという訳だ。否、勿論部屋は二部屋取ったので二人きりも何もないのであるが。
「では、今日は本当にご苦労様」
「クロサイト先生こそ、お疲れ様でした」
 ギベオンがオーダーしたジン・バックが出され、先に手元にジン・ライムが運ばれていたクロサイトがグラスを掲げて乾杯をする。ギベオンの口にはタルシスでガーネットが作ったものの方が好みであったが、違う街の違う人間が作ったカクテルに文句を言うつもりもなかった。
「君のお陰でキルヨネン君にも随分と協力して貰えた。フィーも庇ってくれたし、本当に助かった。有難う」
「へへ……ここぞとばかりに実家の名前使わせて貰いましたし、お役に立てて良かったです」
「似合っていたぞ、あの宮廷騎士団の装備」
「うーん……賜ったのは身に余る光栄ですし、褒めて頂けて嬉しいですけど、やっぱり僕は普段の格好が良いです……」
 実家の名を名乗る事はギベオンにとって細やかな嫌がらせであり、実際は遠く離れた都の両親がそれを知る筈も無いのだが、今まで抑圧されて育った彼にしてみれば許可も取らず勝手に家名を名乗った事は親に逆らったも同然で、あの時本当はかなり心臓の脈打ちが速かった。極度の緊張を顔に出さなかったのは褒めて貰いたいところだ。
 しかしクロサイトが褒めてくれたのは着ていた宮廷騎士の衣装であったので、ギベオンは複雑な笑みを浮かべてしまった。勿論クロサイトはギベオンのそんな気持ちなど分かる訳が無いし、責めるのもおかしいので、これも細やかな仕返しとばかりにクロサイトの奢りであるジン・バックを呷る。今日の飲食代は全てクロサイトの奢りという事になっていて、遠慮しても悪いので素直にご馳走になりますと言ってついて来たのだ。ガーネットが作るそれよりレモンの酸味が強い液体は、喉を刺激しながら胃に落ちていった。
「クロサイト先生こそ、随分とあの制服お似合いだったじゃないですか。鬚剃ったところ初めて見ました」
「堅苦しい格好はするものではないな、肩が凝って仕方ない。いつもあるものが無いと調子が狂うからまた生やすつもりだ」
 そして昼間に見た制服姿をギベオンが褒めると、クロサイトはあからさまに嫌そうな顔をして自分の肩に手を置いて揉む様な素振りを見せた後にいつもはそこに鬚が生えている、何も無い顎を掌で摩った。白衣や紺色のシャツは堅苦しくないんだ、とギベオンは首を捻ったが、言われてみればクロサイトは普段着のシャツは首元のボタンを留めない。統治院の制服は詰襟であったし、随分と窮屈そうであったのは確かだ。しかも毎朝整えているとは言えいつも生やしている鬚も綺麗さっぱり剃っているし、髪も丁寧に櫛を入れたらしくいやに綺麗なセットをしているせいでいつもより二割増しは若く見える。昼間、青空の下でクロサイトが辺境伯の書状を持って出てきた時、ギベオンがこの人格好良かったんだとつい思ってしまった程度には凛々しい佇まいであった。多分、ガーネットが教えてくれた、クロサイトに告白したという様な患者がまた出ぬ為にわざと鬚を生やしたり髪をあまり整えていないのだろう。医者であるから汚らしくはせず、飽くまで清潔感を保たせて、だが。今はラフな格好に着替えているとは言え、すぐに鬚が生える訳でもなければわざわざ髪を乱す事も無かった為にその凛々しい顔立ちがすぐ横にあり、ギベオンは妙な感覚に見舞われそうになったので話題を変えた。
「でも、セラフィさん、最初っからペリドットの事好きだったって全然気が付きませんでした」
「君達とあれはほぼ別行動だからな。
 ペリ子君を初めて診察した時にボールアニマルみたいだと言われたと聞いて、私は嬉しかったよ」
「セラフィさんがボールアニマルがお好きって知ってるからですか?」
