ペリドットの妊娠の件を受けて、木偶ノ文庫に行く為の気球艇に乗り込むのは四人となった。目的地の周囲は帝国の警戒が厳しいと風止まぬ書庫で帝国兵の女性から聞いていた事もあり、恐らく軍艦とも呼べる巨大な艇が何艘も飛んでいるのだろうという事は想像に難くない。ギベオン達の気球艇が高度を上げて水道橋を超える事が出来たとしても、その艇に撃墜されてしまう危険性は非常に高かった。しかし黒き者の炎を統治院で港長に託した際にキルヨネンとウィラフが招き入れられ、囮となると申し出てくれた。しかも、港長に連れられて同席していたアルビレオからその二人から提案されてな、と、巡航器を渡してくれた。何でも、気球艇に取り付けると倍の速度で飛べる様になるらしい。退院して間もないアルビレオの交易場での初仕事は、どうやらこの装置を作る事であった様だ。片腕でよく作れたなと感心したのはクロサイトだけではなく、依頼したキルヨネンとウィラフでさえ驚きの表情を見せていた。
 帝国の艇の数を予想するに、キルヨネンやウィラフ以外の別のギルドにも協力を仰ぐべきだという意見が統治院の者達から上がったのだが、それだといくら空は広いとは言えぶつかる可能性が高くなるし、選りすぐりの者だけにした方が良いと言ったのは統治院の職員を兼任しているクロサイトだった。彼は遠回しに現場に行くのは我々なので余計な口出しはしないで頂きたいと言っていた。ギベオン同様、クロサイトも世界樹への最初の到達者になりたい訳でも、巫女を救い出す英雄になりたい訳でも無い。だが、自分達が懇意にしているギルドの者達を向かわせて手柄を取らせてやろうという思惑が見え隠れしていたので、こんな大事な時に私利私欲を持ち込まないでほしかったのだ。
 かくして絶界雲上域の空中でのごく少数人数での陽動作戦が開始されたのであるが、思った以上に帝国の艦隊の警備は強固であった。キルヨネンとウィラフが上手く陽動したとしても、他の艇がギベオン達の艇を見付けて迫り来る。受け取った巡航器を使って何とか追跡を振り切ったとしても、目視出来た木偶ノ文庫には近付く事は容易ではなく、逆に近寄れた世界樹を繁々と眺める事など出来なかった。ギベオンのそもそもの目的は「世界樹を間近で見る事」であったので一応は達成出来た事になるのだが、見せたかった肝心のクロサイトは高所恐怖症である上に倍の速度で飛行しているものだから、いつも通り片手を白衣のポケットに突っ込んだまま真っ青になって外など眺める余裕が一切無かったので、ギベオンは素直に喜べなかった。
 体力に自信はあっても緊張状態が長く続けば疲弊もするものであるし、ギベオン達は勿論キルヨネン、ウィラフ両人も同様の事が言えた。帝国側は交代すれば良いだけだが、こちらはそうもいかないので、短くとも休憩の時間はしっかりと取り、それらの連絡は密に取り合った。しかしそれでもその日の夕暮れまでの突破は出来ず、翌日の夜明け前、それこそまだ暗い内から再度挑もうという運びとなり、タルシスへと戻ってから全員で統治院へと報告へ行った。クロサイトはまた一部の職員からの小言という名の嫌味を言われるのだろうなという予想から眉間に皺が寄っており、何も事情を知らぬローズが父の機嫌があまり良くない事を敏感に察知して不安げにしていた。
「おお、良く無事に戻ってきたな。その顔だと、まだ侵入は出来ていない様であるな」
「申し訳御座いません」
「なに、急ぐに越した事はないが、諸君らの命と巫女殿の命を天秤に掛ける程私は愚かではないぞ」
 廊下で擦れ違った職員達とは違って、辺境伯は温かい眼差しで入室した皆を迎え入れた。腕には相変わらず愛犬のマルゲリータを抱え、訪問者があれば余程の事が無い限り必ず立ち上がって迎え入れるこの領主を、元からタルシスの住民であるクロサイトやセラフィだけはでなく、他国の騎士であるキルヨネンやギベオン、移住してきたペリドットやローズ、世話になっているウィラフは高く評価している。緩いと言われても芯はしっかりしている辺境伯は、ぽかんとしているギベオン達を見回した最後にクロサイトとその半歩後ろに控えているセラフィに目を向けた。
「クロサイト君、君はいつも言っているではないか。みな等しく命だと」
「………」
「君もセラフィ君も私にとってみれば等しく領民だ、私には守る義務がある。
 そして有事の際には私が全ての責任を負う覚悟がある。領主というのはそういうものだ」
「……お心遣い痛み入ります」
 突然そんな事を言われて呆気に取られ目を丸くしたクロサイトは、一言の礼を呟くだけが精一杯で、セラフィに至っては口をぎゅっと閉じてただ黙るしか出来なかった。そんな二人を労う様に、キルヨネンとウィラフはほんの僅かに苦笑した。
 ギベオンもペリドットも、ローズだって勿論知らないのだが、クロサイトとセラフィは他の冒険者達ではなくこの統治院に勤めている者達から、クロサイトはそれに加え病院の者達からも随分と嫌がらせを受けてきた。父親は気が狂れて病院から脱走した母親に刺殺されている事に加え、当時はまだ辺境伯が世界樹への到達のお触れを出していなかったのでよそ者は珍しく、そんなよそ者であるにも関わらずあっという間に自分の診療所を持ったバーブチカの養子であったから、医者を志したクロサイトは病院の医師団の者達から何かにつけて嫌味を言われ続けた。その上冒険者となり、タルシスの兵士達でさえ倒せなかったベルゼルケルをセラフィと共にたった二人で倒した事により辺境伯の覚えもめでたくなったばかりか、ウロビトであるウーファンと接触を持った唯一の冒険者であったのに突如辞めてしまったので、ウロビトとの交渉役になってくれる事をいつまでも待っているという意味を籠めて辺境伯がクロサイトに外交官の肩書を与えてしまった。また、セラフィは自らの意思で碧照ノ樹海含めた風馳ノ草原や丹紅ノ石林で力尽きた冒険者達の遺体を埋葬する事を職とした事を受け、彼にも職員の肩書を与えた為に、二人はかなりの人数の羨望を受ける様になってしまったのだ。
 それでも、クロサイトもセラフィも辺境伯に一言も文句を言わなかった。自分達に与えられた肩書は依怙贔屓などではなく、当人に見合ったものであると判断しての事であったからであり、実際二人は医者としても特殊清掃者としても、外交官としても職員としてもよく働いた。そういう二人を、辺境伯は信頼している。
「それと、実は頼み事があってな。勿論木偶ノ文庫への侵入の方が先だから、そちらを優先して欲しいのだが……
 実は先日の会談の際に、愛用のカフスボタンを落としてきてしまったのだ」
「カフスボタン? もしや、奥方様から戴いたという」
「うむ……あれは亡き妻からの最後の贈り物でな、替えなど決して無い」
 そんな辺境伯が神妙な面持ちで言った内容に、クロサイトは首を傾げた。辺境伯が大事な席に臨む際に必ず着けるそのカフスボタンは、今は亡き彼の妻から生前結婚記念日に贈られたとクロサイトは以前聞いた事がある。洗練されたデザインではあるが、辺境伯がここ一番という席にわざわざ着けるものでもなさそうに見え、何故それをとクロサイトが尋ねた時に教えてくれた。妻が側で見守ってくれている様な気がして勇気が出るのだよ、と言われ、クロサイトも身に着けているローズクオーツのペンダントを思い出したものだ。
