その日の夜、ギベオンは体が休息を欲していたというのに、中々寝付けずにいた。揺籃の守護者と戦い、ローズ達を庇った事により全身の疲労はかなり大きなものであるのに、戦闘後の興奮のせいなのかそれともまた別の原因があるのかは分からないのだが、睡魔が訪れてくれなかった。こういう時は無理矢理寝るよりも少し気分を落ち着けた方が良いと分かっている彼は、夜空を見ながら少し散歩でもしようと寝台を降りて自室から出た。だが、ダイニングから明かりが漏れているのを見て、まだ誰かが起きているのだろうかと首を傾げた。今日は全員疲れているからと、皆早々に自室に引き上げ就寝した筈だ。モリオンも泣き疲れて目を腫らしており、食事が終わると決まりが悪そうにすぐ充てがわれている部屋に戻ってしまったから、誰も起きてはいないと思われた。誰か明かりを消し忘れたのかな、と、ギベオンがそっと覗くと、静かなダイニングにぽつんと一人でペリドットが裁縫箱を机に置いて縫い物をしていた。
「ペリドット、寝なくて良いの?」
「あ、ギベオン。そっちこそ」
「ちょっと眠れなくて……縫い物?」
「うん。明かり点けてるとセラフィさんが眠れないから、ここでしてるの」
 手元の針を止めて笑って見せたペリドットは、血色も良く元気そうだ。恐らくこの診療所に居る誰よりも元気だろう。元から体が丈夫であるからなのか悪阻も全く無く、具合が悪いという事も無いそうで、女将さんの食事が良いからかなとよく言っている。食事もそうだがこの診療所は緩やかな丘の中腹にあるので、運動するには差し支えない。妊娠している身でホムラミズチとも戦っていたのだ、腹の中の子供は余程丈夫なのだろう。
「今回も随分激しい戦いだったんだねえ……ジャケットぼろぼろだもん」
「肩口のところはワールウィンドさんとの時だね」
「もう。無茶しないでって言ってるのに」
「無茶しないといけない事が多いんだ。大目に見てあげてよ」
 セラフィのジャケットは相変わらず破損が多く、ペリドットが嫁いできてから廃棄せざるを得なくなったものも数枚ある。毎回同じ型を仕立屋に注文するのは、もう体がジャケットのどの部分に何が入っているのかを覚えているから、だそうだ。今ペリドットが繕っているものは一月程前に新しく仕立てたもので、また新しい収納の内ポケットを追加してもらったそうなのだが、ギベオンはよくそんなに場所を覚えられるな、と思う。彼は一度決まった収納場所を覚えると、中々変更出来ないからだ。腰巻きのポーチにしても、ズボンのポケットにしても、これは何を入れる場所、という認識をしているので、変更してしまうと咄嗟に手に取る事が出来ない。感心しながらそう言うと、セラフィは人には得手不得手があるからお前はお前の出来る事をやれる範囲内でやれば良いと言った。常人よりも対応力が乏しい性質をよく理解した上での言葉に、ギベオンも素直にはいと言ったものだ。
「ギベオンもだよ。今日もインナー駄目にして帰ってきたじゃない」
「僕は庇うのが仕事だから……ローズちゃんが大怪我してない事に免じて許してよ」
「そうだけど……ただでさえ少ない人数で探索してたのに、負担大きくしちゃってごめんね。
 ワールウィンドさんの呼び掛けに応じてくれる帝国兵さんが沢山居たら良いね」
「ペリドットはここで皆を待っててくれるのが仕事だよ。
 モリオンも手伝ってくれる事になったから、あんまり気に揉まないでね」
 針を進める手を再開させたペリドットが手元を見ながら顔を曇りがちにさせたのを受けて、ギベオンは何の含みも無い素直な気持ちを口にする。大事な時に抜けてしまってごめんなさい、と妊娠が分かった時に頭を下げた彼女だ、責任感は強い。そんなペリドットを労る様に、ギベオンは小さく笑んでみせた。
 足の骨折によって迷宮への探索に出る事が出来ないローゲルは、当面は辺境伯の客人として過ごす事となったが、拠点は以前と変わらずセフリムの宿屋に間借りしている部屋のままにした。怪我人ではあるが入院する程ではないし、木偶ノ文庫に赴いて自分に賛同する兵士達への呼び掛けをし、タルシスに来たなら彼らのまとめ役もせねばならない。ウロビトやイクサビトを受け入れたタルシスの住民や冒険者達とは言え、やはり今まで敵対していた帝国の者が出入りする様になれば反発もあろうし、欺き続けたローゲルを中心としてたむろしていれば怪しまれる事もあるだろうけれども、帝国の中にも世界樹の力の発動に反対する者も居るという事を示さなければならないというローゲルの強い意思により木偶ノ文庫での召集が明日から始まるそうだ。
 そしてモリオンであるが、彼女は引き続き診療所に留まり、ローゲルの代わりにギベオン達と共に探索に出る事となった。足の傷もほぼ治り歩いたり走ったりするにも支障は出なくなった事と、バルドゥールの暴走を止めたいという自らの希望もあるし、また同じ思いであるローゲルの願いも受けて、ギルドに迎え入れられた。ギベオンとしてもこれから先の探索は更に厳しくなっていくと予想もついたのだが新しい人員を探して共に探索してもらうという事が自分の性質上無理だと分かっていたので、僅かとは言え知っている人間が加入して貰える事は有難かった。それに加えて、ローゲルやモリオンが操るドライブは連発出来ないけれども一発の威力が凄まじい。ペリドットが抜けた今、ローズも方陣を張っている間や共に歩いている時は大地の気を分けて貰って皆の傷を癒やす事が出来るが、大きな怪我や解毒、麻痺の解消などの処置はクロサイトでなければ出来ず、それらを一手に引き受ける身であるが故に攻撃に参加出来ない事も多くなってきた。だから、それなりのダメージを叩き込めるモリオンの加入は心強かったのだ。