「うむ、あれは本当に子供の頃からああいう小動物が好きでな。今でもたまに戯れに転がしに行ったりしている」
「へ、へぇ……意外ですね」
「可愛いだろう?」
「はぁ」
 ギベオンはクロサイトが酒に強いのか否かは知らないのだが、いくらジン・ライムが度数の高い酒であっても一杯も飲みきらない内に酔うとは思えず、素面でそれを言ってのけていると判断するも、どういう反応をして良いのやら分からず気の抜けた返事しか出来なかった。クロサイトにとってセラフィは大事な弟であるとは知っていたし、三十路を半ば過ぎてもセラフィが大怪我をしていたとは言え寝台に寝かせるのではなくわざわざソファで膝枕をしていた事を考えるとブラコンなのかも知れないとギベオンは思ったが黙っていた。
「……そう言えば以前はギムレットを飲まれていましたけど、本当はジン・ライムがお好きなんですか?」
 ロックグラスを傾けたクロサイトが飲んでいるのは、以前孔雀亭で飲んでいたギムレットではなく、同じ材料から作るジン・ライムだった。ギベオンが飲んでいるジン・バックと同じくステアするカクテルであり、シェイクしてカクテルグラスに注ぐギムレットとは赴きが異なる。ジンとライムを使ったカクテルがお好きなんだろうかと尋ねたギベオンに、クロサイトはグラスに残っていた酒を全て飲み干してから言った。
「同じ材料、同じ分量でも作り方が違うと全く別のカクテルになるから、双子の様だろう?
 だから私がギムレット、フィーがジン・ライムを飲んでいたんだ」
「あ……」
「本当はどちらでも構わない。
 ただ、あれの方が酒量が多いから、シェイカーを使わずに作れるジン・ライムをよく飲んでいただけでな」
「セラフィさんは酒も結構飲まれるんです?」
「ジンを一瓶空けるなんて昔はしょっちゅうだった」
「ひ、ひえぇ……」
 双子の様だから、と言われてなるほどと感心したギベオンは、しかしセラフィの酒量を聞いて大きな体を竦ませた。あんな細い体のどこに……と、酒であろうが食物であろうが口に入れれば身になってしまう自分を思うとこの世は理不尽で出来ていると恨めしくなる。
 以前何度かセラフィと夕食を共にした事があったが、ペリドットから随分多く食べるみたいとは事前に聞いていたものの、目の前で彼の口に入っていく量に本当に驚いた。ギベオンも大食いの部類に入るけれども、セラフィの比ではない。確か初めて夕食を囲んだ時、セラフィはポトフを五回はおかわりしたし、それをよそってやったクロサイトも何の疑問も躊躇いも無く大きなスープボウルに大盛りで入れていたし、米も二杯は山盛りで食った。しかも顔色とペースを全く変えず、だ。呆然とする自分とペリドットを尻目に、食後の茶を飲み干したセラフィは仕事に行ってくる、と涼しい顔で出掛けたのをギベオンは覚えている。クロサイトからあれは一日に一回しか食事をしないから山程食うが君達は真似しない様に、と言われて思わず二人でしませんよと素で言ってしまった。
「酒は、仕方ないんだ。……あれの仕事は酷だからな」
「……僕、結局セラフィさんの仕事が何か知らないんですけど……やっぱり知らないままの方が良いですか?」
 以前クロサイトにセラフィの仕事を尋ねた時、彼は知らない方が良い事もあると言って教えてくれなかった。故郷に居るジャスパーからも、同様に書面で言葉を濁されて明確な答えは教えて貰えなかった。今なら尋ねても良い様な気がしてさり気なくそう言うと、クロサイトはカウンターの向こうに居る酒場の主人に同じものを、とオーダーし、組んだ手の上に顎を乗せて小さく息を吐いた。
「死んだ冒険者達の埋葬だ」
「……え……」
「君達が碧照ノ樹海で一度も熊に殺された冒険者の遺体を見なかったのは何故だと思う?