 出来るならすぐにでも探しに行ってやりたいものだが、さて、とクロサイトが沈思していると、先にギベオンが申し出た。
「そんな大事なものでしたら、木偶ノ文庫に磁軸を設置出来たらタルシスの兵士さん達もある程度行き来出来る様になりますし、
 それからでよろしかったら行きます」
「引き受けてくれるのかね?」
「はい、僕もあの聖堂はもう少し探索したいです。それに、奥様も見知らぬ場所に取り残されていては心細いでしょう。
 早く旦那様の元へお連れしてさしあげないと」
「……そうか。恩にきるよ」
 ギベオンが何の迷いも無く申し出た事に、辺境伯はほっとした様な顔で彼に軽く会釈する。そんな遣り取りを見て、クロサイトとセラフィは少しだけ驚いていた。ギベオンはこういう時はいつも自分達の意思決定を窺う様に黙っている傾向があったからだ。それが自らの意思で、そして自分達の意見を聞かずに決めたのだ。自信がついてきた証拠かな、と、クロサイトは感心していた。



 日付も変わり、夜も明けきらぬ時分に絶界雲上域の空に気球艇を浮かべたギベオン達は、未だ数が減る様子が無い帝国の艇に辟易しつつも前日と同じ段取りで陽動作戦を開始した。夜目の利くセラフィが舵を取るギベオンに方角の指示を出しながらキルヨネンやウィラフに陽動を引き受けて貰い、心理戦と短期決戦を繰り広げた彼らは、日が昇り始めた頃にウィラフが数隻の艇を引きつけている隙を見て一気に木偶ノ文庫の方へと艇を飛ばし、辛うじて帝国の艇を振りきって着地してから急いで全員で建物の中へと駆け込んだ。出入り口も帝国兵で固められているかと思っていた一行は、ほっとした反面拍子抜けもしていた。
 夥しい書物が納められている、とローゲルが言っていた通り、確かにこの人工物には壁一面の書棚に目眩がする程の書物が納められて、否、詰め込まれていた。何の本なんだと全員が眉を顰めてしまったが、いちいち確認している暇は無く、とにかく少しでも探りを入れようとクロサイトが羊皮紙を広げる。ペリドットが居た時は彼女と交代で地図を書いていたけれども、今後はクロサイトが一人で書く事になる。
 幸いにも、磁軸はすぐに見つかった。深霧ノ幽谷や金剛獣ノ岩窟と同じく、入り口の近辺にあるのは有難かったが、しかし何故ここに、という疑問も拭い去れない。元からここにあるものなのであれば、ローゲルはこの磁軸を使ってすぐに帝国に戻れた筈だ。なのにそうしなかったのは、単に不可能であったから、なのだろう。この磁軸も不思議というか、謎の多いものだが、やはり今のギベオン達にはじっくり考察している暇など無かった。考察や推測は学者がやる事であって我々の仕事ではないと、木偶ノ文庫の入り口から磁軸のある広間までの地図を羊皮紙に大まかに書きながらクロサイトが言った。
 初めて足を踏み入れるこの迷宮の大きさは、今の彼らには分からない。上空から地上を見下ろし、大体の広さが推測出来る空間把握能力が高いギベオンにフロアの広さの意見を聞きながら当たりをつけた後、今のうちにと絶界雲上域の地図も出来うる限り書き込んだ。何せクロサイトは本当に上空が苦手であるから、地上を眺めようにも生きた心地がせず、精々あちらの方角に何か建物があったな、くらいしか分からないのだ。ギベオンやローズに教えてもらいながらクロサイトが地図を書いている間、セラフィが慎重に周囲の様子を窺いに行ったが、南の聖堂や風止まぬ書庫で見かけた魔物の姿がちらと見えただけで帝国兵含めた人間の姿は見えなかった。その代わりに、機械仕掛けで動く魔物が居た。
「どうする、一旦戻るか。それとも少し探索するか」
「磁軸も見付かったしアリアドネの糸もあるから、ちょっと見て回ろう。ローズ、大丈夫か? 眠たくないか?」
「へいきです、いきます」
「頼もしいな、うちのお姫様は。だが、決して無理はしないでおくれ」
「はい」
 朝というより未明から起きての行動は、いくら前日早い時間に休んだとはいえローズには堪える筈だ。それを懸念したクロサイトが尋ねると、ローズはしっかりした声で父を見据えて同行の旨を伝えた。彼女にとって連れ去られた巫女は信仰のシンボルであるし、一族が危機に瀕している以上は休んでいられないと、幼いながらに考えている。恐らく今、この四人の中で一番恐ろしさを感じているのはローズなのだ。自分の住んでいた里に住まう人々が、イクサビトの里で見た病に罹った者達の様になって死んでしまうかも知れない、そう思うと恐ろしくて堪らない。抱き締める様に錫杖をぎゅっと握ったローズの頭を、慈しむ様にクロサイトは撫でた。
 人工物である木偶ノ文庫には、他の迷宮には無かった無機質な冷たさがあった。よくこんな広大な建物を建てようと思ったものだとギベオンは思ったのだが、ここにも炎を纏った猫の魔物が居り、何でこんな所まで……と多少うんざりした。怖くて近寄れなかったけれどもセラフィが投刃で麻痺させてから動きを封じ、氷の刃で仕留めてくれたので、襲い掛かられて無様な悲鳴を上げる姿は晒さずに済んだ。そしてセラフィが見掛けたという機械仕掛けの魔物は両腕に重たそうな鉄球をぶら下げており、案の定その鉄球を振り回す攻撃をしてきて、その度にギベオンの盾は軋んだ音を立てた。
 少し進むと、扉の向こうに奇妙な形の石像が鎮座しており、ギベオン達は首を捻った。犬が座っている様にも見えるそれは、近寄っても何の反応も示さず、セラフィが叩いても微動だにせずそこに沈黙したまま座していた。帝国の者による何かの仕掛けかも知れないと、覚書の様に地図に記したクロサイトは先に進もうと三人を促したが、扉を二つ潜った後に徘徊する魔物に息を飲んだ。丸い鉄球をぶら下げた魔物よりも一回り大きく、棘のついた鉄球を両腕にぶら下げ、まるでこちらを探すかの様に辺りを見回している機械仕掛けの魔物は、全員に嫌な汗を走らせた。今まで迷宮を歩いてきた彼らは既に熟練の冒険者と言っても過言ではなく、そんな四人に嫌な予感がすると思わせるのだから、間違いなく見付からないに越した事は無いだろう。
 注意深く観察していると、その魔物は決まったルートを往復し、四方が見渡せる箇所で見回し、侵入者の発見を試みようとしているらしい事が分かった。パターンさえ分かれば進める筈だからと、とにかく慎重に、柱の影を利用しながら先に進むと、抜け道を見付けた。通った先の広間は見覚えがあり、恐らく出入り口からすぐの広間だろう、ここを通れたらさっきの魔物の相手をせずに済むなと地図を書きながら言ったクロサイトに、緊張のあまり肩が凝ってしまったギベオンはそれは助かりますねと安堵の顔を見せた。
 そしてもう少し先に進んでみてからタルシスに戻ろうと決めた彼らは、抜け道を戻って扉を潜った先に、漸く人の姿を見付けた。それは帝国の鎧を纏った兵士で、全員が身構えたのでその兵士も武器を抜こうとしたのだが、手を滑らせたのか落としてしまった。何だ、とセラフィが様子を窺い、直後に絶句する。兵士の腕には、植物の蔓や葉が纏わり付いていたからだ。
「君に危害は加えない、約束しよう。君のその腕は、巨人の呪いの病によるものかね?」
