不穏な音が、樹海に響く。その物々しい鐘の様な音は、タルシスに毎日時刻を知らせる鐘の音とは全く違ってギベオン達の不安を掻き立て、ローズは怯えてクロサイトの腰にしがみついた。そんな娘の頭を、クロサイトは黙って優しく撫でる。切り揃えられた髪は以前と比べて短くなってしまったがそれでも美しい事は変わりなくて、クロサイトの手櫛に一度も引っ掛かる事は無かった。
「……あの石扉の仕掛けが作動したのかもな」
「うん……、そうだね」
 暫くするとその音は止み、静まり返った空を仰ぎながら言ったモリオンに、ギベオンも頷いて同意する。嵐の夜を部屋で一人で過ごした時の様な、まんじりとした不安を皆が胸に過らせ、それはこれからの事を暗示しているかと思わせた。
 熱砂竜を何とか倒す事に成功したギベオン達は、その日は速やかにタルシスに戻り討伐した事をガーネットに告げてからまたすぐに体を休めた。かなりの体力の持ち主であった熱砂竜はギベオン達の体力も奪い去り、今度はセラフィが食事前に力尽きてダイニングテーブルに突っ伏して眠ってしまったくらいだ。巫女が攫われてからというもの怒濤の様な日々を過ごしているギベオン達はあまり心が休まらず、モリオンもバルドゥールが気にかかるのか表情が緩む事が少なかった。
 碧照ノ樹海の深部の探索に戻ると、タルシスの兵士達が後始末をしてくれたらしく、獣王の広間の惨劇の跡は綺麗に片付けられていた。クロサイトは錯乱していた兵士を懸念していたのだが、探索で留守にしている間に診療所に入ってもらっている病院の医者によると無事にタルシスに戻ってきたそうで、外傷はそうでもないが心の病が深刻なので暫くは入院させる事になったらしい。目の前で仲間が襲われ次々と喰い殺されたのだ、無理もないな、とクロサイトが言い、ギベオンは沈痛な面持ちでそうですね、としか言えなかった。熱砂竜と戦った時、誰も悲惨な姿にならずに済んだとは言え、ひょっとすると喰い殺された兵士達の様な目に誰かが遭っていたかも知れないからだ。モリオンの鎧が嫌な音を立てて砕けた時は本当に肝が冷えたし、防ぎきれずにローズに火球が飛んだ時も心臓が凍るかと思った。
 勿論、ギベオンが盾役だからと言っていつも庇えたり守れたりする訳ではない。アルビレオに教えてもらった魔物からの攻撃のいなし方で、庇いきれずとも軽減する方法も覚えたが、それでも深手を負わせてしまう事もある。その度に申し訳なくなったり、落ち込む事も少なくなかったというのに、何も出来ず誰かが目の前で殺されたりしたらと思うと本当に恐ろしくなるのだ。
 そんな不安を胸に渦巻かせたまま聞いた碧照ノ樹海のあの鐘の音は、ギベオンの心の内を見透かしているかの様でもあり、また表したかの様でもあった。否、ひょっとするとギベオンだけではなく、タルシスや帝国、ひいてはウロビト、イクサビト、皆の心の内にある言い表せない不安の音であったかも知れない。そんな事を思いながら、ギベオン達は一度タルシスに戻った後に磁軸を使って煌天破ノ都の石扉へと向かった。
 扉の前では数名の兵士達が何やら興奮気味に話し合っていたが、その中でただ一人冷静に扉を見上げていた帝国兵士が気配に気が付いたのか、ギベオン達を振り返った。
「君達か。無事で何よりだ」
「叔父……ローゲル卿、まだ足が完治なさっていないのにあまり無理をされては……」
 ギブスは外れたが未だ骨が繋がっていないローゲルは、砲剣を背に負い杖をついていた。揺籃の守護者との戦いで折れてしまった足は、無理をすれば完治する前に変形しかねない。モリオンの表情が曇った事を受け、ローゲルは苦笑して見せた。
「ここにはついさっき来たんだよ。この足じゃ、出来る事は少ないからな」
「………」
「それより、見てごらん。石門の印が輝き出した。これで王の認証は得られた様だね」
 モリオンの心配を和らげようとしたのだろうローゲルは、杖で扉を指して淡い光が発せられている紋様を示す。彼のその笑みには、どこか翳りが見受けられた。本来ならば自分が行かなければならなかったこの扉の向こうにこれから足を進める事が出来ないから、であろう。バルドゥールを止めたいという思いが恐らく誰よりも強い彼は、悔しさを決して表には出さなかった。だが、その翳りのある微笑がモリオンには遣る瀬無い。
「誰も先に進んではいないんですか?」
「この扉は君達が開けるべきだ、君達の力で封印を解いたんだからね。君達に全てを任せるよ」
 ここにたむろしている帝国兵士はローゲルの呼び掛けに応じた者達なのだろうが、タルシスの兵士も見受けられ、それなりの人数が居るというのに誰も扉を開けていない。不思議に思ったギベオンがローゲルに尋ねると、彼は飽くまでも主役は君達だと言わんばかりにゆるりと首を横に振った。モリオンが居るとは言え、帝国の問題を他国の人間に託さねばならないという現実はローゲルにとってもつらいだろう。鈍いギベオンにも、それくらいの事は分かった。
そして、ローゲルはモリオンに向かっておもむろに頭を下げた。
「モリオン、殿下を頼む。
 お前の方が分かっているとは思うが、殿下はもう一人では止まる事が出来ない。
 ……結局はお前に荷を負わせてしまった。すまない」
「そんな……どうか顔をお上げください。殿下をお止め出来なかった責任は私にあります。
 私一人ではどうにもなりませんが……、協力してくれる者達も居るのですから」
 皇帝アルフォズルにクリスが供として出立した時、父はモリオンに対し年の近いお前が殿下のお側に控えておきなさいと言った。古くから王家に仕える家柄の血筋である彼らにとって皇帝や皇帝に連なる者達は命に替えても守らなければならない者であり、一人残されるバルドゥールを守る者がほぼ居なくなってしまう中でクリスが託せる者は娘しか居らず、それこそ幼少の砌からそういう教育を施されてきたモリオンは何の疑問も無くはいと頷いたのだ。
 だがモリオンはその約束を果たせず、結局はバルドゥールの庇護の下に置かれなければならない程の境遇に見舞われた。少女であった彼女は子供のままで居る事を許されず、尊厳も奪われ辱めを受け続けた。それでもバルドゥールを守る剣として存在する為、自ら死ぬ事も出来ずに生き恥を晒しながらも淡々と修練を重ね砲剣を操る腕を磨きながら父や叔父を待ち続けてきた彼女は、本当はローゲルが戻って来た時に首を掻き斬り死ぬつもりであった。だがせめて赤碧玉を渡して詫びるまではと踏み止まり、渡した今も結局こうやって生きている。中々簡単に死なせてもらえそうにない、とモリオンがぼんやり思っていると、ローゲルからじっと目を見据えられた。
「そうだ、お前はもう一人じゃない。頼っても良い者達が居る」
「………」
「お前に死なれたら兄さんに顔向け出来ない。俺も悔やみきれない。だから死なないでくれ。必ず生きて帰れ」
「……善処します」
 モリオンの心の中を見透かしたかの様なローゲルの言葉は、彼女に小さな沈黙を与える。だが、辛うじて答える事が出来たその一言だけでもローゲルには十分だったのか鎧に覆われたモリオンの肩をぽんぽんと叩き、彼女の向こうで黙ったまま待っているギベオンを見て僅かに目を細めた。守ってやってくれ、と言われた気がして、ギベオンもこっくりと頷いた。守り切れるとは言い切れないし、自信がある訳でもない。それでも身を呈してでも守る事が出来れば良いと心底思い、ヒルデブラントを抱え直した。
 扉に対峙し、ギベオンが手を翳す。すると、真ん中の紋様を取り囲む四つの紋様が作動するかの様に連動して回転し、扉が開いた。ここまで大掛かりな封印を施さねばならない程強大な力を持つ世界樹の核に近付く為の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「―――?!」
 突如、その扉を潜ろうとしたセラフィがローゲル目掛けて斬り掛かり、咄嗟に反応したローゲルは杖で彼の剣を受け止めた。鈍い音がその場に響き、一気に緊張が走る。驚いたのはローゲルだけではなくギベオンやモリオン、クロサイトでさえ驚いたし、その場に居た兵士達も目を丸くした。力の加減で本気ではないと分かるが、しかし本当に何の前触れも無かった為に気でも狂ったかとローゲルは内心焦ったのだが、そんな彼にセラフィは口角を上げて笑った。
「やはり仕込み杖か。抜かり無いな」
「……君、それ確かめる為に斬り掛かったのか? 斬り掛かるより聞いてくれよ、乱暴だな」
「そうか? お前のその反応を見せ付けるにはちょうど良いだろう」
「………?」
