煌天破ノ都の、入り口から見て北西のフロアには断崖絶壁で且つループする不思議な場所があり、件の粘液を放つ大きな花、ラフレシアは勿論、他の魔物も徘徊している。そこの探索は本当に骨が折れ、セラフィがクロサイトを担いで行くにも無理があったので、かなり慎重に進まざるを得なかった。更に西側には鍵のかかった扉があるのだが鍵を所持していなかったので探索出来ず、地図は空白のままだった。
 遠目で見えている可動橋にもう少しで辿り着けるのではないかという所まで行ったけれども、生憎とクロサイトの手持ちの手当て道具が底をついたりかなりの神経を使って崖から落ちぬ様にと盾になり続けたギベオンの疲労やセラフィの投擲ナイフも乏しくなってしまったので、その日は早々に切り上げてタルシスへと戻った。まだ日暮れにも時間がある頃だったがモリオンも砲剣を振るい続けている為に疲れており、彼女も文句を言わなかった。そして一旦帰った診療所で持ち帰った翡翠軟玉で作成していたものが出来た、とベルンド工房の娘から言付けられたペリドットに聞き、ギベオンが受け取りに行く事になった。ついでに発注していた白衣も受け取りに行ってくれるかね、とクロサイトに頼まれたので、先にそちらを受け取ってからベルンド工房へと足を運んだ。
「あっ、来た来た。お待ちどうさま! これだよ」
 来店したギベオンを見て、娘は店の奥から大きな鎚を持ってきた。ペリドットよりは背が高いが、かと言ってそこまで長身ではない彼女が持つには大きすぎるし重たそうだ。その鎚を受け取ったギベオンは、見た通りの重たさにちゃんと振るえるかな、という不安を抱いてしまった。
「これ……す、すごいね……」
「んーっと、エリミネイターっていうらしいよ」
「さ、削除するって意味の鎚なの?」
「どこかのスラングだと殺すって意味があるんだって」
「物騒だね?!」
 以前使っていた、千年樹の幹から作られたジャ・ダグナもクロサイト達からごついと評されていたというのに、それを凌ぐごつさというより禍々しさがあり、顔を引き攣らせたギベオンは娘から聞いた名前の意味を聞き、鎚を両手で持ち大きな体をぶるりと震わせた。僕そんな物騒な事したい訳じゃないんだけど、と思いつつも、魔物を殺している事には間違いないのでギベオンがそれ以上何も言えずに居ると、娘はそうそう、と続けた。
「煌天破ノ都の壁材、預かったでしょ? あれ、盾が出来そうなんだって。
 でもまだ完成しそうにないらしくて。もっと早く渡せたら良いんだけど……」
「う……ん、そりゃ、勿論早いに越したこと無いけど……
 焦っても良いものが出来ないだろうから、頑丈なの作ってくださいって言っておいて。
 今使ってる盾、まだ保ちそうだし」
「了解! じゃあ、会計するね」
 物騒だとしても依頼していたものである事に変わりないのでクロサイトから預かったギルド用の金で鎚とメディカなどその他の細々したものの会計を済ませたギベオンは、娘にまたね、と言って白衣が入った紙袋を片手にぶら下げその鎚を肩に担いだ。元々は手に持つだけで、こんな風に肩に担ぐ事は無かったギベオンであるが、クロサイトがいつも鎚を肩に担いでいるので何となく癖がうつってしまっていた。真似している訳ではない。本当にうつってしまっただけだ。ただ、今日は担いだ鎚の凄さ故に帰途で擦れ違う他のギルドの者達のぎょっとした視線が何となく居た堪れず、彼は足早に診療所まで戻った。
「ただいま帰りましたー。……あれ、ウィラフさん、珍しいですね」
「ペリドットに会いに来たんだ。……それにしても凄いの持ってるじゃない」
「あ、こ、これ……部屋に置いてきます」
 裏庭で手を洗い、勝手口から入ったギベオンは、ダイニングでペリドットと向い合って座っているウィラフにぺこりと頭を下げたのだが、担いでいる鎚を少し引き気味に見た彼女に慌てて自分の部屋へ引っ込んだ。これまでの探索で使ってきた鎚は売り払うのも忍びなくて自室に置いてあり、今使っているウォーピックの隣に置いてからクロサイトの自室のノブに白衣が入った紙袋の持ち手を引っ掛け、再度ダイニングへ行くと、机の上には美しい装丁の書物が置かれてあった。表紙には、盃に巻き付く蛇の絵が描かれていた。
「ギベオン達に、って持ってきてくれたの。煌天破ノ都にあったものなんだって」
「へえ……?」
「帝国の研究者がこの鍵について調べて欲しいっていう依頼出しててさ。
 病に有効なものであれば良いなって思って引き受けたんだ。
 煌天破ノ都の西側に鍵がかかってる扉があるじゃない? どうもそこの鍵らしくて。
 で、一応鍵使ってはみたんだけど間違った扉選ぶとトラップがひどくて散々な目に遭っちゃった」