「……ああ、そうだ。木偶ノ文庫に残っているのは、この病に冒された技術士官だけだ」
「皇子が連れ去った巫女殿は、その病を治す事が出来る。君も治して貰った方が良いのでは?」
「我らの病を治す時間よりも、殿下の計画を早められる方が大事だ。
 良いか、貴様らが何をしようと我ら帝国の悲願は殿下が果たされるだろう。
 殿下は皇帝アルフォズルとは違う……、いずれ最高の皇帝になられるお方なのだ」
 クロサイトの提案を吐き捨てる様に拒んだ帝国兵の目は、動かす事もままならない腕とは裏腹に、情熱に浮かされ鋭かった。彼が言うところによれば、帝国の枯れた土地の問題を解消する為に世界樹の力を使う事を提唱したのはバルドゥールの父、アルフォズルであったらしい。アルフォズルは世界樹で帝国を救う方法を模索したが、彼が目指したのは帝国だけが救われる道ではなく、巨人の呪いを溢れさせずに大地浄化の力のみを発動させる研究を進めたそうだ。
「皇帝は、世界樹の力を使う為の心臓、心、冠を手に入れる為の計画を進めさせていた。
 貴様らも通っただろう、あの結界を何人かの騎士に越えさせようとしたのだ。
 二十年以上前にも一度結界越えを命じた時、誰一人として戻ってこなかった。
 だから、十年余り前の探索には自らもその探索に加わるという愚かな真似を……
 全く自分の立場が分かっていなかった!」
「結局帰って来たのはワール……いや、ローゲル卿だけ、だったんですね?」
「そうだ。皇帝や他の騎士の生存を信じている者など、殿下以外には居ないだろう」
 どれくらい前から兵士として勤めてきたのかは分からないが、昔の事を知っているらしいこの兵士は、随分とアルフォズルを低く、バルドゥールを高く評価した。二十年以上前という言葉に何か引っ掛かりを感じたクロサイトは顎鬚を撫でながら思案し、ギベオンの言葉に返答した兵士の腕を眺めた。彼の腕に絡みつく蔓や葉は、服を着る事を困難にさせている。その内に全身を覆って、彼を死に至らしめるのだろう。まるで絞め殺しの木の様だな、と思うと同時に、イクサビトの里で見た様に幼い子供が罹って苦しむ姿が脳裏に浮かび、側に立つローズの肩を引き寄せた。自分がその病に罹ろうとも、娘にだけは罹って欲しくないと思う。だが、病は貴賤も老若男女も問わないものだ。そう思うとぶるりと背筋が震えた。
「皇帝が死んだかどうかはさて置き……探索に加わる事がそんなに愚かな事か?」
「なに……?」
「確かに、国の上に立つ者は立場を弁えねばならんだろう。
 だが部下が戻って来なかった危険な任務を再度与えるのに、自分だけがのうのうと待機するなど出来なかっただけじゃないか?」
「………」
「二十年以上前なら殿下とやらが生まれたかどうかの頃だろうから行けなかったんだろうが、
 十年程前なら幼いながらも跡継ぎとして国に存在している訳だ。託せると思ったんだろう。
 自ら探索に出向いたのは、無責任で軽率な行動だったかも知れん。
 だが、君主が命を懸けてでも国を救おうとして取った行動を、お前は愚かと思うのか?」
「……け、結果として皇帝は、戻らなかった」
「そうだな、多分俺は戻れなかったその皇帝の墓を知っている」
「?!」
 それまで静かに聞いていただけのセラフィが兵士に語り掛け、クロサイトも意外に思う程に言葉を発したので、ギベオン達は口を挟まなかった。挟むつもりも無かった。同じ様な事を考えたからだ。しかし、突如としてアルフォズルの墓を知っていると言ったセラフィに、彼を除く全員が驚きで目を見開いた。兵士が聞き返そうとするより早く、セラフィは言葉を続ける。
「この絶界雲上域の南にある銀嵐ノ霊峰の、金剛獣ノ岩窟の中にあるイクサビトの里の墓地にある。
 お前は知る由も無かろうが、それは手厚く葬られているぞ。
 花も水も毎日新しいものに変えられているし、イクサビトの長のキバガミという男など、
 月命日には必ず武器……あのでかい剣だな、磨いているそうだ。
 ……ウロビトもイクサビトも、俺達人間と全く変わらん。
 人が死ねば悲しむ心もある、見知らぬ異種族にも敬意を表して埋葬する礼節もある。
 その者達が今お前を苦しめている病に冒されぬ様にと考えた末の行動を、俺は愚かとは思わんな」
「………」
 イクサビトの里で見た、人間が葬られているという墓は、セラフィの推測が正しければ皇帝アルフォズルのものだ。キバガミは自宅に保管している巨大な剣を、月命日には必ず墓前へ持って行き手入れをしているそうで、参考までに特徴を聞かせて貰ったその剣は先頃対峙したローゲルが持っていたものとほぼ同じ形をしていると推測出来た。皇帝はあの地に眠っていると言って間違いないだろう。もう一人の人間も時を同じくして死んだというが、ローゲル同様皇帝に仕えて共に出国した兵士に違いない。そんな見ず知らずの異種族である人間を、キバガミ達イクサビトは丁重に葬ったしその死を悼んだ。キバガミから伝え聞いただけの皇帝アルフォズルは、今の話を合わせて考えるに、自国民も他国民も尊重する様な国主であったのだろう。そんな皇帝を、セラフィは愚かとは思えなかった。
「……お喋りが過ぎたか。俺達は先へ行く、お前は病状が悪化しない様に安静にしておけ」
「殿下を止められるとでも思っているのか?」
「今の俺にはバルなんとかを止めるよりワール……ん……、ローゲルとか言うんだったか、あの男をぶん殴ってやる方が先だ」
「……はっ、精々辿り着くまでにくたばらん事だな」
「お前も、巫女に治して貰うまでくたばらん様にな」
 それまでの無表情を露骨に不快なものにしてぶん殴ると言ったセラフィは、何が何でもローゲルを殴ってやらないと気が済まないとでも言うかの様に拳を握り、兵士は一瞬面食らった様に目を丸くしたけれども、初めて苦笑を零した。そして、とっとと行け、誰にも言わずにいてやる、と言って四人の背中を見送った。



 木偶ノ文庫で帝国兵士と話した後、進んだ先で淡紫藤の若枝を伐採したギベオン達は、一旦タルシスへと戻って辺境伯に潜入に成功した事と磁軸を発見した事を報告した。無事に潜入出来た事を喜んでくれた辺境伯は、磁軸が見付かったとは言え暫くは気球艇で向かう事もあるだろうから、当分の間キルヨネンとウィラフを絶界雲上域に待機させるから協力を仰ぎたまえと言ってくれた。ただ、彼らも疲弊しているだろうから休ませたかったので、翌日は南の聖堂に行き辺境伯のカフスボタンを探す事にすると伝え、絶界雲上域にいる二人にもその旨を伝えて貰う様に頼んでから全員その日は早めに休む事にして診療所に戻った。
「お帰りなさい。お客様がいらっしゃってますよ」
「ただいま。客?」
「戻ったか。邪魔しているぞ」
「ウーファンさま!」
 診療所に戻った四人を迎えてくれたペリドットの後ろから顔を覗かせたのは、今ではタルシスとウロビトの里を行き来しているウーファンだった。彼女の姿を見た途端に嬉しそうな声を上げたローズを見ると、この気難しそうな女性はクロサイトやガーネットが言っていた様に優しいのだろうとギベオンも納得してしまう。ただ、巫女が連れ去られた今は、彼女に申し訳なさも湧いてしまう。