 セラフィが指摘した通り、ローゲルがついていた杖は中に突剣が収められている仕込み杖だった。ローゲルは骨折した足では重たい砲剣を扱う事は出来ないからと、ベルンド工房の主人に頼んで店に在庫してあった突剣で仕込み杖を作って貰い、現在はそれを護身用として携帯している。本当に見た目は単なる杖にしか見えず、細い刀身のジラハボックでなければ無理であっただろう。
 その仕込み杖から刀身を引き抜き、ローゲルはセラフィの剣を受け止めたのだ。セラフィの素早い動きに反応出来たのはさすがであり、骨折しているからと言っても容易に倒せる相手ではない。だがそれを誰に見せ付けると言うのだ、と、セラフィのその行動に驚き砲剣を構えかけたモリオンや他の兵士達も訝しんだのだが、セラフィは剣を収めながら一人の帝国兵に目を向けた。
「そこのお前。随分と機を窺っている様だが、この男は簡単には殺せんぞ」
「な……」
「何の目的があるのかは知らんが邪魔だと思ったら俺がお前を始末する、良いな」
 その帝国兵は明らかに動揺した様子で何か反論しようとしていたのだが、セラフィが何も言わせず黙らせた。大方、ローゲルが戻ってきた事により地位が危うくなった者達による刺客であるのだろうが、ローゲルとて手練の者であるからそう簡単に命を狙える筈も無い。賛同すると見せ掛けて何とか隙をつき、殺せなくとも二度と砲剣を持てぬ体にする事を命じられた者が居る様だ――と、セラフィは先日孔雀亭に寄った帰りに行き会った港長から聞いていた。港長は現在アルビレオを連れて帝国の技師達とよく情報交換をしており、その中には木偶ノ文庫でセラフィが話した技師も居る様で、本当にローゲル卿を殴ったのか、面白い男だとその技師はセラフィを評し、教えてくれたのだという。帝国にも様々な思惑が飛び交い、混乱し、ローゲルが戻りバルドゥールを止めようとしている事で皇子に諾々と従い上層部に居た者達が保身の為に裏で動いているという事らしい。こんな切迫した状況でか、とセラフィは呆れたし、信用して良い情報かどうかも分からなかったのだが、自分達がこの場に来てもほぼローゲルから視線を外さなかったその帝国兵に違和感を抱き、仕込み杖であるかどうかの確認と反応の速さ、急襲への対処の的確さを知らしめた。モリオンを含めた他の帝国兵は全員、ローゲルを守る為に各自の得物に手をかけたというのに、その男だけは一歩退いたのを見て、どうやら刺客が居るというのは本当の様だと判断した。
 ローゲルとて、男の視線に気が付いていなかった訳ではない。バルドゥールが粛清し損ねたのか、それともまだ駒として使えると思って捨て置いているのか、どの道上層部の誰かの息がかかった者だろうとは思っていたし、それを見越しての仕込み杖だったのだが、何とも乱暴な確認方法と釘の刺し方だ。容易に手が出せない事を知らしめ、この場の全員を味方にする事は出来たので御の字ではあるので、ローゲルも呆れはしたが怒りはしなかった。
 帝国の政争になど、セラフィは全く興味が無い。だが今、ローゲルが居なくなれば自分達の負担が大きくなる。そう考え、セラフィはモリオンがその男に砲剣を向けようとするのを制し敢えて始末するという言葉を使った。彼は、標的を仕留める事を得意とする夜賊だ。帝国兵士相手に真正面から挑めば苦戦するだろうが、夜闇に紛れての始末なら造作もない。セラフィだけでなくローゲルや他の帝国兵の視線を集めたその男は、観念したかの様に力無く頷き砲剣を地面に置いた。こんな諍いも大地が汚染され病が蔓延して人々の心が擦り減ってしまっているからだとしたなら、早くそれを緩和する事が出来たら良いな、とギベオンはその光景を見ながら思っていた。



 煌天破ノ都は各迷宮の深部で対峙してきた魔物も多かったので対処には然程手間取らなかったが、ここにのみ生息しているらしい黄色の体毛の獅子の爪や牙には皆が大小の怪我を負った。普段は眠って過ごしているのか、遭遇する際は大体眠っているので物音を立てない様にやり過ごす事が多かったが、他の魔物との遭遇も多くその物音で目覚めて襲われてしまうので、ギベオンが負う怪我は自然と大きなものとなっていった。否、これまでも彼は幾度と無く大怪我を負い、その度にクロサイトの手当てとローズのウロビトの力に加え自身が持つ脅威の回復力で何とか持ち直していたのだが、先を急ぐ探索をしていれば完治など待っていられる筈もなく、塞がりかけていた傷口が再度開くという事もここの所多くなってきた。
 断崖絶壁と言って良い場所の探索もまた難儀なもので、何か得体の知れない粘液を吐く巨大な赤い花の魔物が徘徊している場所など高所恐怖症のクロサイトは足が竦んで上手く進めず、結局セラフィが担ぎ上げて走り抜けるという失態を娘に見られる羽目になった。水辺が苦手なセラフィは高い所は平気であるのでこういう時は助かる、とギベオンは思ったが、モリオンはセラフィに下ろされても崖の高さを思い出しているのか意気消沈しているクロサイトを奇妙な顔付きで見ながらも特に何も言う事は無かった。
 ただ、運の悪い事にその後に例の大獅子と遭遇してしまい、やり過ごしたい所ではあったのだが狭い通路であった事とその先に進みたかったという事もあり、戦わざるを得なかった。鋭い爪と牙から繰り出される攻撃をギベオンが挑発して引き受けていたけれども、壁を蹴り頭上から襲ってきた大獅子の牙からモリオンを庇った時に頭部にそれなりの怪我を負ってしまい、彼女とセラフィが何とか仕留めてくれたもののその日はタルシスに急遽戻った。診療所で手当てした方が良いとクロサイトが判断したからだ。すみません、折角進んだのに、とギベオンが謝ると、人命が先だ、とだけクロサイトが言い、皆言葉にはしなかったが同意する様に軽く頷いていた。
 ギベオンはタルシスに来た当初から、大怪我をすると必ずと言って良い程夜中に高熱を出す。クロサイトの患者であった頃は大怪我という程のものは負わなかったが、冒険者として銀嵐ノ霊峰を探索し始めた頃からは度々探索を切り上げてタルシスに戻らなければならない程の傷を負う様になり、バブーンから受けた裂傷が恐らく初めての大怪我で、手当てをした後に経過を見ようとクロサイトが寝る前にギベオンの部屋を訪れるとかなりの熱に魘されていた。これはつらかろうと一晩側についていたクロサイトは、その後も時折大怪我を負ったギベオンの側で何度か休んだ事がある。熱で朦朧とする意識の中で、ギベオンは昔両親から受けた仕打ちの事をクロサイトに話したし、こういう怪我をして熱を出すとその時の夢を見るんです、とぽつんと言った。熱で魘されているのではなく、夢の内容で魘されているらしかった。ただ、ここ最近は両親を忘れてきている様で、魘される事も少なくなってきていた。
 この日も熱が出るだろうからと、クロサイトは自分の仕事を全て済ませてギベオンの寝台の側で椅子に座って休んでいたのだが、案の定ギベオンは発熱したので額に乗せたタオルが温くなり盥の水にさらして冷やしていると、眠っているギベオンが苦しそうに呻き始めた。また悪夢を見ているのか、とクロサイトが振り向くと、ギベオンは布団を握り締めて尋常ではない汗をかき、真っ青な顔で目を閉じたまま叫んだ。
「あぁ、うぁ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
「?!」
 何に対しての謝罪かは分からないが、閉じた目尻からぼろぼろ涙を零して背が寝台から浮いているのではないかと思う程に体を反らせて叫んだギベオンに、クロサイトは驚きながらもタオルを盥の中に放り投げて彼を覗き込む。頭に巻いた包帯には、縫合した箇所からのものであろう血が滲み出ていた。
「何だどうした、起きたまえ! 夢だ!!」
「ああぁ、うぅ、うーっ、う、うぐ……っ」
「うおっ……」
 起こした方が良かろうと、クロサイトも叫んでギベオンに目を覚ます様に呼びかけると、彼は目を開けたものの口元を歪ませ体を捻ったので寝台から落ちない様にとクロサイトが咄嗟に体を支えたのだが、そのままシーツの上に嘔吐された為にクロサイトの白衣も汚れてしまった。何が起こったのか、誰がそこに居るのかを漸く理解したらしいギベオンは白衣を汚した事にも真っ青になったが、胃から込み上がってくるものを抑える事が出来なかった。喉を焼く激しい酸、鼻を突くツンとした臭い、夕食は少ししか食べられなかったので吐くものはあまり無かったが水分を摂ったせいでかなり水が出た。
「ぅげ、げぇ……っ う、あぁ、す゛、す゛みま゛せ……うぶ、」
「良い、構わないから全部吐きなさい」
「う゛ぅ、うげえぇ……っ」