 ただ、彼女は人との交流に慣れていないので、指示には従うが少し距離を取らせて欲しいとの条件を出した。魔物と遭遇して戦闘となれば手を尽くすし協力するけれども、仲良く肩を並べて歩くという様な事を経験してこなかったから戸惑って自分のペースが乱れてしまう、と言った。様々な思惑が入り乱れる王宮の中で少女の時分から過ごしてきたモリオンは、他人とのコミニュケーションが上手くとれない大人になってしまっていた。だが、クロサイト達にとってみればギベオンがまさしくそういうタイプの人間であったから、特に問題は無いと思われた。放っておいて欲しいのだなと思った時は皆ギベオンを一人にして無闇に話し掛けたりしなかったし、逆に誰か側に居た方が良いなと判断したらクロサイトが付き添って茶でも飲みながら雑談するという対処をしていたので、君にも同様の対処をするとクロサイトが予めモリオンに伝え、彼女も了承した。
「……ねえ、ギベオンは、これから先どうしたい?」
「先って……どういう事?」
 流れとは言えモリオンに入ってもらえたのは大きいな、と思いつつ、ペリドットの様に取っ付きやすい性格の女性ではないので上手く連携出来れば良いんだけど、と考えていたギベオンは、不意に尋ねられたその質問に首を傾げた。ペリドットは他人と目を合わせて話す事が苦手なギベオンに気を遣って目線を合わせない様にジャケットの裾のほつれを確認しながら、そのまま続ける。
「ギベオン、前に言ったよね。世界樹の近くまで行ってクロサイト先生にこの樹は燃えてないですよって教えたいって」
「……うん」
「その世界樹が、ああなっちゃったでしょ。ギベオンの目的が無くなっちゃったから」
「………」
「引くに引けないのは分かるの。
 巫女さんは助けないといけないし、バルドゥールさんは止めなきゃいけないけど、
 でもギベオンは本当に自分の意思でそうしたいって思ってる?
 自分が言い出したからって、責任感と義務感だけで進もうとしてない?」
 ペリドットは、金剛獣ノ岩窟でホムラミズチを討伐した後から次々に起こった目まぐるしい出来事の数々に、ギベオンがその流れのままに進んでいるのではないかと懸念していた。勿論、冒険者など様々な事情や理由を抱えた者がなる事も少なくないし、明確で崇高な意思を持っている者はあまり居ないだろう。賞金稼ぎの様に酒場での依頼をこなして糧にしている者も居れば、踏破された迷宮で採取出来るものを売って日銭を稼ぐ者も居る。ギベオンは宮廷騎士にはなったがキルヨネン預かりの身となっているので本国に戻らなくても良いけれども、正式に騎士の叙階を受ける為には戻らなくてはならない事、これまではただ世界樹の元にクロサイトを連れて行きたいというだけの理由でこの街に留まっていたという事を踏まえれば、無責任かも知れないが巫女の救出や世界樹の力の発動の阻止は他の者達に任せる事も出来るのだ。ギベオン達ではならないという事は無い。
 ペリドットのその言葉を受けて、ギベオンは少しだけ考えた。彼女の言いたい事は分かるし、なあなあで進める程甘い道程ではない。今後は一層強い魔物が出てくる事だろう。探索が命懸けであったのは今までと変わらないが、その中を自分の意思で進めるのかどうかとペリドットはギベオンに問うていた。
「……ペリドットの言う通り、多分、僕は成り行きに任せて帝国……木偶ノ文庫に行ったと思うんだ。
 巫女さんが攫われちゃったし、ワールウィンドさんも敵対しちゃったし。
 我儘言ってクロサイト先生達に一緒に来てもらってる手前、辺境伯さんの指示を辞退しますなんて言えなかった」
「うん……」
「でも、今はちゃんと僕自身が先に進みたいんだ。
 そりゃ、死ぬかも知れないって思うと本当に怖いよ。行きたくないなって思う事もある。
 だけど……」
「だけど?」
「……呆れられちゃうかも知れないけど、僕、やっぱり世界樹の近くに……ううん、底の方を見てみたいんだ。
 何があるのか知りたいし、そこに広がる世界を見たい。
 勿論、ウロビトさんやイクサビトさん達を助けたいっていうのもあるんだけど……
 僕の手はそんなに沢山の人は守れないし、そんな大それた事は出来ないから」
「……そっか」
 今のギベオンは、明確に自分の意思で先へ進む事を決めていた。クロサイトに世界樹は燃えていない事を伝えたかったというのは本心であるが、その目的が無くなったからと言って探索を止める事は考えた事は無かった。先にあるものを見たいから、自分の知らない世界をこの目で見たいから、そういう純粋な好奇心を今は持っている。この街に来た当時は考えもしなかったであろうし、また課せられた事を諾々と行動に移しているだけであったギベオンは、もう立派に自分の決定の元で行動出来る様になっていた。大勢の者の命が懸かっているのに不謹慎な、と言われるかも知れないけれども、ギベオンにはそれ以上でもそれ以下でもない思いしか無い。自分という盾はそこまで大きなものではないという自覚は十二分にあった。
「だったら良いんだ。ギベオンがそう思ってるなら、それで」
「うん。有難う」
 そんなギベオンの回答に満足した様に、ペリドットはしっかりと玉止めをした後に糸を鋏で切ると、漸く顔を上げて彼ににっこりと笑った。最近モリオンを迎え入れたとは言え、暫く一人で待つ日々を過ごしていた彼女にとって、考える時間は多かったのだろう。気遣いの出来るペリドットの事だ、随分と気に揉んでいたんだろうとギベオンも思った。
 まだクロサイトの患者でしかなかった頃、丹紅ノ石林でウーファンを説得した後に戻った診療所で、ギベオンが今夜と同じ様に眠れず部屋から出るとダイニングでペリドットがセラフィのジャケットを繕っていた。その時も、彼女はこんな風に話をしながらギベオンのやりたい事を聞き、確かめ、今後の方針を一緒に考えてくれた。本当に良い盟友に恵まれた、と、ギベオンは再度この街に来てからの幸福を噛み締めた。