 毎日ではないが息絶える者が多いあの樹海で、君は一度として遺体を見たかね?」
「………」
 顔は正面を向いたままであるので、クロサイトの左側に座っているギベオンには顔の左半分を髪で隠されたクロサイトの表情は見て取れない。虚空を見つめているのであろうクロサイトから投げかけられたその質問に、ギベオンは答える事が出来なかった。
 言われた通り、ギベオンは樹海や草原で遺体を見かけた事が無い。重傷者を背負ってタルシスに急いで戻る冒険者達は見ても、死んで野ざらしになっている者は一度も見た事が無かった。危険とは聞いていたけど死ぬ程ではないのかな、などと呑気な事を思っていた彼は、この時漸く自分が随分と守られていた事を知った。セラフィが大怪我をしてクロサイトに膝枕をされて眠っていたあの日、樹海から戻ったギベオンが診療所の裏手で体を清めていたセラフィの上半身には、背筋がぞっとする程の深い傷跡が残っていた。そんな生死に関わる様な怪我を負う様な所で、遺体を見かけない方がおかしいのだ。植物収集家という、言葉は悪いが外見にそぐわない表向きの職業も、遺体を栄養として様々な植物が自生するであろうから自分が埋めたのなら収集箇所の発見は容易であったからだろう。セラフィと初めて工房の前で会った時、彼が売り渡していたのはネクタルという気付け薬の材料となる小さな花だったが、樹海では咲く場所も量も限られていたのに籠いっぱいに摘んできていた。誰かの遺体を糧にして咲いた花が誰かの命を助ける薬になるとは、何とも皮肉なものだ。
 そして、そんな無残な遺体を埋葬する事が仕事であるなら、なるほど酒量だって増えるであろう。血まみれで肉が剥き出しになっているという訳ではないセラフィの塞がった傷跡を見たギベオンでさえ、あの日の夜は寝付きが悪くて夜中に何度も汗びっしょりになって起きた。運ばれてきた新しいジン・ライムを一口飲んだクロサイトは医者であるから様々な怪我人や遺体を見てきただろうから、彼も昔はそれなりに酒量が多かったのかも知れないとギベオンはタンブラーの中の薄くなった酒を飲み干した。
「クロサイト先生、僕、少しでもセラフィさんに恩返し出来ましたかね?」
「ああ、十分にな」
「へへ。良かったです」
 自分達が遺体を見ずに済む様に、という理由で埋葬していた訳ではないだろうけれども、恐らくそれも含まれていたのだろうと思うと本当に今回の手助けが出来て良かったとギベオンは思う。クリソコラを突き放して一直線に駆けてきたペリドットを抱き留めた時のセラフィの、泣くのではないかと思う様な幸福そうな顔を思い出し、ギベオンは擽ったい気持ちになった。
「弟さんに先越されちゃいましたね」
 二杯目のジン・ライムを既に半分飲んだクロサイトに遅れ、再度ジン・バックをオーダーして受け取ったギベオンがからかう様にそう言うと、ロックグラスを傾けようとしていたクロサイトの手が不意に止まった。表情は見えないが、隠れていない口元が真一文字に閉ざされてしまったので酒の席とは言えふざけすぎてしまったかとさっと血の気が引いたギベオンは、しかしちらと自分の方を向いたクロサイトが特に不愉快そうな顔をしていない事に胸を撫で下ろしつつも彼が何かを言いたそうにしている事を察して首を傾げた。
「……ベオ君、今私は酔っている。その勢いで言うから少し私の話に付き合ってくれないか」
「はあ、構いませんが」
「本当は私が弟なのだ」
「……は?」
「本当は私が弟のセラフィだったし、あれが兄のクロサイトだったのだ」
「……は……?」