 止めようにも全く治まらず、濁った吐瀉物でシーツや自分が着ている服、そしてクロサイトの白衣が汚れていく様は熱と痛みではっきりしない頭でも把握出来、ギベオンは申し訳なくて謝ろうとしたのだが更に吐いてしまい上手く言葉が出せなかった。クロサイトとしても背を擦ってやりたかったが、ギベオンは触られたり撫でられたりする事が苦手であるから、広い背に手を伸ばす代わりにその体勢のまま甘んじて汚れる事を選んだ。医者をしていると汚物を見る事などしょっちゅうなので、吐瀉程度で目くじらを立てる事は無い。暫くの間はそのまま吐かせ、自分の腕を支えにして咳き込んでいるギベオンが落ち着く頃合いを見計らった。
「落ち着いたかね」
「は゛、い゛、あの、」
「君の服を替えたら私も着替える。着替えたら隣の部屋で寝たまえ」
 やっと落ち着いたのか、少し咳をしつつも体を起こして寝間着の汚れていない箇所で口元を拭ったギベオンが謝ろうとしていたのを先に制し、クロサイトは短く指示を出す。体が熱いのでまだ熱は下がっていないし、吐いた事によって余計に汗をかいている様で、縫合した箇所にそれなりの負担がかかっている事は明白だった。いくらギベオンが怪我からの回復が早いと言ってもせめて一晩は安静にさせたいところではあるので、手伝うとは言わせたくなかった。
「で、でも」
「怪我人は何もしなくて良い。寝台とその寝間着を片付けたら私も行くから」
「………」
「返事は」
「はい……」
「よろしい」
 案の定、自分の失態なのだから自分で片付けると言い出そうとしていたギベオンに釘を刺したクロサイトは、有無を言わさず親指で隣の部屋を指した。この診療所は元々他所から来た患者を受け入れ、一定期間共同生活を送る為の施設であるから、部屋は余っているし定期的に掃除している為にこんな風に突然寝台が使えなくなったという時でもそこまで困らない。風呂場も大きいから風邪が長引き熱が下がらないという近隣住民を短期入院させる事もある。クロサイトの言に素直に従ってもぞもぞと寝台から下り、着替えをタンスから引っ張り出して汚れた寝巻きをシーツの上に置いたギベオンは、申し訳なさそうな顔でぺこりと頭を下げて部屋から出て行った。
 寝台のシーツと汚れた寝間着、そして白衣は裏庭のポンプ井戸から水を汲み上げ、洗濯用の盥に水を張って軽く濯いだ後に再度水を張って漬け置きにする。踏み洗いした方が良いだろうと判断したが、夜中に踏み洗いする程クロサイトも体力が無かったのでそのまま放置した。この白衣もそろそろくたびれてきたから新調するか、と考えていたので、ちょうど良かったかも知れない。診療所で緊急手術を執り行う事もある為にシーツが血や汚物で汚れるなど珍しくも無く、自分の体力温存も必要であるし妊婦のペリドットも元気であるとは言え極力水に浸からせたくはないのでクリーニング業を営む近所の住民に任せようとクロサイトは汚れた布団を裏庭に放置したまま自室へ向かった。
 慣れた自室では小さなランタンの明かりでも足元に何の不安も無く、そんな中でクローゼットを開けると病院から支給された白衣が随分と少なくなっていた。クロサイトはタルシスの医師会に所属している医者であるから病院から年に数枚白衣を支給して貰えるのだが、度重なる激しい戦闘は自前の白衣もかなり消耗し、ギベオンのインナーやセラフィのジャケット、ローズのワンピースの買い換えは抜かり無かったが、すっかり自分の白衣の買い足しを忘れていた。明日探索に出る前に注文しておかなければな、と自然と顰め面になったクロサイトは、机の上のメモ帳に白衣の発注とだけ乱雑に書いた。
 先日自分でアイロンをかけて入れたままであった白衣は朝に袖を通すとして、濃い紺色のカーディガンを羽織り、先程のメモを破って先にダイニングに行き、連絡用のコルクボードにピン留めしてからギベオンを休ませた部屋へ向かうと、僅かに開いた扉から明かりが漏れ出ていた。扉はきちんと閉めろと言いたいところではあるが、その隙間がギベオンの不安を表している様で、咎めまいと思いながらクロサイトが入室すると、件のギベオンは寝台の上で膝を抱えて座り込んでいた。
「まだ休んでいなかったのかね」
「あ……、……眠れなくて……」
 熱は体力を擦り減らすものであるからもうとっくに眠っているものと思っていたが、余程夢見が悪かったのかギベオンはまだ顔を真っ青にしたまま起きていた。体を横にして貰うだけでも楽になるけれどもクロサイトは決して無理強いはせず、先程ギベオンの部屋でもそうしていた様に椅子を寝台の側まで引いて腰掛けた。ギベオンが点けていたランタンの明かりだけで十分なので、クロサイトは自分が持ってきたランタンの明かりは消した。
「盛大に吐いたのだ、体力も消耗しただろうに」
「そうなんですけど……その……」
「何だ」
「……寝るのが怖くて……」
 話し相手になってやった方が良いと判断し、クロサイトは諭す様にギベオンに話し掛ける。見た夢が恐ろしいものであった事と出血のせいで血が足りていない事が重なり、ランタンの明かりの中でも未だ彼の顔は青いと分かる。褐色肌のギベオンでも血の気が無い時は多少白く見えるし、普段は肌艶が良いのに今は萎れて見えて、余計に元気がなさそうに見えた。あまり両親の事に触れたくはないのだが折檻される夢でも見たのかと聞くかどうかをクロサイトが逡巡していると、ギベオンは膝を抱えた手にぎゅうと力を込めて背を一層丸めた。
「……守れなかった夢を、見ました」
「……死なせてしまったのかね?」
「ま、守れなくて、目の前で、た、食べられて……」
「なるほど、それでごめんなさい、か」
「い、生きてきた中で、一番怖い夢、でし、た、ぅ、うぅ……っ」
 どうやらギベオンは熱砂竜と大獅子という、鋭い牙を持ち襲い掛かってきては喰い殺そうとしてくる魔物との戦闘が相次いだ事と、熱砂竜の犠牲になった兵士の体の一部が脳裏に焼き付いてしまった為に、自分以外の誰かが喰い殺された夢を見てしまったらしかった。クロサイトは誰が、とは聞かなかったし、また聞くつもりもなく、大きな体を縮こまらせて膝に顔を埋めて震えながら泣くギベオンを無言で見ていたのだが、暫くすると啜り泣きの声が多少小さくなったので、膝の上で手を組んでぽつりと呟いた。
「私も食われる者を見捨てて逃げた事がある」
「……え……」
「まだ若かった頃に、碧照ノ樹海でな。熊に食われる冒険者を見捨てて逃げた」
「………」
 そうなのだ。クロサイトがまだ今よりも若く、師に勧められてセラフィと二人で碧照ノ樹海を探索していた頃、魔物との戦いには不慣れであったし技量もあった訳ではなかった為に、今では一人でも容易に相手をする事が出来る森の破壊者に遭遇した冒険者達が襲い掛かられ助けを求めて悲鳴を上げていたというのに、助ける事が出来なかった。それどころか、嫌な音を立てて喰われる者達に背を向け、セラフィの腕を掴んで全速力で逃げてしまった。破壊者の塒が多い樹海の地下二階は逃げる道を少しでも間違えれば数頭に襲われてしまう上に、その巨体からは予想もつかぬ程の足の速さで捕まり、塒へと運ばれ喰い尽くされてしまう。水っぽい音が混ざった断末魔は今でもクロサイトの耳の奥に残っており、セラフィは冒険者を辞した後に就いた特殊清掃の仕事の中でその現場に足を運ぶ度に花を手向けた。
 ホムラミズチの犠牲となったエレクトラ達の悲惨な遺体を前に感じた、自分でなくて良かったという汚い思いを、クロサイトはずっと昔に味わっている。だが自分でなくて良かった、弟でなくて良かった、と彼が思ってしまった事を誰も咎められはしないだろう。それでもクロサイトは、医者としてそれなりの信頼をされている自分にはこんなにもどす黒くて汚いものが内部に渦巻いているのだと叫びたくなる時もあり、周囲の理想の押し付けに潰されそうになる時もある。三十路を半ばも過ぎているというのにあの頃と変わらない未熟者だと心の中で自嘲した彼は、何と言って良いのか分からない様子で呆然としているギベオンに微かに笑って見せた。光の加減では、ひょっとするとギベオンよりも青い顔をしている様に見えたかも知れなかった。
「……怖い夢だったな。もう何も不安になる事は無い。寝なさい」
「………」
「寝て傷を治して、正夢にしない様にしてくれたまえ」
「……はいっ」
「良い返事だ」
 ギベオンは今まで、誰かを見捨てて逃げた事は無い。患者であった頃でさえペリドットを自分の後ろに隠して自身を盾とし、逃げ出した事が無かった。クロサイトが常についていたので守られている安心感もあっただろうけれども、それを差し引いてでも逃げ出した事が一度も無いというのは称賛に値する。そんなギベオンをクロサイトはある意味尊敬もしていたから、冒険者に復帰してくださいと頭を下げられた時に承諾したのだ。
