戻ったタルシスの街からも、巨人の姿は良く見えた。戻って大丈夫なのかという不安は全員にあったのだが、かと言って戻ってバルドゥールから受けた傷の手当てや使い込んでしまった道具の補充などの準備をしなければ死んでしまう事は目に見えていたという事と、巨人がその場から歩を進めなかった事もあり、一旦戻って休もうという意見で最終的に皆同意した。
 そして、巨人を見上げている時に現れた蛍の様な光も取り敢えずの退却を後押ししてくれた。これまで度々巫女が居る場所に現れては導く様に誘ってきたその光は、巨人の顔の高さまで上昇して消えた。巫女がまだ意識があり、巨人をこの場に留めていると言ってくれている様な気がして、ローズが巫女を信じようと言ったのだ。クロサイト達も信じる他無く、タルシスに戻ってきた。
 街門に戻ると、心配していたらしいローゲルが心の底から安堵した様な顔で出迎えてくれた。彼を見てモリオンは再度泣き崩れ、何が起こったのか到底説明出来そうに無かった為に、バルドゥールが崩落しかけた煌天破ノ都の奥底に落ちたと極めて簡素にクロサイトが説明した。そして彼女はローゲルに任せて一足先に診療所に戻ってもらい、ギベオン達は統治院へと足を運んだ。ローズも帰宅を促したのだが、一緒に行くと言って聞かなかったので結局連れて行った。
 街中は騒然としていたが、大きな混乱は無かった。皆、いつあの巨人が動き出すのかと恐怖の眼差しで見ていたが、さりとてどこかに逃げる事も出来ないので、ただ淡々と普段と変わらない生活を送ろうと試みている住民も多かった。
「おお、待ちわびていたぞ。その傷は、皇子相手に出来たものかね?」
「あの巨人相手にこの程度で済むと良いのですがね」
「その通りであるな。……疲れているところすまないが、仔細を聞かせて貰おう」
 通された執務室で、辺境伯は世界樹の方角、巨人の姿を眺めていた。クロサイト達がバルドゥールを止める事に失敗したのか、あの場で命を落としたのではないかとローゲル同様随分心配していたらしく、傷だらけとは言え五体満足のギベオン達を見て一先ず胸を撫で下ろしていた。
 辺境伯は、クロサイトの報告に対しマルゲリータを抱いたまま片手を口元にやり、じっと耳を傾けていた。煌天破ノ都から担ぎ込まれてきた重篤な帝国兵の報告も病院から受けその兵士を見舞った辺境伯は、いかに帝国が深刻な問題を抱えていたのかを目の当たりにして、話には聞いていたがこれ程までとは、と衝撃を受けており、バルドゥールがあの巨人を目覚めさせようとした事に対しある程度の理解をしてしまった。かと言ってウロビトやイクサビトを犠牲にする考えにはやはり反対であったから、何とも言えない気持ちになる。
「なるほど……、あの世界樹の巨人が動かぬのは、巫女殿の意思によるものか」
「だと私達は信じております」
「天にも届きそうな、あの世界樹の巨人は人の手に負える物ではない。本来ならばな。
 だが巫女殿が動きを封じている今なら、まだ間に合う……そうであるな?」
「そうあって欲しいものです」
「うむ……」
 クロサイトの報告を聞き、暫し沈黙した辺境伯は、自分に言い聞かせる様にまだ間に合うと言った。間に合うと信じたいのはギベオン達も同じであるが、ではあの巨人相手に戦えるのかという不安は誰にでもある。気球艇に乗って絶界雲上域の磁軸から戻った時、磁軸からでも巨人の大きさに息を飲むばかりだった。戦うにしてもどうやって戦うというのか、空中戦ともなると気球艇で戦わざるを得ないだろうけれども、足場が不安定であるし攻撃が届くのか甚だ疑問だ。
 それでも、ギベオン達はあの巨人相手に戦わなければならない。そうしなければこの一帯は壊滅するであろうし、被害はタルシス以南にも及ぶだろう。何としてもそれは回避しなければならないのだ。
「……諸君らにはとても大きな仕事を担わせてしまう事を詫びる。
 だが、成し遂げられるだろう者は最早諸君らしか居ない。
 巫女殿が留めている間にしっかり体を休めて、救出しに行って欲しい」
「はい」
 静寂を破って深々と頭を下げた辺境伯に、ギベオンが真っ先に頷いて返事をする。自分の故郷ではないが、一年近く滞在した思い入れのある街を破壊されたくはなかったし、顔見知りとなった住民や親しくなった冒険者も多く居る。そして、交流をする様になったウロビトやイクサビトが居る。自分一人の手では守り切れる筈もないが、これまで何度も絶望的だと思える魔物相手に力を合わせて戦ってきた仲間が居てくれたなら、これ程心強い事は無い。ギベオンはローズを膝に抱いているクロサイトと、彼の隣に座っているセラフィに目を遣り、彼らが自分に同意する様に頷いた事に安心した。



 自分達が休んでいる間に巨人に異変があればすぐに知らせて欲しいと辺境伯に頼み、診療所に戻ったギベオン達は、順に怪我の手当てをした。先に戻っていたモリオンは泣き疲れて自室で休んでいるとの事だったが、ペリドットが呼んできてくれたので彼女の手当てもクロサイトがした。病の事を他人に知られたくないと言っていたモリオンであったから、クロサイトが帰ってくる前に病院で手当てを受けるのも躊躇った様だった。
 そしてギベオンのヒルデブラントが壊れてしまった事とモリオンの砲剣を煌天破ノ都に置き忘れてきてしまった事、セラフィの剣がかなりの磨耗をした事などもあり、バルドゥールの砲剣を始めとした煌天破ノ都で手に入れたものを持ってベルンド工房へ行くと、工房の主人自らが店番の娘と共に出迎えてくれた。
「こいつは……かなりすごいもんだな……。
 ちょうど今出入りする様になった帝国技師が居て、そいつと一緒に新しい砲剣作ってんだが、
 遊底がうまい事造れなかったんだ。こいつなら申し分なさそうだな。任せとけ」
「お願い出来ますか、なるべく早い方が助かります。
 それと、出来たら少し小さくして頂けると有難いです。女性が使うので」
「あのお姉ちゃんが使うのか。そういう事なら張り切らせてもらうかね。
 おう、お前ら、気合い入れて取り掛かれ! 何が何でも一晩でどうにかするぞ!」
「はい!」
 以前ギベオンが何度か連れて来た事があるモリオンを知っている主人が、壊れた砲剣をまじまじと見た後に工房の奥に居る職人達に声を張り上げる。奥からは威勢の良い元気な返事が聞こえ、ギベオンは思わず頭を下げた。そんな彼に主人は照れ臭そうにこれが仕事さと笑って砲剣とセラフィのフルンティングを奥に居る弟子に持って行かせると、娘にあるものを持って来させた。
「それと、これな。やっと出来たんだ」
「良いもの、出来たよ!」
「わ……」
 出されたのは、大きな円形の立派な盾だった。以前煌天破ノ都の不思議な材質の壁の一部を持ち帰って預けていたが、こう化けたらしい。使用している材料が材料なだけに重たいのではないか、と懸念したギベオンは、しかし持ってみると思った程の重さではない事に驚いた。古く、風化して亀裂が入り通り抜けられる様な箇所も所々あるとはいえ、人が住んでいた当時は重厚な都市を形成していたのであろう壁材は、背嚢に入れて背負った時もそれなりに重たかった記憶がギベオンにはある。それなのに、意外にあっさりと持ち手が馴染んで構えられそうである事に不可解さを覚えた。
「重たくないのか、それ」
「いえ、そんなにいう程では」
「ふうん……? ……いや、重たいぞこれ」
「え、そうですか?」
 ひょいと簡単に持った盾に興味を示したセラフィが尋ねてきたのでギベオンが渡すと、セラフィは顰めっ面をしながら左手ではなく右手、彼の利き手に持ち替えた。腕力は自分よりも強いセラフィからそう言われるとは思っていなかったギベオンは首を傾げつつ盾を返してもらい、やはり左手で持ってみる。ずっと持ってたら重たく感じるんだろうかとギベオンがしげしげと盾を眺めていると、娘が笑顔で言った。
「セラフィさんは確かに腕力が強いけど、どっちかって言ったら瞬発力の方だもんね。
 ギベオン君はずっと重たい盾と鎚持って探索してたし、持久力がついたんじゃないの?」
「……そう、かなあ」
 確かに、セラフィは身軽さが売りであるので装備する鎧もギベオンが身に着ける様な金属製のものではないし、両手に剣を携えているが鎚や盾より重たくはない。ギベオンはそれに加えて背嚢まで背負っており、確実に体力も忍耐力も持久力もついた。元から持っていた素質が、冒険者として探索していく中で鍛えられたのだ。シンプルではあるがしっかりとした厚みがあり、誰かを庇う事に申し分無さそうなその盾が気に入ったギベオンが礼を言って代金を支払おうとすると、娘が両手を押し出して待った、と制した。