 全然酔ってる風に見えないんだけど、久しぶりに飲んだから酔いが回るの早いのかな、ジン・ライムって度数高いし、などというギベオンの思考は、クロサイトが世間話でもするかの様な口調で言い放った告白に全て停止した。言っている意味がすぐには理解出来ず、彼は冷たい飲み物が温もる事を嫌っているにも関わらずタンブラーを持ったままにしてしまい、その手から伝わる熱の所為で中身の氷が溶ける速さが僅かに増したのか中でカランと小気味良い音を立てる。目を見開いて自分を見ているギベオンに、クロサイトは続けた。
「私達が生まれた時、先に生まれたフィーは仮死状態で生まれてきてな。
 そのショックで母は陣痛が止まってしまい、何とか息をしてくれたあれが心配のあまり結局私はその日に生まれなくて、三日後に生まれたのだ。
 取り上げてくれた医者からは兄の方は体が弱いから五年生きるかどうかと言われて、母は随分と考えて体が丈夫な私を兄としたらしい。
 もし死神が連れて行こうとしても兄と弟を取り違えて大丈夫である様に、とね」
「……それ、旦那さん……クロサイト先生の父さんもご存知なかったんですか?」
「父は仕事の都合で長期不在だったのだ。知らない筈だと母は言っていた」
「………」
 体が弱い子供にわざと逆の性別の名前をつけたりする事例はたまに聞くのだが、双子の順番を逆にするというのは初めて聞いたギベオンは、双子なのに生まれた日が三日も違うという事にも驚いていた。日付変更時刻間際での出産であれば確かに誕生日が一日違ってくるが、しかし三日違うというのは驚く他無い。しかも、本当はとクロサイトが前置きしたからにはセラフィは自分が兄であるという事を知らないのであろう。
「確かに私が物心ついた頃からフィーは体が弱くて、よく熱を出していたんだ。
 それで母と一緒に看病していて、……その時からだろうな、医者になりたいと思ったのは」
「あ、セラフィさんを治したかったんですか……」
「単純だろう?」
「いえ、立派な理由だと思いますよ。僕だって父に認めて欲しいというだけで同じ城塞騎士を志しましたから」
「そうか」
「はい」
 クロサイトが医者になろうとした切っ掛けは、ギベオンも共感出来る。望まれない子供として生を受け、両親に疎まれながら育った彼は、何か一つでも認めて貰いたくて父親と同じ城塞騎士になろうとした。それを伝えた父は家名を出さない事を条件に許してくれたけれども、単に自分に興味が無かったのだとギベオンは確信している。コンプレックスだらけの体で入隊をしてつらい日々を過ごしたけれども、どうしても父と自分が繋がっている何かが欲しくて辞めようとした事は無い。そのお陰でジャスパーに出会え、タルシスに行く事が出来、そして今ここに居る。クロサイトは医者を志した動機が単純だと言ったが、単純でもここまでの医者になれているのだし、ある意味自分を含めた今までの患者全てはセラフィのお零れを貰っていると言っても過言ではないのだろう。ギベオンはその様な事を何となく思い、タンブラーの中身を一口飲んだ。
「……五歳になる直前に珍しく私の方が熱を出して、かなりの高熱が何日か続いた。母は死神が連れ去りに来たと思ったらしい」
「……ちゃんと下がったんですよね?」
「ああ、下がった。……だがそのせいで左目の視力が殆ど無くなった」
「あ……」
「命までは持って行かれなかったが、目は持って行かれたという事だろうな。
 それでも父と離婚した母からそれを聞いた時、心底良かったと思った。私だったから左目だけで済んだと思った。