 促されるままに横になり、目を閉じたギベオンが寝息を立て始めたのはそれから五分も必要とせず、クロサイトは新しく汲んできた盥の中の水にタオルを浸して搾り、ギベオンの額に乗せてやる。乗せる前に手をあてるとまだ熱は高かったが、表情は先程と打って変わって穏やかなものだった。自らの過去を殆ど話さないクロサイトが吐露した苦い思い出に共通の苦しみを見出し、二度とそんな思いをさせなくても良い様にと決意してくれたのか、それはクロサイトには分からないが、少なくとも今夜の発熱でもう魘される事は無いだろう。ランタンの明かりに浮かび上がるギベオンの寝顔に一安心したクロサイトは腕を組んでから俯いて目を閉じた。短時間だけでもここで眠るつもりでいた。



 まだギベオンの怪我の具合は良いとは言い切れないが、もたもたしているとバルドゥールが世界樹に巫女を組み込んでしまうからと、翌日の朝から探索を再開させた一行は、今まで通り余計な戦闘は避け逃げられる魔物からは逃げ、どうしても戦わなければ進めない時のみ魔物と対峙した。この煌天破ノ都は今までの迷宮に比べて一筋縄ではいかず、抜け道がかなり分かりづらい為に今まで肉眼で見付ける事が出来ていたローズでさえも錫杖を引き摺りながら地脈を探り、少しでも流れがおかしいと感じた所を見つけ出して抜け道を探していた。幸いにも出入り口に近い場所に見付ける事が出来たのは大きかったし、巨大な花が徘徊している箇所はクロサイトが中々足を進める事が出来なかったので彼だけでなく全員がほっとした。あの場所を通る度にセラフィが担いで走り抜けていたら、ただでさえ体力がそこまで無い彼にとってかなりの負担になるからだ。
 そして先を急ぐ道中、衝撃的なものを目の当たりにした。石畳の上に無造作に転がっている、植物の蔦が絡まった黒っぽい何かが扉の役目を果たしている小型の可動橋の向こうに見え、この遺跡に絡む木の一部だろうかと近付いた時に全員が絶句した。その「何か」は、人であったからだ。巨人の呪いによる病がかなり進行している帝国兵であるのだろう、身に纏った黒い鎧には体から芽吹いた蔦が幾重にも絡まり、体を締め付けているかの様にも見える。以前ペリドットに聞いた、彼女の故郷一帯に自生しているという絞め殺しの木の異名を持つ樹木の事を思い出し、ギベオンは思わずぶるりと身を震わせたしクロサイトは無意識の内にローズの肩を抱き寄せていた。
「あっ、モリオン、」
 だが、重篤である帝国兵を見て立ち竦んでしまった彼らをよそに、モリオンだけは動じず静かにその兵士の元へと歩み寄った。彼女は魔物と遭遇した時にすぐに臨戦態勢に入れる様にと砲剣をずっと手に持っていたが、背のホルダーに仕舞うとゆっくり膝をつき、既に目が見えていないらしく譫言の様に何か呻いているその兵士の肩をそっと抱き上げた。
「……ぁ……う、ぅ……」
「……姿を見ないと思ったら、殿下の供としてここに来ていたのか。あの方は、奥に進まれたのだな?」
「あぁ……ぁ……」
「そうか。本来なら私が務めるべきであった役を、お前が果たしてくれたのだな……。
 すまない、楽にしてやりたいところではあるが今暫く耐えてくれ。きっと助けてみせる。きっとだ」
「あ……ぅ……」
 モリオンは、まるで植物の様になってしまっているこの兵士を知っていた。病に冒されつつもバルドゥールに仕え、世界樹の力の発現の際には命を捨てる覚悟のある者達の中の一人だ。煌天破ノ都や木偶ノ文庫の深部の事などを一切知らなかったモリオンではあるが、ギベオン達と行動を共にしていなかったならばバルドゥールが巫女を連れこの遺跡まで来た時にその背を守る供としてついて来ていた筈で、ひょっとするとこんな風にここに転がっていたのは自分かも知れないと彼女は他人事の様に思いながらも、木の様に固くなった同胞の体を厭う事無く抱き締める。病に罹りもう助からない状態にまで悪化した何人もの兵士を、民を、モリオンはこうやって抱き締めてきた。感染を恐れて近寄らない両親を呼びながら、腕の中で死んでいった幼い子供も居た。単なる自己満足だとしても、彼女はそうせずにはいられなかったのだ。
「どうした、ギベオン殿達。……む、その者は……!」
 呆然と立ち尽くし、モリオンが重篤者の肩をあやすように抱きながら語りかけている姿を見ていたギベオン達の背後から知った声が聞こえ、その聞き慣れた声に振り向くと、数名のイクサビトを連れたキバガミが居た。世界樹が枯れた事、帝国皇子が巫女を連れこの煌天破ノ都に姿を消した事を受け、自分達も力になる為にと探索に来ていた様だ。彼はモリオンの腕の中の帝国兵を見るや否や駆け寄り、医術の心得がある、任されよ、と言ってモリオンの腕から引き取り、手慣れた様子で具合を調べた。イクサビトの里で病に苦しむ者達を診ていたのはキバガミだ、そういう意味ではクロサイトよりも詳しく調べる事が出来る。信頼して良いのか、と目線で問うてきたモリオンに、クロサイトは黙って頷いた。
「巨人の呪いの影響が強いと見える。ここに残すのは危険だ、この者は拙者が責任を持って連れ出そう。
 そこのお嬢に感染っても難儀であろう、お主達は先に行け。
 ここより奥に居るならバルドゥール皇子とやらはこの程度では済まぬやも知れぬ」
 イクサビトの里で身体が出来上がる前の子供が罹りやすいと言っていたキバガミは、ここでもローズを優先して病人から離そうとしてくれた。それに、目も見えておらず、自力で動く事も出来なくなっているその兵士は、彼の言う通りこのままこの場に残しておけば緩やかに死ぬだけであろう。これ程までに症状が酷ければまず助からないが、同じ死ぬにしてもせめて痛みや苦しみ、恐怖を和らげてやる事が出来るとキバガミは今までの経験で知っており、同行していたイクサビト達に良いな、と言い、彼らも頷いた。モリオンはそんなキバガミ達を見て、僅かに肩身が狭くなった様に思えてしまった。
 この先に居る筈のバルドゥールはキバガミ達イクサビト、ローズ達ウロビトを、植物の様になってしまったこの帝国兵の様にする事もやむ無しとして世界樹の力の発現を試みようとしている。そうと知ってもなお、キバガミは帝国の者を助けようと心を砕き、まるで己の家族であるかの様に大事に抱えて立ち上がった。この場に捨て置く事も、斬り捨てる事も出来るというのに、彼らはそうせずこの場は危険だからと退避させる役を買って出た。帝国の上層部にこんな情の厚い者など居らず、皆自分の身の安全だけを考え、モリオン達の様な一般兵士に荒廃した土地の見回りと病に罹った民の世話をさせた恥ずべき者達だ。モリオンは申し訳なさと羞恥でキバガミ達を直視出来ず、右腕を押さえながら俯いてしまったのだが、そのキバガミから声を掛けられた。
「お主は、帝国の者か?」
「……ああ」
「そうか、主に背いてでも道を正そうとするその心意気や良し。
 お主も同胞がこの様な姿になってつらかろうが、その者達は頼りになる。気を確かにな」
「………」
 端から見れば人間なのか樹木なのか判別もつかない兵士をしっかりと抱き上げ、強い眼差しで言ったキバガミの言葉に、彼の後ろに控えている精鋭なのであろうイクサビト達は同意する様に力強く頷いた。モリオンとてギルドに加入してまだ一月も経っていないがギベオン達の腕前は十分に信頼出来ると思っており、それは帝国の伝承にある屈強なイクサビトにとっても共通の認識であると彼女は今知った。タルシスに居る時は締りのない顔をしているギベオンも、探索に出て盾を構え鎚を握り締めれば途端に精悍な顔付きの戦士となる。まだ幼く、多少舌足らずとも思える口調で話すローズでさえ、巨大な熱砂竜を前にしても逃げ出す事無く方陣を張り印術を操り続けた。風止まぬ書庫で呟いた、外の世界は分からない事だらけだという言葉を、モリオンは今一度口の中で呟いた。
「では、確かに預かった。タルシスの病院に隔離室があると聞いた故、そちらに連れて行こう」
「病院の者が渋ったら辺境伯の名を出しておいてくれるかね。
 私の名ではそう効力は無いが、辺境伯の名ならば黙るだろうからな」
「了解した」
 ギベオンが提唱した、木偶ノ文庫に残っていた巨人の呪いの病に罹った技師達の受け入れを行っているタルシスの病院は、どういう理由でその病に罹るのかの原因が分からない為に病室を隔離して彼らを入院させている。気味悪がって近寄らない医者も居るのだが、アルビレオの経過を観察した一風変わった医者も中には居り、そういう医者達が症状を詳しく調べていた。今ではイクサビトの里で病を和らげてきた者達や、帝国から避難してきた医者達が提携を組んで治療にあたっている。