「それに、良かったね、モリオンが一緒に来てくれる様になって」
「あ、うん、僕の性格からして今から誰かを探して加入してもらうって事出来そうにないから、本当に助かったあー」
「それもあるんだけど。目が赤碧玉に似て綺麗なんでしょ?」
「……… ………え、な、何……」
 話している内に落ち着いてきて、そろそろ眠ろうかなと思っていると、針を仕舞ってジャケットの状態を確かめていたペリドットがおもむろに尋ねた事にギベオンは目を丸くした後に一気に赤面した。確かにモリオンに対してそのような事を宣ってしまったが、ペリドットが「たまたま」部屋の外でそれを聞いてしまった事を知らないギベオンは何故それを知っているのかと明らかに狼狽してしまった。赤面と共に体内の電流が溜まり、僅かに髪が逆立つ。ギベオンが緊張したり、恥じらったりしている時に見られる反応だった。
「モリオンも、帝国に居た時に鉱物学を習ったんだって。色々お話出来たら良いね」
「う……うん……」
 あまりからかってもギベオンが混乱するだけだと分かっているのでそれ以上は言及せず、ペリドットは差し障りの無い話題にすり替えた。だがギベオンはまだ顔を赤くしたままで、結局自室に戻っても暫く寝付けなかった。



 揺籃の守護者との戦いから一夜開け、訪れた統治院は、普段よりも慌ただしく多くの者が走り回っていた。その中の一人の職員がクロサイトを見て、辺境伯が執務室でお待ちだと伝えてまた走り去った姿を見て、世界樹が枯れた事はタルシスにとって一大事件なのだと他国出身のギベオンにも思わせた。統治院を訪れた五人の中で、世界樹に慣れ親しんでいないのは彼だけだ。クロサイトもセラフィも、ローズやモリオンだって幼い頃からあの巨木を見ながら育ってきた。だからこそ、ギベオンよりもショックが大きいのだろう。
 執務室でいつもの椅子に座るのではなく、立ったままギベオン達を迎え入れた辺境伯はいつもと変わらず腕に愛犬のマルゲリータを抱いていたが、表情に普段の笑みは無く、目の下には隈があった。眠れていないのかもしれない、とクロサイトは思った。無理もないだろう、世界樹を取り巻く様々な出来事がこの数日で一気に起こってしまったのだ。
「……そちらの女性かね? クロサイト君とセラフィ君を助けてくれたモリオン君というのは」
「そうです。ワール君の姪にあたるそうで」
「何と……奇妙な縁もあるものだ。その節は、私の優秀な部下を二人も助けて頂き本当に有難うございます」
「……ああ」
 ギベオン達を迎え入れた辺境伯は、まず真っ先にモリオンに対して頭を下げた。排除者から襲われた彼女を保護してタルシスに連れ帰り、その事を辺境伯に報告した際に名も伝えていたが、ローゲルの姪であると伝えるのは初めてであった為に辺境伯も驚きの表情を見せた。ギベオンもローゲルからモリオンが姪であると教えられた時は驚いたのだから、当然の反応だろう。ただ、モリオンは礼を言われ慣れていないという事、更に窮地に立たされた者を手助けするのは当たり前の事だという認識がある為に、辺境伯の礼に対して無愛想な返ししか出来なかった。それでも様々な冒険者と接してきた辺境伯は特に気にする風でも、機嫌を損ねる風でもなく、ご協力感謝する、と言った。
「本日からこの五人で探索に行きます。今後の指示を戴けますか」
 そして今日からの方針を仰ぐべく、クロサイトではなくギベオンが尋ねると、辺境伯はうむ、と頷いてみせた。
「では確認しよう。今我らがなさねばならぬ事はただ一つ、世界樹の力の発現を止める事だ。これについて、諸君らも異論は無い事と思う」
「はい、無いです」
「我がタルシスの兵士達も同じ思いだ。
 それで、異変のあった世界樹に向かわせたキルヨネン君達から知らせがあった。
 枯れた世界樹は脆くなり、中腹より上が倒壊したが、これにより世界樹の内部にウロのような物が発見されたそうだ。
 そしてそこから気球艇による侵入が可能で、現在はタルシスの兵を先行させ内部の調査を行っている。
 諸君は兵士と合流し状況を把握、然る後に世界樹の底へと向かって貰いたい」
 ギベオン達が揺籃の守護者を破壊したのはつい昨日の事であるのだが、彼らがタルシスに戻り診療所で体を休めている間に既に倒壊した世界樹の調査は始まっているらしく、恐らく辺境伯は状況把握の為に徹夜で情報収集をしていたのだろうと思われた。キルヨネン達も十分な睡眠は取れていないだろう。早い内に交代してやった方が良いな、とセラフィが一人ごちたのを聞いて、クロサイトも頷いた。彼らは睡眠の大切さを嫌という程知っているからだ。
 辺境伯は、そんな二人の小声の遣り取りに小さな苦笑いを見せた。クロサイトもセラフィも、他人を優先して自分を後回しにするという癖を持っている事を把握しているし、現在は探索の最前線に身を置いているのだから、くれぐれも無理はしないで欲しいのだが、という思いが籠った苦笑だった。
「やってもらいたいことは二つある。巫女殿の救出と、世界樹の力の発現の阻止だ。
 皇子とは……諸君らの話を聞いた限りでは、戦いは避けられぬ様に思えるな」
「出来うる限りの事をしたいとは思っていますが……」
「最終判断は現場の諸君らに任せよう。勿論、全責任は私が負う所存だ。諸君の健闘を祈る」
 辺境伯がバルドゥールの事について言及すると僅かにモリオンが反応したのを受け、ギベオンも顔を曇らせ衝突は避けたいとの考えを示す。そして、判断を自分達に委ねてくれた辺境伯に改めて感心した。木偶ノ文庫にまだ侵入出来ていない事を報告した時も、辺境伯は有事の際には私が全ての責任を負う覚悟があると言った。領主というものはそういうものだと、はっきりとした声で宣言した。責任の在り処は自分にあると言い切ったのだ。こういう人が上に立つ器を持っている人なのだ、とギベオンは統治する者の姿を見た気がして、最善を尽くしますと言った。
