光を喰らう

 暗黒ノ殿から書物を持ち帰ってからというもの皆の具合が優れない、狂った様に喚く者も出始めた、どうかこれを戻してきて欲しい、と、顔は知っているが名前までは知らない冒険者から泣き付かれ、数枚の紙幣と共にその書物を半ば押し付けられた彼は、どうしたものかと豊かな黒髪を掻き上げながら眉間に皺を寄せて渡された書物の表紙を見ている。革張りの分厚いその書物は既に本文の紙が変色しており、また所々黒い染みがあったり、酷くは無いが異臭がしたり、何故こんなものを持ち帰ろうとしたのかと問い詰めたくなる様なもので、世の中変なものを蒐集したがる酔狂な奴も居るものだと彼は呆れも混ざった目で開いた書物の中身を見ている。
 極力元にあった場所に戻した方が良かろうと、泣き付いてきた冒険者に書棚の位置を尋ねたのだが、地図上で一階の北東部を指された彼は一人で向かう事をその時点で早々に諦めた。既にその迷宮の地下二階を探索している彼のギルドにとってはそこはわざわざ行く様な場所ではなく、さりとて一人で行ける程生易しい迷宮ではない。兄に事情を説明して向かわねばならないかと渋い顔をした彼は苦い溜息を吐いた。
 その書物の文章は、彼には読めなかった。別に彼が読み書きが出来ないという訳ではなく、どこか知らない国の言葉で書かれていたのだ。挿絵も何も無いので内容の片鱗すら掴めず、ますます以て何故こんなものを持ち帰ったのか理解に苦しむ。しかも、普通の書物に比べて字の密度がやたらと高く、開けば異様なものを感じてしまう様なものを、だ。
 そう、彼が今手に持っているその書物は、不気味なまでに字が詰まっていた。どういった内容が書かれているのかは分からないがある種の狂気を感じるまでの密度に、夜間に屍体を埋める仕事をしていた彼でさえうそ寒さを感じてしまう。まるで本の中に引き摺り込もうとしている様な中身を見て彼は嫌な汗を背中に感じ、閉じようとしたのだが、何故か体が動かずそうする事が出来なかった。本当に、何故か。
 ぞわ、と、背筋を震わせた寒気が耳の裏を通って頭の先から抜けていく。その感覚に、彼は下半身から血の気が引いていくのを感じた。本から目を逸らそうにも、本を閉じようにも、体が動かない。表紙に触れる掌にじわりと汗が浮き出たのが分かって、彼は一層顔を歪める。

 そうだ、この本の表紙の革は一体何だ。
 見た事がある様な無い様な、否、やはり見た事はあるし、むしろよく知っている。
 これは。この革は。違う、皮だ。


 紛う事なくこれは、無数に重ねられた、人間の―――


「…………っ!」
 それに気が付いた途端、耳に響いた気持ち悪い笑い声が三半規管を狂わせ、彼は思わず膝から崩れそうになった体を何とか立たせる事に成功はしたものの、本からぞろりと出てきた深い深い闇の塊に息を飲んだ。その塊は何かの姿をしている様にも見えるし、してない様にも見える。しかしそんな事は問題ではなく、彼はその闇を直視してしまい飲み込まれそうになってしまった。これはいかん、何がいかんのか分からんがいかん、と本能の部分で察知した彼は、それでも動かぬ体に恐怖にも似た焦りを感じた。そして動かぬ彼の体に迫ろうとするその闇の中にぽっかりと二つの丸い空洞が生まれたかと思うと、人間が笑う時の様に細められた。この闇は、意思を持っている。

「セラフィさん? どうしました?」

 しかしその時、不意に背後から声を掛けられ、彼をあと少しで飲み込もうとしていた闇は蒸発するかの様に一瞬にして消えた。驚いた彼が漸く動かせた体を捻って後ろを見れば、まだあどけない少女にも見える妻がそこに立っていた。診療所に戻ってきたのにいつまで経っても入ってこない彼を呼びに来たのだろう。
「何かあったんですか?」
「……いや……、……何でもない」
 消えるその瞬間、闇は確かに驚きと恐怖の表情らしきものを見せた。濃い影が強烈な光に、圧倒的な強さのものに一掃される強い恐怖を感じ取った彼は、少々苦々しい顔をしつつもやっと本を閉じる事が出来た。なるほど、この本に憑いていた何かがあの冒険者達のギルドを蝕んでいたらしい。正体が何であるかは分からないが、禍々しい雰囲気のあの迷宮に鎮座していた書物であったなら、この様な本があったとしても何となく納得してしまう。と同時に、何故彼女が来た途端に闇が一瞬にして消えたのかも分かった。彼女の名は、太陽の石として名高い。いくら強固な闇であっても、太陽の光には勝てるまい。
「ペリドット、すまんが、風呂を用意しておいてくれ。この本を処分したらすぐ行く」
「お風呂入られるんですか? 珍しいですね」
「一緒に入ってくれ。俺一人だと沈みそうで怖い」
「……は、はい」
 軒先に吊るしてあるハーブの束を三つ取り、その内二つを彼女に寄越した彼は、本当に珍しい事に風呂を所望した。体脂肪が低いが故に水に沈んでしまう彼は、幼い頃風呂で溺れた記憶も相まって浴槽に浸かる事が苦手だ。だが仕事で死臭が体に染み付いてしまった時の為に軒先に吊るしてある魔除けの意味も兼ねたハーブの束を入れて入浴する。この本の、否、あの闇から発せられていた異臭が身に染みてしまった様な気がして、彼はその残り香を一刻も早く消してしまいたかった。
 夫婦であるとは言え一緒に入浴してくれと言われて恥じらったらしい彼女が首まで赤くして小走りに診療所に入って行くのを見ながら、彼は僅かに頭の奥が焼け付いた様な感覚に見舞われた。確かに太陽の光は強力で、闇を一掃し、その場を一見清浄なものへと変えるだろう。しかし彼は知っている。強烈な光は、強烈な闇を作ったり引き寄せたりしてしまうものだという事を。闇があって初めて光は輝くのだ。
 彼女がもし、そうだとしたなら。自分の手元にこの本が来たのが、彼女の光に引き寄せられたものだったとしたなら。


 あの忌まわしい雰囲気の迷宮の、その名の通りの暗黒が、俺達を喰らい尽くしてはしまわないか?


 無風の中、そんな事をちらと考えた彼は血の気が引いた足を何とか動かし、その考えを頭から消す為に裏庭に設置してある焼却炉へと向かった。ハーブと一緒に燃やし、この本の存在を完全に消してやるつもりだった。