「だ、大丈夫だったんですか?」
「何とかね」
 その書物に視線を寄越したギベオンにペリドットが説明すると、ウィラフが付け加えて詳しく教えてくれた。どうやらウィラフはギベオン達の地図の空白部分の探索をしていた様で、そこで手に入れたものであるらしいのだが、彼女の体のあちこちに巻かれている包帯を見るとその散々な目とやらの程度が分かる。しかしそこまで苦労して手に入れたものであるなら自分が貰った方が良いのでは、と思ったギベオンに、ウィラフは笑った。
「これね、読んでみたんだけど、戦ってる最中に使うと怪我とか麻痺とかが治るんだって。
 ただし、かなり戦闘意欲が高い時じゃないと使えないみたい」
「えっ……そ、そんな凄いものなら、ウィラフさんが持っておいた方が良いんじゃ……」
「だって、ギベオン君達の方が必要でしょ。帝国の皇子との戦いも避けられないみたいだし」
「………」
 随分と凄い効力を持つ書物であるらしいそれをウィラフはぽんと寄越してくれる様で、ギベオンは慌てたし躊躇った。だが彼女はいつも通りの気の強そうな目で座ったままギベオンを見上げ、反論を封じた。何としても受け取ってもらう、と言わんばかりの大きな瞳に負けたギベオンは恐縮しつつも結局は受け取り、再度彼女に頭を下げた。煌天破ノ都にあったという割には木偶ノ文庫にあった様な書物と違い、風化もしていなければ恐らく色褪せもしていない。豪華というよりはある種神々しい様なその装丁の書は、ウィラフの言う通り、きっとこれからの探索や戦いに役に立つものになるだろう。ギベオンは自分の腰巻きに手を当ててから書物をダイニングに置いてある背嚢の中に仕舞った。
「でもさ、本当にギベオン君達がんばってるよね。
 セラフィさんもローズちゃんも夕食まで寝るって部屋に行ったから、相当疲れてるんだろうね」
「あ、そうなの?」
「うん。クロサイト先生はご近所の回診に行かれたよ。お薬が要る人が居るんだって」
 ダイニングにペリドット以外のこの診療所の住人が居らず、はてと思っていたギベオンが疑問を口にする前にウィラフが苦笑しながら淹れられた茶を飲んで言った言葉に、思わず納得する。ここのところずっと高所恐怖症の兄の宥め役をやっているセラフィは、探索を終えてタルシスに戻る度にぐったりした面持ちで早々に眠ってしまう。あれでよく体力勝負の特殊清掃者やってたなあとギベオンは思うのだが、自分でさえ大怪我を負う魔物相手に双剣を振るっているのだ、無理もない事と言えばそうかもしれなかった。ローズは言わずもがなで、最近は診療所に戻る階段すら上れなくてギベオンが背負う事もある。
 そしてペリドットからクロサイトがどこへ行ったのかを聞き、クロサイト先生も休んでて欲しいけどなあ、あの性格じゃ絶対回診に行っちゃうよなあ、などと思っていたギベオンは、もう一人の存在に首を傾げた。
「……モリオンは?」
「隣のローゲルさんのとこ。木偶ノ文庫の技師さん達がどれくらいこっちに来れたか聞きに行くって」
「そっか……」
 モリオンもクロサイト同様、体を酷使する傾向があり、ドライブではなくエッジと呼ばれる技で体力を温存するとは言え、ギベオンが後ろに退く様に言っても前へ跳んで魔物を仕留めようとする。急ぐ気持ちは分かるのだが無茶だけはしないで欲しいとギベオンは思っているけれども、彼は自分もペリドット達にそう思われているとは残念ながら気が付いてない。
「モリオンさんって言えば、ギベオン君この間一緒に買い物してたよね。なになに、そういう間柄なの?」
「そっ……?! あっつ!」
「わっ、大丈夫? タオルタオル、はい」
「あ、ありがと……」
 顔を曇らせながら自分にも茶を淹れているとウィラフが突如興味津々で聞いてきた事に、動揺したギベオンは思わずポットの茶を自分の手に溢してしまった。ギベオンが部屋に鎚を置きに行っている間にペリドットが湯を足してくれていたのでまだ熱かった為に叫んでしまい、ペリドットが慌てた様にピッチャーに入れていた水を染み込ませたタオルを寄越してくれて、礼を言いながら手に当て患部を冷やす。しかし動揺は治まらず、耳の先まで赤くしたギベオンはどもりながらも説明した。
「あ、あの、ウィラフさん、あの時はその、
 病院に居る帝国兵さん達に必要な物の買い出しを手伝っただけで、そ、その……」
「そうなんだ? 何か雰囲気良さそうに見えたんだけど」
「ぼ、僕みたいなのと居る時にそんな風に見られたらモリオンに迷惑だと思う、から、」
「うーん……モリオンさんの事はさて置き、ギベオン君も良い男になったと思うよ?