「これね、お代はもう戴いてるからお支払いはしなくて良いよ」
「へ? いや、盾の代金はまだ支払ってない筈……」
「キルヨネンさんが水晶宮の宮廷騎士に相応しいものを造ってやって欲しいって、お支払いしていってくれたんだ。
 彼はとても努力家で危険も顧みない、自分以外の誰かを守る事を何よりの誇りにしている素晴らしい騎士だからって」
「え……」
 盾の代金を支払った覚えが全く無いので首を傾げたギベオンは、娘から告げられた言葉に目を見開いた。ギベオンが探索に忙しかった事とキルヨネンも辺境伯やタルシスの重鎮達からの依頼を受けて忙しく飛び回っている事もあり、ここ最近は殆ど顔を合わせられていないが、同郷人であり部下にした事を抜きにしてもキルヨネンはよくギベオンを気に掛けていた。以前キルヨネン以下数名の騎士が乗る気球艇が魔物に襲われていたところを助けに入った事があるので、彼はギベオンがどんな戦いぶりをしているのかを知っており、終始一貫して自分を盾に誰かを守るスタンスを変えなかったギベオンに敬意を表し、己が上司となるにも関わらず胸に手をあてギベオンに頭を下げた。
 ギベオンとしては助ける事が当然だと思っていたし、自分だけではなくクロサイト達が居てくれたので安心して加勢に入れたというだけで、特別な事をしたという自覚は無い。しかしキルヨネンにしてみれば、恐らく世界樹と帝国に纏わる最後の戦いとなるであろう地に赴くギベオンに最高の盾を用意する金額を出す程の事であったのだ。
「本当は素材まで用意出来たら格好良かったんだけどね、って苦笑いしてたよ。受け取ってあげてね」
「……うん」
 キルヨネンから代金を受け取った娘がその時の彼を思い出しながら言い、ギベオンもしっかりと頷く。ただ、盾の持ち手の裏に刻まれていた「偉大なる騎士へ」という文字にはこの時に気が付く事が出来なかった。
 セラフィが乏しくなってしまった手持ちの投擲ナイフを補充する為に娘に在庫を確認して貰っている間、ギベオンはまじまじと盾を見ていたが、十本単位で購入したセラフィにはたと思い付いたかの様に声を掛けた。
「あの、セラフィさん、いきなりなんですけど、腕相撲しませんか?」
「は? ……本当にいきなりだな、ここでか?」
「すみません。駄目ですか?」
「いや、構わんが……すまんが台を借りて良いか?」
「ん、ああ、良いぞ」
 じっと盾を見ていたギベオンが突如思い立った様に持ち掛けてきた腕相撲に、セラフィは目を丸くしたものの特に断る理由が無かったので、工房の親方に許しを得て店内の商品陳列台の片隅を借りる事にした。世界樹が枯れて以降、往来のざわめきはあまり変わらなかったが、やはり巨人の出現によって住民は勿論冒険者も出歩いてはいても以前より覇気が無い。それでもギベオン達が腕相撲をすると言い出して店の前を通り過ぎていた数人の冒険者が見物人としてたむろし始め、観客が出来てしまった事にギベオンは緊張したものの体が硬くなったりはしなかった。今まで何度かセラフィに腕相撲を挑み、その度負けていたが、彼が重たいと感想を漏らした盾をそこまで重量があるとは感じなかった今なら果たしてどうだろうと思ったから持ち掛けただけなので、大層な勝負をしようとした訳ではなかったからだ。
「審判は俺で良いのかい?」
「はい、お願いします」
 いつもの通り、中腰になって台の上に肘をつき、お互いしっかりと相手の手を握る。セラフィはギベオンの大きくて硬い手を、ギベオンはセラフィの筋張った細い手を握り、自分の据わりの良い箇所を確かめながら動きを止めた。その二人の手の上に工房の主人が手を置き、審判を買って出る。彼に頷いたギベオンとセラフィは腹にぐっと力を込め、腕の筋肉を締めて開始の号令を待った。
「よし、じゃあいくぞ。ready? ――go!」
「おぉっ!」
「んぐっ!!」
 そして主人の手が離れた瞬間、お互いの力がぶつかり合い、以前は瞬時に台に叩き付けられていたギベオンの手はセラフィの力に対抗していて、何とか押し返そうと宙に留まっていた。何の躊躇いも無く袖を捲ったギベオンの傷や痣だらけの腕にはいくつもの筋が浮き出て、これまでに凄まじい力で魔物に大きなダメージを与え続けてきたセラフィの腕に捻じ伏せられない様に必死に留まっている。周囲に居る行きずりの者達や工房の娘は、二人の腕がどちらに傾くか息をする事も忘れて見守っていた。
 この街に来て、たくさんのものを得る事が出来た。胸を張って大事な人達を守りたいと言える様になれた。体に残る傷跡や痣を、もう気にする事が無くなった。一度も勝てた事が無いセラフィ相手にでさえ、こんな風に良い勝負に持ち込める様になれた。実に多くの人の手を借りたけれども、ギベオンは大きく変われたのだ。
「うぅ、ぅぐ、うぅ……う、あ、あああぁぁぁ!!」
「―――!!」
 バルドゥール相手に鎚を振り盾を構え続けた腕ではそろそろ限界が近く、それはセラフィも同じ事で、一気に勝負をつけようとしてぐんと力を乗せてきたその細い腕を、しかしギベオンは逆に腹の底から声を出して台に叩きつけた。お互い手加減も小細工も一切無い、本気を出しての腕相撲は、ギベオンに軍配が上がったのである。
「……あっ、あの、あの……う、腕……」
 わっ、と歓声が上がった輪の中、勝った当人のギベオンは何が起こったのか分からず息を上げながら呆然としていたのだが、セラフィが顰めっ面をしながら痛む手を振ったので我に返り、慌てた。夢中で押し返して叩きつけたものだから筋を痛めていないかと真っ青になってしまい、湧き上がる周囲の皆とは対照的におろおろとしているギベオンに、セラフィは小さく息を吐いて叩き付けられたその手を差し出した。
「お前の勝ちだ」
「あ、う、」
「俺の全力に勝ったんだ、自信を持て。クロも言っただろう、お前は俺達の自慢のフォートレスだ」
「……ひぇ、う、うぅ、は、はい、はい……」
 差し出された手を何とはなしに握り返し、握手の形をとると、セラフィはがっちりとギベオンの手を握り、彼の翠の目をまっすぐ見ながら言った。ギベオンが大獅子によって頭を負傷した夜、悪夢を見て魘され吐いた事をクロサイトから聞いていたセラフィは、兄が既に心のケアをしたと知っていたけれども自分からはお前を信用していると伝えられておらず、いつかきちんと面と向かって言おうと思っていて、今漸く言う事が出来た。それを聞いたギベオンは見る間に顔を歪ませて、涙をぼたぼた零した。
 何度も述べたが、ギベオンにとってクロサイトとセラフィは師という位置付けだ。友人と言ってくれてはいるがやはりこの二人は敵わない存在で、追い掛ける背中だと思っている。しかしクロサイトは木偶ノ文庫で監視者と排除者に襲われ守れなかった事を詫びて自分自身を貶したギベオンに勝負を挑み、己の持ち得る力を込めた鎚を受け止められた。そして今、セラフィはギベオン相手に一度も負けた事が無かった腕相撲に初めて負けた。ギベオンが二人に肩を並べる事が出来たと言っても良いだろう。
 だからと言って、遠くに見えるあの巨人に勝てるかどうかなど、誰にも分からない。分からないが、今度こそ地に足を付けてしっかりと立てる様になれた気がして、ギベオンは涙を袖で拭って泣き止んだ。その時の顔がひどく精悍なものに見え、セラフィも工房の主人や娘もギベオンに今までにない頼もしさを感じていた。



 その日の夜は普段通りに過ごすというのも無理な話で、皆いつもより口数が少なかった。夕方に孔雀亭に赴いたローズはガーネットに連れられて診療所まで戻ってきており、せめてこんな日くらいは、とガーネットが声を詰まらせたので、クロサイトも彼女を診療所に招き入れた。ローズはタルシスに留まらずにクロサイト達と共に行くと決断しており、その事をガーネットに告げに行き、娘を止める事など出来ないと悟ったガーネットは今夜だけでも一緒に寝ましょうと言ったのだ。その言葉に、ローズも喜んだ。
 ローズは、幼いから現状を把握せず危機感を抱いていない訳ではない。これまでに何度も危ない目に遭ってきたし、初めて出来た友人も目の前で悲惨な姿で亡くしている。だから怖くないと言えば完全に嘘であるし、あんな巨大なもの相手に自分の封縛が通用するのかという不安もある。だが、少しでも父を始めとする皆の役に立ちたかったし、巫女を助けに行きたかった。そんなローズの意思と考えを尊重して、ガーネットは娘が戦地に赴く事を許したのだ。
「子供の成長は早いっていうけど、こんなに一気に大人にならなくても良いのに」
「……まだ、子供だ」
「分かってるわよ。だけど……金剛獣ノ岩窟の時もそうだったけど、死ぬかも知れないって分かってても行くってこの年で言える?