 この兵士はそういう者達でさえ絶句してしまうかも知れないし、受け入れを拒否されるかも知れない。だが病に罹った者を見た以上、クロサイトは放っておく事が出来ない。そして、言葉は悪いが末期のサンプリングの記録を取れるだろうという思惑もあった。現場の判断に委ねるという辺境伯の言葉を拡大解釈させてもらう事として、この帝国兵は何としても受け入れてもらわねばならんとクロサイトは思っていたが、そんな思惑など知らぬモリオンはただ彼らに対して頭を下げた。その彼女の顔が身長の低さ故に見えたローズには、かなり蒼白になっている様に見えた。



 件の巨大な花が徘徊しているフロアはまだあり、相変わらず絶壁が続く煌天破ノ都での探索は、セラフィがクロサイトを担いで走り抜ける事が多くなってきた。その度にギベオンやモリオンがローズを抱えてその後を追い掛けており、そろそろクロサイト先生も高所恐怖症を克服しませんかとぐったりしたギベオンが言う始末であった。それでも何とか封印されていた石扉の正面から抜けられる通り道をローズが見付け、開通させた事により、探索はうんと楽になった。ギベオンがどうしても花の魔物が徘徊するフロアに埋まっている鉱石を掘り出したいと頼み込んだお陰で煌天破ノ都の東側の地図はほぼ出来上がり、モリオンと二人で採掘している間にセラフィがクロサイトを宥めていてくれたので翡翠軟玉は勿論、遺跡を構築している材質が今まで見た事が無いものであったのだが頑強な壁故に持ち出せなかったけれども、その場の壁材は剥がれかけていたので持ち帰る事が出来た。この壁材はベルンド工房の職人達も首を捻るばかりで、さて何を作れるか腕の見せ所だなと主人は笑った。
 そして明日はいよいよ西側に進もうという事になった夜、クロサイトは就寝前のモリオンを診察室へと呼び出した。以前排除者から受けた足の傷の経過を診たい、というのが表向きの理由であったが、本当の理由はまた別のものであった。
「君がこの診療所に来てから暫く経つが、何か不自由な事はあるだろうか。他人との共同生活だから窮屈な事も多かろうが」
「……特にこれと言って無い。必要以上の干渉をして来ない事には感謝している」
 骨折していたローゲルもまだ多少杖をつかねばならないとは言え随分と歩行に安定が見られる様になっているので、それより以前に負傷したモリオンも全く不安の無い歩き方をしているのだが、痛みだけが長引く怪我もある。それ故まずはきちんと足の傷跡の経過を診ながら、クロサイトは不便が無いかどうかの質問をした。ギベオンと同じで他人に触られる事を苦手としているらしいモリオンは多少眉を顰めながらも、自分の要望に応えて基本的には一人にしておいてくれる事について礼を述べた。様々な事情を抱えた者が集うタルシスだ、その程度の要望は可愛いものだと思いながら、クロサイトは彼女の足を開放してから本題に入った。
「どこか他に、悪い所は無いかね?
 砲剣を振るっている時に動きが鈍る事があると、フィーが言っていた」
「………」
「一瞬の鈍りが命に関わる事もある。どこか痛めているなら教えてくれないか」
 いくらモリオンが女性としては背丈が高く、砲剣を振るうには恵まれた体格であるとは言え、腕力は男のそれとは比べものにならない。それでも腕力の無さをカバーするかの様な重たい一撃を繰り出す彼女の動きが、ほんの少しだが鈍る事があるとセラフィは早い段階で気が付いた。だが口下手であるとの自覚もあり、また他人との接触を極力持とうとしないモリオンに対し直接言う事は憚られ、俺が言うと気を悪くするかもしれんからお前が言って診てくれ、と言われたクロサイトは、自分の質問に沈黙した彼女に、何かあるなと勘付いた。しかし強引に口を割らせる事はなるべく避けたいので、根気強くモリオンが言ってくれるまで自分も沈黙したまま待った。
「……クロサイト殿、他言無用に頼みたい事がある」
「医者には守秘義務がある。聞こう」
 そして暫しの静寂を自分達の間に流した後、諦めた様に小さな一息を吐いたモリオンが口止めを頼んできて、クロサイトは医者として秘密は守ると頷いた。彼は今まで患者として接した者達の秘密を第三者に漏らした事は無く、今回も信頼を持たれた上で吐露してくれるのであろうから、必ず他言はしないという意思があった。その彼の頷きに、モリオンは覚悟を決めた顔付きで着ていた服を躊躇いなく脱いだ。
「………!」
 服の下から現れたのは、ギベオンの体にあるものとよく似た不自然な痣や傷痕、砲剣のオーバーヒートによるものであろう火傷の痕だった。しかし、クロサイトが目を見開いてしまったのはそれらの痕に、ではない。火傷の痕が走る右腕の、鱗の様にも見える茶色に変色した皮膚だった。紛れもなく、イクサビトの里や木偶ノ文庫で見た、巨人の呪いに罹った者達と同じ皮膚だった。
「――いつから、かね」
「……半年程前からだ」
「発症は比較的最近なのか……」
 煌天破ノ都で見た、病が進行して重篤となった兵士に比べればモリオンはまだ軽度と言えるであろうが、芽吹いてはいないとは言え既に上腕まで達そうとしている皮膚の変化は確実に病が彼女を蝕んでいる事を知らしめていた。ギベオンと同じで火傷の痕を見られたくないから人前で腕捲りをせず、また手甲は外してもその下に嵌めている手袋を外そうとしないのだろうかと思っていたのだが、病で変化した皮膚を見られたくなかったから、であったらしい。
 半年程前と言えば、ギベオンがクロサイトに頭を下げて冒険者に復帰して欲しいと頼んだ頃になる。あの頃はまさか世界樹へ到達する冒険がこんな大層な事になるとは誰も思っていなかったし、世界樹が枯れるなどとも思いもしなかった。だがギベオンが共に来て欲しいとクロサイトに言ったからこそ、モリオンはこうやって病に罹った事を漸く他人に言えた事になる。誰にも言わず、徐々に病に蝕まれていく体を見ていくのは恐怖であっただろう。少なくともクロサイトは、己の体がそうなってしまったら正気を保てる自信が無い。
「……もしや木偶ノ文庫で排除者に不覚をとったのは、この腕が原因だったのかね?」
「………」
「道理で……敵に認識されたとは言え君程の手練れが覆い被さられるなど考えられんからな」
 そこではたと思い至った事があり、クロサイトが尋ねると、モリオンは肯定と捉えて差し支えない沈黙を差し挟んだ。今この状態であっても動かす事はままならないであろうに、それでも彼女は大きな砲剣を振りかざし、ドライブを発動させては魔物を倒していくのだが、恐らく病が進行していく痛みや感覚の喪失が腕を鈍らせ、排除者に捻じ伏せられたのだ。
 ギベオンがアルビレオに聞いたところによると、モリオンは帝国の中にあって病が重篤となった民を厭わず、看取る事もあったという。医者としてそれは勇気ある行動であると称賛するし、もし自分が重篤患者を前にして同じ様にする事が出来るだろうかと自問した時、クロサイトは答える事が出来ない。彼女は自分の身の危険も顧みず、一人で孤独に死ぬ者が無い様にと心を砕いたのだ。そしてなるべく一人にして欲しいと言ったのも、ギベオン達に病を感染してしまわない為に違いなかった。特にローズには自分から近寄ろうともしなかったのはキバガミの見解と同じで、子供が罹りやすいからであったのだろう。
「その病を押してでも、君はローズの耳飾りを取り戻そうとしてくれたのだな」
 あの時、モリオンはローズが落としてしまった耳飾りをパープルアノールに持ち去られ、取り返す為に追い掛けた。その結果、敵と見做されていた監視者と排除者に襲われてしまった訳だが、不覚をとった事は恥であっても耳飾りを取り返そうとした事を彼女は後悔しなかった。何故なら。
「……貴殿とセラフィ殿を送ったあの日、ガーネット殿に磁軸に送ってもらっている時にローズの事を聞いた。
 数ヶ月前まで貴殿はローズに父とは名乗らなかったと」
「………」
「貴殿の名とローズの名を合わせたら、一つの鉱物の名になる。
 名だけでも側に居られる様にと付けたのだろう。誰が名付けたのか私は知らないが」
「あ」
 病に冒された素肌を隠す様に再度服を着たモリオンは、以前ギベオンにも言った事をクロサイトにも言った。ギベオンはこの事をクロサイトにもローズにも話しそびれており、だからクロサイトは今やっと気が付いた様な顔をしてしまったし、娘にローズという名を付けたガーネットを思うと胸が締め付けられる様な錯覚に見舞われた。我儘を言って一夜を共にした証が子として形を成したが、それをクロサイトに言えずに黙って故郷で一人で産み、父の存在を知らずに育つ娘がせめて名だけでも共に過ごせる様にと願って付けた名であると、彼は今漸く知る事が出来たのだ。クロサイトは無意識の内に、胸に肌身離さず着けているペンダントに手を当ててしまった。
「それに、いつも側に居られない貴殿とガーネット殿の代わりにあの耳飾りがローズの側に居てやったのだろう?
