風馬ノ月

 どっかりと座ったダイニングには、今は誰も居ない。月に最低一度は設ける近況報告会は、ペリドットの一時帰郷の同行が急遽決まった――と言うかセラフィが勝手にその日に出発させただけだが――事もあって随分ずれ込んでしまった。セラフィとしてはなるべく早く一時帰郷したいというペリドットの要望を叶えてやりたかったのでその日のうちに出発したのだが、タルシスに戻ってきた時にまさか即日出発するとは思わなかったと喉の奥で笑いながらクロサイトから言われてしまった。
 昨日タルシスに戻ってきたばかりのペリドットに体を休ませる為、クロサイトは今日の午後からプログラムを再開させている。半月近く見なかったギベオンは出発前に比べると幾分か体が締まり、顔の日焼けも濃くなっていた。クロサイトはその気になれば巨体のギベオンであっても半年で適正体重に持っていく事が出来るけれども、やはり彼の家庭の事情も相まってなるべくギベオンを長期間故郷から遠ざけておきたいという思いがある様で、セラフィもそれに反対する理由は無い。ただ、ペリドットは半年どころか三ヶ月もあれば十分であり、その件については以前話し合いの場でも話し合ってクロサイトの意見を尊重する事になったのだが、今回ペリドットの故郷に足を運んで初めて知った彼女の許嫁の事を考えると、兄の判断は間違いではなかったとセラフィは心底思う。……否、許嫁、しかも次の領主ともなれば、よその国の人間である自分が何をどうこう出来る訳でもないと重々承知しているのだが。
「すまないな、少し書き物があって遅れてしまった」
「ん……、明日の方が良かったか?」
「いや、大方書き終わったから構わんよ。疲れは取れたか?」
「半日寝かせてもらったからな。今日午後からにしてくれて助かった」
 暫くランタン一つの明かりをぼんやり見ていたセラフィだったが、やがて現れた兄に軽く片手を上げて返事をする。ペリドットの体を休ませる名目の午前休は、勿論セラフィの体にとっても同様のもので、それに対して素直に礼を言った弟にクロサイトは軽く笑んでから向かい合わせで座った。
「ペリ子君の事は昨日聞いたが、許嫁以外で何か気になる事はあったか?」
「タルシスと違って身分格差が激しいな。貴族と領主が住む一角は隔離されてる。その割には劇場が貴族の居住区のすぐ側にある」
「ペリ子君もここに来た頃は読み書きがあまり出来なかったからな……虐げられているのか、それともそれがその地域の常識なのか」
 昔から世界樹が見える事で風光明媚な観光地として成り立っていたタルシスは外貨を獲得出来ていた街であり、教育水準はそれなりに高い。領主の辺境伯も教育分野への予算は惜しまず、故に地方の街の平民であるクロサイトも幼少期から学び舎へ通う事が出来た。セラフィは病弱であったから殆ど通えていないが、それでも読み書きと単純計算は出来る。何より、辺境伯をはじめとする所謂貴族身分の者達は驕りの態度をほぼ見せなかった。勿論そうでない者も居る――例えばクロサイトをなにかと目の敵にしてくる病院関係の者達がそれにあたる――けれども、ペリドットの様な踊り子などの芸人を蔑む輩はほぼ居ないのだ。
 そんな環境で育った彼らにとって、ペリドットの故郷の風潮はある種異常に思える。よその国の事を悪く言うつもりは二人には無いが、それでもどうにか改善出来ないか、せめて自分達と関わったペリドットの境遇だけでも、と思ってしまうのは傲慢にはあたるまい。
「いずれにしろ、彼女が帰郷した後に不幸にならない様な根回しはしたいものだな」
「……そうだな」
「帰したくないか?」
「うるさいな、お前、最近そういう事ばかり言いやがって」
「可愛い弟の初恋だぞ、僕は嬉しくてたまらないんだ。彼女の踊りが観られて良かったな」
「……まあな」
 セラフィは今までずっと兄の影として、また兄の左目の代わりとなる様に生きてきた為、他人に対して恋愛感情らしいものを抱いた事が無い。異性にも同性にも恋情を向けている素振りを一切見せた事が無い。そんな弟がこの歳になって一目惚れをしたのだ、クロサイトとしてはそちらも応援したいところではある。その為というのも多少含まれているが、大筋ではペリドットの境遇を少しでも良くする為に、クロサイトは彼女の母親に現在の状況がどんなものであるのかを尋ねる手紙を書いたばかりか、近辺の地域を統括している国府にも書簡を出した。こういう時、平職員とは言え外交官の肩書きを持っていて良かったとクロサイトは思うし、不承不承賜った職なので最大限利用させてもらおうという思いもある。
「ベオが随分締まってきたが、熊に追い掛けさせてないだろうな?」
「お前が居ない間はそんな危険を冒そうとは思わんよ。狒狒にボールアニマルを投げさせて走り込ませていたんだ」
「ボールアニマルを可哀想な目に遭わせてしまった」
「ベオ君にじゃないのか」
「頑丈なあいつが金属鎧を着て余計に頑丈になったところにぶつけられるんだぞ、ボールアニマルの方が可哀想だ」
「そういう事にしておくとして、熊には追い掛けさせてない」
「そうか」
 ペリドットの故郷から戻ってきて久しぶりに会ったギベオンは、ペリドットを見るなりやっと一人でクロサイト先生の集中砲火を受けずに済むと半べそをかいていたが、かなりの運動をさせられた為にそんな発言になってしまったのだろう。その件について言及したセラフィは、苦笑した兄に大真面目に頷く。クロサイトの鎚の腕前は医者の腕前と同様確かなものだが、かと言ってセラフィの様に俊敏に動ける訳でもないし、片目しか無いので、どうしても危険が付き纏う。例え指導している患者が一人であってもクロサイト一人で庇いながら樹海の熊を相手にするのは難しい。だからいつもセラフィは樹上など、患者から死角になる所から援護するのだ。
「お前もペリ子君も戻ってきたし、明日からまた熊と追い掛けっこさせるか」
「そうだな。一階にしておいてくれ、今夜はそこを重点的に見回るから」
「そうしよう」
 樹海の浅い階層はまだ実力が然程ついていない冒険者が探索する事が多く、それ故に命を落とす者もそれなりに居る。そんな冒険者達の埋葬をセラフィは請け負っているが、彼一人では見回れる範囲は本当に限られている。一体も埋めずに済む夜もあれば、立て続けに埋めて昼前に帰った日もあった。今夜はそんな日にならなければ良いが、と思案している弟を、半月ぶりに腰掛けて向かい合う事が出来た事もあってクロサイトは暫く眺めていた。