 ペリドットを助けに皆で行った時、迷わず盾になったじゃない。
 あの時すごくカッコ良かったよ、自信持ちなよ」
「うぅ……」
 確かにギベオンはつい先日、モリオンが病院に入院した帝国技師達が欲しいと言ったものを買い出しに行った時に荷物持ちをかって出た。特に大きなものは必要無かったとは言え人数がそこそこ増えてきた事もあり、特に男性物の衣類などはモリオンには分からなかったので、用事も無かったギベオンが付き合ったのだ。そこをたまたま見られた様だった。
 ウィラフは、タルシスに来た当時のギベオンをよく覚えている。とにかく大柄で、首があるのかというくらいに肉が付いていて、声は篭りがちで聞き取りづらかったし、そんな体格とは裏腹にかなりの小心者だった。人の顔色を窺いながら話す姿に違和感を覚えた事もある。そんなギベオンが僅かな期間ですっきりと痩せ、キルヨネンが用意した水晶宮の宮廷騎士の鎧を身に纏い、ペリドットとセラフィに放たれた矢から彼らを守る為に迷わず駆けて二人を庇った。そんな事が出来る様な男とは失礼ながら思っていなかったウィラフは、あの時本当に感心したし見直したのだ。それどころか冒険者を辞して久しかったクロサイトとセラフィを説得して復帰させ元に探索に出る様になっただけでなく、こんな状況になった今、間違いなく騒動の中心に居るギルドの主となっている。……その割には、仲間の女と良い雰囲気だったと言われ首まで赤くして縮こまる様な男でもあるのだが。
 結局ギベオンはその後もろくに話す事が出来ず、帰ってきたモリオンとも殆ど顔を合わせられなくて、夕食を済ませると早々に自室に引っ込んで盾の手入れをやっていた。途中で自分から発せられた静電気が盾と手の間に弾け、何度か痛い思いもしてしまった。



「……何か……すごい匂いがします、ね……?」
「ああ……」
 訪れるのは何度目になるのか、確実に先に進めている煌天破ノ都で、眠れる大獅子や毒吹きアゲハ、ラフレシアとの攻防の末ループする不思議なフロアを漸く抜け、可動橋を渡る事が出来たギベオン達は、足を踏み入れた大広間に充満しているむせ返る様な緑の香りに全員が驚き、顔を見合わせた。可動橋で隔たれているとは言えここまで強烈に匂うのであれば先程のフロアでも気が付く筈なのであるが、少なくともギベオンは全く気が付かなかったので、思わず自分だけが気が付いてなかったのかと不安になった。
「フィー、さっきの場所、こんな匂いしたか?」
「いや……、全然気が付かなかった」
「そうか……お前が気が付かないなら僕達が気が付かなくてもおかしくはないな」
 しかしその不安を取り除くかの様にクロサイトがセラフィに尋ねた質問に対する返答に、ギベオンだけではなくモリオンやローズもほっとする。一番鼻が利くセラフィでさえ気が付かなかったのなら誰も気が付けなくて当然なのだ。辺りを見回してもここまで強力な緑の香りを発しそうなものは見当たらず、取り敢えずは探索を続けようとクロサイトは地図に今通った可動橋を書き込んだ。
 ギベオンがウィラフに聞いたところ、煌天破ノ都の北西側はトラップエリアになっており、左右どちらかの正しい可動橋を選ぶと最奥の部屋に進めたらしい。クロサイト達は実際に行った訳ではないので忠実な地図は書けないが、おおよそこんな感じだろうという地図を書いた為、クロサイトが今持っている羊皮紙上には空白が北側、即ち現在居る広間と更にその奥の辺りしか無い。以前ローズが向こう側から瓦礫を退かせば通れそうだと言っていた箇所があった為に地図を見ながらそこを目指すと、広間から細い通路に入った先に抜け道を見付けた。今までそれなりに探索をしてきたお陰で、この辺りに抜け道があるのではないかという勘が働く様になっていた。
「……あっちから香ってくるな」
「あっち……? あ……」
 どこから湧いて出るのか、テリトリーを荒らされたと見做され襲ってくるひっかきモグラやモリヤンマなどの魔物からは体力温存の為に出来るだけ戦わず逃げた。そして広間に戻り北へ進んでいると、煌天破ノ都の地図でも最北になるであろう方角を見ながら言ったセラフィの言に、皆が視線を向けた。そこには今まで通ってきた様な可動橋があり、耳を良く澄ませば風が行き来する音が聞こえている。近くまで行くとその音は次第に強まり、一定の間隔で響いているその音を聞きながらクロサイトがぼそりと呟いた。
「呼吸音だな」
「え?」
「規則正しい間隔と、高音と低音が交互に響いている。……呼吸音に似ている」
「………」
 クロサイトのその言葉に絶句したギベオンは、ぶるっと体を震わせて可動橋を見詰める。セラフィが言った様に、この広間に溢れる緑の香りの元はこの可動橋の奥にある様なのだが、クロサイトの言葉を聞くと開ける事が恐ろしい。ここまで大きな音を立てて呼吸するものとなれば今まで戦ったどんな魔物よりも巨大なものであろうし、それこそ巨人という名を冠するに相応しい大きさだろう。
 多分、この奥にはバルドゥールが居る。彼を止める為にはここを開けなければならないのだが、奥にあるものを見るのが怖くて開けるかどうするか躊躇ってしまい、ギベオンは可動橋をじっと見たまま動けなかった。しかしセラフィが肩を軽く叩いてくれたと同時にクロサイトも拳で背を軽く叩いてくれたので、勇気を貰った気がしたギベオンは深呼吸してぐっと口を引き締めた。
「ローズちゃん、クロサイト先生の側を離れない様にね」
「はい」
「モリオン、良い?」
「ああ」
「よし、じゃあ、下ろします」
 自分の腰に巻いたポーチに手を当てた後、鎚を握り締めたギベオンは、クロサイトとセラフィに目配せしてから意を決して可動橋を下ろすハンドルを握った。ハンドルを回す彼の動きに合わせてゆっくりと橋が下り、向こう側の景色が見えてきたのだが、ほぼ同時に見たクロサイトとセラフィ、モリオンは息を飲んだし、クロサイトはローズの肩を抱き寄せて覚悟して見なさいと言った。