「あの……へんきょうはくさま、おそらはもうじゆうにとべるのですか?」
「うん? ああ、帝国の船団は姿を消した。
 話によると、世界樹に何かあった時は撤退するよう皇子から厳命……言い付けがあったそうだ。
 世界樹の力が解放されたら何者も、その力からは逃れられぬ……そういうことなのだろう」
 それまで黙ってクロサイトの隣で話を聞いていたローズがおずおずと尋ね、辺境伯もその疑問に答えた。南の聖堂で質問され、難しい言葉をローズにも分かる様に言い換えたローゲルの様に、辺境伯も噛み砕いた表現をしてくれたお陰で、ローズも神妙そうな表情でこっくりと頷く。彼女はウロビトだ、世界樹の力がどれ程強力なものなのかの言い伝えを聞きながら育っているのだから、その顔付きになるのも当然の事と思われた。そんなローズを、モリオンは複雑そうに見ていた。



 磁軸を使い、絶界雲上域に移動したギベオン達は、まず視線の先に世界樹が無い事に全員が沈黙した。タルシスに来て一年も経っていないギベオンでさえそこに世界樹が無い景色に違和感を抱くというのに、子供の頃から慣れ親しんできたクロサイト達はいかばかりであったか、ギベオンには計り知れないのだが、皆の顔色を見れば少しは分かった。普段から表情を極力変えぬ様に努めているセラフィでさえ眉間に皺を寄せており、いくら察する能力が低いギベオンでも理解出来た。ローズに至ってはクロサイトの白衣の裾を握り締めてぎゅっと泣くのを我慢している。それ程までに世界樹は彼らにとって生活に根付いていたものだったのだ、と、ギベオンは漸く実感した。
「――殿下は」
 磁軸から世界樹のウロへと向かう気球艇の中で、沈黙を破って口を開いたのはモリオンだった。彼女は自分に集まった視線に怖気づく事も無く、ただまっすぐに進行方向を見ている。
「殿下は、幼い頃から帝国に蔓延る病を常に間近で見てこられた。
 汚れた大地を浄化し、病に怯えずとも良い暮らしを民に齎す為に何を成すべきか……それだけを考え、陛下が戻られなかった王宮で過ごされた。
 十年もの間、お一人で世界樹に向き合われ、病に喘ぐ民達を助けられない苦しみに苛まれ続けた」
「………」
「……殿下のお心の内は、私などに分かる筈もないが……ひょっとすると、世界樹を恨んでいらっしゃったのかも知れないな」
「……だから、からせたのですか?」
「さあ、な。どのみち、世界樹の力を発動する前段階であの樹は枯れる。それを本当に望まれたのか……私には分からない」
 モリオンはそう言ったきり口を噤んだが、クロサイトにはその後にずっとお側に居たのに、と続けたかったのだろうと思われた。バルドゥールと彼女の間に愛情が介在しているのかなど知る由もないけれども、少なくともモリオンには父や叔父の代わりとなってバルドゥールを守らねばならないという義務感があっただろう。その義務感を愛情と勘違いする程、モリオンはもう幼くはない。……否、幼いままで居させて貰えなかった筈だ。木偶ノ文庫の地下三階でモリオンがバルドゥールの側女であると言っていた帝国兵の言葉を鑑みるに、王宮の者達は彼女を早々に「少女」から「女」にしてしまったのだろう。
 再び流れた重苦しい沈黙を耐えた一行は、漸く世界樹が聳え立っていた場所に到着し、気球艇からその場を覗き込んだ。中ほどから倒れてしまった樹の中から人の声が風に混ざって聞こえ、側にはいくつかの気球艇が停められているあたり、辺境伯が派遣したのであろうタルシスの兵士達が居るのだろうと予測された。ギベオン達も気球艇を降ろし、そのウロを辿って更に降りて行くと、想像もしていなかった様な古い遺跡が眼前に広がった。石造りの壁にはまるで意思を持っているかの様に至る所に木の根が伸び、不思議な様相を晒している。
「……モリオン?」
 正面に見える、同じく石造りの巨大な扉の前では数名の兵士達が構造を調べていたのだが、その内の一人がこちらに気が付き、モリオンの名を呼んだ。木偶ノ文庫で話した帝国兵と同じ黒光りする鎧を着用しており、ローゲルがバルドゥールを止める為に動いていると聞いた者達が自主的にこの場まで来たのかも知れなかった。既にタルシスの兵士達と共同で扉を調べている辺り、大きな衝突は無かった様だ。
「スピネル、お前も叔父……ローゲル卿に賛同してくれるのか」
「ああ。殿下に諾々と従うのみが忠誠ではないと、漸く決意出来たから」
「そうか……」
 モリオンがスピネルと呼んだその帝国兵はしっかりと頷いてバルドゥールを止めようとする意思を見せており、モリオンも幾分かほっとする。彼らにはバルドゥールを止める切っ掛けを作る事が出来なかっただけで、犠牲を払ってでも世界樹の力を発現させようとする考えに疑問を持つ者も一定数居たのだろう。だからこうやって、誰に言われた訳でもなくここにやって来た。
「貴方がたがモリオンを助けてくださったそうですね、有難うございます。
 彼女は木偶ノ文庫で病に罹った技師達に食事を運んだり、話し相手になってやったりしていたのですよ」
「え、そうだったの?」
「余計な事を言うな。私の事は良い、その扉は開かないのか」