 私が八歳の時なんて、ウロビトの里でウーファンとかくれんぼしてたわよ」
 ホムラミズチと戦う前夜に三人で寝たいと言った時の様に、ローズがもじもじしながら今日もそう言ったので、クロサイトとガーネットはローズを挟んで向かい合って横になっている。バルドゥールと戦った時にかなり精神力を摩耗したローズは寝台に潜り込んですぐ眠ってしまったが、それでも片手ずつを両親と繋がなければ眠らなかった。心地よさそうに眠っているローズの寝顔には、幾分か血色が戻りつつある。子供の回復力は早いな、と空いた片腕で頬肘をつきながらぼんやりと思いながら、クロサイトは僅かな沈黙を挟んで言った。
「成長を早めさせてしまったのは、間違いなく私が原因だ。すまなく思っている」
「ほんとにね」
「君にも随分と心労をかける。……だが、前も言ったがこの子は私が命に替えても守る。絶対にだ」
「それは大前提よ。でも私、貴方が死んだら泣くわ」
「おや、意外だな」
「三日三晩泣いて忘れてあげる。それから他の男を好きになるわよ」
「……それは…… ……いや、君の人生だし私には何も言う権利は無いな。好きにすると良い」
 ローズがこの数ヵ月ですっかり大人顔負けの冒険者となった事に、クロサイトだってすまない気持ちは抱いている。本当ならタルシスでペリドットと共に留守を預かり、自分達の帰りを待っていて欲しいのだが、行くと言った以上は置いて出発してもホロウクイーンの時の様に一人で追い掛けてきてしまうだろう。だから何があったとしても守ると言ったクロサイトに、ガーネットは薄く笑った。子供が居ると言っても妻にした訳ではないクロサイトには、ガーネットが別の男の手を取る事を咎める権利など無い。しかも、自分が死んでしまったならその後の事などもっと口出し出来る筈がない。
 努めて冷静に、しかし胸に去来した苦々しい思いに思わず眉間に皺を寄せると、ガーネットは空いた手を伸ばしてクロサイトのその眉間を指でぐいぐいと押した。
「いたた。何だね」
「私は行ってらっしゃいとしか言えないのよ。でも、それはお帰りって言う為のものなんだから」
「………」
「お早いお帰りを待っているわ。私が他の男に心移りしない内の、ね」
 最後の夜になるかも知れないというのに顰め面をされるのは不本意とばかりにクロサイトの眉間を押したガーネットの声は、僅かに震えていた。このままの距離の方がお互い心地よいと思っていても、やはりガーネットにとって目の前の男はつらくとも耐えてみせると決意し子を産んだ程の相手なのだ。様々な男から言い寄られ、口説かれ、結婚の申し込みも受けたが、誰一人として靡かなかった彼女は、別に子を成したからと操を立てている訳ではなく単にまだクロサイトの事が好きなのであって、それを知っておいてほしいとガーネットは思う。
 少し拗ねた様のまま離されたガーネットの手を、クロサイトが軽く掴む。そしてアルコールによって多少油分の足らない彼女の指先にそっと口付け、ふ、と小さく笑んだ。
「そうだな、君のビターズも作らなくてはならないからな」
「……そうよ。私、あのお薬が一番気に入ってるんだから」
「それは光栄だ」
 指先にだったが突然の口付けに不意討ちを食らって目を丸くしたガーネットは、しかしクロサイトの言葉にこんな時でさえ普段通りであろうとすると感じ、敢えていつもの調子で返した。それに対しおかしそうに喉の奥でくつくつ笑ったクロサイトはローズの小さな手を握り直し、暫しの優しい時間を堪能する事にした。



 夜が、明けた。雲一つ無い、快晴と呼ぶに相応しい空は、しかしタルシスから見える巨人の姿をはっきりと映している。朝の支度の為に裏庭に出たギベオン達はただ黙って眺めるしか出来なかったのだが、朝食は努めて普段通りに摂ろうと努力した。食事を受け取りに行ったセフリムの宿の女将など、巨人について何の事ですかときょとんとした顔になった辺り、混乱し過ぎて何が起こったのか受け止めきれていないらしい。
「――じゃあ、行くね」
「うん……」
 そして診療所を出ようとしている自分達を見送りしてくれたペリドットにギベオンが言うと、彼女は少しだけ目尻を赤くしたまま力無く頷いた。腹もそろそろ大きくなっている事とセラフィが疲れていた事もあってほんの僅かな間だけになってしまったが、昨夜は裏庭でゆったりとしたステップのワルツを二人で踊り、ペリドットは最後には耐えられずに泣いてしまったし戻った部屋でも抱き着いて暫く泣いていた。行かないで、と言うつもりは無かったが肩を並べて共に戦えない事がつらく、それを吐露すると、セラフィは待つ人間が居てくれるから帰ろうと思えると言ってくれた。だから、彼女は診療所で皆の帰りを待つ事が仕事なのだ。
「ほら、ペリドットちゃん、笑顔」
 沈みがちになったペリドットの背に優しく手を添えたガーネットは、ローズに向かって微笑んだ。身支度を手伝いながら母様はここで待っているからね、と言ったガーネットに、ローズははいと返事をしてから辿々しく抱き着き、暫くそのまま動かなかった。急かすのは偲びないがとクロサイトは思ったが、さりとてダイニングで待っているだろうギベオン達を待たせるのも悪いと思い行こうかと言おうとすると、ローズはきちんと自分でガーネットから離れてはにかみながらいってきますと言った。そんな心の強い娘を送り出すのに悲しい顔はしていられないと、ガーネットは無理に笑みを作った。
「ワールウィンドさん、後は昨日お話した通り、よろしくお願いします」
「ああ。……そうならない事を願ってるけどな」
「そうならない様に精一杯やりますけど、こればっかりは僕達も分かりませんから」
「そうだな」
 見送りには、隣の宿屋からローゲルも顔を出してくれていた。前日に俺は行けないが帝国の騎士はいつもお前と共にあるとモリオンに赤碧玉のペンダントを渡した彼は、激しく泣き衰弱していた姪の代わりに自分が戦地へ赴きたかったのだがまだ足の骨が完治しきれていない事もあり、逆に足手纏いになってしまうと判断して言えなかった。しかしモリオンはバルドゥールが喪われた上に巫女まで喪う訳にはいかないと、あの巨人と戦う事を選んだ。工房から戻ったギベオンから砲剣は一晩で仕上げて貰える旨を聞き、赤碧玉と同様、全ての帝国騎士と共に戦うのだと思うと恐怖も飛んだ。
 そしてローゲルは昨日の時点で、もし自分達が巨人の討伐に失敗し、戻らない事があったならば、タルシスの住民の避難を辺境伯と共に指揮する事をクロサイトから頼まれた。帝国の艦は技師達によっていくつかタルシスに持ち込まれており、住民全員を乗せるには厳しいかも知れないが、一時的な避難は出来るだろう。そうならない様に戦う事を、ギベオン達は要求されていた。
 大勢の冒険者で挑んだとしても相手は巨大で、それこそ空中で気球艇同士がぶつからないとも限らず、今日もやはり彼らだけであの巨人に挑む。たった五人と言えばそうだが、しかしこれまで幾度と無く死線を乗り越え戻ってきた五人だ。セラフィは結婚した時に自分の護り石であるセラフィナイトを譲った代わりに貰った橄欖石のペンダントに服の上からそっと触れると、行ってくる、と妻に告げた。
「行ってらっしゃい。お早い帰りを待っているわ」
「はい」
 これ以上留めていては出立出来なくなるからと、ガーネットがいつもの通りの言葉を紡ぐ。彼女のその言葉に、皆が全ての覚悟を決めたかの様な顔で頷いた。遠くに見える巨人が待つかの様に不気味に静かに佇み、まるで彼らを見詰めている様でもあった。



 気球艇の発着場に直結している交易場に向かう前に立ち寄ったベルンド工房で受け取った砲剣は、恐らく二度同じ物は造れないだろうと言われる程のものだった。今後改良出来たならこれより強力なものは出来るかも知れないが、現状では耐えられる遊底が造れないとの事らしい。バルドゥールが扱っていた砲剣は皇家に代々伝わるものであったから特別仕様の砲剣であったのだろうという推測は出来たし、帝国の技術が高いものであると再確認させられた。
 その砲剣を携え、モリオンは長い灰銀の髪を靡かせて気球艇の甲板から巨人を眺める。長期戦になると分かっていたのでしっかりと体力をつける為に絶界雲上域に生息している極毛ゴートの干し肉を皆で齧り、ゆっくりと巨人に近付いていく。巫女の意思で煌天破ノ都がある場所から動かないままで居る巨人は、気球艇を視界に認めたのか視線で追い掛けてきた。
「……今のところ、病の影響は無さそうだな」
「そうですね。戦ってる最中に発病って事も考えられますけど……」
「その時はその時だ。とにかく全力でぶつかるしかない」
「ん……」