「巫女殿の事を尋ねに来たのかね?」
「それが第一だな。無事か?」
「世界樹の力の発現の為に彼女は欠かせないらしいからな、それまでは決して危害は加えんだろうよ」
「そうか……、私も行きたいところではあるが……」
 荷物を自室に置きに行ったギベオンがそのまま追加の茶を淹れに行っている間、訪問理由を尋ねたクロサイトに、ウーファンは顔を曇らせた。ワールウィンドと名乗っていたローゲルから巫女を金剛獣ノ岩窟に連れて行きたいと言われた時、巫女は人の役に立ちたいと言い、ウーファンも里に閉じ込めていては駄目だと痛感したばかりであったから、断腸の思いで送り出した。それが、蓋を開けてみれば連れ去られたという。気が遠のくなどというものではなかったし、すぐに追い掛けたいと気が急いたが、ホロウクイーンから襲撃を受けた里はまだ修繕途中の建物も多く、ホロウクイーンに連れ去れた巫女を探しに出て階下で亡くなった年長者も多かったものだから、巫女も居ない上にウーファンまで不在になれば里はこれ以上なく混乱すると容易に想像出来た。 唇を噛んだウーファンに、ギベオンが淹れてくれた茶を勧めながらクロサイトは言った。
「君はウロビトの里を巫女殿の留守の間守らねば。私達もなるべく急ごうとは思っている」
「……すまないな。巫女が居ないだけでこうも取り乱してしまうとは、我ながら情けない」
「君はずっと側で守ってきたのだ、無理もなかろう。代わりにローズが随分がんばってくれている」
「そうか。……良かったなローズ、父親と共に居られる様になって」
「えへ……ありがとうございます」
 クロサイトに労われたウーファンは力無く笑った後、やっと肉親と生活出来る様になったローズを慈しむ様に見た。ウーファンにとって、ローズはいとこにあたるガーネットの娘だ。遠いとは言え、血縁者となる。父と分かっている者をそうと呼べないのはつらかろうと、ギベオンがクロサイトを説得したのは、まだほんの数ヶ月前の事だ。随分と長い年月が経ってしまった様に思ったギベオンは、はたとそこである事に気が付いた。
「父親と言えば、ガーネットさんの父親が人間なんでしたよね?
 ウーファンさん、その方がウロビトの里にいらっしゃったのって、何年くらい前の事なんですか?」
「ガーネットの父親?
 ん……、ガーネットが二十六だから……約三十年くらい前にはなると思うが、それがどうした」
「いえ、帝国の皇帝がワールウィンドさんの様に巨人の心とかを探しに派遣したけど、戻らなかったと兵士の方に聞いたものですから。
 その派遣が二十年以上前らしくて、ひょっとしたらその戻らなかった方の内の一人がガーネットさんの父親かも知れないと思って」
「……私はその帝国の者達を見た事が無いから何とも言えんが、可能性がゼロとは言いきれんな。
 何故人間が深霧ノ幽谷に現れたのかと当時は大騒ぎになったと聞いている」
 クロサイトが日中に帝国兵士とセラフィが交わした会話の中で引っ掛かっていた事柄は、今漸くギベオンの気付きによって腑に落ちつつある。ウロビトばかりの里に何故人間が現れたのか、それはウロビトの者達にとっても長年の疑問であった。ガーネットの父親であった人間は己の素性を詳細には語らなかったらしく、彼を知る者も人間嫌いであるが故に口を閉ざしたままで、ウーファンもよく知らないのだ。
「その男性、大きな武器をお持ちではなかったですか? こう……私の身長くらいありそうな……」
「武器……? ……大きな刃物みたいな……?」
「そうです、えっと……クロサイト先生、あの剣の絵とか描けます?」
「すまない、私はああいう緻密なものはどうも苦手でな」
 セラフィと共にイクサビトの里で墓の側に供えられていた剣を見ていたペリドットは、ウーファンならあの剣に見覚えがあるかと思って尋ねたのだが、説明が難しくて視覚で確認してもらおうと絵画が趣味のクロサイトに図解して貰おうと試みた。しかし片目で視野が狭く、残っている目もそこまで視力が良い訳でもない彼はああいった機械仕掛けのものを描くのは不得手で、困った様に眉根を下げた。そうすると、すかさずギベオンがペリドットに手を差し出した。
「じゃあ、僕描きます。ペリドット、ペンと紙ある?」
「うん、……はい、これ」
「有難う。えっと……確かこんな……」
 ダイニングには全員がその日のスケジュールを確認出来る様に連絡用のコルクボードが設置されており、休日で帰宅が遅くなる者は予めそのボードにメモを留めるルールが診療所には存在する。そこには紙もペンも置かれてあるので、ペリドットが寄越してくれたものを受け取ったギベオンは、記憶を頼りにローゲルが持っていた剣を描き始めた。
 ギベオンの空間把握能力の高さは知っていた面々であったが、まさか機械などの緻密な図形を描く事も得意であったとは知らず、クロサイトは興味深げにギベオンの手元を見ていた。鉱物の知識の数々にも驚いたものだが、収集した鉱物の細部までのスケッチをしてはカウンセリングの時に嬉しそうに説明してくれていた事を思い出し、この子の才能の一つだなとも思った。また、持ち手を描いていたかと思えば剣先を描き始め、紙面上で離れたパーツを繋げて見せたのだから、クロサイトだけではなくウーファンも覗きこんで見ていた。
「こういうのです。お持ちでしたか?」
「……確かにこういう武骨なものであった気がするな」
「じゃあ、やっぱりガーネットさんは」
「以前派遣されて戻らなかった帝国兵と、ウーファン君の伯母君との間に生まれた娘、だろうな」
「ガーネットが……」
 そして細部を描く事は諦め、ギベオンがおおまかに描いた剣の絵を提示すると、ウーファンは曖昧ながらも頷いた。クロサイトの推測の言葉はその場の全員が納得出来る程の力があり、ウーファンは半ば呆然としている。巫女を探しに来たのであろう帝国兵であった男は、数奇な運命を経てウロビトの女性との間に娘を設け、故郷の地を踏む事無く異郷の地で無念の死を遂げた。探していた巨人の心と己の妻となったウロビトを守って、だ。ここにきて様々な謎が少しずつ、それこそパズルのピースが一つずつ嵌っていく様に解明されている様にクロサイトには思われた。そう、ギベオンが得意なパズル、である。
「まだ推測の域を出ないが、今後も同じ様な帝国兵と接触出来るかも知れんから、もし聞ける様であれば聞いておこう。
 お前も、ガーネットの父親の事を知っている奴が居たら聞いておいてくれ」
「そうしよう。巫女の事をくれぐれも頼む」
「ウーファンさま、わたし、がんばります」
「……ああ。だが、無理だけはするなよ」
「はい」
 セラフィの言を聞いて頷いたウーファンは、自分を元気付けるかの様にはにかみながら申し出たローズに微笑み、遠く見知らぬ地に居る巫女に思いを馳せた。どうか無事であって欲しい、という願いは、その場の全員が抱いているものだった。