 クロサイトとセラフィを手助けした事によりモリオンが監視者と排除者に襲われた事は知られているのか、スピネルが軽く頭を下げる。その後に聞かされた彼女の木偶ノ文庫での行動に思わずギベオンは尋ねてしまったのだが、モリオンはきまりが悪そうな顔をして不思議な紋章がある扉を指差した。中央に黄色、上に紫、下に緑、右に赤、左に青の、掌の様な紋章が描かれた丸い石板が嵌めこまれている。その紋章には見覚えがあり、ローズがクロサイトの白衣を引っ張った。クロサイトも娘の言いたい事を理解し、言葉も無く頷く。その紋章は、大地を繋ぐ谷間にあった石碑に刻まれていたものだ。そして、碧照ノ樹海や丹紅ノ石林、金剛獣ノ岩窟、木偶ノ文庫の地下三階にあった祭壇に刻まれていたものと同じものだった。
「残念ながら、固く閉ざされていて開きそうにないんだ。
 周囲の部屋に残された記録を調べたんだが、この奥が世界樹の中枢になっていて、強大な力が眠っている……と思われるんだが……」
 モリオンの質問に困った様な声音で答えたスピネルは、扉に手をかけ見上げる。扉周辺の、木が絡まりついた窓から部屋に侵入出来た様であるが、扉の向こう側には行けなかったという事なのだろう。これ程の人数が居ても開けられないとなれば、何かの仕掛けが施されているのだろうという事は想像に難くない。ギベオン達が神妙な顔付きで扉を見上げると、今度はタルシス兵士が口を開いた。
「この扉は王の石門という物らしい。扉を開くには、封印を施した四人の王の認証が必要との事だ。
 ここから西に行った先に王達が治める城があり、城にはそれぞれ玉座があるとの事だが……何者なのだろうな、四人の王とは?」
 首を捻る兵士の言葉に、クロサイト達も頭の上に疑問符を浮かべる。セラフィに至っては最初から考える気など無いのか、一人だけ離れて周囲の様子を見に行く始末だ。ここから西、と言えば、扉の周辺をもう少し詳しく調べてみる必要があるので彼のその行動は気が早いな、と思えば良いだけなのだが、それにしても全く考えようとしないのも凄い。そんな弟を尻目に、新しい羊皮紙を持ってきておいて良かった、とクロサイトは鞄の中からまっさらな一枚を取り出し、入ってきたウロからの道を書き込んだ。
「殿下は既にこの奥にいらっしゃるだろう。こんな所で足止めされるようなお方ではない」
 巨大な石の扉を見上げつつそう言ったモリオンの表情は固い。世界樹の力を発動させるという意思がどれほどの強さかを間近で見てきた彼女にとって、閉ざされた扉はバルドゥールの心の様にも思えた。資格が無い者以外は、認められた者以外は入る事が許されない――そんな無言の拒絶がその扉からは感じ取れた。孤独と戦い続けたバルドゥールを重ね合わせたモリオンは、決意したかの様に再度スピネルに言った。
「……私達は先へ行く。スピネル、お前達はここでの調査を任されてくれるか」
「良いだろう、道中気を付けて行け。皆さんもご武運を」
「あ……はい、有難うございます」
 既にタルシスの兵士とある程度打ち解けているらしいスピネルはモリオンの要請を受けてしっかりと頷き、ギベオン達にも軽く会釈する。タルシスの兵士もお気を付けて、とクロサイトに言っており、敵対したとは言え彼らの様に少しずつでも歩み寄れていければ良いと皆が思った。今後は帝国の者達がタルシスに移住するという可能性が高いので、まずは自分達が橋渡し役をしていける様になれば良いのだが、辺境伯以外の頭の硬い上層部を捻じ伏せねばな、とクロサイトは小さな溜息を吐いた。
「西に行った先に王達が治める城がある……って言ってましたけど、四つも城があったら僕達にも分かりそうなものですけどね」
「しかも城というからにはそれなりに大きいだろうからな。そんな広大なところを調べていては間に合わないな……」
 セラフィが先に調べて磁軸を発見してくれていた事によりこの遺跡へ来る事がぐっと楽になった訳だが、その磁軸を前にしてギベオン達は先程聞いた情報を確かめ合っていた。クロサイトは磁軸のある広間への道程を羊皮紙に書き、眉間に皺を寄せる。あまり足止めを食らっていては、バルドゥールが巫女を世界樹に取り込ませてしまうからだ。だがこの広間に来るまでに遭遇した蝶の魔物は鱗粉が人間にとっては毒になる様で、まともに食らってしまったギベオンは自身の自然回復力で何とかクロサイトの世話にならずに解毒出来たが、初めて見る土竜の魔物の鋭い爪に上腕を斬られ、これから先の道程が思いやられた。
「とうさま、おしろって、まえによんでもらったえほんにでてきましたよね。でくのふみくらみたいにおおきいのですか?」
「……木偶ノ文庫…… ……そう、そうだ、それだ」
 しかし、懸念してばかりでもいられないので取り敢えず進み始めた時、手を繋いでいるローズが自分を見上げながら言った言葉にクロサイトは思わず目を見開いて立ち止まってしまった。その声につられ、前を歩いていた三人が振り返る。
「今まで私達が踏破してきた迷宮は碧照ノ樹海、深霧ノ幽谷、金剛獣ノ岩窟、木偶ノ文庫の四つだ。
 この四つの迷宮はいずれも地下三階まである構造だから、城に匹敵すると言っても良い大きさにならないか?」
「……確かに、帝国の宮殿は木偶ノ文庫程の大きさだな」
「水晶宮もあれくらい……だったと思います」
 クロサイトの言葉を受けてモリオンが帝国の、そしてギベオンが水晶宮の王城の規模をそれぞれ思い出しながら比較する。おおよその誤差はあれども彼らの王宮は木偶ノ文庫程の大きさであり、それは他の迷宮の大きさともほぼ一致する。タルシスの兵士が言っていた、遺跡に残された記録に記されていた「王達が治める城」というのは、四つの大地に存在する迷宮の事と思われた。
「……だがここから西というより南じゃないか? その四つの迷宮は」
「南……あっ、そうです、南、そうだ!!」
 しかしセラフィだけは腑に落ちない様な表情で顎に手をあて、疑問を口にしたのだが、今度はギベオンが反応した。彼は磁軸の南、遺跡が聳え立つ方向を指差しながら興奮気味に言う。
「この遺跡からまっすぐ南に行くと木偶ノ文庫がありますよね?!