 巨人の呪いの病の発病を懸念していたクロサイトは、しかし自分の体に異変が無い事に安堵しつつも僅かにモリオンを見て彼女の悪化が無いかどうかを確かめる。普段通りの顔色の彼女にも、まだ悪影響は無さそうだ。ドライブを使えるモリオンはセラフィと並ぶ火力がある為、彼女が攻撃を繰り出せないとなるとかなり厳しい戦いになってしまうので、現状を維持出来ているのは有難かった。
「さて、どう仕掛けるか……そもそも巫女殿はどこに取り込まれたのだろうな」
「たぶん、あたまだとおもいます」
「ふむ? 何故だ?」
 木偶ノ文庫を通過した辺りで気球艇を止め、巨人を眺めつつクロサイトが顎鬚を撫でながら疑問を漏らすと、ローズが錫杖を抱き巨人から目を離さないまま言った。エレクトラのロッドもしっかりと携えた彼女は、そのまま続ける。
「おうじさまとたたかうまえ、おへやにはあのきょじんのおかおしかみえませんでした。
 まだねているきょじんにみこさまをとりこませるなら、あのおへやからとどくばしょじゃないとむりです。
 それと、かんむりをかぶったひとのことばをきょじんにつたえるのなら、
 むねやおなかよりあたまのほうがはやいです」
 言葉を慎重に選びながら言ったローズの予測は、大人達を納得させるには十分な説得力を持っていた。確かに煌天破ノ都でバルドゥールが居た部屋に入った時、巨人の顔以外の部位は見えておらず、胸や腹に取り込ませるにはあの部屋から飛び降りなければならない。そして巫女が巨人に言葉を伝えるのであれば、直接脳に相当する部位に居た方が効率が良いだろう。クロサイトは娘のその予測に感心しながら鎚で肩を軽く叩いた。
「驚いた、ローズは随分賢いな」
「たぶん、ですけど……」
「いや、恐らくそうだろう。
 あれ程苦しまれていた殿下が巨人の頭部以外の部位に巫女を取り込ませるのは厳しかろうからな」
「じゃあ、頭……っていうか、顔を狙う、で良いですかね」
「そうだな。あの両手が邪魔だがな」
 クロサイトに褒められたローズが、それでも自信無さげに言葉尻を小さくしたのだが、モリオンも同意しながら巨人の頭部を睨み付ける。熱砂竜の時と同様、標的が大きいのでかわされる心配はあまり無いだろう。ただ、セラフィが言う様に不思議な紋様のある両手が顔への攻撃を防ごうとするのは目に見えていた。ローズの腕封の方陣が果たしてどれ程通用するかだな、と胸の中で呟いたクロサイトは、いつもの通りに片手を白衣のポケットに入れてギベオンに目配せをし、気球艇を巨人に向かわせる様に指示を出した。
 近寄ってきた気球艇に好奇の眼差しを向けながらも、巨人は警戒する様に唸っている。そして、顔に近寄ろうとしたその時、ずっと下げていた両腕をやおら上げて拳を振り下ろそうとした。辛うじて直撃は免れたが、やはり両手は危険だと認識して良いだろう。叩き落とされてしまったら、この高度であればまず皆助からない。誰よりも高い所が苦手なクロサイトはその考えに腰の辺りから一気に背筋を駆け上った寒気にぶるりと体を震わせたけれども、頭を振ってからローズの肩に手を乗せ、頼んだよ、と目で言った。父の瞳に頷いたローズは、きっと巨人を見据えて錫杖を甲板に突き立てた。
「――行きましょう! 出来るだけ僕が引き付けて盾になります!」
「死なん程度に頼んだ、ぞ!!」
 ローズの錫杖の音を合図として、腰に巻いたポーチのポケットを叩いてから鎚と盾を握り締めてしっかりと足を踏ん張ったギベオンが宣言したのを受けて、セラフィが叫びながら三本の投擲ナイフを巨人の両手と顔目掛けて放った。挨拶代わりのその投刃は見事に三本とも命中し、巨人は言い様も無い唸り声を上げて完全にこちらが敵であるとの認識をしたらしく、痺れた手を振り上げながら投擲ナイフを放ったセラフィを標的に定めようとした瞬間、ギベオンが鎚で盾を打ち鳴らした音に意識を逸らした。
 気球艇に乗っての戦闘は何もこれが初めてではなく、銀嵐ノ霊峰でアイスシザーズや怒れる猛禽と戦った経験もある為、術者が大地に足を付けていなくても方陣を張れる事、また方陣から湧き出る大地の気の恩恵を受ける事が出来るとギベオン達は知っている。ただ、この巨人を相手にそんなに大きな方陣を張れるのかという不安がギベオンにはあったのだが、ローズはその不安をいとも簡単に払拭した。彼女の張った円状の方陣は巨人の胸の辺りに金色の光を発しながら現れた。
「な、おい、ギベオン、死ぬぞ!!」
 その方陣を見て、ギベオンは気球艇の操縦を変わったクロサイトが巨人の腕に近寄らせたと同時に、何と甲板から飛び降りた。ぎょっとしたモリオンが手を伸ばすも届く筈が無く、ローズは短い悲鳴を上げたのだが、ギベオンの体は空中に浮いたまま地面に落下しなかった。方陣が、足場の役割を果たしていたのである。そうかその手があったな、とクロサイトもセラフィも思い出した様な顔をした。
「うおおおぉぉっ!!」
 目の前にあった巨人の手、左右の判断が咄嗟に出来ないギベオンにはそれが右手だと分からなかったのだが、ガントレットを通して体中の静電気を鎚に送り込んで叩き付けた。電撃の痛みで弾かれた手は顔を守ろうとして反撃してこなかったけれども、封じが効いていない左手が彼を掴みにかかる。その巨大な左手を、炎の爆撃が弾いた。方陣が足場になると知ったモリオンがすぐさま気球艇から飛び出し、砲剣を起動させフレイムドライブで斬りつけたのだ。
「いきなり飛び降りたから驚いただろう。一か八かの賭けをするな」
「あ、いや、昔は丹紅ノ石林の高低差を気球艇無しでどうやって上り降りしてたんですかってウーファンさんに聞いた事があるんだ。
 かなりの術者じゃないと無理だけど方陣で昇降してたって言われたから」
「そういう事は早く言え。ローズが半泣きだぞ」
「ローズちゃん、気球艇が出来た後に生まれたから知らなかったんだね……」
 ギベオンはまだクロサイトがローズの父であると名乗り出て無かった頃に一人でウロビトの里に訪れた際、何故ウーファンがクロサイトとセラフィに瘴気の森で出会えたのかを尋ねた事がある。当時はまだ藍夜の破片が見付かっていない筈であるから、ウーファンがどうやって深霧ノ幽谷から瘴気の森に降りてきたのか分からなかったからだ。すると、ウーファンは修練を積んだ封縛師であれば方陣を足場に出来るしある程度の昇降をさせる事が出来ると答えた。ローズはこの数ヶ月の間で多くの経験を積み、一流と言って差し支えない封縛師になったのだから、きっと足場に出来ると判断してギベオンは気球艇から飛び降りた。
 クロサイトとセラフィも、勿論方陣が足場になるという事を知っている。だが、気球艇での移動が主になっていた事ですっかり失念してしまっていた。セラフィは巨人の両手を前に鎚や砲剣を構えたギベオンとモリオンの背を見ながら、背後で方陣を張っているローズに声を掛けた。
「ローズ、お前はそこで方陣に集中しておけ。余裕が出来たなら印術での援護を頼む。お前の方陣が俺達の命綱だ」
「は……はいっ」
「クロは無理せずローズを守れ。手当ては任せた」
「空中戦でなければ良かったんだがな……」
「言っても詮無いだろう、投刃で援護してくれ。行ってくる」
 高所恐怖症のクロサイトでは地上が見える方陣の上に乗る事すら出来ないだろうと判断し、セラフィが医者業に専念しろと暗に言うと、クロサイトはこんな時に不甲斐ないと苦虫を噛み潰した様な顔をした。しかし無理をして肩を並べられても本来の動きが出来るとも思えず、そうなると隙が大きくなって盾役のギベオンの負担が増す。それは避けたいし、しっかりと後衛で怪我の応急処置をしてくれた方が心強い。クロサイトはいつだって、ギベオンやセラフィの大怪我をいち早く適切に処置して命を助けてきたのだ。そのクロサイトが万一倒れたら状況がかなり厳しいものとなる。セラフィは背中で兄と姪が自分達を間接的に守ってくれている事を感じながら、ギベオン達同様に気球艇から飛び降りた。
 過去の人間が創り出した、大地を浄化する為の巨人は、凄まじいまでの猛攻を見せた。右手で旋風を起こして斬り付けてきたり、またかなりの密度で絡まっている外装の草木を千切り取って投げ付けセラフィの投刃の様にしたり、かと思えば左手から蔦を伸ばし腕や脚を絡め取って封じようとしてきた。そしてローズが操る氷槍の印術よりも遥かに強力な、凍った土で作られた槍の様なものも飛ばしてきたりもした。金属製の鎧を着用しているギベオンやモリオンでは避けきれず、かなりの頻度でギベオンがモリオンを庇ったが、身軽なセラフィはそれらの攻撃も何とか避け、自分を掴もうとしてきた巨大な手をリズム良く足場にして飛び、防御が間に合わなかった巨人の顔を斬り付けた。彼は以前は本能だけで動いていた男であったが、ペリドットを娶ってからというもの彼女とステップを踏む機会があった為に輪をかけて動きが良くなっている。しかしやはり手が邪魔で、巫女が取り込まれたのであろう顔に近付く事が難しい。
「……クロ! 左手にナイフを投げろ!!