 ……見知らぬ場所に取り残されては寂しいだろうと思ってな」
 そして続けられたモリオンの言葉に、クロサイトはどこかで聞いた様な言葉だと少しだけ考えた後に目を見開いた。南の聖堂で辺境伯が亡くなった妻から生前贈られたカフスボタンを落としたから見付けてきてほしいと言われた時、ギベオンが言った言葉だ。奥様も見知らぬ場所に取り残されていては心細いでしょう、と、彼は確かに言った。
 封印されていた煌天破ノ都の石扉が開放された時、ローゲルから生きて帰れと言われたモリオンは、明確な返事はせずに善処しますと言った。同じ様に、ホムラミズチとの決戦を前にペリドットから絶対無茶しないって約束してと言われたギベオンもまた、曖昧に笑いながら善処するよと言った。この二人は妙な所で似ているのだな、と思ったクロサイトは、右腕を押さえながら俯くモリオンを複雑な思いで見た。
 モリオンは、帝国で様々な者が巨人の呪いの病によって命を落としている姿を見てきている。その中で、キバガミ同様子供が罹りやすいという事を知っている。だから彼女はとりわけローズを自分に近寄らせず、また探索に出す事を反対したではないかとクロサイトは思う。己が感染源になる事も不本意であろうし、帝国の大地に近付くにつれ罹ってしまうかもしれないとの不安があったのだろう。本当に彼女は、心根が優しい女性なのだ。
「……君のその優しさで、娘は耳飾りを手元に戻す事が出来た。本当に有難いと思っている。
 だがその病に罹患していると知った以上、私は君をあの迷宮に連れて行くことへの懸念をせねばならない」
「貴殿が何と言おうと私は行く。殿下をお止め出来なかった責任は私にあるのだから」
「君にとって皇子は絶対に守らねばならない者なのだというのは分かる。
 それでも私は医者だ、私の前では皆等しく命だ。病状が悪化せぬ様にしてほしい」
 あの遺跡は世界樹の麓、根本であり、モリオンの腕の現状維持は難しいであろうから、クロサイトとしてはモリオンも出来るだけタルシスで安静にしておいてほしかった。彼女が抜ける事は勿論大きな痛手ではあるのだが木偶ノ文庫の技師達の様にまでなれば砲剣を振るう事も困難になるであろうし、また急激に進行して煌天破ノ都の兵士の様になってしまう可能性も無いとは言いきれない。責任感の強いモリオンの事だからはいそうですかと引き下がるとは思えないが、クロサイトは医者としてバルドゥールとモリオンの命を天秤に掛けたくはなく、命を捨てる覚悟をしている彼女を諭した。だが、モリオンは僅かずつ病に蝕まれ続けている腕を押さえて絞り出す様に言った。
「貴殿に分かるか?
 陛下と共に出国した父と叔父が戻らず、悲観した実の母から生まれたばかりの妹と共に
 水道橋から湖に投げられた娘の気持ちが」
「………」
「身投げした母と妹は助からず、自分だけ生き延びた無様な姿を晒して、
 後ろ楯も無いまま王家に仕えていた家の者であるからと無理矢理宮廷に召し上げられ、
 能無しの文官共から尊厳も人権も踏み躙られて凌辱され続けた私を、殿下は救ってくださった。
 誰も手出しが出来ぬ様にと、側女にしてくださった。
 もう女として役に立たぬ、後継ぎを儲ける事が出来ぬ私をだ」
「後継ぎを儲ける事が出来ない……? ……まさか、」
 彼女はアルフォズルが出国した後に見舞われた、クロサイトには残酷だと思えてしまう境遇を、怒りや恥辱、哀しみに震わせる声で連ねた。温暖な気候のタルシスとは言え丘の上にある診療所は夜になると少し肌寒くなる程だというのに、クロサイトはその肌寒さではなくさっと血の気が引いた事によりぶるっと体を震わせる。彼女が何故子を産めないのか、理由が想像出来たからだ。
「女を凌辱し続ければどうなる? 子を成すだろう?
 不必要な子を産ませようとすると思うか? ただでさえ食料の確保が難しいあの国で?」
「………」
「三度だ。三人も流された。父親など関係無い、認知などせずとも良い、私の子なのに、三人も殺された。
 貴殿も医者なら分かるな、堕胎を続けた母体はもう子を産めなくなる」
 震える声に涙を滲ませ、モリオンが口を戦慄かせながら告げた自身の過去は、クロサイトを押し黙らせたし気を遠のかせた。自分の意思の有る無しに問わず堕胎した女性が全て子を産めなくなる訳ではないが、モリオンが堕胎を強いられたのは恐らく体が成熟しきれてない年頃の事であろうし、口ぶりから察するに複数の男達から手籠めにされ、孕まされ、自分の子ではないと言いつつも食い扶持が減るのは困るからと堕ろされたのだろう。それでもモリオンは、宮廷から逃げ出したりはしなかった。バルドゥールに仕える騎士という身分を辞さなかった。父クリスの代わりに、皇子の剣として控え続けた。
 これ程下劣で野蛮な行為を聞くのはペリドットが嫁がされる予定であったクリソコラ以来で、青くなってしまった顔で未だ言葉を発する事が出来ないクロサイトにモリオンは続けた。
「そんな私でも殿下はお側に置いてくださった。
 それどころか、自分が年若く未熟であるが故に文官共の粛清が遅くなってしまってすまなかったと
 謝罪までしてくださったのだ。何のお役にも立てない私に」
「……君は、」
「殿下は、あのお方は、私の人間としての尊厳を取り戻してくださった。
 そんな殿下を命を賭してでもお止めする事が、今の私に出来る唯一の礼であり謝罪だ。
 だから私は行く。行って、刺し違えてでも止めてみせる」
「死ぬ事を誰が望むと言うのだ、ワール君も生きて帰れと言っただろう」
「私の命など殿下のお命に比べたらちっぽけなものだ!」
「先も言った、私は医者だ、私の前では皆等しく命だ! 君も皇子も、同じ命だ!」
「っ!!」
 モリオンが明確に、己の命を軽んじる様な発言をした事に対し、クロサイトは初めて彼女に対して怒鳴った。彼は昔から口癖の様に繰り返した、皆等しく命という言葉を再度モリオンにぶつけた。勿論それは理想であって、現実はそうもいかない事の方が多い。モリオンではなくバルドゥールを優先せねばならない局面も起こり得るだろう。それでも、クロサイトは二人を天秤に掛けたくはなかった。
「良いかね、たった今から君は私の患者だ!
 皇子は止めてみせる、そして巫女を助け出して君を病から解放してみせる!