 ……あれだったら間違いなく命を持って行かれた」
「……誇りですか、その、目は」
「そうだな。……誇りでもある」
 店内のざわめきの中にあってもクロサイトの話がはっきりと聞き取れたのは、ひとえにギベオンが彼の話に全神経を傾けていたからであろう。潰れた左目にそんなエピソードがあったなどとは微塵にも思わなかったギベオンが尋ねると、左目と言ったのに左右の判断が瞬時に出来ずに単に目と言ってしまった事など全く気にしなかった素振りを見せたクロサイトはそれでも曖昧に頷いた。
 大事な弟を守れたのだから、失った左目は確かに誇りではあっただろう。しかし、今のクロサイトの曖昧な肯定はギベオンの胸に何か引っ掛かるものを残した。誇りという強い光の側に、何らかの強い影が存在している様に感じられた。ギベオンはその影の正体が何であるかを聞きたかったのだが、クロサイトが話を続けたのでそれは叶わなかった。
「父の元からあれを連れ出した後も、本当は自分が弟だとはあれに教えなかった。私が兄で居たかったから」
「また連れて行かれそうになっても身代わりになれるからですか」
「それもある。……だが建前だな。単に、兄だからしっかりしなくてはと私自身が思う為だった」
「………」
「十四、五歳と言っても子供二人が親元から逃れて、病気を抱えたまま生きられる程世間は甘くない。
 ……それでもタルシスには豊かな土壌があって、清らかな水がある。何とか生きられる土地なんだ。
 あれを死なせない為、が建前で、私が生きる為、が本音だったと思う」
「……でも、死のうとしたんですよね?」
「耐えきれなくてな。……だが、あれが止めてくれた。二人で生きようと言ってくれた。
 あの時だけは、あれが兄だった様な気がするな。
 ……やっとあの時の恩が返せた気がする」
 いつもよりも雄弁に語るクロサイトは、本人が言った通り確かに酔っているのかも知れない。彼の手元にあるロックグラスの中では取り残された氷が溶けてゆっくりと水になろうとしていて、話しながらではあるが何も食べずに飲んでいるのだから今日の疲労も手伝って酔いが回るのが早いのだろう。
 ギベオンはタルシスに来て今に至るまでの半年の間、クロサイトの患者に対する誠実な姿勢が崩れたところを見た事が無かった。厳しいし容赦は無いが、本人が断言した様に医者として叱ったり注意したりする事はあってもそれ以外で呆れたり見下したりした事が無かった。セラフィに対しての、ある意味強固な執着は途中で気が付けたが、それを考えても自分やペリドットがセラフィを優先するが故に蔑ろにされた記憶が全く無い。クロサイトはいつも、他人に対して常に全力であろうとするのだ。だから、自殺を止めてくれたセラフィと誰にも迷惑をかけぬ様にと望まぬ結婚の事を一言も言わなかったペリドットに対して今回の様に自分が持ち得る全てを使ったに違いない。この人にだって幸せになる権利があるのに、自分をもっと優先しても良いのに、と、何とも言えない気分になったギベオンは、勇気と勢いを酒から貰おうとタンブラーに半分程残っていたジン・バックを呷って全て飲み干した。タン、と音を立ててタンブラーを置いた自分を不思議そうに見たクロサイトに、ギベオンは静かに口を開いた。
「嘘も百回言えば真実になると、僕の地元では言うんですが」
「うん?」
「クロサイト先生は、本当はご自分が弟であると知ってから二十年以上は嘘を吐いてきた事になるんですよね。
 二十年以上も経っていたなら、それはもう嘘ではなくて真実になるんじゃないですか?