「……ひっ!」
 父の言葉に錫杖とロッドを抱き締めたローズは、それでも下りた可動橋の向こうに見えた光景に小さな悲鳴を上げた。途中で見てしまったギベオンも何とか手を止めずにいれたものの、呆然と奥を見る。そこには、巨大な顔面があったのだ。見上げんばかりのそれは巨大な木像の様にも見えたのだがどうやら脈動している様で、呼吸しているらしい。先程クロサイトが言った呼吸音というのはまさにその通りで、女性に見えるその面立ちの人――もう巨人と言って間違いないだろう、眠っている様に見えた。
「……殿下!」
 動けずにいたギベオン達よりも早く、部屋の中央に膝をついた人物に気が付いたモリオンがその者の名を呼ぶ。自分が仕えるべき者で、守らねばならなかった者は、逆に自分を守り、庇護下に置いてくれた。この巨人を蘇らせる計画を強行するまでに追い詰められたというのに何一つ出来なかったと思うと、彼女の心は締め上げられる様に苦しくなる。巨人の呪いの病の蔦が、体の表面ではなく心臓を締め上げている様に錯覚してしまう。痛んだ胸の辺りに鎧の上から手を当てたモリオンの声に反応したバルドゥールは、ゆっくりと振り返った。彼の側に、巫女の姿は既に無かった。
「……お前もローゲルと同じで余から離れるか」
「………」
 肩を上下させ、呼吸を乱したバルドゥールの瞳は濁っていた。病は確実に彼の体を蝕んでいる様だが、それにしても木偶ノ文庫やこの煌天破ノ都に居た病に冒された技師や兵士達とは様子が異なる。彼らは体の一部、または全体が蔦に覆われ、芽吹き、皮膚が樹木の様になっていたというのに、バルドゥールはまだ人の形を残しているし皮膚にも侵食は見られない。だが、様子は尋常ではなかった。濁った中にも未だ鋭い眼光を放つその目に、モリオンは何も言えずに怯んでしまった。
「……かつて人の手により、大地は草木も育たぬほど汚れ過ぎた。
 人々は浄化された、美しき大地を夢見た。楽園への帰還を望んだ。
 そして生み出されたのが世界樹……この巨人だ。
 世界樹と巨人は同じもの。休眠した巨人は力を蓄える為、巨大な樹へとその姿を変えた」
 かなりつらそうに、それでも力を振り絞って巨人を見上げたバルドゥールは、過去の大地に起こった出来事とこの巨人が生まれた経緯を紡いだ。大地を汚した人間が、大地を元の姿に戻す為に作ったものが彼が見上げる巨人であり、ギベオン達冒険者が目指した世界樹であったらしい。巨人を眠りから覚ます為に世界樹が枯れたのは、蓄えていた力を全て吸い取ったからなのだと改めてギベオンは巨人を目の当たりにして納得した。
「……かつて希望と共に呼ばれたその名は失われて久しい。
 彼女を御せなかった者達は彼女を恐れ全てを忘れようとした。
 だが、帝国により彼女は再び目覚めようとしている。
 見よ! 力の核たる心臓も、心たる巫女も、余の手で世界樹と一つになった」
「………!」
「冠を携えた余の言葉を、巫女が聖なる言葉に置き換え彼女に囁く。見るがいい、楽園への導き手の復活を!」
 巫女の姿が見えない事に一番危機感を抱いていたローズが、バルドゥールの言葉にびくりと小さな肩を跳ねさせる。既に世界樹に、否、巨人に取り込まれてしまった後であったらしい。バルドゥールが巨人の名を叫ぶと共に砲剣を抜いて掲げると彼の背後の巨人が呼応するかの様に身を震わせ、目を開いた。世界樹と会話が出来る巫女は冠を嵌めた者の言葉も受け取る事が出来るが、巨人に伝える事を拒絶出来ない様だ。現に、辺りの壁から緑色をした瘴気が溢れ、腕を振り上げた巨人は天井を砕いてゆっくりと地上に向かって這い上がっていこうとしていた。その振動は立っていられない程であったけれども、何とか転倒せずに立っていたギベオンは砲剣を携えたバルドゥールの体からも緑色の瘴気が少しずつ漏れ出ているのを確かに見た。
「彼の者の復活は我が父、皇帝アルフォズルの悲願。散っていった騎士達の希望。
 余は彼らに報い、守らねばならぬ。彼らの家族を、そして彼らが信じた未来を!」
「殿下!!」
「救世の灯火、余が消させはせぬ。
 帝国に仇成す者よ! 皇家の砲剣の前に砕け散れ!!」
 その瘴気は、砲剣をギベオン達に向けたバルドゥールが叫んだ瞬間に鎧の隙間から一斉に溢れ出した。同時に、肌を突き破った蔦が伸びて体を取り巻いていく。砲剣を持つ右手は肌色を留めず瘴気と同じ明るい緑色に代わり、背を突き破った羽の様な葉が生え、目元から伸びた触覚には鋭い棘が生えていた。至る所から伸びた蔦は砲剣や鎧にも絡まり、まるでバルドゥール自身が砲剣もろとも植物と一体化したかの様にも見えた。
「ギベオン! 引き付けて盾になれ、耐えろ!!」
「分かったっ!」
 雄叫びを上げながら砲剣をかざしたバルドゥールを見て全員が身構えたと同時にモリオンが叫び、彼女も砲剣を起動させる。ローゲルの剣技は見た事があってもバルドゥールの技、しかも異形の者と化した彼の技など予測出来ず、この中である程度想像出来るのはモリオンだけであろう。今回は極力彼女の指示に従う事に決めたギベオンは、言われた通りにまずしっかりと盾を構え、背後に居るローズやクロサイトに砲剣の切っ先が届かない様にと気を配った。
「喰らうが良い、皇家に伝わる技を!!」
「う、お、あ、ああぁぁっ!!」
 巨大な羽をはためかせ、バルドゥールが振り下ろした砲剣は、真っ先に前に出たギベオンの盾に大きな傷を作っていった。ギベオンにだけでなくセラフィやモリオンにもその切っ先が向いたが、セラフィは持ち前の身軽さで避けモリオンは己の砲剣で受け止めて耐えた。ミシ、という音がベルンド工房で試作品として作られ紫電と名付けられた砲剣に響き、間近でバルドゥールの目を見たモリオンは奥歯を食い縛った。もう、自分が知っているバルドゥールの目ではなくなっていた。
「殿下、貴方様を支える事も守る剣にもなれなかった私ですが!