 君の為に私は全力を尽くす!」
「………」
「ワール君が言ったな、君はもう一人ではないし頼っても良い者達が居ると。どうか私達を頼ってほしい。
 君が負った傷を癒やす手を持つ者が居る、君がドライブを出せる様になるまでの間の剣になれる者が居る、
 君に危険が及ばぬ様に魔物を封縛出来る者が居る、ここで君の帰りを待つ者が居る。
 何より、君を守る盾を持つ者が居る。どうか頼ってくれ。君は一人ではない」
 目の前に病人が居る以上、クロサイトは医者としての姿勢を崩す訳にはいかない。そして、帝国で身を置き続けなければならなかった過酷な境遇からモリオンが抜け出す事が出来た今、彼女を取り巻く環境を少しでも良いものにしてやりたいと思う。幸いな事にモリオンを受け入れたこの診療所には、それが可能な者達が居るとクロサイトは自負している。彼女は辟易しながら結構だと言うかも知れないが、皆勝手に彼女の世話を焼くだろう。自他共に鈍いと認めるあのギベオンでさえ、モリオンを気遣うのだ。クロサイト一人の手では彼女の命を取り零してしまうかも知れなくとも、皆の手があればきっと救える――否、掬えるだろう。巨人の呪いによって溢れ出した絶望という名の暗闇の中に居る、モリオンを。
「………」
 クロサイトの気迫に負けたモリオンは、力無くではあるが最終的に言葉も無く頷いた。病状を鑑みれば一切油断は出来ないのだが、それでも自死を諦めてくれたらしい事にクロサイトは一先ずほっとして、ベオ君もリオ君も私に心配ばかりかけてくれる、と心の中で苦笑した。



 モリオンが巨人の呪いによる病に罹っているとクロサイトが知った日、彼女は念を押す様に口外しないでくれと言ったが、特に叔父上とあいつには、という一言を付け加えた。叔父上、はローゲルと分かるけれどもあいつ、が誰を指しているのか一瞬分からなかったクロサイトが怪訝な顔をすると、知ったら必要以上に私を庇おうとするだろうからときまりが悪そうに言われたので、ギベオンの事を言っているのだと理解した。モリオンにとってギベオンは飽くまでもクロサイト達を守る盾であり、自分はその範疇に入らないと認識している。謂わば「よそ者」の立場だと思っているのだ。クロサイトの君を守る盾を持つ者が居るという言葉を受けてそう言ったのだろうけれども、ギベオンは知っていようがいまいが共に戦う仲間であるなら守る対象であるし、何よりモリオンはギベオンにとってクロサイトとセラフィを助けてくれた恩人にあたるのでよそ者という考えは無い。その旨をクロサイトが言うと、モリオンは困った様な顔をして沈黙していた。恐らく、気恥ずかしかったのだろう。
 病の件は決して誰にも口外しない、セラフィには昔負った傷が原因で剣筋が鈍る事がある様だと誤魔化すとクロサイトはモリオンに約束し、感染を避ける為に今まで通りなるべく必要以上の接触はしないという姿勢を頑なに崩さなかった彼女は、翌日からも探索に加わっていた。重篤な症状の帝国兵を見たせいで病の恐怖はモリオンの心を着実に蝕んでいたのだが、それでも休憩中にローズやギベオンがよく話し掛け、タルシスの街並みや水晶宮、ウロビトの里の事などを教えていたので、幾分かその恐怖は和らいでいた。
 また、先を急ぐ道中で幾人かのタルシスの兵士やイクサビト達とも遭遇したが、攫われた巫女の事が気掛かりでならないのかウロビト達も居た。数人がその場に座って何事かを話していたのでギベオンが声を掛けようとしたけれども、一人がギベオン達に気が付き顔を上げた。彼の膝の上には鎧の隙間から無数の蔓が伸びている帝国兵士の頭が乗せられており、どうやら介抱している様だった。
「……お前達か。この者、タルシスに連れて行けば良いのか?」
「あ……えっと、」
「タルシスの病院に連れて行ってもらえるかね。隔離室がある、そこに入院させてくれ」
「そうか、分かった」
 彼の問いに咄嗟に返事が出来なかったギベオンの代わりに、クロサイトが短くも的確な指示を出す。ウロビトも薬草の造詣が深く、様々な病への対処を得意としているが、この巨人の呪いは里に発症者が居たイクサビトと違って見た事が無かったのでどう対処して良いのか分からなかった様だ。ウロビトはタルシスで帝国兵と諍いを起こしていた者も居る為に彼らが帝国兵を介抱している事にギベオンは勿論モリオンも意外に思っていると、膝に乗せた帝国兵に視線を落としてウロビトの男は言った。
「余程そのまま置き去りにしてやろうと思ったが……どうしもてそれが出来なくてな」
「………」
 男のその口振りは、帝国兵に対してあまり良い感情を抱いていないと教えてくれていたが、それでもやはりこの様な状態になった者を捨て置けなかったのだろう。ひょっとするとタルシスで帝国兵と問題を起こしたのはこの男かもしれんな、と、診療所に来たウーファンから騒ぎの件を聞いていたセラフィは思ったが、言うのも悪い様な気もしたし、何よりそれはそれとして今この場で動く事も話す事も出来なくなっている帝国兵を見捨てず介抱しているのだから黙っていた。そんなセラフィの横からひょこりと顔を出したローズが、錫杖を持ったまま男の側まで歩み寄って屈んだ。
「お前は……そうか、父親に引き取られたのだったな」
「はい。……あの、きっとみこさまもおなじことをなさるとおもいます。
 みこさまは、おうじさまにもてをのべようとされました。
 さらわれても、ごじぶんをつかおうとしていたおうじさまにもです。だから……」
「……そうだな。我々は巫女様の意思を具現しなければならないな」
 屈み込んだローズは、声も出せず自分に反応する事さえ出来ずにいる帝国兵を見て、哀しみに満ちた顔で男に言った。彼女はクロサイト達に連れられ、金剛獣ノ岩窟からずっと行動を共にしてきている。その中で、巫女がイクサビトの里で病に罹った者達への介抱を自分の疲労も省みずにしたり、バルドゥールの説得を試みようとしたり、話すにも辛そうな状態であるにも関わらずバルドゥールに手を伸べようとしていた。ウロビトは巫女を擁し、巫女の意思に沿うと、今のウロビトの長であるウーファンも名言している。巫女は恐らく、木偶ノ文庫の技師達を見て彼らを癒す為に祈りたいと申し出た筈だ。ただ、技師達はそれを固辞したのだろうし、皇子も断腸の思いで先を急いだに違いない。
「……先へ進むと良い。帝国の者達への怒りが消えた訳ではないが、この者に拳を振り下ろしたりしないと巫女様に誓おう」
「………」
 男は、ローズの後ろで黙って見ているモリオンを見上げながら自分が保護した帝国兵に狼藉を働かない事を約束した。彼らは以前自分達の里がホロウクイーンに襲われた際、負傷者の手当てを手伝ってくれたクロサイト達が今現在攫われた巫女を助ける為に探索している事を知っているし、その一員として帝国兵であるモリオンが加わっている事を知っていた。その事を快く思わない者も当然居るのだが怒りの矛先は鈍いものとなり、誰に向けられる訳でもなくなっている。帝国には帝国の退っ引きならない事情があったからだと、病に罹った兵士を見たからだ。
 そしてもう一つ、このウロビトの者達が抱いていた怒りの炎を小さなものにしたものがあった。
「それから、これを。ここまでの道中で拾ったものだ。ここにかつて居た者の所持品だろう」
 男は仲間から一冊の手帳を受け取ると、それをローズに差し出した。かなり古びており、保存状態が良いものであったとは言い難い。それでもわざわざ寄越してくるという事は何らかの理由があるのだろうと、ローズは素直に受け取った。ではな、と言った男は、仲間に促すとアリアドネの糸を使って帝国兵をタルシスへと運んでいった。
「……ローズ、その手帳、どこか読めそうな所はあるか?」
「あ、えっと……」
 ウロビトの一行が去った後、短い沈黙を挟んでから尋ねてきたクロサイトに、ローズははっとして手帳を開く。風化してぼろぼろになった濃い藍色の表紙には持ち主だったのだろう誰かの名前が隅に書かれている様だが、生憎と傷みが激しくて読めなかった。中身もインクの油が時間の経過によって滲んでおり、読む事も困難であったが、後半にいくにつれ殆ど書かれていないページが続き、最後の辺りで走り書きしているページがあった。その文字はローズには解読出来なかったので彼女は困った様に父に該当ページを掲示し、覗き込んだクロサイトは眉を顰めながら解読を試みた。
「随分切羽詰まった字だな……、……私達は……?」


『私達は何も理解していなかった。
 先人達が過ちに至った理由を。