 ベオにモリオン、身構えろ! ローズはなるべく陰に隠れて頭を低くしていろ!!」
 モリオンが二度程ドライブを叩き付けた事とセラフィの痺れ薬を含ませた投刃によって麻痺し、そこを彼が渾身の力で斬り付けていた事によって巨人の左手が顔の位置まで上げられているものの力無く垂れていたのだが、目を閉じ両手をかざして祈り始めた巨人の姿にセラフィは今までに無い悪寒が背筋から全身を駆け巡るのを感じた。嫌な予感がする、腕を一本だけでも潰さねば、と感じたセラフィの叫びにクロサイトも応え、扱いには注意しろよ、と渡された猛毒を塗り付けた投擲ナイフを巨人の左手に向かって投げた。幸いな事にナイフは見事命中した上に毒も効いた様で、その左手目掛けてセラフィが二連続で、まるで黒い影が息の根を止めようと噛み付くかの様に斬り付け、巨大な手は力無く地面に向かって垂れ下がった。
「あああぁぁっ!」
「うわあぁぁっ!!」
 だが次の瞬間に巨人の目が見開かれ、深緑の色をした空間が生まれたかと思うと、激しい衝撃が全員を襲った。箱状の空間は正しく巨人が作り出した聖櫃と言っても過言ではなく、びりびりと響いた体のあちこちから皮膚が破れ出血したと分かる。セラフィの号令のお陰で攻撃に身構え踏ん張ったギベオンやモリオンでさえ気球艇に吹き飛ばされたのだから、その衝撃がいかに凄まじかったかを物語っている。ただ、気球艇が墜ちなかった事は幸いであったし、物陰に居たローズはそこまでひどい怪我を負う事は無かった。だが、間近で直撃してしまったセラフィが甲板の上で意識を失っていた。
「ローズ、一旦破陣してベオ君とリオ君の傷を塞いでくれ!」
「はい!」
「フィー、起きろ! くたばってる場合じゃないぞ!!」
 火力のあるセラフィの意識を戻す事を優先するならばギベオンとモリオンの手当てが後回しになってしまうのだが、偶然とは言え全員が甲板に戻ったので破陣する事に何ら差し支えはなく、クロサイトが瞬時に判断してローズに指示を出す。その指示にすぐに応えたローズの破陣によって全員の傷が幾分か塞がり、ギベオンとモリオンは所持していたメディカで手早く自分の処置を施した。セラフィは呼吸も脈もあったので心肺蘇生法を試みるまでもなく、クロサイトは弟を抱き起こして荷物の中から取り出したネクタルの小瓶を開けて匂いを嗅がせた。
「……う……ぐ、……いづっ……」
 その甘い匂いに眉を顰めて瞼を開いたセラフィに、クロサイトは安堵の息を吐く。意識が戻った事により巨人の攻撃を直撃した体の傷の処置を始めた彼は、まだ意識がはっきりしないセラフィに悪態を吐いた。
「肝を冷やしてくれるな。お前が要だぞ」
「……全員無事か?」
「ああ、どうやらお前が腕一本潰してくれたお陰で威力が弱まったらしい」
「そうか」
 追い打ちをかけてくるか、と懸念していた巨人は、ローズが再度張った方陣を足場にして飛び出したギベオンとモリオンが何とか防いでいる。体力が高い二人は若い事もあって諦めずに攻撃を繰り出し、右手を潰す事に専念していた。だがその右手が光を発する壁の様なものを作り出し、二人の鎚や砲剣の威力を弱めてきた。小賢しい小細工をする、と、クロサイトに左腕の傷の包帯を巻いてもらったセラフィはローズが持ってきてくれた剣を手に立ち上がった。耐性があるらしい巨人は中々封縛されてくれそうもないが、方陣によって足場が出来る事と大地の気を分けてもらえるという恩恵は大きい。
「いい加減あの腕も鬱陶しいな、纏めて毒が効けば良いんだが、な!!」
 ローズの事はクロサイトに任せ、甲板から方陣へ飛び移りながら毒を塗り付けた投擲ナイフを二本投げたセラフィは、モリオンを庇いながら耐え続けていたギベオンに労いの言葉を掛けて肩を並べた。彼が戻ってきた事にほっとした様な顔を見せたギベオンはぐっと鎚を握ると、猛毒が効いたらしい右腕に向かって電流を帯びた一撃をお見舞いし、続くモリオンも冷却出来た砲剣に炎を纏わせドライブを叩き込んだ。光の壁を以てしてもその猛攻に耐えられなかった巨人の右手は、左手同様力無く落ちそうになったのだが、最後の足掻きなのか完全に油断していたギベオンの脇を擦り抜け気球艇に向かった。
「させるか!!」
 しかし、ローズを襲おうとした長い爪はクロサイトが振り落とした鎚によって弾かれた。娘を守るとガーネットに言った言葉は偽りではなく、方陣に飛び移れなくてもここで気球艇を守る事くらいは出来るのだ。それでも尚も伸ばしてこようとした手に鎚を構え直したクロサイトに、ローズが叫んだ。
「とうさま! ふせてください!!」
「?!」
 その叫びに咄嗟に伏せたクロサイトの頭上で、巨人の右手に爆炎が弾けた。モリオンが操るフレイムドライブよりは威力が小さいが、それでも巨人が悲鳴を上げた程の炎は今度こそ右手を撃沈させた。ローズは爆炎の印術は使えなかった筈だが、とクロサイトは立ち上がりながら振り向いたが、ローズはえへへ、と父にはにかんだ後、自分達の無事な姿を見て方陣の上で愁眉を開いたモリオンに紋様が消えた札を掲げて見せた。
「リオねえさまのおまもりのおかげで、とうさまもわたしもぶじです! ありがとうございました!」
「……それは何よりだ!」
 ローズが手に持っているのは、モリオンが以前彼女にお守り代わりに渡した爆炎の起動符だった。モリオンから渡されて大切に持っていたローズは印を結ぶには間に合わないと判断し、ワンピースのポケットに入れていたそれを素早く出して発動させたのだ。ギベオンが物騒なお守りだと思ったその符は、しかしこの様な状況下では頼もしいもので、事実クロサイトとローズを守った上に気球艇も無事だった。色気も何も無いものをやってしまったと少しだけ悔いていたモリオンであったが、危険を回避させる事が出来たなら良いと毒に冒された巨人に再び対峙した。
 毒の耐性が上がる事を防ぐ為にクロサイトが以前も使った黒い霧を発生させる書を開き、巨人が繰り出す炎や氷の攻撃をギベオンが引き付けながらセラフィやモリオンが斬撃を浴びせる。巨人と言っても植物なのだ、もたもたしていたら両腕が復活してしまう可能性もある。皆の疲労の色も濃くなってきており、取り込まれている巫女の姿を早く見付けなければとギベオンが額から流れる汗を袖で拭ったその時だった。
「あ……ああぁぁっ?!」
「なっ……?!」
 突如悲鳴を上げたのは、モリオンだった。彼女は右腕が急激に固まっていく感覚と共に、激しい痛みに襲われ悲鳴を上げたのだ。何が起こったのか、と砲剣を握る右手を見ると、手甲や鎧の隙間から蔦が伸び、砲剣に絡もうとしていた。――芽吹いてしまったのだ。今まで皮膚が樹皮の様になっていただけで進行していなかった病によって。
「よりによって……このタイミングでかっ!」
 心底忌々しげに吐き捨てたモリオンは、蔦が恐ろしい早さで伸びて砲剣の持ち手に絡まろうとしているのを見て、まるで煌天破ノ都で戦った時のバルドゥールの様だと錯覚した。何もそれは彼女だけが思った訳ではない、何が起こっているのか理解出来ず呆然としているギベオン達も思った。
「くそっ……! よそ見をするな、死ぬつもりか!!」
 巨人の近くに居るからなのかバルドゥールの様に制御し自分の手足の様に扱う事は出来ず、見る間に伸びて砲剣の持ち手を絡め取ろうとしている蔦にモリオンはあまりの動揺に動きを止めてしまったギベオンに舌打ちをしながら一喝した。こちらに気を取られていては、折角の両腕の再生までの時間を無駄にしてしまうと思ったからだ。