 決して帝国から心が離れた訳ではありません!!」
「ならば何故余にその剣を向ける! 誰よりも余の側で仕えてくれたお前が!」
「多くの屍の上に築かれた楽園など私は望みません! 殿下、貴方様も本心はそうである筈!」
 砲剣同士が拮抗し、バルドゥールと向かい合ったモリオンは、すっかりと姿を変えてしまった主君に対してもう怯む事は無かった。鬼気迫る鋭い眼光は確かに恐ろしいが、説得出来るのは自分だけだと思うと下半身にぐっと力が入り、およそ人間の力とは思えない程の腕力で押してこようとする剣を何とか押し留める事が出来ている。だが、モリオンに手助けしようとして動いたギベオン達の気配を察したバルドゥールは、砲剣に絡まる蔦を更に多くして叫んだ。
「余には、僕にはもう時間が無い!
 僕に仕えてくれた騎士達を! 僕を信じてくれた民達を! お父様に代わって僕が守る!!
 それを邪魔立てするなら、お前とて容赦はせん!!」
「ああぁっ!!」
 強大な力で砲剣ごと弾かれたモリオンが投げ出され、強かに床に打ち付けられた彼女をクロサイトが素早く抱き起こす。それと同時に放られた砲剣はローズが走って取りに行き、そんな彼らにバルドゥールが剣を向けぬ様にとギベオンが盾を構えたが、背後から何か衝撃を受けて驚きの声を上げた。
「わあぁっ?!」
「なっ……!!」
 助走をつけギベオンの肩を台にして宙に飛び上がったのは、投擲ナイフを手に持ったセラフィだった。彼は注意をクロサイト達から離す為にわざとバルドゥールの頭上を飛び、羽の様な葉が生えた背中目掛けて投擲ナイフを放ち、着地した次の瞬間には剣をバルドゥールに翻していた。ローゲルと戦った時とほぼ同じ動きを見せた彼に、相変わらず身軽で速い、とギベオンは肩に残る衝撃を感じながらも先程盾で受けた攻撃により体に溜まった電流をエリミネイターに流し込みながらセラフィの加勢に走った。バルドゥールはローゲルやモリオンも使用している冷却用カートリッジを装着し、先程の怒涛の様な攻撃によりオーバーヒートした砲剣の冷却しており、まだ強力な技は繰り出せないながらもその砲剣の巨大さと異形の者となった事により得られた強大な力を以て捻じ伏せようとしている。その力に耐えられるか、受け止め続ける事が出来るかはギベオンには分からないが、やはり彼には耐えてみせる、という思いしか無かった。
「ローズ、前に出るなよ。殿下の剣がお前に向けば一薙ぎで死ぬ」
「は、はい」
「クロサイト殿も前には出過ぎないでくれ。深手を負った順に下がらせる」
「分かった、後ろは気にせず行ってきたまえ!」
「ああ!」
 弾かれた砲剣を引き摺りながら持ってきてくれたローズから受け取りながら念を押す様に彼女に言い、暗にローズを守る為に後衛に徹してほしいとクロサイトに言ったモリオンは、彼の返事を聞くより早く駆け出した。受け身を取ったとはいえ強かに打った背に痛みはあるが、今はそんな事を言っている場合ではない。腕と一体化した様な皇家に伝わる巨大な砲剣を幾度となく振り下ろし、素速い動きのセラフィを払い除け何とか耐えているギベオンの盾を打ち砕こうとしているバルドゥール目掛けて走ったモリオンは、ギベオンの大きな背に向かって叫んだ。
「ギベオン、横に跳べ!」
「?!」
 先程砲剣を起動させた時に不発であったドライブを再度繰り出す為、モリオンはグリップを思い切り捻ると砲剣の刀身に炎を纏わせギベオンの背後からバルドゥールへと振りかぶった。咄嗟に反応出来なかったギベオンの腕を引いたのはセラフィで、彼はギベオンをバルドゥールとモリオンから引き離すと同時に空いた片手でバルドゥールの緑色と化した右腕に投擲ナイフを放った。