 少なくとも、セラフィさんは本当の事を知ったとしてもクロサイト先生の事を兄さんだと思われる様な気がします」
「………」
「嘘でも良いじゃないですか、ご自分の為だろうが何だろうが、
 クロサイト先生はずっと兄としてセラフィさんを守られてきたんですからこれからも兄さんですし、
 これからもずっと「兄のクロサイト」ですよ。
 ……二十年以上、ずっと騙してるって負い目に感じられていたかも知れませんが、もうそんな事思わなくても良いんです」
「……そうかな」
「そうですよ」
「……そうか」
「はい」
 幼少の頃からセラフィを守る為、身代わりとして兄であり続け医者となったクロサイトは、セラフィだけではなく実に多くの者を守り助けてきた。孔雀亭のガーネットも卒業生であると言っていたし、ジャスパーも人生を変えて貰ったと言っていたし、ペリドットに至ってはあの最悪な男の元からセラフィが攫う為に全てのお膳立てをした。その他にも彼が構えている診療所の近辺の住民はかかりつけ医として信頼を寄せているし、宿屋を拠点とする冒険者達は自分達の手に負えない怪我や異常をクロサイトに頼んで治して貰っている。ギベオンもまだ卒業には遠いが、それでもたった半年で体重が40キロは落ちたし、左右盲も気にせず接して貰えるし、帯電体質を上手く攻撃に組み込める様にもして貰えた。
 そんな恩人とも言えるクロサイトがセラフィを騙しているとずっと苛まれていると察した時、ギベオンは故郷でよく言われている言葉を思い出した。彼が兄だと嘘を吐いている事が、果たして誰の損になるのだと思ったのだ。たとえ三日遅れて生を受けたとしても、その時から兄として生きてきた彼は「兄のクロサイト」でしかない。万一セラフィが真相を知っても、恐らく同じ事を言うだろう。お前が兄で、俺が弟だ、と。だから、もう苦しむ必要は無いのだ。
 まっすぐな目をしたギベオンからそう言われたクロサイトは薄暗い店内の照明の中でもはっきりと分かる程に泣きそうな顔になり、それでもギベオンに涙を見せるのは憚られたのかふいと背けた顔を片手で隠して俯いてしまった。その後に聞こえてきたか細い嗚咽は幸いにも他のテーブルの男達の話し声にかき消され、店内からクロサイトの位置は死角になっている上にカウンターの向こうに居る主人にはギベオンの体が邪魔で見えないであろうから、今クロサイトが泣いている事はギベオンしか知らない。今までの人生の中で太っている事を呪わなかった事が無かった彼であったが、今日ばかりは体が大きくて良かった、と頬肘をつきながら隣で肩を震わせて泣いているクロサイトを見て思った。俯いたままの彼の表情は手で隠れて見えなかったが、寛げた首元には孔雀亭で見た時と同じ何か紐の様なものと、角度のせいだろう、あの時は見えなかったが紐に通された鉱石の様なものが今回は見えた。
「……すまないな、昔話に付き合わせてしまった」
「いえ……、気にしてないです」
 一頻り泣いて落ち着いたのか、長い息を吐いて掌で涙を拭ったクロサイトが短く謝罪してきたので、ギベオンは緩やかに首を振る。クロサイトの前で泣いた事は多々あったギベオンであるが、彼を泣かせる事が出来るとは思っていなかったので何となく自分が誇らしく思えた。そんなギベオンの隣でクロサイトは身を乗り出し、今度こそギムレットをオーダーした。
「涙脆くなってしまったな……年かな」
「年って、そんなにとってないじゃないですか。セラフィさんにそれ言ったら絶対落ち込みますよ」
「ペリ子君のご母堂と同い年だからな……」
「しかもあちらの母さん、確か生まれ月が後ですよね……」
「うむ……」
 ずず、と洟を啜ったクロサイトが年の事など言ったものだから、ギベオンは思わずセラフィの名を出してしまった。彼がペリドットを攫った後、本当に良いのか俺はお前の母親と同い年だがと随分今更な事を尋ねていたので、余程セラフィは年の差を気にしていたのだろう。それに対するペリドットの返答はお母さんにセラフィさんをとられない様にがんばりますという明後日の方向のものだったのでギベオンもクロサイトもまた笑ってしまったのだが、今のクロサイトの深刻そうな頷きに改めて年の差を考えてしまい、ギムレットを受け取ったクロサイトとお代わりをオーダーしたギベオンは宿屋に残してきたセラフィのこれからの健闘を祈った。
「………」
「……へへ」
 そしてクロサイトがちらと横に顔を向けると、ギベオンは手元に残しておいたタンブラーの氷を口に入れて噛み砕いていたのだが、視線に気が付いたのかクロサイトの方を見て首を傾げた。逡巡した後に拳を掲げたクロサイトは、それを見て心得た様にちょっとだけ笑ったギベオンが掲げた拳に軽くタッチしてからギムレットを一口飲んだ。有難う、と、どういたしまして、の言葉が、二人の拳には籠められていた。