 木偶ノ文庫だけじゃなくて、南に一直線上に金剛獣ノ岩窟も深霧ノ幽谷も碧照ノ樹海もあります!」
「あ」
 その言に、モリオンを除く三人が目を見開いたと同時に、何故そんな事に今まで気が付かなかったのかと眼から鱗が落ちたかの様な顔をした。モリオンはまだタルシスに移ってから日も浅く、絶界雲上域以外の大地を殆ど知らないので、木偶ノ文庫以外の迷宮を知らない。いまいちぴんと来ていない様である彼女を見て、セラフィがクロサイトの鞄を指した。
「クロ、一旦地図を出せ。リオにも見せた方が良い」
「出す、出すからベオ君ちょっとその崖から離れてくれないか、見るだけで怖い」
「こんな時までお前……」
 セラフィの要請に対しクロサイトも応じようとしたのだが、いかんせんあと数メートル歩けば崖、という場所であるのでクロサイトが怯えて後ずさる。実は周囲が断崖絶壁と言っても良いこの遺跡に来てからというもの、クロサイトは地上から見れば地下であるにも関わらずその高さが恐ろしく、魔物と戦った時も生きた心地がせずに歩いている時は終始ポケットに手を突っ込んでお守り代わりのアリアドネの糸を握りしめていた。この人本当によく僕達連れて樹海に気球艇で行く事が出来てたなあと、ギベオンは彼に近寄りながら妙な顔になる。モリオンもクロサイトが高所恐怖症であると今知り、ギベオンと同じ様な顔をしつつも、石畳に縦に並べられた四枚の地図を覗き込んだ。その地図に、ギベオンは荒れた指先で場所を示す。
「ここの遺跡から順に南下して、これが木偶ノ文庫。
 銀嵐ノ霊峰にある金剛獣ノ岩窟、丹紅ノ石林にある深霧ノ幽谷、風馳ノ草原にある碧照ノ樹海。
 金剛獣ノ岩窟は入り口が二箇所あるから地図じゃちょっと分かりづらいけど、
 クロサイト先生が同じ縮尺で書いてくださってるからやっぱり一直線上にあるって分かるね」
「……ではここから西に行けば、木偶ノ文庫まで行けるという事か?」
「そうだと思うんだけど……とにかく行ってみない事には何とも……」
 モリオンに分かる様に地図上の迷宮の場所を指し示しながらゆっくりと指先を動かしたギベオンは、彼女からの質問に言葉を濁した。何故西に進めば南に位置する木偶ノ文庫に辿り着けるのかの説明は、彼には出来なかったからだ。それでもモリオンはそうだな、と同意してくれ、再度地図に目を落とす。彼女の目にはクロサイトが描いた雪の花や木炭の黒を上手く利用して描かれた光る木、大きな滝などが映っており、まだ見ぬ場所と風景への憧憬の色が宿っていた。
 地図を仕舞って再度歩き始めた一行は、昔は街であったのだろうと推測されるその遺跡の通路が不気味なまでに静まり返っている事に僅かばかりの緊張もあったのだが、魔物に遭遇した場所が崖の近くではない事に何となく安堵していた。クロサイトは本当に高い所が苦手なので、例えば気球艇に乗っている時に魔物と遭遇したりなどすると途端に動きが鈍くなる。金剛獣ノ岩窟で水場が凍った時でさえ足を竦ませていたのだから、今からあの石の扉を開いた先の事を考えると頭が痛いとクロサイトではなくセラフィが苦い顔をした。
 そして辿り着いた先、石の扉から見て西に位置する所に、不思議な入り口を発見した。デザインや色彩は封印されていた石の扉と似ており、周囲の建物とは明らかに異質で、中は白い靄がかかっていて奥が見えなかった。全員で顔を見合わせ、クロサイトは今まで通ってきた道を地図に書き記すと、指示を仰ごうかどうしようか考えあぐねているギベオンを見ながらローズの手をぎゅっと握った。君の判断に委ねる、という意思表示に、ギベオンもしっかり頷き、行きましょう、と言うと、まず自分からその通路へと足を踏み入れた。
 その通路は長く、また不思議な光と奇妙な空気があった。不安は無かったがどうしても慣れぬ空間の通路は自然と皆の足を速め、靴音が響く硬い地面を踏み締めている筈なのにどことなく足が浮いている様な奇妙な感じがした。ギベオンは元から歩いている時に地面の感触が掴めずについ必要以上に足音を立てて歩きがちで、それもクロサイトの指導により随分と落ち着いてきていたのだが、皆が浮遊感を覚えて早足で歩く程の所なのでまた足音が大きくなっていた。普段ならクロサイトもそれを指摘して指導するけれどもそれどころではなく、とにかく皆早くこの通路を抜けたいと無言で歩いた。
 どれくらい歩いたのか、時間にすれば殆ど経っていないが何時間も歩いたのではないかと錯覚し始めた頃に漸く出口の風景が見え、予想はしていたというのにその場所に足を踏み入れ、目の当たりにした全員が絶句した。
「……ねえ、モリオン、やっぱりここ……」
「……木偶ノ文庫だろうな」
 その光景を見たギベオンが、呆然としながらも辛うじて壁に近付き材質を確かめているモリオンに尋ねると、彼女も困惑した声音で答えた。紫の花をつける木が壁一面の書棚に絡まり、印刷物の匂いなど既に失われ石と埃っぽい匂いが漂うそこは、紛れもなく前日まで探索をしていた木偶ノ文庫だった。
「……ここ、見覚えとかあったりする?」
「似た広間は多いが……今通った通路は見た事が無い。知っている者は恐らくごく僅かだろうな」
 モリオンの顔に嘘偽りの色は微塵も見られず、バルドゥールの側で仕えていた彼女も知らないという事はほぼ知られていないと言っても良いだろう。木偶ノ文庫のどの辺りに出てきたのか分からないが、遺跡から不思議な通路で繋がっている事は間違いない。
 クロサイトはローズと繋いでいたじっとりとした手を離して鞄の中から木偶ノ文庫の地図を取り出し、三枚の羊皮紙を眺めながらぼさぼさで硬い髪質の頭を掻いた。