「小賢しい!!」
 だがバルドゥールも冷却を終えた砲剣をすぐさま起動させ、モリオンと同じく刀身を包ませた炎でナイフを弾くとそのまま彼女の剣を受け止めた。炎に包まれた二つの砲剣が重なり、まるで火柱がそこにある様にも見え、その熱にモリオンは顔を歪ませた。焦がす様な熱が病に蝕まれていく腕をじりじりと焼いており、火傷の痛みが走ったが、急に皮膚を焼く熱が和らぎ思わず目を見開いたモリオンは、バルドゥールの舌打ちを炎の向こうに聞いた。ローズが、炎の聖印を結んでくれたのだ。お陰で、モリオンは先程の様に力で弾かれる事無く自ら後ろに跳ぶ事が出来た。
「わっ、わっ?!」
 ローズが張り続けた方陣は、中々バルドゥールの腕を封じる事が出来なかった。それどころか彼の足元からまるで意思があるかの様に素早く伸びてきた蔦が全員の足や腕を絡め取り、自力で蔦を引き千切ったギベオンがセラフィに振り落とされる砲剣を間一髪で受け止める。自分以外の皆が身動きが出来なくなった事を受け、ギベオンはバルドゥールが他の者に切っ先を向けない様に注意を引きつけつつも混乱しかけた自分の頭の奥で、今日出発する前に背嚢の中に入れられた書物をクロサイトに渡しながらクロサイト先生が一番役立てられると思いますと言ったペリドットの声が蘇った。
「クロサイト先生! ペリドットが渡したあの書を使ってください!」
「……そう言えばそんなものがあった、な!!」
 ギベオンの言葉にクロサイトも存在を思い出し、鞄から蛇が巻き付いた盃の装飾が施されている書物を引っ張り出すと、意識を集中させてその書を開いた。すると、辺り一面に美しい光が弾け飛んだかと思えばバルドゥールを除く全員の体をその光が包み、蔦を纏っていた瘴気が光に負けたかの様に消え急激に枯れた。そして、バルドゥールの剣技によって刻まれた体の傷が癒えた。かなりの力を持つ書らしいが使うタイミングも難しければ使える頻度もそう無さそうだな、とクロサイトは鞄に仕舞いつつ、ギベオンから譲り受けたウォーピックの柄を握り締めて再度バルドゥールに攻撃を仕掛け始めたセラフィ達の間からその重たい一撃を振り落とした。
 若くとも帝国騎士を纏め上げる宗主であるバルドゥールは、凄まじい程の剣技をそれからも振るい続けた。オーバーヒートから回復するとすぐさま何連続もの斬撃を繰り出し、ほぼギベオンが受け止めたが全てを防げた訳でもなく、後衛のクロサイトにまでその被害は及んだ。勿論ギベオンは無傷では済まなかったし、手足同然に使っているらしい蔦の先端を鋭利なものに変え体を貫こうとされたセラフィやモリオンも避けて貫通まではしなかったがあちこちに傷を作った。彼らの手当てをしているクロサイトも何度かその被害を受け、呼吸によって体内の気を巡らせたりローズの方陣から放たれる大地の気で傷の修復を試み、破陣によって全員の傷を僅かでも塞いだりした。だがそのローズは邪眼でバルドゥールの力を弱めたり、集中して方陣を張り続けた事により、かなり神経をすり減らしていて錫杖で体を支える程に疲労の色が出ていた。
「何度癒やそうが無駄だ!
 お前達が余の剣の前に倒れる事も、楽園の導き手が大地を浄化する事も変わらぬ!」
「足掻く事すら諦めるならその生に何の意味があるのかと、過去の帝国の方が書かれていました!
