素兎ノ月

 静まり返ったリビングに座っていたクロサイトは、弟が淹れてくれた茶のカップを受け取って礼を言う。久々に他人を受け入れた診療所は、だからと言ってすぐに温もりが感じられる様になる訳ではない。僅かな肌寒さが肩に降りかかって背筋を震わせたクロサイトは熱い茶に息を吹きかけながら一口啜った。
「明日来るかと思っていたが今日だったな」
「早く着いたんだろう。二人共腰を抜かしてたぞ、かわいそうに」
「だから明日来るかと思っていたんだ。お前だって、今日来ると知っていたら外出していなかっただろう」
 昼過ぎに到着した患者二人が、丹紅ノ石林で仕留めた豚を診療所まで運んできたクロサイトを見て腰を抜かした事を気の毒がったセラフィだが、兄から言われた事ももっともであったから沈黙した。二人揃って診療所を空ける事は滅多に無く、特にクロサイトは本当に用事が無ければセラフィが外出している時に外に出る事は稀なのだが、新しい患者も来る事であるし、その前に少し精の出るものでも食べておこうと豚を狩りに行ったのだ。そうしたら予定より早く患者が――ギベオンとペリドットが着いていた。ペリドットはともかくギベオンは近年稀に見る巨体であったので、彼の身長体重を先にジャスパーから伝え聞いていたとは言えクロサイトも嘆息を漏らしそうになったものだ。
「何はともあれ、新しい患者だな。明日から三日程、タルシスを歩かせる」
「三日?」
「それくらい鎧の作製に欲しいそうだ、ベオ君の身体に見合う鎧はそうそうすぐには出来ん。三日でも急いでくれている方だしな」
「……まあ、あいつはまず歩くところからだろうな」
 茶を啜ったセラフィは、自分より背が高い割には怯える小動物の様な目でおどおどと自分を見ていたギベオンの容姿を思い出しながら同意する。ペリドットの方は明日にでも森の廃坑に連れて行っても問題は無さそうであるが、ギベオンはまず無理だろう。一時間もしないうちにへたり込んでしまうかもしれない。そう思っていたセラフィだが、あの巨体でも診療所の階段を上りきったギベオンであるから大丈夫である様な気もすると思い直す。
「それはそうと、お前、聞いたぞ。ペリ子君にボールアニマルみたいだと言ったんだって?」
「………」
 机の上に広げた二人分の真新しいカルテを眺めながらクロサイトが言った言葉に、セラフィの動きが一瞬止まる。ベルンド工房に小さな花を納品しに行った時、診療所への道を尋ねていたギベオンとペリドットに先に会ったのはセラフィだが、彼女が持っていた荷物を受け取った時にうっかり漏らしてしまった一言を、どうやらクロサイトが伝え聞いてしまったらしい。途轍もなく苦い顔になってしまったセラフィは、そこではたと気付いて兄を睨んだ。
「お前、ひょっとして、それ聞いたからあいつの預かり期間を半年にしたんじゃあるまいな?」
「まさか。ご母堂から最大期間は半年と言われているからそれに従っただけだ」
「三ヶ月もあれば十分の筈だがと思っていたら、お前という奴は」
「小さくて丸くてころころしているな、彼女」
「………」
 セラフィは昔から、クロサイトが今羅列した単語が揃ったものを好む傾向がある。幼い頃、虚弱体質であった彼は自室で一人で過ごす事も多く、手慰みに毛糸玉やボールで一人遊びをしていたからか、そういったものを今でも愛でる。ボールアニマルなどその最たるものであるから、戯れる為だけに廃坑や樹海に行く事もある程だ。つまり、ボールアニマルみたいだと評したのはペリドットを一目見て可愛いと思った事になる。
「三ヶ月で痩せさせる事は可能だ。だが薬の副作用が思ったより酷いな。半年は要る」
「それっぽい事を言えば俺が納得するとか思ってないか?」
「フィー、僕はな、患者の為にならない事は一切やらないぞ。
 怠惰な生活で太ったのなら三ヶ月で帰すが、彼女は原因不明の病で服用した薬でああなったのだ。心身共に健康にしてやりたい」
「……分かったよ、悪かった」
 嗜める様にクロサイトが言った言葉にきまりの悪そうな顔をしたセラフィは、片手を挙げて謝罪の意を表した。兄が自分をひどく大事にしてくれている事は知っているが、患者を想う気持ちはまた別だ。クロサイトはいつでも患者に対して誠実であろうとするし、最善を尽くそうとする。師事した亡き師の「患者にとって素人だろうが玄人だろうが医者は医者」「皆等しく命」という教えを忠実に守ろうとする姿勢を崩さない。セラフィは兄のそんな所が好きなので、手の届く範囲で支えたいと思う。
「しかし、ボールアニマルを知らないとは言え初対面の女性に言う言葉ではないな。近いうちに彼女は見るんだし」
「………」
「いくらお前にとって最高に可愛いと思うものであってもペリ子君にとっては失言だ。フォローしておこうか?」
「よせ、言わなくて良い」
「そうか。なら、黙っておこう」
 話をぶり返されてまた苦い顔になった弟に、クロサイトは口元を隠して喉の奥で笑った。照れたり焦ったりすると睨む癖があるセラフィの目付きは他人から見れば凶悪なものに映るが、共に成長したクロサイトの目には怖いものでも何でもない。半分ほど残ったカップの茶を啜ると、渋味が強くて温い白湯の様な味になっていた。
「……そう言えば、ベオの荷物がやたら重たいと思ったら茶器が入っていたな」
「うん? そうなのか?」
「壊れやすいものは入っているか聞いたら無いと言うからそこまで気にせず持っていたんだが、やけに重たいしガチャガチャ言うから途中で中身を見たんだ。茶器だった」
「ほう……」
 自分が淹れた茶が美味いと思えなかったセラフィがもう一人の患者であるギベオンの荷物の事を話すと、クロサイトも興味を示した。彼も茶を淹れるのは得意ではなく、自分が淹れた茶を美味いと思えた試しが無かったので僅かな期待をしてしまった。
「彼の茶を期待しても良いという事かな、わざわざ故郷から茶器を持ってきたという事は」
「そうあってほしいものだな。……相変わらず俺の茶が不味い」
「お前、食事は美味く作れるのになぁ」
 弟を溺愛していても、この茶はさすがに褒められない。痩せ型であるが大食漢のセラフィは宿の女将に教授してもらって彼女の手伝いが出来る程の腕前なのに、茶だけは美味く淹れられないのだ。クロサイトもセラフィも、この診療所に養子に貰われてから茶を淹れる経験を殆どしなかったものだから、茶の名人なのではないかと思ってしまう師が亡くなってからというもの、来客には水しか勧められない。教わっておけば良かった、と二人して思ったものだ。
 そんな診療所で、久々に美味い茶が飲めるかもしれない。そう思うと自然と二人の口元は緩み、顔を見合わせてから同時に席を立った。明日から、本格的に忙しくなりそうだ。