「ベオ君、君の感覚から推測して、今私達は木偶ノ文庫の東西どの辺りに居るのだ?」
「えっ……」
「推測で良いし間違っていて全く構わない。どの辺だろうか」
 迷いやすい深霧ノ幽谷で地図も見ずにさっきここ通りましたねと言ったり、外の景色も見えず方向感覚が掴み難い金剛獣ノ岩窟でも地下二階にあった大きな鱗を発見した時同じく地図も見ずに一階の大きな鱗の真下ですねと指摘したり、各大地の迷宮が一直線上に存在すると気が付いたギベオンなら何となくでも分かるのではないかと踏んでクロサイトが尋ねると、ギベオンは途端に狼狽した様な表情を見せた。幼少期の経験からか間違えてはいけないのではないか、誤ると叱責されるのではないかという怯えは未だ消え去る事は無く、その度クロサイト達は間違えても構わないと繰り返してきたのでギベオンの反応に対し特に疑問に思わなかったけれども、モリオンは初めて見る為に多少不可解そうに眉を顰めた。
「え……と……、さっきの遺跡の深さから言って、この辺、だと思います」
「ふむ……紙いっぱいに書いてしまったからこちら側にまだ空間がある可能性を失念してしまっていたな」
 ギベオンは木偶ノ文庫の地下三階の地図を持つと、その地図に書かれた祭壇から見て西をおずおずと指差した。それも、羊皮紙上ではない離れた場所だ。ローゲルから教えてもらった道筋しか記入していない為に空白が目立つ地図ではあるが、他の地図と同じ縮尺で書いてしまっているのでギベオンがここだと感じた場所はどうしてもクロサイトが書いた地図上には収まらない。タルシスに戻ったら書き直しだな、と思いつつ、間に合わせで裏に書く事にしたクロサイトが今居る広間を書いている姿を見ながら、セラフィがギベオンの肩を軽く叩いた。
「ワールは皇子が祭壇の奥に行ったと言っていた。
 だったら、皇子は巫女を連れてあの祭壇からここまで来てさっきの遺跡に行ったんじゃないのか」
「あ……」
「違うなら違うでまた新しく地図を作れば良いだけの話だ。
 過信は良くないがお前のその把握力は俺達の誰よりずば抜けている、自信を持て」
「……はい、有難うございます」
 確信を持てる訳でもなし、この切迫している状況で間違えていたりしたら、という恐怖にも似た焦りは、セラフィのその言葉で随分と薄れた様な気がして、ギベオンは頷きながら礼を言った。クロサイトが自分の事を友人と言ってくれたし、セラフィも同様の認識であると伝えてくれたとは言え、ギベオンにとってはまだこの二人は師という認識しか無い。
 東西のおよその位置を推測出来ても南北の位置までは分からず、とにかく進んでみようという事になり、一行は歩き始めた。これから先はまた自分達の力だけで地図を作りながら探索するのでかなり時間が割かれると思うと気ばかり焦るが、予測した通りに全ての迷宮に繋がっているとしたなら長期戦を覚悟した方が良いし、焦って急ぎ過ぎると隙だらけになり命に関わる怪我をしてしまう。ギベオンは金剛獣ノ岩窟を探索していた時の様な慎重さと、不謹慎かも知れないが好奇心からくる僅かな高揚を胸に秘めて先頭を歩いた。
 昨日まで探索していたエリアと違い、機械仕掛けの魔物は姿を見せなかった。だがギベオンの苦手な猫の姿の魔物は相変わらず生息しており、ホムラヤマネコではなく黒い毛並みで雷を発する爪を用いて彼らを苦しめた。またトンボの様な魔物やブルーワラビーと色違いの凶悪な魔物も居り、特にこの魔物――いつもの様にクロサイト達が勝手に名前をつけてブラッドナックルと呼ぶ様になったが――は厄介で、倒したプロトボーグから得た素材で工房で作って貰った大きな盾は揺籃の守護者との戦いで随分と傷んでいたので赤い拳を受ける度に軋んだ。
 そろそろ新しい盾を見繕った方が良いかな、と、思いながら、取り敢えず祭壇があった場所に辿り着けるか確かめてみようと遺跡から通路を通って到着した広間から東に進み続けていると、回廊の様な細い道を抜けた向こうに見覚えのある紫の紋章が刻まれた巨大な祭壇が鎮座している広間を見付けた。思わず皆で顔を見合わせたが、迷っていても仕方ないのでその広間に足を踏み入れると、祭壇の大きさにローズがぽかんとしながら口を開いた。
「……これがおうさまのぎょくざ、ですか?」
「城にはそれぞれ玉座がある……と言っていたな。昔の人間が玉座と表現したのかも知れないが……」
 ローズの言葉を受けて、モリオンがその祭壇へと近寄る。広間の右側にはくすんだ扉があったが今は全員祭壇へ関心が向いていた。見れば見る程図形が掌に似ていると思いながら何気なくモリオンが紋章に掌をかざすと突然紋章から光が放たれ、いくつもの歯車が回る様な異音が響き始めた。驚いたのはモリオンだけでなく祭壇の裏を調べていたセラフィ達も同じで、クロサイトは咄嗟にローズの肩を自分へ抱き寄せた。だが特に何かが起こる訳でもなく、暫くすると音は収まり静けさが戻った。
「……どこかで何かの変化が起きたか……、あの石扉にあったこれと同じ色の紋章が何か反応したかもしれないな」
「可能性はあるな」
 静まり返った広間の天井を見上げながら呟いたセラフィに、クロサイトも頷いて同意する。長い通路で繋がっていたのなら遺跡と木偶ノ文庫が連動していてもおかしくはない。昔の帝国の民は大掛かりなものを作ったものだ、とクロサイトは自分の手と紋章を戸惑いながら眺めるモリオンを見て思った。
「あの、とうさま、ここ」
「うん?」
「このとびら、よう……ようらん、の、しゅごしゃ? の、うしろにあったのににてませんか?」
「ん……、言われてみればそうだな、開くかな」