 僕達だってそうです、貴方を止めて巨人を止める為に、最後まで足掻きます!!」
「ならばその勇気に敬意を払って情けをかけてやる! 足掻いた先にある絶望を味わう前に息の根を止めてやろう!!」
 満身創痍とも言える体で叫んだギベオンに、肩で息をしているバルドゥールが砲剣を払って両手で持ち、一際大きな駆動音を響かせた。モリオンがはっと息を飲んだと同時に、頭から流れる血を袖で拭いながらセラフィが忌々しげに舌打ちする。揺籃の守護者と戦った時にローゲルが見せた、イグニッションとやらを発動させるのだろうと分かったからだ。避けられない速度ではないが何度も斬撃を叩き込んでくるドライブやモリオンが操るものよりも範囲が大きなフレイムドライブを連発されてしまっては、今の皆の状態では一溜りもない。特に、何度も防いできたギベオンは。
「ローズ、腕封の方陣を張れ! 諦めるな!」
「はい!!」
「ベオ君はローズとリオ君を守れ! フィー、僕が動きを止める、隙を作れ!!」
「応!!」
 クロサイトもその徴候を感じ取り、疲労で霞む視界の中でもバルドゥールの姿をしっかりと確認し、鎚を握り締めて走り出した。ローゲルはイグニッションを発動してもドライブを発動させるまでは少し時間を要しており、バルドゥールもそうである筈と望みをかけたのだ。クロサイトの鎚の一撃では僅かな間しか動きは止められないが、腕封の方陣が効いたなら甚大な被害は防げる。ローズを背に身構えたギベオンとモリオンを背後に感じながらセラフィが俊足を生かしてバルドゥールの鎧の隙間から脇腹を剣で斬り払い、怯んだところでクロサイトは思い切り鎚をバルドゥール目掛けて振り下ろした。
「ぐぅっ……!!」
 異形の姿に変わったとは言え元は人体であるので魔物よりも急所が分かりやすく、クロサイトの的確な一撃を受けたバルドゥールはぐらりと体を傾けた。しかしまだ腕は封じる事が出来ておらず、動きを鈍らせる事が出来ていても油断は出来ない。砲剣を杖代わりに何とか転倒を免れたバルドゥールが体勢を立て直す前にセラフィが再度剣を構えようとした瞬間、バルドゥールから何か異様な気配が発せられ、思わず皆が体をぎくりと強張らせた。おぞましい程の覇気が、辺りを支配していた。これが国をその肩に負う者の威厳か、とクロサイトでさえ背筋に冷たいものが走った。
「この……っ、さっきから何度も、小癪な!!」
「ちっ、随分と器用な真似をする!」
 それでも何とか時間を稼ぐ為にセラフィが痺れ薬を塗った投擲ナイフを死角から放つと、避けきれなかったバルドゥールは砲剣に炎を纏わせ彼に襲い掛かった。バルドゥールよりも速いセラフィだが、それよりも速く伸び足を絡め取った蔦が動きを封じ、とても避けられそうにない。耐えられるか、と受け止める為に剣を構えたセラフィは、しかし襲い来る衝撃より先に自分の前に躍り出た大きな背中の向こうで耳を劈く様な音と共に鎚と砲剣に受け止められた、炎に包まれたバルドゥールの巨大な砲剣を見た。セラフィから少し離れた場所に居たギベオンでは間に合いそうにもなく、かといって諦めてセラフィが斬られる姿を見たくなかったので咄嗟に走ったのだが、同じ思いであったのかギベオンと反対方向に居たモリオンも共に駆け出し、砲剣で受け止めたのだ。直前に目が合ったモリオンから私の砲剣と重ねろと言われた様な気がしたギベオンは、彼女が砲剣の平たい面を両手で構えてくれたお陰で片手で持っていた鎚を弾かれる事なく、二人でバルドゥールの砲剣を受け止める事が出来た。ただ、風圧によって弾け飛んだ炎は防ぎきれず、セラフィも多少火傷を負ったのだが、直撃を受けて負う筈だった傷――恐らく致命傷となっていただろうものに比べれば微細なものだった。
 そして、ギベオンが片手という事を抜きにしても二人がかりで受け止めても負けそうになっている程の力で押されながら、モリオンは声を振り絞る。
「殿下、貴方様はお優しい。
 その様なお姿になられても、私達に容赦は一切無くとも、あの娘には一度も切っ先を向けられなかった」
「………」
 彼女のその言葉にギベオンは元より、後方に退かれ手当てを受けているセラフィや彼の皮膚の冷却をしているクロサイト、炎の聖印を再度結んだローズもやっと気が付いた様に視線をバルドゥールに向けた。彼は冷静を装いながらも苦い顔で口を真っ直ぐに閉じており、偶然ではなく意図的にそうしていたと無言の肯定をしていた。
 確かに、バルドゥールと戦い始めてからというもの、彼の砲剣はローズにだけは振られなかった。腕を封じる方陣を張りその恩恵を受けた皆の傷を癒したり、フレイムドライブの炎を和らげる為の聖印を結んだり、斬撃を少しでも軽減させようと邪眼で力を弱らせたりと、それこそバルドゥールにとっては小賢しいと思うであろう細工を仕掛けるローズは、精神力を磨耗しすぎて真っ青な顔で立つ事がやっとになっているとは言えバルドゥールから受けた傷は一つも無い。それが熱砂竜などの魔物には無い情というものであり、彼が完全に魔物になりきれていない証拠でもあり、イクサビトやウロビトの犠牲を厭わないという考えは偽りであると物語っていた。
「私は! 私はそんな殿下だからこそお仕え致しました!
 殿下の御手が血塗られたものとならぬ様、殿下が数多の命を贄となさらぬ様、私は止める義務がある!