 ウーファンが診療所を訪ねてきた翌日、ギベオン達は辺境伯のカフスボタンを探しに南の聖堂を訪れた。あんな大事なものを落としても気が付かなかったとは余程頭に血が上っていたのだろうな、とクロサイトは思い、会談の護衛時には入らなかった奥の部屋で確かに落ちているカフスボタンを見付けたのだが、何とそのボタンに手を伸ばそうとすると突如として浮かび上がり、驚く全員をよそに扉を抜け飛び去って行ってしまった。呆然としつつもとにかくボタンを追い掛け、姿を消したり現れたりするカメレオンの様な魔物に驚かされながら間を擦り抜け、途中で鉱石を見付けたギベオンの首根っこを掴んだセラフィが彼を引き摺り先へと進み、遭遇した魔物を何とか振り切ってカフスボタンを見失わずに追跡する事が出来た。だが、会談に使った広間の隣に位置するのであろう小部屋に辿り着くと、ボタンは見当たらず気配も無くなってしまった。
 確かにこの小部屋に入った筈だけど、と辺りを見回すギベオン達だったが、ローズが抜け道を見付け、そこを潜れば元の広間の中央にカフスボタンが浮いているのが見えた。今度こそ回収出来るか、と再度手を伸ばそうとしたギベオンは強烈な殺気を感じ取り、それと同時にセラフィから問答無用で引っ張られ、息を飲んだ。そこに居たのは、周囲の景色に擬態した真っ青なカメレオンの魔物だった。どうやら執拗に追い掛けられた事に腹を立て、姿を現した様であった。
 追っている道中に見た魔物と同じ様に、極彩色とも言える青色の魔物も消えたかと思えば姿を現したり、眷属を呼び出して自身は後ろに下がったりと、とにかくその魔物の相手は手こずった。姿を消している時はこちらの攻撃は当たらないし、反撃を食らって上手く盾や鎚、剣を使えなくなる様にされてしまったり、持久戦に追い込まれた。しかしローズが張ってくれた毒の方陣のおかげで姿を消してもすぐに現れる様になり、ぐんと楽になった。随分と魔物の攻撃のいなし方を覚えたギベオンが盾で殴り付けたり、毒で弱っているところをセラフィが渾身の力で斬り付けたりし、何とか倒せた後にやっと回収出来た木製のカフスボタンは、幸いにも傷一つ無く無事だった。裏には辺境伯の奥方が彫らせたのだろう愛の言葉が綴られており、生前の辺境伯の妻を知っているクロサイトは感傷を覚えつつも大切に鞄の中に仕舞った。背嚢に入れると傷付いてしまう可能性があるからだ。
 すぐに戻って辺境伯に渡したいところであったが、ギベオンがどうしても道中見掛けた鉱石を採掘したいというのでくたびれた体を何とか動かしその場所まで行くと、彼は本当に嬉しそうな声を上げながら腰に着けたポーチから平タガネを取り出した。
「やったあ、やっぱりそうだ、ローズちゃん、ほら!」
「え?」
 ギベオンが嬉々として掘り出した鉱石を真っ先に見せたのは、ローズだった。まだ荒削りで周りにゴツゴツとした岩石がついた状態であるが、微かに中に見える淡いピンク色の石にはローズは元よりクロサイトやセラフィも見覚えがあり、クロサイトが先に口を開いた。
「これは、まさか」
「はい、バラ石英です」
「わたしのなまえのいしですか?」
「そうだよ、ローズクオーツだよ」
「わあ……」
 先程倒したカメレオンの魔物を追い掛けている道中、通路の奥に埋まっている鉱石など見付ける余裕など無かった筈だ。それなのに、ギベオンはちらと見ただけでここにローズクォーツが眠っている事に気が付いた。本当に興味関心があるものに対しては異常な程に気が付くな、と妙な感心をしたクロサイトは、同時にはたと思い至る。
「そう言えば私のペンダントは、元はワール君から貰ったローズクオーツから作ったんだったな」
「へ? そうなんですか?」
「ああ、彼が碧照ノ樹海で怪我をした時に礼として貰ってな。
 なるほど、この石の産地がここなら彼が持っていたのも納得出来る」
 肌身離さず着けているペンダントをシャツの中から取り出し、掌の上に乗せたクロサイトは、ローズが受け取ったローズクオーツと交互に見る。柔らかなあたたかみのある薄紅色は、見る者の心を穏やかな優しいものにしてくれる様な気もするし、クロサイトにとって娘はそういう存在だ。その娘を与えてくれたガーネットは、この帝国の者が父である可能性が高い。何とも奇妙な縁だ、と思いながらギベオンに礼を言い、辺境伯が心待ちにしているであろうタルシスへと戻った。



 木偶ノ文庫の探索にタルシスの兵士も限られた人数ではあるが加わった事により、セラフィが会話を交わした帝国兵が言った通りこの迷宮には殆ど帝国の者は残っていないと分かった。また、ギベオン達に嫌な予感を齎したあの棘付きの鉄球を下げている機械仕掛けの魔物は、侵入者を発見するとすぐに追い掛けて来るという事も分かった。やはりあれには見付からないに越した事は無いか、と四人で頷き、ローゲルが持っていた剣を見事に描いたギベオンに人型と犬型の機械仕掛けの魔物を描いて貰ったクロサイトはその絵をファイルに綴じ、改めて木偶ノ文庫の地図を広げて今後の進み方を三人と確認した。
 両腕に鉄球をぶら下げた、名がプロトボーグと判明した機械仕掛けの魔物はどうやら他の魔物にターゲットを指示する能力があるらしく、ローズがその標的に選ばれてしまわない様にとギベオンもセラフィも細心の注意を払った。今までの探索でもそうだが、ローズは決して前に出ない様にと言い聞かせていたので大きな怪我を負わせた事は無い。同じ様な形をしている、全員が嫌な予感を抱いたあの棘付きの鉄球をぶら下げた魔物も同様の能力を持っている事は想像出来た為、探索はかなり慎重に行った。ただでさえペリドットが抜けて人数も少なく、かと言って誰かをスカウトして加入してもらう様な心の余裕はギベオンには無い。進み方は必ずしも早いとは言えなかったが、確実に進む事は出来ていた。
 先へ進む道を開拓し、地図の空白を埋めていく道中で、皇帝の事を教えてくれた兵士とはまた別の、巨人の呪いにかかった帝国兵とも遭遇した。彼によれば、世界樹の反対側は荒野の様になっており、帝国は崩壊寸前であるらしい。風馳ノ草原とまではいなかくともそこそこ緑豊かだと思わせた大地は、そうでもなかった様だ。民は散り散りになって生活し、この木偶ノ文庫には計画に必要な者だけが留まって世界樹の力を発現するつもりであり、巨人の呪いを受ける覚悟で計画を進めているとその兵士は言った。無論、バルドゥールもそれを覚悟の上だそうだ。自分の様な体になる事を殿下は覚悟しておられる、と言ったその兵士は、自由に動かぬ腕と落としてしまった剣を悔しそうに見詰めていた。ギベオン達は侵入者なのだから、彼らを排除する事がその兵士の仕事だ。だが、それを出来ぬから悔しかったのだろう。
 地下二階へと続く階段を見付けたのは、木偶ノ文庫に侵入する事に成功した日から数えて五日目の事だった。セラフィやローズが抜け道を見付けてくれたお陰でその階段へ行く近道も出来、探索は順調に進んでいるかの様に思われた。だが、何事もそう上手くいくものではない。少しの油断が命取りになる、というのはまさにこういう事なのだろうという出来事が彼らを襲った。
「きゃああぁ!」
「ローズ! こっちに来なさい!!」