 肩に置かれた父の手を引き、ローズが指差した先には、先程まで関心が持たれなかったくすんだ扉だった。ローズの指摘通り、確かに揺籃の守護者と戦った時に奥に見えたものに似ており、クロサイトが扉に手を触れる。すると、今度は奥から何か大きな何かが動いた様な音が響き渡った。揺籃の守護者の背後にあった祭壇が動いたとしたなら、正真正銘ここは木偶ノ文庫の地下三階であると証明出来る。クロサイトは意を決して思い切り扉を開いた。果たしてそこには昨日死闘を繰り広げた大広間が広がっており、揺籃の守護者の残骸が散らばっていた。
「なるほど……ベオ君、やはり君が感じた通り、あの通路は木偶ノ文庫の西側にある様だ」
「あ……は、はい」
 地図を書きながら言ったクロサイトに、ギベオンはどもりながらも返事をする。褒めてもらえたと思うと嬉しく、また間違っていなかった事に対して心底ほっとした。
 セラフィが勘や第六感で戦闘時に動くのに対し、ギベオンは感覚で位置を把握する事が出来るのだが、当人達はその説明が上手く出来ず、何故そう動けるのか、何故位置が分かるのかと問われても答えられない。だがクロサイトは彼らのそういう特殊と言っても良い能力を高く評価しており、説明など出来なくても良いと考えている。幾度も足を運んだであろう大広間と遺跡からの通路があった方角を呆然としながらも交互に見ているモリオンは道中で遭遇した魔物と戦った時にセラフィが相手の死角に瞬時に入り込んで仕留めたり、何故それに反応出来るのかという動きで攻撃をかわしたりする姿に不可解そうな顔をしていたから、彼女の周りにはそういう者が居なかったのだろうし未知の存在なのだろうと予測はついた。彼らがそういう人間なのだと理解して貰うしかない。
「リオねえさま、ようらんのしゅごしゃは、おうさまなのですか?」
「は……?」
「おうさまのぎょくざがおしろにある、って、さっきへいしさんたちがおっしゃってましたよね。
 さっきのおおきなさいだんがぎょくざなら、ようらんのしゅごしゃだってすわれませんか?」
「言われてみれば……そうだが……王という認識は無いな……」
 ローズからの問いにはっとしたモリオンは首を捻り、口元に手をあてる。遺跡に残されていた資料には四人の王と城、玉座があるとの事が書かれていたそうだが、モリオンにとって王は皇帝アルフォズルであって揺籃の守護者ではない。難しい顔をして黙ってしまったモリオンとローズを見て、ギベオンははたと思い付いた様にクロサイトとセラフィに尋ねた。
「そう言えば、昔クロサイト先生とセラフィさんが倒した碧照ノ樹海の熊って、獣王、でしたよね?」
「うん? ああ、ベルゼルケルの事か。それがどうしたね」
「丹紅ノ石林の祭壇を守っていたのは、ホロウクイーン……女王、ですよね」

 ――あっちが獣王だったから、こっちはさしずめホロウの女王だな

「……あ」
「ホムラミズチと揺籃の守護者は王かどうかは分かりませんけど……可能性はあります、よね?」
 そうなのだ。二人が勝手に命名したとは言え、ベルゼルケルもホロウクイーンも王、あるいは女王という通称を冠する。ホムラミズチと揺籃の守護者は王と呼べるか分からないが、先程の祭壇を玉座に見立てたなら大きさは合う。なるほど、ベルゼルケルやホロウクイーンは倒した筈なのにいつの間にかまた別の個体が君臨していると他の冒険者から聞いた事はあるが、長らくの王の不在は城が混乱するだろうからな、帝国の様に、とクロサイトは納得していた。
「繋がっている事も分かりましたし、引き返して先へ進みましょう。
 木偶ノ文庫なら監視者と排除者みたいな魔物が居る事も考えられますから慎重に」
「そうだな」
 クロサイトがこの大広間までの地図を書き終わるのを待ち、一度タルシスに戻るのではなく先へ進むとの決定に誰も異論は無かった。ギベオンとしてはローズの体力だけが心配だが皆を庇うだけで精一杯であるから彼女の不調にまでは気を回せず、全てクロサイトに任せるしかない。連日の探索や戦闘によりギベオンでさえ疲労が抜けないというのに、方陣を張ったり印術を操ったりと、精神的に気を張りつめなければならない技を行使するローズの疲れを予想すると休ませてやりたいのだが、状況が状況なだけにそれも難しい。ギベオンだけでなくクロサイトやセラフィもローズを休ませてやりたいという思いだけはあるけれども、頑なにローズは自分も行くと言って聞かなかった。
 今日は早めに切り上げられたら良いんだけど、と思いながら、ギベオンはもう一人、懸念する女性を見た。
「モリオン、あの遺跡と木偶ノ文庫が繋がってる事、辺境伯さん達に伝えても大丈夫?
 ひょっとしたら王族の方々の秘密の抜け道かも知れないんだけど……」
「こんな状況だ、構わんだろう。帝国の者達が何か言ったなら私の名を出しておけ」
「僕の判断で開示しましたって言うよ。帝国の方々にとっても切迫した状況でしたからって」
「……好きにしろ」
「うん」
 離れた場所で一人佇んでいるモリオンに声を掛けたギベオンは、彼女が暗に開示の責任は自分が負うと言った事に首を緩やかに振った。王都などには限られた人間、例えばタルシスで言えば辺境伯であるし水晶宮であれば双臂王、及びその家族や一握りの側近だけが知る抜け道が存在する事が少なくない。あの通路は帝国の王族のみが知る通路であったとしたならば、その存在を公にする事は帝国にとってあまり好ましい事態ではないだろう。かと言って黙っておく訳にもいかないのでギベオンはせめてモリオンに同意を求め、そして彼女に責任は無い事を伝えた。それに対しモリオンは僅かに目を細めたが、折れた様に一度だけ頷いてくれたので、ギベオンはほっと胸を撫で下ろした。