 父クリスと叔父ローゲルに変わって、私が貴方様をお止めせねばなりません!!」
「黙れ! 僕はもう覚悟を決めた!! 僕の命と引き換えに、帝国の大地を浄化すると!!」
 砲剣越しにぶつかり合うバルドゥールとモリオンは、どちらも本心を晒し合い、一歩も退きはしなかった。カートリッジ内の燃料が失われたのか、バルドゥールの砲剣からは既に炎は失われている。そしてバルドゥールの腕力が先程とは違って弱まってきており、どうやら先程セラフィが放った投擲ナイフの痺れ薬が効いた様であったし、腕の皮膚の下から伸びた蔦とは違った刺青の様な光が彼の腕に巻き付いていった。ローズの方陣が、漸く効いたのだ。
しかし。
「うあああぁっ!!」
 腕が封じられたのならばと後ろに跳んだバルドゥールは、同時に体勢を崩したギベオンの盾目掛けて尖らせた蔦を走らせ、その先端は盾を貫いた。衝撃に耐えられず割れた盾は持ち手部分の辺りだけを残し、石畳に音を立てて落ちる。そして彼だけに飽き足らず砲剣の重みで不安定な体勢のままのモリオンへも襲い掛かろうとしており、ギベオンは迷わず彼女の前へ体を翻して自分の体そのものを盾にした。図体だけはでかいし厚みもある、貫けるものならやってみると良い、とぎゅっと歯を食い縛った。だが、そんな彼の頭上と頬を掠った何かが、バルドゥールの額を飾っていた冠と砲剣を握る幹の様になった右手へ突き刺さった。手当てを終えたクロサイトとセラフィが投げた、投擲ナイフだった。
「ま……だだ、まだ……」
 硝子玉の様であった冠はセラフィの投擲ナイフによって砕け散り、砲剣はクロサイトの投擲ナイフによって投げ出された。その巨大な砲剣は既に使えそうもなかったが、念の為にセラフィが駆けてバルドゥールの手に戻らぬ様にと拾い上げる。だがそれでも尚よろめきながら向かってこようとするバルドゥールの足元を、激しい揺れが襲った。否、バルドゥールだけではない、ギベオン達もその揺れに翻弄され、立つ事すらままならなかった。煌天破ノ都そのものが揺れているのだ。どうやら巨人が地上へ這い上がる衝撃によるものらしい。その尋常でない揺れにクロサイトはすぐさまローズを抱き寄せ、よろめきながらも二人の側まで戻り身構えたセラフィはフロア全体の石畳が音を立てながらひび割れていく様を見て久方ぶりに下半身から冷えていく恐怖に襲われた。このフロアの床が崩落するのではないか、という恐怖だった。
「う、あ、あああぁぁぁぁ……!!」
「殿下!!」
 ギベオン達がバルドゥールと戦っている間、巨人は目覚めたばかりの体で随分と緩慢に上がっていたが、やはり地上への出口が狭くて無理矢理に出ようとしているのか、かなりの振動は石畳に無数の亀裂を走らせた。その一つが瞬時にバルドゥールの足元に伸び、体中に傷を負っていた彼は足を取られ、割れた地面の底へと落ちていった。その亀裂へと走りだそうとしたモリオンの腕を、慌ててギベオンが掴んで止める。
「君まで落ちたらどうするの! 落ち着いてモリオン!!」
「うるさい、離せ! 殿下っ、殿下……バルドゥールさま!!」
「モリオン、お願いだから堪えて! 僕は君に死んで欲しくない!!」
 バルドゥールを喪った事を悲しむ様な巨人の吠えた声の中で、ギベオンは亀裂から飛び降りようとしたのだろうモリオンの体をとうとう後ろから抱きすくめた。そこまでせねば止められない程にモリオンは動揺が激しく、自分の手を振りほどこうとしていたので、無我夢中で彼女を留めようとしたのだ。普段のギベオンであれば決してそんな事はしないし、そもそも女性に触れる事が出来ないのだが、必死過ぎて恥じらいなど感じる余裕が全く無かった。
「お願いだから、モリオン、堪えて、ごめん」
「うぅ、うあぁ、あぁ、バルドゥールさま、バルドゥールさまぁ……っ!」
 バルドゥールとモリオンの間に愛情が介在したのか、ギベオンには知る由も無い。だがずっとバルドゥールの事を懸念し、止める事が責務だと言い続けたモリオンには、少なくとも男女間の恋愛感情ではなく主君と仕える者の間に存在する敬愛や思慕がある様に思えた。だからと言って身投げの様な真似をして欲しくはないし、後追いだってして欲しくはない。ギベオンは煌天破ノ都全体を襲う揺れに由来するものではない震え声を絞り出し、モリオンに懇願した。彼女はギベオンに抱きすくめられたまま、泣き崩れた。
「ベオ君、リオ君をこちらへ! 一旦出よう!!」
「はい!!」
 しかし悲しむ彼らをよそに天井や壁のひび割れる音が絶えず、周囲から聞こえ続けている。このまま居るのは危険だと判断したクロサイトは、後で必ず新しいものを買うから、と約束して常に持たせてある銀色の魔笛をローズから借り受けると、ギベオンに向かって叫んだ。指示を受けたギベオンは一人では歩けないモリオンを力を振り絞って抱き上げ、クロサイト達の元へ走る。彼らが来たと同時にクロサイトが魔笛を吹き鳴らすと、景色は気球艇を停めた地上に変わった。
「オオオオオオオオォォォ!!」
 揺れから開放されたかと思うと次の瞬間には絶界雲上域の空を凄まじい咆哮が覆い、思わずローズはクロサイトに抱き着いたしセラフィ達は耳を両手で塞いだ。巨人と呼ぶに相応しいそれは、異形のものへと姿を変えたバルドゥールと同じく葉脈が見える巨大な羽を広げ、ローブの様に見える極めて高い密度の草木を纏い、長い両手を下げて動きを止めた。魔物と呼ぶにはあまりにも巨大で、あまりにも恐ろしい姿は、しかし不気味なまでの神々しさもあった。
「これは……こんなものが上を通ったらタルシスなど壊滅するだろうな……」
 絶望にも似た呟きを漏らしたクロサイトに、皆が黙って同意する。涙を止めたモリオンも、まだしゃくりあげてはいるもののギベオンに肩を抱かれたまま巨人を見上げた。こんなものを相手に戦えるのか、という思いを全員が抱き、ただ呆然と巨人を見詰める事しか出来なかった。