鏡の向こうは

 隣接している宿屋と違い、診療所は夜になるとしんと静まり返る。現在居候として住まう彼はこの診療所の主の身内と共に世界樹を目指す探索をしており、今日も暑かったり寒かったりの大地、迷宮を探索し、くたびれて戻ってきた。彼は寒い国の出身であるから寒さは耐えられても暑さは耐えられない。おまけに重装備でもあるから蒸れるし、余計に体力を消耗した。
 風呂も食事も済ませ、明日から二日程休もうという事になり、夜更かししても何ら問題は無いので彼は相棒とも呼べる鎧を丁寧に磨く。罅が入っているところもあれば留め具が緩んでいるところもあり、この鎧も随分傷んできたなあと彼は思う。盾も所々焦げたりしており、探索で遭遇する魔物が如何に強いものであるかを物語っていた。
 明日工房に行って替えのパーツが無いかどうか聞こうかな。そんな事を考えた彼は置いていた腰に巻きつける鞄を取ろうとして、視界の端で何かが動いた事に気付いて咄嗟に身構えたのだが、正体は姿見に映った自分である事に気付いて拍子抜けしたし一人で赤面した。最近、狭い岩窟を探索しているから敏感になっているのだろう。
 鏡に映る自分を見て、彼は本当に痩せたなあとしみじみ思う。己の身体の現状を認識する為にと、この診療所の主であり彼の主治医であった男がどの患者の部屋にも備え付けているものだ。主治医であった、というのは、彼はもう患者ではなく居候の身となっているので、元主治医を今では師としている。
 そんな師が備え付けた鏡の中の自分は、この診療所に来た時とはうって変わって横幅が随分狭まり、やや太めとは言え脂肪ではなく筋肉が体にフィットするインナーに浮き、腹筋まで分かる程となった。ひとえに樹海や草原を重装備で走り回り、魔物と立ち回った努力の賜物の身体なのだが、ほんの一年前まで無様な身体を人目に晒していた彼はたまにこれが本当に自分であるのか分からなくなる時がある。
 膨れ上がり肉に押し潰され細かった目は痩せれば意外と丸く、存在するのかと疑問であった首は太く男らしく、脂肪が削げ落ちた胸板はそれでも厚く、真ん丸であった腹は腹筋で割れ、大腿部は股ずれする事が無くなり、重力によって肉が垂れていた脛は引き締まり身体を支え、何より元からの褐色肌が日焼けにより精悍さを増してくれており、肥満であるが故に老け顔であったのにごっそりと肉が削げ落ちたその顔は驚く程童顔になった。それら全てが、鏡に映る姿を見ても実感を持たせてくれなかった。
 腕を上げてみる。鏡の中の自分も、同じく腕を上げる。利き腕であるから、自分から見て三時の方の腕だ。その腕を伸ばし、鏡に触れる。鏡の中の自分も、こちらに手を伸ばす。インナーの腋が僅かに擦れた音がしただけの静かな部屋は、彼の耳に鼓動のみを響かせる。訳もなく息が上擦り、顔にじっとりと脂汗が浮かぶ。

 自分、である筈なのだ。
 この鏡に映っているのは、紛れもなく。
 この姿になるまで苦労もしたしつらい想いもしたし、何度も挫折しかけたけれど、全部乗り越えてここまで来た。

 でも。

 これは一体、誰だ?

「………っ!」
 鏡の中、映った男の口元が、不意に禍々しく歪んだ気がして彼は息を飲む。見知らぬ姿の、否、自分である筈の鏡の向こうの男は、仄暗く深い、黒に近い緑の瞳を細めて笑っていた。そして、自分は動かしてもいないのに、鏡の男の口が動いた。

 駄目だ、見てはいけない、何を言うのかを見ては引きずり込まれてしまう
 見ては

「ベオ君、夜分にすまないがちょっと良いかね」
「?!」
 本能が駄目だと全身をざわめかせたというのに目を逸らせなかった彼は、しかし突如響いたノックの音に弾かれる様に扉を見た。よく知るその声の持ち主は彼の返事を待つ事無く入室し、彼を見て眉を顰める。
「どうしたね、そんな汗びっしょりで。まさか風邪をひいたのではあるまいな」
 入室してきたのはこの診療所の主であり彼の師であった。医者である師は彼の流れる汗を風邪によるものと勘違いしてくれたらしい。彼は、渇ききった喉を何とか震わせて否定した。
「……いえ……、大丈夫、です」
「本当かね?」
「はい。……ところで、どうしたんですか」
「ああ、うん、この石なんだが」
 何とか話を変えようと、彼が訪問の用件を尋ねると、師は彼の大丈夫という言葉を信じてくれたのか手に持っていた石と羊皮紙を机の上に置いて話し始めた。彼は師の話を聞きながらちらと鏡を見、そして視界から完全に消した。師が辞したらシーツでも被せ、二度とあの鏡を見る事はすまいと思っていた。