笛鼠ノ月

 皇帝ノ月1日から登録した新米冒険者達のギルドが森の廃坑からふるいにかけられ、めでたく碧照ノ樹海に進めたギルドもあれば残念ながら一月も保たずに解散を余儀なくされたり、廃坑や樹海で行方不明になったギルドも多数あった。数年前から毎年恒例となってしまった皇帝ノ月の冒険者選抜は、セフリムの宿に隣接する診療所の主であるクロサイトや、彼の弟の特殊清掃者であるセラフィを一番働かせる時期にしている。大怪我を負って戻ってくるギルドもあればタルシスに戻らぬギルドもあり、どういう魔物のどういう攻撃を食らってどういう怪我をするのかの予測がクロサイトには容易く、廃坑や樹海のどの辺りで死んでいるのかの予測がセラフィには容易い。クロサイトはともかくとしてセラフィは全く喜べず、毎年憂鬱な気分になる。年端もいかない少年少女だけでなく、勇名を馳せる事を夢見てタルシスを訪れた者が物言わぬ亡骸となり、それを埋める度に何故ここまで来たのかと思わなくもない。今年も何度思ったか分からない。
 皇帝ノ月に比べると笛鼠ノ月は少しずつ仕事量が減っていく。新米冒険者達が探索に慣れ始め無謀な事をやらなくなるし、危機回避能力が養われてくるからだ。金策が上手くいかないギルドは風馳ノ草原に赴いて自生する野菜や野生の動物、釣りの成果を売って足しにしている。そうやってこの街での冒険者生活に慣れた者だけが残れるのだ。
「深酒は体を壊すぞ」
「………」
 ひやりとした深夜のダイニングで小さなキャンドルに灯をともして黙ったままでいる弟の向かいにクロサイトは座る。テーブルを挟んで座るのはいつもの事で、こうやって深夜というよりも明け方近くの時間に帰宅して飲酒するセラフィに形だけの注意をするのもまたいつもの事だった。命を落とす冒険者が皇帝ノ月よりも減少したとは言えゼロになった訳ではなく、慣れてきたと油断した者が命を落とす事も多い。森の廃坑であれば狒狒に、碧照ノ樹海であれば熊に殺され無惨な姿で放置されている者も居り、セラフィはそういう者達を今夜も埋めてきた。何度もやってきた事ではあるが損傷の激しい遺体を見るのは精神が蝕まれるので、彼は手っ取り早く酒を呷って寝るのだ。
「今夜も無事に戻ってきてくれて何よりだ。怪我は?」
「……無い」
「そうか。寝られそうか?」
「……さあな」
 さり気なく酒瓶を自分の元に寄せて尋ねたクロサイトは、明かりに浮かぶ弟の顔がいつも以上に青白くなっている事を懸念する。怪我は確かにほぼ無さそうだが、埋めた遺体の損傷が酷かったのか、苦々しい表情がへばりついたままだ。喉の渇きを覚えて覚醒してしまったけれども、億劫でも起きてきて良かったとクロサイトは思った。
「そうだ、ジャック君からまた便りが来ていてな。素兎ノ月に後輩君をこちらに寄越す手筈を整えている最中だそうだ」
「……ああ、そういえばそんな事を言っていたな」
「後輩君のご両親……と言うか父君の説得をこれからやるとの旨が書かれていたよ。彼がそこまでやるのだ、相当酷いのだろう」
 持ち出したカップに酒瓶の傍に置かれた水入れから注いだ冷たい井戸水を一口飲んだクロサイトは、元卒業生からの便りの続報を報告した。どちらかと言えば世話を焼かせるタイプであった男が上司にあたるらしい者にここまで食い下がってその息子をこちらに送り込もうとしているのだ、本当に酷いのだろう。手紙によればジャスパーのその後輩は自宅の屋敷にほぼ軟禁状態に置かれ、城塞騎士を志すので自由に外出する事を願い出ると、決して家名を口外しない事を条件に許されたらしい。では何故ジャスパーがその事を知ったかと言えば、後輩の体を見て他人事とは思えず、一年以上かけて信頼関係を築いて聞き出したのだそうだ。粘り勝ちと言って良い。
「年明けにお前に話した通り、素兎ノ月にこちらに来る様にと返事をしておいた。それと……」
「……何だ」
「いや、もう一人患者が増えるかもしれないのだ。南方の街から打診があってな」
 何か思案する様な素振りを見せた兄に言葉の先を促したセラフィは、そんな事か、とショットグラスに残った酒を煽る。いつもはジンライムにして飲むのだが、こんな夜はジンをストレートで飲む癖がある弟のその飲み方に眉間に皺を寄せたクロサイトがさり気なく酒瓶を自分の方に寄せた。恨みがましく自分を見た弟の視線を見て見ぬ振りをしながら彼は続ける。
「ご息女が病で服用した薬の副作用で、顕著な体重の増加が見られるそうだ。一昨日手紙が来た」
「生活に支障が出るレベルでの増加か?」
「ご母堂もご息女も踊り子らしくてな、踊る際に恐らく支障が出るのだろう。それを抜きにしても酷いと書かれていた」
「どうするつもりだ?」
「どうするも何も、拒否する理由は無いからな。ジャック君の後輩と一緒に受け入れる」
「お前の決定に従う。詳細が決まったら教えてくれ」
 どんな患者であっても、クロサイトは受け入れを拒む事が無い。わざわざこんな遠くの、世界樹へ挑む冒険者で賑わうとは言え辺境の街まで来るのだから、余程込み入った事情があるに違いないからだ。そんな兄の意思を尊重し、セラフィも滅多に反対しない。……逆らえないと言った方が正しいかもしれない。
「では今日にでも返事を書くとして、僕はもう一眠りするからお前も寝ろ。それ以上は飲むな」
「………」
「子守歌を歌ってやるから」
「いらん、子供でもあるまいし」
「浴槽に浸かるのが未だに怖い大きな子供じゃないか」
「うるさい!」
 子供の頃から体脂肪が低すぎて浴槽に沈んでしまうセラフィは、大人になった今でも風呂に入るのが苦手だ。その事を揶揄されて思わず声を荒げてしまった弟に、クロサイトはほんの少しだけ笑む。これで少しは今夜の苦しみが和らげば良いのだが、と独り言ちた彼は、拗ねた様にぶっきらぼうな顔をして席を立ったセラフィの背を追う様に、キャンドルを消してから暗闇の慣れ親しんだ間取りに歩を進めた。