 けたたましい警報音が鳴り響いたのは、地下二階に降りて少し進んだ先の、例の棘付きの鉄球を両腕に持つ監視者が二体徘徊する広間だった。一階の時の様に柱の影を利用しながら進んでいったのだが、銀嵐ノ霊峰の低温や金剛獣ノ岩窟の高温、風止まぬ書庫の強風に晒され続けたローズの耳飾りの金具が壊れ、石畳の上に落としてしまったので、それに気付いたローズが慌てて取りに戻ってしまった。そこを運悪く監視者に見つかってしまったのだ。しかも、ここにも鎮座していた犬の様にも見える奇妙な形の石像は監視者の警報に呼応して作動する仕組みであったらしく、監視者よりも猛スピードで迫ってきた。広間のずっと奥にもまだ一体配置されていたのか、遠目からでもこちらへ向かってきている姿がギベオンには見えた。
 その犬の形をした魔物は、こちらを排除する為だけに存在しているのか、とにかく獰猛だった。石で作られた牙は鋭く、ギベオンの盾を以てすらほぼ欠けず、監視者の司令によって標的にされた者の肉をねじ切ろうとしてくる凄まじさがあった。監視者も振り回す棘付きの鉄球が重たいなんてものではなく、身軽なセラフィでも近寄る事がままならない。更に最悪な事にどうやら一番弱いと認識されたローズを標的に指名したらしく、二体に増えた排除者から飛び掛かられる彼女をギベオンは庇い続けた。動きを封じたくとも中々方陣が効かなかったのは、機械相手だからなのかローズの腕が未熟であるからなのか、それを検証する余裕など今の彼らには無かった。
 クロサイトの手当ても容赦なく繰り出される攻撃に間に合わず、ギベオンの体のあちこちからかなりの出血が見受けられる。痛みと出血で足元が覚束なくなり、動きも鈍くなってきているギベオンは、明らかに限界が近かった。どうする、このままいけば全員やられてしまうが、とクロサイトが白衣の袖で汗を拭った次の瞬間、当のギベオンから悲鳴が上がった。
「うああぁぁっ!!」
「ベオ!!」
 監視者が振り回した棘付きの鉄球を、出血のふらつきのせいかまともに食らってしまったギベオンが吹き飛ばされ、石の壁に叩き付けられそのまま意識を失った。頭を強打したかも知れない、とクロサイトは思ったが、ギベオンが動けない以上は一人で応戦しているセラフィの手助けをせねばならない。三体の魔物と対峙した弟の背を見遣り、真っ青になって泣いているローズの肩を素早く抱き寄せたクロサイトは、いつも手を入れている白衣のポケットからあるものを取り出した。
「ローズ、私とフィーが囮になるから、お前はその隙にベオ君を連れてタルシスに戻りなさい。
 タルシスであれば大声を出せば誰かがきっと駆け付けてくれる。出来るね?」
「い、いや、とうさま、」
「良い子だから聞き分けておくれ。お前もベオ君も死なせる訳にはいかない、任せたよ」
「とうさま!!」
 ポケットから取り出されたのは、アリアドネの糸だった。クロサイトは冒険者に復帰する前から、タルシスの外へ出る時には何を持たずともこれだけは必ず白衣のポケットに入れていたし、ポケットに手を突っ込んでいる癖があるのは咄嗟に使える様にしていたのだ。自分が助かる為、ではない。同行させる患者を守り助ける為だ。投げ出された背嚢の中から取り出す暇も無く、また使用する際に無防備となってしまうそれは、魔物の相手をしている最中はとても使用出来るものではない。だが自分とセラフィが囮となって時間を稼げば、ローズがギベオンと共にタルシスに戻る事は出来るだろう。そう踏んでクロサイトはローズの小さな手にアリアドネの糸を持たせると、鎚を握り締めて排除者の牙を何とか避けたセラフィの元へと走った。これが今生の別れになるかも知れないという覚悟は、あった。
「ローズ、必ず生きて二人で戻る! ペリドットに愛していると伝えてくれ!!」
 クロサイトが肩を並べた瞬間、随分と血が滲んだ衣服を損傷させたセラフィが、意識を失ったままのギベオンに駆け寄ったローズを振り返って叫んだ。その叫びにローズが目を見開いて大粒の涙を零しながらしっかりと頷き、動かないギベオンの体に手を置きアリアドネの糸を発動させた。二人の気配が無くなった事を、クロサイトもセラフィも背中で感じていた。
「お前、そういう事は面と向かって言うものだぞ」
「だから必ず帰る。お前も連れてだ」
「……そうだな」
 本当に久しぶりに肩を並べた二人は、顔を見合わせなくてもお互いがどんな表情をしているのか分かっていた。威嚇する様に低く構えている排除者二体と、首を振りながら標的を冷たい目で捕らえている監視者は、さすがに二人で相手をするには厳しいだろう。だがクロサイトもセラフィも、本当に不思議な事に怖くはなかった。長年の片割れが、隣に居てくれる心強さがあったからかもしれない。
「お互い生きて帰ろう。帰って、たっぷり小言を言われなくてはな」
「応」
 クロサイトが鎚を、セラフィが剣を構え、対峙する魔物を鋭い視線で睨み付ける。そして、同時に石畳を蹴った。



 ガーネットにその一報を届けに来てくれたのは、馴染みにしてくれている近所の住民だった。気の良い女性で、ガーネットが孔雀亭のオーナーになった当時何かと世話を焼いてくれて、当時は冒険者よりもこの近辺の住民達がよく利用しに来てくれていた。ウロビトであるローズが娘なのだと知った時など、事情は何であれ側で暮らせる様になれて良かったわね、と詳しい事など一切聞く事無く喜んでくれた。
 その女性が慌てふためいた様に貴女の娘さんが怪我だらけの男の子連れ帰って泣いてるわ、と教えてくれて、店を彼女に任せてすぐに診療所まで駆け付けると、ちょうど担ぎ込まれたらしい血の気の引いたギベオンとおろおろしているローズが診療所に入る所だった。
「その子殆ど怪我してないみたいだから外で待機させといて、終わったら経過教えるから。
 君はこの子の自己血探して、ギベオンて書いてある筈」
「はいっ!」
 クロサイトが留守の間に時折診療所を預かってくれている病院の医者、アルビレオに火傷の経過を見せてくれるなら個室半額で良いよと言ってくれた男だが、この日はたまたま診療所に待機しており、ギベオンをここまで運んでくれた別のギルドの眼鏡をかけたメディックがそのサポートに入る。タルシスでは怪我人が磁軸やアリアドネの糸で戻ってきた場合、その場に居合わせた者は介抱する事が原則として義務付けられており、眼鏡を掛けたそのメディックもアリアドネの糸で戻ってきたギベオンの元にいち早く駆け付けてくれた。
 マスクを着けゴム手袋を嵌めた医者が足で扉を閉め後ろ姿が見えなくなった後、ガーネットとペリドットの姿を見たローズはその場に座り込んでしまった。
「ローズ、貴女は大丈夫なの? 怪我は?」
「わたし、わたしはだいじょうぶ、です、でも、とうさまとセラフィおじさま、が、」
「二人は?! 一緒じゃないの?!」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、わ、わたし、わたしのせいで、」
「二人共、ここで騒ぐと先生方の気が散るわ。奥に行きましょう」
「うぅ、は、はい」
 表の騒ぎに何事かと診察室の方へ出てきたペリドットは、クロサイトとセラフィの姿が見えない事に動転していた。ローズも泣いて要領を得ず、とにかく落ち着かせる事が先決と、ガーネットが住居区へと移動する事を促す。立てないローズを抱き上げたガーネットは、娘がいつも着けている耳飾りが一つ足らない事にその時気が付いた。