 バルドゥールは冠を介して巨人と繋がっていた為に蔦も自在に操る事が出来ていたが、モリオンには巨人との媒体が無いので制御が出来なかった。そればかりか右腕から伸びる蔦が砲剣を絡め取るだけに飽き足らず、右腕を覆う鎧を突き破った蔦の先端が鋭く尖り突剣の切っ先の様になった。両腕を失った巨人が、腕の代わりに病を媒体としてモリオンを使おうとしている。
「いかん! ローズ、今リオ君に寄るのは危ない!」
 そうと真っ先に気が付いたクロサイトは、しかし彼女を巨人から離そうと駆け寄ろうとして甲板から方陣へ飛び移ろうとしたローズの小さな体なら易々と貫いてしまうだろう蔦が娘に向かって一直線に襲い掛かろうとしていた為に、全速力で走って咄嗟に間に入った。二人諸共貫かれるか、いや止めてみせると下半身にぐっと力を込めたクロサイトは、次の瞬間に目に飛び込んできた光景に息を飲んだ。
「―――!!」
 体を襲う筈の衝撃は来ず、貫こうとしていた蔦は宿主を失い甲板に音を立てて落ちる。その向こう、蔦の根本であった筈のモリオンは、振り絞った力を込めた左手で制御の利かない右手から蔦に絡まった砲剣を奪い取り、そのまま自ら右上腕部から斬り落としていた。最早細い幹と言っても良い程に病が進行していた腕が方陣の上に転がり、彼女が斬り落とした箇所から鮮血が飛び散る。激痛に顔を歪めたモリオンは、それでも顔面蒼白となったクロサイトに叫んだ。
「ローズは?! 無事か?!」
「ぶ……無事、だが、何て事をするのかね!!」
「私はまだ赤子だった妹を助けられなかった! 二度と喪わせるか!!」
「!!」
 彼女の悲痛な叫びに、クロサイトが目を見開く。そして、ギベオンやセラフィもモリオンのその言葉でローゲルが言っていた彼女の少女の頃を思い出した。アルフォズルと共に出立したクリスが戻らなかった事を悲観した彼女の母は入水自殺をしたと、ローゲルは確かに言っていた。クロサイトは直接モリオンから聞いたので、母親だけでなく生まれたばかりの妹も亡くしたと知っている。それが約十年前という事は、つまり彼女の妹は生きていればローズとあまり変わらない年になる筈だ。モリオンは死んだ妹とローズを重ねて見ていたからこそ、ローズを遠ざけ病を感染さない様に細心の注意を払っていた。
「っ、油断している奴を優先して狙ってくるとは性格が悪いな!!」
 あまりの痛みに涙が零れたモリオンは、背後に感じた嫌な予感を察知して咄嗟に振り向いた。巨人が隙を狙って凍土の槍を自分に向かって飛ばそうとしている。そしてその鋭い先端が自分に対して一直線に飛んできて、利き手でないが防げるかと砲剣を構えた彼女は、自分の前に躍り出てその槍から守ってくれた背の向こうで黒い影が巨人に斬り付けているのを見た。そして何とか防ぎきったその背が切羽詰まった様に振り向き、有無を言わさず自分を抱き上げた事に面食らった。
「クロサイト先生! お願い出来ますか!!」
「ああ、連れてきてくれ! すぐに止血する!!」
 モリオンを抱き上げたギベオンは気球艇まで駆け戻ると、彼女をそっと甲板に下ろした。その顔は泣きそうで、先程のクロサイトと同じ様に真っ青になっている。お前が泣く必要は無いだろう、と喉まで出かかったモリオンは、ギベオンが片膝をつき右手を左胸にあて頭を垂れた事に驚き、言葉を封じられてしまった。
「僕は、君……いいえ、貴女ほど気高く勇気のある騎士を知りません。
 肩を並べて戦える事を誇りに思います。僕の誉れです」
「………」
「……ローズちゃん、余裕なんて無いかも知れないけど、援護頼んだよ!」
「は……はい!」
 心の底からの称賛と尊敬を込めたギベオンの声は、やはり涙で震えていた。彼はモリオンの潔い犠牲の行動に衝撃を受けたし、また眩しく映った。自分は仲間を守る為に体を盾にする事は出来るが、果たして彼女の様に体の一部を躊躇い無く斬り落とせるだろうかと自問しても答えは出ないからだ。このまま甲板で安静にしておいてほしいと思いながら、ギベオンは背後のセラフィが巨人と激しい攻防を繰り広げている音に鎚と盾を持って立ち上がり、ローズに出来る範囲での援護を依頼した。ローズの元気良い返事を聞いて涙を吹っ切る様に駆け出して行ったギベオンの後ろ姿を、モリオンは切断面の痛みも忘れて見送った。
「……クロサイト殿、止血のその布、もう少しきつく絞めてくれ」
「馬鹿を言うな、壊死してしまう」
「出血多量で死ぬより良い」
「……もしや、行くつもりではあるまいな?!」
「止めても無駄だ。あの二人だけでは足らんだろう。
 貴殿はどうかセラフィ殿やギベオンが負傷した時の為にここに居てほしい」
 クロサイトに更に絞め上げる様にと要請したモリオンの目は涙で潤んではいたが強い光が宿っており、クロサイトやローズが止めても制止を振り切って駆け出して行くだろう事は目に見えていたし、死を覚悟して行く者の目には見えなかった。彼女はローゲルから赤碧玉を預かっており、叔父が戻るまでに死んでいった帝国騎士達が懐に眠っている。そして何より、父が肌身離さず着けていたロケットが胸にある。彼らと共にある以上、モリオンは死ぬ訳にはいかなかった。
「あと少しの辛抱だ、ローズ、耐えろよ」
「は、はい、リオねえさま、あの、」
「帝国騎士はな、腕一本無くした程度では倒れんのだ。
 だがさすがに空中では戦えん、お前の方陣が無ければ私は勿論あの二人も落ちる。
 気合いを入れて張り続けろ、良いな!」
「は……はいっ!!」
 切断面から血が吹き出ない様にガーゼや包帯を巻き付け応急処置を済ませ、要望通りに三角巾をきつく縛ったクロサイトが苦い顔をしながらも良いぞ、と巨人の元に行く事を許すと、モリオンは砲剣のグリップを握り締めてローズに言った。大きな怪我をしていないローズの返事に満足した様に口元だけで笑ったモリオンは、炎や凍土の槍に耐えるギベオンを盾に剣で応戦するセラフィの元へ駆け出した。
「二人共、両サイドに避けろ!」
「え……っ?!」
 方陣の光と深い呼吸で体内に気を廻らせ、負った傷からの出血を軽いものにしていたギベオンとセラフィは、背後からの叫びに咄嗟に動けなかったギベオンの首根っこを掴んだセラフィが避け、その真横を駆け抜けたモリオンがドライブを巨人に叩き込んだ。利き手を負傷したという想定での訓練も怠った事がない彼女は威力こそ弱まってはいるものの、巨人が痛みの悲鳴を上げた程のダメージを与える事が出来た。
「モリオン! まだ出血も止まってないのに、無茶だよ!」
「今無茶せずにいつする! 私は捨て置け、目の前の敵に集中しろ!!」
「でもっ、」
「構えろ! お前は盾だろう!」
 ドライブの反動でよろめいたモリオンの体を後ろから支えたギベオンは、彼女の鬼気迫る叱咤に歯を食い縛る。多量の出血で青褪めてはいても、ワインレッドの目は光を失っていなかった。そんな二人の頭上を投擲ナイフが猛スピードで走り、炎を出そうとしていた巨人の額に刺さる。気球艇から、クロサイトが痺れ薬を含ませたナイフを投じたのだ。注意を二人から反らす事と、投刃で弱らせた相手に大きなダメージを与える事が出来るセラフィの手数を少しでも減らそうとしてのナイフはどうやら効いたらしく、巨人は顔面を痙攣させていた。それを見逃す筈もなく、セラフィはモリオンをギベオンに任せて方陣を蹴り、双剣を振りかぶって渾身の力で二度斬り付けた。
