火鳥ノ月

 深夜、自室で趣味の水彩画の絵の具を広げていたクロサイトは、足音も聞こえなかったのに扉をノックされた事に驚きはしたが、ノックの主の声に得心して入室を許可した。入ってきたのは、仕事着となっているジャケットを羽織っているセラフィで、彼は樹海の特殊清掃を請け負ってはいるが、クロサイトのあずかり知らぬところで暗殺も請け負う。足音を立てずに歩く事が癖となっている弟から部屋の扉をノックされて驚いた回数など、クロサイトはもう数えていない。
「ペリ子君はもう寝たのか?」
「寝た。あいつはびっくりするくらい寝付きが良い」
「ほう。お前としては有難いやら寂しいやら、複雑だな?」
「うるさい」
 セラフィは新婚ではあるが特殊清掃の仕事は辞めておらず、ペリドットが眠りに就いてからそっとベッドを抜け出して深夜の樹海へ向かう。まだ彼女には何の仕事をしているのかを話していないが、知り合いなどから伝え聞いて薄々感づいているらしく、それでも何も聞いてこない。ペリドットの故郷では踊り子の身分はひどく低く、余計な口出しはせず従順である事が求められる様で、彼女もそれに倣ってセラフィに仕事の内容を尋ねたりはしなかった。独り寝をさせている申し訳なさはあるけれども、それでもセラフィは樹海で死んだ者達を出来る限り埋葬してやりたいという思いがあるから、ほぼ毎晩仕事へ向かっている。
「それで、どうした? 僕に何か話があるのか?」
「どうしたも何も……月に最低一度は話し合いの席を設けると決めたのはお前だろう。最近やってなかったから」
「………」
 ペリドットを独り寝させてまで向かう仕事の前にこの部屋に来たのだ、何か用事があったのかと思えば、今まで習慣としてきた月一の報告の席を最近設けていないから来たのだと言うセラフィに、クロサイトは片目を丸くしてしまった。人生初の一目惚れをした女を妻に出来たのだから、その時間を邪魔する事も無かろうと気遣って持ちかけなかったというのに、逆に気遣わせてしまった。
 ただ、ペリドットは卒業したとは言えギベオンはまだクロサイトの患者であり、今でもほぼ毎日樹海に繰り出しては鎧を着せたまま走らせたり魔物と対峙させたりしている。その際はセラフィが見えない所からサポートしてくれているので、報告の席を設けるに越した事はなかった。
「そうだったな、最近寒くなってきたし、僕とお前の連携が取れなかったらベオ君を危険に晒してしまうからな」
「あいつも随分動きが良くなってきたが、少し心配な所もあるな。まあ、重装備だから素早くは動けんが」
「お前を基準にしたら殆どの人間は素早くないぞ?」
 ギベオンがこの診療所に来てから数ヶ月経ち、来た当時から比べると別人の様に痩せたが、それでもあと10キロは最低でも落とさせたい。185センチという、セラフィよりも高い身長に見合う体重はそれよりも少なめであるけれども、城塞騎士故に重たい鎧を着込むので、あまり体重を減らしてしまうとその鎧の重みに耐えられなくなってしまう。その調整も、クロサイトはしなければならなかった。
「彼の実家の事を考えたら、本当に一年間預かっておきたかったな。そうしたら水晶宮の方にも何か手が回せたかもしれん」
「……辺境伯はヘソを曲げさせると面倒だからな」
「十年待ってもらったのだ、せめて年内までは待ってもらうさ」
 セラフィがペリドットを娶る為にクロサイトが根回しをした結果、辺境伯からはウロビト達への交渉を条件に協力を申し出てくれた。クロサイトも交渉はするが、もしウロビトが門戸を開いてくれたとしてもそれ以上は関わらないという事を飲んでもらっており、更にギベオンが卒業するまでは待ってもらうという事も飲んでもらった。クロサイトは、飽くまで医者だ。冒険者ではない。外交官という肩書きを与えられてはいても、本職ではない。
 セラフィとしても、兄の決定に逆らうつもりはない。だが、ギベオンがここから去るのは惜しいと思っている。クロサイトと同じ様に、実家の酷さを鑑みての思いであるが、それ以上に兄や自分にとって良い友人になってくれそうな気がするからだ。
 クロサイトもセラフィも、生まれてこの方、友人と呼べる者が居た試しが無い。生まれたときから気の合う者がそこに居て、自分の全てを理解してくれて、話し相手にもなってくれれば喧嘩相手にもなってくれる。加えて言うなら幼少期は虚弱体質であったセラフィには遊び相手などクロサイトしか居なくて、成人してその体質が治っても友人というものが居た試しが無い。クロサイトも弟が居ればそれで良かったので、学び舎に通ったにも関わらず友人が居ない。そんな彼らにとって、ギベオンは年が離れているとは言え良い間柄になってくれそうな男だった。良くも悪くも真っ直ぐで、嘘を吐く事を知らず、ひたむきで我慢強い。そういう者は、二人にとって好ましいのだ。
「年内、か。だとしたら、あと二月くらいだな」
「……そうだな」
「それまでにどれくらい絞れるかだな、あいつは油断するとすぐ太る。そろそろ跳獣の相手も出来るだろう、試してみるか?」
「ああ、そうだな、明日は跳獣に挑戦させてみるか。黒壇ニンジンを見付けておかねばな」
 クロサイトやセラフィがギベオンに残っていてほしいと思っても、彼は患者であって水晶宮に帰さねばならない騎士であるから、滅多な事は言えない。セラフィは胸に過った感傷を拭い去るかの様に明日の予定を提案し、クロサイトも推し量ってくれたのか了承してくれた。その後は暫く二人共黙ったままで、重苦しい沈黙が部屋の中に立ち込めていた。