「わ、わたしが、みみかざりおとしちゃって、それをひろおうとおもったん、です。
 そ、そしたら、まものにみつかっちゃって、」
「ギベオンがこの間描いてた、鉄球をぶら下げてる魔物?」
「はい、あの、すごいおとをならして、そしたらそれまでうごかなかった、いぬみたいなせきぞうがうごいて、
 それで、ベオにいさまがずっとわたしをかばってくれてた、から、」
「それであんなに出血が激しかったのね……」
 ダイニングの椅子に並んで座り、自分の膝の上にローズを乗せたガーネットがゆっくりと宥めながら事情を聞くと、彼女は涙で途中の言葉を途切れさせながらも辿々しく説明した。ガーネットは見ていないが、ペリドットはギベオンが描いた機械仕掛けの魔物の姿は知っている。棘の鉄球が見るからに恐ろしいと思わせたあの魔物と対峙したのなら、ギベオンのあの怪我も納得出来る。肉が抉れた様な傷も見えたが、それはローズの言った犬の様な魔物によるものだろう。
「それで、クロ先生とセラフィ君は?」
「と、とうさまが、じぶんたちがおとりになる、から、
 きをうしなったベオにいさまをつれてタルシスにもどりなさいって」
「残った、の……? セラフィさんと?」
「セラフィおじさまは、かならずいきてふたりでもどる、
 ペリドットねえさまにあいしているって、つたえてくれ、って」
「!!」
 ガーネットとペリドットの質問にしゃくり上げながらローズが答え、セラフィのその伝言にペリドットは目を見開いて口元を両手で覆った。見る間に涙が目に溜まり、零した彼女は、一瞬にして血の気が引いた顔を歪ませて声を震わせた。
「ひ、ひどい、そんな、今まで一度も言ってくれた事無い、のに、人づて、だなんて、そんなのいやぁ……っ!」
 そうなのだ。セラフィはペリドットを妻に迎えたが、これまでに一度も彼女に愛していると言った事が無かった。勿論その想いは十分過ぎる程持っているけれども、単に言うのが恥ずかしくて伝えた事が無かった。よりによって初めて伝えたのが人伝で、しかも生きて帰るかどうかも分からないという状況であれば、そのまま遺言となってしまう可能性だってある。お腹の子供の顔も見ずに逝ってしまうつもりなの、と泣き崩れそうになったペリドットの手を掴んだガーネットは、気丈な声と強い瞳で言った。
「大丈夫、大丈夫よペリドットちゃん、セラフィ君はちゃんと言う為に帰って来るわ」
「う、うぅ、」
「ローズ、セラフィ君は必ず戻るって言ったのよね?」
「は、はい」
「だったら必ず戻ってくるわよ。セラフィ君はクロ先生と違って絶対に嘘を言わないから」
「………」
「クロ先生もセラフィ君も、何度も死線を潜って帰って来てるもの。今度もちゃんと帰って来るわ。だからそんなに泣かないの。
 私達は笑顔で迎えなきゃいけないんだから、目を腫らしていてはだめよ。泣くなら帰ってきた二人におかえりって言った後ね」
 ガーネットは、ペリドットとローズにゆっくりと言い聞かせる。それと同時に、自分にも言い聞かせていた。何度も樹海に繰り出しては死んだ冒険者を埋葬する事を生業としていたセラフィが必ず生きて戻ると言ったのだ。ベルゼルケルを倒したクロサイトと二人で。ならば生きて帰ってくる、と、今の彼女達は信じるしかない。自分のせいで父と叔父を危険極まりない場所に残してしまった事、ギベオンに瀕死の重傷を負わせてしまった事に深い罪悪感と後悔の念を抱いたローズは、ぐっと涙を堪えてガーネットに頷いたペリドットに申し訳なさしか浮かばず、ごめんなさいと謝る事しか出来なかった。



 手は尽くしたけど意識が戻るかどうかは本人の気力次第だね、と、ギベオンの処置を終えた医者は、彼を自室に運びこんでこれ以上何も出来る事は無いからと言って助手を務めてくれたメディックを連れて診療所を辞した。ギベオンの顔色は担ぎ込まれた時よりも幾分か良くなったとは言え、まだ普段に比べれば血色が悪い。セラフィがアイスシザーズに大怪我を負わされ多量の出血をし、輸血を随分とした時に、万一の事も有り得るからとクロサイトはギベオンに怪我をしていない内に本人の血液を保管する事を勧めた。他人の血を貰うのも構わないのだが本人の血の方が拒絶反応も起こらず働くという事と、銀嵐ノ霊峰で手に入る様になった溶けにくい氷のお陰で保冷機の性能がぐんと上がった事が、自己血の保管を可能にした。その時の血液が役に立ったのだが、足りていないのかギベオンの顔は青かった。
 側に人が居て話をしていた方が良いよと処置を施してくれた医者が言ったので、ガーネットとペリドットとローズはギベオンの側で控えている。だがクロサイトとセラフィが戻ってきていない以上何を話して良いのか分からず、三人とも殆ど話さなかった。ローズは片方だけ残された耳飾りを、ペリドットはずっと身に着けているセラフィナイトのペンダントを、それぞれ握り締めてクロサイトとセラフィの無事を祈り、ギベオンの目がまた開かれる事を願った。ガーネットはそんな二人を眺めながら、いつも待つ立場だけどこれ程までにお早いお帰りを待ち侘びた事は無いわねと思っていた。
 どれだけの時間が経ったのか、そろそろ夕日が沈もうかという頃、不意に裏口のドアが忙しなく空いた音がして、三人は同時に弾かれた様に反応した。真っ先に部屋を飛び出して行ったのはペリドットで、廊下を駆け勝手口からも通じているダイニングに出ると、果たしてそこには見覚えのある男が二人、随分とぼろぼろの風体ではあったがお互いに肩を貸しながら立っている姿があった。
「…………お、かえり、なさい」
「……ただいま」
 やっとの思いでペリドットが震える声で言えた言葉に、黒い服を着た長身の男が――セラフィが青白い顔で頷きながら返事をする。服は至る所が破れ、引き千切られ、素肌が見える箇所もある。その彼が肩を貸し、また自分も肩を貸していたクロサイトは、ペリドットの後ろから走ってきたローズの姿に心の底からほっとした様な顔をした。
「とうさま、とうさま、ごめんなさいとうさま!」
「ああ、大丈夫だ、そんなに泣かなくて良いから」
 駆け寄ってきたローズを辛うじて抱き留め、あちこちの傷口が痛んで顔を歪めたクロサイトはぐっと痛みを堪えて大きく息を吐き、今にも大声で泣き出しそうなローズの両肩を掴んで腰を屈め、絞り出すかの様に言った。
「すまないローズ、後でいくらでも父親をする、いくらでも絵本の読み聞かせをしよう。
 だが今は、頼むから医者をさせてくれないか」
「……は、い」
「すまない、有難う」
 エレクトラが死んだ時、重傷者であるアルビレオが居る以上、彼は医者でなくてはならなかった。そして今、自分も大怪我を負っている時でさえ、意識不明のままタルシスへ送り返したギベオンが居る以上、医者でなくてはいけない。ローズは父のそういう性質を、共に過ごした日々は短いとは言え理解していた。だから、涙を飲み込んで深く頷いた。その返事に、クロサイトは真実すまなそうな細い声で礼を言うと、傷が痛む体を無理に立たせてダイニングの奥を見た。視線の先には、ガーネットが居た。
「おかえりなさい。自室に居るわ」
「ただいま。容体は」
「輸血も手当ても全部お医者様がしていってくれたけど、意識はまだ戻ってないわ。本人の気力次第ですって」