「アアアァァァァ!!」
「!!」
 その攻撃に堪らず悲鳴を上げた巨人は目を見開き、鼓膜が破れるのではないかと錯覚する程の絶叫を上げた。セラフィは着地する直前にその大きく開かれた口――否、口に見える部位なのかも知れないが、奥に赤い目の様な核から伸びる緑の何か――精髄と言って良いだろうものに捕らえられている巫女の姿を見た。そして着地したと同時に辺りに強烈な電気が瞬時に集まる気配を感じ、咄嗟にそこに飛び込んだ。かなり大きな雷撃がくる、と分かったからだ。果たしてセラフィのその予感は的中し、雷光が閃いた。

「ギベオン! 彼女を守れ!!」

 操れないと分かり腹を立てたのか、巨人が狙ったのはモリオンの様で、彼女の上空に集まった電流が落ちる前にクロサイトの声が響いた。ギベオンは初めて彼からきちんと名を呼ばれた事に驚いたものの、体はしっかりと反応してモリオンを自分の陰に隠して盾を構える。それと同時にローズが結んだ雷の聖印が一帯を包み、再度投擲ナイフが巨人へ飛んだ。ギベオンとモリオンの上空に集約された電流を分散させる為に巨人の意識を自分に向けようと、クロサイトが持っていた最後の一本を投げてから高所恐怖症だというのに方陣の上に飛び移ったのだ。ギベオンがよく盾を鎚で叩いて魔物を挑発するのと同じ様に、身軽なセラフィも投刃を放っては自分に注意を引き付け、かわしていたので、弟の真似をしただけであったが、功を奏したのか弾けた光は分散してクロサイトにも向かってきた。
「――――!!」
 セラフィが巨人の奥へ飛び込んでから雷撃が放たれるまでものの数秒であったが、それを盾で受け止めたギベオンには随分長く感じられる程に強力な雷撃は、しかしローズが張ってくれた雷の聖印によって軽減された。見事に耐え抜き、身体中に電気が溜まったギベオンは、反撃の為にセラフィが飛び込んだ場所、巫女を捕らえた精髄に向かって走り、全体重を乗せた盾をぶつけた。体に溜まった電流を全て叩き付けるつもりで打ち込んだ一撃は、かなりの威力であった様だ。
「とうさまっ!!」
「大声を、出すな、ベオ君達があっちに、集中出来なく、なる」
 だが雷撃を半分引き受けたクロサイトはかなりの重傷を負い、焼け爛れた白衣と足を引き摺りながら甲板へと戻り、叫びながら駆け寄ってきたローズに人差し指を口元にあてて静かにする様に言った。意識を失いそうな程の激痛は彼の視力を殆ど奪い、ローズの顔すら不鮮明にしか映っていない。これでは自分の手当ても出来んな、三人が大怪我を負わずに済めば良いが、と懸念しつつ、彼はローズの肩を手探りで抱き寄せると、共に巨人の方を向いた。
「ローズ、心を乱しては、いけないよ。大丈夫、父様はここにちゃんと居る。方陣に集中、しなさい」
「うぅ、うえぇ、は、はい、はい」
 雷撃により皮膚が焼け爛れ血を滲ませているクロサイトの姿はローズにエレクトラの死に際を思い出させ、彼女は大きな瞳からぼろぼろと涙を零したのだが、父の優しい声を頭上に聞き、泣き声混じりで返事をした。クロサイトがこの様な重傷を負った今、方陣の上で精髄に捕らわれた巫女を助ける為に武器を振るうギベオン達の傷を癒せるのはローズしか居ないのだ。奥歯を食い縛って錫杖を甲板に立てたローズは、その目を邪眼に変えて巨人を一時的に弱らせようと試みた。
 一方のギベオン達は、巨人がこの姿に変わってから反撃を受けてはいなかった。十字に縛られた様に捕らわれている巫女の意識は無い様であるが、それでも自分を助けようとギベオン達が戦っている事が分かるのか、巨人を食い止めているのかも知れなかった。あまり長引かせたくないな、巫女さんもモリオンも早く連れ帰りたいし、と鎚を握ったギベオンは、セラフィの体力も限界が近付いている事にも気が付いていた。巨人に対しかなりのダメージを与え続けたのは、間違いなくセラフィだ。肩で息をし、普段から白い顔から更に血色を無くして脂汗もかいている。それでも袖でその汗を拭うと精髄の核に再度斬り掛かり、イグニッションを発動させたモリオンも彼に続いた。だがやはり切断した腕が痛むというのと、出血による貧血でよろめかせた彼女の体を、慌ててギベオンが受け止めた。
「下がれとか、言うなよ、一生恨むぞ」
「言わないよ。だから、せめて手伝わせて。僕も一緒に行く」
「………」
「ごめんね、支えるだけだから。一緒に行こう。行って倒して、皆で一緒に帰ろう」
「……ああ」
セラフィやモリオンの体の事ばかり心配しているギベオンだが、彼もまた巨人からの猛攻を受け続けた事により、彼らと同じ程に体をぼろぼろにしていた。鎚と盾を置き、モリオンが砲剣を握る手と彼女の腰に自分の傷だらけの手を添えたギベオンは、腰を抱いた事に短い謝罪を入れてからぐっと自分の下半身に重心を落とした。ドライブの反動に耐える為の姿勢はモリオンと目線が同じ高さとなった。
「ドライブは、あと何回出せる?」
「……二回」
「そっか。……セラフィさん、巨人もかなり弱っている筈です! 無理をさせてすみませんが、行きましょう!!」
「応!!」
 濁った呼吸を繰り返しているセラフィが息を少しでも整える為に胸に手をあてると、服の下に忍ばせている橄欖石のペンダントが掌にあたり、タルシスに居るペリドットのお帰りをお待ちしていますからねという声が耳に蘇った。クロが言った通りくたばってる場合じゃないな、と頭を振った彼はギベオンの声に威勢良く返事をし、ギベオンがモリオンと共にフレイムドライブを精髄の核に叩き込んだ後に全ての力を込めて大型の魔物が喉笛を噛み千切るかの様な斬撃を双剣で繰り出した。その力は、剣が折れる程の凄まじさだった。
「カートリッジはこれでおしまいだ、ギベオン、お前も全力で叩き付けろ!!」
「分かったっ!!」
 そして片手しか残っていないモリオンではカートリッジの交換が間に合わず、ギベオンが彼女の腰に着けてあったカートリッジを素早く抜いて砲剣に装着すると、砲剣のグリップを思い切り捻ったモリオンが声を張り上げた。その声に応えたギベオンが彼女と共に駆け出し、炎を纏った砲剣を最後の力で精髄へと翻した。
「おおおおぉぉっ!!」
 爆発したのではないかという程の爆炎を浴びせたギベオンはどうだ、まだか、と力無く背を自分の胸に預けたモリオンの体を支えながら固唾を呑んで巫女を見上げる。巫女を捕らえている不気味な緑の精髄は中央の赤い核と共に痙攣するかの様に脈打って見る間に萎んでいき、巫女の体がずるりと落ちそうになった。モリオンを支えていた為にギベオンは動けなかったのだが、幸いにもそれくらいの力は残っていたセラフィが彼女を抱き留め、確認すると、巫女は眠りから覚めるかの様にゆっくりと目を開けた。
「……わっ、わああっ?!」
「ベオっ!!」
 その時、かなり大きな揺れが彼らを襲い、体勢を崩したギベオンがモリオン諸共落ちそうになってしまったのだが、すぐに柔らかい何かに受け止められ、地面に叩き付けられるのは免れた。どうやら核を失った巨人が膝をついた衝撃で揺れたらしいが、落下しそうになった二人を受け止めたのは巨人の体躯から無数に伸びた蔓が象った両手だったのだ。巫女を抱いたセラフィが二人の元へと飛び降りると、巫女はぼろぼろの体になった彼らに申し訳なさそうな顔をしつつもぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、来てくれて。信じて待って良かった」