 自分達が目指していた物の正体を。
 絶望は悪意からは生まれない。
 良かれと行われる行為の積み重ねを温床に、それは育つ。
 だが、私達の試みを誰が否定出来よう。
 糾弾する者が居るなら教えて欲しい。
 明日の為、足掻く事すら諦めるならその生に何の意味があるのか。』


「………」
 全員に内容が分かる様にとクロサイトが朗読したそれは、遠い昔に帝国の民であった者が綴った文章であったのだろう。苦しい胸の内を誰にともなく吐露した、悲痛な叫びだ。世界樹が生まれたのは、汚れた大地を何とか蘇らせようとした過去の者達の切実な正義からだった。そうする事しか、彼らには選択肢が無かった。否、もっと他にもあったのかも知れないが、その時の最善策を選び続けた結果の事であったのだろう。
 先程のウロビトの者達も、この手帳を読んで帝国への怒りがある程度鎮まったのかもしれない。そしてあの帝国兵に出会った。明日の為に足掻き、病や大地の汚染と戦い続けた者を捨て置く事など出来なかったのだろうと、皆が思った。
「――殿下も」
 遺跡の通路に広がる沈黙を緩やかに引き裂いたモリオンの声は、微かに震えていた。過去の同胞が遺した悲痛な手記は彼女にも大きな衝撃を与えており、また心を揺さぶられたのか手甲の上から右腕を握り締めたモリオンに、皆の視線が集中した。
「殿下も、巨人の呪いを起こさず世界樹の力だけを使う方法を模索されたのだ。だが、成果は得られなかった」
「……だから巨人の呪いを受ける覚悟で世界樹の力を発現する計画を立てたの?」
「表向きはな。だが、本当は違う。殿下は急がれたのだ。ご自分が病に冒されてしまったから」
「?!」
 ギベオンの問いに対するモリオンの回答に、皆が絶句し目を見開く。確かにバルドゥールは余には時間が無いと言ったが、それは荒廃が進む自国の大地を指して言っていたのかとギベオンは思っていたし、まさか彼自身が巨人の呪いを受けて発病していたとは思わなかった。木偶ノ文庫の地下二階で巫女を更に地下へ連れ去ろうとしていた時に咳込んだのは、病魔に蝕まれた体が悲鳴を上げていたからに違いない。
 アルフォズルが亡き今、帝国には皇帝の血筋を引く者はバルドゥールしか居ない。きょうだいも、傍系も、皆病に罹って死んでしまっている事が、アルフォズルが自ら巨人の心臓や心、冠を探す為に出国した一因でもあった。帝国の民を守らなければならないという重圧と発病してしまった恐怖の中で、バルドゥールは急がざるを得なかったのだ。
 バルドゥールの側女であったモリオンは、だからと言って彼と寝台を共にした事は無い。飽くまで彼はモリオンを自分の庇護下に置いたのであり、伽をさせる為に側女にした訳ではなかったので、寝室を隣にしただけに留まった。だが数年前のある夜、突如として部屋に呼び出されたモリオンが何事かと思っていると、バルドゥールは潔く服を脱ぎ捨て素肌を彼女に晒し、病に罹った事を告白した。余には時間が無い、お前も覚悟をしておく様にと言われ、モリオンは悲壮な面持ちになってしまったが仰せのままにと頷いた。
 覚悟をしておけ、という言葉は、自分の庇護下には置けなくなるだろう、という意味だとモリオンは解釈している。バルドゥールは自分の父がモリオンの父や叔父といった庇護者を連れて行った事に対し責任を感じていたから彼女を側女にして守ったし、自分が居なくなった後は守れなくなるからここから去るなりの身の振り方を考えろと暗に言ったのだ。病に冒されてもなお臣下を、そして民の事を第一に据えたバルドゥールは間違いなく帝国の皇帝に相応しい者であったし、また不可欠と思わせる男だった。
「殿下が病に罹患されたと知った時から、殿下が先に倒れられるか、それとも先に陛下達が戻られるか、
 祈る様な思いで日々を過ごした。私よりも、殿下の方が切実に待ちわびられただろう。
 病にさえ罹っていなければ、きっと殿下もウロビトやイクサビトを犠牲にせぬ道を模索されている。
 ……病が殿下を追い詰めた」
「………」
「分かっている。だからと言って多くの民を犠牲にするなどあってはならない。
 だが……殿下にはこれしか方法が見付けられなかった。それを諌めて支えてやれる者が居なかった。
 父上や叔父上なら可能だったのだろうが……私では力不足だった」
 モリオンの悲壮な顔は、バルドゥールの病を近くで見てきた彼女の心情と、バルドゥール自身の葛藤を表している様な気がして、ギベオン達は押し黙った。ただ一人、クロサイトだけはモリオンが同じ病に罹っている事を知っている為に、持っている鎚の柄を手が白くなるまで握り締めてしまい、医者という存在はあまりにも小さく無力だと思い知らされてしまった。今、彼女達を助ける事が出来るのは、巨人の心である巫女のみだ。しんと静まり返り、今は魔物の息吹も聞こえず、すり抜けていく風の音しか聞こえてこない遺跡の中で、モリオンの声は壁面に吸い込まれていった。
「……でも、まだきっと間に合うよ」
「………?」
 皆が何も言葉を発せない中、俯いてしまったモリオンに希望の声を上げたのは、ギベオンだった。交易場でアルビレオから聞いた、まだ間に合うという言葉は彼も信じたいものであり、また今この時でも信じている。世界樹の力の発現も、汚染された大地のこれ以上の拡大も、食い止めるには自分達の力は本当に小さな小さな、些細なものであるだろうけれども、それでもギベオンは何かが出来ると信じていた。……それすら、先の手記の「良かれと行われる行為の積み重ね」であるかも知れないという不安は拭い去れないけれども。
「力不足なんかじゃないよ。他の人達は誰も生還しないって思ってた中で、
 モリオンだけは一緒にずっとワールウィンドさんを待ってたんでしょ?
 一人だけでも一緒の気持ちで待ってる人が居てくれた事、きっと心強かったと思うよ」
「……そうだろうか」
「そうだよ。だから、皇子を止められるのはモリオンしか居ないんだ。
 僕があの人の剣を受け止めてみせる。君が説得して欲しい」
 そんな不安を抱えてもなお、ギベオンはバルドゥールを止めたいというモリオンの願いを叶えたかったし、彼女の盾になりたかった。ローゲルやモリオンの砲剣技を間近で見て、恐らくあれよりも強力な技を繰り出してくるのだろうと考えると庇いきれる自信はあまり無かったが、軽減くらいは出来る筈だ。モリオンがバルドゥールに近付けるくらいには防いでみせると口元をぎゅっと引き締めたギベオンに、彼女は眉を顰めた。
「死ぬ気か?」
「熱砂竜の時もそう聞いたよね。任せて、耐えてみせるから」
「……お前は意外と格好付けなのだな」
「僕だって男だよ、たまには格好くらい付けさせてよ」
 バルドゥールの剣技は、さすがに帝国を継ぐ者であり全ての帝国騎士、インペリアルの長を務められる程に凄まじい。その威力を知っているモリオンはこの男が耐えられるのかと訝しんだが、照れ混じりの苦笑を浮かべたギベオンにそうか、としか言えなかった。木偶ノ文庫でクロサイトとセラフィに手を貸し、タルシスまで送った時、意識の無い状態で寝台に伏せているギベオンを見て、この容体ではすぐには来れるまいと思っていたというのに、十日も経過しない内に戻ってきて驚いた事をモリオンは覚えている。共に探索に出るようになってからも、ローズの能力もあるとは言え怪我の回復が恐ろしく早く、また常人が大怪我を負うであろう攻撃を魔物から受けてもそこまで深手とならず、奇妙な顔付きになってしまった自分に僕体だけは頑丈だからと朗らかに笑って見せたギベオンは、モリオンにとって間違いなく未知の人種であった。
「そろそろ行くか。あまりもたもたしてられんしな」
「そうですね。ローズちゃん、平気? しんどくない?」
「だいじょうぶです、いけます」
「そっか。でも、無理だけはしないでね」
「はい」
 ローズから受け取った手帳をぱらぱらと捲っていたセラフィが解読を諦めてクロサイトに寄越し、先へ進む事を促すと、ギベオンも頷いてからローズの体調を気遣った。幼いローズは今まで一度も疲れたと言った事が無く、我慢してしまう傾向にあるので、クロサイトが見極めてから探索を切り上げる事も少なくない。だが今日の「だいじょうぶ」は信頼して良いらしく、窺う様にちらと横目で見たギベオンに、クロサイトも黙って頷いた。モリオンの体の為にも少しでも早くバルドゥールの元へ辿り着かなければならないと考えていたクロサイトは、こんな時に不謹慎かも知れないのだがギベオンが彼女を労る様に歩き始めた事に何となく口元を綻ばせていた。