「そうか」
 まっすぐに歩けないクロサイトの体を支えながらギベオンの部屋まで付き添ったガーネットは、飽くまで感情を乗せずに事務的に彼に報告した。部屋の扉は開け放しにされており、中に入ったクロサイトは寝台の上で昏々と眠るギベオンの姿に一先ず安心しながら足早に歩み寄って青白い顔の上に掌を翳し、首筋に指を当てた。呼吸と脈拍を確かめているのだ。呼吸は安定し、脈拍もそこまでおかしな動きをしていない。布団を捲って体のどこを手当てされたのか、大きさはどうかを確認してからすぐに掛け直し、本当に後は本人次第だな、とクロサイトは呼吸の為に上下するギベオンの胸を睨み付けた。
「無事は確認出来たか」
 その時、ガーネットのものでもペリドットのものでもない女性の声が部屋に滑り込み、意識の無いギベオンを除く全員がその声の持ち主を振り返った。怪我を負った二人が持ち運べなかった武器や背嚢を置いた銀灰の長髪のその女性は、風止まぬ書庫で木偶ノ文庫の周囲を包囲する艦隊に対しての注意を促してくれた帝国兵士だった。
 彼女は、クロサイトとセラフィが監視者と排除者に苦戦を強いられ、追い詰められた時に、どこからともなく現れて何故か手を貸してくれたのだ。ローゲルも持っていたあの巨大とも言える剣で凄まじい爆音を鳴らす炎の攻撃を繰り出し、一撃で排除者を一体仕留めてくれた。ただ、その攻撃は一度出せば剣を冷却させねばならない様で暫くは普通の剣技を見せ、二人が応戦している手助けをした。そしてセラフィがもう一体の排除者を仕留め、その際に監視者から受けた傷をクロサイトが応急処置している間に冷却が済んだのか、再度爆音を鳴らして監視者を仕留めてくれた。それどころか、歩く事がやっとの二人の荷物を持ってタルシスまで同行してくれたのだ。そう、帝国兵が、である。街の民を驚かせてはいけないからとクロサイトが背嚢からアリアドネの糸を取り出しタルシスに戻る前に剣と鎧を木偶ノ文庫の広間に残し、捕らわれる事を覚悟の上で丸腰のままクロサイトとセラフィをこの診療所まで連れてきてくれた。
「監視者と排除者に手こずる程度の実力なら、先に進む事は諦めろ。命が惜しければ殿下の邪魔はせぬ事だ」
「………」
「ローゲル卿は私より手練れだ、貴殿達二人を守れなかったそこの男ごときではあの方の剣は防ぎきれまい。
 死なせたくなければ諦めるんだな」
「口を慎んで貰おう」
「なに……」
 感情をほぼ出さずに言った彼女の、忠告ともとれる言葉に、負傷した痛みで丸めた背中をぴんと伸ばし、クロサイトが強い口調で反応した。飽くまで冷静に、そして感情的にならぬ様にと顎を引いて彼女を射抜くその視線は鋭い。疲労の為に霞んだ目では離れた場所に立つ彼女の姿はぼやけて見えたが、それでもクロサイトはセラフィ達の向こうに居る筈の彼女を見据えた。
「君は確かに私と弟を助けてくれた上に、危険を冒してまでここまで連れて来てくれた。
 それに対してはギルドの代表者である彼の代理人として最大限の礼を言おう。
 だが、医者として今の言葉は聞き捨てならない」
「………」
「良いかね、人間というのは死ぬ最後の瞬間まで耳は聞こえている。今この時、意識の無い状態の彼でもだ。
 必死に命を繋いでこちら側に戻ろうとしている彼を、君は侮辱した」
 ギベオンは、幼い頃より両親から受け続けた仕打ちと罵声のせいか、とにかく自分を卑下する癖がある。タルシスに来た当時、クロサイトは何度も彼の口から「僕なんかが」「僕ごときが」という言葉を聞いた。その度に注意すると縮こまってまた謝っていたのだが、最近は少しずつ自信がついてきたからか、その言葉を殆ど聞かなくなっていた。それが今、彼女によって言われてしまったのだ。意識は無くとも聞こえている筈の彼女の言葉を果たしてギベオンはどう捉えたか、クロサイトには分からない。
「私は医者だ、傷病人を守る義務がある。
 君にそのつもりは無くとも今の彼には君の言葉が体に障るのだ、お引き取り願おう」
「そうしよう。……貴殿も早く傷を手当てする事だな」
「ああ、治してから改めて君に礼を言いに行こう」
「……ふん」
 自分は招かれざる客なのだと知っている彼女は、何の反論もする事無くクロサイトの言葉に目を僅かに細めてからその流れる様な銀灰の髪を翻した。無骨な鎧を纏わぬ彼女の体は細く、とてもあの巨大な剣を操るとは思えない。だがクロサイトもセラフィも紛れもなく彼女があの剣を振るい、凄まじい剣技を繰り出し、自分達を助けてくれた姿を見た。彼女がどれ程の鍛錬を重ね、どれ程の苦労を味わったのか、窺い知る事など出来なかった。
 そんな彼女を磁軸まで送ると言ったガーネットは、迷惑そうに断る彼女の背をぐいぐいと押しながら本当に磁軸まで連れて行った。自分が付き添う事でタルシスの冒険者含む者達に見知らぬ彼女への不審感を和らげようとしているのだろう。そう解釈したクロサイトはどっと疲れが出て倒れそうになったものの、辛うじてセラフィと自分の怪我の手当てを済ませた。そしてぼろぼろの衣服を着替える為に自室に戻ったが、着替えてもギベオンの容体が気になるからと彼の部屋で仮眠をとる事にした。ただ、ローズが離れようとしなかったので彼女も連れて入室すると、先に着替えを済ませたらしいセラフィが部屋の壁に背を預けて床に座り込んでおり、その膝の上にはペリドットが小さく肩を震わせながら夫に抱き着きながら座っていた。
「ちゃんと面と向かって言ったか?」
「……ほっとけ」
「そうだな、聞くのも野暮だな」
 調度品として置かれた椅子に座って膝に娘を乗せたクロサイトは、セラフィがペリドットに伝えてくれとローズに託した言伝を直接自分の口から言ったかどうかを尋ね、気まずいやら気恥ずかしいやらの顔で睨んできた弟の言葉に肩を竦めた。ペリドットはセラフィと同じく気恥ずかしいというのもあるし、泣き顔を見られたくなかったので、抱き着いたまま離れずにいた。彼女にしてみれば妊娠したと分かった直後に遺言とも思える言伝を寄越されたのだから、この程度の事は許して貰わねば納得がいかない。

『大事な言葉は、ちゃんと貴方の口、から、直接私に、言ってください、
 な、何で人に言わせるんですか、なんで』
『すまなかった、言う為に戻って来た、だからそんなに泣かないでくれ。愛している』

 泣きながら責めたペリドットを宥め、彼女の柔らかな頬を筋張った手で包んで顔を寄せて言い聞かせる様に伝えたセラフィの鳶色の瞳は、揺らぐ事も泳ぐ事も無く紫水晶の透き通った瞳を真っ直ぐ見ていた。それだけで丸め込まれてしまうのは甘いかも知れないが、普段からそう口数も多くないセラフィが言ってくれたし、何より五体満足で生きて戻ってきてくれた事に免じて許してしまった。
 そんなセラフィ達も意識が戻らないままのギベオンの容体が気になったので、結局はこの部屋に戻って様子を見ている。クロサイトもローズを膝に乗せて、側から離れようとはしなかった。暫くして戻ってきたガーネットは店を引き続き近所の女性と従業員に任せ、クロサイト達と共にギベオンの意識が戻るのを静かに待った。窓の外には、既にビロードの様な夜空が広がっていた。