「無事で良かったです。
 ……あの、すみません、詳しい話は後にして、取り敢えず先にタルシスに――」
「いやあああぁぁっ!!」
「?!」
 怪我の無い巫女に心底ほっとしたのも事実だが、セラフィの極度の疲労やモリオンの腕の処置を早急にしたかったギベオンはタルシスに戻りましょうと言いかけたのだが、その言葉は気球艇から聞こえたローズの悲鳴に掻き消された。皆がその悲鳴に瞬時に振り向くと、気球艇の甲板からローズが身を乗り出して泣いている。
「せ、セラフィおじさま、ベオにいさまっ! とうさま、とうさまが!!」
「なっ……?!」
 その泣き顔が尋常ではなく、何事かと思ったセラフィは、しかしクロサイトに異変があったのだと知ると顔からさっと血の気を引かせた。巫女も驚いた様にすぐ巨人に働きかけ、手を気球艇へと到達させると、真っ先にセラフィが甲板に飛び降りる。果たしてそこに倒れていたのは、巨人の雷撃で体中に重傷を負ったクロサイトだった。
「クロ!」
 そしてすぐさま抱き上げたクロサイトの所々が焦げた白衣から覗く素肌からは血が滲み、皮膚が爛れている箇所もある。ギベオンがいつも盾となって受け止めていた様な攻撃を、防御していたとはいえ直撃を受けたクロサイトは、ギベオン達が巫女を助けた姿を見届けた後に倒れたのだ。それまでは方陣を張るローズの肩に手を置き、気力だけで立っていたのだが、巫女が助かった事とローズやギベオン達が無事であった事に安堵の溜息を吐いて自分の役目は終わったとばかりに意識を手放した。
「いや、いやあぁ、とうさま、とうさま、」
「巫女殿、どうにか出来ないか?!」
「だめ、いくら私や世界樹でも心臓が止まった人の蘇生は出来ないの!」
 ローズが真っ青な顔で傍らにへたりこみ、泣きながらクロサイトを呼ぶ。その姿を見てモリオンが弾かれた様に振り向き、巫女に尋ねたのだが、彼女も青い顔で首を横に振った。どうやら巫女には既にクロサイトの心肺が停止している事が分かるらしい。セラフィが兄の胸に耳をあててみても鼓動は聞こえず、呼吸も無い。
「ローズ、ネクタルは?!」
「も、もうない、です、ぜ、ぜんぶ、つかってて、」
「……クロ! 俺に一人にするなと言ったお前が先に逝くつもりか!!」
 出立前に買ったネクタルは既に巨人との戦いの最中で全て使われており、モリオンの問いにローズが泣きながら首を振る。心臓が一気に冷えていくのを感じたセラフィはクロサイトの肩を抱き、悲痛な叫びを上げた。巨人を倒したというのに全く喜べず、皆が絶望しか感じられなかったその時、呆然と見ていたギベオンがはっとした顔で慌ててポーチを叩き、取り出すのももどかしくて留め具を外して中身を引っ繰り返すと、鉱石やノミ、平タガネなどの採掘道具に混ざって何かの小瓶が落ちた。
「セラフィさん! これ!!」
「………!!」
 ギベオンが差し出したのは、全て使った筈のネクタルの小瓶だった。いつだったか、クロサイトと共にはぐれ熊の茂みに行き、君は神様を信じるかい、と聞かれた時に採取した小さな花で作られたネクタルだ。見た事が無いので何とも言えないと返答したギベオンであるが、これでクロサイトが息を吹き返したなら間違いなく信じる。ギベオンの手から奪う様に小瓶を受け取ったセラフィは口でコルク栓を開けると、クロサイトの顔に近付けてその甘い香りが届く様に祈った。
「クロ! 目を覚ませ、戻って来い! 戻って来い!!」
 セラフィの叫びはその場に居た全員の思いを代弁しており、皆息をする事も忘れて拳を握り、見守っている。特にギベオンは、自分の負担を少しでも減らす為にと盾も持たぬクロサイトが雷撃を分散させ肩代わりしてくれたので、もしクロサイトが死んだなら悔やんでも悔やみきれない。ガタガタと震える大きな体を縮こまらせて涙で霞む視界の中のクロサイトが動いてくれる事を願ったギベオンは、クロサイトよりも先にセラフィがびくりと体を跳ねさせた姿を見た。
「クロ!!」
 腕の中の体がほんの僅かに動いた事を感じ、セラフィは兄の名を叫ぶ。樹海での仕事で重傷を負って帰ると手当てを素早く済ませ、意識の無い自分に名を呼び続けてくれたのはいつだって兄だった。今度は俺の番だ、と、喉の奥で血の味がする程の声で叫んだセラフィは、クロサイトが瞼を震わせながら小さな呻き声を漏らしたのを聞いた。
「……フィー……耳元で……叫ぶな…… 傷に、響く、し……、ゆっくり……眠れん……」
 ……それは確かにクロサイトの声であり、瞼の下から現れた鈍色の目はまだぼんやりとしている様ではあったが、彼の脈も呼吸も戻った事を教えてくれていた。遠い昔に瀕死の重傷を負った自分が言った言葉に対しての意趣返しをまさか今されるとは思っていなかったセラフィは、涙で息を上げながら腕の中で自分を見上げているクロサイトを睨む。
「お、俺が耳元で、騒がしくする、くらいで、お、お前が目を覚ます、ならっ、
 た、タルシスに届く、くらいっ、な、泣き喚いてやる」
「やめろ、喉が潰れる」
「お前の命と引き換えられるなら声なんて二度と出なくたって良いっ!!
 ……く、クロ、良かった、クロ、あぁ、ぅあ、ああぁぁぁ」
「とうさま、とうさま、うわああぁぁん」
 そして当時言われた言葉を今度は自分が叫ぶと、セラフィは糸が切れたかの様に泣き崩れ、傷だらけのクロサイトの体を抱き締めた。それと同時にローズも父に抱き着くと、堰を切った様に大声で泣き始めた。痛む腕で二人の頭を抱いたクロサイトは両手に花だな、などと独りごちて、家族に愛されている幸せを噛み締めた。
「……ネクタルを持っていたのか。助かった、有難う」
 そしてその体勢のまま、目があったギベオンがへたり込み声を殺して泣いているのを見てクロサイトが礼を述べると、ギベオンは子供の様にしゃくり上げながら言った。
「ぼ、僕、く、クロサイト先生がいつもアリアドネの糸を持ってたって聞いて、
 だ、だったら僕、クロサイト先生に何があっても良い様に、絶対ネクタル持っておこうって思って、
 よ、良かった、良かったです、クロサイト先生、も、戻ってきてくれて、良かったです……」
 ギベオンがペリドットと共にまだクロサイトの患者であった頃、彼がいつも白衣のポケットに手を突っ込んでいたのは自分達に万一の危険が迫った時の為であり、それは共に探索をする様になってからも変わらなかった。気球艇に乗り込む前には必ずポケットに手を入れ、中のアリアドネの糸を確かめ、もしもの時の為に備えていた。木偶ノ文庫で意識を失う程の重傷を負った自分をローズと共に逃がしてくれたと知った時、ギベオンは必ずネクタルを忍ばせておこうと心に決めた。それが今、役に立ったのだ。
「ああ……、世界樹は……随分と美しい翠だったのだな……」
 自分が戻ってきた事に巫女も含めた皆が涙を流してくれた事を心底嬉しく思ったクロサイトは、弟と娘の温かな体温を感じながら気球艇の向こうで巨人が大きな樹へと生まれ変わるのを未だぼやける目で見た。もう彼の目には緋色に染まる樹は映らず、太陽の光を反射して風に揺らめく美しい緑の樹の姿が映っていた。